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【共依存】違うからおもしろい

私は妻と結婚してよかったなー、と心から思うことがよくある。

今日は入籍記念日。

空は青く澄んで晴れ渡り、鳥の声と虫の音が聞こえる。

秋の訪れを予感させる涼しい風が吹き、まだ夏の余韻を残す暖かい日差しが降り注いでいる。

 

妻と私

私と妻は、全く違うタイプだ。

「なんで結婚したの?」と知人から訝しげに聞かれるほどに。

 

私はASD/ADHDで、人間が基本的に苦手だ。

人の集まりなどは、極力避けたい。近くに人がいるだけで疲れる。

ひとつのことにしか集中できない。マルチタスクができない。

熱中しているときに他人に邪魔されると発狂しそうになる。

しかし、集中すると驚くべき行動力と創造性を発揮すると言われる。

そして愚直で嘘が下手で、論理的な思考が好きだ。

なので、冗談がわからないし言うのが下手だ。

 

妻は、友人にいつも囲まれている。

求められて、よくいろいろな人と交友している。それが楽しいらしい。

抜けているところはあるものの、基本的に同時進行でいろいろなことを片付けていく。

集中する、というのが苦手で、本人は何かに没頭できないことが悩みだという。

しかし、今を最大限に楽しみ機嫌よく過ごすことについてはエキスパートであり、その生き方はとても清々しい。

本人も言っているが、本人の言動の8割は冗談で構成されていて、虚実入り混じるというか、なんとなくニュアンスで伝わればいい、というコミュニケーションスタイルである。

 

私は妻と出会ったとき、なんとなく直感があった。

「このひとなら、ありのままの自分を表現しても否定されないのではないか」

「私に無い世界を見て、私に無い発想で驚かせてくれるのではないか」

その直感は当たった。

私とは全く違う、世界観と背景を持っていて、私には驚きの連続だった。

 

妻も実は同じように感じていたようで「こいつ、変わってんな」と思ったそうだ。

私の印象は「ロボットのようだった」とのちに妻は語る。

いろいろ考えながらしゃべっているので、いつも反応がワンテンポ遅い。

冗談を言うと、毎度真に受けて青ざめる。

それを妻は「おもしろい」と感じたらしく、しつこく交際を申し込んでくる私は特にタイプではなかったが「おもしろそうだから」と交際をOKしてくれたらしい。

当時の私はと言えば「この直感を感じたのはこの人だけだ。この人に交際を申し込んでダメだったら、おそらく今後もダメだろう」と謎の焦燥感を抱えて猛アタックしていた。

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった縁だった。

それが二人の子宝に恵まれて、今最も幸せな人生の時間を過ごしている。少なくとも私は。

人生とは、数奇なものだ。

 

似ているからうまくいく?

似ている人を好きになったこともある。

しかし、それは長続きしなかった。

似ている、ということは、同じであることを期待させる。

全く別の人間なのだ、違って当然。なのに、ちょっとでも違うと、裏切られたように感じる。

それはなぜかというと、自分の延長線上に相手を見てしまうから。

寄る辺のない自分と相手を「同化」させることで孤独を埋めようとすると、移植した細胞が拒否反応を起こすように、様々な軋轢を生じさせる。

似ていれば似ているほど、期待は大きくなり、それが叶わないとき強い怒りを感じる。

相手は自分とイコールなのだから、自分の思う通りに動いて当然と思い込む。

とんでもない傲慢だが、勝手にそうとらえてコントロールしたがる。

意に沿わない結論を相手が出したとき、「間違った結論」に至った「原因」があると信じ込み、相手の結論を変えようとする。

相手を尊厳ある別人格の個体として尊重していない。

尊重し合えない関係は、互いに怒りと恐れと不安を生む。どんどん不快になっていく。

なので、片一方が精神的に自立した結果、違和感に気づいて離れようとする。

すると、まだ相手が自分と地続きにいると信じているもう一方は、恐れと不安から激しく抵抗する。自分の半身を無理やり引き剥がされるような恐怖の感覚に陥る。

これが当人たちが「共依存」の状態にある証明でもあり、病んだ関係の末期症状でもある。

嫌いなのに、離れられない。好きなはずなのに、一緒にいるだけで苦しい。

終わりを告げる側が罪人扱いを引き受けて切り離さない限り、この地獄は続く。

告げられたほうは、被害者という免罪符を片手に握りしめて、相手に罵詈雑言を浴びせたり、泣いたり謝ったりして憐れみの情を催すよう働きかけたりする。

そして、それでも結論が変わらないことを悟ると、センメルヴェイス反射よろしく、相手のすべてを否定して拒絶する。

つまり、この場合、似ているからこそ、うまくいかなかったといえる。

似ているからこそ「理解し合える」という幻想を信じてしまった。

だから、その幻想を維持できなくなった瞬間、夢から醒めるように関係も終焉を迎える。

そして、修復不可能なほどに傷んでしまう。

 

人間は誰もが不完全だ。

完璧な人間など、この世に一人もいない。

だから、不安にもなるし、寂しくもなる。

誰かに認めてもらわないと、自分には価値がないのではないか、と不安と焦燥にかられる。

理解し合えるもう一人がいれば、と夢想する。

 

しかし残念ながら、他人と「理解し合える」というのは、不可能だ。

共感することはあっても、他人の感情や世界観をそっくりそのまま実感することはできない。

人間が鳥や虫の気持ちを想像することはできても、実際に彼らになることはできないのと同じように。

理解しているつもりになるだけだし、理解してもらえたつもりになるだけ。

すべては妄想だ。

 

違うからこそ、おもしろく、違うからこそ、知らなかった新しい自分を知ることができる。

それは喜びであり、生きていくうえで必要な刺激だと私は思う。

外界との輪郭を得るからこそ、「自分」という認識が成立している。

違う角度から光を当ててくれる光源が、自分とは違う人である。

だから人間嫌いの私も、哲学書を通じて古代ローマの哲学者などの死者が考えてきた思想に、自分の価値観のカタチをみて、ワクワクする。

 

死者は嘘をつかない。生に固執して偽りを言うことがない。

生きている人は、自分を利するため、生き残るために、息を吐くように嘘を吐く。

それは良い悪いではなく、生きている限り当然のことで、私もそうだ。

だから、そういうものだと思っておくのがよい。

嘘を言うかもしれない他人と、いくら言葉を重ねても、最終的に完全な理解に到達することはできないだろう。

言葉には限界があり、表現にも限界がある。

そのなかで互いに意味を推し量り、理解を確認し、なんとか繋がっているのである。

その蜘蛛の糸のようなか細い繋がり。

それをいくら集めても、心もとなさには変わりがない。

むしろ、糸が切れる毎に、儚い細さを実感するたびに、より寂しく孤独感を募らせていく。

 

この終わりなき孤独の連鎖から抜け出す一つの処方箋。

それが、「違う」を「おもしろい」と捉えることだ。

違うから許せる。

違うから自分が見える。

違うから魅力を感じる。

違うから、愛せる。

 

違いを受け容れるから、自分も他人も違っていいんだ、と思える。

目を覆いたくなるような欠点が、眩く光り輝く美点に変わる。

自分とは違うひとを、受け容れ許すこともできる。

そして、他人を赦せる人は、他人からも許される。

 

財布のひもをがっちり引き締めている人に対しては、 愛想の示しようもない。 手は手でなければ洗えない。 得ようと思ったら、まず与えよ。

引用:高橋健二編訳「ゲーテ格言集」新潮文庫

 

 

結局、求めていた承認や安心感というのは、違うからこそ生まれるものなのだ。

同じでいよう、そうすれば傷つかないで済む、と己の保身のために似ていると思い込める他人に近寄っていって、最終的にはそれまでより深く傷つく。そんな不毛なことはもうやめよう。

違ってもいい、合わなくてもいい。

合わなければお互いに距離を取ればいいだけのことで、お互いはそれぞれありのままであればよい。双方には善悪はなく、正誤もない。

 

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった、私と妻の縁がこのうえない良縁だったのだから、間違いない。

【共依存】呪いを愛と騙る

引用:『呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校』

人工甘味料と共依存

私は、この五条悟のセリフに違和感がある。

呪いなのは、愛ではなく、偽愛。

つまり共依存ではないだろうか。

彼は、共依存を愛と混同しているように思う。

 

 

人工甘味料は「つくりもの」であり偽物である。

人工甘味料には、サッカリン、アスパルテーム、ネオテーム、スクラロース、アセスルファムKなどがある。

カロリーゼロやシュガーレスを謳っているほとんどの商品には、これらの人工甘味料が使われている。

砂糖(蔗糖)の350倍(200~700倍)があると言われるこれらの物質を、一般的に人々はあまり気にせずこれらの物質を日常的に摂取している。

実は、砂糖のほうがまだマシなほど、人体には有害な物質である。

知らず知らずのうちに「ホルモンに作用する」「味覚を鈍化させる」「依存性がある」「腸内細菌への影響」「うつ病のリスク上昇」「腎機能低下」「脳卒中・心筋梗塞のリスク上昇」など様々な悪影響を受けている。

罪悪感に悩まされず甘いものを食べたい。

その欲望を狙って、金儲けのために製品化された毒物。

売るほうは金が欲しい。買うほうは言い訳が欲しい。

言い訳を金と交換している。無意識に自分自身を犠牲にして。

そこに愛はない。自愛も他愛もない。

 

共依存はまさに、この取引関係によく似ている。

「他者承認」が通貨。「安心」という自分への言い訳。

 

 

本当は、自分も他人も愛していない。大切にはしていない。

他人を道具に使っている。

偽りの「安心」を得るために「他者承認」を引き出す、あるいは与える。

そうして、しんどい人生から目を逸らし、見て見ぬふりをする。

人工的なその場しのぎ。

 

偽りの安心は、不安と恐れに苛まれる人にとって、甘美で刺激が強い。

「もっとほしい」「まだ足りない」・・・際限なく求める。

 

他人に気に入られるために自分を押し殺す。

他人から望む反応を引き出そうとコントロールしようとする。

自分のことを蔑ろにして、他人のことばかり考える。

 

