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【依存症】私はなんでお酒をやめられたのだろう

お酒をやめてもうすぐ6年になる。

私はアルコール依存症だ。

「飲まなくてはいられない」という病気なはずなのに、飲まずに生きている。

なんでだろう?なんで今、飲まないで生きていられるのだろう。

散歩していてぼんやりと思ったので、いろいろ振り返ってみようと思う。

 

しなくていい我慢しなくなった

思い返してみると、私は我慢ばかりしていたように思う。

良い学校に合格しないといけない。

良い成績を取らないといけない。

良い会社に就職しないといけない。

良い評価を得られるように仕事を頑張らなくてはいけない。

まっとうな社会人にならないといけない。

結婚して子供をつくらないといけない。

人生に失敗してはいけない。

大きな失敗しないために、他人から成功しているように見えるように、他人の目に怯えて生きていたように思う。

はたしてそれは楽しかったか?と問われれば、もちろんまったく楽しくなかった。

早く終わりにしたかった。まるで刑務所で服役しているような気持ちだった。

「義務」

それに尽きる。

たくさんの「○○しなくてはならない」に溺れるように生きていた。そんな苦しさを紛らわすためには、お酒が必要だった。そうでないと、生きていられなかった。明日が来る恐怖に耐えられなかった。

だから、浴びるように、溺れるように、お酒を飲んでいた。

生きているように見えて、死んでいた。一度今日の自分を殺すために、毎晩記憶が飛ぶまで飲んでいた。

 

私はアルコール依存症と診断されて、一度しっかり死んだんだと思う。

自分を取り囲んでいた「○○しなくてはならない」が全てポッキリと折れた音がした。

「ああ、もう全部台無しだ、ダメになった」

そう思った。

そこから、どうせ一度死んでいるのだから、生き直そうと思った。

自分は自分以外のことのために、精一杯やった。

だから、ダメでもともとだし、もう一回生き直してみよう。

今度は自分の気持ちに正直に、生きてみよう。

 

そこから私の人生はもう一度スタートしたと思う。

それからも再飲酒は何度もあったし、間違いは数えきれないくらいあった。

でも、まだ生きている。

今日を生きるために食べて動き、明日を生きるために寝ている。

以前の私とは比べ物にならないくらい、積極的に生きている。

 

お酒を必要とする人 と しない人 の違い

妻はお酒を飲まない。

別に病気でもないから、飲んでもいいのに飲まない。

「私に気を遣わず飲んでもいいんだよ」と言っても飲まない。

「飲みたくないから飲まない、飲む必要がないから要らない」という。

 

私は不思議でたまらなくなって、一度聞いてみたことがある。

「私にとっては、お酒は脳を物理的にシャットダウン(鎮静)して現実を忘れさせてくれる魔法の飲み物のように、当時は思っていたけど、酔うことが気持ちいいと思ったことはないの?」

妻は不思議そうに考えながら言った。

「気持ちいいと思ったことない。風邪ひいたみたいに具合が悪くなる、いつもの自分の感覚じゃなくなるから、気持ち悪い。ちゃんと現実を感じられないほうが嫌じゃない?」

 

これは私にとっては目からウロコだった。

現実を感じられないほうが嫌?

いつもの自分の感覚じゃなくなるから気持ち悪い?

全部逆だ。私は現実なんて消えてほしいし、もうこれ以上不愉快な感覚を感じたくないと思っていたのに対し、妻は「現実」や「感覚」は知覚していたい世界だったのだということだ。

現在の私に通じる。

相変わらずADHD/ASDだし、現代社会なんてクソくらえだと思っているし、仕事にやりがいもなく超絶めんどくさい。不毛なことだらけのこの世界が基本的には大嫌いだ。早いとこ滅びて全部壊れてしまえばいい、と正直なところ思っている。

しかし、生きる実感、「現実」や「感覚」を受け容れている。

酒を飲むことによるデメリット(体調不良・社会不適合・死)があるから飲まないのではなく、感じていたい世界を余計な物質を摂取することで変に歪めたくないから飲まない。

何を感じていたいかと言えば、ご飯がおいしいとか、運動してスッキリしたとか、風が気持ちいいとか、小鳥のさえずりや樹々の葉擦れの音が美しいとか、そういう慎ましい歓びだ。

ただ、生きている。その奇跡があって今たまたま受け取れる、多種多様な美しい情報。

生きることに意味や効率を求めたりせず、他者評価や金銭欲に目を眩まさらず、ありのままに自分と世界を観察すると、そこには小さくても確実に歓びがある。

酒を飲んでいた当時は気づかなかった。

義務と意義と他人の目。そんなものにばかり心を奪われて、それこそ私は「現実」を生きていなかった。「現実」だと思っていた嫌な世界は、私の心が創り出した地獄だった。

自ら創り出した仮想の地獄を忘れるために、私は酒を飲んでいたんだなぁ。

とんだ独り相撲じゃないか。笑える。

 

まとめ

酒を必要とする人は、他人に決められた何かを価値基準にし、『変えられないもの』を変えなくてはならないと思い込んで地獄を生きている。

酒を必要としない人は、自分で選んだ価値観にしたがって生き、『変えられないもの』を受け容れて、自分の感覚に正直に『変えられるもの』に集中して生きている。

これが違いだ。

だから酒を必要とする人(昔の私)は、誰かのせいでこうなっているとどこか恨みを抱え、生きるにしろ死ぬにしろ、自分の生死のどちらにも責任を持てないでいる。嫌々生きているが、死ぬのも誰かのせいにしないとできない。

それはたいそう不自由で、一秒一分が常に苦しい。だから酒でなんとか誤魔化さないととてもじゃないが一日一日を乗り越えられなかった。

私は回復の過程で、私が本当に大切にしたいことがわかってきて、それ以外の問題っぽいものは実は問題ではなく、人生においてそれほど気にしなくていいとわかった。

呪いのように背負ってきた地獄という妄想を手放すことができたから、今酒をやめられているのだと思う。

 

 

【依存症】『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど

 

まぁ耳が痛い。

私のことだから当然なんだけど。

 

「親のせい」

「酒のせい」

「社会のせい」

と他責にして攻撃してきたのは、他ならぬ私だ。

 

親が自分の問題に真摯に向き合ってくれていれば、子どもたちはACにならずに済んだかもしれない。

この世に毒物である酒が存在しなければ、この世にアルコール依存症はなかったかもしれない。

この社会が善意と愛で構成されたまともな社会なら、生きづらさなどなかったかもしれない。

そんな「○○なら、○○かもしれない」が私のなかにはたくさんあった。

(私にとって)正しくない他の要因が悪い、と顔を真っ赤にして怨嗟の声を浴びせていた。

 

それで楽になったか、といえば、そうでもなかった。

誰かを何かを責めていれば「私は悪くない、私は被害者だ」と思えて、その瞬間は楽になれた気になる。

でも、結局どれだけ責めて悪いところをあげつらったところで、私はACでアルコール依存症で発達障害でこの社会では生きにくい性質を持っていることに変わりはない。

どれだけわめいても、結局はなんとかこの浮世を生きていくしかない。

責めたり断罪したりすることに時間と体力を使っている間、自分は今いる場所から少しも前に進んでいないことに気づいた。

もちろん、大切な時間だった。

自責に傾倒していた私の責任感は、それまでの反動もあって他責に一気に振り切れた時期があった。そんな極端な時期を経たからこそ、今バランスを取り戻したといえる。

だから、ダメだと言うつもりはない。無駄だとも思わない。そう考える時期が必要だった私だ。他人をハチャメチャに責める時期があるのは当たり前で、むしろ自己防衛のためには仕方ないと思う。

 

『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど、みんな弱くてもともとだからさ。

私は少なくとも、強くなかった。弱かったよ。というか今も弱いよ。

誰かや何かのせいにしたくなるときだって、生きてればいくらでもある。

 

