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【子育て】育児してるだけですげぇ

マジで時間が取れない。

いつの間にか一日が終わり疲れ果てている。

自分の時間を確保できるのは早朝か深夜だけど、それも子が起きてしまえば寸断されて台無しになる。

 

こんな環境のなかで家事もこなすのは、至難の業。

専業主婦の人を本当に尊敬する。

シングルで仕事しながら家事育児してる人は神だと思う。

とても真似できない。スゲェよほんと。

 

独身、あるいは子供がいない夫婦だけの生活って、すごく恵まれていたんだなぁ、としみじみ思う。

自分のペースで生きられるってだけでありがたすぎる。

当時は当時で大変さはあったけど、自分で生活を組み立てられた。主導権が自分にあった。

子供が産まれたら、子供たちが最優先になるから、どうしても生活が組み立てにくい。

自助グループにしても、行く時間を確保するのが困難。オンライン自助ですら、何かアクシデントがあったら役割もままならない。

なんとかできる範囲で、できる限りのことをやるしかない。

 

このへんが、育児の経験がない人にはなかなか想像ができない。

独身時代は私もできなかった。

長期の連休明けに「休みはゆっくり休めましたか?」なんてずっとボケたことを言っていた。恥ずかしい。

小さい子どもがいる家庭の長期の連休は、戦場だ。

むしろ「長期連休、おつかれさまでした…お互い生き残りましたね…」くらいがしっくりくる声かけだ。

「ゆっくり休めましたか?」と言われると少しイラっとするもん。「休めたわけがねーだろうが」と。

独身の社員、妻に丸投げして子育てしてこなかったであろう男性社員が、能天気に「休んだし今日から仕事だぁ!」みたいなテンションで「休めましたか?」とウキウキ絡んでくるのが本当に疲れる。マジでやめてほしい。

 

なんとかやりくりすれば時間作れるでしょ?その努力が足りないだけでしょ?

そういう輩に限ってこんなふうに言うけど、できる人もいればできない人もいて、できないほうが多数派じゃないかな?と思うよ。

やりくりして作っても潰されることは多々あるし、努力でなんでもかんでも解決するわけじゃない。

賽の河原で石積みをしている人に、

「鬼が見てない間にササっと積んだらいいんだよ」

「積む技術を磨く努力が足りないだけでしょ?」

と安全な下界からヤジを飛ばすようなもんだ。

そんなに言うなら代わりにやってくれって思うわ。笑

 

今しかない小さい我が子の表情。

今ある輝きを楽しむしかない。

過ぎ去ってしまうと「あの時は良かった」などと未来の私は今の私の気持ちを忘れて無責任に懐かしむのだろう。

あんなに恵まれていた独身時代には家庭を持つことに憧れたように、だいたい人間はいつもいつでも無いものねだりをするものなのかもしれない。

 

自分がやりたいことは、できる範囲でできる分だけやるのがMAX。投下可能時間としては最大なのだから、その限られたリソースで発揮するパフォーマンスが、そのときの100%。

諦めずにやろうとする気持ちを捨てない。そんな自分を褒め称えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

【依存症】妻が子どもを連れて実家に帰った話

やっぱ、家族って大事だなって思った年末年始でした。

いやー。

なんだかんだ言って、みんながいないとダメね。

 

年末、妻が子どもたちを連れて義実家に帰りました。

先に行って、私は後から合流するってことにしたんですよ。

私は妻には申し訳ないんだけど、やっぱ居心地が良くないんですよね、義実家。

ずっといると、なんかストレス溜まっちゃって、だんだんイライラしてくるんです。

なんとなく居場所がなくて、かと言って周囲に気晴らしに行けるような場所もなく、だんだん追い詰められていくんですよね。

私たちの子どもだから私たちが面倒みるのは当たり前なんですけど、率先してみてくれるわけでもないから、育児の負担はあんまり変わらないし、台所自由に使えるわけじゃないから、好きな時に好きなように料理できるでもなく。

妻は料理が上手で、出してくれるものはなんでもありがたく美味しく食べられるんですけど、義母の料理はなんか雑というか、はっきり言っちゃえば不味いので、食の面でも気持ちが沈んでいきます。

しかも出し方がわけわからん。後から「コレがある」「アレもあった」と小出しにしてくる感じで、お腹が空いてたなら食べたかったものが後から出てきたりすると「なんやねん」ってなります。

家が全体的に埃っぽいし散らかってて、なんか安らげない…かといって掃除すればいいレベルの散らかり具合ではない…なんか、荒んだ気持ちになるんです。

人様の家だから、文句いうのもなんだし、泊まらせていただいてるのにアレなんですけど。

しかもあの人たち、断酒してる私にお構いなしに酒飲みまくるんだよなぁ…。缶も乱雑にテーブルの上に置いとくし、なんなら酒買ってきてくれって頼んだりしてくるんですよ。なんか、そういう無神経なところがまた神経を逆撫でしてくるわけです。

そんなわけでいつもイライラし始める私を見かねて「ちあきだけ滞在期間が短くなるような帰省の仕方」を妻が提案してくれたという経緯があります。

正直スマンと思ってる。

妻的には「イライラして近くにいられるくらいなら、ひとりでゆっくりしといてほしい」という気持ちだそうで、ありがたく提案に乗りました。

 

さて、新幹線で妻と子どもを見送って、ひとり犬たちだけが待つ自宅に帰宅しておどろきました。

静かすぎる…。

犬たちも不安そうにこちらを見つめてきます。

「いつも情緒がアレなコイツだけ帰ってきた…やべぇ…やべぇよ…」という目をしています。

スマンて。いつもアレなのだけでスマンて。

 

ひさびさに飲酒欲求がきたのも、びっくり。

「今日くらい羽を伸ばしてもいいんじゃないか」という気持ちがまだ湧いてくるんだなぁ、と思うと、改めて私は病気なんだなぁって感じました。

変に我慢するとヤバいと思ったので、ノンアルコールビールを買って飲みました。

あんま美味しくない…こんなのいらないな…となって、気持ちがスッと落ち着きました。

開業の準備とか、たまった仕事の雑務とか、子どもたちいないからやりまくれる!と思ってたのに、全然なんのやる気も起きないんですよね。

あー…静かだな…寂しいな……って気持ちで、youtube観てもアマプラで観たかった映画観ても、なんも楽しくない。

ひとりで断酒してる人すげぇよ。よくこんな時間を耐えてるなと思う。

改めて、家族のおかげで断酒続いてるんだなって実感しました。マジでいつもありがとうございます。

自分でヘルシーな料理作って食べてたんですけど、ひとりで食べるの侘しすぎ。

もう、何しててもつまんない。

ブログも書きたい事のネタメモしてたのに、全く筆がのらない。

そんな感じだったから、とりあえず毎日LINEで妻や子どもたちとビデオ通話してましたね。笑

んで、なんかものの数日で会いたくなって、早めに義実家にきちゃいました。

会えないくらいなら、多少義実家が不快でも行くしかない、って感じでした。

家族のありがたみがよく身に染みた年末年始でした。

【AC】お盆に考える「親の愛とは何なのか」問題

お盆である。

実父母とひさびさに三日間過ごしてみて改めて感じたことについて、書いてみる。

 

実母の生い立ち

実母は、AC(アダルトチルドレン)でありACoA(アダルトチルドレン オブ アルコホーリックス)の当事者だが、否認しており回復に繋がっていない。

アルコール依存症の父(私から見た母方の祖父)の壊れた機能不全家庭に育った。

祖父もまたACで、母親の共依存から逃れられないままの人生を生きた。

脈々と引き継がれてきたACの系譜。

その先に私がいる。

 

実母の人生を振り返ってみよう。

実母は祖父から「食うのに困らないのは教師だから、教師になれ」と人生のレールを敷かれた。そして、それに従って生きてきた。

なぜかといえば、祖父は成功者のレールから外れてコンプレックスを抱えており、権威主義と満たされなかった承認欲求に支配されていたからだ。

祖父は、次男でありながら彼の母親に共依存的に頼られて、当時勤めていた総合商社をやめて地元にUターンした。海軍の軍役を終えて、幸運にも総合商社という経済的に裕福な生活が送れる職業に就いた祖父は、おそらく優秀だったのだろう。そしてその自負もあったはずだ。

その経済力を魅力に感じて、そして次男というポジションから介護とは無縁であると期待して、祖母は祖父と結婚した。結婚後突如として表れたUターンするという話は彼女にとって青天の霹靂であり、ひどく狼狽して激しく反対したそうだ。

その反対を押し切って、総合商社を退職したのは、祖父の兄(長男)が「地元に帰ってくるなら仕事を世話してやる」と約束していたからだ。

しかし、その約束は結果的に反故にされた。祖父は兼業農家として貧しい暮らしを強いられることになった。

貧しいばかりか年老いた母親の介護まで祖父母に押し付けられ、祖母は祖父に対する好意を急速に失っていったという。思い描いていた人生設計がものの見事に粉砕されて、祖父に対しては憎しみさえ抱いていたことだろう。その話を娘である実母にするくらいなので、そうとう腹に据えかねていた様子がうかがえる。

祖父は、自分の選択ミスにより針の筵と化した家庭の居心地の悪さと自分のACとしての生きづらさを紛らわすために、アルコールに依存することになる。

いつもREDウイスキーの瓶を枕にして寝ていたというエピソードから、私と同じようなアルコホーリクだったと容易に想像できる。

祖父は、愛した女性は自分そのものではなく自分のステータスや経済力と結婚したのだとわかって、絶望と自暴自棄に埋没した。

口を開けば母親に世の中に対する恨み言ばかり言っていたそうだ。完全なるマルトリートメントである。

実母は、そんな祖父に過干渉され、祖父を憎む祖母の苛立ちを八つ当たり的に日常的に浴びせられた。そしてその地獄のような家庭環境は、実母をしっかり伝統的なACとして育んでいった。

 

