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【依存症】何かの「薬理作用」を信仰する危うさについて

私は「アルコール依存症」である。

酒はアルコールの一種、エチルアルコール(エタノール)を含有する液体をさす。

エチルアルコールの薬理作用として、脳(特に前頭前野)の鎮静作用がある。

私はこの鎮静作用を乱用すべく、酒を飲んでいたということになる。

 

そのほかの薬物に依存する人は、いずれにせよ薬物が持つ薬理作用を期待して、乱用に至る。

各薬剤の薬理作用のうち、中枢神経作用の分類は以下の通り。

引用:北海道飲酒運転防止研究会HP:【知っておこう】アルコール依存症の正しい知識と対応について(Part-1)より

自分を興奮させたいからコカインや覚せい剤を使うし、鎮静させたいからアルコールやヘロインやBZP(ベンゾジアゼピン系睡眠薬など)を使う。

 

医学的な病名としては、DSM-5において「物質使用障害」に分類される。

 

引用:厚生労働省 樋口委員配布資料「用語及び研究の推進について」-2 より

 

使用障害とは簡単に言えば「あなたの使い方まずいよね」ということである。

期待した薬理作用を「もっと強く」「もっと長く」と追及していった結果、本来せめて人間らしく生きていくために使用していたのが、本末転倒になる。

つまり、本来人間らしくあり続けるために必要不可欠だと思って自己治療的に取り入れたはずの薬物だが、その薬理作用に頼るあまり、客観的には「逆にもっと人として生きていくことが困難な人生になっちゃってますよね」という状態に陥っている精神的な病だ。

 

結局、病巣というのは、自分の「生きづらさ」である。

何かしら「歪み」を抱えて無理やり環境に適応しようとするから、薬物の薬理作用が必要になる。

その「歪み」を見つめてアプローチしないと、たとえばアルコールをやめたとしても、他の何かに頼る。生き方が変わらない限り、同じように依存する。無理やり環境に適応しようとする限り、埋めなければならない心の穴はそのままだからだ。

 

同じく精神疾患ととらえられている「うつ病・うつ状態」などについても、同じことが言える。

ご覧のようにたくさんの薬剤が製薬会社から発売されている。

主に薬理作用をザックリ簡潔に言えば、心身を安定させ満足感を感じさせる「セロトニン」というホルモンを増やすことだ。

(セロトニンについては過去にまとめているので、詳しくはこちらを後ほど参照いただきたい。)

それにより、不安状態や抑うつ状態を軽減して、服薬した人が生活できるようにしよう、というのが薬の開発意図である。

しかし、エチルアルコールと同じように、頼り過ぎれば毒になる。

本来、化学的に精製された化合物というのは、自然界に存在しないので、遺物である。

私はこういう化合物を提案する仕事をしてはいるが、基本的に飲まなくていいなら飲まないほうがいいに決まっている、と考えている。

化合物に依存せず、ナチュラルな状態で生活できること。

それが、治療的な真のゴールであり、薬が要らなくなることが最も良い状態だ。

だから、精神疾患の薬剤の存在意義は、補助にある。

にっちもさっちもいかない膠着状態を軽減して、当事者が己の病巣である「生きづらさ」に取り組めるようになるための補助的な役割が、抗精神病薬の本質である。

薬物で安定した仮初めの状態をつくり出し、そのドーピング期間を有効に利用して、CBT(認知行動療法)や運動療法や自己分析を行う。それにより、今までの生きづらい生き方を変え、自分なりの人生の歩み方を見つける。

その探索的アプローチがない限り、生きづらさは解消されない。

極論、薬は何も解決してくれない。あくまでも補助だから。薬が無くても生きていけるようにしようと思うのもするのも、本人にしかできない。

私は抗精神病薬を服薬することで、なんとかその目的を少しだけ達成できた状態と言える。

今までの生きづらさとは、アダルトチルドレンとしての認知の歪みであり、発達障害(神経発達症)に対する無知と否認であり、現代社会に対する過剰適応だった。

それが明らかになったので、薬に頼る必要がなくなった。

不思議なもので、抗うつ薬とADHD治療薬を服薬してきたが、人生の問題点が明るみになり、どう生きればいいのか自分なりの結論がはっきりした時期から、身体が薬という異物を受けつけなくなってきた。

どうも、逆に調子が悪くなるのである。

今まで病んでいた時期にそんなことはなく、むしろ服薬していたほうがすこぶる快適だったのに。

 

なので私は「この薬をいつまでも飲み続けてください」などとは決して言わない。というか言えない。そんなことを言う医療従事者は信用してはいけないと思う。

ずっとドーピングした状態で何とか生きられていたとしても、それは本人が「本当に生きていきたい人生」ではない。

それなのに「この薬を飲んでいれば大丈夫」だとか「これさえあれば仕事を続けられる」だとか、そういう安易な思考に陥る患者は危うい。

アルコール依存症の当事者と同じ匂いがする。

自分の課題に取り組まなくて済むので、依存しているだけだと思う。

そうやって誤魔化していたとしても、飲んでいるものは異物なので、ずっと飲んでいれば身体と心はまた別の支障をきたすだろう。

そうなればまた別の薬で症状を抑えようとするのだろうか。

そんな対処は対症療法であって、根治療法ではない。

だからずっと何かでつらいままの人生になる。

 

当事者が薬理作用に頼り切るのではなく、自分の心の本当の声を聞き、自分の意思と人生を取り戻す。

我々に頼らずともその人らしく生きていける。そのために薬学と医学がある。その根本的な立ち位置を見失った医療行為は、ただのイネイブリングだと思う。

 

薬に限らずとも、この世は対症療法的な情報であふれかえっている。

情報・エビデンス・権威。そういう一種の麻薬の「薬理作用」に依存している。

わかりやすいノウハウを求めるビジネス書。

有名な誰かが言っているから、権力を持つ何かが認めているから、という権威的なお墨付き。

心を軽くしてくれるような、顧客が言ってほしいことを言うだけの偽カウンセリング。

非現実で現実を忘れさせるための麻薬的なメディアコンテンツ。

手っ取り早く稼ぐ、社会的地位を得る、逃避願望をかなえる、そのための具体的な方法や技術(テック)はいくらでもあるかもしれないが、それらは何も解決しない。

自分の人生の舵取りをできるのは自分しかいない。

本質的な答えを持っているのは、自分だけだ。

誰かの成功例や何かの技術をいくら駆使して、権威を利用して外見だけ取り繕いうまく立ち回ったとしても、根本は偽れない。

それを知ってか知らずか、虚構に翻弄されている。そんな社会だよなぁ、と思う。

 

正直、自分に向き合うのは、とてもつらい作業だ。

誰もが嫌だ。誰もがやりたくないし、後回しにするのも無理はない。

でもそこにこそ歓喜があるし、人生における人としての輝きがある。

逃げたくなる時もあるだろう。それは構わない、ゆっくりでいい。

でも、私は自分の経験から、人生を誤魔化して無意識にあきらめないために、その作業の手伝いはしていきたい。

あくまでも本人が主役。それは私が私の人生においてそうであるように。

私の人生に対して払うのと同じように、他人の人生に敬意を払う。

きっといつか向き合うことができると信じる。

「薬理作用」ではなく「人」を信頼する。

そういう存在でありたいと思う。

【依存症】ゲームを取り上げる親と心を殺された子ども(ゲーム依存)

依存症の問題は、背後にある「生きづらさ」が本質だと思う。

その問題を直視せず、問題行動だけを抑え込もうとしても、失敗するし意味がない。

 

ゲームを取り上げる親の心理

たとえば、ゲーム依存の傾向がある子どもから、無理やりゲームを取り上げようとする親がいるとする。

「やめろ」と言っても効かないので、ルールが守れないので、ゲームを取り上げる。

でも結局はルールを守る必要がなくなった(親の目が届かなくなった)ときに、問題のある使用をしてしまう。背後にある生きづらさが解決していない限り、根本的には変わらない。

私がそうだった。小学校から禁止されて、大学で今までため込んだフラストレーションが爆発して思いっきりのめり込んだ。

ネットやスマホを解約する、等のもその類い。意味がない。一時的にできなくはなるかもしれないが、やる方法はいくらでもある。

お小遣いをためて、あるいは親の財布から金を盗んで中古端末を入手したり、無料Wifiを求めて深夜徘徊をしたり、「ゲームやる?」と声をかける知らない人についていってしまったり。

むしろそういうより子どもを危険な場面に遭遇させかねない行動に繋げる。

 

そういった逆効果を生む可能性があるにもかかわらず、なぜ強権的に子どもの行動をコントロールしようとしてしまうのだろうか。

それは親が抱える、「不安」と「恐れ」が根底にあるように思う。

 

「我が子がまともな社会人になれなかったらどうしよう」

一見、我が子の未来を案じている台詞のように見える。そして、思っている親本人も「子どもの為」だと信じて疑わない。

しかし、裏の裏までよく覗き込んでみると、実際は「自分の為」であることがわかる。

世間の目を気にしている、自分の為に、迷惑な行動をしてほしくない。

我が子がまともな社会人になれないことで、

「親として子育てが間違っていると言われたら」どうしよう。

「ひきこもりや不登校になって、世間から色眼鏡で見られたら」どうしよう。

私の世間的な評価が傷つくではないか、という「どうしよう」。

自分が困るから、自分の体裁のために、やめてほしいと思い、取り上げようとしてはいないだろうか。

子どもをコントロールすることに依存している。自分の自己肯定感を支えるために、子どもに依存し、子どもの人生に過干渉してしまってはいないだろうか。

 

親に過干渉された子供の末路

我が子であったとしてもコントロールすることは本来できないし、本人のことは本人に責任と権限がある。その権限を冒してはいけない。

なぜなら、選択した行動の結果を経験することで、子どもは大人になっていくからだ。

親が転ばぬ先の杖ばかり用意して、その過程をゴッソリ盗んでしまうと、「グライダー型人間」になる。

 

