祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。
めちゃくちゃ宗教っぽい。
私は不可知論者(神様はもしかしたらいるかもしれないけどいるかどうかわからないと思ってる人)なので、神がどうとか言われると胡散臭いなと思う素直な性格をしている。
神の意思?は?って感じだし、いるんだったらもっとマシだろ世の中、と思う。
だけど、STEP11が言わんとしていることには納得しているし、他の宗教も同じような考え方に行きついているので、おそらく私にとっての真理に近いと思っている。
今日はその辺のことを書こうと思う。
大乗仏教の「唯識学派」
大乗仏教にも似た思想があって、『唯識学派』という学派がある。
各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する考え方である。
最も根底に、『阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)』という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。
唯識学派の八識説は、図に表すとこう。
渇望を生み出すのが潜在意識だとして、潜在意識にアクセスできるのが、祈りなのかぁ。
私の場合は潜在意識の正体がどうしても気になって死んでも死にきれないからずーっとずーっと常に考え続けてきたことっていうのは、祈りだったんじゃないかなと思う。
唯識論における阿頼耶識なんじゃないかなぁ。 pic.twitter.com/pZfUuZNLqp
— ちあき🏳️A4C (@chiakiA4C) March 1, 2021
つまり仏教においても無意識の領域があって、その領域の最深部に「阿頼耶識」という「自我を超えた大きな力の源」があり、それが根本となり世界を形づくっていると考える。
自分が意識していることをはるかに超えた「大きなもの」が横たわっている。
全ては「潜在意識」によって生み出されている。
潜在意識を顕在化してコントロールしようとするのは愚の骨頂
「潜在意識」といえば、引き寄せの法則がどうとか詐欺チックなページがよくWEBでヒットする。
真実に近い匂いを醸し出させつつ騙すのは詐欺の常套手段というか、信じ込ませやすいからそっちに寄っていくというか、人って何でも金に換えたがるなー、と呆れる。
これらの詐欺と本当のステップ・プログラムの見分け方は簡単。
「夢・願望を達成する」と謳っているものは偽物だ。
「この考え方をすればみんなが欲しいものが手に入りますよ~」っていうのは、「これを飲むだけで3ヶ月で10kg痩せられます!」というのと同じ。
皆苦しいときは救われたくて、効果が劇的で早いと宣伝する方法に魅力を感じがち。
ダイエットがうまくいかない人が運動しなくても痩せると謳うダイエット詐欺商法に騙されるのと全く同じ。そんな問題ではないのだ。ダイエットは一朝一夕に成るものではない。
筋肉量を増やすために地道にトレーニングを重ね、低脂肪食で摂取カロリーを考えて生活した結果、その「生活に合った体」が自然にもたらされる。「痩せたいから痩せよう」とするのではなく、無意識に痩せるような生活をしている、在り方が自然と変わると、いつの間にか自然に受け容れられる自分を認識している、という感覚。
「痩せたい」を叶えるためにやるから、失敗する。
ステップ・プログラムは、潜在意識に身をゆだねる。
結局どうあがこうが、潜在意識に導かれるように私は導かれるんだよな、ということを理解して信頼する。
だからその限りにおいて、自由に楽しみ、心の充実に専念することができる。それが幸せという物の正体。
つまりコントロールしようとすればするほど、どんどん遠ざかっていくものなのだ。
12ステップ・プログラムにおける「ハイヤーパワー」=「潜在意識」=「阿頼耶識」
ACやAAの12ステップ・プログラムにおいて、依存症は「顕在意識」ではなく「潜在意識」からきている、と説いている。
なぜなら「渇望」は理性ではコントロールできないから。すでに無意識なので自身の手を離れている問題なのだ。
「いつの間にか」酒に口をつけている。「いつの間にか」共依存性に反応している。
だから、もうこの問題を取り除ける力はないので、他の力を頼るしかない、と無力を認める。(STEP3)