そうやって責めて責めて、飽きるくらい他人の欠点や過失をあげつらって最終的に思ったのは、「でも、いつまでもこれやってても、どうしようもないよな」ということ。

 

私は結局「私はダメじゃない、他人に認められたい、社会に許されたい」と思っていただけだったんだよな。

だから依存症はダメな人がなる病気なんかじゃないと啓発したかったし、偏見を持たれることに堪えられないと感じた。私が間違ってるんじゃない、世の中が間違ってるんだ、と言いたかった。

 

でもそもそも、それは私が私のことを心から認めさえすれば、全て解決する、気持ちの問題だと気づいた。

他人がどう思おうと、社会が誤解していようと、突き詰めて考えれば、それは割とマジでどうでもいいことだった。

 

他人や社会の評価を気にすることが問題の本質であって、私の病巣だった。

自己存在証明と価値判断を他者の評価軸に委ねることが、私の不安や恐れの源泉だった。

 

他人がどれだけ私がダメ人間だと思っていても、私が私のありのままを肯定する限り、私を否定することはできない。

私の自己評価は私にしか決められない。私が私を否定しない限り、他人がどう思おうがそれは何の影響も及ぼせない。

嫌おうが好こうが、それは自由にしてもらえばいいことで、他人のなかの話。

 

社会がどう扱うかも、同じことだ。

精神に様々な病巣を抱えた人々が構成した、経済原理で動く虚ろな空間。それが「社会」。

その異空間のなかでの位置づけがどうであろうが、私そのものには何の影響もない。認められる必要もないし、差別をなくす必要もない。というかそこはコントロールできない。

構成員の大多数が病んでいて、彼らの現実逃避のために起こっている現象が「差別」や「偏見」であり、その現象をどう解釈するかは私次第だ。

「いやいや差別されて職業が限られたり、謂れのないことを言われて尊厳を傷つけられたり、経済的に損するでしょ?」と思うかもしれない。

そもそも病んだ社会にわざわざ適応することなくね?と思う。

受け容れてくれない、ちゃんと扱ってくれない社会とは程よく距離を置いて、現代社会に精神的にも金銭的にも依存しない在り方を模索し、分かり合える人たちを見つけて関係を創り、穏やかに暮らせばいいだけ。

私たちを認めさせよう、というのは、ヒエラルキー構造の社会で最下層以外になろう、というのに似ている。

私たちを認めさせても、社会はまた別のカテゴリをみつけてきて最下層をつくる。

経済で社会システムが回っている限り、勝ち負けと損得の原理で誰かが負け組になる。

社会とはそもそも破綻していて、壊れている。だからそのなかの椅子取りゲームには固執する必要がない。

椅子が欲しい人にはどうぞどうぞと譲って、死ぬまでゲームに明け暮れていてもらえばいい。

私たちはさっさとつまらない無意味なゲームから降りて、そんなことよりもっと大事なことに時間とエネルギーを使えばいい。

 

このように、事象をどう解釈するか、で世界の見え方は変わり、社会との関わり方は選べる。

そうなると、別に誰かを責めなくてもよくなる。何かのせいにしなくてもよくなる。

そもそも自分自身のなかで必要が無くなるから。

 

私が弱くて誰かや何かのせいにしなくては立っていられなかった時期があったように、ときには私を責める人もいるだろうし、自分のなかの正義を振りかざして断罪する人もいるだろう。

それは、当時自分自身の問題に向き合えなかった私の父母のようでもあり、酒や金なしでは回すことができないほど深い業をはらんだ社会のようでもある。

 

誰もが、どうしようもなく生きることに一生懸命で。

だからまぁ、そうなることもあるよね、しかたないよね、と思う。

私もそうだから。そうだったから。

 

誰もかれもが、いつかの私であり、これからの私。

だから私は誰も憎まなくていいし、誰も排除しなくていい。

誰かに向けて上から目線で放った言葉は、だいたいブーメランみたいに自分に返ってくる。

これから私に返ってくるブーメランは、どんな切れ味だろうか。

親しみを込めて受け止めたい。当時の私の弱さを抱き締めるように。

あんまり鋭いやつが返ってきたら、しゃがんで避けようと思う。

【依存症】私が偏見を気にしなくなった理由

アルコール依存症。

そう聞いて、みなさんはどんな印象を持つだろうか。

だらしない?

人生負け組?

ダメ人間?

 

「私はアルコール依存症です。」

私がこうやって病気のことを知らない人に打ち明けると、反応は様々だ。

 

「まずいことを聞いちゃったな」と慌てて話題を変える人。

「へーそうなんだ」と露骨に態度が変わる人。

「あれってどんな病気なの?」と素直に聞いてくる人。

 

その人のなかに『アルコール依存症』のイメージがあり、そのイメージがその人のなかの私のパーソナリティに反映される。

各々が持つイメージが様々だから、反応は聞いた人によって異なるのだろう。

 

基本的に依存症という病気のイメージは偏見と誤解にあふれている。

マスメディアが作り上げたマイナスイメージに引っ張られていることが多い。

 

国民にとって良くない法案を閣議決定をするとき、国民に騒がれたくないので、覚せい剤や大麻などの薬物を使用した芸能人逮捕のニュースを報道する。いわゆるスピン。知る人ぞ知るお決まりのパターン。

権力者側の都合で情報は歪められる。現代社会の常だ。

「覚せい剤」という単語を聞くと、多くの人は反社会的なイメージをもつのではないだろうか。

実は敗戦当時、覚せい剤であるヒロポンやゼドリンは大手をふるって市販されていた。そんなことは教科書に載ってないし学校では勉強しないからほとんどの人が知らない。製薬会社が販売するのを政府は大っぴらに認めていた。帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)をごまかすのにちょうどよかったから。

昔は合法で巷にあふれていた。今使うと違法だからと袋叩きにされる。

確かにアンフェタミンは依存性があるしその当時乱用がかなり問題になった。

しかし、今合法薬物として国内に出回っているアルコール(酒)はどうだろう。

アルコールは自分と他人に対する害が全ての薬物のなかでNo.1の最悪の薬物で、依存性があり、乱用が問題になっている。

けれど、アルコール(酒)は違法にならない。タバコ程度の害しかない大麻は違法なのに。不思議だよねぇ。

答えは、酒もたばこもたくさん課税できて政府が儲かる産業だから。

違法か合法かは、薬物の危険性とは相関しない。

法律はルールだけど絶対に正しいわけじゃない。必ずしも実態に沿って善意で定められているわけじゃない。

だから、違法なものを使ったからといって、その人の人間性がダメなわけがない。たまたまその人にとってどうしても必要だったものが、社会のルール上違法っていう扱いだっただけ。

 

そういうことを考えない人は「とにかく違法だからダメ」「違法なものを使う人はダメな人」と思ってイメージで他人をジャッジする。

正直言って、そういう人はたいしたことないなと思う。あんまり深く物事を考えない、言われたことを疑いもしない、自分が間違っているかもしれないという謙虚な内省を行わない。

もちろん、情報に触れる機会がないと理解する機会もないので、運もあるだろう。

でも、本当に賢い人は「本当にダメなのかな?」「なんでダメなのかな?」「本当は別の理由があるんじゃないかな?」と裏の裏まで考えて、自分で能動的に調べる。

そういう人はちゃんと情報にたどり着く。背景を知ろうとする。

だから誰かがコントロールしようとして流している恣意的な情報に左右されにくい。

このコロナ茶番ではっきりしたよね、その辺は。

わかる人にはわかるっていうこと。

 

アルコールについてもそう。

酒を飲んだときにその人の本性が現れるとか、飲み方がだらしないのはダメな人間だからだとか、偉そうに言う人がいるけど、本当によく調べて自分の頭で考えていれば、そんなふうに誤解したりしない。

