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【メンタル】「おまえもやればできる」に隠された偏見と分断

この本、とても面白かったです。

かいつまんで内容に触れながら、エリート・能力主義の裏側について考えていきたいと思います。

 

エリートが抱えるアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)

この社会は自由と平等の名のもとに「能力主義」「成果主義」を土台として構築されてきました。

そしてその社会で成功を目指す人々はみな、平等に与えられた(ということになっている)権利とチャンスのなかで、自己を結果と結びつけて確立していきます。

その結果、だれもが多かれ少なかれ「他社にとって良い人(価値ある人)」であるように自己査定しながら生きていて、共依存的な生き方(「他者によって」自分の欲望を定義されることを必要とするような生き方)が主流となってしまいました。

共依存という概念は、今や依存症の臨床のなかだけでなく、社会全体のカギとなる概念になりつつあります。(斎藤学「イネイブリングと共依存」精神科治療学 10(9);963-968,1995)

 

成功を自分の努力や能力のおかげだと驕るいわゆる「エリート主義者」は成功できなかった者に対して冷たい心を持っています。

「平等にチャンスはあったはずなのに掴まなかったのが悪い」

と自己責任論を振りかざします。

この自己責任論は逃げ場を奪うきつい態度です。なぜなら、あらゆる人に言い訳を許さないからです。

能力主義が絶対的正義だと進行している彼らは、自分たちが無意識に権威や成果で他人を差別をしていることに鈍感です。

 

知識社会は高度化し、高学歴と低学歴の分断はいよいよ拡大し、溝は埋めがたいまでになっているのが現実です。

しかしエリート主義者は、学歴・経歴・自分のモチベーションはコントロールできるメリット(価値)だと信じて疑いません。

たとえばアメリカは特に顕著で、アメリカンドリームに表されているように、成功は「個人がどれだけ頑張ったか」という美談として語られます。

成功は個人の頑張り次第、ということは、機会の平等さえ確保すればいい。そう考え、小さな政府にしていった結果、社会保障が弱くなりました。医療費などはよい例で、保険会社によって受けられる医療サービスに格差が生じて、助かりたくてもお金がないと助かれない医療制度です。心臓疾患を患う娘の手術費が出せない…などの描写がよく洋画で登場するのはそのためです。

「努力」を過大評価しているのが、アメリカの姿です。

 

一方でヨーロッパの文化は、成功は「運」と考える傾向があります。

たまたま貴族の家に生まれてラッキーだったから富を得る。そんな運がある人は恵まれない人のために社会を支えるのが当然だろう。そういう価値観です。

そのため、社会保障は当然強くなります。

「努力」を過小評価しているのが、ヨーロッパの姿といえるでしょう。

 

努力できる才能も遺伝

実は、努力できる事も才能であり、遺伝によって生まれたときからすでに決まっていると言われています。

双子を何組もリクルートして行った面白い実験で、「A.裕福で高度な教育を受けられる家庭」と「B.経済的に恵まれず両親の生活レベルも学歴も低い家庭」2つの環境に送り込み、バイオリンをさせた結果、環境によってバイオリンの演奏に優劣が付くのか調べたデータがあります。

これによると、環境によってバイオリンの巧さに差は出ず、どの双子もそれぞれ同様のレベルの演奏をしたということです。つまり、遺伝子によってどんな環境であっても一定のレベルまでできるかできないかはすでに決まっているということになります。

成功者は、この議論を嫌います。

なぜなら、掴んだはずの経済的な成功はほとんどすべて運ということになるからです。

この結論は所得税を正当化するうえに、「成功者は偉いわけでも賢いわけでもない」ということになるので、彼らにとっては非常に具合が悪い。

しかし現実は「実力も運のうち」です。

 

エリートによるエリートのための世界にひきこもる人々

優れた個体を真似る、成功個体に憧れる。

これは生まれ持った防衛本能であり、生き残るために備わったシステムです。

金持ちは金持ちを真似て、金持ちのなかだけで結束し孤立する傾向があります。

優れた個体の一員でありたいし、そう自己認識を持っていたいので、そう認識し合える一定の条件をクリアしている人間だけでコミュニティーをつくります。そのなかでお互いの客観的評価を補完し合い縛りあいながら強い絆を形成します。

 

官僚も同様で、定義としては公僕ですが、彼らは公僕だとは深層心理では思っていません。

官僚は官僚のなかで縛られた下僕であり、国民のために働く公僕ではありません。

つまり、コミュニティーの外側にいる国民が困ることより、コミュニティーの内側の仲間である省庁の身内が困ることを避けるように、意志決定をします。

だから、国民の生活を無視した法案や制度が出来上がるのは当然です。彼らのなかで重要なのは仲間のメンツを潰さないことと、エリートコミュニティーからはじかれないようにすることなのですから。

そんな官僚がつくった作文を読むだけの政治家でいくら政治をやっても、民主主義がまともに機能しないのは当然ですよね。そもそも身内のためで国民のためではないので、国民の声が政治に反映されるわけがない。

 

これは特定のバックグラウンドを持った社会的弱者にも言える傾向です。

ある種の負け組的なエリート意識を持つ者同士で集まると、同じような苦しみを味わっていない人間とは心理的物理的に距離を取り、傷を舐めあうためのコロニーを形成します。

そのなかだけで結束して孤立し「どうぜあいつらにはわからない」とコミュニケーションを拒絶します。

いずれにせよ、分断はかくして起こります。

 

全ては与えられたもの

この分断を打破するにはどうすればよいのでしょうか。

エリートがここから脱するには、経済的な貧富を超えた連帯、共同体としての共感覚を形成する必要があります。

たとえば、身分も収入も関係なく対等に互いを尊重することができるグループに属すること、マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻(経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性)」の外側に繋がりを持つことです。(「鉄の檻」について詳しくは、こちらをご参照ください。)

その繋がりによって、人と人との真に対等な繋がりを再確認すると、おそらく「できないのはやらないから」という能力主義のバイアスから目を覚ますことができるでしょう。

 

全ては与えられたもの。

全ては借りているだけ。

その恵みに感謝すること。

自分の力だ、自分のモノだ、自分の価値だと、勘違いしないこと。

持つ者と持たざる者。この世の不平等を自分では変えられないものとして受け容れること。

変えられないものへのコントロールを手放し、自分とはかけ離れた「誰か」になろうとする虚しい努力をあきらめること。

お互いに与えられた個性を慈しみ、尊敬して補い合うこと。

運によって今持っているものに固執せず、自分の実力などと思い違いをしないで、ありのままを受け容れる勇気と落ち着きと賢さが、この身にいつか宿るのを願うこと。

 

そうした認識ができていて行動でその内面を示している人間こそ、真のエリートなのだと思います。たとえばマハトマ・ガンディーのような。

この現代社会の価値はどれもこれも相対的で、誰もが自分と誰かを比べては一喜一憂しています。しかしそれではキリがなく、いつまでもどこか不安で苦しく、恐れに震えながら生きることになります。

そんな人生は、つまらないですよね。

誰かに認められるために生きるというのは、ちっともおもしろくない。

他人から褒められたり、世の中から評価されたりしなくても、全然問題ありません。

あなたが心から、おもしろいと思うこと、ワクワクすること、楽しい気持ちになること、愛しいと思うこと、尊いと思うこと。

それが最も大切な感覚であり、それによって繋がる人が、あなたが本当に大切にすべき人です。

世俗的な価値に換算できない繋がりを、大切にしていきましょう。

【メンタル・ヘルスケア】CBD(カンナビジオール)を使ってみた話

結論を先に書いてしまうと、よかったんだけど高すぎるという話。

 

カンナビジオール(CBD)とは?

