社会は、腐ってる。
私は、基本的に救いようがないと思う。
それは社会の仕組みがそうだからで、誰かが特別悪くて何かを捻じ曲げているからではない。
鉄の檻の内側はディストピア
資本主義経済社会で、行政官僚制の組織を構築して、今人々は生きている。
その仕組みの内側、すなわち「鉄の檻」の内側である以上、人は入れ替え可能な部品として扱われるし、経済的価値に換算される冷たい世界で生きることを余儀なくされる。
そういうシステムだからだ。
もちろん、悪い。
政府も悪いし、企業も悪い。しかしそれを言い出したら、この社会に寄生して生きている私たちは全員悪い。
この社会を否定するなら、山に引きこもって自給自足で文明と切り離された仙人みたいな生活をしなくてはならなくなる。
それは現実的ではない。
すなわち、私たちは「鉄の檻」の内側の世界の人格を持ち続けなくてはならない。
それがどれだけクソのような世界でも。
そのクソっぷりを少しでもマシにするために、社会啓発があるのだろうか?
いや、そんな活動はいつまで続けてもしかたがない。最終的に己が病むだけだ。
そもそも、他人に影響しようというのは、善意を通り越して過干渉なのではないだろうか?
他人のために、という嘘
自分のためだ。
社会啓発であれ何であれ、全ての行動は全部、自分がやりたいからやることだ。
「誰それのために」という言葉には虫唾が走る。
自分の動機を他人になすりつける卑怯さを感じる。
善行をするのは、そういう自分が好きになれるからだ。
喜ぶ顔をみると、自分の存在を肯定された気がするからだ。
見返りを求めて行う人助けは、善行ではない。感謝の略奪である。
結局、無理をすれば誰もが破綻する。
滅私奉公、自己犠牲はしばしば美徳として語られるが、実際はオブラートに上手に包んだだけの「共依存」でしかない。
自分で決定し、自分の人生を自分のために生きることを放棄する、無責任な行いだ。
つまり、自分の人生を丸投げしてるだけ。
では私たちができる社会啓発(STEP12)とは何なのか?
個人としての気の持ちようにアクセスするくらいしかないのではないだろうか?と私は最近しみじみと思う。
人は、与えられる範囲でしか、施すことができない。
他人に施すには、自分のこと以外に関心を持ちエネルギーを注ぐ「余裕」が必要だ。
「余裕」を持つためにはまず、誰よりも自分が健康である必要がある。健康でない者は自分のことで精いっぱいだからだ。
だから、自分の健康をまず整えることが、まわりまわって他人にとっても一番優しい行動なのだ。自分を差し置いて他人を優先することでは絶対に無い。
だからこそ、まずは、自分自身の回復を謙虚に目指すことが重要なのだ。
回復を目指すうち、無理なくやれることが増えていく。そうして少しずつ、還元できることを増やしていく。それが自然な姿だと思う。
荒野を歩く身であっても健全に生きていけるのは、「鉄の檻」の外側に仲間を持つことができるからだ。
私たちは外側に健全な繋がりを持たなかったから破綻した。
繋がりが持てなかったのは、方法がわからなかったからだ。
そして内側にしか価値が無いと思い込んできたからだ。
アサーティブ。
自助グループ。
12ステップ・プログラム。
それらの道具を学びながら、私たちアディクトは「鉄の檻」の外側で、自分と大切な人との信頼関係を守り育てる方法を後天的に身に着けていく。
内側ではなく、外側にこそ価値があるということに気づく。
そのためにまず第一に考えるべきは、己の心身を健康に保つことだ。
そのために時間と労力を怠らない。
そうしてはじめて、「鉄の檻」の内側、つまり社会という荒野を生き抜くことができる。内側への囚われから解放されて、穏やかな世界を持つことができる。
つまり、檻の内側を変えることではなくて、外側を創り出すことが、社会啓発の最も重要な役割だと思うのである。
私ができる事をしていきたいと思う。