知らないし、知らないかもしれないと調べることもない人が、偏見をもつ。

つまり依存症に対する偏見とは、当事者が抱える問題ではなく、非当事者が抱える課題であり問題だ。

偏見を持たれるからといって、当事者である私は特に気にしない。

「よく知らない人が、いい加減なことを言っているなぁ、知る機会がなかったんだなぁ、かわいそうに」と思うだけだ。

私が非当事者に情報を手渡したとして、知りたいと率直に思って聞いてくれる人は理解してくれるし、逆に聞く気がない人は全然理解できない。冒頭にある通り、反応は様々で、それは受け手の知能にかかっている。知能というか「私を本当に理解しようとしているかどうか」にかかっている。

いくら「本当はこういう病気なんです」と声を大にして発信したとしても、相手に受け取る気がなければ伝わらない。

詰め込み教育ばかりを施されてきたこの現代社会というのは、残念ながらそういう消極的な情報の受け手の集合体なので、社会を変えるというのはほぼ困難と言っていい。

変えられないものを「なんで変わらないんだ、偏見をもたれて苦しい」と嘆いていても、しかたがないよなぁ、と思う。

そりゃ理解されなくて悲しい気持ちになることもあるけど、それはもうしょうがないじゃん。だって相手が理解できないし理解する気がないんだもの。

変えられないものを受け容れる落ち着きをもち、変えられるものを変えていく勇気を持つほうが建設的。

変えられるもの、つまり、自分の在り方を考えるほうがいい。

つまり、偏見を持つ人がいる現実を受け容れて、特に気にしないという在り方をとるということ。

 

偏見を持つ人の問題は、その人の問題で、私の問題じゃない。悩む必要がない。

どうでもいい人が私を誤解していても、どうでもいい。

一ミリも私の価値を上げ下げしない。好きなように勝手に誤解していればいい。

わかってくれる人だけ、わかってくれればいい。

わかってくれる人は、賢く優しい人が多い。そういう人は私が付き合いたい人なので有象無象のなかから友人候補を分別でき、むしろ無駄な付き合いを省けるのでちょうどいい。

アルコール依存症というステータスは、私にとって「人との相性診断ができる便利なリトマス試験紙」くらいに思っている。

 

古今東西あらゆる哲学者が、承認欲求との付き合い方について説いている。

なんでもそうだが「他人がどう思うか?」というのは他人が抱える問題で、その問題を解決できるのは本人だけだ。外野である私にはどうしようもない。

承認欲求とは、他人に自分を認めさせたいという欲求だが、私を認めるかどうかは他人が決めることだ。

「他人のなかの自分」を現実の自分よりよく見せたいと願う人の、なんと多いことか。

無理して「他人のなかの自分」を良く見せようとがんばるのは、徒労でしかない。

「他人のなかの自分」は、前述のように、その人の先入観やマスメディアのプロパガンダでねじ曲がっている。

そんな歪な「他人のなかの自分」は、他人の数だけ存在する。

虚像であって私そのものじゃない。他人の頭の中にいる自分をいくら着飾り大事にしても、私そのものにはなんの変化も成長もない。逆に、どんなにその虚像が虐げられていても、私そのものに害はない。そんなどうでもいいものに必死になるのは、くだらない。

虚像を実像のように勘違いをするから苦しくなる。虚像だからと軽く見れば、偏見に対する悩みなど吹けば飛ぶほどの軽さになる。

 

私そのものは、私がどう思うかで決まる。

だから他人がどう思おうが関係ない。私の価値は、私が決めるんだから。

私が自分の良いところ、存在そのもの、それをほかならぬ私自身がわかっている限り、私そのものは存在自体がいつもいつでも肯定されている。

私はそう思うようになって、アルコール依存症だよと他人に話すことに躊躇いを感じなくなった。

私にとってアルコール依存症とは愛すべき自分の一部であり、恥ではなく誇りであるから。

 

【依存症】「なるようになる」=真の自己肯定感 という話

「たぶん、なんとかなる」

私は今までそう思えなかった。

結果が欲しい。

評価が欲しい。

安心が欲しい。

理解者が欲しい。

他人軸の何か後ろ盾になるようなもの。それが無いと私は私にYESと言えなかった。

だけど、今はそう思わなくなってきた。

 

今までいろんなことがあった

今まで生きてきて、様々な出来事があり、様々な感情を味わった。

それでも今、こうして生きている。

それは、乗り越えてきたということだ。

今まで生きてきたすべてが、私という今を肯定している。

ニーチェのいう「永遠回帰」があるとしても、私は私の人生をもう一度生きることにYESと言える。

たぶんまた苦しむだろうし、生きようか死のうか悩む局面に出会うだろう。

でも今乗り越えて息をしている。これからも息をし続けることを望む私がいる。

全てのことに私のなかでは意味があり、必要だから与えられたと思う。

発達障害(神経発達症)として生きづらさを抱えたのも、機能不全家庭に生まれてACとしての特性を抱えたのも、社会に過剰適応しようとしてうつ病やアルコール依存症になったのも、生まれた時代がたまたま資本主義社会であったことすらも、全て私が私であるために必要だったから、そうだっただけ。

 

大谷翔平や鈴木一郎がもてはやされているが、実際人間は大して変わらず、弱くて小さな存在だ。

どんぐりの背比べでしかない。

野球という競技になっているが、元をたどれば暇つぶしの玉転がし遊びであり、それが上手なのは純粋にすごいことだが、それもすべては運だ。

成功には再現性があり、法則がある。そう思うほうが、私たちは希望を持ちやすく不安を見て見ぬフリしやすいので、そう信仰する傾向がある。

ビジネスにも何かしら成功の法則があり、成功者に学べば自分たちもそうなれる、と思って有名人のサロンやビジネススクールに通う。それっぽい理論や前例を学び、信仰を強固なものにする。

しかし繰り返すが、すべては運だ。

先の野球選手の事例でいえば、たまたま野球ができる環境にあり、たまたま努力し続けられる個体に産まれ、たまたま身体的に不具合を持たないで五体満足に生まれて、たまたまそれ以上の個体が野球競技者のなかにいなかった。

だから相対的に順番をつけると上にいて、たまたま周りにいる人たちの見えない協力のおかげで成果も残せた。

実力とはすべてが運であり、成功しているのはたまたまだ。

 

偽物の自己肯定感

だから、相対的な価値観でこしらえた「自信」は、自己肯定感とは程遠い。

仕事で同僚より成果を出している。

スポーツでいい成績を残している。

偏差値が高い大学に合格している。

他人と比べて頑張っている。

平均より良い暮らしをしている。

「だから自分を信じられる」というのは、自分自身ではなく他人の物差しを信じている、という状態だ。

その偽りの自己肯定感は、そのよりどころである他人の物差しが変われば一瞬で雲散霧消するだろう。

 

信仰は選べる。

意思だけは誰にも奪えない。奴隷の哲学者エピクテトスの言葉だ。

結果主義・成果主義のストーリーを信仰するのも自由。

自分の無力を受け容れ、無為自然を説く老子の思想を信仰するのも自由。

在り方は、自由自在だ。自分で選べる。

 

まとめ:なるようになる

唯一確かなのは、それぞれの意思だ。

私は私の意思を信じる。

どうしても自分に嘘がつけない、不器用で愚直な人間として生きてきたこの人生を信じる。

他人が信じるかどうかは関係ない。

成果が出ているかどうかも関係ない。

それは他人の物差しでどうか、ということで、他の宇宙の話だ。私そのものとは関係ない。

どこに価値をおくか、どう思うかは、私が決められる。

いや、私にしか決められない。

こんな私が、今も生きていて、一定の納得のいく思想にたどり着いている。

たまたまそうなった、何か大きな力の支えのおかげで。

ということは、これからなんかあっても、私なら、だいたい何とかなる。なるようになる。

この「なるようになる」というのが、自己肯定感の真の姿だと思う。

私とみんなは失礼ながらどんぐりの背比べなので、みんなもおそらく同じ。

ということは、みんな、だいたいなんとかなる。なるようになる。

みんなのおかげで私がいて、そんなみんなもなるようになるということは、これから先も大丈夫。

 