基本的に人工甘味料のように本来は毒なので、摂れば摂るほど病んでいく。

気づけば、より多くの大切なものを手放している。

他人ばかりで占められた心。その芯には何もない。

スカスカのままの自分に、いずれは途方に暮れることになる。

他人も自分も承認していないので、通貨は底をつき、ついには尽くしていたはずの他人すら忌避して離れていく。

なにも無くなる。

 

共依存という偽愛は呪いになる

呪いのように自他を縛る鎖になるのが、共依存。

「あなたのためを思って」という前置きから始まる精神の束縛。

愛を騙り、呪いをかける。

 

たとえば親子。

「あなたのためを思って」と親は子に言う。

○○をしなさい。○○を頑張りなさい。○○になりなさい。

転ばぬ先の杖を両脇に抱えて、口うるさく指示する。

人生は、本人が決めて、本人が行動の責任を経験する権利がある。

その権利を取り上げて、自分の所有物のように扱う。

モノとして扱われた子供は、嫌だという気持ちを殺す。

私は愛されていると信じたい。この苦しい過干渉が愛だと信じたい。

だから、親になったとき、あんなに嫌だったはずなのに、我が子に繰り返す。

世代間連鎖が巡り巡る。呪い以外の何物でもない。

 

たとえばカップル。

「あの人は私が居ないとだめだから」と男の世話を焼く女。

相手が立ち直ろうとすると、ダメなところを必死に探す。

相手がダメでなくては「ダメな人間を支える私」という存在理由を失うから。

相手が自分より下でなくてはならない。ダメでなくてはならない。

だからいつまでも変わらない。

「あの人はいつまでも、どれだけ言っても変わらない」

心の底では変わらないことを望んでいるんだから当然のこと。

自分が相手をダメなままでいるように縛り付けている。呪っている。

相手は相手で「よくならなくていい」という甘さに溺れ依存している。

用意された「ダメなひと」という飼育スペースのなかにいれば、尊厳を失う代わりに、わかりやすい痛みを感じなくて済む。

しかし偽りの甘さで心の渇きは癒えない。閉塞感は静かに精神を押しつぶしていく。

いつか殺し続けてきた本当の思いは、鬱積し腐敗して恨みとなり爆発する。

ぶつけられて狼狽し「私はこんなにあなたに尽くしてきたのになんで」「あなたのためを思ってやってきたのにひどい」と嘆く。

全ては、身から出た錆。

 

まとめ:あなたの中の最良のものを

共依存は一見すると、愛と見紛う。

愛とは、そんなに粘着質ではない。取引関係ではない。見返りを求めない。

ベクトルは、双方向というより循環であり、潜在的である。

損得とは切り離された、爽やかな贈り物のようなものだ。

受け取るか受け取らないかは、相手に委ねる。

あなたのなかの最良のものを、ただ手渡すだけ。

 

『あなたの中の最良のものを』

人は不合理、非論理、利己的です

気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

気にすることなく、善を行いなさい

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう

気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう

気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう

気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう

気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう

気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい

たとえそれが十分でなくても

気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。

 

マザー・テレサ

 

実は、愛の対象は「他人」という特定の相手ではない。

「全てあなたと内なる神との間のこと」というのは、そういうこと。

内なる神とは、人によっては「良心」であり、自分のなかにある、自分より大きな「流れ」を意味している。

諸行無常。

全ては移ろい、川の流れのよう。

その流れに身を任せる、水の一滴に過ぎない。

私たち一人一人は。

自分・他人と区別するのは自分の心。

水の一滴同士で「あっちが優れている」「こっちが正しい」とマウントを取り合い喧々囂々としているのが、世の中。

本来はもともとひとつ。

水を型にはめることができないように、大河のすべてを意のままにコントロールすることなどできないように、私たちには変えられないもののほうが多い。

他人だけでなく私たち自身もまた、本来コントロールできるものではない、ということ。

 

川の水が、太陽に光り輝くように、そのなかに命を育むように、愛とは、すでにそこにある。

どこにでも宿る美しい輝き。

だから、他人という水滴が、自分の行いを認めるか認めないかなど、気にする必要もない。

川全体に届くか届かないかも、気にするようなことではない。

今この瞬間に、最良だと信じられることをする。

他人に非難されようと、世間に認められなかろうと、自分が最良だと思うものを、無理のない範囲でただただこの世界に与え続ける。

それだけでよい。それしかできない。

それが愛である。

 

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お盆である。

実父母とひさびさに三日間過ごしてみて改めて感じたことについて、書いてみる。

 

実母の生い立ち

実母は、AC(アダルトチルドレン)でありACoA(アダルトチルドレン オブ アルコホーリックス)の当事者だが、否認しており回復に繋がっていない。

アルコール依存症の父(私から見た母方の祖父)の壊れた機能不全家庭に育った。

祖父もまたACで、母親の共依存から逃れられないままの人生を生きた。

脈々と引き継がれてきたACの系譜。

その先に私がいる。

 

実母の人生を振り返ってみよう。

実母は祖父から「食うのに困らないのは教師だから、教師になれ」と人生のレールを敷かれた。そして、それに従って生きてきた。

なぜかといえば、祖父は成功者のレールから外れてコンプレックスを抱えており、権威主義と満たされなかった承認欲求に支配されていたからだ。

祖父は、次男でありながら彼の母親に共依存的に頼られて、当時勤めていた総合商社をやめて地元にUターンした。海軍の軍役を終えて、幸運にも総合商社という経済的に裕福な生活が送れる職業に就いた祖父は、おそらく優秀だったのだろう。そしてその自負もあったはずだ。

その経済力を魅力に感じて、そして次男というポジションから介護とは無縁であると期待して、祖母は祖父と結婚した。結婚後突如として表れたUターンするという話は彼女にとって青天の霹靂であり、ひどく狼狽して激しく反対したそうだ。

その反対を押し切って、総合商社を退職したのは、祖父の兄(長男)が「地元に帰ってくるなら仕事を世話してやる」と約束していたからだ。

しかし、その約束は結果的に反故にされた。祖父は兼業農家として貧しい暮らしを強いられることになった。

貧しいばかりか年老いた母親の介護まで祖父母に押し付けられ、祖母は祖父に対する好意を急速に失っていったという。思い描いていた人生設計がものの見事に粉砕されて、祖父に対しては憎しみさえ抱いていたことだろう。その話を娘である実母にするくらいなので、そうとう腹に据えかねていた様子がうかがえる。

祖父は、自分の選択ミスにより針の筵と化した家庭の居心地の悪さと自分のACとしての生きづらさを紛らわすために、アルコールに依存することになる。

いつもREDウイスキーの瓶を枕にして寝ていたというエピソードから、私と同じようなアルコホーリクだったと容易に想像できる。

祖父は、愛した女性は自分そのものではなく自分のステータスや経済力と結婚したのだとわかって、絶望と自暴自棄に埋没した。

口を開けば母親に世の中に対する恨み言ばかり言っていたそうだ。完全なるマルトリートメントである。

実母は、そんな祖父に過干渉され、祖父を憎む祖母の苛立ちを八つ当たり的に日常的に浴びせられた。そしてその地獄のような家庭環境は、実母をしっかり伝統的なACとして育んでいった。

 

実母の現在

そして今も彼女は、ACとしての生きづらさを抱えたままだ。

息子や娘の就職先は有名企業や社会的に地位が高いと認識されている専門職(医師・薬剤師・弁護士・裁判官など)でなくては満足できない。

なぜなら、祖父から刷り込まれた権威主義を今も引きずっているから。

人生を、父親に言われた職業に就くため・母親から小言を言われない「いい子」であり続けるために費やし、自分のインナーチャイルドを窒息死させたまま生きてきたため、自己肯定感が低い。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第一章:インナーチャイルドを知る」

 

そのため、他者からの承認を求め、正しさに固執し、嫌われないために行動する。

しかし、それこそが他人との健全な関係構築を遠ざける。

その証拠に、彼女にはいつも親しい「友人」がいない。損得や共通点で繋がっている他人はいるが、胸の内を打ち明けられるような、心から信頼している他人が一人もいない。

だから常に孤独。その孤独を埋めるために、子どもに共依存する。

祖父の母親がそうであったように、祖父がそうであったように、子どもの人生に過干渉しイネイブリングする。歴史的にその方法しか子どもに対する関わり方を知らないので、不可抗力ともいえるが、子どもである私からすれば、たまったものではない。

実父はそんな実母にかける言葉も提示できる解決策もなく、居づらさや後ろめたさを隠すように、仕事に依存して家庭になかなか帰らなくなる。

マンツーマンで相手をさせられるのは、長男である私だ。

実父の代わりに、実母の愚痴を聞き、実母がかけてほしいであろう言葉をかけ、彼女の孤独を埋めるための「道具」に使われる。

子どもは生活力がないうちは家庭を離れることができない、私は母親から逃げられない。

逃げ場を失った私を人ではなくモノとして使っている自覚が彼女にはない。彼女のなかでは「愛情を注いでいる母親」であり、その愛情の見返りとして、子どもが自分に対して「お母さん大好き」と言うなど「承認欲求を満たしてくれる対価」を差し出すのは当然のことだと勘違いしている。

だから、自分を慕ってくれないとひどく気分を害して不貞腐れた結果「構ってちゃん」になる。「私はこんなに尽くしているのに」と罪悪感を煽って自分がしてほしい行動を引き出そうとする。

これは、ACがよくやりがちな「コントロール」であり、子どもを自分に都合がいいように「道具化」して支配しようとしている状況だ。

なので、私が成人した今も、私がきちんと満足できる優良企業()で働けているかどうかを真っ先に探ってくるし、何かしら世話焼きができる欠点がないかどうか「心配する」というふりをして詮索する。そして欠点らしきポイントを見つけると、舌なめずりをしてあれやこれやとアドバイスという名の過干渉をし始める。