大麻に含まれる成分の一つ。大麻には主にCBDとTHCが含まれている。

いわゆるハイになる成分はTHCのほう。

CBDはエンドカンナビノイドシステム(ECS)という身体調節機能に働きかける。体内でCB1受容体・CB2受容体に作用する。神経系において、CB1受容体は主に脳・中枢神経、CB2受容体は末梢神経に主に分布している。

CBDを体外から摂取することにより、CB1受容体が活性化して、記憶・認知・感情・睡眠・食欲・痛覚などに影響を与える。CB2受容体が活性化すると炎症を抑える方向に働く。

CB1受容体が活性化されると、以下のようにモノアミンが動く。

まず直接アセチルコリンを抑制して記憶機能を低下させる。次にグルタミン酸を放出促進することで意欲や食欲を増加させる。そして、GABAの放出を促進する。

これにより、ドパミン・ノルアドレナリン・アセチルコリン・ヒスタミン等のモノアミンを放抑制し鎮静に働く。それにより落ち着いていられて、興奮したり不安になったりしなくなる。

痛みに関しては、中脳と扁桃体に作用することで鎮痛効果を示すと確認されている。下行性疼痛抑制系にノルアドレナリンのシグナル伝達抑制を起こさせることによるものだと思う。申し訳ない、ちょっとはっきりわからなかった。CB2受容体の炎症抑制が関係している可能性も高い。

そんなわけで、炎症性疾患、疼痛管理、不安・抑うつ・PTSDなどの症状緩和、などを目的として海外では役立てられている、比較的安全性が高い物質。

それがCBDである。

 

実際に使ってみた

CBDオイルと、加熱式タバコタイプのCBDを購入して試してみた。

 

CBDオイル

CBDオイルは、MCTオイル(中鎖脂肪酸)にCBDが溶かしてある製品。

ダイエットであまり脂質を摂りたくない私にとって摂取をためらわせる製品特性である。

なんとなくあまり効果を感じなかった。

ひとビンで約8,000円する。1ヶ月もつとして、270円/日。

結構、コストがかかる。

 

 

加熱式タバコタイプのCBD

次に加熱式タバコタイプのCBDを試してみた。

 

これは、とても鎮静を実感した。

以下に示すのは、海外でのCBDの1日摂取量の推奨用量である。

 

引用論文;Corroon, J., Sexton, M. & Bradley, R. Indications and administration practices amongst medical cannabis healthcare providers: a cross-sectional survey. BMC Fam Pract 20, 174 (2019). https://doi.org/10.1186/s12875-019-1059-8

最も推奨している人の割合が多かったのは、16〜30 mg/日だった。しかしこれは対象疾患により大きく異なる。

このデータによれば、一般的には加熱式タバコタイプのCBD製品の場合、一1〜2本/日らしい。

私の場合は、他人といる不快感、いわゆる社交不安が常に隣にあるのが当たり前の日常だったので、CBDを摂取して鎮静し落ち着いて、他人がいても特にイライラしないで落ち着いてリラックスして過ごせる状態を維持するには、100mg/日必要だった。

1本10mgのCBD配合の製品で、私が満足する量は1日10本、つまり100mg。

これ、1本378円。

つまり一般的には約400〜800円/日のコスト感。

私の場合は、約4,000円/日。高すぎる。無理。

 

結論;効果は期待できるが高すぎるから、もういいや

鎮静によるリラックス効果は申し分ない。

今までリラックスというのがよくわからんかったけど、これがリラックスしているときの気持ちなんだなぁと思った。

ぼーっとするという感覚。常に頭が何かを考えたり何かを話している状態のASD・ADHD合併の私にとって、とても新鮮な感覚だった。

これで体内の炎症も抑えてくれるのだから、可能なら是非継続的に投与したいところだ。

 

しかしながら、高すぎる。

もはや1日4,000円も必要なら無理である。諦めざるを得ない。

結局私が求めているのは、慢性的な社交不安・ストレスに対処することだ。

具体的には、ドパミンとノルアドレナリンの過剰分泌による交感神経系の過興奮を鎮静すること。

そう考えると、D2受容体のパーシャルアゴニストである、エビリファイやレキサルティでシグナル伝達を安定化させる方がクリティカルだし、セロトニン濃度を上昇させつつ一部パーシャルアゴニスト的な作用を示すS-RIMという新しい薬効群であるトリンテリックスの方がまだ有効な気がする。

加えて、モノアミンに直接作用しないで扁桃体〜青斑核のノルアドレナリンを抑制することができると考えられるADHD治療薬のインチュニブを組み合わせることで、パニック・社交不安の症状とストレスを軽減できるはずである。

これらを全て合わせても、保険診療で精神科の先生に処方してもらうならば、1日4,000円はいかない。

1日薬価で1,400円程度なので、3割負担でも約400円。1/10である。絶対こっちの方がコスパがいい。

私の場合は自立支援医療制度を受けているので、1割負担だから、140円/日である。断然こっち。

もしもCBDが医療用医薬品として保険収載されたら、投与を再度検討するだろうけど。

費用対効果を考えると今のところ、もういいかな。

 

あとは、ドパミンやアセチルコリンを分泌抑制するからか、SSRIを飲んだときのようなアパシー・アンへドニア(無気力、ポジティブ感情の低下、意欲の減退、報酬に対する感受性の低下、喜びの喪失)のような脱力感がある。

意欲のもとになるグルタミン酸は分泌増加しているはずなのに、おかしい。

筋トレや読書など、何かをしようとは思えない。

有意義な何か、と思うと全然意欲がないが、食欲や睡眠欲など、生き物としての根源的な行動については欲求が高まる。なので、よく食べよく寝ることはできる。

嫌なことをしているときに吸っていると、嫌悪感を麻痺させてくれるので作業そのものは終わりやすい。しかし吸いながらやっていると何をやったかはいまいち記憶していないから、勉強には向かない。

最終的には記憶に残さなくてもいいどうでもよくて面倒なタスク処理のときに吸っていた。仕事中はこれが一番の活用方法だった。

とにかく、心が瀬戸内海の水面のように穏やかで波が無い感じ。

喜びもないが悲しみもない。ただ生きている。そんな感じ。

以上の感覚から、モノアミンの動きから社会機能・認知機能を低下させる可能性がある関係で、社会生活をパワフルに営みたい人には少しデメリットがあるとも感じた。

 

少しでも役に立てば幸い。

【共依存】誰かが誰かを一般化するのは、恐ろしくて不安だから

何者かを一般化すればするほど、真実そのものから遠ざかる。

しかし、人は法則を見つけたがる。グループに共通点を見出して、他者を自分の理解の範疇に押しとどめたいと願う。だから、他人を観察し分析することに熱中する。

それは「恐れ」と「不安」から突き動かされている衝動。

しかし、その指摘は当事者から否認される。

なぜなら、それをやめてしまうと自分を見つめなくてはならなくなるから。

「共依存症の当事者はなぜ他人を一般化したがるのか?」ということについて考えてみる。

 

「共依存症の当事者はなぜ他人を一般化したがるのか?」

すでにこのテーマ自体が、一般化しているから反感買うよな、と思う。(笑)

共依存症になるのは、人それぞれで、抱えている寂しさのエピソードはそれこそオーダーメイドだ。環境は一つとして同じではない。当事者たちに限りなく共通点があるとしても。