成果をコントロールしようとしなくていい。

他人をコントロールしようとしなくていい。

未来をコントロールしようとしなくていい。

だってそれぞれにとんでもないパワーを秘めていて、自分で自由にとらえ方を決められるうえに、この世界は「なるようになる」ようにうまくできているのだから。

これまで肩にのしかかっていた不安や重圧が、一気に軽くなるのを感じないだろうか。

なんにも心配しなくてよかったのだ。

しようとしたってできないことを、無理してしようとしなくていい。

他人の評価もポジションも、全然気にしなくていい。

お金があるかないか、少ないか多いか、も全然気にしなくていい。

だって私たちは、私たちらしく泥臭く素直に生きていさえすれば「なるようになる」のだから。

何か意味があるとしたら、それは私たちがそれぞれに自由に決められる。

この信仰で生きる人は、どこまでも自由で、開放的である。

【依存症】依存症になってよかったマジで

私は、アルコール依存症だ。

断酒して5年が過ぎ、もうすぐ6年になろうとしている。

本当にいろいろあった。

「お酒をやめて良かった」と思っていることはもちろん、

「依存症になってよかった」と思っている。

 

そんなわけねーだろ、と思うだろう。

5年前に未来の自分がタイムスリップしてきてそんなことを言いだしたら、私も「なめてんのかコノヤロウ」と確実に殴りかかっていると思う。

それくらい信じがたい、心境の変化だと言える。

 

お酒というドラッグの要らない世界

お酒を嗜む人からすれば「お酒を飲めないなんてかわいそう」と思うだろう。

私は飲んでいたころそう思っていた。下戸の人を、可哀想だと思っていた。

私は断酒してから、よく「人生の半分損してる」とか「楽しみが減って可哀想だね」とか言われた。

全然かわいそうじゃないから、安心してほしい。

むしろ飲んでいる人のほうが可哀想だ。人生の半分がお酒なんかで占められているだなんて、昔の私みたいですね、と思って逆にマジで可哀想だなと思う。いやまてよ、私は9割がお酒だったわ、レベルが地獄で草。多分昔の私よりはかわいそうじゃないわ。

お酒を飲んでいるときは、アルコールでラリっているので、脳がドーパミンによって「楽しい」と勘違いする。いわゆるキマっている状態だから、その場の状況を錯覚する。

この間シラフで職場の食事会に参加してみたが、びっくりするほどおもしろくない場だった。

仕事の愚痴ばっかりだし、大した話もしていないし、知的な刺激が全然ない。それなのに1時間も着座して話を聞いているのが、とてつもなくしんどかった。こんなしんどいこと、そりゃ酒でも飲まなきゃやってられねぇよな。どんなもんなのか試しに行ってみたけど、途中で帰った。もう行かないだろうな。

今私にお酒が要らなくなったのは、お酒が無くても楽しいからだ。いや、むしろ無いほうが楽しいからだ。

お酒を飲んでいたのは、人生がつまらなすぎたから。早く終わりにしたい、でも終わりにできない、という絶望を少しでも紛らわせるには、薬物が必要だった。私が合法的に手っ取り早く仕入れられるドラッグが酒だった。ただそれだけ。

生まれた国が違って、モルヒネやコカインやヘロインが手に入る環境なら、それに手を出しただろう。

違法か合法かなんて関係ない。記憶をぶっ飛ばせればそれでいい。仮死状態になれるならなんでもいい。そんな感じだっただろうと思う。

現実が嫌すぎて、何かで紛らわせていた。その必要がなくなった。その変化は何だろう?

 

余計な荷物がなくなった

私は余計なものをたくさん抱えすぎて、歩くのもしんどくて、でも歩くしかなくて、酒を浴びるように飲んだ。

余計なもの、というのは、私の心の中にあるゴミのような価値観と強迫観念だった。

「親の期待に応えないといけない」そうしないと愛してもらえない

「いい大学やいい会社に行かないといけない」そうしないと愛してもらえない

「一流のビジネスマンになって活躍しないといけない」そうしないと捨てられる

「善良で正しくなくてはいけない」そうしないと愛してもらえない

全部、そんなことはなかった。

 

親の期待は勝手に親が持っているだけで、別に応じる必要はない。

親になってわかったが、正常な親は、子供が元気に自分らしく生きていさえすればそれでいい。

恩返しも必要ない、生まれてきてくれただけでもう十分に親孝行だから。

私の親が異常だから、私をコントロールしたかっただけで、私は親の顔色を窺う必要など全くなかったことが分かった。

なので、この思い込みは余計だったから捨てた。

 

 

いい大学、良い会社、一流のビジネスマン。

そんなものは何の価値もないことが、自分の頭で考えて物事や社会を観察していたらわかった。

使い潰しやすい人的資源を確保するための、政府や企業にとって都合がいいブランドイメージだ。本質的な価値はそこにはない。

だって、本当に価値を測れるなら学歴と職歴が輝かしい人はみんな素晴らしい人格者のはずじゃん。

でも実際は違うよね?みんなも薄々わかってるでしょ?

良い大学を出ていてどんなに優秀な成績を収めていてもクズみたいな人間はゴマンといる。優秀とされている官僚や政治家や医師が、このコロナ騒動でどう立ち回ったかをみてみてよ、一発でわかるでしょうよ。

一流のビジネスマンは私からすると「詐欺がよくできるだけのスーツ野郎でしょ?」というイメージ。

ビジネスとは所詮騙し合いの椅子取りゲームであり、それが人より得意なだけ。ゲームの得意不得意は人間性や人間的魅力とは相関しない。

私はクズや詐欺師にはなりたくない。だから、私にとって追いかける価値のない物差しだとわかった。

これも余計だったから捨てた。

 

 

善良さ、正しさ、というのは自分の良心で判断するしかない。

それを「他人に○○と思われよう」としている時点で、そもそもズレていた。

私は大いにズレていた。

他人が思う善良さや正しさは、他人の物差しであって、それは他人の数だけある。そんな千差万別のものさしすべてに対応するなど不可能。つまり、全員に好かれ評価されることなんて、できるわけがないってことだ。

自分を否定されて傷つくのが怖いから、他人に悪く思われたくなかっただけだ。

裏を返せば、傷つかなければいいだけだった。

他人は私のことをそんなに真剣に見ていない。表面を切り取ってあーだこーだ言っているだけだ。または、自分の内面を私を鏡に使って映し出して何かを言っているだけだ。

だから、他人が下す私の評価というのは、とるにたらない。勘案するに値しない。そんな大した影響力の無いもののためにオドオドしながら顔色を窺って生きるのは、とてももったいない。

言いたい奴には好きに言わせておけばよい。それで私の価値は一ミリも棄損されない。

これも余計だったから捨てた。

 

 

ぜーんぶ、私が大事だと信じていた価値観は、余計だった。だからぜーんぶ捨てた。

そしたら、とても身軽になった。

ちゃんと自分の心の声が聞こえるようになった。

今まで余計なゴミに埋もれて聞こえなかっただけだった。

私の心は死んでなかった。ちゃんと叫んでいた。叫んでいたのに気づかなかった。だから心が病んで動けなくなったのだった。

自分の心の声をちゃんと聴くようになったら、やりたいことや楽しいことや嬉しいことがなんなのか、わかるようになる。

そしてそれを素直に聞いて、素直にやっていれば、私は私をどんどん好きになるし、世界もどんどん輝いてみえてくる。

やりたいことをやれる世界。楽しいことや嬉しいことに満ちた世界。

そんな世界を、薬物キマってぼんやりした脳で過ごしたくない。もったいなさすぎる。ちゃんとクリアな五感で楽しみたい。酒?そんなもん飲んでる場合じゃない。

だから、私にはお酒が要らなくなった。

というか、私の世界から無くなった。必要ないから。

 

