アディクトは自助グループに繋がって少し経つと、周りをキョロキョロし始めるように思う。私も周囲が気になる時期があり、断酒日数を気にしたり、回復していることをアピールしたりしたくなる時期があったことを思い出す。
私が行っていたグループでは、古参メンバーの数人がやたらと新しく入院してきた人やスリップした人(私)に異常なまでに甲斐甲斐しいことがあった。
その構図に、同じ病の仲間の愛の美しさというより、私はある種の『気味の悪さ』を感じてきた。
この『気味の悪さ』の正体はなんなのだろうか?
共依存へのスライド
自助グループという名の鳥籠のなかですら、ヒエラルキーを作りたがる人がいる。
一度は社会で失敗し敗退したパワーゲームを、アディクトという同類のなかでゲームのやり直しをしようとするのだ。
それで、せっかく繋がった仲間が疲弊し精神を病んで離れていく。そんな光景はよく見てきた。
自分の自尊心を満たすために仲間を使っている。
それが愛なはずがない。
美しいはずがない。
もちろん、全ての自助グループがそんな阿鼻叫喚の釜茹で地獄と言っているわけではない。
アサーティブで健全なスポンサーシップに基づいて、各々の回復に向かうグループが殆どだろう。
しかし、依存対象がスライドしていることに気づかないで『自分は回復者だ』と自負する人は、一定数存在する。
12ステップ・プログラムを共に進めている人と話していて「依存症者は、依存対象をやめても共依存にスライドする傾向があるのではないか」という言説にいたく共感した。
他人の問題(しかもこちらが勝手に問題視しているだけ)にばかり目が向くときは、大抵、自分自身の回復から目を背けているときであり、自覚するのはとても難しい。
知らず知らずのうちに、アディクションの対象が、物質やプロセスへの依存から共依存にシフトしているのだ。
実は生きづらさの根本はそのままであることに、本人だけが気づいていない。
ジャッジとコントロール
では、生きづらさの根本とは何なのだろうか?
「正しさ」の物差しの呪縛にとらわれて、自分自身の無力を真の意味で受け容れられていないことだと思う。
ジャッジしたがるという心理はそういうことだ。
「私が正しいのだから、私の言うことを聞いて当たり前だ。」
「私はステップをこの人より先に始め先に進んでいるはずだから、私の方が回復していて当然だ。」
こんな心の正体を深掘りしていくと、結局『結果』へのこだわりが手放せていないのだとわかる。
自分を他人と比較して優れていることを確認したいのは、安心したいから。正しさを武器に他人の境界線を侵略し、コントロールしようとしているからだ。
それはまだ12ステップ・プログラムにおけるステップ1の「無力を認める」がまだ未達成な状態と言えるのではないだろうか。
私たちはそのように「コントロールできる」と信じて、尽くコントロールできてこなかった事実を受け容れたはずなのに、気づけば形を変えて同じことを繰り返してはいないか。
12ステップ・プログラムのステップ12をやっているからといって、他のアディクトより前に進んでいるわけではない。
『自分自身の棚卸しを続け、間違った時は直ちにそれを認めた。』というステップ10にある通り、繰り返し棚卸しを続け、原点に常に立ち返る謙虚さを忘れてはならない。
変えられるものは、自分の行動のみ。
つまり私たちにできることは、この日々の棚卸しと埋め合わせをきちんと行うことだけだ。
そもそもバックグラウンドや生きてきた道筋が異なる以上、回復は比較できないことだし比較する意味もないことだ。
依存症の専門知識やステップの経験を笠に着て、経験が浅い人を見縊るのは、今まで自分がされて嫌だった『ジャッジ』を他人に押し付けている。
ジャッジしてマウントを取りたがるのは、心の奥底にまだ不安や焦りがあるからだ。
「自分の本当の本当を、掴んでいないのではないか?これで本当に回復しているのか?」
そういう不安から目を逸らし見て見ぬ振りをするために、心が他人に目移りしている。
自分自身の回復がすべて
回復の度合いを比べたりジャッジしたりするメンバーがいる自助グループが、グループ全体の安寧秩序を維持できているはずがない。
ひとことで言えば、自分自身の回復が主軸ではなくなると、自分のみならず周囲にも悪影響なのだということだ。
何をもってしても自分の回復こそが主題である。それだけが主題である。
自分自身の回復に向き合うために、様々な自助グループがある。
他人の回復の促進(そんなことはできないが)や、メンバーとしてグループの役に立つことが、自助グループに参加する目的になってはならない。
他人に影響を及ぼすことに傾注するのは、もはや『嗜癖』だと自覚しよう。
正しさで他人をぶん殴るそれは、暴力だ。暴力を嗜癖にしてる。それは自分がまだ自分自身に向き合えていないからだと自認しよう。
他人より自分の人生に目を向けよう。
私が思う正しさは『自分の世界』という小さい世界での正しさだ。万国共通じゃない。
ついつい同じように依存に苦しんできた仲間と自分を同一視しがちだし、同じなら理解し合えるはずと思いがちだ。
論理が飛躍してしまっている。
相手をそのまま見て、相手の話をあるがままに聞いていない。
勝手に期待して、裏切られたと感じる。
相手も、自分の生きていく道筋すら、私には変えられないものなのに、共通項に目を奪われて、すぐに自他の境界線が曖昧になる。
私も例に漏れずやっぱり共依存的だなと思う。
あとがき
今いる自助グループが肌に合わないと思ったら、他のグループに顔を出してみるのも手だということは、アディクションに悩む仲間には覚えておいてほしい。
変えられないものを受け入れる落ち着きを。 変えられるものを変える勇気を。 その二つを見極める賢さを。 とは、先人達によりよく咀嚼し吟味された言の葉だな、と痛感する。