まずはその土台に立たなくてはならない。

同じようで違う。違うようで似ている。

そして、それぞれが独立した貴重なストーリーだということ。

それを共通認識できて初めて対話ができる。

「アルコール依存症者はこうだから」

「ギャンブル依存症者はこうだから」

「医療機関はこうだから」

「福祉はこうだから」

 

こういうレッテルを貼るのは、当事者が見えていないからだ。

私がまさにいい例で、そういう偏見にまみれていたと思う。

信頼して打ち明けた心療内科で自分がアルコール依存症であるという事実を「隠したほうがいい」と言われた悲しみと怒り。それが医療者に対する疑心を生んた。結果として私はしばらくの間「『医療機関の多く』はまだ依存症に対して無知である。」という偏見を持った。

特にデータを取ったわけでもないのに、数十名の医師と面会しただけで、そう決めつけるのは明らかに早計だった。それに、一生懸命依存症に関わっているメンタルの先生方にしたら、私の不遜な態度や決めつけはとてつもなく心外だったことだろう。この場を借りて当時の自分の思い込みで傷つけなくてもいいひとを傷つける発言や態度をとってきた未熟さをお詫びしたい。

そもそも私たちは、このようなレッテル貼りに深く傷ついてきたではないか。

依存症という病への無理解や偏見、つまりスティグマを植え付ける社会を憎んできたはずではないか。

それなのに、レッテルを貼る側になってどうするんだよ、という話である。

大きな主語で語ると、その主語の大きさに比例して他人を傷つけるリスクを高くする。

気を付けなくてはならない。

 

ではなぜ大きな主語で語る(一般化する)のか?

では、なんでそんなリスクの高いことをしてしまうのだろうか。

自分が傷ついてきたはずの行動を無意識にしているのだろうか。

その答えは簡単で、「恐れ」ていて「不安」だからだ。

何が? 「わからないこと」が。

私にとって、分からないものと対峙することが、居ても立っても居られないほど脅威だから。

 

私が人間をカテゴライズする「性格診断」「タイプ診断」などを毛嫌いするのは、人間の心の弱さをまざまざと見せつけ、心にこすりつけられるようで、どうも苦手だからだ。

分からないものを分からないまま脇に置いておくことができない「弱さ」を誤魔化すためだったり、何かの基準にすがりたい弱さに付け込んでコントロールしようとするパワーゲーム的な戦略性(つまり別の種類の「弱さ」)を垣間見るからだ。

 

何故、他人が「わからない」ことがこれほどまでに怖いのか?

コントロールしたり予測したりできないことに、ここまで不安を覚えるのか?

それは、私たちが今までコントロールされたり誘導されたりしてきたからだ。

他人に意図を知らないままに操られてきたからだ。

他人に心理的安全性を脅かされてきたからだ。

つまり他人を警戒し心を閉ざしているのが私たちだ。なぜか?そうせざるを得ない経験をしてきているから。

自分の弱さを認識しようとしないで、他人を分かった気になることで覆い隠そうとする。

そうなった瞬間、弱さは気高さを失い、醜悪さになる。強くありたいという本来の願いから遠ざかっていく。

以上が「一般化する側」の弱さ・醜さ。

 

「一般化された側」も、弱さが共鳴する。反応する。それが炎上である。

一般化された言葉を読む。

それはおおむね当事者の真実と異なっている。なぜか?弱さゆえに分かった気になろうとした人が無理やりこじつけた虚像だからだ。安心するための張りぼてに過ぎない。

その張りぼてをさも自分であるかのように、他人が勝手に喧伝していたら、当事者はどう思うか。

「ちゃんと理解してもらえていない」

「誤解されている。本当の自分を受け容れてもらえていない」

当事者の聞き手は、不安と恐れが生まれる。

そして、その不安と恐れに突き動かされて、発言者を非難する。

どうやって非難するか?これまた一般化するのである。

「これだから○○は理解していない」

「こんなことを言うのは○○なやつだ」

それが連鎖反応して、どんどん人を傷つけていく。

ネットで炎上している状態というのは、だいたいこんなもんだと思う。

 

要は、「一般化する側」も「一般化される側」もそれぞれの弱さが反応して、無差別に傷つけあい燃え上っているだけ。

人が群がる空間に迸る「人間の醜悪さ」というのは、「弱さの否認の共鳴現象」の産物だと思う。

 

強くあるにはどうすればいいのか?

弱さそのものは悪くない。むしろ必要だ。

しかし、それを認めず目を背けるとき、人は醜くなる。

否認すればするほど、みすぼらしい存在になっていく。

弱さを認めること。脇においておけること。それが、強くあるということ。

強かで美しい人間であるために必要な勇気だ。

 

まず、傷ついたときには素直に「私はあなたが○○だと決めつけて話すことに傷ついている。可能なら、次回から決めつけないでほしい。○○という風に理解してもらえたらうれしい」と言葉にして相手に伝えよう。

攻撃する必要はない。自分がどう感じたのかをありのまま、私を主語にして伝えよう。

それを受け取りどうするかは、相手次第。気持ちを渡した瞬間、それをどう処理するのかは相手の仕事だ。相手のなかでどう加工されようと、あなたに責任はない。伝わるように伝えるところまでが自発的に果たしたい役割。

とても勇気がいる。自分の気持ちをそのまま伝えて受け取ってもらえなかったら辛い。誤解されたら口を出して理解させたくなる。でもそこは境界線を越えてはいけない。私に「気持ちを伝えて渡す権利」があるように、相手には「受け取り方を決める権利」があるのだから。

 

そして、他人の言葉を聞いたり、自分が発言するときに、「主語が大きくなっている」と感じたとき。

それは誰かが誰かに「恐れ」や「不安」を抱いているときだと覚えておこう。

覆い隠したい「自分のなかにある恐れや不安」が別の形で表出していることを知覚しよう。

 

わかったようなふりをして安心したいのはなぜか?

そこにはどんな「不安」がある?

「この相手を理解した」と周囲に示すことで気持ちよくなりたいのはなぜか?

そこにはどんな「恐れ」がある?

 

そういうとき世界は「自分を見つめ直そう」というメッセージをくれている。

【メンタル】「自分さえよければいい」エリートたちの魂が貧しくなった理由

本当におぞましいな、と思う。

最近人々のなかに共通して見出されるもの、それが「自分さえよければいい」という文化的経済的貧困からくる「魂の貧しさ」だ。

本当におぞましいな、と思う。

誰が悪いとか、どのカテゴリが悪いとか、そういう話ではない。

この日本社会に生きる人々の魂がどんどん貧しくなっているんじゃないかと思う。

私はとても哀しい。

 

自分良ければすべてよし(エリートサラリーマン編)

同期で出世街道まっしぐらのエリートサラリーマンはこういった。

「家族さえ幸せならそれでいい」と。

その単語だけなら別に「そうだよね」なんだけど、彼は、患者さんには必要のない薬を医師を騙して病院のクリニカルパスに組み込ませ使わせているのだ。はっきり言って無益だ。

具体的に言ってしまえば胃薬なんだけど、ある血液をサラサラにする薬と一緒に使えば胃からの出血を抑えられると言われている。でもそれは特定の種類の薬剤の出血傾向に対してエビデンスをもっているのであって、それ以外の種類と一緒に飲んでも厳密には効果があるとは言えない。

つまり、患者さんは本当に必要かどうかわからない高い胃薬を買わされることになる。医師が騙されているせいで。製薬会社がちゃんと事実に基づいた説明を意図的にしないせいで。

なぜ本当に必要とはいえないような使用方法に誘導するのか?