本人としては、本当に本人の未来を案じていて「善き母親として子どもを気にかけている」と思っているのだろう。

本当に子どもを愛していて善き母親であるならば、成人した既婚者の息子に対して余計なことは言わず、ただ信頼して見守るものだ。

相手にはもう責任能力があると信じていて、そのように親として関わってきたという自信があり、対等に尊重している関係性なら、過干渉や詮索行動は起こりえない。

相手が我が子だという関係性を笠に着て、成人した尊厳ある人間との適切な境界線を見失っている。

自分の生きづらさと向き合う工程がゴッソリと抜け落ちて、精神は満たされない子供のまま、大人になり親になってしまったから、自分の人生以外のところ、すなわち息子の人生にいつまでも関わろうとする。

 

回復する私と取り残される実母

私がACを受け容れ回復のために歩み始めたことで、離れようとする私の挑戦に、幾度となく実母は抵抗運動をした。

さめざめと泣いてみたり、怒り狂ってみたり、息子が一生添い遂げようと決心してプロポーズした妻のことを低学歴だ気にくわないなどと侮辱してみたり。

全てが、私の目を覚まさせるには十分すぎるほど、毒親のそれだった。

そして今も、私が幼少期に惨めなACとして貢いできた労働の歴史を、息子から愛されている証明と勘違いして、過去の話を持ち出して反芻しては、息子側の認識の違い・現実と妄想との乖離に心を痛め、あからさまに落ち込んだりしている。

過去の思い出話しかすることがなく、現在の自分・未来の自分に関する話がひとつもないのは、そういう現実逃避の仮想世界にいるから。

今回接してみて、未だにその世界にいるんだな、と実感した。

とても残念だ。しかし私にはどうしようもない。

彼女の問題は、彼女にしか取り組むことができない。

 

親孝行とは、いったいなんだろうか。

私は親になってみて思う。

親孝行とは、すでに完了した過去である。

子どもは我が子として存在してくれただけで、もう十分すぎるほど様々なギフトをくれたと思っている。

自分の人生を、素直に真っすぐに生きてほしい。

私や妻などに関わっていないで、想いのままに生きてほしい。

その邪魔になるくらいなら、早々に退場したい。

私から与えてあげられる、彼ら彼女らが自分らしく生きるために必要なものなら、見返りが無くともいくらでも差し上げる。

代わりに私を愛さなくてもいい、憎んでも構わない。

褒められもせず、苦にもされず、そんな存在であればいい。

もう、親孝行は、生まれた時点ですでに済んでいる。

 

まとめ:親の愛

親の愛とは、そういうものではないだろうか。

フロムは『愛すると言うこと』で「精神的に成熟した人間でなくては、愛することを実践するのは難しい」と説いている。

 

いい子でなくてもいい。

私のことが大嫌いでもいい。

障害があってもいいし、うまく社会に馴染めなくてもいい。

他人と比べて優秀でなくてもいいし、誰かに認められる何者かでなくてもいい。

その子が、その子らしくあってくれさえすれば、それだけでいい。

 

成熟したインナーアダルトを持つ親とは、子どもに対してこんな想いを抱いているものではないだろうか。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第二章:インナーアダルトと共に」

 

なぜなら、その子は「自分の延長」ではないから。

所有物や「道具」ではないから。

思い通りになんて、ならなくて元々。

彼ら彼女らの人生は、本人のものだ。

親であろうと、他人である私がコントロールすべきものではない。

 

悪夢のようなACの世代間連鎖を断ち切る。

そのためにはまず、私は私らしく生きることに、全力でなくてはならない。

私は、私として精一杯生きて、しっかり己の宿命を生きたと胸を張って死にたい。

自分の人生の課題を、子どもに背負わせることだけはしたくない。

実母のような「愛を嘯く呪い」ではなく、「どこにでも宿る愛」でありますように。

切れ切れの愛として彼ら彼女らの世界の一部となり、爽やかに忘れ去られますように。

偽らざる愛情とは、そういうものではないだろうか。

 

 

 

【共依存】仕事に逃げる男たち

男たちが仕事にこだわる理由。

それは結論から言えば「人生から逃げるため」である。

 

彼氏彼女の幻想の崩壊

男はジェンダーロールという呪いを背負っている。「強くなくてはならない」「社会で成功しなくてはならない」「仕事をして稼いでこなくてはならない」という洗脳を受けて大人になる。

これは戦前から連綿と続くアメリカでいうマッチョイムズである。日本では「家長」としての父親像から端を発する。戦後の核家族化・高度経済成長の流れのなかで、徐々に男性の役割が「家長」ではなく「大黒柱という名のATM化」に移行していくが、ジェンダーロールは今までの時代の流れから形成されている呪いである。

この呪いは根深い。

専業主夫という概念を若干見下す一定の世代の偏見は、こうした既存の価値観からきている。

「男は外で汗水たらして金を稼いでくるのが役割」だと刷り込まれている。

その価値観を引き継ぎ是とするままのこの現代社会で、若者が結婚する気になれるわけがない。

昨今の若者は、生まれてからずっと経済社会が悪くなるところしか見ていない。バブル崩壊後どんどん経済が低迷していき、ろくな景気対策もできない政治をする大人たちを見て育ってきた。経済が上向かない・よくなる未来が全く見えない今の日本で「金を稼いで家族を養う」なんてできないと絶望しているのである。

だから未婚率が高くなるのは必然だ。

 

結婚できたとしても、結婚生活がうまくいかない。

なぜなら「結局は自分が稼いでこなくてはならない」というプレッシャーを常に感じながら生活していて、仕事に重点を置かざるを得ない心理的呪縛が抜けないからだ。

結婚すると生活は一変する。

まるでナウシカのように、彼女は優しく自分をあるがまま受け容れてくれる存在だと、付き合っているときには勘違いしている。その認識のまま結婚する。結婚して妻になり子供が産まれた瞬間、彼女だったあの子はもういなくなる。完全に消滅する。

女性はその子の母になる。旦那の世話など二の次・三の次、いや果てしなく優先順位は下だ。

それは当然であり、男たちが勝手に勘違いして幻想を抱いていた彼女像が、そもそもの認識間違いである。

妻は、夫の母代わりではない。

独立した別の人格を持つ、尊厳ある一人の人間であり、共同生活を共に営む、いうなれば相棒・会社でいうところの共同経営者だ。

しかし男たちは、妻を、自分のことを一番に考えてくれて辛いときは慰めてくれて、欲しい承認欲求を与えてくれて、守るべき存在でありながら自分を包んでくれる存在だ、と思い込んで結婚している。

そんな風に妻のことをいつまでも自分だけの女神さまのように思ってきて、ある日「あれ?なんか思ってたのと違うな」となる。

子ども最優先になり、今までやってくれていたことはできなくなる。

妻はホルモンバランスが変わり、子ども最優先で行動するよう生体からプログラムされている。夫のことは、男性としてではなく子育てチームの一員としてみるようになる。ガラリと変わるその様は、男性にとって、まるで妻が別人になったかのように見える。

それは母として最適化するよう遺伝子にプログラムされていることなので、本人たちにもどうしようもない。

そして、夫が家事育児の領域で役に立たないと、妻はむちゃくちゃイライラする。そもそも寝不足で身体はガタガタなのでメンタルのコンディションは最悪だ。あらゆることが癪に障る時期なので、どうしようもない。役に立っていても基本的には存在しているだけでムカつく、そんな感じだ。

そうなると次第に夫は妻に、妻は夫に不満を持つようになる。

「付き合っていたときとは、変わっちゃったな」

「こんな人だとは思わなかった」

そもそも付き合っていたときに感じているときめきが一種の幻覚であり恋の「病」。異性に求めていることが根本的にマザコン的な依存である男性は、それをいつまでも叶えてくれるなんていうのがとんでもない幻覚妄想の類で、スタートから間違いなのだが、徐々に夢から醒めていく。

そしてある時期から「なんでこんな人と結婚したんだろ…これが望んだ結婚生活なのだろうか?」と夫婦ともにお互いが小首をかしげはじめる。

しかし、それを直視した先に、「離婚」あるいは「別居」という重いテーマに対峙しなくてはいけなくなることを、うすうす気づいている。

だからお互いに見て見ない振りをして、夫は仕事に逃げ、妻は子どもに逃げる。

その結果、2人のコミュニケーションは劇的に少なくなる。お互いに対する徐々に不満と怒りをため込む。ため込んだ不満と怒りは腐敗して、消しがたい恨みとなっていく。

そして両者の溝は決定的に埋めがたいほど深くなっていく。

 

仕事に逃げる男 子どもに逃げる女

両者の関係が険悪になるにつれ、一緒にいることが辛くなってくる。

ひとつ屋根の下共同生活を送ることそのものがストレッサーになり始める。

そうなると、男は仕事からなかなか帰ってこなくなる。

「家にいるより仕事をしていたほうが心理的ストレスがないから、朝早くても夜遅くても大丈夫です」

とは、最近新生児が生まれた後輩のMくんの発言だが、まさにこれだ。

そもそも二人でいることが辛いのに加えて、子どもは夜泣きするし、妻はいつも不機嫌だし、家庭にいる時間を針の筵のように感じているのだろう。

つまり、生きづらさの逃げ道として「仕事」を選ぶ。

社会的には仕事にまい進するのは肯定されているし、頑張って成果を出せば、組織内で評価してくれる。

条件付きではあるものの、かつて彼女に求めていた「俺を認めてほしい」「俺を褒めてほしい」という承認欲求を満たしてくれる体験を仕事に見出せるのではないか、と考える。

出発点として、自己肯定感とは、「自分が」「自分を」ありのままで存在を肯定できることなので、それがないから彼女に求めているところに、男性たちの闇がある。

結局は、他人の承認なくして自分の存在を価値あるものと認識できない男たちは、スタートからすでに共依存の病を抱えているのである。

しかしそんな概念をもちろん知りもしないし、自分が病んでいる自覚もないので、内省には至らない。

母として子を見るようになり自分を見てくれなくなった妻を逆恨みし、会社に足しげく通う。共依存相手を、妻(かつての彼女)から会社にシフトする。

だから、成果を出してもなかなか認めてもらえないと、望んでいるもの(承認欲求)を差し出さない会社を恨み、同僚と飲みに行って愚痴を言ったりするのである。

もっと評価されよう、もっと褒めてもらおう。よしよししてもらいたい一心で仕事を生活の中心に据えて、関係が悪くなり居心地の悪い家庭のこと、満たされない自分のことに向き合うことから逃げ続ける。