実母の現在

そして今も彼女は、ACとしての生きづらさを抱えたままだ。

息子や娘の就職先は有名企業や社会的に地位が高いと認識されている専門職(医師・薬剤師・弁護士・裁判官など)でなくては満足できない。

なぜなら、祖父から刷り込まれた権威主義を今も引きずっているから。

人生を、父親に言われた職業に就くため・母親から小言を言われない「いい子」であり続けるために費やし、自分のインナーチャイルドを窒息死させたまま生きてきたため、自己肯定感が低い。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第一章:インナーチャイルドを知る」

 

そのため、他者からの承認を求め、正しさに固執し、嫌われないために行動する。

しかし、それこそが他人との健全な関係構築を遠ざける。

その証拠に、彼女にはいつも親しい「友人」がいない。損得や共通点で繋がっている他人はいるが、胸の内を打ち明けられるような、心から信頼している他人が一人もいない。

だから常に孤独。その孤独を埋めるために、子どもに共依存する。

祖父の母親がそうであったように、祖父がそうであったように、子どもの人生に過干渉しイネイブリングする。歴史的にその方法しか子どもに対する関わり方を知らないので、不可抗力ともいえるが、子どもである私からすれば、たまったものではない。

実父はそんな実母にかける言葉も提示できる解決策もなく、居づらさや後ろめたさを隠すように、仕事に依存して家庭になかなか帰らなくなる。

マンツーマンで相手をさせられるのは、長男である私だ。

実父の代わりに、実母の愚痴を聞き、実母がかけてほしいであろう言葉をかけ、彼女の孤独を埋めるための「道具」に使われる。

子どもは生活力がないうちは家庭を離れることができない、私は母親から逃げられない。

逃げ場を失った私を人ではなくモノとして使っている自覚が彼女にはない。彼女のなかでは「愛情を注いでいる母親」であり、その愛情の見返りとして、子どもが自分に対して「お母さん大好き」と言うなど「承認欲求を満たしてくれる対価」を差し出すのは当然のことだと勘違いしている。

だから、自分を慕ってくれないとひどく気分を害して不貞腐れた結果「構ってちゃん」になる。「私はこんなに尽くしているのに」と罪悪感を煽って自分がしてほしい行動を引き出そうとする。

これは、ACがよくやりがちな「コントロール」であり、子どもを自分に都合がいいように「道具化」して支配しようとしている状況だ。

なので、私が成人した今も、私がきちんと満足できる優良企業()で働けているかどうかを真っ先に探ってくるし、何かしら世話焼きができる欠点がないかどうか「心配する」というふりをして詮索する。そして欠点らしきポイントを見つけると、舌なめずりをしてあれやこれやとアドバイスという名の過干渉をし始める。

本人としては、本当に本人の未来を案じていて「善き母親として子どもを気にかけている」と思っているのだろう。

本当に子どもを愛していて善き母親であるならば、成人した既婚者の息子に対して余計なことは言わず、ただ信頼して見守るものだ。

相手にはもう責任能力があると信じていて、そのように親として関わってきたという自信があり、対等に尊重している関係性なら、過干渉や詮索行動は起こりえない。

相手が我が子だという関係性を笠に着て、成人した尊厳ある人間との適切な境界線を見失っている。

自分の生きづらさと向き合う工程がゴッソリと抜け落ちて、精神は満たされない子供のまま、大人になり親になってしまったから、自分の人生以外のところ、すなわち息子の人生にいつまでも関わろうとする。

 

回復する私と取り残される実母

私がACを受け容れ回復のために歩み始めたことで、離れようとする私の挑戦に、幾度となく実母は抵抗運動をした。

さめざめと泣いてみたり、怒り狂ってみたり、息子が一生添い遂げようと決心してプロポーズした妻のことを低学歴だ気にくわないなどと侮辱してみたり。

全てが、私の目を覚まさせるには十分すぎるほど、毒親のそれだった。

そして今も、私が幼少期に惨めなACとして貢いできた労働の歴史を、息子から愛されている証明と勘違いして、過去の話を持ち出して反芻しては、息子側の認識の違い・現実と妄想との乖離に心を痛め、あからさまに落ち込んだりしている。

過去の思い出話しかすることがなく、現在の自分・未来の自分に関する話がひとつもないのは、そういう現実逃避の仮想世界にいるから。

今回接してみて、未だにその世界にいるんだな、と実感した。

とても残念だ。しかし私にはどうしようもない。

彼女の問題は、彼女にしか取り組むことができない。

 

親孝行とは、いったいなんだろうか。

私は親になってみて思う。

親孝行とは、すでに完了した過去である。

子どもは我が子として存在してくれただけで、もう十分すぎるほど様々なギフトをくれたと思っている。

自分の人生を、素直に真っすぐに生きてほしい。

私や妻などに関わっていないで、想いのままに生きてほしい。

その邪魔になるくらいなら、早々に退場したい。

私から与えてあげられる、彼ら彼女らが自分らしく生きるために必要なものなら、見返りが無くともいくらでも差し上げる。

代わりに私を愛さなくてもいい、憎んでも構わない。

褒められもせず、苦にもされず、そんな存在であればいい。

もう、親孝行は、生まれた時点ですでに済んでいる。

 

まとめ:親の愛

親の愛とは、そういうものではないだろうか。

フロムは『愛すると言うこと』で「精神的に成熟した人間でなくては、愛することを実践するのは難しい」と説いている。

 

いい子でなくてもいい。

私のことが大嫌いでもいい。

障害があってもいいし、うまく社会に馴染めなくてもいい。

他人と比べて優秀でなくてもいいし、誰かに認められる何者かでなくてもいい。

その子が、その子らしくあってくれさえすれば、それだけでいい。

 

成熟したインナーアダルトを持つ親とは、子どもに対してこんな想いを抱いているものではないだろうか。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第二章:インナーアダルトと共に」

 

なぜなら、その子は「自分の延長」ではないから。

所有物や「道具」ではないから。

思い通りになんて、ならなくて元々。

彼ら彼女らの人生は、本人のものだ。

親であろうと、他人である私がコントロールすべきものではない。

 

悪夢のようなACの世代間連鎖を断ち切る。

そのためにはまず、私は私らしく生きることに、全力でなくてはならない。

私は、私として精一杯生きて、しっかり己の宿命を生きたと胸を張って死にたい。

自分の人生の課題を、子どもに背負わせることだけはしたくない。

実母のような「愛を嘯く呪い」ではなく、「どこにでも宿る愛」でありますように。

切れ切れの愛として彼ら彼女らの世界の一部となり、爽やかに忘れ去られますように。

偽らざる愛情とは、そういうものではないだろうか。

 

 

 

【依存症】ゲームを取り上げる親と心を殺された子ども(ゲーム依存)

依存症の問題は、背後にある「生きづらさ」が本質だと思う。

その問題を直視せず、問題行動だけを抑え込もうとしても、失敗するし意味がない。

 

ゲームを取り上げる親の心理

たとえば、ゲーム依存の傾向がある子どもから、無理やりゲームを取り上げようとする親がいるとする。

「やめろ」と言っても効かないので、ルールが守れないので、ゲームを取り上げる。

でも結局はルールを守る必要がなくなった(親の目が届かなくなった)ときに、問題のある使用をしてしまう。背後にある生きづらさが解決していない限り、根本的には変わらない。

私がそうだった。小学校から禁止されて、大学で今までため込んだフラストレーションが爆発して思いっきりのめり込んだ。

ネットやスマホを解約する、等のもその類い。意味がない。一時的にできなくはなるかもしれないが、やる方法はいくらでもある。

お小遣いをためて、あるいは親の財布から金を盗んで中古端末を入手したり、無料Wifiを求めて深夜徘徊をしたり、「ゲームやる?」と声をかける知らない人についていってしまったり。

むしろそういうより子どもを危険な場面に遭遇させかねない行動に繋げる。

 

そういった逆効果を生む可能性があるにもかかわらず、なぜ強権的に子どもの行動をコントロールしようとしてしまうのだろうか。

それは親が抱える、「不安」と「恐れ」が根底にあるように思う。

 

「我が子がまともな社会人になれなかったらどうしよう」

一見、我が子の未来を案じている台詞のように見える。そして、思っている親本人も「子どもの為」だと信じて疑わない。

しかし、裏の裏までよく覗き込んでみると、実際は「自分の為」であることがわかる。

世間の目を気にしている、自分の為に、迷惑な行動をしてほしくない。

我が子がまともな社会人になれないことで、

「親として子育てが間違っていると言われたら」どうしよう。

「ひきこもりや不登校になって、世間から色眼鏡で見られたら」どうしよう。

私の世間的な評価が傷つくではないか、という「どうしよう」。

自分が困るから、自分の体裁のために、やめてほしいと思い、取り上げようとしてはいないだろうか。

子どもをコントロールすることに依存している。自分の自己肯定感を支えるために、子どもに依存し、子どもの人生に過干渉してしまってはいないだろうか。

 

親に過干渉された子供の末路

我が子であったとしてもコントロールすることは本来できないし、本人のことは本人に責任と権限がある。その権限を冒してはいけない。

なぜなら、選択した行動の結果を経験することで、子どもは大人になっていくからだ。

親が転ばぬ先の杖ばかり用意して、その過程をゴッソリ盗んでしまうと、「グライダー型人間」になる。

 

「グライダー型人間」とは、『思考の整理学』において外山先生が定義した、自分で考えられない人間のこと。

親が全部おぜん立てをして、正しさを押し付けて言うことを聞かせて、親が思う正しいレールの上を歩かせたとしよう。

その子は、こう思うだろう。

「自分の意思なんて持っても疲れるだけだ。結局は、親や先生の言いなりにするしかない。ならば、感情など持たないほうがいい。自分の意見も、持たないほうがいい。言われることに従っていさえすれば、叱られもしないし、問題は起こらないんだから。」

自分の感情と意思をもつことを放棄するようになる。

そうなると、自分が好きなもの、自分がやりたいこと、自分がほしいもの、が何なのかわからなくなる。

自分の意思がわからないので、他の人が好きなもの、やりたいこと、ほしいものが、自分が欲しいものなのだと思って追いかける。でも、手に入れても、満たされない。本当に望んでいるものではないからだ。でも自分ではもう望んでいるものがわからない。

いくら頑張って何かを手に入れても、どれだけ他人より相対的に恵まれていると言われても、心は一向に満たされないので、日に日にストレスが溜まる。

そして、ネット上で気に入らない人を正論で殴ったり、誰かを虐めたりして、憂さを晴らすようになる。進学校ほど陰湿ないじめが横行する理由は、こういうストレスが強い子どもたちの「生きづらさ」のはけ口として、特定の誰かが生贄になることでなんとか日々を生き抜いているからではないだろうか。

私をいじめてきた「いじめっ子」たちも、そういう目に見えない苦しみを背負っていたのかもしれない。そう思うとやるせない。虐められるほうは、たまったものではない。

 

はたして、親の正しさによる圧政は、本当に子供のためになっているだろうか?という話。

「まともな社会人」とはなんだろう?