それは他の社員より売り上げをあげて社内で目立ち出世するためである。自分のために患者さんを食い物にする。それは我々の存在意義から完全に逸脱している。

そのことに言及したとき、彼は冒頭の言葉を吐いたのだ。

世の中の為より家族の為。自分たちさえ豊かで得をしていれば、他の人が余計な金を払おうが、苦しもうが知ったコトではない。

そういったのだ。

 

あるチームリーダーはこういった。

「我々は利益を求める株式会社だよ。慈善事業でやっているのではないから、患者さんの為っていうのは建前でしかない。社会的に良いことなんてのは、NPOやなんかの慈善事業団体に任せておけばいいのさ。そういう『意味ないもの』は自分のなかで折り合いをつけてちょっと脇に置いといてよ。私たちはとにかく計画を達成しなきゃダメなんだよ。そうしないと私たちの所得が下がって生活できなくなるから。」

私たちの事業の目的は、医薬品を通じて人々の健康に貢献することではなかったか。それが本質ではなかったか。「手段を選ばず売りを上げて自分たちの社会的地位と所得を守ること」ではない。

それなのに本当の事業の目的を、どこか経済的利益を求めないところにアウトソーシングしとけばいいや、と軽く考えている現実。

子どもの頃、遠足のおやつにと手に取った「ラムネが本体でおもちゃがおまけ」なのに、実際にあけてみれば「ラムネがおまけでおもちゃが本体」の、お菓子のガッカリ感を思い出す。

価値観が逆転している。

患者さんの為なんて理念は無価値だから、そんな「オプション」は塵取りで集めて端っこに寄せて見ないようにしよう、といったのだ。

 

信じられるだろうか。

私はこういう人たちと話すと背筋が凍る。

この人たちはもはや人をやめてしまったのではないか。真剣にそう思う。

サラリーマンというのは、部品化されたホモ・サピエンス、すなわち人から劣化した人型をした魂の抜け殻である。基本的に利益を追求する機能だけに特化した企業。企業の口車に乗せられて、すっかり「目標達成マシーン」に調教されている。

部品としての優秀さは、他人を踏み台にすることを何とも思わないこと。そういう「優秀な」社員は、経営者にとって操作するのに都合がいいから。

部品として「優秀」であればあるほど使いやすい。調教されて目標達成してよしよしヾ(・ω・`)されるために動くから、実にコントロールしやすい。いうことを聞かせられる犬がたくさんいたほうが経営者は金儲けをスムーズに行うことができる。

無駄に「社会の為」「患者さんの為」「国民の為」とか考える人は、組織にとって使いづらい。

だから私は出世しないわけだが、出世しないほうが人間性を残しているという意味で、むしろ今は本当に出世したくない。

人としての魂を失う代わりに諭吉をもらうなんて、悪魔の取引だと思わないか?私はまっぴらごめんだ。

 

自分良ければすべてよし(政財界編)

同じことが政財界にも言える。

財務省の官僚は「出世しようゲーム」に参加して遊ぶことを彼らの人生のメインに据えている。だから、MMT理論ですでに無意味だと証明されている「プライマリバランス黒字化」を今も掲げている。

「プライマリバランス黒字化」とは、簡単に言うと、国の借金をなくしましょう、ということ。

国の借金とはつまり国債。誰かの負債は誰かの資産。国債を刷るということは、世の中の資産が増えるということ。ということはつまり、私たちの 使える資産が増えない=お金がない のは、国債を刷るのを渋っているから。つまり国がプライマリバランス黒字化を掲げる限り必然なのだ。

実は国の借金(国債)は返さなくてもいい。現に世界では借金がどんどん膨らんでいる国ほど景気を上手にコントロールして経済成長している。

日本も昔から考えれば何百倍もの借金になっているけど、私たちは別に返してきたわけじゃない。

返さなくても経済が回る、むしろ国が借金しなきゃ成長できないことを証明したのがMMT理論だから、当然なんだけど。

返さなくてもいい借金を「返さなきゃいけない」と思い込んで国が出し渋るから国内経済がどんどん縮小する。そうすると物が売れないからみんなお金を使わない。そうするとデフレだから景気が悪くて苦しい。景気が悪いから税収が減る。税収が減るから…という「間違った思い込みの悪循環」のなかにいる。

つまり、国債を発行してお金を刷り、みんなに分配しても本当は何の問題もない。だけどやらない。なぜなら財務省の人たちにとっては「出世できなくなる」行動だから。

国民がいくら貧しくなり経営難で自殺しても、そんなことはどうでもいい。出世できなくなるよりはいい。そう思っている。

では閣僚なぜ財務省に「お金刷れよ」と言わないのか?その権限を持っているにもかかわらず。なぜ命令できないのか?

それは、財務省の管轄庁である国税庁が怖いから。つつかれると困る不祥事を国税庁につつかれるのが怖いから。つつかれて暴かれて政治家として失脚するのが怖いからだ。

国税は警察をしのぐほどの強力な権力を持っていて、税金に関することなら国民のありとあらゆることを調査する権限を持っていて、我々には拒否権が無い。

いろいろ黒いことをやってのし上がってきたのに、国税庁にばらされたら政治家をできなくなる。今の生活を維持できなくなる。

だから、今の立場を守るために国民がどんなに困っていても、とりあえずはぐらかして騙しておこうと思っている。見殺しにしてもいいと思っている。

 

エリートたちは 寂しい「黒死牟」

ここまでの事例で、サラリーマンから行政機関まで、全部のエリートに共通するのは「自分さえよければいい」という浅ましさ、「魂の貧しさ」だ。

だから、本当におぞましいな、と私は思うのだ。

 

今のこの社会に認められる人というのは「魂が貧しい人」なのだ。

人としての浅ましさを認められ、その代わりに金や権力が与えられるのだ。だから、お金を必要以上にたくさん集めていることはむしろ恥。社会的地位があることもむしろ恥。そうとも言える。

 

ではなぜ、この恥ずかしい人たちは、こんなにも魂が貧しくなってしまったのだろうか?

それは彼らの人間性が劣悪だからではない。

誰もが持っている寂しさ・苦しさ。それを誰かに認めてほしい、受け容れてほしい、そういう切なる願いが出発点だと思う。

努力が結果的に社会的に報われないと、それらの切望は嫉妬、すなわりルサンチマンになる。

努力が結果的に社会的に報われると、傲慢な自己顕示欲となる。

 

「どうだ、俺はすごいんだぞ」

「こんなに苦労して頑張ったから成功したんだ」

「成功できないやつは俺みたいに努力してないからだ」

「俺には人よりも優れた能力がある」

「俺はほかの出来損ないとは違う」

 

この言葉の真意は以下のような「切なる願い」から来ている。

 

「私はとても苦しかった、つらかった、それを分かってほしい、がんばったねって言ってほしい」

「私は自信がない、優秀なんだと信じたい、自分に生きていけるパワーがあると信じたい、だからみんなに認めてほしい」

「負けるのが怖い、人と比べて優れていなくては自分の価値がわからなくなるから、だから何としてでも勝ちたい」

 

つまり寂しいのだ。

めそめそ泣いているインナーチャイルドを抱えて、表では傲慢で横柄な人を無意識に演じている。ふんぞり返っているように見えるが、実に弱々しい。

そしてチャンスがなく結果が残せなかった弱者に「自己責任論」を振りかざして悦に入るのが好き。なぜなら弱い自分を克服したように錯覚できるから。まだ弱いんだけどね。

『鬼滅の刃』でいうところの、上弦の壱「黒死牟」そのものではないだろうか。

 