んで神とやらに祈るわけなんだけど、それは偶像崇拝でしかない。
崇拝の対象とする、助けを求めるものをとりあえず「神」という呼び方にしているので、みんなアレルギーを引き起こすのであって、「神」と呼ばなくてもいい。
ある人にとっては「良心」だろうし、ある人にとっては「自分のなかの天使」かもしれない。
つまり、呼び方はどうでもよい。
唯識論でいうところの「阿頼耶識」、12ステップ・プログラムでいうところの「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」が「『潜在的に在る』という認識を共有しようよ」ということをどの考え方も言いたいのだ。表現が違うだけ。
潜在意識は、自分の存在がまずあってそこを起点に発出する意識というよりは、この世の命がみんなでシェアしている大きなインフラストラクチャーみたいなもの。めっちゃでかくてエネルギーを持っている自分と繋がっている何か、と捉えられる。
だから「内なる神」と表現するけど「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」として分離しているのだ。内包しているようで、内包していない。シェアしているようで、自分とは完全に切れた何かではない。
だから唯識論では自分という実体を「有るようでなく、無いようである」と知覚するんだと思う。「全は一、一は全」すべては繋がっているので、個体として存在しているというよりは、全部が繋がりながら大きな流れのなかで揺蕩い、集っているのが世界だと考える。
近代社会では個人主義が徹底され、比較や競争を良しとする市場原理で精神的にも肉体的にもどんどん分断されているので、より実感しにくくなっている。
誰もが何かの共同体に属していて、成し遂げたことは決して一人の成果ではないし、ひとりきりで生きているわけでもない。それなのに、孤独で傲慢で乏しいモノとして生きようとするから病むのである。生命は生まれながらに独りではないと言える。孤独というのは自分が創り出しているのだ。
「黙想と祈り」はリコネクト
なぜ、STEP4~9までの取り組みを10で繰り返す約束をしたうえで、黙想と祈りをするSTEP11があるかといえば、これがなくては「STEPを踏んだ努力(自分自身の力)により私は回復したんだ」と勘違いしやすいからだと思う。
自分の力ではない。確かに私は頑張った。
しかし、たまたまステップに出会って、たまたまそこまでステップを進めることができただけだ。
タイミング、出会い、心の準備。何か少しでもずれが生じたら、今の私はなかったことだろう。
そんな数々の奇跡的な偶然を用意したのは何か?
唯識論でいうところの「阿頼耶識」、12ステップ・プログラムでいうところの「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」だと思う。
すでに決まっていた、というとまた胡散臭くなるんだけれども、私にはコントロールできない数々のモノにより支えられているのは確かだ。そしてそれは予定調和的に様々なものを伏線として用意されていたように絶妙のタイミングで与えられる。
たとえば私がベンチャー企業に行かずに今の会社にストレートで入っていたとしたら、仕事上の苦しみはこんなにもなかったかもしれない。しかし、赴任地が東北にならなかったら、妻とは出会えなかったかもしれない。そしたら、私は依存症を認めずに自死していた自信がある。今ココにはいない。
私には必要だったのだ。ブラック企業でボロ雑巾のように働く時間が。その経験が。
同じようにアルコール依存症になることも、ACであることも、全部全部必要だった。今の私になるには。
それは私が選んだものじゃない。私はそんなにドМな人生設計をするタイプではない。できれば楽してあまり苦しまずに生きていたいタイプだ。
そういうものに巡り合うことをすでに決めている大きな何か。
言っちゃえば全部それ次第であり、私たちができるのは精一杯今を生き切ることだけ。
だから、私たちはその大きな何かにお願いするくらいしかできないのだ。そのお願いを積み重ねると「ああ、これってこういう授かりものだったんだな」という感謝ができるようになる。
それが「黙想と祈り」によるリコネクトだ。
横たわる大きな何か、支えてくれている大きな何か。それに感謝できる、存在を感じる。
そのために「黙想と祈り」はある。