私は、世の中のほうが、基本的に狂っていると思う。
だから、発達傾向にある人や、精神疾患、ことに依存症になるような人を「普通」とは違う、異質な人間だとみなす。
しかし、本来は逆で、正常だからこの異常な世の中には馴染めなくて生きづらさを抱えるのだと思う。
正常か異常かの境界線は、実はとてもあいまいだ。
Is it just me, or is it getting crazier out there?
こんなの僕だけか? それとも世間が狂っているのか?
Comedy is sub, subjective, isn’t that what they say?
All of you, the system that knows so much, you decide what’s right or wrong.
What’s real or what’s made up.
The same way you decide what’s funny or not.お笑いなんて主観さ、そうだろ?
みんなだって、この社会だってそうだ、よく知ってるだろ、みんなは善悪を主観で決めてるんだ。
何が本当で何がでっち上げかは、笑えるか笑えないかと同じように、自分で決めればいいってことさ。
引用元:映画『JOKER』JOKERのセリフ
正常と異常の境界線など誰に引ける?ふとしたきっかけで入れ替わらないと、誰に言える?もうすぐ分かる。狂ってるのはきっとこの世界の方さ。引用元:映画『COWBOY BEBOP 天国の扉』ヴィンセントのセリフ
結局は「なんとなく」そう思っている人が多いことが、正義や正常として「なんとなく」
多数決で決まっている。
ということは、その数のバランスが逆に傾いたら、正誤は真逆になりえる。
正しいことなど存在しない。
あるのは、事実に対する解釈と損得である。
マスクを外せないことにしてもそう。
考えなしにサンタクロースを踏襲することにしてもそう。
なんとなく、特に自分の意見もなく、流されるままに物事を取り扱っている。その結果、どこかの誰かが苦しんで最悪命を落としたとしても。「普通の人たち」は意に介さない。その犠牲者が自分のすぐ隣で寝息を立てている愛する我が子だったとしても。「なんでこんなことに」と悲劇のヒロインのように嘆く。誰かの何かのせいにして被害者ヅラをするのだ。
これが喜劇でなくてなんなんだ、と思わないか?
鈍感さを持つ人にとって何の違和感もないこの世界を一つ一つちゃんとひも解いてみると、いかに歪かがよくわかるだろう。
と思うんだけど、大人たちにはなかなか同志が見つからない。
同じ神経発達症の子たちの世界観はとても近くて、同じ世界線を生きている感がある。
彼らは不当に「困った子」のように扱われている。
なぜなら、学校や社会など、今の「常識」に合致しない立ち居振る舞いを「普通の人」が受け容れられないので、現在の集団のなかでは浮いてしまいがちだからだ。
今の「正しい」にそぐわない。だから「異常」とみなされ、「欠陥」があると思い込まれる。
間違っていると断定される。
それはとんでもなく一方的な勘違いである。
むしろ、彼らは希望だ。
「そんなの納得できない、だから従わない」
と堂々と言えるのは、ちゃんと自分の感覚を信じているからだし、自分の頭で考えて結論を出しているから。それは最も重要な人生の姿勢である。
空気を読んで、周りの様子をオドオドビクビク怯えながら窺って、嫌われないように生きるよりはるかに健康的だ。
自分の好きがはっきりしているから、過集中するし、多動衝動で動ける。
むしろ今の「普通の人」はブレーキをかけて余計なことを考えるので、何をしたいのかよくわからなくなっているだけだ。
つまり、今の大多数を占めている人類の欠点を補う凸凹が、発達障害の特性であり、神経発達症の強みなのだ。
社会的な能力が足りていないのではない。逆だ。
複雑になった世界を生き抜くために特化された新しい姿であり、むしろ他人にない強みを搭載した進化系なのだと思う。