自己肯定感をメリットと相関させなくていい

これら社会の真の病巣は、本当の自己肯定感を育んでこられなかったことにあると思う。

本当の自己肯定感とは何かというと、「あるがままで生きている価値がある。自分の人生は自分で決めて歩んで行って何の問題もない。私の意思や願いは誰にも否定できない。」ということだ。

よく「5分で高まる自己肯定感!」みたいな怪しい自己啓発セミナーで「自分のいいところを探そう!」とか「みんなでお互いに相手のいいところを褒めまくろう」とか言っているのを見かける。

それもいいんだけど、本質的にはちょっと違う。

何か社会的なメリット、特に他の個体と比べたメリットを支えにしてしまったのでは、不健全だ。先の空虚な黒死牟たちと同じになってしまう。

「メリットがあるからそこにいていい」というのは寂しい。なぜならメリットがなくなればそこにいてはいけなくなるということだから。

私たちは何かメリットが無くてはここにいてはいけないのだろうか?生きていてはいけないのだろうか?そんなに命そのものだけでは足りないだろうか?価値が無いものなのだろうか?

 

そんなわけがない。

そんなわけがあるはずがない。

 

人は、生きているということそのものが、とてつもない意義を持っている。実体があり命がある。それが事実。メリットもデメリットもない。絶対的に肯定される尊厳がある。

だって、子供を持っている人は分かると思うけど、我が子が生まれてきたとき、そのか弱い姿がどれほどの希望になった?

彼らはメリットを提供したか?むしろ仕事が増えてデメリットしかなかったのではないか?我が子に対してメリットが無いから「こいつココにいてはいけないな」と思ったか?

赤ちゃんは、自分では何一つできず、言葉も話せず、放っておいたら死んでしまう、か弱い存在。それでも日々進化し懸命に生きようとする命の輝きは眩い。その輝きは親である私たちにとてつもないパワーを与え続けてくれたことを、今も覚えているだろう。静かで温かくずしりと質量をもつ覚悟を私たちに与えてくれただろう。

だから、人が懸命に生きる姿というのは、それだけで意味がある。

どんなに病んでいて、どんなに至らなくて、どんなに汚くても、己の信念のために命を燃やしているその姿には、貨幣という紙切れには変えられない強烈な美しさがある。だから世の中の人々の多くが、煉獄杏寿郎をはじめとする鬼殺隊の面々の必死に生き抜く姿に心を動かされたのではないだろうか。

自己肯定感というのは、そういうものだ。

生まれた時点で「私たちは外界にすらとても大きな力を与える存在なのだ」という健全な自覚を持つこと。

それが「自己肯定感」だ。

つまり、もうすでに生まれた時から持っているのだから、探し求める必要が無い。だってもうすでに誰もが持っているのだから。

だから、好きなことをやっていいし、己の信念に従って生きている限り何を選んでもどう生きても間違いではない。お金が無かろうが、人望が無かろうが、誰に認められなくても、何の保証もなくても、人はヒトをやめない限り絶対的に価値がある。

 

まとめ:理想の平和な世の中を願って

このことに全人類が気づきさえすれば、だれもが、誰かに対峙した時に心を不安で揺らさなくてもよくなる。

なぜなら、比べなくていいから。優れていなくていいから。

違いを認め、おもしろがり、対話することでさらに心が豊かになっていく。社会がどんどんおもしろくなっていく。

どうか、そうなってほしい。

そのために、私は私ができる事をしたい。

【メンタル】「お前が悪い」と誰かを指差す人が抱える感情

自分の悲しみや憎しみを見ないようにするために、どうにもならない(ように感じる)世界に対して「正しさ」で復讐する人は、世の中にたくさんいる。

芸能人の失敗が報道されるたびに、ネット上やマスメディアのコメンテーターには声高に当事者を罵って叩きまくる人が湧いて跡を絶たない。

この現象は、まさにその最たるものの一つ。

 

自分の悲しみや憎しみは、いったい何か?

それは変えられるものなのか、変えられないものなのか?

自分はどうやって、辛かった経験や気持ちを抱えて、行動を変容させるのか?

そういうど真ん中の課題に向き合うことは、誰しもつらい。私もつらい。そして、よく目を背ける。

人間は元来みな弱い。

だから、人間なら当たり前でもある。

 

辛い苦しい見たくないものを見ずに、自分が楽で安心して眺めていられるものを見て、誤魔化そうとする。

そのとき安心しながら、眺めるものとは?

「他人の人生」である。

他人の人生には、何の責任もない。

生きていようが、死んでいようが、みな実は自分以外のものの生き死にには基本的には興味がない。

自分と同一視できて、まるで我がことのように感じられるから興味がわくわけで、どこの誰とも知らない人が何か失敗をしたとして、本来ならあまり関心はわかない。

自分の人生から目を背けるために他人の人生を見ているときは違う。

自分の中の「何だからわからない不満や焦り」を誤魔化すことができる、美味しいおやつのように見える。「常識」や「法律」を振りかざして、観客席から嬉々として石を投げる。

他人が、自分が投げた石にダメージを受け、凋落し後悔し痛がり、泣きながら謝る姿をみて溜飲を下げる。

 

コントロールしたい。

自分が考える正義で、誰かを打ちのめしたい。

後悔させたい。謝らせたい。苦しませたい。

自分には力がある、自分は正しい、自分は悪くない。

自分が少し、惨めでなくなる。

自分が何者かになれた気がする。

自分が少しマシになったように思える。

ほら。自分ばっかり。自分しかいない。

他人を踏みつける限り、自分がその上にいられると。下がいるということは、自分がそれと相対して上にいると思えるから。

他人がどうこうではない。

実は自分が楽になりたいだけ。

 

人である限り、生きづらい人生であればあるほど、このような外道に道を踏み外しがちだ。

かくいう私もだ。自分が精神的に調子が良くないときほど、他人のツイートが癪に触ることがある。曲解してつい攻撃的なリプを叩き込んでしまったりして、いつも後悔する。

我ながら、未熟にも程がある。

しかし、それが包み隠さず今の私そのままだ。

 

「お前が悪い」

そう責めるのは実に甘美だ。

まるで、苦しい胸の内を忘れ楽になれる、麻薬のようなものだ。

「私は悪くない」と逆説的に自己肯定ができる。だから、つかの間安心できる。

正義と悪の構図で、常に正義であり続けることは、マウントをけしかける張本人にとってメリットがあるのだ。けしかけられた側は堪ったもんではないが。

だから皆、勝てる土俵で「正義のヒーロー」になりたがる。

犯罪は、明らかに罪を犯した人が悪い。

悲しんできた人がいるから罪になっているわけで、それを責める立場に立てれば、正義の座に居座り続けることができる。

まさに常勝。この上なく美味しい試合である。

 

正義の座。

その椅子は、さぞや座り心地がいいだろう。

しかしよく見てみると、正義でボコボコに殴られた者の無残な返り血や肉片が、そこら中にベットリとこびりついているのだ。

そんな呪われた椅子に座る者に明るい未来などあるわけもなく、座って胡座をかいているうちに、自分自身の精神はどんどん貧弱になっていく。椅子自体はどんどん下に堕ちていくのに、座っている人は気がつかない。

椅子から立ち上がることもできなくなるころに、こんなことをして浪費するべき時間はなかったことに気づく。時すでに遅し。時間は巻き戻らない。

自分の人生は、自分の足でしか這い上がれない。

上がりたいなら、他人を落とすことに躍起になるのではなく、座り心地が良くても椅子から立ち上がり、一歩一歩踏みしめなくては。

 

私はとても悲しい。

その人たちは、まず自分のことを見たくないのだ。そして、「見たくない」と思っていることそのものも、見たくないから、二重の否認のなかにある。

今が実は一番苦しいんだと思う。

他人を叩いてほくそ笑むその裏で、苦しみにのたうちまわっている真心が見える。

かつては誰かに石を投げつけられたかもしれない。

うまく登れないことを責められ、急かされ、悲しい思いをしてきたのかもしれない。

あなたも、そういう経験があるのではないだろうか?