「グライダー型人間」とは、『思考の整理学』において外山先生が定義した、自分で考えられない人間のこと。

親が全部おぜん立てをして、正しさを押し付けて言うことを聞かせて、親が思う正しいレールの上を歩かせたとしよう。

その子は、こう思うだろう。

「自分の意思なんて持っても疲れるだけだ。結局は、親や先生の言いなりにするしかない。ならば、感情など持たないほうがいい。自分の意見も、持たないほうがいい。言われることに従っていさえすれば、叱られもしないし、問題は起こらないんだから。」

自分の感情と意思をもつことを放棄するようになる。

そうなると、自分が好きなもの、自分がやりたいこと、自分がほしいもの、が何なのかわからなくなる。

自分の意思がわからないので、他の人が好きなもの、やりたいこと、ほしいものが、自分が欲しいものなのだと思って追いかける。でも、手に入れても、満たされない。本当に望んでいるものではないからだ。でも自分ではもう望んでいるものがわからない。

いくら頑張って何かを手に入れても、どれだけ他人より相対的に恵まれていると言われても、心は一向に満たされないので、日に日にストレスが溜まる。

そして、ネット上で気に入らない人を正論で殴ったり、誰かを虐めたりして、憂さを晴らすようになる。進学校ほど陰湿ないじめが横行する理由は、こういうストレスが強い子どもたちの「生きづらさ」のはけ口として、特定の誰かが生贄になることでなんとか日々を生き抜いているからではないだろうか。

私をいじめてきた「いじめっ子」たちも、そういう目に見えない苦しみを背負っていたのかもしれない。そう思うとやるせない。虐められるほうは、たまったものではない。

 

はたして、親の正しさによる圧政は、本当に子供のためになっているだろうか?という話。

「まともな社会人」とはなんだろう?

立派な「思考停止のグライダー型人間」に仕立て上げることだろうか。

おそらく、親のほとんどがそんなことを我が子に望んではいないと思う。

自分の頭で考え自分で決めた、自分なりの人生を堂々と歩んでいってほしい。

そう思っているのではないだろうか。

それが「まともな社会人」ではないだろうか。

そうなるための行動だろうか。ゲームを無理やり取り上げる、ということは。

 

受験を控えているのに、受験勉強をしない我が子をみて、自分が不安なだけ。

自分の不安を取り除きたいだけ。

だから「ゲームばっかりしていないで勉強しなさい」という。

私たち親の世代までは、勉強して良い大学にいて良い就職先に新卒入社する、というのが人生においての成功モデルだったかもしれない。

そのレールに乗せないといけない、という親に育てられてきた世代だ。

しかし、自分の人生を振り返ってみてほしい。今の現状を見てほしい。

それは本当に成功モデルだっただろうか。

 

今や終身雇用制度は崩壊した。

良い会社に入っても、安泰ではない。

良い大学に行っても、就職先がない。

受験勉強という「暗記ゲーム」だけに特化して強制的にやらされた結果、グライダー型人間として心と感性は死に、体だけ立派に成長していく。

面白味のかけらもない無個性な大人になって、指示待ち・ゴマすり・忖度で自分を偽りながら生き抜こうとするが、自分で考え自分で行動を選択する訓練をしてこなかったので、苦境に立たされてまごつく。

 

これが、誰もが望む成功モデルといえるだろうか。

本当に、大人たちが提唱してきた「まともな社会人になる」ためのメソッドは、現実に役に立つものだっただろうか。

私はそうではないと思う。

 

親ができることは見守ることだけ

その子の人生は、その子のものだ。

親のおもちゃではない。親が変えられるものでもない。

失敗も成功も、その子が味わう権利と義務がある。

 

この子がゲームにそこまで入れ込むのは、なぜだろうか。

この子が好きなゲームの世界とは、どんなものだろうか。

その世界の何が好きで、何が現実より魅力的なのだろうか。

この子は、何を求めているのだろうか。

 

それを知らないで、その子にとって正しい道など、誰が主張できるだろうか。

正しい道など無い。

正しいことなど、この世にはないからだ。

その人にとっては正しい、というだけ。

それは親も同じ。親である我々が正しいと思い込んでいることと、その子にとっての正しいことは違うかもしれない。

それを同一化して強制的に同じにしようとするのは、ある種人権侵害であり、虐待だと私は思う。

 

我々親にできることは、その子の声を聞き、その子の価値観を認め、そっと背中を支えることだけ。

きっと自分の足で歩いていけると信頼して、後ろから見守ることだけ。

そもそも、我が子であろうと別個の独立した他人。

他人をコントロールすることはできない。「変えられないもの」だ。

きっと自分の失敗から何かを学び、人生に活かして生きていく力を持っている。自分の命を分け与えた存在なら、きっとそれができる。

そう信じられないとしたら、病んでいるのは親のほう。

自分を信じられないから、我が子も信じられない。

自分の生きる力を信じられないから、同じように我が子の生きる力を信じてあげられない。

その「不信の呪い」を引き継がないことが、最良の子育てだといえるのではないだろうか。

【依存症】「Move to Earn(M2E)」の闇(仮想通貨・NFT・M2E・ブロックチェーンゲーム)

Move to Earn について

Move to Earn (M2E) とは、文字通り「動いて稼ぐ」というコンセプトの、仮想通貨を用いたビジネスモデルのこと。

Move to Earnのやり方
  1. 仮想通貨取引所で口座を開設します。
  2. 各ゲームのウォレットにトークンのソラナやイーサリアム送金します。
  3. アプリをダウンロードして登録します。
  4. 毎日歩いたり、走ったり、ゲームをプレイして稼ぎます。
  5. 稼いだトークンを換金したり、そのまま保有して増えるのをまったりします。

引用:https://maru7.jp/move-to-earn/

「ブロックチェーンゲーム」に分類されています。

Youtubeで動画検索すると、こんなふうにたくさんのスマホアプリがあって紹介されており、結構流行ってきました。

 

「STEPN」というアプリがパイオニアで、2022年1~2月くらいから流行り始めました。

簡単にいうと、仮想通貨を買って、その仮想通貨で仮想の靴を買って、スマホを持って歩くとポイントが貯まり、そのポイントが仮想通貨に変換できるので、歩くだけでお金が生まれる、という仕組みです。

いかにも怪しいですよね。

でも実際に儲かった人が特に初期にたくさん現れたのです。

それで大変話題になり「俺も俺も」と新規参入者がどんどん増えました。

仮想の靴は最低10万円くらい(2022年8月2日現在)、高い靴は100万円ちかくするものもあります。

10~100万円の先行投資をして、原資回収から収益化を目指して仮想通貨をもらうために毎日毎日歩く、という人が急増したんですね。

最初「Solana」という仮想通貨で成立する「S国」という仮想のフィールドでやり取りして儲かった人が出ましたが、だんだん通貨の単価が下がっていきました。

そこで、次に出てきた「さらに儲かるらしいぞ!」という「BNB」という仮想通貨で成立する「B国」というフィールドがリリースされました。

最初はプラスが出ていた人も大損して、損を取り返したいプレイヤーは次々参入しました。

どんどん上がるBNBの単価。

しかし、100万円以上の追加投資がかかります。

意を決して借金してまで突っ込んで行ってみると、BNBも大暴落。

今、BNBが上がっている最中に参入したプレイヤーは、阿鼻叫喚の地獄絵図です…。

 

M2Eアプリがプレイヤーを依存させる巧妙な仕組み

なぜここまで多くの人をハイリスクな世界に引き込み、アプリにハマらせることができたのでしょうか。

ここにはGAFAMなどのビックテックが開発してきた「依存症ビジネス」のセオリーがあります。

 

ネットスマホゲーム・SNSには「6つの罠」があります。

①人間を操る「目標」という魔法

②予測不能なフィードバック

③段階的に進歩・向上していく感覚がある

④徐々に難易度を増していくタスクがある

⑤解消したいが解消されない緊張感がある

⑥社会的な結びつきがある

ひとつひとつ、みていきましょう。

 

①人間を操る「目標」という魔法

人間は目標を与えられると、無意識にそれを達成しようとしてしまいます。

自分に何も目指すべきものがない人ほど、他人が決めた目標に引っ張られます。

アプリ内で「1日10,000歩達成すると○○」とか「1ヶ月で20万歩達成すると○○」というキャンペーンがあるのはそのためです。

何かインセンティブがある目標を与えることで、意図する行動(STEPNの場合は「歩く」)に誘導します。

 

さらにM2Eには「歩くことは健康に良い」「健康にいいことは素晴らしいこと」という大義名分があります。

非難される行動ではないことが、参入に対する精神的抵抗をなくすとともに、仮想通貨をよく知らなかった人々やゲームに興味がなかった健康志向の人々も、カm…じゃなくてプレイヤーとして市場に引き込むことに成功しました。

なかなか悪魔的で上手いやり方だなと思います。

 

②予測不能なフィードバック

人間は元々狩猟民族です。

狩猟民族は、獲物が取れて食事にありつける日もあれば、何も取れずに飢える日もあります。

だから「獲物が取れた!」という予測不能な出来事に対して、喜びを爆発させ、取れなくても「あの喜びがまた来るはず」と期待することで生きる希望をもち、命を繋いできました。

その習性は今も脈々と引き継がれています。

ギャンブル依存症の場合、当事者は、ギャンブルにつぎ込んでつぎ込んで、借金までして、明らかに損しているし生活が破綻しているのに、数回当たったときの喜びと興奮が忘れられず「明日はくるはず」「いつかまた当たりがきて大金持ちになる」と損切りすることができません。

ドーパミンという快楽を感じる神経伝達物質の神経回路が強烈に当たったときのことを記憶していて、対象行動を取ることをやめられなくなってしまいます。

これをプロセス依存といいます。

まさにこのプロセス依存を引き起こさせるための仕組みとして「ランダムで宝箱が見つけられる」「広告動画を観るとランダムでポイントが入る」「持っているアイテムをお金をかけて配合するとランダムでレアなアイテムになる」といったものをゲームシステムに仕込みます。