立派な「思考停止のグライダー型人間」に仕立て上げることだろうか。

おそらく、親のほとんどがそんなことを我が子に望んではいないと思う。

自分の頭で考え自分で決めた、自分なりの人生を堂々と歩んでいってほしい。

そう思っているのではないだろうか。

それが「まともな社会人」ではないだろうか。

そうなるための行動だろうか。ゲームを無理やり取り上げる、ということは。

 

受験を控えているのに、受験勉強をしない我が子をみて、自分が不安なだけ。

自分の不安を取り除きたいだけ。

だから「ゲームばっかりしていないで勉強しなさい」という。

私たち親の世代までは、勉強して良い大学にいて良い就職先に新卒入社する、というのが人生においての成功モデルだったかもしれない。

そのレールに乗せないといけない、という親に育てられてきた世代だ。

しかし、自分の人生を振り返ってみてほしい。今の現状を見てほしい。

それは本当に成功モデルだっただろうか。

 

今や終身雇用制度は崩壊した。

良い会社に入っても、安泰ではない。

良い大学に行っても、就職先がない。

受験勉強という「暗記ゲーム」だけに特化して強制的にやらされた結果、グライダー型人間として心と感性は死に、体だけ立派に成長していく。

面白味のかけらもない無個性な大人になって、指示待ち・ゴマすり・忖度で自分を偽りながら生き抜こうとするが、自分で考え自分で行動を選択する訓練をしてこなかったので、苦境に立たされてまごつく。

 

これが、誰もが望む成功モデルといえるだろうか。

本当に、大人たちが提唱してきた「まともな社会人になる」ためのメソッドは、現実に役に立つものだっただろうか。

私はそうではないと思う。

 

親ができることは見守ることだけ

その子の人生は、その子のものだ。

親のおもちゃではない。親が変えられるものでもない。

失敗も成功も、その子が味わう権利と義務がある。

 

この子がゲームにそこまで入れ込むのは、なぜだろうか。

この子が好きなゲームの世界とは、どんなものだろうか。

その世界の何が好きで、何が現実より魅力的なのだろうか。

この子は、何を求めているのだろうか。

 

それを知らないで、その子にとって正しい道など、誰が主張できるだろうか。

正しい道など無い。

正しいことなど、この世にはないからだ。

その人にとっては正しい、というだけ。

それは親も同じ。親である我々が正しいと思い込んでいることと、その子にとっての正しいことは違うかもしれない。

それを同一化して強制的に同じにしようとするのは、ある種人権侵害であり、虐待だと私は思う。

 

我々親にできることは、その子の声を聞き、その子の価値観を認め、そっと背中を支えることだけ。

きっと自分の足で歩いていけると信頼して、後ろから見守ることだけ。

そもそも、我が子であろうと別個の独立した他人。

他人をコントロールすることはできない。「変えられないもの」だ。

きっと自分の失敗から何かを学び、人生に活かして生きていく力を持っている。自分の命を分け与えた存在なら、きっとそれができる。

そう信じられないとしたら、病んでいるのは親のほう。

自分を信じられないから、我が子も信じられない。

自分の生きる力を信じられないから、同じように我が子の生きる力を信じてあげられない。

その「不信の呪い」を引き継がないことが、最良の子育てだといえるのではないだろうか。

【子育て】褒められると喜ぶ子・褒められると緊張する子

褒められると喜ぶ子もいれば、褒められると緊張する子もいる。

いったい、この2つのタイプは何が違うのだろうか。

 

褒められると喜ぶ子の心理

言葉をそのまま受け取る子。裏を勘繰らない。

「自分は認められた」と感じて、パワーがみなぎる。

褒めてもらうことを心から喜び、欲する。

他人の賞賛が自己肯定感を下支えしてくれる。

そしてそれは「私ならできる」という自信に変わり、挑戦する原動力になる。

もし数回失敗しても、今まで褒められた経験をもとに、自分の挑戦はいずれ成功につながるという再現性を信じる。

信じて何度も挑戦するので、結果的に成果がでる確率が高まる。

そして「やはり私ならできる」という自分という存在への信頼を強固にしていく。

自分自身への信頼が確固たるものであれば、自分がやったことを他人が褒めてくれなくても、「今はまだ認めてもらえないだけ」と、自分の方向性を信じることができる。

自分の意思で物事を決め、光が見えない暗いトンネルのなかも前に進むことができる。

折れない、くじけない。そんな未来を切り開く。

 

褒められると緊張する子の心理

言葉の裏を読む子。言葉の裏にある「相手の期待」のほうに意識が行ってしまう子。

私はまさにこっちだった。

褒められると「もうこれと同じことで失敗できない」と思った。

なぜなら「できる」という状態を褒められているので「できない」状態にはもう戻れないから。

「できない」状態の自分は認めてもらえない。

できるから肯定してもらえるということは、できない場合は否定されるということだ。

なので、褒められると緊張する。

だから、できるだけ褒められたくなかった。認めてほしいけれど、褒められると逃げ場がなくなるから。

だから、褒められると異常なほど謙遜する。

でも、心のなかでは認めてほしいので、自分以外の他人が褒められていると嫉妬する。

心がザワザワして、他人の成功を目の当たりにすると焦りや不安を感じる。

そのため、客観的にみると謙遜するわりにはプライドが高く見える。

他人の成功は、何かしら理由をつけてケチをつけがち。

成功しなければ認めてもらえない、というプレッシャーのなか、自分にできそうなことにしか挑戦できなくなる。失敗を過度に恐れる。

褒められることを選ぶが、それが自分のやりたいことではないことも多い。

しかし、自分の希望なんかより、他人の期待に応えて結果を出すことが、褒められるためには必要なので、自分の気持ちを無視して物事を決定してしまう。

最終的に、本当はやりたいことではないことを一生懸命やり、ヘトヘトになって他人に認められるために生きる。

そして、認められればられるほど、プレッシャーは大きくなっていく。

大きくなり過ぎたプレッシャーに押しつぶされると、二度と立ち上がれないほど深く傷つく。

自己効力感がない毎日で、やれどもやれども自分の心は満たされない。

結果として、潰れることが多くなる。

 

結果ではなく行動を褒める

この2つのタイプの何が違うかというと、実は褒める人の「褒め方」が違う。

喜ぶ子の親は、行動を褒める。

緊張する子の親は、結果を褒める。

 

子どもというのは、まだまだ人生を歩み始めたばかり。

圧倒的に失敗することのほうが多い。

むしろ成功することより失敗することが大切で、失敗により重要なことを学んでいく。

 

何かに挑戦しているとき、子ども自身はとても不安で、ドキドキしている。

同時に「どうなるんだろう」「できるかな」とワクワクもしている。

 

その過程を経験しようとアクションを取れたことこそ、その子にとって最も重要なことで、ぶっちゃけ結果はどうでもいい。後からついてくるから。

そのことを知っている親は、まず挑戦したことを褒める。

「よくがんばってやってみたね」

「あなたが挑戦したことを誇らしく思うわ」

そう褒められると、行動したことそのものを全肯定されることになるので、結果がどうであれ、子どもは自分の行いを恥じる必要がない。

失敗して悔しかったり悲しかったりして泣いたとしても、行動したことそのものに恐怖することはない。

なぜなら親は、また褒めてくれる。行動を起こした自分を。

だから、またやってみよう、と思う。

 

反対に、結果を褒めると、「結果を出した自分」を褒められていると認識する。

前者の褒め方に比べて部分的である。

「行動→成功」となってはじめて親に褒めてもらえると思う。

そして、親は「成功している自分」を期待しているのであって、失敗している姿を望まれてはいないことを読み取る。

親にとって望まれない子どもになる。

それほど怖いものはない。それほど深い絶望はない。

だから、失敗を恐怖するようになる。存在の否定と同じだから。

成功している姿しか見せられない。だから失敗は隠すようになる。

失敗こそ、最も重要なのに。

親という、心の安全基地、ありのままの自分を認めてくれる唯一の居場所が、なくなる。

そうなると、もうその子はどこにいても休憩することができなくなる。

そして、褒められることを誰よりも求めているのに、褒められるほど苦しくなる負のループに迷い込んでしまうというわけだ。

 