 

かたや妻のほうはといえば、逃げまくる夫に家事育児を押し付けられて、途方に暮れる。

かつて頼りにしていたカッコいい彼氏は消え失せて、独り。孤独感と閉塞感でいっぱいだ。

家から出られない。か弱い子どもの命を常に守らなくてはならない親の重責を抱えて、一時も休みがない。

そうなると、夫の環境に嫉妬する。夫は仕事とはいえ外に出ることができるし、独りの時間を持てる。自分には持てないものを享受していると、嫉妬する。

自分は我慢していることをさんざん日中やっているくせに、家に帰ってきても一向に戦力にならない夫に、怒りが蓄積されていく。

「あなたはいつもなんで何もやってくれないの?!」の裏には「私は苦しい、私を助けて」という本音が裏側にあるが、YOUメッセージ(主語に「あなたは」がくる)で伝えているので、夫は否定され責められているようにしか感じない。次第に聞いているのが辛くなり聞き流すようになる。ますます共依存で仕事に執着していくだけ。夫は妻のSOSに気づかない。

ある時期から、妻は悟りをひらく。

「ああ、こいつには何を期待しても無駄だ」

そう思って、期待するのを諦める。

夫は「最近小言を言われなくなったな」と内心ホッとする。実にアホである。なぜなら、この諦めは最後通告を無視し続けた末の完全なる決別の証であり、関係修復が絶望的になったことを意味するからだ。

この諦めの瞬間から、妻のなかでは夫はもう家族の一員ではなく「言葉をしゃべって飯を消費するATM」であり、人ではないのである。もはや期待しているのは稼ぎだけになる。

生きていても死んでいてもどうでもよくなった夫のことはさておいて、妻は子どもに失われた時間の対価を見出そうとする。

「子どもがより良い人生を送れるように」という大義名分を盾にして、結婚後の失われた人生、うまくいかなかった結婚生活から目を逸らすために、子どもに共依存していく。

母が子どもに過干渉・イネイブリングをするのはそのためである。

父親的な存在を彼氏に求めて結婚する女性もまた、自分そのものを肯定できていない。自分を愛し「君だけだ」と言ってくれる王子様に承認欲求を求める。

王子様だったはずの夫。恋焦がれた王子様は遠い幻影となり、使えない同居人になり、最終的にしゃべって食べるATMになる。

 

要するに、彼氏彼女はお互いに求めていたものを相手から得られなくなったので、向き合うことから逃げて他で承認欲求を補填しようとする、ということだ。

 

男女それぞれの共依存が生む弊害

まず男が仕事に依存すると、「プライオリティ(優先順位)の1番を仕事にすること」を他人にも強要するようになる。

「プライベートを言い訳にするのか」

「仕事ができて一人前」

という言葉で表面化するこの価値観の押し付けが発生する。

家庭から逃げてきた男たちにとって、会社こそが「家」であり、仕事仲間こそ「家族」だからだ。

だから会社(家)のために頑張り、家族(仕事仲間・上司)から褒めてもらおうと、必死で働く。会社(家)で存在価値を示すことが、唯一自分を肯定してくれることになってしまう。その一方で、心の奥底では、本当の家族をないがしろにしている後ろ暗さが常に背後にある。

恐れを抱いて震えながら、自分という存在の生き残りをかけて仕事でマウント合戦をやっている。それが仕事ばかりしている夫の真の姿である。

それで正しいんだと安心するためには、他人が同じでなくては困る。

今まで逃げ続けてきたこと、妻と向き合い家庭と向き合うことが仕事なんかよりよっぽど大切だった、ということに気づいてしまうと、今までのすべての自分が瓦解してしまう。

だから、自分を支えている世界観が壊れることを恐れて、他人にも自分と同じように生きよと強要するのである。

仕事よりも家庭を大事にしている同僚を目にすると、内心穏やかではない。

だから「あいつは仕事ができないダメなやつだ」とか「仕事をもっと真剣にやらないから出世できないんだ」とかレッテルを貼って下に見ることで、心の平穏を保とうと必死になる。

上から目線で見下すという態度は、自分ができなかったことをする人に恐怖している証拠である。

こうして、本当に大切なものを大切にしている人を迫害し始めるので、病んだ男たちにとっての歪な「会社」という家庭は地獄そのものになる。

 

妻はといえば、「子どものため」と言いながら、イネイブリングで子供を虐待する。

自分の生き直しとして手取り足取り教え、転ばぬ先の杖を用意し、子どもから「失敗の経験」という人生の宝を盗む。

自分の生きづらさを解消してくれる自分の所有物(おもちゃ)として子供にちょっかいを出しまくる。

そうして、子どもは「失敗の経験」を横取りされ、自分で自分の人生を決める権利を奪われ、アダルトチルドレンという生きづらさの呪いを背負わされる。

この幼少期の共依存的な関わりが「自分で挑戦して人生を生き成功も失敗も肯定する感覚」=自己肯定感をがっぽり子供から吸い取っていく。元から発生しないように阻害してしまうとでもいうべきか。

これがのちに成人すると、仕事に逃げる男、子どもに逃げる女、に変身する。

こうして、生きづらさは世代間連鎖する。

【共依存】モノとして生きる空虚さについて

上司というか、職場の過干渉がきつい。

めっちゃうざい。

電話するのも嫌だし顔を見るのも嫌になってきた。

いよいよやばい。

 

結論としては、他人は変えられないので、自分の行動をどう変えるか、しかない。

極力接点を減らすこと。

仕事だけの関係だと割り切って、淡々と接すること。

できるだけ意識を割かず、『時間管理のマトリックス(4象限)』でいうところの第二領域=重要だけど緊急じゃない自分がやりたい行動に意識のキャパを割くこと。

それを徹底する。それ以外にできることはない。

 

ワーカーホリックの男というのは、仕事で褒められることに固執する。

これは、アイデンティティを、個として置くことができず、「社会的役割の商品価値」に置くからだ。

仕事で認められることが、唯一の生きていていい理由だからだ。

そう考えると、哀しい生き物なのである。

 

何を隠そう、私もそういう時期があった。

自分に自信がない。生きていていい確証がない。

「自分がどう生きたいか」ではなく「他人の目からどう見えるか」で生きている。

自分が嫌いで、ありのままの自分を肯定することができない。

自分のなかに輝く大事なものが何もない。

だからその空虚感を埋めるために承認を求める。

 

安野モヨコ先生の『後ハッピーマニア』の主人公、シゲカヨと同じだ。

「女の目」からどう見えるか、そのための結婚、そのための恋愛、そのための自分。

自分そのものを好きじゃない。だからそんな自分を好きな相手も愛せない。だから愛されていても愛し合えない。相互的な愛の交換ができないので、結局は関係は続かないし、本当に欲しいものはいつまでも手に入らない。

 

さびしさ。

さびしさを埋めるために男を道具として見てしまう。

だから、自分も商品である「モノ」として自覚してしまう。

だから「女」としての商品価値で自分を語る。しかも相対的に。

人間を人間として見ていない。自分も他人も。

だから限りなく承認を求めても、それは自分自身ではなくモノとしての自分なので、モノとして商品価値がなくなれば消失する承認をいくら両手いっぱい抱えきれないくらい集めても、決して満たされることはない。

形式的・物質的なハッピーをマニアのように集めても、それに「幸せ」は入っていない。

己のなかにしか、幸せは探すことができないのに。

そんな苦しみを生々しく描いている作品である。

 

そもそも、岡本太郎先生に言わせれば、幸せなんてものは、嘘っぱちだ。

自分がモノとして大切にされているのであっても、愛されていると勘違いできる、そういう突き詰めて考えない鈍い人が「幸せ」を偽っているだけ。

自分が自分として生きる。その過程で歓喜を味わう。今までのつらさが吹っ飛ぶくらい心が揺さぶられる瞬間に出会えば、この人生をもう一度生きてもいい、いや生きたいと思える。ニーチェのいう永遠回帰である。

それこそ「自己肯定感」というやつである。

自分のココが長所だから良いとか、これができるとかあれができるとかではない。それはモノとしての市場価値に過ぎない。

良いところも悪いところも、自分の人生の運不運も、まるっとすべてひっくるめて肯定できる。それが自己肯定感だ。生そのものの肯定だ。

 

そこまでいくと、結果はどうでもよくなる。

どういう結果であっても、自分のやりたいようにやること、自分の内なる声にしたがって素直に行動したかどうかが全てであって、何かを集めることには執着しなくなる。

他人のなかの自分の印象もそうだし、仕事の結果もそうだし、お金の多い少ないもそう。

結局は自分そのものの外側にある「概念」でしかないからだ。

外側に価値を置く限り本当の自分に価値を認めることはできないので、大して力を割くほどでもない副次評価項目が「結果」である。

 

そんなさびしさゆえの結果への執着。

そのノリを押し付けられると、げんなりする。

結果を出すことが正しいという信仰を持っているし、寂寥感・空虚感ゆえにそれに固執するのも分かる。自分もそうだったから。

しかし、いま改めて他人を通じて過去の自分を認識し、これほどウザかったのか…と愕然とする。黒歴史である。

仕事という興味のないMMORPGのギルドに無理やり入れられて、毎日「ログインしろ」「アレを集めてこい」「なんで同じ情熱でやらないんだ」って責められてやらされているような感じだ。

いや、ゲームだし。所詮ゲーム。これ本筋の人生のサブだし。どれぐらい一生懸命やるかどうかは個人の自由じゃん。押し付けないでくれます?って感じである。

資本主義社会はその「仕事ゲーム」に夢中になることを全力で肯定している。計算可能性・投資可能性・合理性を担保するために、人間は人間らしく不条理でいてもらっては困るからだ。

歯車のように、機械のように、予想できる欲望に支配されて行動してくれなくては、予測できないから。結局、社会全体がコントロール欲求に支配されているので、その社会という水槽で生きている私たちは病むに決まっているのだ。