また、不定期に「お祭り」をします。

今だけ期間限定で、あのほしかったアイテムが50%OFF!とか、アイテムを強化する要素をプレゼント!とか。

そうすると、人間は本能的に期待を寄せアプリのことが忘れられなくなります。

 

③段階的に進歩・向上していく感覚がある

同じようなことの繰り返しだと人は飽きてしまいます。

自分が頑張った分だけ自分がレベルアップしていくようなシステムだと、行動が報われるので、もっとやろう・もっと頑張ろうという気にさせられます。

「次のレベルになればもっと稼げるようになる」

「もっといいアイテムに進化させよう」

「アイテムをさらに強化しよう」

「課金してさらにアイテムを買おう」

そうすればもっと効率よくポイントが稼げるよ、というふうにシステムを設定します。

STEPNでは実際にレベルアップ制度があります。

段階的にレベルアップすることで、プレイヤー間にはレベルの上下関係が発生します。

人間は群れのなかで序列をつける動物的側面があるので、人より上に立ちたいと願い、下だと不安になるようにできているので、プレイヤーのランキング内で上位に君臨するためにも、頑張ります。

上位であることが自分のアイデンティティとなるので、ゲームをやり続けなくてはならなくなり、抜けられなくなります。

 

④徐々に難易度を増していくタスクがある

運営側はギリギリ達成できるくらいの難易度を提示します。

たとえば、新しいアイテムが1億とかだと、もう一般庶民に手は出せません。難易度が高すぎて敬遠します。

でも100万円くらいなら、借金すれば何とかひねり出せます。ギリギリ達成できるかもしれないところにぶら下げるのが重要で、リスクを背負って飛びつくように煽ります。

「新しいフィールドでは1日で数十万円の利益も夢じゃないよ」

「もう利益を出している人は勇気を出して飛び込んだひとだよ」

「それができない人とできる人が、成功できるかどうかの分岐点」

等と言って、巧みにプライドを刺激します。

 

また、どんどんバージョンアップして、制限を追加したりします。

たとえば、1日に歩ける時間を制限して課金しないと制限が解けないようにしたり、アイテムが消耗して修理が必要な仕様に変更したり、確率が低いがよりレアなアイテムが得られるガチャ機能を追加するなどです。

そうやって最初は無料で単純だったものを、複雑でお金がかかるシステムに改悪していくわけですが、ずっとやっているプレイヤーはどんどん厳しくなるシステムに逆にハマって抜けられなくなる、というわけです。

 

⑤解消したいが解消されない緊張感がある

これは仮想通貨を使ったことがもろに効いてくるんですが、「激しい相場変動という緊張感」が実現している罠です。

前の日には1円だったものが、次の日には数千円になっていたり、逆に暴落したり。

常に安心することができません。

自分が投資した数百万が数百円になるかもしれない…そんな強い緊張感は、仮想通貨を用いた貨幣システムである限り絶対に解消できません。

強い緊張があればあるほど、投資した金額が化けたときの興奮や快感も並大抵ではありません。

毎日が刺激的。そういう異常な精神状態に陥らせることで、四六時中M2Eのことだけをプレイヤーに考えさせることができます。

 

⑥社会的な結びつきがある

知る人ぞ知るM2E。

広いようで狭いその世界は、選民意識を刺激します。

周りが知らない状態でM2Eを始めたプレーヤーは「世界では流行っているけど日本ではまだ限られた人しか知らない最先端のこのゲーム。やっている俺は他人より賢くてスゴイ( *´艸`)」と内心思っています。

そして、同じようにM2Eをやっている人を見つけると、仲間意識を持ちます。

SNSが発達している現代社会ならではですが、そういう仲間をネット上で見つけて繋がることができるので、コミュニティーというか一種のコロニーが出来上がります。

同じように借金してまで参入した人、最近始めた人、儲かった人、大損した人、そんな人たちが入り混じり、WEB上で社会的な繋がりを形成しています。

歩くという行為は孤独です。

稼ごうと焦れば焦るほど、1日1~2万歩という過酷な目標をかかげ、そのつらくて孤独な作業に挫けそうになるのですが、そんなときに心の支えになるのが社会的な繋がりです。

M2Eをやっていて同じ夢を追いかける仲間のコミュニティーがあることで、限界まで頑張る(実際には意図的に頑張らされている)し、現実のM2Eを知らない人との繋がりよりもオンラインという仮想空間での繋がりを重視するようになります。

居場所がそのコミュニティーになると、ますますそこから抜けられなくなります。

コミュニティーを離れた結果、待っているのは、現実には存在しない概念に振り回されて単に歩きまくり足腰を痛めかけている、疲れ果てた孤独な自分のリアルだからです。

 

まとめ

「歩くだけで年収数百万儲けられる」

そんな美味しい話は、残念ながらありません。

一時的に儲けが出たとしても、ずっと続く営みではありません。

仮想の世界の仮想のお金で、仮想のアイテムを買って、仮想の空間の顔も分からない人との繋がりに居場所を求める。

それは、空虚な現実逃避です。

「自分の将来がどうなるかわからない」

「今の仕事をやめて楽して稼ぎたい」

そんな不満や不安を忘れるために、それらしいサービスにハマってしまう人に、私はとても共感します。

仕事はクソつまんないし、ウクライナで戦争してて日本も滅びそうだし、何の意味もないワクチンやマスクをするのが当たり前の狂った世論が主流だし、そりゃあもう嫌になっちゃうでしょうよ、生きていくのが。

 

わかる。わかるよ。

 

だからハマってしまう人というのは、ダメでもアホでもないし、悪くないと思います。

巧みに本能的な部分を煽って依存させるようなコンテンツをつくっている側が悪いに決まってます。

 

本当に大切なものは、実際に自分の身体で触れられる、この現実世界にあります。

一時の欲望や快楽で、本来大切にすべきものを見失わないようにしましょう。

 

しかし、一度味わった「稼げる」という感覚は脳に強烈に記憶されているので、新しいM2Eがローンチされるというニュースを聞けば気になり「またあのときのように稼げるんじゃないか」「今度こそ出資者リストが豪華だし大丈夫なんじゃないか」「今度こそ初期から参入して先行者利益を狙えるんじゃないか」と思ってしまうことでしょう。

それが依存です。そして、依存だということを当事者は否認するでしょう。

今後、この分野の依存症に苦しむ人は増えてくると確信しています。

借金問題・横領着服・訴訟・経済苦による自殺、などで表面化してくることでしょう。

【依存症】7月18日

いつの間にか、断酒して5年が経過していた。

 

2017年7月18日

後の「アサイージュース事件」である。

 

私は妻が結婚式で地元に帰っているスキに、盛大にスリップした。

そして酔って頭を打ち、ベッドを血まみれにした。

何を飲んだかもよく覚えていない。

赤ワインの瓶を数本買い、それらをすべて飲んでしまったので、飲酒運転でウイスキーを買いにいった気がする。

ウイスキーの瓶は駐車場で粉々に割れていたから、飲めなかったんだと思う。

ストロングゼロは無事だったようで、買った記憶はないが、リビングに空き缶が散らばっていた。

 

その日は、とてつもない気持ち悪さで目が覚めた。

頭がべっとりと何かに濡れているような感じで、とても不快だった。

何だろうと思って触ったら、赤黒い血がべっとりと手についた。

一瞬何だかわからなかった。

「血だ」と思って起き上がろうとしたら、身体に力が入らない。

左半身が麻痺したように、全然力が入らなくて、しばらく起き上がれなかった。

ようやく起き上がってあたりを見渡してみた。

マンホール大の血だまりがベッドのそばにあり、マットレスは黒い血で染まっていた。

枕も真っ黒。

血の気が引いてふらついた。

 

頭を触る。

痛みが走る。

数センチの裂傷が後頭部にあるのが、指の感触でわかった。

いつ、どこで?なぜ?

とにかく何もわからず鈍くて働かない頭。

真っ先に思い浮かんだのが、

 

「隠さなきゃ」

 

だった。

血に汚れたままトボトボヨロヨロしながら歩いてドラッグストアに向かった。

生理用品用の洗剤を買う。

暑さと貧血、二日酔いで吐きそうになりながら自宅に帰り、枕とマットレスとシーツを洗う。

取れない。

力が入らなくてしんどい。風呂でへたり込む。

自分は、何をしているんだろう。

惨めな気持ちで風呂に漬けている枕を虚ろな目で眺めていたら、数時間経っていた。

 

なんとか薄いピンク色くらいになった。

アサイージュースみたいだな、そうだ、ジュースをこぼしたことにしよう。

そう考えた。それしか思いつかなかった。

電話で「ベッドにアサイージュースをこぼしちゃった」と妻に伝える。

妻は「・・・・ふーん。まあしかたないよね。」と言った。

私は普段アサイージュースなんて健康によさそうなものを飲まない。

妻はこの時点で、なにかおかしいと思っていたそうだ。

 

数日後。

 

妻が、帰ってきた。

妻は家に着くなり鼻をスンスンと鳴らして、いぶかしげな顔で家の匂いを嗅いだ。

顔がどんどん険しくなる。

それを眺めながら、私の心臓は破裂しそうだった。

血の匂いが濃いほうへ目線を向ける妻。

妻は、ベッドルームに一目散に向かって足早に歩く。

ピンク色になったベッドをみる。

力が入らず取り切れなかった血の塊がフローリングの溝にこびりついているのを見たとき、妻は何があったか、理解したという。

 

「ねえ」

 

「なんか言うことあるよね?」

 

そう言いながら妻の見開かれた目を見て、私は

 

「ごめんなさい、飲みました」

 

といった。

 

頭の傷を見せる。

「こんなに切れてるの?!病院は??」

「行ってない」

「アホか!!!今すぐ行くよ!!!!」

さいわい外傷以外何もなく、脳に異常もなかった。

 

帰りの車で。

「一緒に断酒会、いこうよ」

「うん」

 

これが、アサイージュース事件。

 

2022年7月18日

頭の裂傷は、縫いもせず放置していたために傷口はふさがったが、痕が残った。

2017年7月18日の「アサイージュース事件」は、頭の傷跡にも、心にも、深く刻まれた。

私には、生きていくのに必要な大失敗だったと、今では思う。

 

