先日、妹から、こんなLINEがきました。
お兄ちゃん久しぶり😆
毎日おつかれさま💓
昨日と今日で、○○(祖父が住んでいる地名)のおじいちゃんが入院してる病院に行ってきたよ―🏥
おじいちゃん不安そうにしてるし、前よりかなり痩せてて悲しくなったけど、治したいって頑張ってた💦
会えて喜んでくれたので行ってよかったかな…わたし気の利いたことも言えなくてただ普段通り過ごして帰ってきちゃったんけどね😢
お父さんもつらそうだった⤵️
お兄ちゃん仕事と家庭があってなかなか会いに行けないかもしれないと思うから、どんな様子か伝えとこうかと思って連絡してみました💦
おじいちゃんが呼吸も楽にできてちゃんと会話できるうちに、1回くらい会えたらいいね🙏
長くなっちゃってごめんね🙇💦
お兄ちゃんも、体に気をつけてお過ごしください😌
○○さんによろしく😉👋💓
このLINEを見て、戦慄しました。
このLINEの文章には、私が生まれ育った機能不全家族の陰が色濃く反映されています。
今日はそのことについて考えてみたいと思います。
LINEが送られてきた背景
父方の祖父が末期のがんだとわかったのは、今年に入ってからだそうです。
父と母から聞きました。そして、おそらく年内には葬式になる可能性が高いので、仕事で忙しいかもしれないが、急遽危篤の連絡があることを覚悟しておいてほしい、と言われました。
それを聞いたとき、私の感想は「まあ、もう年だしな」というようなものでした。
「わかった」と返事をしました。
その際、父と母は以下のようなコメントを残しています。
「おじいちゃんも○○ちゃん(孫)に会いたいだろうなぁ」
「私たちはこの2月の連休におじいちゃんに会いに行く予定なのよ?」
「いつまで会えるかわからない状態よね」
この発言が暗に意味するところは、以下の通りです。
『死ぬ前に孫を見せにもいかないのか』
『2月、私たちがみんなで行くときに来るのが筋じゃないの?』
『期限が迫っているのだから、他に優先するべきことなど無いはずだ』
つまり、『お前は祖父に会いに行くべきだ』という自分たちの意志に息子夫婦を従わせたい、というコントロール欲求の投げかけです。
私の両親たちはこういう、自分はそうしろとは言葉の上では言っていないけれど、そうせざるを得ない状況に追い込むのが得意です。
というか、それをコントロールだと自覚できたことがないし、それによって子供たちが選択権を奪われ、自己肯定感を削られているとは露ほども想像が至っていません。
『ジョジョの奇妙な冒険』第6部(ストーンオーシャン)のラスボス、エンリコ・プッチのような、最もドス黒い『悪』です。
ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャンに登場するキャラクター、ウェザー・リポートが、そのラスボスであるエンリコ・プッチを指して言った、
「お前は 自分が『悪』だと気づいていない… もっともドス黒い『悪』だ」
という台詞があります。
プッチは、自らの行動で人々を幸福に導くことができると確信しており、その目的の達成のためには他人を犠牲にすることも殺人すらも一切躊躇わず、その行いは目的のための全て正しい事であると信じて疑いませんでした。
まさに自分が悪だと気づいていないため、自分が行っている一連の行動に罪悪感を一切伴わないのです。
その無自覚さが、どれほど子供の判断力を奪い、人生を奪ってきたのか、その功罪を全く理解していないのです。
だから、いまだにこのような遠回しな手法を用いて、他人をコントロールしようとする人たちなのです。
もはや絶望的です。これはもう、死ぬまでわからないでしょう。
私は親に関しては、すでに諦めつつあります。
妹のLINEに感じる世代連鎖
さて、そのような背景を踏まえて、先ほどの妹のLINEをもう一度確認してみましょう。
お兄ちゃん久しぶり😆
毎日おつかれさま💓
ここで、相手をねぎらう姿勢を見せて、『私はあなたが忙しいことをわかっているよ』と一見歩み寄るようなアイスブレークを試みています。
昨日と今日で、○○(祖父が住んでいる地名)のおじいちゃんが入院してる病院に行ってきたよ―🏥
おじいちゃん不安そうにしてるし、前よりかなり痩せてて悲しくなったけど、治したいって頑張ってた💦
会えて喜んでくれたので行ってよかったかな…わたし気の利いたことも言えなくてただ普段通り過ごして帰ってきちゃったんけどね😢
ここで、私は祖父に会いに行ってきたこと、喜んでくれたことを報告という形で切り出します。気の利いたことも言えなくてただ普段通りに過ごすだけでいい、むしろ『それすらお前はまだやっていないんだぞ』という圧力を、ここで相手にかけたい意図が垣間見えます。
お父さんもつらそうだった⤵️
お兄ちゃん仕事と家庭があってなかなか会いに行けないかもしれないと思うから、どんな様子か伝えとこうかと思って連絡してみました💦
おじいちゃんが呼吸も楽にできてちゃんと会話できるうちに、1回くらい会えたらいいね🙏
父を出し、『父にも不義理をしているんだぞ』という圧をプラスします。
報告という形をとっているとアピールすることで、『このLINEは、あくまで報告であり、行けということではないが、こんな状態だと知っていて行かない選択肢はないよね?』と直接言葉にせず相手に行動を促そうとしています。
そして『その行動を選択するにしても、残り時間が少ないんだぞ』ということが言いたくて、呼吸も楽にできてちゃんと会話できるうちに、という哀れっぽい病状に関する表現を用いています。
長くなっちゃってごめんね🙇💦
お兄ちゃんも、体に気をつけてお過ごしください😌
○○さんによろしく😉👋💓
最後に、ねぎらうふりをして、自分の過失に関わることは予防線を張って謝罪の言葉を一応〆に使います。
いかがでしょうか?