依存症という宝

私は、酒を憎んでいるわけでは無い。

むしろ、地球上にあってくれてありがとう、と思っている。

私のためにあったのだとさえ思う。

だって、酒に頼って失敗しないと、私は本当のことに気づかなかったから。

私は酒でごまかして生きてきて、運よくしっかりうまくいかなかった。大きな挫折と痛みをもらった。

上手くいかなくて悩んで苦しんで、運よく死なないうちに問題に向き合うチャンスをつかんだ。

「自分の力だけではどうにもならないことがある」という事実を知るチャンスを。

それほど、酒をやめる前の私は傲慢だった。

成績も、業績も、年収も、他人からの愛情も、人生も、全部コントロールできると思っていたのだから。

なんてやべーやつなんだ。そんなんできるわけないだろ。

努力次第でなんとかなる、今評価されないのは自分がまだまだだからだ、と信じていたので「もっと頑張らなきゃ」「もっとちゃんとしなきゃ」と思っていた。

あのねー、そんなに人間万能じゃないんよ。

頑張ったってたかがしれとるし、ちゃんとできないことだってあるんよ。人間だもの。

私はたまたま、ちょっと受験勉強ゲームで点数が取れて、ちょっと運動できる体だったから勘違いしちゃってただけで、人間はどれもこれもが本来どんぐりの背比べ。大した差など無いし、個体ごとに多少能力値に差があるのはしかたがない、埋めようがない、努力は万能じゃない。自分を買いかぶりすぎただけ。

たまたま受験できるだけのお金が出せる両親のもとに産まれた幸運。

たまたまお客様が契約してくれたから業績が出た幸運。

たまたま五体満足に生まれてきた幸運。

ていうか、この時代・この国に産まれたという幸運。

全部、運である。実力は運である。

たまたま運がよかっただけだ。自分の頑張りは、たまたま生まれた結果を後付けで自分の功績だと解釈したにすぎない。

プロスポーツ選手にしても芸術家にしても、たまたまそれに没頭できる環境と、たまたまそれを上手にできる才能があっただけだ。全部、運です。

だから、やれることはそりゃやるけど、なるようにしかならんし、そもそも何かで結果を出すのは遊びであって、人生の本筋じゃないから、楽しくないならやらんでいい。

前の自分より、上手くなりたい、かっこよくなりたい、それがおもしろいからやるんだよ。

あくまでも比較対象は過去の自分。他人じゃない。他人は違う宇宙。前提が違うから比較しようがない。

それで一喜一憂するのは、走り幅跳びの選手がマラソン選手に100m走を挑んで勝った負けたと嫉妬したりマウント取ったりするのと同じくらいくだらない。

好きなように走り幅跳び楽しんで極めりゃいいじゃないの。

自分が楽しいことを極める。人生はそれだけよ。

 

 

何でもできるわけじゃない。

人それぞれに長所も短所も違う。

 

私はそんな当たり前のことも、競争社会で洗脳され過ぎて忘れていた。

とにかく競争で勝って生き残らなくちゃいけない。だから頑張らなきゃいけない。

テメェの人生は仕事かよ。全然つまんないよそんなの。そりゃ飲むよね、っていうね。

他人にとって当たり前のことが、私にはできない事もある。それが当たり前で、それでいい。

だから誰かと比べて自分を嫌いになる必要なんてなかったし、できないことは悪いことじゃなかった。

できないのに助けてと言えない、私の弱さが、私を追い詰めていただけだった。勝手に苦しんでただけ。独り相撲ってやつです。

 

弱くていい、ダメでもいい、他人を頼ってもいい、他人のために生きなくてもいい、私は私で良い。

そういうことに気づくために、私は依存症という病気が必要だった。

 

この病気が無かったら、私は私の生き方に何ら疑問を持つことなく、そのままおじいちゃんになって死んでいただろう。

そう思うと心底ぞっとする。ずっと「なんでこんなに楽しくないんだろ?でも満たされているはず、私は幸せなはず」と自分を誤魔化し毎日毎日小首をかしげながら、せっかく与えられた時間をクソつまらん競争に投資して、後悔しながら人生を終える。

そんな世界線もあったわけだ。その悪夢のような世界線から、私を分岐してくれた依存症。

ああ、依存症のおかげで、私は一度死に、もう一度生きるチャンスを与えられたのだ。

だから、私は本当に心からこう思う。

依存症になってよかった、と。

うらやましかろ^^

【依存症】私は己の高慢さと無知から他人を遠ざけ勝手に孤独になった

私には反省すべき点がたくさんある。

特に人間関係の構築はとても不得手で、他人とのかかわりをストレスに感じることが多い。

それはなぜなのか。

なぜなら、私が高慢で狭量だからである。

 

妻を見ているとよくそう思う。

妻は「私は知らないことばかりだから」と口癖のように言う。

「知らない」ということを知っている。哲学の父ソクラテスの無知の知である。

教えてくれること、その主体である他人という存在に素直に感謝できる。それは実はとても難しいことだと私は思う。

そして他人を簡単にジャッジしない。

「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼らない。

「この人には私が知らない面がたくさんある」と思いながら、他人の在り方をそのまま受け容れたうえで接する。

だから他人は否定されていると感じないで快く接することができる。ジャッジされる緊張感で在り方を偽る必要がない。だから、一緒にいて居心地が良いと感じる。

友人が多い人というのは、こういうフラットな在り方が自然に行える人なんじゃないかと思う。そして、出会った人を「友か友でないか」と線引きしないので、ほとんどが「友人」という定義に合致する。だから必然的に「友人」と認識する人数は多くなる。そう思われている相手もそう認識する。友人関係というのは相互認識で、明確な定義などないため、「友人と思っているかどうか」という認識がすべて。

 

私はどうかと言えば、残念なことに真逆をいっている。

「友人が少ない」という認識は、自分が他人のことを拒否しているからだ。友人だと思っていないなら、その数は少なくなるのも当たり前。

なぜ他人のことを拒否するかと言えば「わかったつもり」になって自ら遠ざけるから。

「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼る。そして関係を継続する価値がないと判断する。そして関係を断つ。浅い関係でそれなりに対応する。相手もそれを感じて、距離を取る。だから周りに誰もいなくなる。

なぜ他人を早期に判断するのかといえば、自分がその人のことをまだほんの一部しか知らない、ということを認識していないから。

もっと言えば、自分が知っていることなどほんの一部であることを、心から認めていないから。

私は他人よりもよく物事をよく見聞きし分かり「正しい判断ができる」と思いあがっているからだ。

実に乏しい人間である。

 

私のように高慢で不遜な人は、他人にどれだけ助けられて今があるのかを忘れている。

顔も見たことがない、声も聞いたことがない、この世に生きるいろいろな人がいて、私は今の生活を送れている。

確かに悪意にさらされて傷ついた経験は今でも心にずっしりと残っている。

しかしながら、そんな人々もまた誰かの大事な人であり、何か世界に影響を与えていたと考えると、巡り巡って私を支えていた可能性がある。

悪意をもって私に接した背景には、彼らなりの苦しみと生きづらさがあり、表出した一部を私が体験しただけかもしれない。

簡単に、表出した一部だけを切り取って、その人そのものを語ることはできない。

過去の悪事を切り取って、その人の人生をすべて否定することはできないように。

そう考えると、たまたまその瞬間においては「私」と「その人」は良い関係ではなかった、というだけである。それを一般化して「他人なんてくだらない」と断ずるのは短絡的だ。論理的に飛躍しすぎている。

