【共依存】コントロールを手放せない私たち

最近困っていることがある。

会社や仕事に対して、違和感がぬぐえなくなってきた。

それが何なのか、書きながら考察してみたい。

コントロールが当たり前の資本主義経済社会の狂気

アサーティブコミュニケーションや12ステップ・プログラムを学んでいる。

これらの根幹は、自分と同じように相手を尊重するという考え方で構築されている。

相手をコントロールしようとせず、相手が自己決定した方向性や決断を尊重して委ねる。

私は最もこのような姿勢で他人から接してほしいし、私自身他人と接していきたいと思うようになった。

そしてそれは、今この資本主義社会で企業が展開するマーケティング戦略とは、ベクトルがまったく正反対のアプローチだ、ということに気づいてきた。

企業が経済的に成長するためには、マーケティング戦略は重要なファクターである。資本主義的な考え方としては文句なしの正義である。

「何を誰にどう売れば、最も多く売ることができるのか?」

これはとても重要な考え方で、私は今まで売上を最大化できるはずのこの法則を理解して自由自在に操れることが、この世界で絶対的に正しいことだと思ってきた。

しかし「お金を稼ぐ」という点において重要なことであるだけで、『生きる上で最も重要なこと』ではなかった、ということに気づいた。

そして、他人に介在する時点で、「変えられないもの」であり、コントロールが不可能なものをコントロールしようとする根本的に矛盾した考え方だということがわかってしまった。

本人の意思決定を不自然に捻じ曲げることを目的とした行動戦略、それがマーケティング戦略なのだ。つまりここからして、土台無理なことをしようとしているのである。

そもそも、相手の欲求を誘導してそこまで要らないものを買わせようとすることは、イネイブリングに他ならない。そして、顧客だけでなく社員をイネイブリングして、コントロールしようとするのが企業の鉄板だ。

例えば社員教育だ。与える情報を制限し、繰り返し特定のメッセージを刷り込んで洗脳し、会社にとって最も都合がいい動きをしてくれるようにコントロールしようとして行われるのが社員教育だ。

国が行う義務教育と全く同じ考え方である。何も考えず先生が言うことを聞く奴隷を量産するための教育。哀しいかな、それがこの日本で行われる教育のスタンダードになっている。教育者である私の父と母が、それはもう立派なイネイブラーだったことからも確定的に明らかである。(笑)

我々は、そういう「コントロール」を目的とした接し方に、幼少期からどっぷり漬かって生きている。もはや社会が人々をイネイブリングするうねりを創っている。

恐ろしいのは、多くの人がそのことに無自覚であるということだ。

自分ですべて選択したような気持ちで生きている。しかし、その実様々なものにコントロールされて、行動を捻じ曲げられて、考え方や思想すら、誰かに操作されている。

我々は見えないところからあらゆるひとにイネイブリングされコントロールされて育ってきた。だから自分も他人を「コントロールできる」と信じられる。信じてしまう。

だから「コントロールすること」に違和感を抱けないのだ。

みんな、こんな気持ちを抱えてはいないだろうか。

何となく満足できなかったり、自分でやったはずなのに、どこか喜びも悲しみも乏しくて、行動から確かな実感が何も得られない。

世の中は何となく不幸で、満たされない人であふれかえっている。それは、コントロールを手放せていないからだ。

自分の認知の歪みの根本に気づけないまま、見て見ぬふりをするために何か他のものや他の人に過干渉して、コントロールし返すことで留飲を下げようとしているのだ。

コントロールに対する認知の歪みの悪循環。

これこそが、この世界の「狂気」の正体である。

否認を認めてコントロールの連鎖から抜け出すこと

この狂気の連鎖から抜け出し、自分の人生を生きるためには、どうするべきなのだろうか。

それは、ひとつだけだ。

「コントロールを手放す」ことである。

・仕事で結果を出さなくてはいけない

・社会的に認められなくてはならない

・うまく部下をコントロールしなくてはならない

・子供を一人前に育てなくてはならない

・子供が一流の人間になれるように育てなければならない

これらの「~でなければならない」は、資本主義経済的には必要だと教えられ、実際にすこしは必要なのかもしれない。

しかし本当は、根本的には必要ない。実はこれらは『やらなくてもよいこと』に該当するのだ。

そんなわけないだろう?生きていかなくてはいけないし、お金を稼がなくては食べていけないんだから?!家族だって養わなくてはならないんだ!!だから私は我慢してがんばらなきゃいけないんだ!!