私は、飲んだことを、必死に隠そうとした。

自分の身体の傷を手当てしようなんて発想はなかった。

妻に今度こそ見限られる、という恐怖しか頭になかった。

嘘をついて欺こうとすることのほうが、よっぽど彼女を失望させるというのに。

 

依存症は、何度もスリップすることがある。

私は、4回スリップして、今に至る。

 

気合と根性では、2年ともたなかった。

3回目のスリップで病院に繋がり、自助グループに繋がってもなお、スリップした。

自分の生きづらさに目を向けることはできないままの私にとって、断酒は「我慢」だった。

我慢は続かない。

4回目のスリップでそれを理解した。

 

「自分は、どうしようもない人間だ。自分で酒をやめることもできない。でも、生きたい。死にたくない。死ねない。」

「ならば、もう自分のやり方は捨てる。何でもやってみよう。やってみるしかない。誰にでも頭を下げて、何にすがってでもいいから、とにかく回復している人がやっていることを、やってみるしかない。それでもだめなら、もう死ぬしかない。」

そう思って、私は今までのやり方と在り方のすべてを手放し、完全に降伏した。

 

それから、様々な場所でいろいろな人のいろいろな話を聞いた。

ときに頭にきて眠れなかったり、悔し涙を流したり、感動の涙を流したり、共感したり嫉妬したりした。

見たくもない自分のなかの恐れと不安を、ドブのような濁った心の底から掘り起こしては、目を凝らす毎日だった。

心のドブさらい。それが棚卸しだった。

少しずつ水底が見えるようになってくる。

『白河の清きに魚の棲みかねて』というべきか、清くあればあろうとするほど、水底は余計にみえなくなった。

『もとの濁りの田沼恋しき』。濁った部分も自分なのだ、間違ったことのある自分も大切な自分なのだ、と受け容れてから、ようやく窒息しそうな水の中から顔をあげる。

そうやって初めて。

私のような人間の心からも、蓮の花が咲いていることに気づく。

 

阿頼耶識は綺麗ごとだけではできていない。

自分がそうであるように。世界がそうであるように。

それに気づくために、私には断酒して過ごすこの5年間が、必要だった。

 

私は、酒を飲めない。

ようやく諦めたとき、見える世界は白い闇だった。寂寥感でいっぱいだった。

存在することそのものが、全て哀しかった。

この唄のような心の有り様だった。

 

 

「もしもピアノが弾けたなら」

私の人生には、酒がなくなった。

「もしも酒が飲めたなら」

私をなんとか支えていた酒。それが無くなったことを受け容れられない気持ち。

それがこの唄に近い。

 

こんな心で、蜘蛛の糸のように細い道を歩く。

これが死ぬまで続くのか。

絶望した。

 

 

それが今、私は、心に咲くたくさんの蓮の花で満たされている。

元々それらは咲いていた。

咲いていたのに、気づかなかった。

 

私は、回復した、変わった、と言われる。

私は、本質的には変わっていない。脳の壊れた回路はもう元には戻らない。

 

変わったのは何なのか。

回復とは何なのか。

 

それらは、知るのでもなく掴むのでもない。

人生から、出会う人々から、

いや。「生きることそのもの」から、与えられるのかもしれない。

 

私は確かに頑張った。もうこれ以上できないほど。

だけど、私のおかげではない、とも思う。

ただ一つ言えることは、私がアルコール依存症になることは、必要だから与えられたことだった、ということだ。

【依存症】自分を「赦す」ことからはじめよう

私はたくさん間違えてきた。いけないこともたくさんしてきた。

 

私という人間

小さい頃から、他人より上手にできないことのほうが多かった。

馬鹿にされたし、軽く見られた。

他人に受け入れてもらえない、そんな自分を自分自身が好きになれずに、苦しんだ。

自分の欲に負け、ずるい考えで他人を騙そうとしたこともある。

嘘をついて、罪から逃れようとしたことも、他人に何とかして気に入られようとしたこともある。

いじめられて他人に馬鹿にされる痛みを知っているのに、自分が標的にならないために、いじめる側に立ったこともある。

他人のためと言いながら、自分のために、自分がここにいていいと思うために、他人に過干渉したこともある。

自分に自信がないことを隠すために、社会的な評価・組織内での評価・収入や地位に固執したこともある。

自分だってよく間違えるくせに、他人の失敗をあげつらってこっぴどく責めたこともある。

何もかも知っているわけでは無いのに、自分が知っていることを他人が知らないと、無知だ馬鹿だと心のなかで侮蔑したこともある。

自分より収入が低い人は、自分よりも能力が低い価値のない人間だと下に見たこともある。

自分がただ環境に恵まれていただけなのに、今自分が得られている恩恵は自分が努力したからだと信じたくて、成果主義・能力主義を肯定的にとらえていた時期もある。

かわいそうなひとや恵まれない人の話を、どこか自分とは関係がない世界の話として他人事で無関心で、手を差し伸べなかったこともある。

他人の物を盗んだこともある。それを隠そうとしたことも。

自分の都合で他人の命を粗末に扱ったこともある。それによって、他人の心も体も、ひどく傷つけた。

正しさで他人を打ちのめして憂さを晴らしていた事実がある。

 

私は人間として、よくできているとは言えない。

聖人君子でも紳士でもない。

それが、ありのままの私だ。

 

私もそうだったじゃないか

ありのままの私を、そのまま見ると、つらい気持ちになる。

「なんで私はこんななんだろうか」と思うような汚い部分・嫌な部分は、そこかしこにある。

つらいから、見ない振りをする。

そうやって見ない振りをしていると、汚い嫌な部分は自分の背後でどんどん膨れ上がっていく。

だから、逃げるように何かにすがりたくなる。

何かは、人によっては宗教だったり、他人だったり、モノだったり、行為だったりする。

私の場合は、たまたま酒だった。だからアルコール依存症になった。

 

自分を許せないから、他人を許せない。他人に厳しいとはそういうことだ。

自分が抱える後ろ暗さを打ち消すために正しさを求める。

強迫的な正しさへの固執が、他人の不正への敵意に変換されて表面化する。

他人を責めているとき、自分は正しさの側に立てる。だから、安心する。

それは偽りの安心で、いくら他人を責めても自分の本質は変わらない。抱えている不誠実は消えない。

自分の罪を自分自身が許してあげないと、誰の何の罪も許せない人間になっていく。そして一人きりになる。

 

「俺だって、間違えることもあるよな」

「そのまま受け容れるのって、難しいよな」

「嘘をついたり騙したりすることだって、珍しくない」

 

そう思う。

私はそんなにできた人間ではないから、他人がそうであってもおかしくないと思う。

直接人を殺したことはなくても、この社会システムのなかで誰かを殺して生きているかもしれない。人を殺してしまった人も、いつかどこかにいたかもしれない、私かもしれない。

お金や権力に眼がくらんで自分の都合がいいように他人を操ろうとする人たちも、私と同じように自分自身を受け容れられない苦しみにもがいているのだと思う。

罰を与えて罪を背負わせても、痛めつけて解決したつもりになっているだけ。

「絶対に間違えてはならない」という呪いを、他でもない自分自身に上掛けするだけ。

 

私を許すことは、他人を許すこと

自分が犯してきた罪を、まず自分自身が認めよう。

誠実に実直に、その償いをしよう。

直接謝ることはもうかなわないとしても、いつでも謝れる心で生きていく。

なにもかも全部、包み隠さず認めよう。

その罪の裏にあるのは、悲しみや怒りや寂しさだったことも、認めよう。

その苦しみを誰にも言えなかった弱さを認めよう。

人間はそんなに強くない。一人で生きていけるほど、個人は力を持っているわけではない。

世界の一部だから生きていける。

一部で在り全部。それは、あの人も、この人も、全てのひとがそうだ。

ごくわずかな片隅の一欠けらであることを認めよう。

だからこそ無くてはならない価値があることも、同じように認めよう。

何かの役に立つとか立たないとか、そんな功利的な観点によらず、必要不可欠な存在なのだ。

君も私も。誰もが。

誰もが弱くて寂しくて悲しくて、怒っても仕方がない。

私がそうであるように。

 

そう思いいたると、他人が許せる。

私がそうであったように、何かを抱えて苦しんでいて、それがたまたま外部への攻撃性としてあらわれ、たまたま私が被害に遭っているだけ。

彼ら彼女らは、私だ。だから「そんな気持ちになることも、そんなことしちゃう日だって、あるよね」と思う。

だからと言って何もかも無抵抗で受けるわけではなく、私は私が大事で、彼ら彼女らも同じように大事なので、共存していくために必要な「私の気持ち」は伝える。

「私の気持ち」をどう受け取るか、どう行動するかは、彼ら彼女ら次第だ。私にもその権利があるように。

受け取れるように、伝わるように、できる限りの手心を加えて。その方法が「アサーティブ」であったり「アイメッセージ」であったりする。

 

 

心の根っこのところで自分も他人も許すことで、私は本来の優しさと思いやりを取り戻せる。

それできてはじめて、求め続けて手に入らないと嘆いてきた「安心」が、いつもいつでもすぐそばにあったことに気づける。

救われるのは、自分自身。

自分を「赦す」ことから始めよう。そこからすべてを始めよう。

それではじめて、あなたも私も、優しくなれる。

【雑談】ストレスだらけの現代社会に希望はあるか

いやー、口内炎が治りません。

 

明らかに仕事(というか上司)のストレスだよなって感じです。

全く思想が合わない。

儲かればいいだけなら、オレオレ詐欺と変わらないんだよなー。

まあワクチンを取り扱っている時点ですでに詐欺会社って感じですが。

言ってしまえばインテリヤクザみたいなもんです。

私はまっとうな堅気の商売がしたいので、活動方針が真っ向から対立することがほとんど。

向こうも「やりづれぇなぁ」と思ってると思いますけど、こちらもそうなんですわ。

申し訳ないけど、異動するまでの我慢だと思ってお互い乗り切りましょうか、って感じです。

 