この水槽の宗教と、私個人の価値観との乖離がとんでもなく大きすぎて、辟易としている、といったところなのだろう。

 

仕事ゲームを人生の中心に据えている人にとって、あるいはこの現代社会の価値観に照らし合わせると、結果なんてどうでもよいとコントロールを手放した私は「やる気がない」「仕事ができない」「優秀じゃない」「存在が我慢ならない、なんとかして思い通りに動かそうとしたくなる」そういう存在なのだろう。

さびしさを抱える人が仕事で偽りの自己肯定感を得るための比較対象として、格好の餌食になる立ち位置である。

比較して「俺のほうが優秀だ」「俺のほうががんばってる」「俺のほうができてる」と感じるために最適な比較材料として、つまり「モノ」として利用しようとする。

でも私はモノではないので、そういう材料として扱われるのは不快だから距離を取るだけだし、私が思う通りに動くので、他人のコントロール欲求を満たすために動くことはない。

そうなると「なんで思い通りに動かないんだ?!」とフラストレーションがたまり、責めたり罰したりし始める。

 

本当にウザい。しらんがな。好きなもの同士で勝手にやっといてくれよ。

たしかに江戸時代の五人組のように、組織はチームで動いているので、組織に従わないで好き勝手やっている人間には、ルサンチマンの負の圧力を発生し同僚がボコボコにするようにできている。特に日本は同調圧力が強い水槽なので、居心地が悪くなるのは当たり前っちゃ当たり前だ。

徒党を組むことがないスイミーのようなもんだ。

 

この濁り切った水槽で光を探すためには、のらりくらりと共依存的に関わってくるイネイブラーの同僚を躱しつつ、セルフケアで自分自身をご機嫌にしていくしかない。

とにかく光に集中すること。

しかし、困ったことに私は興味がなくなるととことん興味がなくなるので、最近仕事に興味がなくなり過ぎてタスクを綺麗に忘却することがある。これには本当に困っている。

上司が過干渉すればするほど、興味を消失していく。そして仕事が進まなくなる。

私を最も効果的に動かしたいのなら、最も良いのは放っておくことなのだが、結果をコントロールすることへの不安と恐れに苛まれているので、それは同僚たちにはできない。管理して強制しないと気が済まない。

無力を認めてくれるまでには、まだ時間がかかりそうだ。

憂鬱だけど、私は私として生きることしかできないので、のらりくらりとやらせてもらおう。

 

 

【共依存】信頼関係の原則のひとつは「アサーティブネス」

英語って大事だなと最近特に身に染みて思う。

日本語というとてもニッチな言語しか習得していないことはとても大きなリスクだった。

それを知らずにここまで生きてきたことを後悔している。

今からでも語学力はつけるべき能力だと思う。

 

最近観て勉強になった動画は すべて英語

 

全部ウイルス感染症に関する動画だが、英語を知らなければ何を言っているのか全く分からない。

親切に日本語字幕をつけてくれてYoutubeにアップされても、すぐに消されてしまうので、英語を勉強していない人は内容を知る由もない。

ここで上記の内容を要約して書いたりするとこのブログが閉鎖に追い込まれることは必至なので、ご勘弁願いたい。

 

分からない医学用語はネットで翻訳したり、聞いたイントネーションから単語を想像して打ち込んで調べたりと、時間がかかる。

とてもめんどうくさい。

だから、みんなあまりやりたくないだろう。

だからやらない。やる価値が無いと思い込めたほうが、不安にもならない。

だから、触らないで遠ざけてみて見ない振りをする。

まるで童話の『狐と葡萄』に出てくる、取れない葡萄を「どうせ酸っぱくてまずい」と言って諦める狐のように。

でも、めんどうくさいことには価値があるのだ。

そうでなければ知ることができない情報があるのなら。

 

実際、これをみるとかなり日本のメディアが報道している情報とはかけ離れている。

ワクチン接種を推奨している理由が、別の角度から見えてくる。

そしてその理由は私たちにとって歓迎できるような内容ではないことも・・・。

 

私たちはお互いに「見えている世界」しか見えない

私たちはつい、今見えている世界が、世界そのものだと思いがちだ。

でも、今見えている世界は、私たちが経験してきたものや今の立場から見えている景色の一つでしかなくて、全く違う人生を生きてきた他の人からは、180度違う世界として見えているかもしれない。

ついつい自分が見えているように、他人にも世界が見えていると思い込んでしまう。

だから分かり合えないと動揺するし、自分の世界観が揺らぐことはとてつもない恐怖なので、相手の世界を否定して自分の世界を守ろうとする。

こうして口論や戦争といった、人と人の醜い争いは勃発する。

 

この争いを生まないために最も重要なものは、想像力だ。

「もしかするとこの人は、私とは違う見え方で世界が見えているのかもしれない」という想像力をもつことだ。

どちらの見え方が正しいのでもない。

歪んでいると思っても、その人にとってはその世界が今まで見てきた親しみのある「世界」なのだ。

いきなりどこの馬の骨とも知らぬ人間から「違う!」と大声で指を指されたらどうだろうか。

自分を守るために「そんなことはない!」と意地になるだろう。誰もがそうだ。

 

自分と違う意見と出会ったとき、それを無理に一緒にしようとしないこと。

それぞれの見方や意見に、同等の価値があると認める謙虚さを持つこと。

論理的な正しさは、絶対的な正しさではないのだ。振りかざして武器に用いてはいけない。それは間違った使い方だ。

お互いの見え方を分かり合うために、より妥当な妥協点を探るために、コミュニケーションをとるために論理はある。相手を論破するだとか、そんな安い目的に使うものではない。

 

論破するのがひろゆき氏を筆頭にさも優れた人間の作法のように語られることには、嫌悪感とともに違和感が大きい。

本当に優れた人間性を持つ人間は、論破しようとはしないからだ。

なぜなら、正しさは一つではないことを知っているし、そんなに単純に世の中ができているわけでは無いことを経験しているから。

自分の頭のなかだけで考えているから、実態からかけ離れていく。しかし論理的には正しいので、だれも何も言わなくなる。結果、独りで頭のなかだけで閉じている。

独りでしゃべって得意になって他人を傷つけ、周りには誰も近寄らない人。

それはもはや、優秀な人とはいえない有様だとは思わないだろうか。

 

アサーティブに話ができる人を信用しよう

学歴とか資格とか、社会的地位とか収入とか、そんなものでは全く他人のことは分からない。

たまたまそういう基準があって、たまたまその基準にマッチする結果が、たまたまその人の手に転がり込んだだけだ。

なぜなら、人はひとりで何もかも成し遂げることができないからだ。

必ずすべては見えないチームの成果である。私たち一人一人がつかむものは、時代も国境も超えた見えないチームの成果だ、と自覚できていない時点で、その人の経験の浅さが知れる。

 

私の経験上、ひとつ指標になると思うのが、「アサーティブネス」だ。

画像引用元:http://www.genkipolitan.com/a/asa/3type.html

 

たとえば、Twitterは「アグレッシブ」同士が常に殴り合っている。24時間営業の異種格闘技のリングのようなものだ。疲れ・寂しさ・悲しみ・怒りが募るに決まっている。常に被害者か加害者としてその心に傷を負っているのだから。できるだけ離れたほうが良い。

そうした傷つけあう関わり方、あるいは無責任で消極的だったり罪悪感で誘導しようとするような「ノンアサーティブ(パッシブ)」な関わり方をする人を信頼しないのは、とても大事だ。

なぜなら彼らは、あなたをサンドバックにするか、あなたに体重を預けて寄りかかろうとしてくるからだ。あなた自身の自由と権利が脅かされかねない。

 

「アサーティブ」な関わりができる人と時間を過ごそう。信頼してお互いに助け合おう。

その限りにおいて、人と人との関わりはとても美しく愛に満ちたものになる。

RADの私がそう思うのだから、おそらく間違いない。

 

 

宮台真司氏は、各論でたまに誤ったことを自信満々に断言してしまったり、注目を集めるために強い言葉を使って人を傷つけたりすることもあるけれど、やはり一流の社会学者だと思っている。

「社会という荒野を仲間と生きる」

というスローガン、私はとても好きだ。

まさにこれだ。

アサーティブに他人と接することができ(他人の世界を尊重することができ)、失敗の痛みと正しさの薄っぺらさを経験した深みのある人間。そんな人間と仲間になって助け合うよりほかに、この社会という荒野を生き抜く術はないのではないかと思う。

幼少期とは、人生のためにその術を試行錯誤できる唯一の練習期間なのだ。

失敗しないように純粋培養しようとしてはいけないし、衝突を保護者が恐れて飼いならしてはいけない。

そういう悪い意味での温室育ちの弊害として、想像力の欠如と正しさの奴隷化を促進しているように思う。

まずは私が見本となれるよう、アサーティブを勉強し、身に着けていきたいと思っている今日この頃である。

どうせ12月に新型コロナウイルスは「流行らされる」ので、まともに仕事にならないだろうから、ちょうどよい。

【共依存】助けること、愛すること。

この二つは、簡単なようでとても難しい。

なので、人はよく間違う。

 

私たちは、それ(コントロール)を手放すことを学ぶ。

家族を手放すことを学ぶ。

自分のショー以外、人の回復のショーを仕切ることはできない。

自分の考えが、母、父、兄妹、祖父母の役に立つかどうかということは関係ない。

家族がどうしても必要とする答えを何とか見つけたとしても、それで家族の人生が確実に改善されるとしても、

それは関係のないことだ。

それは全くどうでもよいことだ。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222 より

 

家族を大切にするということ

これを、何でもかんでも転ばぬ先の杖を用意することや、過剰な世話焼きをすることと、わたしたちは誤解しやすい。

「失敗」とは、必要だから用意されている。

経験すべき「失敗」を与えないことは、一種の略奪であり虐待である。

家族を本当に大切にするのであれば、私たちは本人がするに任せることである。

本人が経験する痛みも喜びも、本人のものであると尊重することである。

落ち着くこと、そして辛抱強く見守ることだ。

それこそが家族を「愛する」ということだと私は思う。

 