なぜ短絡的にレッテルを貼ろうとするかというと、これ以上傷つくのを恐れているからだ。同じような経験をして痛みを感じるのを恐れて、カテゴライズし予測可能性を見出したくなる。予測可能性があれば、投資可能性があり、自分の行動で結果をコントロールできると思い込める。実際には世界のほとんどの事象において、コントロールすることなどできないのに。

恐れによる認知の歪みはこうして起こる。

 

人と人の関係というのは、すべてがオーダーメイドなのである。

あるカテゴリ、あるレッテルをもとに語り始めた途端、その人そのものから遠ざかっていく。

そしてほんの一部だけかじって、終わりにする。

それはとてももったいないし、第一つまらない。

私の人生がつまらなかったのは、私がつまらなくしていたから、という事実を認めなければならない。

妻は友人に囲まれ私よりはるかに楽しそうに生きている。ように私には見える。

実際楽しいからまだ死にたくない、と言っている。

私はと言えば、死にたいと思っていることが人生の時間の大部分を占めてきた。終了させてもらえるなら今すぐにでも終了させてほしい、そう願いながら生きていた。

この違いである。

「アディクション(依存)の反対は、コネクション(繋がり)」という依存症の世界では有名な言葉があるが、まさにその通りである。

人との繋がりを自分からつまらなくした、あるいは過去の経験によってつまらないと思うことで自分を守った結果、それ以外のものに依存しなくては、立っていられなかった。命を継続することが困難だった。

それが、依存症になる人が抱えている、生き方の根本的な機能不全のひとつだと思う。

 

では、この場合、生き方の機能不全をどう対処していけばよいのだろうか。

「変えられるもの」は他人ではなく自分の在り方なので、恐れに向き合い、恐れを受け容れ、傲慢と偏見を一度捨てて、他人との関わりに挑戦することが大事だ。

挑戦できるようになるまで、恐れについて徹底的に棚卸をする。安心安全な場所(自助グループ)にアウトプットして、供養する。自己憐憫に陶酔する時期もあるだろうが、飽きるまで徹底的に吐き出す。

もう言っているのが馬鹿らしくなるくらい話しつくすと「まぁいつまでも言ってても仕方ないし、これからどうしようか」と思えてくる。そう思えるまでの時間は人それぞれだが、それは短いからよいとか長いからダメとか、そういうものではない。それはジャッジだ。その人には、それだけの時間が必要だった、ただそれだけ。

そこからはじめて、ひとは前に進める。そして、前に進むことができるのは、自分で進みたいと思った時だけだ。

ニーバーの祈りにある「変えられるものは変えていく勇気」が己の心に降りてくる瞬間。

その瞬間から世界の色が変わっていくのだろう。他人という脅威が恩恵に感じる世界へ足を踏み入れるのだろう。

このような認知の転換は、奇跡であり、どんな経済価値にも代えがたい、宝である。

損得やコスパを超えた人間として生きる面白みがここにある。

だから、何度でも生き直せるし、ひとは輝く。

【依存症】妻が子どもを連れて実家に帰った話

やっぱ、家族って大事だなって思った年末年始でした。

いやー。

なんだかんだ言って、みんながいないとダメね。

 

年末、妻が子どもたちを連れて義実家に帰りました。

先に行って、私は後から合流するってことにしたんですよ。

私は妻には申し訳ないんだけど、やっぱ居心地が良くないんですよね、義実家。

ずっといると、なんかストレス溜まっちゃって、だんだんイライラしてくるんです。

なんとなく居場所がなくて、かと言って周囲に気晴らしに行けるような場所もなく、だんだん追い詰められていくんですよね。

私たちの子どもだから私たちが面倒みるのは当たり前なんですけど、率先してみてくれるわけでもないから、育児の負担はあんまり変わらないし、台所自由に使えるわけじゃないから、好きな時に好きなように料理できるでもなく。

妻は料理が上手で、出してくれるものはなんでもありがたく美味しく食べられるんですけど、義母の料理はなんか雑というか、はっきり言っちゃえば不味いので、食の面でも気持ちが沈んでいきます。

しかも出し方がわけわからん。後から「コレがある」「アレもあった」と小出しにしてくる感じで、お腹が空いてたなら食べたかったものが後から出てきたりすると「なんやねん」ってなります。

家が全体的に埃っぽいし散らかってて、なんか安らげない…かといって掃除すればいいレベルの散らかり具合ではない…なんか、荒んだ気持ちになるんです。

人様の家だから、文句いうのもなんだし、泊まらせていただいてるのにアレなんですけど。

しかもあの人たち、断酒してる私にお構いなしに酒飲みまくるんだよなぁ…。缶も乱雑にテーブルの上に置いとくし、なんなら酒買ってきてくれって頼んだりしてくるんですよ。なんか、そういう無神経なところがまた神経を逆撫でしてくるわけです。

そんなわけでいつもイライラし始める私を見かねて「ちあきだけ滞在期間が短くなるような帰省の仕方」を妻が提案してくれたという経緯があります。

正直スマンと思ってる。

妻的には「イライラして近くにいられるくらいなら、ひとりでゆっくりしといてほしい」という気持ちだそうで、ありがたく提案に乗りました。

 

さて、新幹線で妻と子どもを見送って、ひとり犬たちだけが待つ自宅に帰宅しておどろきました。

静かすぎる…。

犬たちも不安そうにこちらを見つめてきます。

「いつも情緒がアレなコイツだけ帰ってきた…やべぇ…やべぇよ…」という目をしています。

スマンて。いつもアレなのだけでスマンて。

 

ひさびさに飲酒欲求がきたのも、びっくり。

「今日くらい羽を伸ばしてもいいんじゃないか」という気持ちがまだ湧いてくるんだなぁ、と思うと、改めて私は病気なんだなぁって感じました。

変に我慢するとヤバいと思ったので、ノンアルコールビールを買って飲みました。

あんま美味しくない…こんなのいらないな…となって、気持ちがスッと落ち着きました。

開業の準備とか、たまった仕事の雑務とか、子どもたちいないからやりまくれる!と思ってたのに、全然なんのやる気も起きないんですよね。

あー…静かだな…寂しいな……って気持ちで、youtube観てもアマプラで観たかった映画観ても、なんも楽しくない。

ひとりで断酒してる人すげぇよ。よくこんな時間を耐えてるなと思う。

改めて、家族のおかげで断酒続いてるんだなって実感しました。マジでいつもありがとうございます。

自分でヘルシーな料理作って食べてたんですけど、ひとりで食べるの侘しすぎ。

もう、何しててもつまんない。

ブログも書きたい事のネタメモしてたのに、全く筆がのらない。

そんな感じだったから、とりあえず毎日LINEで妻や子どもたちとビデオ通話してましたね。笑

んで、なんかものの数日で会いたくなって、早めに義実家にきちゃいました。

会えないくらいなら、多少義実家が不快でも行くしかない、って感じでした。

家族のありがたみがよく身に染みた年末年始でした。

【依存症】ありのままの自分

ありのままの自分でいるのは楽じゃない。

そもそも、ありのままの自分がわからなくなっている人のほうが一般的だろう。

この現代社会では。

 

周りに合わせてヘラヘラしながらなんとなく過ごしているほうが、楽だと思っていた。

でも、これも結構楽じゃない。

自分の本当の気持ちを裏切って生きていると、どこかで必ずそのツケは己に返ってくる。

心身の不調をきたしたり、他人に些細なことであたってしまって、関係が悪化したり。

自分への裏切りは、必ず自分に返ってくる。そして苦しくなる。

 

どちらにしても楽じゃないと考えると、自分らしく生きるほうがマシだ。

他人と違っても、損をしても、他人に何かを言われたとしても、自分の本心に従って決めたことなら、結果がどうであれ受け入れられる。納得できる。

 