最後に

私は子どもから大人になり、親になってみて、このことはとても大切だと思う。

私は褒められると緊張する子だった。

人生はとても苦しかった。成功してもホッとするだけで、満足感や喜びはなかった。

褒められたいと思って、親が望むことを選択し、ひたすら頑張って得られたのは、他人の期待にそって生きる人生に対する絶望だった。

その子がやりたいことが、最もすべきことだ。

親が「これをやったほうがいいんじゃないか」「あれが向いているんじゃないか」と先回りして提示しないほうがいい。

子どもはその期待を敏感に感じ取って、それを選んでしまうだろう。

でもその先にあるのは絶望である。

期待するなというのは難しいかもしれない。いや、無理だろう。

それだけ可能性は輝いてみえるし、我が子だからこそできるんじゃないかと思うのは当然だ。

しかし、その裏には、親自身が自分に絶望してしまったことの闇がある。

自分ができなかったこと、やって正解だったと思いたいこと、それを子供に背負わせてはいないだろうか。自分の人生のやり直しを子供にさせようとしてはいないだろうか。

我が子と言えど他人である。別の人格を持ち、意思を持つ、権利と尊厳のあるひとりの人間。親と子は本来対等だ。

その対等さを忘れ、自分の所有物のように思い違いをしてはいないだろうか。

幼い我が子の判断はまだ未熟で、自分たちの判断のほうが正しいと、驕ってはいないだろうか。

私が持っている正しさへの認識とは、私の思い込みであって、我が子にとってそれは押し付けられたら迷惑でしかない。

彼には彼なりの、彼女には彼女なりの価値観があり、それは幼かろうが年寄りだろうが、関係なく尊重すべきものなのだ。

それを忘れている親は、この国にはとても多いのではないかしら、と思う。

そんな親も、私と同じように褒められると緊張するようなつらい子どもで、その子どもがそのまま年齢を重ねているからかもしれない。

誰も悪くはない。

でも、自分が味わった辛さを我が子に背負わせないために、同じ呪いをかけないように、親が子どもを卒業することが、必要なんだと思う。

【雑談】結婚はしてもしなくてもいい(男女それぞれの勘違い)

未婚率を年齢(5歳階級)別にみると、2015(平成27)年は、例えば、30~34歳では、男性はおよそ2人に1人(47.1%)、女性はおよそ3人に1人(34.6%)が未婚であり、35~39歳では、男性はおよそ3人に1人(35.0%)、女性はおよそ4人に1人(23.9%)が未婚となっている。長期的にみると未婚率は上昇傾向が続いているが、男性の30~34歳、35~39歳、女性の30~34歳においては、前回調査(2010(平成22)年国勢調査)からおおむね横ばいとなっている。

引用:内閣府HP 内閣府ホーム >  内閣府の政策 >  子ども・子育て本部 > 少子化対策 > 少子化社会対策白書 > 平成30年版 少子化社会対策白書(全体版<HTML形式>) > 第1部 少子化対策の現状(第1章 3)

 

結婚とは、国の洗脳でありビジネスのためのもの

結婚は幸せと直結しない。

なぜなら、国のための制度だから。

1898年に明治民法で家制度が制定された。

なぜか?天皇制の国家制度を定着させるためだ。

家長である世帯主と家族の関係を、天皇と国民の関係性になぞらえて、「天皇は国の家長」という価値観を定着させるため。

戦後の民法改正で家制度は廃止されたが、刷り込まれた価値観はそのまま国民のなかに残存する。

そのため、今なお「結婚して家庭を持つもの」という価値観をぬぐえないのだ。

 

結婚産業の力も大きい。

結婚式は大きなカネが動くので、ビジネスとして旨味がある。婚活イベントや結婚専門雑誌や結婚式場や写真家や飲食業界など様々な利害関係者が存在している。

だから「結婚するのが当然」と社会が認識しているほうが、彼らにとっても都合がいい。

あの手この手で婚期を焦らせる。「結婚適齢期」とか「婚活偏差値(結婚偏差値)」とか、数字で横並びにして劣等感を煽る。「みんなしているのに、自分だけしていないのは変に思われるでは」とこの国が大好きな同調圧力で不安を煽る。

 

こうして、なんとなく「みんながするものだから」と他人の価値観をもとに結婚を選択する。

国がかつて意図した仕組みのための洗脳と、結婚によって儲かるビジネスを終わらせたくない人々に選択させられている。

自分が「したいからする」ことは、少ないのではないだろうか。

 

 

女も男も、どっちも幻想を「待っている」

承認欲求を満たしてくれる白馬の王子様を待っている女

「誰かが見つけて迎えに来てくれる」

そう思って運命の人が自分にアプローチしてくれる日を待っている。

女性は、ルッキズムの呪いで、男性からも同性からも容姿で順位を付けられる苛酷な世界を生きている。

そんな厳しい競争社会のなかで、自分磨きによりをかけ、女としての価値を高める努力を強いられながら、「一生幸せにする」という確約をくれる契約相手が現れるのを待つ地獄。

いつか自分の輝きを見出してくれる異性が現れる、その特別な誰かと一緒になれば幸せになれるという、幻想を信じている。

実は、「幸せ」より「安心」が欲しい。

真の敵は女の目であり、自分の女としてのランキングが平均より下にならないか、知り合いの誰かより下にならないか、それを心底恐れている。

腕によりをかけて女としての自分を高めたと認識すればするほど、その努力と築いてきたプライドに報いるような収入・ルックス・甲斐性がある異性でなくては納得できなくなる。

しかしそんな異性は、この貧困にあえぐ日本において数%であり、すでに契約済みの物件ばかり。

白馬の王子様候補は他に取られてしまったと気づいて、何とか我慢できる程度の相手に妥協する。

しかし、欲しい「安心」は理想より格下の「王子もどき」では得られないので、徐々にストレスを抱えていく。

「妥協して私にふさわしくないにも関わらず結婚相手に選んでやった」という忸怩たる思いがあるので、一挙手一投足が癪に障る。

家事育児ができない、仕事ができない、配慮ができない。できないことばかりが目に付く。

 

 

自分より弱い自分だけのマリア様を待っている男

「女はどうせ相手にしてくれない」

スクールカーストのトラウマを抱えた男の子。それが多くの男性の姿。

バスケ部のキャプテンやテニス部のエースなど、スクールカーストトップの男しか男として認識されない。思春期の多感な時期に、否定され続けた心の傷を抱えて、「女は怖くてめんどくさい生き物だ」と半ばあきらめムードで引いていっている。

それでも、誰かを守って死にたいとどこかで思っている、哀れな生き物。

異性に褒められたい、認められたい。否定され続けた恐れで自分からはもうアプローチする気力はない。だが、自分より弱い、儚げな誰かを求めている。

だから、女性が強いとなると、男はもう出る幕がない。

マウントを食らって正論で論破されようモノなら、もう黙るしかなくなる。

実家のお父さんがしゃべらない静かな存在になっていくのはそのため。

女性と喧嘩するということは、男性にとっては裁判で尋問されるようなものだ。

自動的に女性は判事であり、男性は被告である。過去に遡って過失をひとつひとつ列挙され、人格否定とジャッジが始まる。

判事に1つ口答えすれば、100倍になって返ってくることを知っている。

否定され続けた思春期を経て、もう男性の心はボロボロなので、裁判を戦える心の体力はすでに皆無。

馬鹿で弱いので「とりあえず同意して聞き流しておけば収まる、言い返しても長くなるだけだ」と諦めている。だから、男性を説教して成長させようなどとは、女性は期待しないほうがいい。男は正論で論破しても決して成長しない。殻にこもるだけだ。

このように、弁舌やコミュニケーション能力もさることながら、女性のほうが基本的に生物として男性よりも強い。痛みにも強い。精神力も強い。男性が敵うわけがない。

男性が夢見ている女性像が、そもそも現実の女とはかけ離れているのが問題。

自分を褒めてくれて、優しく包んでくれる優しさを持つマリア様を望んでいる。幻想を待ち望んでいるのは男性も同じ。

そう錯覚して幻想と結婚すると、すぐに現実を突きつけられてまごつく。

生理により毎月ホルモンバランスと激しい闘いを繰り広げる妻。楽屋は戦場である。仕事で疲れて帰ってきても、家庭も戦場。終わりなき戦場めぐりを体験し、こんなはずではなかった、と後悔する。

一緒になった妻は、もうあの頃の可憐でか弱い彼女ではない。

「結婚して・子供ができて妻は変わってしまった」と嘆く男性が多いが、それは男性側が勝手に勘違いしていただけだ。変わってなどいない。元からそうだったのだ。

目の前の女性ではなく、妄想のなかの自分だけのマリア様と結婚した気になった。

だから、女性としても、夫から自分以外の誰かのような期待を持たれて当惑するし、寂しさを感じるようになる。自分を自分として愛してくれていたのではないと思うようになる。

夫は「か弱い守るべき存在」と思い込んで接してくるので、妻である自分を下に見ているように感じる。

 

お互いに「あれ?なんか違う」ということに、結婚してから気づく。

 

どちらも孤独で不安で、病んでいる

女性も、男性も、病んでいる。

どちらも「助けて」と叫んでいる。

溺れながら相手を求め、相手も溺れているので、一緒に足を引っ張りあいながら水底に沈んでいく。そして、さらに深い場所で息もできない孤独と不安にもがき苦しむ。

これが、結婚後うまくいかない夫婦の姿だと思う。

 

自分に欠けた何かを、相手に求める。

それは自然なことだし、自分に無いものを持っているから惹かれる。似た遺伝子をかけ合わせないで子孫を残すために、遺伝子配列が異なる個体を本能的に求めている。

ここで問題なのは「相手の『自分と違う部分』を含めて『人』として尊敬しているか」ということ。

自分に無い部分の補填要員として夫・あるいは妻をリクルートすると、『自分と違う部分』が鼻につく。それは結婚により自由を失う代わりに求めているサービスとは関係がない、不純物だから。

お互いにある種のビジネスで一緒になってしまうと、相手を人として見ていない。所有物として、購入済みの商品として見ている。

それが問題の根本。

自分の生きづらさを他人で埋めようとしない。埋める手段にしない。

自分の生きづらさは自分の課題として引き受けたうえで、相手を人として尊敬するから一緒に生きていきたいと思う。

そういう前提で結婚して一緒に生活するなら、独りでいるよりも人生は実り多いものになると思う。

夫婦間の愚痴、諍い、内に秘めた恨みを感じるたびに、結婚するにあたって前提を間違えて選択している男女がとても多いのではないか、と想像する。

 