そういう意味では、私は愛されていなかった。

社会的な失敗を回避するためにうんざりするほど世話を焼かれた。

そして自己効力感を失った。生きている実感を失った。

私にとって、親の「愛情」は、無理やり神経を引き剝がされるような拷問だった。

私の人生は成人して病気になりにっちもさっちもいかなくなるまで、半分死んでいるようなものだった。

私は実感をもって、これらの行いが「愛情」という仮面をかぶった虐待であると自信をもって伝えることができる。

 

なぜ、私の両親はコントロールを、私たち子どもを、手放せなかったのだろうか。

 

それは、自分の人生を生きていなかったからだ。

自分のショーを健全に楽しむことを放棄して、他人のショーに没頭した。

自分のショーに向き合う勇気がなかった。自分のショーを立て直す根気がなかった。

うまくいかない自分のショーよりも、責任を負わなくてもいい他人のショーにばかり一生懸命になった。

そのほうが、楽だと錯覚したから。

「愛しているから」という免罪符を使えば、子供に干渉していいと社会も背中を押した。

社会に疲弊した大人たちの多くは、大義名分をつくって、自分自身が楽になるために子供を生贄にしたのである。

そのなかの一組がたまたま私の両親だったと、いうだけのことである。

しかし、楽だと錯覚しているけれども、本当はどんどん苦しくなっていくだけ。

だから、親も子供も苦しくなり、最終的にはお互いに殺し合ったりする。

それは、愛しているというにはあまりにも凄惨である。

 

「家族を大切にする」というのは、こんなエンディングを迎えるような状態ではなく、それぞれがそれぞれに生きることを楽しんでいて、それを尊重する状態ではないだろうか。

 

何をしていようと、どんな職業だろうと、どこに住んでいようと、子供がいようと居まいと、五体満足であろうとなかろうと、本人が満足しているなら、それは確実に良い人生なのである。

なぜなら、良い人生かどうかは、本人にしか決められないからだ。

自分の家族に与えられる最もパワフルでポジティブな影響とは、自分が健康で幸せな人生を送ることである。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222 より

私の両親は、ただ楽しく生きてさえいればよかった。

息子のために、娘のために、と望まないままに何かを我慢したり何かを犠牲にしたりしないほうがよかった。

無理をして暗い気持ちを隠さなくてよかったし、家庭に問題があることを「なかったこと」にして幸せな家族を演じなくてもよかった。

そういう「〇〇しなければ」で家族を縛り付けた結果、誰も楽しくも幸せでもなくなった。

子どもにとって、親が果たすべき最も重要な役割は、人生を楽しむ姿を見せることだ。

「お前が生まれてきてくれたこの世はこんなに輝きであふれていて楽しい世界なんだ」ということを、言葉ではなく行動で、生きている背中で伝えることだ。

私は、親の後姿を見て、絶望的な気持ちになった。

こんなに我慢しながら、やりたくもないことをして、誰かの陰口を子供に吹き込まないと生きていけないほどのストレスを抱えて、かたちにばかりこだわって生きていかなくてはならないのか。

もはや世界は牢獄であり、生きることは義務のように見えた。

そんな世界で生きていきたい人は少ないだろう。

事実、私は生まれて物心ついたころから、ほどなくして死にたくなった。

さっさと終わらないかな、こんな人生、と思って生きてきた。

そしてアルコール依存症にもなったし、うつ病にもなった。

様々なものを失ったが、「失敗」を経た今が、最も幸せである。

 

家族を助けるということ

では私たちは、家族を、大切な我が子を「助ける」ために、何をすべきなのだろうか。

助ける人として私の役割は、助けようとする人たちのために 何かをする のではなく、何かになる ことである。

つまり、彼らの行動をコントロールして変えようとするのではなく、理解と意識をもって、それらに対する自分の反応を変えることである。

(中略)

他人の将来の行動には一切考えを持たない。

時間が経過しても、他人が良くなるか悪くなるかを期待しないということだ。

なぜなら、そういった期待をするということで、本当は私が望むイメージに作り上げてコントロールしようとしているからだ。

なるがままにする。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222~223 より

つまり、彼らがするに任せる、彼らが向かう未来を信じる、ということだ。

私が望むイメージがあったとして、それは娘や息子が望むイメージではない。

私が勝手に思い描いているだけだ。

娘や息子は、自分自身でイメージを描く権利がある。むしろ、その権利は彼ら自身にしかない。

それを勝手に描いておいて、その通りにコントロールしよう、などというのは、とんでもないことだ。

「将来は野球選手にしよう」「将来は医者や弁護士になってほしい」

しぬほど余計なお世話である。

彼らは立派に勝手に生きるのだから、親は親の人生のことでも考えておればよい。口出しする権利は親にはない。誰にもない。

 

私が精いっぱい自分の人生を生きる。

先に様々なケースを学ぶ。

それを参考にして、子供たちは自分を生きる。

『何かをする のではなく、何かになる』とはそういうことだ。

何かゴールがあってそのために何かをする、というのは、ゴールを勝手に設定している。

彼らが歩む。その道を行くために、「私」という親が「一例」となる。

サンプルの一つである。それが信頼できるかできないか、使うか使わないかは、子供らが決める。

「こんなめんどうくさいやつにだけはなりたくねぇ」と思うかもしれない。

「こんなふうに楽しむにはどうすればいいんだろう」と思うかもしれない。

どちらでもいい。

思いたいように思ってくれていい。

それを使って、自分の頭で考え、自身が思うように生きてみてくれさえすればそれでよい。

 

結果がうまくいこうと行くまいと、正直、俺には関係ないし。

彼らの人生なのだから、彼らがけつを持つのが当然である。

それに、結果がどうであったとしても、当事者として主体的に生きられることは楽しい、と私は思う。

私が途中まで、親にコントロールされるうちに当事者意識を持てなくなり、結果として半生を主体的に生きることができなかったから、かもしれないが。

 

経験上、結果や責任を誰かに盗まれることほど、肩を落とすことはない。

私の親はこの盗みをはたらきがちだった。それは子供である私を深く失望させた。

 

それをしないだけで、私にとっては、私の両親よりマシな親でいられる、と思っている。

 

「助けない。君が勝手に助かるだけさ。」

「人は、一人で勝手に助かるだけ。」

引用:『化物語』忍野忍のセリフ

 

本人が助かろうとしなくては、いくら他人が横から助けようとしても無駄である。

助かりたい人が、『何かになろう』と思って生きている人にヒントを得て、勝手に助かる。

『何かをする のではなく、何かになる』ように生きる誰かが、使いたきゃ勝手に使ってくれ、と置いておいたものを、通るべきタイミングで通りがかってうまく活用する。

それは、利用されているのではない。

たまたま引き合わされただけ。

意図せず活用してくれただけ。

損得ではない。

世の中は計り知れないめぐり合わせで回っていて、私たちは個別でありながらひとつでもあるから。(このあたりは、また話すとしよう。)

 

ともかく、コソコソと計算して、これが必要だろうから何かをしようだなんて、姑息なことを考えてはいけない。何も見えなくなってしまう。

 

自分のために生きた道筋が道となり、その後を歩く人に道のひとつとして役立つ。

それ以上でもないし、それ以下でもない。

自分自身を変えることはできるが、人のことは、愛することしかできない。

それを知って落ち着いて生き、安心して愛するひとでありたい。

【共依存】「感謝」を取り立ててはいないだろうか?

子供に対する親の「過干渉」「過保護」がしばしば家庭内・教育の分野で問題になる。

しかし、これは親子関係のみに限ったことではない。成人した人間同士であっても、社会の様々な場所で再現されている。

他ならぬ自分自身の為にも、他人に過干渉することをライフワークにするべきではない。

自分も相手も望ましい状態から遠ざかるだけだ。

 

エンパワメント

あくまでもクライエントが自己実現を可能にするために自ら自発的に達成したい目標に対して、我々ソーシャルワーカーはエンパワメントの考え方で寄り添うのであり、クライエントが寄りかかって生きていくような状況を創ってはならない。

また、クライエントに対してのリスペクトを忘れ、専門家としての自負に目を眩まされ手段を強硬的に推し進めてしまうような事もあってはならない。

あくまで本人が人生をより良く生きるためのサポートであると肝に銘じるべきである。

引用:ソーシャルワーク、はじめました。>【社会福祉士】相談援助展開の8つのステップ

 

主役は、本人。私たちは手を添えることくらいしかできない。

他人である援助者が課題を勝手に決めちゃいけない。

本人が課題設定から決めなくてはならない。

それが「エンパワメント」であり、ソーシャルワークの根幹をなす在り方の基礎。

しかし、それはエンパワメントのプロであるはずのソーシャルワーカーですら、しばしば忘れてしまう。

 

頼られることは、気分がいい。

自分の存在が全肯定されたような気持ちになるからだ。

「あなたがいてくれてよかった」と言われることがどれだけ快感かを知ってしまうと、その誘惑から逃れ難い気持ちは分かる。

そういう正のフィードバックが報酬系に刻まれているから、私たちは他人に優しくするのかもしれない。

他人に優しくしたことで、感謝されたり喜ばれたり。その経験がモチベーションとなり人を助ける行動に繋がる。

それ自体は決して悪いことではない。実質的にそうやって行動することが人の助けになっているし。

 

問題は、必ずしも正のフィードバックが毎回得られるわけではない現実に気づいたとき、だ。

 

尻ぬぐい

 

助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けたら、あなたならどう感じるだろうか?

 

「せっかく助けてやったのに」と思うだろうか。

私はそう思ってきた。

感謝されないのに最良のものを与えることなんてない。

感謝の代わりにそれなりに良質なもの(行動)を与えているのだから。

そうして私は感謝の形として、金銭だったり承認欲求だったりを受け取ることを欲した。

 

しかし、それは「助ける」ではなくて、ギブアンドテイクであり取引なのだと気づいた。

「助ける」とか「誰かのために」というのは、本来感謝されることを前提にしていない。

「助ける」の材料は「純粋なあげっぱなしの愛情」だと気づいて、私は今まで誰も助けてなどいなかったのだということを理解した。

まず、本人が自分で立てると信じていなかった。

そいつができないからできる俺が代わりにやってやる、という傲慢さがあった。

相手に潜在的な能力があると信じていなかったということだ。

その人の生きる力を信じなくては、本来エンパワメントはできない。

では私は何をしたかったのかというと、その人をエンパワメントしたいのではなくて、私は『他人を上手に使って』私に力があることを自分に示して安心したかっただけだったのだ。

私は他人を救うくらいの力がある、と思えれば、ダメな自分ではなくなる気がして、他人を助けるふりをした。

だから、助ける相手がいないと困るのは私のほうだった。

私ばかりいつも辛い目に遭う?