「これを言わなきゃ嫌われなかったかも」

「態度に出さなければ気を遣わせずに済んだかも」

などと思って他人の顔色をうかがいながらビクビク生きてきたが、いいことはなかった。

そうやって自分の判断や決定を他人軸で考えるとき、結果を他人のせいにしている自分がいた。

「私は本当はこうしたくなかったけど、○○さんがさせてくれないから」と誰かに責任転嫁して、自分で決断することから逃げる癖がつく。

だから、なんだか自分の人生なのに、どこか他人事になり、空虚で飢えやすくなる。

余計なものを買ったり、余計なものを摂取したり、自分を安売りして求められようとしたり、何かでその虚しさを紛らわせようとして、さらに孤独の色が濃くなる。

 

私は小さい頃から「自分そのままで生きていては社会に受け入れられない」という思い込みを続けてきた。

それは親から「周りの子みたいにおとなしく良い子でいなさい」と比較されながら育てられたことや、クラスメートから「お前は変だ」と言われていじめられてきたことに起因している。

うまく擬態して、うまく周りのように空気を読んで、異質だと認識されないように、隠れるように生きる。それが「ちゃんとした社会人」であり、賢い生き方だと思って必死に頑張った。

けれども、得られたのはアルコール依存症という病名だけで、最終的にはにっちもさっちも行かなくなった。

毎日が「消えていなくなってしまいたい」であふれていた。いつも死にたかった。

生きることは苦しいことだった。こんな苦しいこと、80年も継続するのは不可能だと思った。

 

親の接し方はまずかった。親を許す必要はないし、クラスメートにも恵まれなかったと思う。

それはそれで私の中の事実。

しかし、その不運を引きずって生きるか、受け容れて生きるか、は選べる。

もう親の扶養のうちにいるのではないし、クラスメートはもういない。

これからの生き方は、今ここからの自分が決められることだ。

今は、自分で決められる。自分で決めていい。

それを「過去にこうだったから」「親に言われたから」と放棄するのは、ありのままの自分を生きたいという本心を裏切っている。

誰のせいでもなく、自分で自分を裏切っている。誰かのせいにして、怖いから逃げているだけ。

 

私の場合はアルコールが唯一の逃げ道だった。

アルコール依存症になって、まともに出社できなくなり、問題を起こして懲戒解雇になりかけた。

親に電話してそのことを恐る恐る伝えたとき、親は「そんなふうに育てた覚えはない、そんなのは私たちの子供じゃない」と言った。

そのあたりから「自分の人生は自分で決めないとダメなんだ」と悟ったように思う。

 

この人たちが求めるように、指し示すとおりに、歩んできたつもりだった。

いい学校に行き、いい会社に行き、良い子でいようと無理をし自分を殺して生きて。

その結果、報いていたはずの親から拒絶されるのなら、私が良いと教えられてやってきた何もかもは、実はとことん間違っていたんじゃないかしら。

そう思った。

この人たちは親だけど所詮は他人だ、私の人生の責任を取ってくれるわけじゃない。

あれこれ口は出すし手も出すけど、結局望むカタチにならなかったらポイっと捨てる。

それなら、言うことを聞く必要なんてなかったんじゃないか。

口を出されても手を出されても、その邪魔をはねのけて、したいようにやればよかったんじゃないか。信じるようにやればよかったんじゃないか。

そう思った。

 

どうせ生きるなら、自分で思うように生きよう。

それで選択を間違って途中で死んだとしても、自分で決断して選んだ道なら納得できる。

むしろ、自分で選んで間違うことが重要なんだ。それが血となり肉となる。

いつでも正しく在れるわけではないこと。

いつでも正解が用意されているわけではないこと。

自分にはどうしようもないことのほうが、世の中には多いこと。

そういうことを実感してはじめて、人は本当の意味で他人を尊重し、よく見聞きすることができるようになる。

自分でやって初めて、他人がやっていることにも共感できるし、間違いを許せる。

自分らしく生きることは楽ではないが、楽しい。

他人の言いなりになって、呪縛に縛られたままで生きるより、段違いに楽しい。

どうせ楽ではないのだ。楽しいほうを選ぼう。

楽しむために生まれてきたのだ。生まれた意味などないが、せっかく生まれたのだから楽しむべきだ。人生は仕事ではない。

 

同じように生きてきた、まじめで不器用な「いい子ちゃん」に届くといい。

不良で構わない。不器用ならなお結構。人生はもっと面白くできる。あなたの手で。

【依存症】自己肯定感ってなんだろう

私には、できないことや持ってないものがたくさんある。

何かの能力で私よりも優れている人はごまんといる。

それでも、私は私でいい、生きていていい、そう思うようになった。

それは、なぜなんだろう?

 

「自信」とは何か。

評価とは、常に相対的なものだ。

誰かと何かで比べて優劣をつけている。

しかし、他人と比べてもしかたがない。上下をつけて一喜一憂しても、きりがない。

人は平等ではない。

生まれ持った能力や才能、育った環境。前提が何もかも違う。

たとえば科学の世界でも、臨床試験をはじめ科学的な研究において、対照群と介入群のベースラインが同じでなくては、結果は意味を失う。

そう考えると、この世のあらゆる比較や競争は、前提を全く同じにすることができない以上、意味がないと言える。

あらゆる他者との競争は、結局のところ「遊び」でしかない。

勝った負けたとゲーム性を持たせることで、つまらないことを面白がってやろう、というのがそもそものスタート。

偏差値もそうだし、営業成績もそうだし、年収ランキングもそう。数値化できるから横並びに比較しやすいので、ゲームにしやすい、というだけ。

だから他人と比べて「なんて自分はダメなんだ」とか「私は他人より優れているから安心」とか、そんな一喜一憂がいかに意味がないことか、なんとなく想像できるだろう。

誰かと比べて生じる優越感も劣等感も、幻なのである。

つまり、他人と比較して得た「自信」とは、幻だ。

今、自分。

これが真のベースライン。

過去の自分ができなかったことが、できるようになる。

過去の自分が作れなかったものを、作れるようになる。

それが本当に対等で検証する価値のある「成長」という結果である。

しかも、アウトカムの良し悪しはどうでもいい。

私たちはできるようになったかどうかを「自信」の後ろ盾にしなくてもいい。

結論、できなかったことをできるようにならなくてもいいのだ。

できるようになったら自分が嬉しいから、力の限りがんばった。

他人に褒められるためじゃなく、自分の心がそれそのものの顕在化を望むから、形にしようとした。

それはあなたがあなたである証であり、魂に実直に生きた証である。

カタチある何かにならなくてもいい。

満足いく何かでなくてもいい。

自分を偽らず、全力で自分に立ち向かい、人生に果敢に挑んだ。

その行動を起こしただけで、あなたは称賛に値する。

自分を裏切らない。正直に謙虚に認めて向き合う。

これはこの世で最も難しいことで、同時に最も尊いこと。

その行動の積み重ねが、自分と世界を愛することであり、真の「自信」を構築する礎となる。まさに宝だ。

つまり自信とは、「私は私を裏切らない」と、自分へ信頼を寄せることができる、ということに他ならない。

そこに他人は介在しない。比べる必要がない。なぜなら、命題はあくまでも、あなたとあなたの中の良心・魂・信念との、信頼関係でしかないから。

だから、他人と比べなくていい。

そう納得したとき、自分自身も他人も世界も敵ではなく、心強い仲間でしかなかったことに気づく。

私はただ、私らしく生きていけばよかったんだ。

そう思えたとき、爽やかな自己肯定感が宿る。

今は、そんなふうに思っている。

【哲学】あした死ぬかもよ?(ひすいこうたろう)

