ある依存症者に、親切で気前がいい友人がいるとします。
飲み代が足りなければ貸してあげたり、一緒に飲んでおごってあげます。
酔いつぶれると介抱したり、タクシーで家まで送ってあげます。
「どうしてそんなに飲むんだ」と心配し、酒の席で悩みを聞いてあげます。
この友人は、イネイブラーです。
お金を与え、一緒に飲み、飲む理由に理解を示し、面倒を見てあげることで、依存症者が飲むことを可能にしているのです。
私は、この光景に見覚えがある。
というか、社会に出てからというもの、この光景にしか遭遇したことがないほどだ。
酒癖の悪い同僚、ついつい飲み過ぎてしまうダメな後輩。
よく観察していると、そんな人に群がっている上記の引用のような「イネイブラー」を簡単に見つけることができるだろう。
彼らは、最初に親切で気前のいい友人のように近づいておきながら、問題が手に負えないことが明るみになると、途端に手のひらを返したように冷たくなる。
「せっかく俺が目をかけてやったのに」とか「甘やかしてたらつけあがりやがって」などと体のいい口上を並べながら、自分はいかにも被害者だと言わんばかりに周囲にアピールする。
私は数えきれないほど、こういう目に遭ってきた。
この日本社会は、そういう事例で満ち満ちている。
私の周りのイネイブラー
会社に勤めているあなたの周りでも起こっているのではないだろうか。
私の経験から共通しているのは、どれだけ優しく聞こえる言葉をかけてくれていたとしても、私が酒を飲む限り、最終的にはみんな離れたがり敵になる、ということだ。
どれだけ当時の私にとって耳障りのいい言葉をかけていて、理解しているふうだったとしても、それは今振り返れば優しさではなかった。
彼らの本心を代弁するならば「私が飲んでバカをやっている姿を酒の肴に楽しみたいから」一緒にいるのだった。
まるでピエロだ。
飲み屋で悩みを聞いてくれる先輩や同僚。
「この人たちならわかってくれる」と飲み方も距離感も勘違いした私。
「もう酒はこりごりだから飲まないようにしようと思う」と話すと、「ちょっとくらいなら飲み過ぎることもあるよ」「俺も若い頃はいろいろ失敗したもんだ」などと引き留めてくれる。実に心優しい仲間たちに思えた。
そんな彼らと何度も酒を飲んでは、ひどい失敗を繰り返した。
彼らは、酒を飲んで狂っている私の姿を「おもしろい」と見続ける観客ではあり続けたいものの、当事者として面倒ごとに巻き込まれたいわけではない。
だから、私がなにかマズいことをしでかして、面倒ごとが巻き込まれそうになると途端に『突き放す』。「私は関係ない、お前が勝手に飲んだんだ、飲むなとあれほど言ったのに」とさも自分は止めたというふうなことを言って、白い目で私を見る。会社の組織内では厳罰を食らわせて、「何度注意してもダメなあいつに、俺が一発凹ませてやった」などと周りに吹聴して誤魔化す。
それが、いつものパターン。
これらの出来事のどこに優しいと感じられるポイントがあったのか、今振り返ると全くわからない。
ただただ、私はとにかく、当時さびしかった。生きることがとてもつらかった。生きることをつらくなくしてくれる酒がなくては、とても働けなかった。とても、生きてはいられなかった。
酒を飲むことを肯定してほしかった。私には必要不可欠なものだと思っていたから。だから、都合よく、私はそれらを口先でも肯定してくれる人たちを「いいひとたち」だと思ったのだろう。
もちろん、酒を飲んだのは、私だ。
私は、私の行動に責任がある。
これは明白だ。
そして、それを誤魔化す気もない。
私は、彼らの言葉に寄りかかり、言い訳にして飲んだだけだ。
本当は彼らと心を通わせかったわけではなかった。エチルアルコールが飲めれば何でもよかった。どんなことも理由にして飲んだ。そういう病気だ。
しかし、酒をやめたいという言葉をもらした私に「イネイブリング」をするということもまた、知らなかったでは済まされない、重大な責任があることも確かだ。
最も重要なことは、イネイブラーである人は、間違っている人・性格が悪い人、というわけでは決してない、ということだ。
私は、彼らの人格を否定するようなことは全くしたくないし、するつもりもない。
私も彼らも、当時はそれぞれに一生懸命に考え、互いに生を遂行していただけだ。
その実、誰にも罪など無い。飲んでしまった人も、飲むことを可能にしてしまった人も。
おそらく出発点は誰もが、愛情や抱えている寂しさなのだ。
全ては、「依存症」という私の、そして彼らの病気の症状でしかなく、「依存症という病気に対してどう対応していくか」ということについて学ばなくてはならない。それが、本当に相手を愛するということに繋がる。
「イネイブリング」とは?