とんでもない誤解だ。

自分が、能動的に困っている人に近寄って行ったんじゃないか。

わざわざ他人が解決できる面倒ごとに首を突っ込んで、口では「つらいつらい」と言いながら、内心嬉々として他人の尻ぬぐいを手伝ってきたのだ。

 

「他人のため」というのは「他人の『役に立ちたい自分の』ため」

これは今までの私自身に対する自戒のツイートでもある。
他ならぬ私自身が、私は何者かにならないといけないと思っていた。社会を変えるには影響力がないといけないと思っていたし、自分で組織のひとつくらい立ち上げられる実行力がないと認められないと思っていたし、誰よりも正しい知識を身につけなくてはいけないと思っていたし、現時点で啓発活動で名前が知れた権威ある人々とお近づきにならなくてはいけないと思っていた。

全部、勘違いだった。

AC(アダルトチルドレン)としての『認知の歪み』を引きずっているだけだった。

全ては自分のためだ。そこは誰にも偽ることはできない。

私が勝手にやりたくてしかたないからやっているだけで、その結果勝手に相手が助かり、たまに勝手に感謝されるのだ。

それが「助ける」という事象の顛末。

だから相手に感謝されないからと腹を立てるのはとても変なことだし、問題が何とかならなかったとしても、悔いたり言い訳したりする必要もない。

なぜなら、もともと他人の人生であり、他人の課題なのだから。

解決できなかったのなら、その人に責任があるのだ。人生の責任はその人以外誰も代わることができない。

その人が笑顔でいてくれたら私がうれしいから、「こうなったらいいな」「こうなったらみんな笑顔になれるんじゃないかな」と思うことを勝手にやるだけだ。

迷惑でやってほしくないようなことをしてしまっているなら、他人がそういうメッセージを言葉にしろ態度にしろ、発するのだろう。

そうしたら、私は目的を達成できる行動ではないと理解して「やってほしくない」という相手の意思を尊重して、手を止めるだろう。相手を苦しませることは、私がやりたいことではないからだ。

 

やめてほしいのにやめてくれと言えない、というのは、相手の課題であり、私にはどうすることもできない。

私はエスパーではないから、本人が伝える努力をしてくれないと分からない。コミュニケーションは双方向であり、対等な対話の責任は常に、50/50だ。

「察する」「配慮する」ということを過度に他人に期待するひとは、伝える責任を放棄している。それは、相手をリスペクトしていないことと同じだ。

コミュニケーションの責任を相手に負わせて結果をコントロールしようとしても無駄だ。

いつの時代も人のコントロールは思うようにはいかない。なぜなら相手が成長したら、いつか必ずあなたがその人をリスペクトしていなかったことに気づくからだ。

そして次第にあなたから離れていく。どちらかが搾取する関係は不自然だから永続的ではありえない。いつか必ず、終わりを告げる。

 

誰かを自分の支配下において相手から「感謝」を取り立てて共依存の鎖で縛りつけておくことが、本当に人生を賭けてまで、したいことなのだろうか?

そんなふうに奴隷を増やすことをいくら続けても、自身の人生は一歩も前に進まないよ。

そして相手は本当の意味で感謝してくれることはないし、本当の意味で救われることもないだろう。

登場人物全員が苦しんで、虚ろな人生を過ごして終わり。

そんなのが望んだことではないはずだ。

 

私たちは、自分がしたいことをするために、この世で時間をもらっていると思う。

耳障りの良い言葉で本心を誤魔化しているうちに、もらった時間は矢のように過ぎ去ってしまって、死の淵で「ああすればよかった」「こうすればよかった」と後悔する。

そういうことの繰り返しは、割と珍しくないんだなぁ、と最近はよく思う。

誰よりも自分のために、Just for today.

それがひいては、誰かにとって本当の意味で最も優しい。

 

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」④20万を借りパクしていった君へ

私は「ある出来事」があってから、お金は一切貸さなくなった。

貸すときは、あげるときだ。

返ってこないとしてももう構わないや、と思うときだけ、貸す。

「ある出来事」とは、高校からの知り合いに20万円を借りパクされたことだ。

 

S君

借りパクしたのは、S君という男の子だ。

彼は一人っ子だった。名犬ラッシーのようなフサフサの毛の犬を飼っていた。

ピアノがうまくて、ラフマニノフやショパンが弾けて、割とイケメンだったからモテていた。運動は少し苦手だった。

元いた中学校では成績がトップだったらしく、高校でもそこそこ成績が良く、同じ進学クラスにいたので徐々に話すようになった。

 

彼は、少し落ち着きがなく、どこか陰があった。

なので、高校生の当時、私は彼を少し面白いなと思った。

ピアノが弾けて勉強ができてイケメンなのに、アニメが好きでオタクだったし、先生や学校に従うのを嫌うので、完全な優等生タイプとは少し違っていた。

私は反抗挑戦性障害(ODD)なんじゃないかと今思い返せば疑うほど、先生や学校にたてついていた。学校の備品を破壊したり、高圧的な教師に徹底的に反抗して授業を妨害し職員室に呼ばれたりしていた。

教師をバカにして目をつけられていた。勉強をしなかったので成績が悪くなる一方だったが、スポーツでは表彰され続けていたので、一目置かれてはいた。

S君は、自分より下だったり、どこか欠けている人と付き合う傾向にあった。

私は見事にバランスを欠いていたので、彼にとってはとても興味がある存在だったのだろう。彼から話しかけてきたように思う。

なんとなく教師をバカにしているところが共鳴して、よく一緒にいた。

このままおそらくお互いにある程度の成績で関関同立程度以上の大学に進学し、エリートではないまでも、そこそこのステータスで社会に出るはずだった。

 

しかし、S君は受験に失敗した。

原因は、バカにしていじめていた中学時代の同級生に深く恨まれてストーキングされた挙句、復讐を誓うその子につきまとわれる恐怖で不登校になってしまったことだった。

受験どころではなくなり、彼は統合失調症を患った。

受験でそこそこのところに合格できなかったので、たしか大阪にある駿台か代ゼミか河合塾かなんかの寮に入って浪人していたと思う。

私は現役合格したので、大学生として関西にいた。

彼は私を友達だと思っていたので、よく連絡してきた。

学祭を一緒に回ったり、一緒に酒を飲んだりした。想像に難くないと思うが、そんなちょうしだったので勉強は全然していなかったようで、当然のように受験はその年もその次の年も全然うまくいかなかった。

そして、ゴミみたいな私立大学に入って、彼はもっと精神のバランスを崩していった。

 

学歴コンプレックスが極まっていた。

在学生たちをバカにして、自分より優秀な人はいないと言っていた。

私をおそらく高校時代は下に見ていたのだが、圧倒的に差をつけられて嫉妬と羨望が入り混じったような妙な絡み方をしてくるようになった。

何人もの中学生と同時に付き合って「彼女がたくさんいる」と紹介して自慢してきたり、私より優れているところを見せつけるのに必死だった。

 

タバコを持つ手は常に震え(おそらく統合失調症の治療薬等による錐体外路症状)、うわごとのように昔語りを繰り返すさまは、哀れだった。

 

私の共依存的な関わり

私は、彼が私より下にいることを安心材料にするようになった。

とても恥ずかしいことだが、私はうまくいっていない当時の自分の状況を見て見ぬふりをするために、彼を憐れみ、利用するために関係を続けていたのである。

最低のクズだと思う。

私は大学までは何とかギリギリ及第点だったものの、そのあとベンチャー企業に入ってあまりのブラックさに「これは失敗した」と思って焦っていた。

アルコールの問題も日に日に深刻になり、もともと小さい自尊心を毎日鑢でゴリゴリと削られるような毎日だった。私はみるみる摩耗していった。

そんな私にとって、さらに底辺に近いS君の惨状を見るのは、とても安心できたし、気分がよかった。

「ああよかった、私もたいがいゴミだけど、さらに下でうごめいているやつもいる」

そんな気持ちで、彼が一生懸命女性関係をアピールして私にマウントを取ろうとしてくる様子を心配している優しい友人を装いながら、その実哀れな彼の姿を酒の肴に一杯やっていた。「彼よりはマシ」という優越感を味わうことで、毎日毎日上司にコケにされ馬鹿にされるしんどい日々を頭の外に追いやろうとしていた。

 

これは、明らかに共依存的な関わり方だったと思う。

共依存とは、自分自身に焦点があたっていない状態のこと。

私もS君も、お互いを見ることで自分の苦しさを見ないようにした。

まさに、自分の人生に焦点が当たっていない。むしろ意図的にずらそうとしている。

 

ついに、S君は金に困るようになり、金を無心してくるようになった。

私は、表向き「彼は大切な友人だから助けてあげなくちゃ、そしてまともに生きていけるように俺がしっかり言って聞かせなくちゃ」などと自分に言い聞かせて、なけなしの貯金から20万円を貸した。

私が望んでいたものは、それによって私が決定的にS君の上に立つことだったと言わざるを得ない。

当時の私の醜さは、今振り返るとみるに堪えない。

金を貸したのは、「俺のおかげで」問題を解決できた、という既成事実をつくりたかっただけだろう?彼の為でもなんでもない、自分の為じゃあないか。

「私は働いている。友人が困ったときに手を差し伸べられるくらい素晴らしいんだ」とブラック企業で死にそうになりながらこき使われている惨めな自分にも、少しは価値があると思い込みたかっただけ。自分の問題から目を逸らしたかっただけだろう?