あー、あとは退去に伴う精算費用の訂正かな。

管理会社がぼったくってきているので、その対応が4月から今まで続いております。

よく敷金と相殺して・・・とか言いますが、基本的にはふつうに住んでいれば払わなくていいんですよ。

普段何もしないのに、退去のときには張り切って騙せる奴から騙し取るんですよね、管理会社って。

そのあたりも、正式に減額できたらノウハウを全部公開しようと思ってます。

 

私、お金って嫌いなんですよね。

ていうか、どうでもいいんですよね。

なんでみんなお金好きなんだろ。なんかと交換できるから?そんなにほしいものあるのかな。欲がすごいです。逆に羨ましいくらい。そんなに欲しいものないわ。

上司の件も管理会社の件もそうですが、思考がもう100%金のために生きているって感じで、なんかそれ虚しくない?って思います。

そりゃこの資本主義社会で生きていくには、ある程度必要なのはわかります。

でも必要最小限でいいと思うんだよなー。

損得関係なしの交流をする時間・家族との時間・純粋に知りたいことを知るための時間・自分と向き合い表現する時間、そんな時間にこそ、限りある人生を費やしたほうが、私は有意義だと思うんです。

お金にならないことのほうが、実は最も重要なこと。

 

マスメディアで報道していることは、99%プロパガンダなので、あまり真面目に見聞きしなくていいですよ。

テレビは必要ないです。捨てて大丈夫。新聞もネットニュースも、見なくて大丈夫。

誰かに何かの得があるから、記事になるしニュースになるんです。

今回のワクチンの件で、とてもよくわかりました。

だから、有名人の誰それが亡くなったとか、そんなんいちいち見に行く必要ないですよ。

人間には生存戦略のうちの危機管理能力として、不安になるコンテンツほど見に行ってしまう習性があります。

だから、凄惨な事件をテレビで流すのは、見てほしいから。視聴率を稼ぎたいからです。

それに対してコメンテーターが「こんなの許せない!」みたいな感情的なコメントするじゃないですか、報道番組って。

あれは共感させて見てもらおうっていう戦略ですね。

「恐怖」と「共感」。それがメディアの釣りメソッドだと田中玲司先生も言ってます。

ホントまさにそうだと思う。

 

ぶっちゃけ、直接会ったことも話したこともないような人が死んだって、そんなに関係ないから。

そんなこと言うと「想像力がないのか」とか「冷たい」とか、感情論で正論ぶつけてくる人が必ずいるんだけど、それは言っている本人が気持ちよくなれるから言ってるだけ。

「他人の不幸に共感できる自分は人間として素晴らしい」って思えるし、正論で他人をぶん殴るのは快感ですからね。

本当は、そんな正論をのたまう人も、ショックなんて受けていなくて、1年も経ったらスッキリ忘れてます。だいたいそうです。

だから関わる必要ありません。「自分の人生空っぽだから埋めたくて必死なんだな」って思って静かに距離を取りましょう。今話しても話が通じないので。

 

お金とエゴイスティックな欲求が絡む事象は、結局はドライな結論になっていくんです。

「自分の利益」。外側の皮を一枚一枚剥いていけば、中身はそれしか入ってないから。

だから、つまらないんだよな。

 

人間は、そんなに合理的にはできていません。

非合理な存在なのに、利益を追求して合理的な社会システムにしちゃったから、なじめなくて病んでいく。どんどん自分の人生を見失っていく。そんな感じで、自殺者が後を絶たないような現代社会ができあがっています。

なんか、依存症になる人って面白くて内面が豊かな人が多いなーって思ってたんですけど、感性が死んでないからなんですよね。

感性を殺して個性を殺して社会に適応すれば、この歪んだ社会では生きていけるんだろうけど、そんなふうに器用に誤魔化せるほど鈍くないから、酒やギャンブルでごまかすしかなかった人たちなんですわ。

以前三光病院にいらっしゃった市川正浩先生のご講演を拝聴したとき、

「依存症になった皆さんこそ、未来の希望だと私は思っている」

と語っておられた理由が、何となくわかった気がします。

私たちが依存症になるほど死と隣り合わせになってまで何かを突き詰めなければいけなかったのは、生きづらさを誤魔化しきれないほど眩い感性と個性をもつからこそ。

ダメなんじゃないんです、優れているからなるんです。依存症って。

国が「ダメ、絶対」でレッテル貼りしたかったのは、コントロールできないほどの優れた感性や個性を恐れていたから、叩きたかったんじゃないかな、と思いますね。

ダメな存在ということにして片隅に追いやって、有象無象に叩かせておきたかった。だから偏見と差別をわざわざ意図的に生んだ。

私はそんな風に思います。

 

依存症になると、最終的には「自殺するか、生きるか」の二択を真剣に選ぶことになるので、ほんと人生についてちゃんと考えるんですよね。

いい加減にできない不器用さもあり、とことん考え尽くすし、そうやって紆余曲折を経て回復すると、依存症になる前の世界の見え方とはまるで変わってる。

生まれ変わるといってもいいほどに。

本質に気づいて向き合える。

そういう意味で本当に希望なんだよなー、と思います。

 

いずれもう、この社会はダメになります。終わります。

結構もう限界きてると思う。資本主義社会は、共産主義が倒れたように、遅かれ早かれ倒れるでしょう。人を本当の意味で輝かせるシステムではなかった、残念ながら。

だから、今このシステムに合わないからって、気にすることないです。いずれ終わるんで。

社会不適合者で結構。むしろそのほうがいい。

不登校で結構。むしろそのほうがいい。

自分の思うままに生きてください。

既存の価値観はクソです。気にしないように。

 

今は生きづらい世の中ですが、なんとか耐えて、生き延びましょう。

農産物も毒まみれ、ワクチンも毒まみれ、空からは化学物質まみれ。

これからどんどん死にます。合理的思考のもと殺しにきているので、それはもうある程度死ぬところまで進まない限り、気づかないし止められないでしょう。

古代ギリシャの哲学者たちが200年以上も前に答えを示してくれていたのに、私たちはどんどん愚かになっていったんですよね。

進歩なんてとんでもない。退化以外の何物でもないです。

 

そんな感じなので、外野のいうことはあまり気にしないで、のびのび楽しく生きていきましょうね。

【仕事】「仕事に行きたくない」「毎日が虚しい」「朝がくるのが憂鬱」

こんなふうに感じること、ない?

 

仕事をしていて思うのは「お金のため」に仕事をしている人ばかりだ、ということだ。

「社会のため」でもなく「自分のため」ですらなく、ただ「お金のため」。

稼ぐのに、効率がいいから、利回りがいいから、そんな理由で行動が選択されていて、そこには自分も他人も無い。

たとえば、今勤務している会社の社宅の賃貸契約をする代行業者がいる。

社宅の入退去時にやり取りするのだが、まぁ他人事でやる気がない。

彼らは不動産のプロのはずだ。プロとして契約し中抜きして収入を得るからには、入居者と大家や管理会社の仲介役として、何らかのバリューを生むべく存在していると私は思いたい。

しかしやり取りしている背後から聞こえてくるのは「面倒なことにはタッチしません」「私には責任ないです」「楽して適当に終わらせたいです」という、心の声。

私たちに価値を提供しようとは思っていない。私たちがどこに住んでどうなろうが、大家がどう思おうが、リスクを負わされて面倒なことになりさえしなければ、心底どうでもいいというのが伝わってくる。

本当にイライラする。いや、イライラするというより哀しくなる。

あんたら、そんなんでいいの?なんのためにそこにいるの?何のために今生きてるの?できるだけ効率的に金さえもらえれば、携わった人が困っていたってどうでもいいのかい?それが自分や自分の大切な人なら、同じように無気力に右から左に流して済ますのかい?

そんな?がたくさん浮かんでくる。

世の中にはこういう無責任な仕事をする人が本当に多いと思う。

自分の損得、会社の損得、全部、損得。損得マシーンと化している。

裏を返せば、それだけ余裕がないのだ。他人のことなど気にかける余裕もなく、毎日を生きるために日銭を稼ぐこと、それにできるだけエネルギーを使わないこと。それだけを死んだ目をして送りたくもない「日常」をやっている。それで精いっぱい。

そこに、込めることができる魂はない。マシーンだから。

 

替えがきく歯車でいいのか

替えの効く既製品の労働マシーンとして、私たちは組織に、資本主義社会に飼われている。

毎日カネ、カネ、カネと鳴きながら回る歯車である。しかも替えがきく。

そんなものであると自覚しているのかいないのか、自分自身の気持ちさえわからなくなっている。何が楽しいとか、何がうれしいとか、どう生きていきたいとか、そういう心のど真ん中にあるべき燃える大切な何かが見えない。もう完全に鎮火され消し炭になってしまったのか。

 

本当はもうこんなの嫌だ、と心が叫んでいる。

でもこんなの嫌だと自覚してしまうと、苦しくて仕方がないので、なかったことにしているのだ。

できるだけ心を痛めないように生きていくには、心を抹殺して「歯車」になりきって生きているほうが楽だから、無意識に逃げている。

歯車としての「立ち回り方」にだけ集中していれば、余計なことを考えなくて済む。(余計なことではなく、むしろ避けていることこそ人生を賭して考えるべきコトなのだが。)

他の歯車に簡単に交換されないように、毎日怯えながらいかに優秀な歯車かを示すそうとアピールに必死である。出世ばかりを気にする人や所謂エリートは、そんな感じの模範的な歯車。

しかし、どれだけアピールしようと所詮は替えがきくから歯車なのであって、いてもいなくてもどっちでもいい存在。この資本主義社会においては。

だから、出世レースは虚しい。マウント合戦は悲哀に満ちている。

心はいつまでも渇いたまま。

 

異世界に逃亡するたいやきくんたち

 

まいにち まいにち ぼくらは てっぱんのうえで やかれて いやになっちゃうよ

引用:『およげ!たいやきくん』作詞・作曲:‎‎高田ひろお、佐瀬寿一

たいやきくんのように、嫌になっちゃうのである。

嫌になっちゃった たいやきくんは、海に逃げ込む。

 