父や母と全く同じように、コントロールと気づかず自分の欲求を他人に押し付けていることがよくわかりますね。
バウンダリー(境界線)を他人と自分の間に引くことができなかった妹は、父と母にやられてきたことしか経験していないので、それが最も嫌だったはずなのに、その方法しかとることができないでいるのでしょう。
そして、それが自分の首を絞めていて、生きづらさの原因になっているとは、思いもよらないのでしょう。
他ならぬ私が、ACという概念や12のステップに出会うまで、そうだったから。
機能不全家族が唯一のモデルケースになるという『呪い』
これは、非常に不幸なことに、『それ(両親)しか見本がいなかったから』ということに起因しています。
両親がやってきたことは、暴力にしろ、共依存にしろ、コントロールにしろ、それが不健全なものであったとしても、子供は手本にしてしまいます。
虐待について話をしていて聞いた話ですが、幼少期に身体的虐待を受けていると、暴力については一種の慣れが生まれてしまって、虐待を受けたことがない人にとっては許容できないようなハラスメントを許容してしまうようになるそうです。
その人にとっての許容値を、親の行動や言動が規定する、という法則があるように感じます。
それは、自分が生まれ育った家族が、たとえ機能不全家族であったとしても、それを『家族』としての在り方として見続けてきたからです。
小さい頃は、それが不健全だとは気づけもしないので、『家族とはこういうものなのだ』『愛している人は、こういうことをするものなのだ』というふうに、子供は親を肯定しようとします。
そうやって『私はこの人たちに愛されている』と思いたいから親にされた嫌だったことにふたをして肯定して続けてきた結果、不当な扱いについても、相手に事情があるのだからと許容しようとしがちです。
まとめ:私は私の気持ちに従って生きていきたい
結局、それは親の気持ちや他人の気持ちを、優先しています。
それは優しいことなのでしょうか?本当に優しいことでしょうか?
そして、正しいと言えるでしょうか?
最も誠実で実直なのは、『自分がそうしたいから』という理由に基づいて行動することではないでしょうか。
自分の気持ちに従って生きている限り、その結果がどうであったとしても、これは自分が一生懸命考えて選択したことだと胸を張って堂々と責任を負うことができます。
そうでなくては、本当に自分の行動に責任を持つことなどできないし、間違った時に心から謝ることも、成功した時に心から喜ぶこともできないのではないでしょうか。
それが、自分の人生を生きる、ということだと思います。
私は、ちゃんと自分を生きていきたい。
だから、これからもちゃんと考え、生き方を見つめていきたいと思っています。
コメント
管理人さんはじめまして。
たまたまこの記事を読んだのでコメントさせていただきます。
もしかしたらこれまでの記事に書かれていたのかもしれませんが、逆にあなたがお見舞いにいかない理由はなんなのでしょうか? 不仲であるとか恨みがあるならば確かにお見舞いにいく理由はないと思います。ただ、初見の私はその辺りの事情がわからないのでなぜお見舞いにいかないのだろうかと不思議に思いました。
ご両親や妹さんはお見舞いに来いという気持ちをオブラートに包んだ結果、誘導するようなメールをしてきているのではないでしょうか?これまでの人生を誘導してきた闇と、今回のケースは別物と考えるべきではありませんか?
私も自分の行動は良いことも悪いことも自己責任であるべきで、自己中と言われるかもしれないけれどそんな生き方をしていきたいと思っています。
今回のあなたはおじいさんに対して何らかの負の感情がありお見舞いにいきたくないと思うから行かないのですか? 誘導されるのが嫌だから行かないのですか? もし後者なら闇を恐れるあまり、あなたの意思が通せていないように思います。
事情もわからないのに長々と失礼しました。後悔することのないようなご自身の意思に基づいた選択をされることを願っています。
管理人さん、おせっかいやきさん
はじめまして。
私もたまたまこちらの記事を読ませていただきました。こういった記事にコメント入れることは今までほとんどしたことありませんが、おせっかいやきさんのような考えの方が大勢いらっしゃると思い、珍しくコメントすることにしました。
管理人さんが今これだけの文章を(私には)わかりやすく書かれるようになるまでに、どれだけたくさんのおせっかいやきさんの言葉を聞いたり迷ったり悩んだりされただろうと想像します。世の中の99%の方はおそらくおせっかいやきさんと同じように感じると思うので、理解できなくても無理はないです。
私は介護施設で働いています。人生の最後の期間を過ごされる方とその家族に関わりお別れしています。かなりのご高齢の方だとお子さんが先に亡くなられていたり、様々な事情で家族と会えない方、入れ替わり立ち替わり家族が面会に来られる方など、皆さん状況はいろいろです。
「面会に来る家族がいる方は幸せ」というのは本当でしょうか?
私はその方の気持ちはわかりませんが、どなたもいらっしゃらなくても今日も生きている方が不幸とは思いません。
管理人さんのこの記事を読んで「ありがとう」と感じた方が私も含めて少数かもしれませんが必ずいるはずです。そして自身の意思に基づいた行動は99%の方の理解を得られなくても、おせっかいやきさんが心配なさるような後悔をもたらすことはないはずです。
ありがとうございます。ご理解いただけて嬉しいです。