何を「その人のためだ」などと偉そうなことを。

その後彼が結局借りた金を返せないことも計算ずくで、また息詰まるのを舌なめずりをして待っていたくせに。

そのときに「借りた金を返さないとはどういう料簡だ」と正論を振りかざして「そんなんだからダメなんだ」と彼を責めてサンドバックにするために。

「厳しいことを言うようだけど」などともっともらしく前置きをして神妙なふりをして、実際は相手の話や状況を想像するのをサボって自分が正しいと信じ込んでいるだけ。

言っていたことはひどい有様だった。

「統合失調症だと?病気を言い訳にすんなよ」

「返す気がないから働かないんだろ?俺は毎日終電逃しても働いてるよ」

偏見にも程がある。冷たいにも程がある。

自分が言われた傷つく言葉を、言う側になって溜飲を下げたいだけ。

自分の言いたいことを自分の言葉で素直に伝える勇気がないだけ。

弱さや不安を正しさで取り繕っているだけ。

自分を慰めるために金で囲ったようなものだ。

それは友人に対して、人間に対してすることでは無い。

S君に謝らなくてはならないこと

S君、私は、君のことを本当の意味で友人として大切にしていなかった。

友人として、とても恥ずかしいことをした。

君を尊重しているのなら、君が自分で人生を選び取ることを信じるべきだった。それが友達のすることだった。

だから、あのとき金を貸さないことが、君のために最もすべきことだった。

そして、同時に、私が私を大切にするためにすべき選択は、君の問題に首を突っ込んで共依存することではなくて、自分に向き合うことだった。

それから逃げるために君を使い、君をイネイブリングしたことを、心から謝罪したい。

君をバカにして、本当に申し訳なかった。

私は後悔している。

君に当時伝えたかったことは、本当は少なくて良かった。

「私も頑張る、君も頑張れ。信じている。」それだけでよかった。

変に上から目線で言ったことは、すべて私の弱さと醜さだった。

君は君で一生懸命に生きていたのに、私はとんでもなく失礼だった。

 

もう今はS君がどこにいて何をしているか分からないけど、彼が幸せでありますようにと思う。

20万ぽっち、安い授業料だったよ。私は私の問題に気づくために、S君と出会ったのだと思う。

お金はもう返さなくていいから、元気でいてくれたならうれしい。

 

【共依存】他人の存在の煩わしさ・私が唯一ほしい他人との繋がり

私は、孤独感からアダルトチルドレンになり、アルコホーリクになった。

ASD・ADHDとしての私を受け容れてもらえなかったことは寂しかった。

他人に対して愛着を感じないことに、私は罪悪感と怒りを持っている。

そのことについて今日は考えてみたい。

 

ゆだねる、そして手放す

先日、手放すことができたことと、できていないことについて、改めて考える機会を得た。

昔に比べると、「個人」に対する憎しみや恨みや恐れや不安は手放すことができてきた。それは、ACA・AAでそれぞれの12ステップ・プログラムに粛々と謙虚に取り組んできた結果である。

あんなに大きかった親や社会的成功者への恐れと不安が、自分の心に占める割合はごく僅かとなり、彼らが生きていても死んでいてもさほど気にならないくらいになってきた。

しかし、今でも無条件に反応してしまうものがある。

それは「コントロール」だ。

仕事の人間関係が嫌いで、基本的に人間が嫌いなんだと思って生きてきた。

人間そのものが嫌いなのではないんじゃないかしら?

私はアニメや漫画や映画が大好きで、人の物語に涙する感受性を有している。こんなに芸術で描かれる人間の喜怒哀楽に心の動きを感じるのに、私は本当に人が嫌いなのだろうか?

「本当は人間を好きでいてほしい」と願いにも似た思いを持ってきた。

 

・上下関係をつけるマウント合戦

・資本主義的なギブアンドテイク

こういうパワーゲームを土台にした「損得マシーン」との関わりが嫌いなだけで、人間そのものは好きなのではないか、と仮定してみよう。

 

フラットに損得抜きで語り合い交流する人間関係を、私はむしろ好きなんじゃないか。

じゃあなぜパワーゲームに反応するのか?過剰な反応の裏には恐れと不安がつきもの。

私の恐れと不安があるからだ。では私の恐れと不安はなにか?

私は「そのままを見て受け入れてほしい」という願いが満たされてこなかったことから、『これ以上傷つくこと』を恐れている。

これは真実だろう。

・他人に品定めされたくない

・わかったような口ぶりでたかを括られるたくない

・損得で関わりを持とうとされたくない

・能力を比較したくない

だから私は、他人との対戦ゲームをいっさい楽しめないし、性格診断的なアルゴリズムには無条件にアレルギーを感じる。

仕事の人間関係は、今も昔も唾棄すべき穢れた関わりのようにしか見えない。

損得をベースにしてしまうと、どんなに他人にとって魅力的な目標であっても、達成すること・共同で活動することに、価値を感じることができない。

 

そのままを見て、ただ受け入れる。

私の願い。

「私のそのままを受け容れてほしい」

という願い。

そのためには私がそのままで無くてはならず、そのままを貫き続ける勇気が今、必要なんだと思っている。

そうしてそのままでいたときに残る関係が、本当に大切な関係であると言える。

その関係の間ならば、対戦型のゲームだろうと経済活動だろうと、楽しめるはずだと期待している。なぜなら土台に心理的安全性が担保されているはずだから。

結果が出ても出なくても楽しめる、本当の遊び。本当の友人。

そういうものを夢見ている。

 

さて、そのままということで改めて考えてみよう。

私は人間が好きなのではないか?という願いは、実は自分を全量に見せるために己を欺く虚偽の感情ではないか?

私は心から好きなものは、キャンプだ。

なぜなら、キャンプは人間とではなく自然と対話する趣味だから。

キャンプは比較しない。

競ったり争ったりはもう部活やら学歴やら就活やら散々やってきて、心底ウンザリしている。

他人に勝つことに意味も無い。

自分に勝つことに意味がある。

だからキャンプが好きなんだと思う。

キャンプは、完璧さとか他人との比較などは全く関係ない。

楽しめればいい。

不足や不完全さはむしろ歓迎される世界。

キャンプサイトは、他人と程よい距離感が保てる。

それぞれの在り方が尊重される独立した空間。

だからキャンプが好きなんだと思う。

 

ということは、私は他人と適度な距離を保ちたいと思っている。

できるだけパーソナルエリアを侵害されることなく、快適に生きていたい。

恐れや不安があるからなんだというのだ。私は、嫌なものは嫌だ。

先輩だからと会って間もないのに呼び捨てタメ口をするやつなんかは、大嫌いだ。

その時点でATフィールド展開し、近寄らせることも近寄ることもない。

だいたい、少し長く生きているだけだ。その結果こんなクソみたいな社会を作っている連中の、何が誇れる?

そんなかたちで、私には結局、共同体の一員としての感覚をもつことができない。そしてそれは悪いことではない。私のそのままの姿だ。

ずっと他人とは脅威で、警戒すべき「同胞」で彼らは一番の敵だった。敵は身内だった。

たしかに、守られてきただろう。一人では生きてこられなかったろう。

だから感謝しろ、心を開けというのは、レイプと同じだ。

金を払ったんだから股を開けというようなもの。望んだわけでも無く産まれ落ち、散々苦しめられてきたことも事実なのだ。股を開くか開かないかは、私が決めることだ。

金を払ったから、恩があるから、救ってきたから、といって私の苦しみはプラマイゼロにはできない。

 

つまり、まだまだ理解してもらってない。

それは、私がありのままの自分を許していないから。

まだ「できるだけ良いもの」として自分を見せようとしている、飾っているから。

飾らない私を表す。それが理解してもらう唯一の方法。

理解できない、受け容れられない、という結果だったとしても、私が飾らないことが重要なのだ。本質の表出の結果であることが最も重要だ。

 

私は何が好きなのか

スポーツジムでは、他人との距離が近いだけで、イライラする。チラチラと蠅のように視界に入って邪魔だからだ。

私が決めた予定・私の空間を邪魔するやつは、基本的に死んでほしいと思う。

誰がどんな話をしていたか、なんてあんまり記憶に残ってない。他人がどうなるか・どう感じるか・どう思うかは、自分ほど興味をもって観察することができない。

 

私はやっぱり、私にしか興味が無いんだと思う。

 

自分とどれだけ正直に向き合ってきたか。

他人との比較、わかりやすい成功。これらはあまりその人の味わい深さとは相関しない。

仕事・出世・売上・賞罰・勝負。

それらの勲章をひけらかし振り翳すほど、空っぽの証。

自分の深淵を覗き込む自信がない、と言っているように聞こえる。

 

己の弱さを認めじっと目を逸らさずに生きてきた人をこそ、尊敬する傾向にある。

それが一番等しく難しいことだからだ。

勝つよりも成功するよりもはるかに難しい。

 

 

「……ひとつだけ言っておこう。君はぼくを乗り越えると言ったが……。君よりも9年も長く生きてるから教えてやろう……。他人を負かすってのはそんなむずかしい事じゃあないんだ……。もっとも『むずかしい事』は!いいかい!もっとも『むずかしい事』は!『自分を乗り越える事』さ!ぼくは自分の『運』をこれから乗り越える!!」

 

出典:集英社「ジョジョの奇妙な冒険」 作者:荒木飛呂彦 から引用

 

それぞれの人生は、交わらない異なる時空のようなものだ。

人間は結局、皆誰もがひとりだ。

生まれてから死ぬまで。

それは、偽ることができない。

同じと勝手に思っているだけで、実は同じではない。

違うと勝手に思っているだけで、知覚している違いは本質的な違いではない。

他人を見ている限り、全部自己満足だし、全部思い込みだ。

自分のなかの真実が、客観的にも真実かどうかはどうでもいい。

自分のなかでゆるぎない真実ならば、それこそが真実だ。

 

自分と向き合うこと。その末にたどり着いた今の「真実」をそれぞれに見せ合うこと。

その違いを楽しむこと。その謙虚さと努力に敬意を表すること。

尊敬で繋がること。

私が唯一ほしい他人との繋がりは、それだ。

本物であればよい。それは少しでいい。