結婚はしてもしなくてもいい

結婚は、してもしなくてもいい、そんなに気にする必要のないものだと思う。

他人の目を気にしてするものでは、決してない。

男女とも、同性間でランキングをつけられることに恐怖している。

その恐れから逃れるための「逃げ道」として結婚を手段として使うと、自分の幸せから余計に遠ざかる。

誰かの一番でなくても、私もあなたもそれぞれの世界のなかで一番であることに変わりはない。主人公は自分自身。

私は永らく、同性の親友がいないことにコンプレックスを抱えていた。

他人との関係を深められない、つまらない人間だから、親友ができないのだと思っていた。

それは、相手に特別視されることで、自分が価値ある人間だと思いたかったからだった。

自分自身が自分に価値があると信じられないから、他人の物差しを頼る。それは、他人の目を気にして結婚を急ぐ人と全く同じ思考回路だった。

自分が「こいつは俺にとっての親友だ」と思っていれば、もう親友でよかった。

相手がどれだけ自分を慕っているかは、あまり関係なかった。そのことに気づいた。

つまり、自分が「いない」と思っていただけで、実はそこかしこに居たのだった。

あえて形にしなくても、または相手が証言してくれなくても、自分が信じるならそれは真実であり、他人には否定できない。

だから、親友がいるかいないか、と同じように、伴侶がいるかいないか、はそんなに大きな問題ではない。真の幸せに必要な条件ではない。

そう考えると、結婚しても離婚しても、それは自然なことでもあり、必要かどうかは人それぞれであり、結婚していなくてもしていても、自分の価値には大して影響を与えないという価値観は、素直に受け入れられるようになるだろう。

素直に自由に選択することが、結果的に後悔しない選択をすることに繋がると思う。

【AC】「子どもを産むのは親のエゴ」問題について

こんなツイートが流れてきた。

今回は「子どもは親に感謝すべき」という洗脳の間違いについて書いてみる。

 

子どもをつくったのは親の責任

「育ててもらった恩も忘れて」

「ここまで大きくなれたのは誰のおかげだ」

とは、 よく目にする親側のセリフである。

確かに親が働いて稼いだお金で、子どもはご飯を食べて育つ。

母の世話がなければ生きていけず、泣くことしかできない赤子の時期もあった。

 

しかし、産むと決断したのは親である。

産まないこともできた。しかし産んだ。

それは自分の人生の選択であり、働いて養わなければならないことも、毎日世話をしなくてはならないことも、容易に想像できたはずだ。

それでも産むことを選んだ。

「親のエゴ」というキーワードでTwitterでは拡散されていって物議をかもしているが、もっと近いニュアンスとしては「親の決断」だよなと思う。

決断には当然責任がともなう。ある行動を選択するということは、その行動がもたらす責任を負うことを委細承知したということだ。

産みたくて産んだのではなかったかもしれない。SEXで気持ちいいなということ以外はよく考えていなくて、たまたまできてしまって、そのとき中絶する金銭的な余裕がなかったかもしれない。あるいは避妊していたけれど授かったのかもしれない。

しかしSEXしなければ受精は起こらないので、SEXをするという選択をした時点で、親になる可能性を排除しない、という行動を選択している。

ということは、結局自分が選択した行動を経ているので、背景はどうあれ責任は発生する。

当時はそこまで考えていなかった、と言っても現実は変わらない。責任も無くならない。背負ってしまったなら、それはともに歩むしか選択肢がない。

 

責任は感謝とは関係がない

この人が言うことはもっともで、親に感謝するかどうかは、子どもが判断することである。

「感謝」という感情を生むのは、子どもの心であり、その心に感謝の気持ちが宿らないのは、親にはどうしようもない。

私は親になったが、子どもたちが私に感謝してくれるとは限らない。むしろ恨まれるかもしれないとさえ思っている。

なぜなら、この世は生き地獄だから。

特に現代社会などは、功利主義・合理主義・結果主義によって沈みつつある泥船である。いずれ大きなカタストロフが起きてすべてがひっくり返り大混乱になる。

とてつもない痛みと苦しみを味わう世代になるかもしれない。

 

いや、そんな時代でなくとも、生きることはとても苦しい。

努力は報われるとは限らない。個体差が冷酷に粛然と存在する、弱肉強食の世界。そのなかで生き延びなくてはならない。傷つくことや傷つけることを避けては通れない。

そんな空間に招待するのである。「おめでとう」と言いながら。

そんなことをされて、感謝するだろうか。

基本的には感謝しないのではないか、と私は思う。

なので、そんな地獄にわざわざ生み落としておいて、感謝を請求するというのは、はなはだ筋違いである。

親の責任を果たすのは、感謝をもらえるからなのか。そうではない。

責任を果たすのは、行動の当然の帰結であり、自分自身の問題である。

他人である子供に、自分が負った責任の一部を押し付けてはいけない。

 

なぜ感謝されたいと思うのか。

それは、自分の「所有物」として子供の存在を認識しているからだ。

自分が与えたものを返してくれるのが当たり前、なぜなら自分が満足を得るためのおもちゃだから。そんなふうに考えているから、感謝されないことに憤る。もらえるはずのご褒美をもらえなかった子供のように。

つまり、親がまだ精神的に子供なのである。

子どもを尊重すべき独立した別人格として見ていないので、自分の手足のような感覚で思い通りになると思っている。

その傲慢さが、子どもに呪いをかける。子どもは呪いに長きにわたって苦しむことになる。

感謝されるわけがない。

 

感謝されるのではなく感謝する

むしろ、感謝しなくてはならないのは、親のほうだ。

「母の無償の愛」などというが、無償の愛を受け取っているのは親のほうだと思う。

子どもはどんな親でも、自分の親を愛さずにはいられない。どんなに愛されていないと薄々感づいていても、どこかで自分のことを愛してくれるのではないかという希望を健気に手放さない。

虐待されていても、子供は親をかばう傾向がある。本当は愛してくれるのではないか、優しくしてくれるのではないか、抱き締めてくれるのではないか。そう切なる願いを込めて、小さい体で精一杯できる限りの愛情を示す。

自分の存在を全肯定してくれる存在。それが我が子という存在だと思う。

そんな得がたい思慕を捧げてくれる存在が、他にあるだろうか。およそ他人には期待できない貴重な体験を与えてくれる我が子。感謝するのはむしろ親のほうだといえる。

 

私は親になることが不安だった。

子どもが嫌いだったから。後になってそれは、私がまだ子供を生きられていなかったからだとわかった。

無邪気に笑って自由に素直に感情を表現することが許されている子供を見ると、我慢ならなかった。とてもイライラした。

それは、私がそんなふうに子供時代を過ごすことができなかったからだった。

アダルトチルドレンを自覚し、回復のために12ステップ・プログラムに取り組んでいくにつれ、その苛立ちはゆっくりと氷解していった。

私も本当は、キラキラと感じるままに笑って泣いて、親が定めたあるべき姿ではなくありのままの姿を肯定されていると感じながら、満ち足りた幼少期を生きたかったのだった。

『子供を生きれば大人になれる』とは、かの有名なクラウディア・ブラック先生の著書だが、大人になるためには、子どもをしっかり生きなくてはダメなのだというのは、よくわかる。

 

「親のエゴ」問題の真相と解決策

結局この「親のエゴ」問題の真因は、大人たちの未熟さだ。

親になった人が、まだ子どもをちゃんと生きていなくて大人になってもいないのに、親になってしまったというのが、問題の根本だろう。

もちろん、親も人間なので完璧ではないし、育てながら一緒に成長するものだ。それだけ、子どもたちは親に様々なギフトを与えてくれるという裏返しでもある。ここでも、親は子どもからもらいまくりだ。

完璧ではないにしろ、せめてもの最低ラインとして、親は子どもを生き切っていなくてはならないのだ。

今親として未熟な人間が親をし、感謝を取り立てているのは、本人の性質が悪だからではない。その前の親世代の課題を引き継がせられて、その人も苦しい幼少期を過ごしてきたのだと思う。私のように。

気の遠くなるような世代間連鎖のすえに、私たちは存在している。

社会では、我々は個として存在をジャッジされがちだが、そんな簡単な問題ではない。根深い、何代にも続く病が、今この瞬間に表面化しているだけだ。

つまり、社会の問題だ。この親が悪いとか、この親は良いとか、そういうのではなく、能力でランキングをつけたり経済的利益のために人格をそぎ落としたりしてきた社会そのものによる哀しい産物のひとつが「子どもに感謝を強要する親」だということだ。

親を怨むなとは言わない。しかし親もまた独立した別個の存在「他人」であり、その人の人生は本人にしかどうにもならない。そのことも、理解する必要がある。

 

私たちは生まれてしまった以上、生きていくしかない。

他人は変えられない。自分の行動・自分の認識しか、変えることはできない。

ならば、感謝を求めてくる親には「残念だけど無理なので、あとは自分のためにがんばってくださいね」と手を振って、自分の人生にしっかり焦点をあてて今この瞬間を生きていくしかない。

自分が世界に与えることができる愛に、力を注ぐ。

自分の感情を、良いも悪いもなく素直に受け取る勇気を持とう。

私たちのこれからは、私たちが選択していく。そしてそれは謙虚に素直に向き合っている限り、自分以外の何かの導きによって、必ずどこかに繋がっている。

良いことばかりではないだろう。でも、悪いことばかりでもないかもしれない。

その受け取り方を、私たちは決められる。

古代の哲学者エピクテトスも、唯一「自分の意志」だけは自由だ、といっている。

何をしようと決めるか、何を好きだと思うか、何を尊いと思うか、は、本人が決められる唯一の自由なのである。

何をするかを、他人に委ねていないだろうか。

他人にどう思われるかびくびくしながら、他人に嫌われないように行動を選択するというのは、その唯一の自由を他人に受け渡していることと同じだ。

会社の命令で嫌だけどお金のためにしかたなく人生の大半をつまらない作業で浪費する。

嫌われるのが怖いから、行きたくもない集まりに行く。

そういうことをやめること。そこから、親として生きる第一歩が始まる。

 

 