心の渇きを癒すために人は何をするかというと、さらに逃げる。

私は酒で前頭前野を麻痺させることで、現実という悪夢から合法的にトリップしようとした。そしてアルコール依存症になるまで飲み続け身も心もズタボロになった。

だから、逃げたくなる気持ちは人一倍わかるつもりでいる。

なろう系、いわゆる異世界転生モノが流行っているが、これもまさに麻酔コンテンツと言えるだろう。

「俺は特別」「オレは最強」「未来を好きなように変えられる」

歯車がみる夢を体現している。それが、なろう系を人が群がって貪る理由である。

しかし私は知っている。

大失敗して死ぬか生きるか悩むところまで堕ち、泥水をすすりながら這い上がってきたから知っている。

いくら麻痺させても、いくら逃げても、現実はそこにある。

私たちは、それぞれの個体の限界を受け容れて生きていくしかない。自分以外の存在にはなれない。

仮想世界にいくら逃げ道を探しても、自分自身の心の声を無視し続ける限り、渇きは癒えることはない。

どんなにどんなにもがいても ハリがのどから とれないよ

引用:『およげ!たいやきくん』作詞・作曲:‎‎高田ひろお、佐瀬寿一

何が嫌なのか、何が辛いのか、その暗く深い心の泉を覗き込み、水底の泥さらいをしなくては、本当に聞きたい本音は聞こえてこない。心に突き刺さったハリはとれない。

しかし、歯車たちはそれがどれだけしんどいか、どれだけ泥さらいの過程で傷つくか、薄々分かっている。もがいてもとれなかった学習性無力感で、もはや取る気もない。先延ばしにしてみて見ぬフリをしているのである。

そんな人がたくさんいれば、魂のない仕事が巷を埋め尽くすのは、当たり前だ。

だって、目の前の人は、そこにいないのだから。今この瞬間を生きていない。心の鼓動が聞こえない。ここではないどこかにトリップしていて、対話していると思っても、そこにいるのは心を持たないただの抜け殻なのだから。独り言を言い合っているようなものだ。

仕事で他人と話をしていると、どこか空虚な感じがするのは、ドッと疲れるのはそのためだ。

 

資本主義社会はもうお腹いっぱい

逃げている、といったが、それは歯車たちが弱いからではない。

むしろそれは当然である。なぜなら社会がそうなるようにできているからだ。いや、そうなることを望んでいるといってもいい。

資本主義社会、特に株主資本主義で経済が回っているこの現代社会は、仕事の社会的な意義よりも、投資可能性と計算可能性だけで構成されている。

お金を持っている人が、さらにお金を増やしたい、と思った場合、投資したときに確実に投資額よりも多いリターンを得られる未来が予測しやすいように、市場と人をコントロールしようとする。

そうなると人間性という非合理的なものは予測を不確実なものにする「ノイズ」「リスク」でしかないので、極力排除したいと考える。

 

資本主義社会において組織は行政官僚制を布く。つまりピラミッド型の組織体系である。

そのほうが理論上は、命令通りに人を動かすことができ合理的かつ効率的に最大効果を得られるはずだからだ。

しかし社会学者ロバート・キング・マートン(1910-2003)が指摘したように、行政官僚制は最終的に非合理的な組織に変貌する。

顧客のためではなく組織内の忖度のために働き、規則の奴隷となり自己成長をやめ、リスクを回避するために処罰を免れることができる必要最小限の行動しかとらず、既存体系を変えることを怖がる。

だから組織が大きくなればなるほど、中にいる人はどんどん没人格化していく。人間性を失い、先に述べた「死んだ目をした歯車」が大量に生産される。

 

資本主義社会を動かしている側、お金を持っているヒエラルキーの頂点にいる人たちにとっては、下民がそうやって人間をやめていってくれたほうが、予測可能性を狂わせるノイズがなくなり、かえって好都合だから。

病んだ現実逃避をしていようが、苦痛にあえいでいようが、野垂れ死のうが、知ったコトではない。自分たちより下の者たちなど、道具であり、商品であり、心の底では私たちを人間ではないと思っている。そうやってこの社会は、偽りの平和を語りながら、歯車たちの声なき悲鳴を轟かせつつ、今日も冷酷に回っている。

 

しかし、もうこんなのはうんざりだ!とさすがの歯車も軋み始めているんじゃないだろうか。そろそろ現実からあれやこれやと逃げ続けることも、限界を迎えているのではないか、という雰囲気を感じる。

 

テメェの人生は仕事かよ

歯車で生涯を終える。

本当に、心の底からそれでいいなら、それもまた一つの生き方だ。尊重したいと思う。

でも、本当にそうか?

偽りの安心を買うために、やりたくもないことをやり、話したくもないことを話し、嬉しくもないのに笑って、数十年を無意味に過ごし、何も残さないまま土に還る、そんなことを本当に心から望んでいるのか?それが、子どもの頃からの夢だったのか?

本当は、そうじゃないんじゃないか?

 

私は我が子を見ていて思う。

子どもの目からみて、世界はとても美しく輝いて映っていると思う。

それは、損得だとか、規則だとか、既存の価値観だとか、そういう「ノイズ」で心を檻に閉じ込めないで、ありのままの心で見ているからだ。

人間性が「ノイズ」なんじゃない。社会を縁取る枠組みこそ「ノイズ」なんだ。

素直な驚き。純粋な疑問。瑞々しい、心揺さぶられるような感覚。それを子供たちは全身で表現する。だからこちらまで嬉しくなるような眩い光を放つ。それが美しいということではないだろうか。

子どもは絵を描くとき、ルールや得手不得手を気にしない。

「描きたい」ただそれだけだ。

筆の手触りと重み、画用紙の上をすべる筆の感覚、現れた色彩。

全身全霊で今ここにあるリアルに向き合い格闘する。

自分が表現したいものを形にするためだけに、全神経を集中させて画用紙を見つめる瞳は、どんな宝石よりも美しい。

そこに「これは売れるだろうか」とか「これをやってキャリアに意味があるだろうか」とか、そういったつまらない打算は存在しない。

だからこそ、たどたどしく描かれたその線に、その迫力に、圧倒されるのである。

 

そんな生き方をもう一度取り戻したいとは、思わないだろうか。

あのとき、私たちもそうだったではないか。

汚れてしまったかもしれない、いまさら恥ずかしいかもしれない。

でも、まだ生きている。命はまだ終わってない。

なら、もう一度、本気で賭けてみよう。

 

私は断酒をはじめたとき、そんな気持ちだった。

再飲酒をして何度もこけた。でも諦めないで生きてきた。今が人生で最高だ。

だからこんなふうに思うのかもしれない。

【共依存】仕事に逃げる男たち

男たちが仕事にこだわる理由。

それは結論から言えば「人生から逃げるため」である。

 

彼氏彼女の幻想の崩壊

男はジェンダーロールという呪いを背負っている。「強くなくてはならない」「社会で成功しなくてはならない」「仕事をして稼いでこなくてはならない」という洗脳を受けて大人になる。

これは戦前から連綿と続くアメリカでいうマッチョイムズである。日本では「家長」としての父親像から端を発する。戦後の核家族化・高度経済成長の流れのなかで、徐々に男性の役割が「家長」ではなく「大黒柱という名のATM化」に移行していくが、ジェンダーロールは今までの時代の流れから形成されている呪いである。

この呪いは根深い。

専業主夫という概念を若干見下す一定の世代の偏見は、こうした既存の価値観からきている。

「男は外で汗水たらして金を稼いでくるのが役割」だと刷り込まれている。

その価値観を引き継ぎ是とするままのこの現代社会で、若者が結婚する気になれるわけがない。

昨今の若者は、生まれてからずっと経済社会が悪くなるところしか見ていない。バブル崩壊後どんどん経済が低迷していき、ろくな景気対策もできない政治をする大人たちを見て育ってきた。経済が上向かない・よくなる未来が全く見えない今の日本で「金を稼いで家族を養う」なんてできないと絶望しているのである。

だから未婚率が高くなるのは必然だ。

 

結婚できたとしても、結婚生活がうまくいかない。

なぜなら「結局は自分が稼いでこなくてはならない」というプレッシャーを常に感じながら生活していて、仕事に重点を置かざるを得ない心理的呪縛が抜けないからだ。

結婚すると生活は一変する。

まるでナウシカのように、彼女は優しく自分をあるがまま受け容れてくれる存在だと、付き合っているときには勘違いしている。その認識のまま結婚する。結婚して妻になり子供が産まれた瞬間、彼女だったあの子はもういなくなる。完全に消滅する。

女性はその子の母になる。旦那の世話など二の次・三の次、いや果てしなく優先順位は下だ。

それは当然であり、男たちが勝手に勘違いして幻想を抱いていた彼女像が、そもそもの認識間違いである。

妻は、夫の母代わりではない。

独立した別の人格を持つ、尊厳ある一人の人間であり、共同生活を共に営む、いうなれば相棒・会社でいうところの共同経営者だ。

しかし男たちは、妻を、自分のことを一番に考えてくれて辛いときは慰めてくれて、欲しい承認欲求を与えてくれて、守るべき存在でありながら自分を包んでくれる存在だ、と思い込んで結婚している。

そんな風に妻のことをいつまでも自分だけの女神さまのように思ってきて、ある日「あれ?なんか思ってたのと違うな」となる。

子ども最優先になり、今までやってくれていたことはできなくなる。

妻はホルモンバランスが変わり、子ども最優先で行動するよう生体からプログラムされている。夫のことは、男性としてではなく子育てチームの一員としてみるようになる。ガラリと変わるその様は、男性にとって、まるで妻が別人になったかのように見える。

それは母として最適化するよう遺伝子にプログラムされていることなので、本人たちにもどうしようもない。

そして、夫が家事育児の領域で役に立たないと、妻はむちゃくちゃイライラする。そもそも寝不足で身体はガタガタなのでメンタルのコンディションは最悪だ。あらゆることが癪に障る時期なので、どうしようもない。役に立っていても基本的には存在しているだけでムカつく、そんな感じだ。