尊敬するマルクス・アウレリウスも『自省録』のなかでこう言っている。

今日まで君は、どんな態度で過ごしてきただろうか。

神々に対しても、両親・兄弟・配偶者そして教師や友人に対しても、誰に対しても、君はひどい扱いをしたり、ひどいことを言わなかっただろうか。

そして、君がこれまで経験してきたこと、耐えてきた困難を思い返してみるのだ。

君の人生の物語は、今ここで、終わった。

世のため、人の為にやれることはもうない。任務は、終了したのだ。

今こそ思い出すがいい。

これまで君が見てきた、美しいものを。

そして、どれだけ多くの苦痛や快楽に負けず、どれだけ多くの名誉に囚われず、どれだけ不親切な者たちに親切な態度を示したかを。

さあ、思い出してみるのだ。

 

 

彼は毎日ナイトルーティーンとして自らを振り返り、記録を続けた。

死すべき存在である自分を常に忘れず、一日一日を人生最後の日のように過ごす。

その生々しい人生の記録の集積が、この『自省録』である。

だからこそ手に取るたびに温かく清々しい気持ちを取り戻せる。

 

君も私も必ず、いつか死ぬ

これだけは失いたくない。

そういうものが、あなたにはいくつあるだろうか。

家族?友人?ペット?家や貯金などの財産?今の仕事のポジション?

 

残念ながら、私たちはそれらを、いつか必ず全て、失う。

死んだら、今持っている何もかも失う。

そして、それは誰にでも必ず訪れる終焉。

いつその時が来るかは、誰にもわからない。

明日かもしれないし、明後日かもしれないし、もっと先かもしれない。

でも、100%間違いなく、あなたは全てを失う。私も失う。

 

あなたは今日死ぬとして、このまま寝たらもう二度と目覚めないとして、どう思うだろうか。

 

決して誤解してほしくないのは、私はあなたに「だから頑張れ」などというつもりはないということだ。

今日が最後の日だと思って一生懸命やろうとか、そんな安っぽい自己啓発本みたいなことを言うつもりは毛頭ない。

人生最後の日だったとしても、頑張れない日は頑張れないだろうし。

 

「楽しかった、悔いはない」と思うだろうか。

私は人生山あり谷ありでエキサイティングだったので、今日死んだとしても別にかまわない。

結構満足だ。充分楽しかったし苦しかった。

美しいものもたくさん見ることができた。もうすでに、必要なものは与えられるだけ与えられたと思っている。

 

いろいろ失った。

出世の道は、懲戒処分によって失った。

もっと貯められたであろう給料のほとんどは、酒に消えた。

酒を飲んできた結果、アルコール依存症という病名を背負い社会的信頼を失った。

酒の飲み過ぎとタバコの吸い過ぎで、健康な体も失った。

コンクリに頭からダイブして前歯も失ったなぁ。

失ったものは数えきれない。

でも、本当にそれが必要だったかというと、そんなに必要じゃないと失って気づく。

肉体は、生まれた瞬間から失われ始める。そして、いつか必ず土に還る。

だからいずれなくなるものなので、失ったところで遅いか早いかの違いだ。

出世や社会的信頼も、死んだらもう関係ない。

給料や財産も、黄泉の国へは持っていけない。いくら貯め込んでも意味がない。

 

失うことは不幸ではない

不幸とは、失うことではない。

不幸とは、今際の際に「もっと○○しておけばよかった」と後悔することだ。

いくら分かりやすい価値に恵まれていても、死ぬ間際に嘆きながら亡くなるなら、その人の人生は不幸せだろう。

なぜ後悔するのか。

それは、心のままに自由に生きられなかったからだ。

 

あなたを縛る制限は、あなたの心の中にある。

「やりたいけど、やってはいけないことだから」

「今はもっと重要なやらなければならない(と言われている)ことがあるから」

「失敗しないようにしないといけないから」

「嫌われないようにしないといけないから」

「みんなと仲良くしないといけないから」

たくさんの「○○でなければならない」「○○しないといけない」で自分を縛り上げてはいないだろうか。

そうやって自分で自分を雁字搦めにして、思うように生きられなかったとき、人は死ぬときにこうつぶやく。

「そんなこと気にしないで、もっと楽しめばよかった」と。

あれもしたかった、これもしたかった、会ってみたい人にも会えていない、見たい景色も見れていない、本当はしたかったことが走馬灯のように浮かぶ。

そして、絶望のなか、目を閉じる。

そして二度と目覚めない。意識も肉体も、消えてなくなる。

 

どうせ死ぬのだ。

どうせ死ぬなら、好きなように思い切り生きよう。

 

私はお酒で大失態をして、懲戒解雇を検討されたことがある。

誰とも連絡を取るなと会社から厳命を受け、自宅待機を命じられた。

部屋に座り込んで茫然としていると、一日が終わる。そんな毎日を過ごした。

もう、社会的な死は免れない。私は終わった。そう思った。

よろよろとホームセンターに行って自殺用のロープを買い、どの山で首を吊るかをスマホで調べた。

妻に懲戒処分の検討中で、最悪解雇になるかもしれないと告げた。

「仕事なくなったって、また別の仕事探せばいいんだし。あなたが一生懸命に頑張ってたこと、私は知ってる。だからまあ、大丈夫なんじゃない?なんとかなるっしょ。人生なるようにしかならないし。」と笑いながら返された。

そっかぁ。じゃあ一回死んだと思って、生きてみようか。

そう思って今がある。

アルコール依存症の治療に向き合い、アダルトチルドレンの課題に向き合い、発達障害としての自分に向き合い、今がある。

私の死ぬ意志は本物だった。だから、もうどうせ一回死んでるんだし、ダメでもともと。

思いつく限り何もかも試してみて、それでもダメなら、そのときに終わりにすればいい。

何もかもやってみたけどダメでしたってわかってからでも、自殺するのに遅くはない。

そう思い直してふっ切れた結果、今がある。

 

己の声に耳を傾け、全身全霊で生きてみた結果、私が大事だと教えられてきたことは大して大事でもなかったことがわかった。

守らなくてはならない、と教えられてきたルールは、守らなくてもいいことがわかった。

失ったら大変なことになる、と教えられてきたが、失ってもピンピンして生きている。

教えた誰かが悪いのではない。彼らも自分を縛り上げていただけ。

自分を縛っていたのは、自分自身だった。自分自身の恐れと不安だった。

 

あなたは今日が人生最後の日だとして、何を思い、何をするだろうか。

今抱えている悩みは、人生最後の日にも悩むことだろうか。

人生とは、限られている。

偉大な何かから限られた時間を与えられていて、私たちはその「時間」という与えられた無形資産を消費しながら生きている。

あなたが今やっていることは、何もかもすべて、命を懸けてやっていることだ。

そう、命がかかっている。

Twitterをみるのもそう。Youtubeをみるのもそう。仕事の愚痴をいっているのもそう。仮想通貨の相場に一喜一憂するのもそう。子どもと昼寝するのもそう。愛する人に「愛している」と言葉を贈るのもそう。虫を捕まえようと必死に走り回るのもそう。ランニングをするのもそう。食事を食べるのもそう。顔を洗うのもそう。歯磨きをするのもそう。コーヒーを飲みながらテレビを見るのもそう。出世を気にして意味がないと思いながら無駄な仕事をするのもそう。嫌われないように愛想笑いを浮かべるのもそう。

あなたが今やっていること、今日やろうとしていることは、命を懸けてでもやりたいと心から思えることだろうか。

そうじゃないなら、やらなくてもいい。私が保証しよう。失ったってたかがしれている。

 

やりたいと思うなら、やればいい。

やりたいと思えることをやればいい。

あなたはいくら楽しんでもいい。

あなたはいくら失敗してもいい。

あなたはいくら嫌われてもいい。

 

あなたは、幸せになってもいい。

 

さあ、楽しい一日の始まりだ。

人生最後の今日を、はじめよう。