『日日是好日』という映画をご存知ですか?
私は最近この映画を観ました。すごくいい映画でした。
この映画を観て感じたことを今日はまとめてみたいと思います。
(まとまりませんでしたが。笑)
映画『日日是好日』とは?
https://www.nichinichimovie.jp/ ←公式HP
『日日是好日』(にちにちこれこうじつ)は、エッセイスト・森下典子による自伝エッセイ『日日是好日-「お茶」が教えてくれた15のしあわせ-』を原作とした、2018年10月13日公開の日本の映画作品。
あらすじ
大学生の典子(黒木華)は、突然母親から茶道を勧められる。戸惑いながらも従姉・美智子(多部未華子)とともに、タダモノではないという噂の茶道の先生・武田のおばさん(樹木希林)の指導を受けることになる。
大学を卒業しても、いまだに就職もせずに30代に突入した典子は、大学を卒業して茶道をやめ、すぐに就職をし、お見合いをするために退職し、婚約をして子どもも生まれた美智子との間に遠い距離を感じていた。
そんな中、10年間辞めずに続けてきた茶道でさまざまな後輩との出会いを通して大切なことをたくさん学んだ典子はやっと出版社に面接をしに行くことになった。だがそれもダメで、ずっと付き合っていた彼氏とも別れても落ち込んでいた中、父親の死を知り、武田のおばさんと泣いた。
それから典子は立ち直りもう一度全てやり直そうと決意する。
「すぐわかるもの」と「すぐわからないもの」
私たちは、すぐわかるものに目を奪われがちだ。
仕事、結婚、出産、子育て。
人生のイベントで他人より優れた結果を出し、「勝ち組」と言われるために、本当の自分すら見失って、「人に羨ましがられる」ために虚勢をはる。
それは果たして、本当に望んだことだっただろうか。
主人公の典子と、従姉妹の美智子は、同じように茶道をはじめるが、徐々に暗明が分かれていく。
典子は、真面目な性格で理屈っぽく、おっちょこちょい。一生をかけるような何かを見つけたい、と就職では最もやりたかった出版社で就職活動するも就職できず、中途入社の試験もうまくいかない。結婚しようとしている彼氏には挙式直前に裏切られ、人生のイベントに乗り遅れていく。
美智子は、竹を割ったような性格、と称される利発さで要領よく世の中を渡っていくタイプ。就職活動では貿易商社に就職。働いて、女性としてのキャリアの限界を感じて退社し、医者とお見合い結婚。子供をもうけて、絵に描いたような人生のイベントでの成功を収め、どんどん典子を置いて先に行ってしまう。
この焦りは、私にも覚えがある。
周囲の皆がどんどん先に行く。
私はひとり取り残されていく。
焦り・苛立ち・不安。
「なぜどんなに頑張っても私は幸せになれないのだろう」
「どうして私ばかりうまくいかないのだろう」
そう思った経験は、誰しもあるのではないだろうか?
「すぐわかるもの」というのは、とてもわかりやすいし、比較しやすい。だから、とても価値がある、と思い込みやすい。
特に、数字がそうだ。
フォローワー数・いいねの数・偏差値・高級品・年収など、人と比べる数字で計れるもので「幸せ」に通ずるものだとされている、すぐわかるものたち。
頭でばかり考えて、あるいは何も考えず、自分が感じる幸せではなく、わかりやすいものを追いかけていると、とても焦る。
焦って他人を押し退けて手に入れて、振り返ってみると、実は本来目指していたところとは全く別の場所にいて、愕然とする。
実は、これは私が欲しいものではなかった、ということに、手に入れて初めて気づく。
では、本当にほしいものは、なんだったのか?