そうなると次第に夫は妻に、妻は夫に不満を持つようになる。

「付き合っていたときとは、変わっちゃったな」

「こんな人だとは思わなかった」

そもそも付き合っていたときに感じているときめきが一種の幻覚であり恋の「病」。異性に求めていることが根本的にマザコン的な依存である男性は、それをいつまでも叶えてくれるなんていうのがとんでもない幻覚妄想の類で、スタートから間違いなのだが、徐々に夢から醒めていく。

そしてある時期から「なんでこんな人と結婚したんだろ…これが望んだ結婚生活なのだろうか?」と夫婦ともにお互いが小首をかしげはじめる。

しかし、それを直視した先に、「離婚」あるいは「別居」という重いテーマに対峙しなくてはいけなくなることを、うすうす気づいている。

だからお互いに見て見ない振りをして、夫は仕事に逃げ、妻は子どもに逃げる。

その結果、2人のコミュニケーションは劇的に少なくなる。お互いに対する徐々に不満と怒りをため込む。ため込んだ不満と怒りは腐敗して、消しがたい恨みとなっていく。

そして両者の溝は決定的に埋めがたいほど深くなっていく。

 

仕事に逃げる男 子どもに逃げる女

両者の関係が険悪になるにつれ、一緒にいることが辛くなってくる。

ひとつ屋根の下共同生活を送ることそのものがストレッサーになり始める。

そうなると、男は仕事からなかなか帰ってこなくなる。

「家にいるより仕事をしていたほうが心理的ストレスがないから、朝早くても夜遅くても大丈夫です」

とは、最近新生児が生まれた後輩のMくんの発言だが、まさにこれだ。

そもそも二人でいることが辛いのに加えて、子どもは夜泣きするし、妻はいつも不機嫌だし、家庭にいる時間を針の筵のように感じているのだろう。

つまり、生きづらさの逃げ道として「仕事」を選ぶ。

社会的には仕事にまい進するのは肯定されているし、頑張って成果を出せば、組織内で評価してくれる。

条件付きではあるものの、かつて彼女に求めていた「俺を認めてほしい」「俺を褒めてほしい」という承認欲求を満たしてくれる体験を仕事に見出せるのではないか、と考える。

出発点として、自己肯定感とは、「自分が」「自分を」ありのままで存在を肯定できることなので、それがないから彼女に求めているところに、男性たちの闇がある。

結局は、他人の承認なくして自分の存在を価値あるものと認識できない男たちは、スタートからすでに共依存の病を抱えているのである。

しかしそんな概念をもちろん知りもしないし、自分が病んでいる自覚もないので、内省には至らない。

母として子を見るようになり自分を見てくれなくなった妻を逆恨みし、会社に足しげく通う。共依存相手を、妻(かつての彼女)から会社にシフトする。

だから、成果を出してもなかなか認めてもらえないと、望んでいるもの(承認欲求)を差し出さない会社を恨み、同僚と飲みに行って愚痴を言ったりするのである。

もっと評価されよう、もっと褒めてもらおう。よしよししてもらいたい一心で仕事を生活の中心に据えて、関係が悪くなり居心地の悪い家庭のこと、満たされない自分のことに向き合うことから逃げ続ける。

 

かたや妻のほうはといえば、逃げまくる夫に家事育児を押し付けられて、途方に暮れる。

かつて頼りにしていたカッコいい彼氏は消え失せて、独り。孤独感と閉塞感でいっぱいだ。

家から出られない。か弱い子どもの命を常に守らなくてはならない親の重責を抱えて、一時も休みがない。

そうなると、夫の環境に嫉妬する。夫は仕事とはいえ外に出ることができるし、独りの時間を持てる。自分には持てないものを享受していると、嫉妬する。

自分は我慢していることをさんざん日中やっているくせに、家に帰ってきても一向に戦力にならない夫に、怒りが蓄積されていく。

「あなたはいつもなんで何もやってくれないの?!」の裏には「私は苦しい、私を助けて」という本音が裏側にあるが、YOUメッセージ(主語に「あなたは」がくる)で伝えているので、夫は否定され責められているようにしか感じない。次第に聞いているのが辛くなり聞き流すようになる。ますます共依存で仕事に執着していくだけ。夫は妻のSOSに気づかない。

ある時期から、妻は悟りをひらく。

「ああ、こいつには何を期待しても無駄だ」

そう思って、期待するのを諦める。

夫は「最近小言を言われなくなったな」と内心ホッとする。実にアホである。なぜなら、この諦めは最後通告を無視し続けた末の完全なる決別の証であり、関係修復が絶望的になったことを意味するからだ。

この諦めの瞬間から、妻のなかでは夫はもう家族の一員ではなく「言葉をしゃべって飯を消費するATM」であり、人ではないのである。もはや期待しているのは稼ぎだけになる。

生きていても死んでいてもどうでもよくなった夫のことはさておいて、妻は子どもに失われた時間の対価を見出そうとする。

「子どもがより良い人生を送れるように」という大義名分を盾にして、結婚後の失われた人生、うまくいかなかった結婚生活から目を逸らすために、子どもに共依存していく。

母が子どもに過干渉・イネイブリングをするのはそのためである。

父親的な存在を彼氏に求めて結婚する女性もまた、自分そのものを肯定できていない。自分を愛し「君だけだ」と言ってくれる王子様に承認欲求を求める。

王子様だったはずの夫。恋焦がれた王子様は遠い幻影となり、使えない同居人になり、最終的にしゃべって食べるATMになる。

 

要するに、彼氏彼女はお互いに求めていたものを相手から得られなくなったので、向き合うことから逃げて他で承認欲求を補填しようとする、ということだ。

 

男女それぞれの共依存が生む弊害

まず男が仕事に依存すると、「プライオリティ(優先順位)の1番を仕事にすること」を他人にも強要するようになる。

「プライベートを言い訳にするのか」

「仕事ができて一人前」

という言葉で表面化するこの価値観の押し付けが発生する。

家庭から逃げてきた男たちにとって、会社こそが「家」であり、仕事仲間こそ「家族」だからだ。

だから会社(家)のために頑張り、家族(仕事仲間・上司)から褒めてもらおうと、必死で働く。会社(家)で存在価値を示すことが、唯一自分を肯定してくれることになってしまう。その一方で、心の奥底では、本当の家族をないがしろにしている後ろ暗さが常に背後にある。

恐れを抱いて震えながら、自分という存在の生き残りをかけて仕事でマウント合戦をやっている。それが仕事ばかりしている夫の真の姿である。

それで正しいんだと安心するためには、他人が同じでなくては困る。

今まで逃げ続けてきたこと、妻と向き合い家庭と向き合うことが仕事なんかよりよっぽど大切だった、ということに気づいてしまうと、今までのすべての自分が瓦解してしまう。

だから、自分を支えている世界観が壊れることを恐れて、他人にも自分と同じように生きよと強要するのである。

仕事よりも家庭を大事にしている同僚を目にすると、内心穏やかではない。

だから「あいつは仕事ができないダメなやつだ」とか「仕事をもっと真剣にやらないから出世できないんだ」とかレッテルを貼って下に見ることで、心の平穏を保とうと必死になる。

上から目線で見下すという態度は、自分ができなかったことをする人に恐怖している証拠である。

こうして、本当に大切なものを大切にしている人を迫害し始めるので、病んだ男たちにとっての歪な「会社」という家庭は地獄そのものになる。

 

妻はといえば、「子どものため」と言いながら、イネイブリングで子供を虐待する。

自分の生き直しとして手取り足取り教え、転ばぬ先の杖を用意し、子どもから「失敗の経験」という人生の宝を盗む。

自分の生きづらさを解消してくれる自分の所有物(おもちゃ)として子供にちょっかいを出しまくる。

そうして、子どもは「失敗の経験」を横取りされ、自分で自分の人生を決める権利を奪われ、アダルトチルドレンという生きづらさの呪いを背負わされる。

この幼少期の共依存的な関わりが「自分で挑戦して人生を生き成功も失敗も肯定する感覚」=自己肯定感をがっぽり子供から吸い取っていく。元から発生しないように阻害してしまうとでもいうべきか。

これがのちに成人すると、仕事に逃げる男、子どもに逃げる女、に変身する。

こうして、生きづらさは世代間連鎖する。

【依存症】ゲーム依存症「ゲームそのものやハマる子供が悪いワケじゃない」

最近、ゲーム依存の相談が多い。

私は課金ゲームやスマホゲームはあまりハマれなかったので、その手のゲームには疎いのだが、「CERO:Z」のゲームで人を殺しまくるのにはハマったことがあるから、ゲーム依存当事者の自覚があり、気持ちの一部を分かるつもりでいる。

「CERO」とは、ゲームソフトの年齢別レーティング制度を運用・実施する機関としてコンピュータエンターテインメントレーティング機構(略称CERO)である。

 

ゲームには種類がある

そのCEROが定める「年齢別レーティング制度」において、市販されているゲームは以下の分類で表記されている。

 

引用:https://www.cero.gr.jp/publics/index/17/

 

基本的には、下記のような刺激の強い描写があるかどうか、で年齢制限を判定している。

引用:https://www.cero.gr.jp/publics/index/17/

 

相談してくださる私より年配の相談者の皆様は、このCEROのような年齢制限を知らないことも多々ある。

「とにかくゲームはよくない!」と十把ひとからげに思い込んでいらっしゃる方もいるので、まずはこのようにゲームのなかにも種類があることを説明する。

 

私のゲーム依存遍歴

私は大学時代、とにかく殺したり盗んだりする刺激の強いゲームが好きだった。

CERO:B(12歳以上対象)の『戦国BASARA』シリーズ・『三国無双』『戦国無双』いわゆる無双シリーズ、

CERO:C(15歳以上対象)のホラーゲーム『サイレントヒル』シリーズ。

CERO:Z(18歳以上のみ対象)にあたる『グランド・セフト・オート』シリーズ、『ウォッチドッグス』。

などなど。

一時期などは、大学の講義など全てそっちのけで、酒を飲みながら部屋を真っ暗にしてずーっとやっていた。食べ物と酒を補充するためにコンビニに行くくらいしかしなかった。結果、単位をほとんど落とし必修科目すら落としかけて、留年の危機を味わった。卒業が危ぶまれたが、なんとか卒業できた。まさに奇跡である。