それをまだ社会が未熟だから受け容れられていないだけ。多数派が困るから長所と認めていないだけだと思う。
これからは貨幣経済社会ではなく、岡田斗司夫氏の提唱する評価経済社会に移行していくだろうと想像している。
貨幣経済社会はもう限界だ。
新自由主義とグローバリズムが人類に何をもたらすか、もうすでにこの「コロナ禍」という悲劇的な喜劇が明らかにしている。
損得による殺人と分断と混乱と腐敗である。
昨今のメガファーマにみられるような利益至上主義により、多くの犠牲を厭わない非人道的行為が実現してしまった。遠くないうちに、大企業の社会的信頼は失墜するだろう。残念ながら富豪たちの目論見通りにこの世は動かせない。現在のこの茶番は、彼らが「他人はコントロールできない」という無力を知り認めるための道程に過ぎない。
もう先が無い。お金の時代は終わる。多くの犠牲を払って。
◎評価経済社会
「評価」が通貨のような意味合いで社会に流通する状態のことを言います。
貨幣経済以前は、不動産を借りる時に知り合いだから貸してもらえるような縁故社会でした。その後、貨幣経済になりお金を出せばそれなりの部屋に住めるようになった。お金を持っていれば、オールマイティに強かったんです。
ですが、これから評価経済が浸透してくると、部屋を汚したりゴミをちゃんと出さなかったりする人には誰も部屋を貸してくれなくなります。すると家賃はスライドして、いやな家主の賃貸物件は家賃が下がるし、ルーズな住人の家賃は上がっていきます。これらの評価が透明化されてオープンに流通しているのが、評価経済の第一段階です。
縁故社会が貨幣経済においても残ったのと同じように、評価経済社会になっても貨幣経済はそのまま残ります。評価経済が貨幣経済の上に乗っかるだけです。
お金で評価は買えないけれども、評価があればお金はいらなくなるという優越関係ははっきりします。
貨幣経済社会でもお金さえもっていればいいというわけではないように、評価経済でも紙幣が淘汰されるわけではありません。
引用元:https://canary.lounge.dmm.com/17241/
岡田斗司夫氏は、上のように述べている。
私自身は、評価が貨幣のように流通可能な一定の基準を持つとは思っていない。
なぜなら、評価は「人による」からだ。
共通言語となるのは、評価というより繋がり。お金・損得によらない繋がり。真の信頼関係とでもいうべきか。
結局は「こいつになら弱っているとき背中を預けてもいい」と思えるかどうか。そういう個人としての人と人との繋がりの原点に、この社会も回帰していくと思っている。
お金や評価に振り回されてボロボロになりがちな依存症当事者が、回復するにしたがって「仲間」や「繋がり」のありがたさに気づく。そのお金では買えない価値に目覚めて豊さを取り戻していく光景を見てきた。
おそらく失望で底付きした社会にも、同じことが起こるに違いない。人は、損得で生きていけないからだ。独りでは生きていけない生き物だからだ。
というわけで。お金さえあれば、学歴さえあれば、社会的地位さえあれば、勝ち組として幸せに生きていけると思われてきたこの社会は、残念ながら近い将来終わる。
大学を出ても、いい会社に就職しても、いくら資産を持っていても、明日どうなるかわからない世の中になる。
そうなったとき、自分の頭で考えて、独自の世界観で突き進んでいける神経発達症の子たちは、実に頼もしく力強い。
今は不遇な扱いをされているが、私はこのような希望にあふれた子どもたちを支援していきたい。この社会の構造とくだらなさとやり過ごし方は、いろいろ経験してわかっている。それを教えて、社会に潰されないように守りたい。彼らはもっと他の圧力に曲げられたりしないで、その特性をいかんなく発揮して自由に生きるべきだ。それを応援したい。
社会福祉士になって、依存症啓発で児童福祉施設で活動して、そんな夢を抱くようになった。
人生とは、わからないものだ。
ついこの間まで、早く死にたかった。それがこうなるんだから、みんなまだまだどうなってもおかしくない。いい意味で。
まだまだ世界は希望にあふれている。