 

私は信じたい。

そんな人たちにも気づきや出会いが与えられ、いづれは自分のなかの真実にたどり着き、他人の人生を出汁にしなくても、自分自身を楽しく潑剌と生きていけることを。

人は間違える。

完璧ではない。

だから法律というルールが創られた。

失敗から成功が生まれ、少しずつ少しずつ改善されて今があり、今もまた完全ではない。

今、間違える人を責めて、何になる?

逆の立場で、あなたは何を感じるだろうか?

当事者だとしたら、あなたならどうしてほしいだろうか?

私が悪かった、と思うことは、わたしには数え切れないくらいあり、その罪も償い切れないくらいある。

可能な限り謝ってきた。受け容れてくれることもある。理解してもらえないことも、拒絶されることもある。

その罪も引き連れて、それでも一歩を踏み出す勇気が、ヒトの美しさだと思う。

痛みを知っているぶん、ヒトは強く優しくなれる。

私は、そうでありたいな、そうであったらいいな、と思う。

【メンタル】私がもう死にたかったときの話

自殺予防週間(9月10日~16日)が今日で終わる。

死にたい・消えたい。

そう思っていたとき、私はどうだったかな、と当時に思いをはせる。

 

私はまだ酒を飲んでいたころ、とにかく酒を飲んでいた。

長く生きている気もなく、かといって今すぐ死ぬ気もなく、ゾンビのように酩酊したまま現世をふらふらとしていた。

酒を飲まなくては、現実は直視するには辛過ぎた。

もうやめにしたい。勘弁してほしい。

そう思うけど、自殺するのも憚(はばか)られるのだ。

 

親に言ったら悲しむから。

先生に言っても解決しないどころかむしろ悪化するから。

大人に言ったって無駄だから。

消えたいなんて言ったら友達に引かれるから。

そんなふうに周りのことを気にしている。

そんな余裕など1mmもないのに。

「生きていても、死んだとしても、迷惑なやつだな」と思っていた。

私の自尊感情は地に落ちていた。ぺらっぺらだった。

 

しかたない、生きているのだから、死ねないのだから、

元気な振りをしなくてはいけない。

幸せな振りをしなくてはいけない。

「私は問題ないよ!」って言う笑顔をしておかないと厄介ごとに巻き込まれる。

だけど裏では泣き叫んでいる。

 

そういうときに、

「いいことあるから」「人生まだまだだから」

とか言われたとしても、聞く耳を持てない。

「私じゃないお前に、いったい何がわかる?」

と思う。私ならそう思う。そう思っていた。

 

「どうせ俺の気持ちなど誰にも分からない」

酒を飲んでいるだらしない人間、一人前でない人間だと思われるだけだと、固く閉じる。

 

そういう黒い重いモヤモヤを誰にも話せないのは辛い。

それこそ、いっそ消えたい、もう終わりにしたい、と思うくらい、辛い。

そりゃ死にたくもなるよ、と思う。

だから、「もう終わりにしたい」というひとがいたとして、どっちを選んだとしても、私は何も言うまい、と思う。終わりにしたい気持ちもわかるから。

 

だからTwitterにはそういう叫びがあふれるんじゃないだろうか。

Twitterでなら、誰かわからない状態でなら、言えるから、みんな「死にたい」「消えたい」という思いがあふれて、つい呟くのではないだろうかと思う。

誰にも言えない苦しい気持ちを、もうどこかに吐き出さないと生きていられないから。

 

そういう意味で私たちは「死にたい」という言葉を口にするのだと思う。

 

私の感覚では、死にたいよりも、消えたい、だった。

死ぬのはコストがかかるし、迷惑がかかる。

自殺する方法を調べていて、電車に飛び込んだとき電車を止めると何百万もお金がかかると知って落胆した。

これ以上迷惑をかけたくなくて死ぬのに、なんでこれまでで一番迷惑がかかるんだよ…。

いや、一時的なもののほうがまだいいのか?生きてるだけで社会的には負債みたいなもんなんだし…などと考えながらネットサーフィンしていたものである。

 

何より、楽に死ねる方法があまりない。

銃が手に入れば一発だけど、免許を取らないと猟銃を所持できないし、猟銃を使って死んでは猟師の人たちに後々迷惑がかかるかもしれない。

練炭自殺はどうだろう。一酸化炭素中毒か…室内で気絶できるなら楽そうだけど、事故物件扱いになって大家さんが困るし、車は当時持ってなかったから、レンタカーだとレンタカー屋に迷惑かかるしなぁ。

首を吊るしかないか、しかし、頚椎がしっかり折れなかったら、地獄の苦しみを味わう。それにどちらにしても糞尿たれて死んでるところを、山の保有者と警察が処理しないといけない。それもとんでもない迷惑だ。申し訳ない。

生きていても、死んでも、申し訳ない。

そういう闇を這いずりながら、「消えたいなぁ」と思っていたのが、今までの人生の大半だった。

酒を飲んでいるときだけ、その闇から這い出て、別の自分になれた気がした。

暗くつらい何の面白みもない人生を一瞬忘れることができた。

その一瞬でよかった。その一瞬がほしかった。

休んではいけないほど罪深い人間だと思っていても、とにかく休みたかった。

私は毎日ブラックアウトするまで飲んで気絶していたのだが、毎回もうこのまま目覚めなかったらいいなと思いながら酒を飲んでいた。

つまり、毎日自殺未遂をしていたようなものだった。

 

しかしアルコールではそうそう簡単には死ねなかった。

そして飲めば飲むほど事態は悪化していって、苦しさは指数関数的に大きくなる一方だった。

そして私は自分のなかで社会的な死に直面して、本当に首を吊ろうと思う出来事があった。

お酒の問題が理由で会社を懲戒解雇されそうになったのだ。

「君はもういらない」「頼むからやめてくれ」

罵詈雑言を浴びせられ、いよいよ終わりだと思った。

もうこのままダラダラと死んだふりのような人生を続けていても仕方がない。死のう。

 

そう思って「死にたい」ではなく「今までありがとう」を感謝している人に告げていった。

これで終わりにしよう。ちゃんと挨拶してから実行しよう。

そうして自分の真実を話し、感謝を告げることによって、私はちゃんとした自分で人と話せた。

そしたら、ちゃんと理解してくれる人がいることに、その時気づいた。

 

妻(当時は彼女)が、

「仕事なんてそんなの、どうにでもなるよ!あんた一生懸命頑張ってんの、私見てたから。大丈夫だから。アンタなら大丈夫。」

そう言われた。

 

そう言われて、救われた。

「そんな風に信じてくれるひとがいるんなら、もう一回、死んだと思って頑張ってみるか」

そう思った。

 

そのときに、「本当にもうダメだ、終わった、死のう」そう思っていると思っていたけど、私は実は心の底では「まだあきらめたくない、生きていたい」と思っていたことに気づいた。

諦めたくない、生きていたいという本心に従って生きるなら、酒をやめて向き合うしかない。この見たくもないゴミ屋敷のような己の心から目を逸らさずに、ひとつひとつやるしかない。

もう、やるしかない。

私は死ねなかったのだから。気づいてしまったのだから。生きたいって、思ってるんだったら、覚悟を決めるしかない。

結局、死ぬにしても、生きるにしても、私はどっちかを選ぶしかない。

それはどちらも楽な道ではない。

どっかの誰かが引っ張ってくれるようなものでもない。

自分で乗り越えるしかないのだ。全部自分で決めるしかない。選ぶしかない。

そんなら、どうしたいんだ俺は?