とにかく現実が好きじゃなかった。

仮想の街、仮想の物語、仮想の人物と過ごす世界にどっぷりハマって戻ってこれない、いや、これないんじゃないな。

私は意識的に、現実になんか戻ってきたくなかった。

当時。エチルアルコールで曖昧になった意識のなかで、別の人生を生きているような幻想的なゲーム中の時間。それが、最も私が安心できる時間だったように思う。

捨てきれない義務感でなんとか卒業し就職したものの、その後アルコール依存症や精神疾患に悩まされることになるのだが、それはまた別の話。

つまり、ゲームの刺激が強いからハマる、という脳のドパミン神経系の医学的な考えも分かるのだが、本当の問題の根本は「こんな現実くそくらえだ」「生きているのがつらくて少しでもいいから忘れたい、逃げたい」と本人に感じさせる『生きづらさ』だ。

いくら無理やりゲームをやることはやめさせられたとしても、その『生きづらさ』に寄り添わない限り、必ず別の形で表出してくるだろう。

 

ゲーム依存は子供たちの悲鳴の現れ

親は、自分の子育てのしかたのせいで我が子を辛い気持ちにさせている、などと思いたくない。

ゲーム依存になっているのは自分たちにも問題があるかも…と認めることは、愛情をもって育てていることを否定されるような気がして、恐ろしさを感じるだろう。

その痛みと恐れは、とてもわかる。

私も親になり、子供が自分のせいで苦しんでいるなんて言われたら、認めたくない。いかに「自分がこの子のために尽くしてきたか」「どれだけこの子を愛しているか」を唾を飛ばして必死に弁明するかもしれない。

誰も悪くないと思う。

分からないなりに、必死にやってきたのだ。

子どものことを必死に考えて、良い人生を歩めるように、自分と同じ失敗をしないために、と思うがゆえ、というのが、親たちの生の姿だと思う。

だからこそ、私たちは親として、本当は「自分のため」にやっていることを「子どものため」とすり替えて押し付けない勇気と真の愛情をもって、子供と向き合う必要がある。

 

なぜ、我が子はゲームをするのか?

我が子は、面白くてやっているのか?それとも面白いとは感じていないのか?

そもそも何が面白いと感じるゲームなのか?

一緒にやったことがあるか?一緒でなくても、ひとりで試しにやったことはあるか?やったことがないなら、どんなところが面白いのか、興味をもって子供に尋ねたことはあるか?

 

そうしたことをしていないのに「ゲームのやり過ぎはよくない」「いい加減やめなさい」と言っているとしたら、立場を置き換えて考えてみるとわかりやすい。

 

あなたがとても好きなもの、寝ても覚めてもそのことを考えるような趣味があるとする。

それを知りもせず、やったこともなく、共に語り合ったこともないのに、「そんなもののやり過ぎはよくない」「いい加減やめなさい」と言われたら、どうだろうか。

「こういう脳によくないというデータがある」「そんなにハマるのは病気だ」と言われたら、どうだろうか。

私なら、心を閉ざす。

この人には私のことは分からない。だから、こっそりやろう。よく知りもしないくせにえらそうに面倒なことを言うから、もう黙っていよう。

そうやってどんどん、双方の心の距離は離れていくだろう。

 

たとえば「これから仲良く付き合いたいな」と思っている人がいるとして、まずはその人が興味を持っている物事のことを真剣に聞くだろう。真剣に調べるだろう。話題が合うように、努力するだろう。

その労力こそ、すなわち「愛情」である。

 

それを、我が子に注いでいるだろうか?

 

まだ幼い子どもだから、親である私たちの言うことを聞くのが、当たり前だろうか。

とんでもない。彼らは、私たちと対等な一人の人間である。

親である私たちの言うことは常に正しくて、彼らの考えることは稚拙でとるに足らない考えだろうか。

とんでもない。私たちも間違う。彼らは彼らなりに考えている。その考えを尊重しないのは、彼らの人格を尊重しないのと同じことだ。

 

必ずしも、親だけではなく。

先生も、塾の講師も、クラブのコーチも、近所のおじさんおばさんも。

子どもを取り巻くこの社会の大人たちが、尊重してくれない。話を真剣に聞いてくれない。正面から真剣に向き合ってくれない。

その辛さに「もういやだ!!限界だよ!!」と悲鳴を上げているのが、聞こえてくるのではないだろうか。

 

まとめ:ゲーム依存症は、子ども個人の病ではなく、社会の病

その土地の自然(人工物ではない土や水や動植物たち)に触れることがなくなり、自然と遊ぶという最も重要な営みを子供から奪ってきた社会。

子どもたちを、自然から不自然に隔離している都市。過剰に干渉し正しさで管理する社会が、子供たちの精神と肉体を蝕み、WHOが示すような自殺率の高さや幸福度の低さを招いているなぁ…と思う。

ゲーム依存は、そうして居場所を奪われ苦しんできた子供達が、この現代社会でなんとか見つけた避難シェルターのようなものではないだろうか。

つまり、ゲームに依存する子供側の問題というよりは、私たちに問題の本質があるのではないだろうか。

彼らの居場所を奪ってきた正しさへの囚われ・リスク偏重主義的な社会構造。それを是とする私たち社会人の貧相な価値観。これら社会的な背景・生育環境に問題の本質がある、と私は考えている。

「やめさせるためにどうすればいいか?」とか「ゲームやスマホが脳にいかに有害か?」とか。私たちは誰しもHOWに頭が偏りがちで、本質的な課題を見て見ぬフリをしやすい弱さを持っている。その弱さを、隠さず認めることが、まず第一歩だと私は思う。

子供の行動を制約する正しさや、コントロールするための方法論ばかりを考えて、子供に強要する前に、私たちのほうにこそ議論すべき課題は山積しているのではないか。

相談を受けていると、そのように思うことがある。

【依存症】社会啓発って何だろう?(STEP12)

社会は、腐ってる。

私は、基本的に救いようがないと思う。

それは社会の仕組みがそうだからで、誰かが特別悪くて何かを捻じ曲げているからではない。

鉄の檻の内側はディストピア

資本主義経済社会で、行政官僚制の組織を構築して、今人々は生きている。

その仕組みの内側、すなわち「鉄の檻」の内側である以上、人は入れ替え可能な部品として扱われるし、経済的価値に換算される冷たい世界で生きることを余儀なくされる。

そういうシステムだからだ。

もちろん、悪い。

政府も悪いし、企業も悪い。しかしそれを言い出したら、この社会に寄生して生きている私たちは全員悪い。

この社会を否定するなら、山に引きこもって自給自足で文明と切り離された仙人みたいな生活をしなくてはならなくなる。

それは現実的ではない。

すなわち、私たちは「鉄の檻」の内側の世界の人格を持ち続けなくてはならない。

それがどれだけクソのような世界でも。

そのクソっぷりを少しでもマシにするために、社会啓発があるのだろうか?

いや、そんな活動はいつまで続けてもしかたがない。最終的に己が病むだけだ。

そもそも、他人に影響しようというのは、善意を通り越して過干渉なのではないだろうか?

 

他人のために、という嘘

自分のためだ。

社会啓発であれ何であれ、全ての行動は全部、自分がやりたいからやることだ。

「誰それのために」という言葉には虫唾が走る。

自分の動機を他人になすりつける卑怯さを感じる。

 

善行をするのは、そういう自分が好きになれるからだ。

喜ぶ顔をみると、自分の存在を肯定された気がするからだ。

見返りを求めて行う人助けは、善行ではない。感謝の略奪である。

結局、無理をすれば誰もが破綻する。

滅私奉公、自己犠牲はしばしば美徳として語られるが、実際はオブラートに上手に包んだだけの「共依存」でしかない。

自分で決定し、自分の人生を自分のために生きることを放棄する、無責任な行いだ。

つまり、自分の人生を丸投げしてるだけ。

 

では私たちができる社会啓発(STEP12)とは何なのか?

個人としての気の持ちようにアクセスするくらいしかないのではないだろうか?と私は最近しみじみと思う。

人は、与えられる範囲でしか、施すことができない。

他人に施すには、自分のこと以外に関心を持ちエネルギーを注ぐ「余裕」が必要だ。

「余裕」を持つためにはまず、誰よりも自分が健康である必要がある。健康でない者は自分のことで精いっぱいだからだ。

だから、自分の健康をまず整えることが、まわりまわって他人にとっても一番優しい行動なのだ。自分を差し置いて他人を優先することでは絶対に無い。

だからこそ、まずは、自分自身の回復を謙虚に目指すことが重要なのだ。

回復を目指すうち、無理なくやれることが増えていく。そうして少しずつ、還元できることを増やしていく。それが自然な姿だと思う。

 

荒野を歩く身であっても健全に生きていけるのは、「鉄の檻」の外側に仲間を持つことができるからだ。

私たちは外側に健全な繋がりを持たなかったから破綻した。

繋がりが持てなかったのは、方法がわからなかったからだ。

そして内側にしか価値が無いと思い込んできたからだ。

 

アサーティブ。

自助グループ。

12ステップ・プログラム。

 

それらの道具を学びながら、私たちアディクトは「鉄の檻」の外側で、自分と大切な人との信頼関係を守り育てる方法を後天的に身に着けていく。

内側ではなく、外側にこそ価値があるということに気づく。

そのためにまず第一に考えるべきは、己の心身を健康に保つことだ。

そのために時間と労力を怠らない。

そうしてはじめて、「鉄の檻」の内側、つまり社会という荒野を生き抜くことができる。内側への囚われから解放されて、穏やかな世界を持つことができる。

 

つまり、檻の内側を変えることではなくて、外側を創り出すことが、社会啓発の最も重要な役割だと思うのである。

私ができる事をしていきたいと思う。