こんにちは、ちあき です。
自分が嫌いで凹んでます。
人と接すれば接するほど、私は私が嫌いになるようです。
今日はそんな暗い話です。
月曜日
私のもとに会社の上司からのメールが来ました。
「ゴルフコンペを断ってください」
という内容でした。
理由は
「前後に長期有給休暇を取得しているから、前後の活動ができないから。」
と書いてありました。
私は、それは正しくない、と訂正しました。
「長期有給休暇を取っているからといって業務であるイベント参加を断る公式な理由にはならないし、休暇を理由に業務上の指示を出すべきではありません。しかも前後の活動ができるように工夫して休みを調整しているので、前後の活動は可能です。」と述べました。
上司は「活動というより事故した時に良くないし。ていうかゴルフを営業に使うのはやめてくださいね。お付き合いですから。」と言ってきました。
「事故のリスクが理由ならある程度納得できますが、当初提示した理由は納得できませんし、私はゴルフコンペを楽しいと感じたことなど一度たりともありません。お付き合いが会社のルール上出来てしまうから仕方なく応じているだけであり、使いたくないのは私も同じです。断っても評価を下げないかむしろ評価する、という会社からのオフィシャルな見解と文章があれば別ですが、それも無しに口頭で断れと言われても、実績低下のリスクが0ではない以上担当者としては了承しかねます。私が事故した場合のリスク管理の観点から私が出るべきではない、というのは納得なので、代役を立てて参加でよろしいですか?」
と述べたところ、
「じゃあそれでいい」
と苦虫を噛み潰したような顔で吐き出すように言われました。
じゃあ、って何が?
すごくイライラしました。
火曜日
私は別の事務所で毎月1回ある、エビデンスの勉強会とワークショップに参加しました。
その事務所は、クジ引きで回答者を当てていくクイズスタイルでした。
「事業所長も含めて、参加する全員が当てられるかもしれない恐怖感によって学習効率を上げたいから、この方式を採用しました。」と管理者が言っていました。
なるほどな、と思って説明を聞いていました。
私は序盤のクイズに立て続けに間違った回答をしました。
管理者が「これは重要なデータなので、間違えないでくださいよ!」と言い、皆が嗤いました。
私はひどく不愉快な気持ちになりました。
そこから身じろき一つせず聴講するようにしました。
管理者が進行途中で「空気を読みます」と言い出しくじを忖度しようとしだしたので、
「いや、別に今から空気読まなくていいですよ?先ほど私になさったように、間違えた人間を晒し者にして、皆にその恐怖を植え付け、恐怖感で学習効率を高める方針だと、冒頭おっしゃっていたじゃありませんか。その通りに運用なされてはいかがですか?
恐怖はより記憶に残りやすい、という論文を根拠にそういう運用方針になさったんですかね。
いずれにせよ、そうした手法をとることを決めた時点で、こういう殺伐とした空気になるのは目に見えていたでしょう。想定の範囲内のはずですから、今更それを理由に空気読む必要はないでしょ。」
と言いました。
私はその後当てられることはありませんでした。
質問があったので手を挙げて質問しました。
「このデータのこの薬効群のAとBの使用割合を教えていただけませんか?」と聞くと、
「その割合はテキストに書いてありませんでしたっけ?」と講師が笑いながら言ったので、
「ああ、私が冒頭のクイズに立て続けに間違ったので、『こいつはアホか予習してないかのどっちかなのに質問してるな』と勘違いされたのかもしれませんが、私は今朝5時から8時までテキストを隅から隅まで読んでからこの会議に参加しているので、このテキストに記載がないことは確認済みですし、むしろ記載がないから質問しています。
もし書いてあるとおっしゃるなら、何ページの何行目に何%だと記載されているか教えていただけますか?」
講師は「いや・・元論文には書いてありますよ」と言いました。
「いや、だからじゃあ元論文には何%って書いてあるんですか?って、聞いてるんですよさっきから。知ってるんですか、知らないんですか、どっちなんですか?」と言いました。
講師は「申し訳ありません、調べます。」と言いました。
嫌われる正論とは
私は妻にその話をしました。
妻は「あー、それは嫌われる正論だわ」
と言いました。
嫌われる正論とは、「正しいんだけど、それ言ったってしょうがないやん」という正論のことで、
正論とは違う、嫌われポイントは、「何もプラスを生み出さない」という点。
発言が周囲にプラスの影響を与えるなら発言には価値がありますが、何の価値も生み出さない場合は発言者が嫌われ周囲が不愉快な思いをするだけで、誰も幸せにならないのだ、だから、嫌われる正論なんだよそれは、ということでした。
確かにそれは正しいな、と思います。
私は小さい頃、性格が悪い、とかなんとかで、除け者にされイジメられてきたし、友人と過ごして楽しかった、という経験は恥ずかしながら経験したことがありません。
アルコールでラリって会ってときは仲間といるのは楽しいと勘違いしていましたが、前頭葉がアルコールという薬物でマヒしてそう錯覚していただけだと分かりました。
小学校辺りに、このままハブられ続けて社会から切り離され、社会不適合者のままでは生命が維持できないのではないか、と感じて、周囲に合わせて本音を言わず、それらしいコメントを模倣して発言することでコミュニティーに同調(擬態)して社会で生きる術を身につけました。
社会人になるまで過ごしてきましたが、生きている喜びは皆無でした。
妻と出会ってアルコール依存症に向き合い、自分らしく生きることの大切さに気づかされ、私が正直に思うことは別に悪いことじゃないんだ、と理解して、すこし生きるのが楽しくなってきたかも、と思える今があります。
しかし、私が考えたり発言したりすることは、悪いことではなくても、決して良いことでもないのだなぁ、となんだか最近は虚無感がすごいです。笑
結局、何もプラスを生み出さないなら、言わない方がいいんだし。
私は私らしく生きていると、自分にも皆にもプラスは生み出さない人間なんだなぁ、と。
マイナスなら生きていない方がいいじゃん、は卑屈すぎるし我ながら極論すぎかなぁと思いますけどね。笑
じゃあ自分らしく生きるって本当にいいことなの?
自分らしさや個性は、私は素晴らしいと思っていますし、そう思いたいです。
まぁ、なんていうか、一言で言えば、生きててずっといつも寂しいです。
見解の相違は意見をぶつければ当然起こるでしょうし、だから共通言語として科学やエビデンスがある、と考えています。
自閉スペクトラム症の私には心情を推し量ったり空気を読んだりするのが不得手なぶん、精一杯情報を共有するために一般的な程度と比較して、事実を重要視しすぎているのかもしれません。
今のところ、自分らしく生きていることが良いか悪いか?は、判断が難しいと感じています。
私の私らしさは、公共の福祉には反する気がしますが、そのまま生きたいか生きたくないか、は私が決めなくてはいけません。
自分らしく生きること自体は悪ではないが、自分と自分が所属する社会にとって必ずしも善ではないことも、あるのでしょう。
人に関わらなければ害悪ではないので、当面生きていく間は、私も悲しい思いや不愉快な思いをするのは好きじゃないので、必要最低限にとどめていこうかなと思います。
おつかれさまです。