どっちにいきたいんだ?

それを真剣に考えた結果、今はまだ生きている。

明日はどうなるかわからない。

酒をまた飲み始めて、中島らもさんのように階段でこけてあっけなくぽっくり逝くかもしれない。

これからも、死にたいと思うことは、結構あるのではないかと思う。

ありふれているから軽いというわけじゃない。

そういう相対的なことが言いたいんじゃない。

各々の人生のなかでどん底に落ち「もういっそふっと消えてなくなりたい」と願うことは、みんなにとって、すぐ隣にあるような身近な感覚なんじゃないか?ということを、私は言いたい。

死はタブーではない。親愛なる隣人である。

私の人生は、少なくともそうだったように思う。

 

私の上っ面や社会的地位や想像のなかの私しか見ていない人もいれば、私の本当を見てくれた人がいたように、あなたにも、あなたにわからずともちゃんと見てくれているひとが、きっと、いる。

こんな私にいたんだから、あなたにも、必ず居る。

もしまだ見渡してもいないとしたら、それは、これから出会うからだ。

恋人でなくても、かけがえのない仲間だとあなたを大事に思っている人が、きっといる。

きっと出会う。

 

それに、そんなひとがいなかったとしても、確実にずっとあなたをみてきた人がいる。

それは「あなた自身」である。

 

あなたの価値は、あなたが生きている限りなくならない。

それは、あなたがとんでもない奇跡の過程でこの世に生を受けて「生きて実態を持っている」というだけで、実は人間というのは、世界に対してとてつもない影響力を持っているからだ。

 

貴方が生まれてから今日まで。

今まで感じてきたことは、何の価値もなかったのか。

今実現できない諸々以外の持っているものは、どうでもいいくだらないものなのか。

この世にいる人間の誰も、あなたは好きじゃなかったのか。

あなたの人生には、本当に嫌なことしかなかったのか。

あなたの人生は、今まで生きた分で、たったそれだけだったのか。

 

それは、まだ解が出ていない問題である。

なぜなら、続ける限り、まだ未知数で誰にも予想できないからである。

そして、最も重要なことは、今まであなたが一生懸命最善を尽くしてきたことは、まぎれもない事実だということである。

それは、それだけでとてつもなく価値あることではないだろうか。

私には、これ以上ないほど価値がある誇らしいことだと思う。

しかもこんな苦しい人生を今までやめずに生き延びてきたのだ。

それ自体が、とてもすごいことだと思う。

 

あなたは、そういう意味で、誇れるものをもうすでに一つ持っているということだ。

私は、そんなあなたのこれからをもっと見てみたい。

私は、私のこれからをもっと見てみたい。

だから、一緒に明日も朝日が拝めたら、それは幸せなことだな、と思う。

【メンタル】映画『孤狼の血』に学ぶ、人生の生々しい輝きについて

 

私は元来、あんまりヤクザ映画が好きではない。

不良がなんかケンカするだけの映画も好きではない。

でも、この映画はとても好きだと思ってしまった。

その証拠に、2日で3回観た。Amazonプライムで。

 

 

物語の舞台は、昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島。所轄署に配属となった日岡秀一(松坂桃李)は、暴力団との癒着を噂される刑事・大上章吾(役所広司)とともに、金融会社社員失踪事件の捜査を担当する。常軌を逸した大上の捜査に戸惑う日岡。失踪事件を発端に、対立する暴力団組同士の抗争が激化し…

(C)2018「孤狼の血」製作委員会

監督:白石和彌

主演:役所広司松坂桃李真木よう子

出典:Amazon.jp『孤狼の血』より

 

 

「呉原というダーティな街に舞い降りた天使だと思って、私は演じました。」

と語るのは、主役の大上章吾を演じた役所広司である。

真ん中の滅茶苦茶厳ついおっさんが天使?と思うかもしれないが、見終わった後、なかなかどうして、天使に見えてしまうから不思議である。

 

この映画は、安いバイオレンスやアウトローへのナルシシズムに酔った作品とは違う。

冒頭からしっかりグロいので、近年の映画では類をみないそういった残虐で派手な描写に目が行きがちかもしれないが、そういった表現手法はあくまで脇役だと感じた。

本筋は、白石和彌監督が語った以下のコメントに凝縮されている。

(今は)生きづらい世の中になってきている。決して暴力がいいって言いたいわけじゃなくて、この頃の昭和の男たちの生き様は、自分の意志で動いて、必要なことは必要と言い、嫌なことははっきりNOと言う、私たちが忘れかけている人間の生き様そのものだ。

これから社会に出ていく若者たちは、誰の背中を見て働いていったらいいのだろう?ということをすごく感じる。社会全体のエネルギーがなくなっている一つの原因だと思う。

そういう意味で、大上の背中を、ちゃんと見届けてほしい。

 

自分の欲望に素直に生き、意志を持ち貫くことの人間臭い、生の輝き。

一生懸命人が生きる姿の、逞しさと力強さ。

大上の背中の大きさや厚みとは、そういうものでできている。

「じゃあ聞くがの、正義たぁ、なんじゃ?」

「落ちんようにするにゃあ、歩き続けるしかなぁ。のう、広大。わしゃもう綱の上に乗ってしもうとるんじゃ。ほんなら落ちんように、落ちて死なんように、前に進むしか、ないじゃなぁの。」 大上章吾

真に重要だと「自分が信じること」を実現するために、覚悟を決めること。

恐れるべき相手を正しく恐れ、自分の脳味噌で考え、汗だくで生きることそのものの、武骨な魅力を、大上の背中は教えてくれていると思う。

 

私たちは、自分の欲望を忘れて久しい。

社会も家庭も会社も、共依存的な関わりにあふれている。

誰もが役割を押し付けられて、その役割のステレオタイプを演じている。

「他人に馬鹿にされたくない」「認められなければならない」という不安や義務感で、自分の価値を高めることに毎日が消費されていく。みなマーケットで負けないように一生懸命だが、本当にやりたいことではない。

市場において「よい商品」であろうと努力し続けることが徒労に感じるのは、実はそれはあなたが本当に「やりたいこと」ではないからだ。

本当はやりたくないことで毎日がいっぱいになって、本当は何をしたかったのか、どう生きたかったのか、わからなくなっているのである。

欲望があるとも叫べず、叫ぼうにも何が願いなのかもわからず、私たちは途方に暮れている。

 

大上と出会ったばかりの日岡のように、ルールや規則を守ってさえれば絵に描いたようなわかりやすく薄っぺらな正義が守ってくれる、と信じたい。実現不可能な夢物語を信じていたい。