【子育て】家事育児を妻に任せて仕事に夢中になる男性に語りたいこと

同僚と話が合わない。

年配の同僚は、ほぼモーレツ社員というか、昭和のノリで生きている。

男は仕事をするのが当たり前。

女が家事育児をするのが当たり前。

今の時代、表立ってはそう言わないものの、根底にはそういう価値観があり、無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)がある。

 

だから、職場の男性陣からこんな声を耳にする。

「仕事で忙しいんだから、家のことは妻が頑張るのが当たり前なのに、期待されても困る」

「夜泣きなんて対応してたら日中眠くて運転が危ないから、別々に寝るしかない」

「稼いできてるんだから、仕事ばかりで手伝ってくれないとか、文句言わないでほしい」

 

うーん。

仕事がしんどいのは分かるけど、ちょっと違うんだよな。

その辺の認識の違いについて今日は触れていきたい。

 

イクメン

 

 

『イクメン』という言葉は、あんまり好きじゃない。

ぶっちゃけ、ちゃんと子育てしていないメンズのことを指す単語だと思う。

「子育てやってる感を外にアピールしている男性」とでもいうべきか。

 

 

たとえば、ちょっとお風呂に入れるだけ、ちょっとオムツ替えるだけ、数時間面倒見るだけ。

寝かしつけはしない、夜泣きの世話を交代したりしてない、お風呂から上がった後の着替えまではやってない、オムツ替えるのでもウンチのときは妻に任せる。

そういう覚えのある人、結構いると思う。

お風呂に入れることすらできない人もいると聞いたときは驚いた。沐浴のときからやってないから、お風呂に入れる経験もスキルも習慣もない。

物心つく前の小さい頃に肌と肌を触れ合っていないと、父親になつかないというのはよく聞く話だ。さびしい話である。

まあなついてもらいたいからやるものでもないんだが、やってないのって結構子供の態度見ればすぐわかっちゃう、ってことだ。

 

いわゆる育児のドロドロの部分。

きつくて眠くてイラっとしちゃう、そんなことが毎日起こる。

「かわいいねー♡キラキラ(´∀`*)ウフフ」みたいなことばかりじゃない。

 

育児のドロドロ

やろうとしていたことが、半分もできない。

中断しては面倒を見て、再開しようと思ったらまた中断、みたいな環境で、やるべきことを終わらせないといけない。

少し眠り始めて、やっと少し休めると思ったら、起きて泣き出して抱っこしないといけなかったりして、結局できずに一緒に寝落ちするほど疲れ果てて。

自分のご飯は満足に食べるヒマもなく、子どものご飯をつくり与える合間に残り物をかき込む。

それが毎日毎日毎日・・・ずーっと逃げ場なく休みなく続く。

それが子育てのドロドロ。

 

仕事はと言えば、朝出勤してしまえば、夕方までは妻と子どもから離れられる。

ある程度は自分のペースでタスクを進めて、お昼はひとりで食べられる。

たとえその日の仕事がうまくいかなくたって、命がなくなるわけじゃない。

 

交代したら、天国みたいに感じると思う。

自分の裁量で時間配分ができて、自分の時間があることだけでも、相当恵まれている。

子育てをやったことがない人ほど、それをあまり実感できないと思う。

 

「やり方が悪い」と語るケース

「いやいや、やることそんなに多くないんだから、タスクの処理を効率的にやればいいんだよ、自分なら、時間内に完璧にできる」

そう思うなら、まず1年くらい代わってあげてほしい。

そんなに効率よくさばけるんなら、仕事と両立できるだろう。それが無理でも半分受け持つくらいわけないだろう。

ん?できない?なぜ?

日中は仕事があるから?

仕事のタスクの処理を効率的にやればいいんだよ。仕事を子育てができるくらいに圧縮して半日で済ませて半休でもとればいいじゃないか。妻に言っていることを自分がやればいいだけだ。

常に自分のペースではできない、睡眠も満足にとれない、そんな状況でも効率よく処理できるんだろう?

いかに自分が無理を言っているか、理解できるだろうか。

 

「私の仕事は妻より大変だ」というケース

「いやいや、私は妻より稼いでいるから、妻より仕事がハイレベルで多いんだ。妻とは違うんだよ。」

なるほど、では、そんな大変なお仕事で、年間どれぐらい稼いでいるのだろうか。

ちなみに私は年収としては平均的だが、休職せず夜泣きに交代で対応したし、一通りすべて面倒が見れるよう妻と一緒に学んだ。おかげで一週間に一日は、妻がひとりで外出できてゆっくりする時間をあげられるくらいには、なれた。

400~1000万円の年収帯の仕事なんて、おおかたそんなレベルである。やり方次第でどうとでもなる。

そして、どのくらい子だくさんかにもよるが、普通に生活していくだけならこれ以上の年収はほぼ必要ない。

つまり「生活するだけじゃ足りない、もっと贅沢をするためにお金が必要だ、もっと稼いでこい」と妻がいうのであれば、「自分で足りない分の収入の穴埋めをできない分、子育ての一切を担うので、お金を稼いできてほしい」と願っているので、仕事を優先する道理があると理解できる。Win-Winだから。そうでないならその限りではない。

「ちあき(筆者)、俺はお前の年収よりもはるかに多く稼いでいる、だからあてはまらない」という人は、妻に、今の収入を維持するべきか、それとも少し減らしてでも家庭のために時間を持つべきか、アサーティブに聞いてみてほしい。おのずと答えは妻の口から聞こえてくるだろう。

 

そもそも、妻が自分より稼げないという主張は、それそのものが不公平だと認識する必要がある。

出産を経験するということは、男性にはできないので想像しにくいが、例えるなら交通事故でダンプカーに轢かれて全身を負傷するくらいの一大事だと思う。文字通り生きるか死ぬかである。

妊婦の頃から体調不良に悩まされ、お腹に重しをつけながら生活して、いざ出産したら骨はガタガタだし髪は抜けるし、もはや満身創痍である。

それだけの大事故を経験しても、入院せずどこ吹く風で仕事を続けるなんて、できるはずがない。どれだけ実力があっても、出世コースから外される可能性が高い。不平等だ。

かたや、妊産婦の苦しみを背負うことなくリソース全てを仕事に注ぐことができた男性が、妻より稼げていないとしたら、それはもう論外である。

妻より自分が努力しているから、今のポストにいるし、たくさん稼いでいるんだと信じたいかもしれないが、前述のとおり妻は女性だからというだけでとんでもないハンディキャップを背負っているので、出産時点で夫は妻より稼いでいるのがこの社会の仕組みでは自然なのだ。

だから、仕事が現時点で妻よりハイレベルで年収が多いというのは、だから自分のほうが大変だとか、優秀だとかという理屈には繋がらない。

満身創痍でも産後すぐに子供をつきっきりで世話しなくてはならない、という状況のほうが、よっぽどハイレベルで、年収に換算すれば3000万に匹敵する。

家事育児は、きつくて価値がある立派な「仕事」である。

 

「男は家族を養わなければいけない重圧を背負って仕事をしているんだ」というケース

なるほど。確かに男性には、収入を求められるプレッシャーがある。

稼いでこなければ存在価値がない、と言わんばかりの「世間」が押し付けてくるジェンダーロールに押しつぶされそうになる気持ちは分かる。

しかしそれは「妻」も押し付けただろうか?

あなたに妻が「ひとりで自分たちを生涯養え」と実際に言ったのだろうか。

ありもしない「世間」に負い目を感じて、勝手に重圧を背負っている可能性はないだろうか。

家族とは、一緒に協力して、楽しく暮らせる生活を維持しようという共同体である。

持ちつ持たれつ、協力し合いながら、営みを続けていくための仲間である。

あなたが家族に役割を押し付けられていると感じているなら、家族で話し合う必要がある。

 

「私の力では今、これぐらいの収入を得ることができる。しかし、申し訳ないが、仕事を二の次にして家事育児を半分担うとすると、生涯賃金でこのぐらい下がるかもしれない。さて、お互いにより良い生活を実現するには、どうしたらよいだろうか?」

と具体的に落ち着いてパートナーと相談しただろうか。

おそらく子育てと家事で追い詰められ疲弊している妻なら、「今は少しくらい下がってもいいから、助けてほしい」というだろう。

子供が成長してからなら、妻も収入を得られるように力を合わせることを、考えてくれるはずだ。

 

つまり、話し合いもせずに、勝手にジェンダーロールを背負っているのではないか?ということだ。

収入が少ないと言われるのが怖い。

できない夫だと思われるのが怖い。

家事育児ができなかったら見下されたりしないか不安。

 

自分の居場所がなくなるのが不安で怖いのだ。

そういう言葉にできない恐怖や不安を見て見ぬフリをするために、仕事に逃げていないだろうか。あるいは、今まで自分が妻に手を差し伸べなかったせいで悪化した家庭環境に対する罪悪感を「妻の無理解のせいだ」と他人に押し付けて無かったことにしていないだろうか。

「稼いでこないとどうせ文句を言うくせに」

「お金がなかったら妻だって生活できないのに」

それは、文句を言うかどうか、生活できなくなるかどうか、ちゃんと二人で話して検証して、そう言われてから、思い込むべきである。

思い込みで対話をせずに、勝手に責任をなすりつけようとするのは、罪深い。

 

パートナーを、家族をなめるな

妻は、夫に「年収」だけを期待しているのだろうか。

そうではない。

もしそうなら、お金様と結婚したのであって、あなたと結婚したのではないのだから、離婚してもいいと思う。もっとたくさんの「お金様」が、その女にはお似合いだ。他をあたってもらおう。

しかし、ほとんどの妻は、つまりあなたの妻は、別にお金だけに眼がくらんで婚姻届に判を押したのではないはずだ。

「この人となら、一緒に生きていける」

「この人なら、信頼し合える」

そう思って、あなたと何十年も一緒に生きることを決めたのだ。

 

その決断の重みをなめないでほしい、と思う。

健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?

