【AC】他人が嫌いだという話(ACと反応性愛着障害)

私は人間のくせに、人間が嫌いだ。

とにかく近くに人間がいると落ち着かない。気になる。

人がいる安心感?冗談ではない。警戒感しかない。

ソーシャルディスタンスの2mくらい離れていないと、不安で仕方がない。

だから人混みを歩くことは、サメが泳いでいる海を裸で泳いで渡っているような心地だ。

ジムや温泉に人が片手以上の人数いると、思わず「チッ」と舌打ちをしてしまう。

レクリエーションをしにきたのに、これじゃあ気が休まらないじゃないか、と思う。

いつか家にジムとサウナを導入したい。誰にも邪魔されない安心できる環境で楽しめる日を夢見ている。

人混みにいると落ち着くとかいう感覚が本当に信じられない。

他人とゲームしたり、何かをやったりするのが楽しい感覚も信じられない。

できれば、独りでいたい。

そんな人はいないだろうか。多分いると思う。

反応性愛着障害(RAD)

私は個人的には、愛着障害って基本的にアダルトチルドレンの医学的分類だと思っている。

DSM-5では、「トラウマとストレス関連障害」のなかに「反応性愛着障害(以下、RAD)」がある。

養育者との愛着(きずな)がうまく形成されないことによる障害で、深刻な虐待/ネグレクトがその背景にあるとされている。

アダルトチルドレンは、機能不全のある家庭システムに育ち、幼少期に不健全な人間関係を構築するパターンを学んでしまったために、そのパターンの制約に成人してからも苦しんでいる人々のこと。

こうやって並べてみてみると、虐待やネグレクトがどうこうという限定された背景というよりは、本質的に「家庭の何らかの機能不全により、他者との交流に困りごと(障害)を抱えている」という点が、全く同じということがわかる。

RADは一言でいうと「人が(怖い・嫌)。だから人を求めない」という状態である。

とても共感する。

物心がつく幼稚園くらいには「親は正しいことをしないと味方をしてくれない」と思って半ばあきらめていたし、特に笑うこともなかった。子どもも大人も含めて他人と関わることを避けはじめていた。

私の幼少期は、殴る蹴るのない虐待みたいなものだったのかもしれないが、それは外から見てもよくわからない精神的なものだったのだろう。

「人」と「人間」

そんなわけで、常にATフィールド全開の私だが、信頼できると思う人には心を開くこともある。

私にとって「人」と「人間」にはものすごい開きがある。

その辺に生きているのが「人間」という動物。

信頼できる人生に深く関わるのが「人」である。

「人間」は正直生きようが死のうがどうでもいい。

むしろうっとおしいので、ちょっとでも数が減ってくれたほうが助かる。

私も分類学上は同じ人間なので偉そうなことは言えないが、醜く学ばず傲慢で強欲で残酷で、基本的にろくでもない生物だと思っているので、死んだほうが地球のためにはなると思う。

でも、人間として生を受けた以上、人間として生きていくしかない。

人間という生物の枠のなかでみなそれぞれ思い思いに生きて、みな勝手に生きて勝手に死んでいくのである。

そんなことを言うと「他の人と自分も同じなんだから。自分が死んだほうがいいと言われたら嫌でしょ?」とか言われる。

ずっとそういう「死んでいても生きていてもどっちでもいい」という扱いだと思っていたし自分自身もそう思って生きてきたから、逆に言えば「他の人と自分が同じ」という論理なら、そう思われるのが自然ということで解釈一致なのでは?という感じである。

それに、他人は、私がされて嫌なことを、私にさんざん腐るほどしてきたではないか。「他人が嫌がることはしない」などというご高説を垂れられても。どの口が言うのか。全然ピンとこない。

クリック一つで簡単に人を殺すし、金のためならどんな汚いことでもするし他人を踏みつけていくくせに、よくそんなおべんちゃらが言えるよなあ、と思う。

基本的に私は、人間であることがいいことだとは思えない。

犬や猫や昆虫や草木のほうが、生を謳歌していると思う。真っすぐに今を生きている。そういう真摯な生命には、頭が下がる。

無駄がない。余計な不純物を抱えていない。洗練されている。生き様に覚悟と凛々しさがある。

できるだけ人間ではなくそういう別の生命に触れて、人間社会ではなく、自然界の大切な真理を学ぶこと。それが大事だと思う。人間社会は腐っているので、触れ続けていると魂が腐る。『風の谷のナウシカ』でいうところの腐海のようなもの。適度に抜け出して息継ぎをしないとやっていられないのは当たり前だ。

他人との関わりは食事のようなもの

とはいえ、他人との関わりなしに人間は生きていけない。

だから私は人間から人に自身を昇華して、人と繋がるしかない。

食事に似ている。

摂らなくては生きていけない。

でも、毎度毎度、胃が痙攣するようなゾッとする味の食事をするのはただの拷問だ。

こんな日々なら死んだほうがマシだ、と何度思ったことだろう。

無いと生きていけないから、と不安で焦って詰め込んでも、醜く肥え太るだけである。生命としての磨き抜かれた姿とは程遠くなる。いずれ死を選ぶことになる。

ちゃんと食べようとしているものを見て、選ぶ。

自分に必要で大切なものを、必要な分だけ頂く。

人付き合いも、それでいい。

全員と仲良くする必要はない。どことも知れない他人が活きようが死のうがどうでもいい、というのは、自然なことだ。建前上、聞こえがよくないから皆言わないだけで、本心はそうだ。

この目に映る「人間」はごく一部と知りながら、そのなかで信頼で繋がることができる「人」を見出して、その人たちと共生できればいい。それが「仲間」である。

必要な量は個体により異なる。

私は必要最低限でいい。そんなに他人に興味が無い。たくさん食べてしまうと食傷気味になる。お腹いっぱいだからもう見たくもない。

たくさん必要な人は、仲間をたくさん作ればいい。「たくさん友達がいるほうが幸せでしょう?」と自分の感覚を押し付けるのは、もうお腹いっぱいですと言っている相手の口に無理やり飯を押し込むのと同じだ。やめていただきたい。もはや当事者にとってはただの拷問である。映画『Se7en』を思い出す。

なんかすごくまとまりがないけど、漠然とこの感覚を可視化したくて文章にしてみた。

人間が嫌いな人間がいてもいいじゃないか、と思う。

人間は「やれ疾患だ」「やれ障害だ」「やれ回復してないからだ」とレッテルを貼って他者を欠陥品扱いするのが好きだが、それは「その人の認識の範囲」から当該の人物のパーソナリティが収まらないから、何かレッテルを貼らないと不安なだけではないか。

理解を超えたものがあると不安だから、自分の下に位置付けるために、欠けていると考えたいだけではないか。

そういう処理はご自身で勝手にやるのがよい。

勝手にこっちにレッテルを貼りに来ないでほしい。うっとおしい。

そんなにペタペタ他人に何かを貼ったりしている暇があったら、自分を見つめ直して、生きたい人生を生きたらいいのに、と思う。

私はとても理解しがたいと思いながらも放っておいているのだ。そっちもそのようにしてほしい。

いや、それこそ余計なお世話か。

私は、私の人生を、他人にこれ以上邪魔されずに楽しみたい。

ただそれだけだが、それがなかなか叶わない。

ままならないものだ。

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