そういう声が聞こえてくるが、はたしてそれは本当にそうだろうか。

確かにこの資本主義経済社会では、社会生活を営むために貨幣が必要である。

特に、子どもを進学させたり食べさせたり、何より自分が食っていくためには、一定程度のお金が必要だ。

自分の限界以上にやりたくもない仕事に就いて働いて「我慢して頑張らなきゃいけない」なら、逆に考えてみるとしよう。

それらは、そもそも『やりたくなかったこと』ではないのか?

「いや、そうではない。」と答えるだろう。

それはそうだ。配偶者とは家族になりたくてなったし、子供と暮らしたくて生むことを決めたのではなかったか。そうして、「やりたいと思って自分で決めたこと」をやっているはずだ。

それが「我慢してがんばらなきゃいけない」ものになったのはなぜだろう?

やりたいことでないならば、遅くはない。やめてしまってもいい。

自分で決めたことが間違っていた、本当はやりたいことではなかった、と認めてもいい。

だってそうなんだから。

倫理的に許されない?許されなくても、現にそう思っているから、「我慢してがんばらなきゃいけない」と思っているのは、あきらかだ。

世間的に許されない?世間に許されなければ、人は生きていてはいけないのだろうか?そんなことはない。世間は別に命の補償をしてくれるわけではない。脅威ではあるが、許しを請う相手ではない。

実は、結婚や子育てすら、『本当は私はしたくて始めたわけではなかったのかもしれない』という本音を見るのが怖いのではないかしら。

「世間体を気にしているから」

「親が結婚しろと言ってうるさいから」

「子供ができてしまったから」

そういうもっともらしい建前で、「本当は私は○○したくなかった」という本音を覆い隠して、楽な方向に逃げてきたのではないかしら。

自分の本音を見ないで済む、深い傷を負う覚悟が必要ない方向に、逃げてきたのではなかったろうか。

そんな卑怯で臆病な自分の本当の姿を見るのは、誰でも怖い。

当たり前のことだ。

まとめ:すなおに生きること

生きていたい。そして願わくば幸せになりたい。

ただそれだけだったはずだ。

本当は、それだけだったはず。

それをいろいろな「最もらしい理由」の鎧を身にまとって自分の傷つきやすい心を守ろうとするうちに、重ね過ぎた鎧の重量でもう歩けなくなったのだ。

別に今ある全てを偽りだから投げ出してしまえ、と言っているわけではない。

・自分を犠牲にしてまで誰かのために何かをしなくてもいい

・自分のことをもっと大事にしてもいい

・誰に対してであっても、嫌なことは嫌だと言ってもいい

・つらくてどうしようもないときはやめてしまってもいい

・お金が思うように稼げなくてもいい

・子供や配偶者の人生の責任を、他人の私が背負わなくてもいい

こういう「~でもいい」を増やすだけでいい。

「~でなければならない」の鎧をひとつひとつ外して手放せばいい。

そして鎧の重さに苦しんでいる人が八つ当たりしてきたときには、それはその人の課題だから、あなたが一緒になって苦しまなくてもいい。

その課題は、その人が解決するものだ。一緒に背負わなくてもいい。

子どもの将来も、配偶者の問題も、本人がきちんと解決する力をもともと持っている。それをわざわざみくびってまで、手出ししなくてもいい。

そうしてすっかり素直になった気持ちで、自分の心だけを見つめてみよう。

実は、あなたがやらなければならないことは、実はたったひとつなのだということが、あなたにもわかるはず。

『あなたが心からやりたいと思うこと』。

本当にこれだけなのだということに気づくはず。

私が仕事に対してぬぐえない違和感の正体はそれだった。

みんな、素直に話をしていない。素直に話ができない。

誰かが、誰かをコントロールしなければとあくせくして、他人のほうばかりを見ている。

誰も自分自身をちゃんと見ていない。

世の中の多くの人は、そんな状態だ。ことに「仕事」という枠組みで視野が固定されているひとは。他ならぬ私が、いつも今までそうだったように。

会話がすれ違い、議論が常にかみ合わないのは、彼らが「コントロールすること」「~でなければならない」にとらわれて自分のなかの事実に到達できていないので、彼ら自身ですら本心でどう思っているか、わからないからだ。

本人がわからないのに私がわかるはずもないし、本人が見つめ直さない限り、永久に満たされるはずもない。

私は自分が信じたように仕事をして、その結果を受け止めて、生きていくためにお金を一定程度稼ぐことと、人生を誠実に正直に生きることとを、区別して日々を過ごしていきたい。

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