この誓いの重みをなめないでほしい、と思う。

 

家族とは、役割分担できっちり割り切れるほど、簡単でもないし、軽くもない。

合理性とは対極にある。

だからこそ実直な対話が必要で、お互いを思いやり助け合う努力が必要で、様々なことを乗り越えていく過程で育まれるものなのだ。

もっとパートナーはあなたそのものを必要としている。

もっと信頼しているし、頼りにしている。お金ではなく、あなた自身を。

 

なんか、同僚と話していると、そんなことを悶々と思うことがある。

【子育て】サンタクロースという欺瞞

「サンタクロースは本当にいるの?」

という子どもたちの質問に、なんかどっかの新聞社が美しい答え方をしたとか、夢を壊さないようにできるだけ合理的に説明できたとか、そんなツイートが12月になると溢れかえる。

反吐が出るな、と毎年思う。

結局やっていることは偽りと誤魔化しである。それは誰にも否定できない。

私は、12月24日の夜に「サンタクロースが届けてくれた」と称して自分が購入したプレゼントを子供の枕元に置くかどうか、親として嘘をついたり偽善を行なったりしたくなくて、かなり悩んだ。

そんな過程で考えたことをまとめてみる。

 

問1、サンタクロースは存在するか?

解答:存在する。

 

グリーンランド国際サンタクロース協会が実施している公認サンタクロースの資格を取得すれば、協会公認のサンタクロースになることができる。

試験はデンマークで実施される。

■公認サンタクロース 認定試験受験条件

  • 結婚していること
  • 子どもがいること
  • これまでにもサンタクロースとして活動した経験があること(履歴書の提出がある)
  • サンタクロースにふさわしい体型であること(衣装やその他装備込みで体重120kg以上)

 

そして、以下の体力テストを乗り切らないといけない。

■サンタクロース認定試験 体力テスト

  1. プレゼントの入った大きな袋を持って50mを全力疾走
  2. はしごで高さ2.8mの煙突に登り、煙突から家に入って暖炉から這い出る
  3. ツリーの下にプレゼントを置き、暖炉の上に置かれたクッキー6枚とミルク568mlを完食する
  4. 再び暖炉から煙突を登り、煙突から出たところで国旗を振る
  5. 煙突を降りたらさらに50mダッシュ

 

その後、先輩サンタクロースたちの圧迫面接に加えて、「HOHOHO」だけで宣誓文を延々と読まされる体育会系特有の嫌がらせにあう。その試練に耐え抜いたものだけが、サンタクロースになれる。

サンタクロース界とは、意外と縦社会で嫌な世界である。

2020年現在では、世界に180名のサンタクロースが実在し、日本にも1名の公認サンタクロースがいる。パラダイス山元さんという人だ。

まとめると「サンタクロース」というボランティア活動の国際資格はある。

その国際資格を取得した「サンタクロース」は存在するので、するかしないかと問われれば、存在する。

 

問2、では、子どもが想像する『サンタクロース』とはどんな人物だろうか?

解答:見ず知らずの白人・白髪・白髭・デブ・赤と白の服がユニフォーム・ソリに乗って24日の夜だけ上空を高速移動する・家宅に不法侵入をしても許される・自宅に不法侵入して何も盗らずプレゼントを置いていく・何らかの方法で思考を読みほしいものをあらかじめ突き止めてくる

 

こんなところだろうか。

おそらく、当初よりきちんと「サンタクロース」=「グリーンランド公認サンタクロース」の説明をしている保護者は少数だと思われる。

基本的には「いい子にしてたらサンタさんがプレゼントを届けてくれるよ」「サンタさん今年は何くれるかなぁ」などと供述しているパターンが散見される。このことから、多くの保護者が『サンタクロース』=「何かをくれるがいい子にしていないとくれない、保護者である自分たち以外の存在」として説明しているとみなすことができる。

これを踏まえて、前述の「『サンタクロース』は存在するか?」と子供に問われたなら、その答えは「NO」である。

なぜなら、『サンタクロース』の実態は現実には保護者と同一であり、購入予算は世帯主の収入から捻出されているからだ。どこかの誰かが、その子がいい子だからタダでくれるわけではない。つまり、両親が示唆するような『サンタクロース』という都合のいい存在は実在のものではない。

それは完全に噓偽りである。

 

問3、なぜ保護者は『サンタクロース』がいると嘘をつくのか?

解答:保護者が、子どもたちをぬか喜びさせることで、子どもたちの笑顔を見ることができるから。

 

つまり、保護者の為、親の為。

「子どもたちに夢を与えてあげたくて」

「子どもたちを喜ばせたくて」

というが、それは嘘だ。

 

つくりものの夢を与えることを、一般的には「詐欺」「欺瞞」「ペテン」という。

ありもしない幻想を信じ込ませ喜ばせて「親がみていたい笑顔」を搾取している。

だから、嘘をつくのは子どもの為ではない、自分の為である。

 

「人数が少なくて回り切れないから、本物のサンタさんから代行を頼まれたんだよ」というのも、残念ながら筋が通らない。

なぜなら、本当に公認サンタクロースから依頼がきていたとするならそれは事実だが、自発的にあちらから「代行よろしくお願いします」という依頼が発出されていないなら、それはただの妄想である。妄想ではないというなら、客観的な証拠が必要だ。

いやいや「本物のサンタクロースからは、テレパスで指令が送られてきたんだよ」と言うことができるかもしれない。

であるならば「サンタクロースからテレパスで代行の指令を受け取れる」ということを証明するために、子どもが一切情報を伝えなくても、本当に欲しいものを提供できなくてはならない。心を読めるサンタクロースが依頼者なのだ、そうでないとおかしい。

そして、そのプレゼントは無料で提供されなくてはならない。

 

いやいや「本物のサンタクロースが運営資金が足りないというから補助していた」と言うことができるかもしれない。

ダメだ。それはもう、結局サンタクロースはただ指示を出しているだけで予算を出していない指示厨でしかない。結局プレゼントをくれているのはサンタクロースではなく保護者だと認めていることに他ならない。

「プレゼントをくれる」という行為は、予算を出して届けるまでを言うのであって、そのどちらもアウトソーシングしてしまったら、本物のサンタクロースは「あなたのお子さんはこれが欲しいらしいよ」という情報提供だけだ。情報提供はプレゼントをしていることにはならない。

 

「サンタクロースはテレパスでほしいものを教えてくれて、予算が無いから私たちが補填していた」と説明するとしても、サンタクロースの定義そのものの説明を改めなくてはならない。

『サンタクロース』=「何かをくれるがいい子にしていないとくれない、保護者である自分たち以外の存在」ではなく、「何が欲しいかを保護者に教え、こっそり購入することを促すが、いい子にしていないと情報すらくれない、保護者以外の存在」だと説明しなくてはならない。

そんな存在に子供が夢を抱くだろうか。かなり関与が低い。ぶっちゃけあまりいてもいなくても変わらない。結局買うかどうかは保護者次第であり、普通に買ってもらうこととほぼ遜色ない。

唯一違うのは、心を読まれて何が欲しいかを把握されているということだけだ。

子どもにとっては、プレゼントの限度額を最大化させるための駆け引きを不利にする要素でしかない。むしろ、いないほうがマシである。

 

問4、ではなぜ、世の中の保護者の大半が『サンタクロース』を偽装するのか?

解答:親にそうされてきたから。みんながそうしているから。(同調圧力)それを愛情だと信じたいから。

 

それが「当たり前」だという長年の洗脳の結果である。

他の家がそうしているのに、自分の家がそうしなかったら「変に思われるかもしれないから」「子どもが浮くかもしれないから」と他責にする。

騙すことになるかもしれない、などと深く考えない。

周りがそうだし今までそうだったから、自分たちも詐欺に加担している。

自分以外のひとたちがやっていて、「社会」が「世間」がそうするから私たちは悪くない、と責任転嫁をしている。

それを愛情だと勘違いしている。

 

私は子どもの頃、親に嘘をつかれたことがとても哀しかった。

私が信じてきた『サンタクロース』は幻想だった。

そのこともショックだったが、それよりも、両親が、信頼している味方だと思っていた人間が、私を騙していたことがただただ哀しかった。

見ず知らずの私を、友達もいない私の善行を、ちゃんと見ている保護者以外の存在がいるというのは希望だった。しかし、そんな第三者などいなかった。

そんな都合のいい存在などいないことを両親はわかっていた。

わかっていたのに、私に「サンタクロースがいる」と、虚偽の発言を繰り返していたのだ。毎年毎年、何度も騙していたのだ。

その事実に深い失望感を感じ、とても傷ついた。

 

クラスメートから「まだ信じてんのかよw」とバカにされたことがきっかけだった。

クラスメートとは「信じる両親が『存在する』と言っているのに、お前は何を言うんだ、失礼だぞ、私の両親を嘘つき呼ばわりしてバカにするのか」と取っ組み合いの喧嘩になった。

家に帰ってから「サンタさんいるよね?!そう言ってたもんね??!」と確認したときに、父と母の目は大いに泳いだ。

そしてそのあとゴニョゴニョと誤魔化したのだ。

 

情けない。

情けなかった。

 

この情けない両親を信じた私が情けなかった。

そのときの両親の有様が、とても惨めにみえた。

そしてそんな人たちの言うことを信じて戦ってしまった自分が、ただただ惨めだった。

 

 

もし「サンタクロースはいる」という嘘をつくのなら、正確に意義を認識して腹を括るべきだ。

子どもからの信頼を贄として、「大人になると人は他人を騙す」という社会の不条理を疑似経験させるためにやっていたのだ、と。

「他人の言葉や『皆が信じているから』という同町圧力に流されず、事実を洞察できる推理力を養ってもらうための伝統的な儀式」だという位置づけで、世帯主の責任の下、この家でもこの慣習を取り入れたのだ、と言うべきだ。

騙したことが明るみに出たときには、子どもには、非礼を真っすぐに謝るべきなのだ。

もっともらしく「いるにはいる」みたいな言い逃れをしないで。

自分たちが楽しみたくて嘘をついたのだと認めなくてはならない。

それができないなら、騙すべきではない。騙るべきではない。

 