中学英語で「be able to」で「~できる」と習ったのが、実に懐かしい。
enableとは、<誰か>が<何か>するのを可能に(able)する、という言葉だ。
つまり「イネイブリング」とは、誰かに何かを可能にすること、ということになる。
アルコール依存症においては、以下のように定義されている。
↓
○イネイブリング(enabling)
=「アルコール依存症者が飲み続けるのを可能にする(周囲の人の)行為」
○イネイブラー(enabler)
=「アルコール依存症者が飲み続けるのを可能にする(周囲の)人」
おそらく、本心では、こんなことだれもしたくない。
飲み続けることを可能にしようなんて思っていない。
『だらしない夫じゃなくて依存症でした』(著者: 三森みさ)の第6話を読むと、よくわかる。
以下、数コマを抜粋して紹介したい。
イネイブリングしている本人も苦しい。
こんなことするつもりじゃない、という気持ちに何度もなる。
でもやめられない。
これは、「共依存」という状態だ。
アルコール依存症と付き合うなかで、別の依存状態に陥ってしまっている。
『相手をコントロールする』ことに目を奪われて、自分の人生を生きることができなくなる。そういう病的な状態である。
○イネイブラーにならないためには
◎自分が楽になる方法を考えよう
◎相手の責任まで背負い込むことはない。
◎いやいや酒を与えるのはやめよう。
◎自分の気持ちをすなおに表現しよう。
「相手のためだから」という隠れ蓑を脱ぎ捨てて、自分の人生を第一に考えよう。
周りの人がイネイブリングをやめる目的は2つで、「疲れ切った貴方が楽になるため」であり、その次にくるのが「依存症者が回復するチャンスをつくるため」だ。
「失敗できない」競争社会の生きづらさ
なぜ、会社の同僚の酒の問題について「世話焼き」をしたり、「コントロール」しようとしたりしてしまうのだろうか。
私はここに、日本における競争社会で「負けられない」「失敗できない」というプレッシャーに押しつぶされそうな、かつての私を見る。
私のように、自分の人生に向き合うことを恐れ、人は他人の人生に逃避する。
ボクシング漫画の名作『はじめの一歩』の44巻に登場するヒールである、ブライアン・ホーク。
即、命のやり取りになるニューヨークのスラム街でストリートファイトに明け暮れ、その類い稀な才能だけで、WBC世界J・ミドル級チャンピオンになった男。
その来歴のとおり「負けられない」世界のおきてで生きてきた彼の言葉は、日本で働くあらゆるひとに染み込んでいる、ある事実を示している。
何があろうと どんな手使おうと 最後の最後立ってるヤツがーーーー
強えんだよっ!!
いいよ やらなきゃいけないコトはわかってるよ
オレが今まで何をしても何を言っても それが通った 誰もが黙った
何故だ!? 負けたコトがないからさ! チャンピオンだからさ!!
負ければオレの言うコトなんざ 誰一人 耳を傾けやしねぇ
みんながソッポ向いちまう
嫌だ・・・・嫌だ 嫌だ 嫌だ!!
出典:『はじめの一歩』(44巻) (講談社コミックス)より引用
この日本社会は、失敗することに対して不寛容である。
他人に負け競争から脱落することは、死を意味するとみんなが『思い込み』、上記のブライアン・ホークのように内心恐怖におびえながら暮らしている。
だから、失敗した人をみると、舌なめずりをする。
「こいつは自分より下だ」と思える人物の登場は、相対的に自分の評価を上げることができる格好の材料だ。『美味しい相手』だ。
アルコールで失敗するような「負け犬」は、上手におだてて飲ませておいて、その人のぐちゃぐちゃになっていく人生を見ている間だけは「オレはこいつよりはマシだ」とホッとすることができる。パワーゲームの勝者の立ち位置でいられる。そうでなくては安心できないから、イネイブリングして飲むことを可能にする必要がある。だってその人が立ち直ってしまったら、下にみる人がいなくなってしまうから。
ダメな他人の人生にあれこれ口出ししている限りにおいては、自分が勝ち負けで比較される人生の苦しさを少しだけ忘れることができる。そう錯覚している。
あるいは、ダメなひとを形上は『救う』役割を買って出ている。なぜかといえば、そうすれば自分のダメな部分が許される気がするから。自分の至らなさ・失敗・敗北感。似たものをもつもっとダメなやつを見つけてきて、そいつを許してやれば、自分の醜さもなかったことにすることができる。そんなような気になっているのではないか。そういう偽りの安らぎを得るために、他人の問題を『なかったことにする』ことに一生懸命になっている。
そうやって目を逸らし続けているのだ。
誰もかれもが、そうやって自分にみて見ぬふりをして生きている。
だからいつまでもイネイブリングをやめられない。
苦しみはいつまでも根本的に解決されずにとどまり続ける。
まとめ:イネイブリングしても、恐れを「なかったこと」にはできない
我々が、共通してなかったことにしたいのは、「恐れ」である。
失敗できない恐れ。
負けられない恐れ。
ダメだと思われたくない。
死にたくない。
そういう「恐れ」は、目を背ければ背けるほど、背後で大きく肥大していく。
黒く重くのしかかるそれは、見ない振りができないほど肥大化して、いずれ自分に返ってくる。
他人をだしにつかって誤魔化している場合ではない。私たちは、向き合わなくてはならない。自分の人生に、自分の真の課題に。
それが大事なことだ。
気づいた今、我々がやるべきは、他人の人生にちょっかいを出すのをやめ、「突き放す」のではなく「手放す」ことに努めることだ、と思う。