それは、「すぐにはわからないもの」だから、私たちはそれを頭で考えるのではなく、全身で感じなくてはわからないし、時間という誰にも平等なものをかけなくては、見えてこないものなのかもしれない。
つまり、「他人との比較などではかれるような安っぽいシロモノではない」、ということはどうやら確からしい。
私は例に漏れず、「すぐわかるもの」を追いかけてきた。
それは、追いかけさせられた、と言ってもいい。
なぜなら、「すぐわかるもの」が幸せだと信じる愚かな両親に育てられ、その価値観を信じて生きてきたからだ。
私はわけもわからぬまま、県内の順位や偏差値や年収に踊らされて学生生活を過ごし、何も重要なことを学ばないまま、社会に出てきて、打ちのめされた。
何が望みなのかわからなくなった。
絶望して、人生を徒労のように感じた。
こんなに苦しいなら、もういっそ終わりにしたいとさえ、思った。
「すぐわかるもの」は、私が欲しいものではなかった。
「今ここ」にこそ、幸せはある。
この世界には、勉強のように『正解』はない。
自分で考え、自分で選び、自分で責任を取る他ない。
正解などどこにもなく、誰も決めてはくれず、次々と起こる出来事の良し悪しすらよくわからないまま、どう選択するか、自分が決めるしかない。
成功も失敗もなく、人生という奇跡のようなチャンスを与えられた私たちは、それぞれにオーダーメイドな人生を、味わいつくすために、この世に生を受けたことを知る。
わかりやすい生まれた意味などない。
人生にわかりやすい価値などない。
毎日東から日が昇り、西に沈んでいく。
繰り返す四季のように、晴れの日もあれば雨の日もあり、私たちはどうしようもなく大きな力のうねりの中で、揉みくちゃにされて、なにもかも、どうすることもできない。
そして、天から見ればほんの瞬きをするあいだほどの短い生涯を閉じる。
作中に、私が大好きな一節がある。
五感を使って、全身で、その瞬間を味わう。
人生は振り返れば瞬きをするほど短く、他人と比較して一喜一憂するにはあまりに長い。
そんなもののように思う。
今、だけなのだ。
確実に何かを感じ、それを味わえるのは。
過去は変えられない。未来はわからない。
「今ここ」の、ど真ん中を繰り返し、繰り返し、真剣に生きていく。
茶道には馴染みがないが、映画でお稽古の様子をみていて、通ずるものがあるのだなと思った。
何かを極めようとするとき、基本動作を繰り返し繰り返しやりこむ以外に、それを魂に刻みつけることはできない。
気が遠くなるほど繰り返した鍛錬により、魂は磨かれていく。
無意識に体が動くほど深く魂に刻みつけられた所作のなかに、今がある喜びや心踊るような変化をみる。
それは、まさに魂が喜んでいる。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。
同じことの繰り返しのようで、一瞬たりとも同じ時がないように、私たちの人生もまた、ひとつとして同じではない。
ひとりひとり違うものでありながら、互いの気持ちを想像し、時に共に喜び、時には共に悲しみ、そんな魂の触れ合いがあるという奇跡。
ああ、なんとありがたいのだろう。
こんなに苦しくて憎くて恐ろしく、愛おしくて甘くて魅了されるものはない。
私たちがかけがえのない今を生きていると自覚すると、「生きる」という芸術は、その色や匂いを取り戻す。
今、見ている色や匂い。
今ここ、のリアリティ。
それこそが、幸せ、というものの具体的な形なのだと思う。
典子は、作中、どんどん美しくなっていくように感じた。
変えられないものと、「今ここ」の大切さを知れば知るほど、外から見たわかりやすいものではない輝きが、彼女を内側から光らせていく。
あきれるほどコントロールできないこの世界にいて、私たちは水のように自由でありながら、川の流れのように不自由である。
あらゆる外的要因に方向性を曲げられ、自由でありながら全く意図する方向にいくことはできない。
水は、他の水とどう違う、などと比べない。
世界の法則に従いながら、自らの形を柔軟に変化させ、川を下り、海に出る。
水は激しく打つこともできるし、緩やかに流れることもできる。
我々の体を構成する60〜65%は水である。胎児のときには、90%が水だったのである。
我々もまた、激しく打つことも、緩やかに流れることもできるはずだ。
その在り方は常に変化するが、私たちは基本的に変幻自在であり、自由で、同じでありながら比べる必要がないものだ。
そして、山で生まれ、海に還る川のように、あるべきところに還るまで、常に意図せず翻弄され続けて元々なのである。
受験に失敗したから、なんだというのだ。
就職に失敗したから、なんだというのだ。
結婚できないから、なんだというのだ。
子供が持てないから、なんだというのだ。
それは辛いことだ。しかし、変えられないことだ。
あなたの責任ではないし、長い目で見たら、本当はほしいものではなかったかもしれないし、本当に欲しいものだったかもしれない。
つまり、まだまだ今の時点では、わからないものだ。
「すぐにはわからないもの」だ。
だから、絶望するにはまだ早い。
私は30歳になる前に死にたいと思っていたけど、今34歳になって、よかったと思っている。
そのくらい、人生は「すぐにはわからないもの」のカテゴリであり、とても面白い、まだやめるには勿体無いものだ。
今、私はそう思えるようになった。
日日是好日(にちにちこれこうじつ)は、禅語のひとつ。もともとは、唐末の禅僧雲門文偃の言葉とされ、『雲門広録』巻中を出典とするが[1][2]、一般には『碧巌録』第六則に収められている公案として知られる[1][2][3][4][5][6]。日々是好日[3]、雲門日日是好日、雲門日々是好日[7]、雲門好日、雲門十五日[2]と表記されることもある。
「日日是好日」は、表面上の文字通りには「毎日毎日が素晴らしい」という意味である[1]。
そこから、毎日が良い日となるよう努めるべきだと述べているとする解釈や、さらに進んで、そもそも日々について良し悪しを考え一喜一憂することが誤りであり常に今この時が大切なのだ、あるいは、あるがままを良しとして受け入れるのだ、と述べているなどとする解釈がなされている[3][4][5][6]。