だから、我が家にはサンタクロースは来ない。

クリスマスプレゼントはある。両親から渡す。

得体のしれない誰かからの贈り物だと嘘をつかず。

古代ローマから続く太陽を神とあがめて行われた祭りとして、素直に祝われる。

我が家の太陽。子どもたちは太陽だ。だから愛情の表現の一つとして贈り物がある。

それだけでよい。嘘は要らない。

【出産】無痛分娩レポ・後悔しない産院選びの3つポイントまとめ

結論を先に書く。

無痛分娩がいい。選べるならそっちにした方がいい。

それをこれから書いていく。

 

自然分娩と無痛分娩、比較してみた

こんな感じ。

無痛分娩はその名の通り、痛みが圧倒的に弱い。そして苦しい時間は短時間で済む。

分娩室にいた時間をみてもらうとわかると思うけど、相当違う。子宮口が全開になる直前までベッドでリラックスできるのはとっても貴重。分娩台は大体硬くて寝心地がそんなに良くないので、ずっと陣痛に耐えながら硬い場所にきつい体勢で寝かせられるのは地味だけどめちゃくちゃしんどい。

自然分娩の第一子は、前駆陣痛で3日寝れないまま本陣痛を迎え睡眠不足と痛みでヘロヘロになりながら産んだ。精も根も尽き果て、最後の方の会陰切開(会陰を麻酔せずはさみで2〜3センチ切る)ではジョキンという音は聞こえたが全く痛みを感じないほど痛覚は限界を超えていた。

一方の無痛分娩では、前日もちゃんと眠れて、睡眠不足には悩まされなかった。付き添うパートナーもお尻を押したり一緒に寝ずにマッサージしたりしなくても良い。

自然分娩は無痛分娩より安いのが良いところ。

記事を公開したところ、さっそく感想で「+2万はかなり良心的。+15万のところもあるよ」ご意見をいただいた。産院によりかなり料金設定にひらきがあるようで、私たちがお世話になった産院はかなり良心的だったのかも。

相場としては、+10万前後。割とするなー、という印象。

少しでも費用負担を抑えたいなら、自然分娩かな。

正直これだけ負担が減らせるなら、私は10万払う価値があると思う。

私たちとしては、次回があれば、迷わず無痛分娩を選択したいと思うほど違った。

 

無痛分娩の流れ

そんな無痛分娩。

ここからは、第二子の無痛分娩の流れを時系列で振り返ってみた。

⭐︎はワンポイントアドバイス。

出産前日(8月31日)

15:00 内診

夜20:15から入院が決定。

もう産まれてもいい大きさになっていること、子宮口が1センチ開いてきていることを確認したため決定した模様。

9月15日が予定日だったので焦る。

⭐︎無痛分娩の場合、入院準備は早めにしておいた方がいいよ!

 

20:25  入院・入院の説明など
21:00   前処置開始

麻酔を投与するための管を留置する前処置。

背中に管を入れる。前処置が一番痛いらしいと助産師さんから聞いてビビるが、少し痛かったくらいで特に違和感もなし。

そのまま22時就寝。

 

出産日(9月1日)

6:00 起床

起きて速攻座薬を入れる。座薬が一番きつい(笑)。

座薬を入れて3回トイレに行き、お腹空っぽになる。

腹が減ってひもじい。

8:00 朝食

待望の朝食タイムで軽く絶望する。

⭐︎どうしても我慢できない空腹を想定して、必ずゼリー飲料などの流動食やカロリーメイトなどの軽食を持っていっておこう!

8:15 内診

意図的に破水させる処置。お腹少しちっちゃくなる。

良い感じに張りが進んでいて「早ければお昼頃に出産かな」と言われる。

陣痛促進剤を投与。

9:00  アロマセラピストさんのマッサージ

足をマッサージしてもらう。めちゃ気持ち良い。

9:30ごろに陣痛促進剤が効いてきているのか、お腹の張りが徐々に強くなる。

 

10:00 麻酔処置開始

痛みが強くなってきた感じがするので、麻酔を入れてもらう。

子宮口の開きは、5cmぐらい。

1回入れると1時間程度鎮痛効果が持続すると説明を受ける。

実際、10:20には全然痛くなくなった。

処置されて待機している間は病室。

こんな感じ。腕についているのは促進剤投与のための点滴。↓

陣痛始まりまっせ、くらいの痛みぐらいまでしか味わわないままなので「このまま本当に産まれるのかな?」と少し不安になる。そのくらい痛みがない。

 

12:00 停滞

子宮口をちょいちょい確認してもらうも、5cmから開かないで停滞中。

2時間経っても麻酔はまだ効いていて、痛くない。

 

13:00 麻酔追加

3時間経つと少しずつ痛みが戻ってきたので、麻酔追加。

「だいぶ下がってきているからあと少しだね」と言われる。

「お尻押される感じがしたら、全開に近づいているから教えてね」と言われる。

痛くないし、お尻の感じもよくわからないが、とにかく腹が減っている。

お昼ご飯も来なかったので、出産後に食べたい食べ物のことばかり考えるようになる。

15:23 子宮口全開

全く痛くなく、お尻を押される感じも全然わからないまま「来ねーなぁ」と病室でボケーっとしていた。

回診に来た先生に「え?!もう全開になってるよ!!頭出てるよ!!」と言われ、分娩室へ緊急搬送される。

15:48 出産

分娩台に上がって15分くらいで産まれる。

分娩室にいたのは25分。

いきなり頭を出した状態で妊婦が運ばれてきたので、準備していなかったスタッフたち、テンパる。10分で準備してくれる。

「もうちょっとだけど、麻酔どうする?追加で打つ?」

と聞く助産師さん。

「このままいけます!余裕っす(`・∀・´)」

とイキって追加投与を断った結果、後陣痛で結構な痛みを味わう。出産後、痛みと空腹からか嘔吐する。

 

⭐︎「イケるかも」と思っても、痛いのが嫌な人は麻酔をしっかり追加しよう!(多少痛い方がいきみやすいらしいので、初産の人は多少痛みを感じられた方が逆に良いかもしれない‥。)

18:00 念願のご飯

やっと食べられたけど、吐く。しょげて薬を飲み横になる。

 

⭐︎一般的に術後悪心嘔吐には、オンダンセトロンやグラニセトロンなどの制吐剤が有効で、2021年9月から保険適用にもなったので、覚えておこう!

19:00 回復

麻酔で麻痺していただけで、思いのほか疲れていたのか、横になっていたら落ち着いてくる。

出産翌日以降

ご飯を食べたりおやつを食べたりたまにアロママッサージしてもらったりしながら、優雅に過ごす。

新生児のお世話。おっぱいをあげたりオムツを替えたりする。

自然分娩の時のような疲労感が残っていないので、あまり新生児の世話がキツくないように感じる。

そして検査等特に問題なかったので、退院。

 

まとめ:無痛分娩で産院を選ぶポイント

今回の経験から、産院を決める場合に確認しておきたいポイントを3つにまとめる。

①助産師さんが子宮口を確認できるかどうか

第一子の産院では、助産師さんのスキル不足で子宮口の開き具合をドクターしか確認できなかった。そして分娩室に放置して全然様子を見にも来なかった。

今回の第二子の産院は、助産師さんが子宮口の確認から新生児の取り上げまで行えるスキルがあった。定期的に様子を見にきてくれて、ちゃんと適切な処置ができた。

この違いは、大きい。

結局子宮口が開いていないことには出産できないので、自然分娩でも無痛分娩でもこの開き具合の確認はこまめに行わなくてはならないが、助産師さんが確認できないと、必然的にドクターしか判断できない。ドクターは忙しいのでそんなに頻繁に確認はできない。結果として、苦しむ時間が無駄に長くなる恐れがある。

第一子の出産時、強い陣痛が来てもうそろそろなのでは?と訴えても「子宮口が開いたら産まれますから」と壊れたレコードのように繰り返すばかり。自分では子宮口が開いているか確認できないくせにのらりくらりとしている助産師に対して、業を煮やした付き添いの夫がブチギレた。

「君に確認する能力がないのはもうわかった。君に出来ないのなら確認できる人間を連れてこい。そして速やかに確認しろ。妊婦である当事者がその必要があると言っているのに、必要があるかどうか判断出来ない君と話しても仕方がない。判断できる人を連れてこい。」と強くいうと、渋々呼びにいった。

医師にみてもらったところすでに全開だった。ぶっ殺してやろうかと思った。

 

②医師が日本産科麻酔学会に所属しているかどうか

無痛分娩のかなめは麻酔である。

麻酔に詳しくない医師の場合、何が起こるかというと、夜出産になったときに自分で麻酔ができない。なので、非常勤で外部から麻酔医を呼んで処置するのだが、夜に連携先の麻酔医を外注することは、基本的にできないと考えた方が良い。

つまり、無痛分娩を謳っていても、夜間の陣痛には対応できない産院が存在する、ということだ。

無痛分娩は基本的に計画的に生むので、前日の夜に入院して当日昼に生まれるように前処置をするし陣痛促進剤を投与するが、もし予定がずれ込んだ場合、麻酔処置に対応できないスタッフ編成の産院の場合、無痛分娩を諦めなくてはならなくなる。

なので、医師が「日本産科麻酔学会」に所属している医師かどうか、をよくみて決めてほしい。

この学会に所属している医師は、基本的に無痛分娩や帝王切開に必要な麻酔の情報をしっかり知っていて、対処方法を学んでいるし、スタッフ教育も熟練していると考えて良い。信頼できる一つの指標である。

 

③アロマセラピストがいるかどうか

入院中、地味に助かったのが、アロマセラピストの存在。

アロマを使った足のマッサージを術前術後にしてくれるし、出産時に立ち会ってくれるところもある。

安眠できるように好みのアロマを就寝時にセットしてくれるので、入院中とてもリラックスして過ごせる。

マストではないが、とても重要なポイントだった。

 

 

以上、参考になれば幸いです。