自分のなかに目指すべき何かがないとき、誰もがそうだ。

我々はそんな青く純粋で生真面目な日岡の目線で、大上の背中を追いかける。

物語が進むにつれて、今まで自分が信じたいと思い描いてきた善悪の構図に疑念を抱くようになる。

小綺麗な勧善懲悪など、実はこの世には存在しないのではないか。

血で血を洗うような生々しい魂のせめぎ合い。それが生きていくことの本質だとすれば、その泥沼のような血溜まりを、自分で航路を定めて漕ぎ進めてゆくほかない。

そんなグロテスクな現実を見ることは、誰もが怖い。足がすくむ。

組織という檻の中で犬として大人しく飼われていれば見なくて済むものが、この世にはたくさんある。

そして、それが良しとされてきた。賢いことだと言われてきた。だから疑いを持てない。

誰かに飼い殺しにされ、それにすら目を瞑って、うろんな生涯を過ごしていれば、無惨に死ぬことはないのかもしれない。

でも。…そうやって大事なことから、自分の本心から眼をそらすことに、みな実は嫌気がさしているのではないだろうか。

誰かのために生きることを躾けられて、飼い慣らされた犬のように、日々無様に鳴いている、いや嘆いているのだ。

 

だから皆、どことなくイライラしているのではないか。

 

メディアを見れば、他人の人生のしくじりを血眼になって探しては、叩き溜飲を下げようと必死なひとばかりだ。

何もかも、自分の人生の空虚さ、生きている実感のなさを、『怒り』という嗜癖で、目を背けたい、本心を見て見ない振りをしたいからなのではなかったろうか。

 

俺は強くなったはずだった

強くなろうと思って 懸命に砂をかけていたのか

罪を 弱さを 覆い隠す為に完全無欠の強さを求めたのか

俺はここから一歩も動いちゃいなかった

俺自身も覆い隠し 誰に何も与えもせず 孤独

出典:『バガボンド』第8巻 砂遊び より引用 宝蔵院胤舜のセリフ

 

強さという『結果』や『正しさ』を追い求め、宮本武蔵との命のやり取りを経て、やっと自分の過去の過ちと弱さに向き合うことができたときの、胤舜のセリフが蘇る。

必死で砂をかけてきたのは、私たちも同じではなかろうか。

逞しく「己の生涯」を往き切ることに死力を尽くさないで、私たちは何に力を尽くせるというのだろうか。

 

他の何したところで、退屈で不安で、どこか苛立つだけだったろう?

実は、それはもう、みんなすでにわかっていることだろう?

 

本来我々は狼であり、孤独であろうとも狼として生きることが最も人間性に溢れた生き方なのだ。

単純な白黒ではない、グレーで泥臭いこの世をいかに生きるべきか、否、どう生きたいか、だ。多くの人がずっと先延ばしにしてきたであろう、この力強い問いを、大上の背中は私たちに突きつける。

 

狼として生き切る勇気を持ちたいと思う。

大上の背中の魅力は、綱渡りでも前に進む勇気を携えた頼もしさだ。

私が、こうありたい、と願う姿を別の形で体現している。

自分を生きていくこと、人に愛情を持つことに、正直な生き様だ。

 

その背中をずっと追いかけてきた日岡がタバコに火をつけるラストシーンに、私は勇気をもらった。

大上のライターが、自分の人生を生きる、覚悟の火を灯す。

 

人間はなぁ、一回こっきりしか生きられんのよ?

【メンタル】パワーゲームに疲れて苦しいときに読む話

私はよく「相手を暗にコントロールしようとする人」に出会うと、激しい怒りや憎しみを感じる。

残念なことに、仕事ではこうした人によく遭遇する。社内でも、社外でもだ。

ビジネスの世界は、パワーゲームだ。

高学歴・高収入を誇るような、いわゆる「勝ち組」と呼ばれる人がまさに総じてそういう小賢しさを持ち合わせている。徹底的にウマが合わずに苦労したものである。

彼らはパワーゲームで勝ってきたから、パワーゲームが大好きだ。勝てるフィールドに人は虜になる。そして己を見失う。

成功してきた彼らはその人生経験の裏付けも相まって、「自分の人生や他人の行動をコントロールできる」「他人にはなくても自分にはその力がある」「努力すれば自分は成功者になれる」という宗教的思想を信じて疑わない。

それは、その宗教を信じるに足る恩恵に彼らが恵まれてきたからなのだが、そのことに気づけない。全て自分の才覚や努力の賜物だと思って天狗になっている。実におめでたい。が、私も例に漏れず自惚れてきた。

様々な外部要因に恵まれていて、コントロールできているかのように錯覚できるだけの幸運の上に、私はあぐらをかいていたと言える。

そんな私のなかの小賢しさ・矮小さを改めてまざまざと見せつけられるような気がして、目を覆いたくなる。

ザワザワするのだ。

そんなかつての私のような、小賢しく信念に乏しいだけの‬輩に、今の私の真心が踏みにじられるのではないかという不安を抱えているから。

わかっていない未熟者にいいように翻弄されて、チャンスを潰され切なる願いが叶えられないのではないか、という恐怖から闘争本能が呼び覚まされ、怒りに目が眩む。ノルアドレナリンの為せる技だ。

 

コントロールと成果

これらの根幹は『コントロール』を手放せていないことだ。

結果をコントロールしたい。

状況をコントロールしたい。

相手をコントロールしたい。

そういうコントロールを手放せずに、過信する人たちと同じ土俵に乗ってしまうと、たちまち恐れや怒りに目が眩む。

 

畏れや怒りに目を眩まされるな

皆ただそれぞれがあるようにあるだけ

逃れられるモノからは知恵ある我々が逃れればいい

引用:『蟲師』3巻「眇の魚(すがめのうお)」より

 

本物には、ちゃんと本物が伝わる。

信頼は、愛に敏感だからだ。

実際、こざかしく立ち回っている他の社員は一見すると優秀で周りより得をしているように見えるが、長期的にみると結果的に私の方が成果が出ている現実が証明している。私はある程度顧客に信頼され、製品が採用され、適切に使われている。

私は本当に相手にとっていいと思うものしか勧めないし、相手の考え方を第一に優先する。決して押し付けたりしない。

あくまで「私はこう考えるんですが、どうでしょうか?」と率直に意見を伺う。

だから相手はおそらくコントロールされる恐怖を感じずに議論ができる。だから納得も否定もしやすい。

私は顧客に良い状態になってほしいと思って仕事をしている。それしか望まないようにしていて、それすら私だけではどうにもならないことを受け入れたいと願っている。

私にとって最も望ましい姿と、顧客にとって最も良い状態がイコールではないこともよく知っているし、それでいいと思っている。

真剣にやっている人は、本質的な情報に必ずやリーチする。それは、およそ人には関与できないほどの巨大な力(ハイヤーパワー)がその人自身にも私にもあるからだ。求めている人には、必ず求めているものが運ばれてくる。そういう風に世の中は出来ている。

つまり、小賢しい誰かの妨害ごときで真心が届かないような顧客には、今ここでは、私のサービスは必要じゃなかった、ということだ。まだ時期が早かったのかもしれない。

それは『変えられないもの』だ。

 

営業ができること

例えば、営業として私が出来ることは「常に、相手にとって望ましいと私が考える最善を準備しておくこと」。

それだけだ。

まさにタフラブの体現が、営業の最も洗練された在り方だと今は思う。

信じて見守り、肩代わりをしたりイネイブリングしたりしない。決して相手をコントロールしようとしない。一番遠回りに見えて、その遠回りこそが最短距離だった。

私ができること、望ましいと思うこと、その手段を、アイメッセージでわかりやすく明確に伝えること。それを伝えたうえで、判断は顧客の判断に任せる。

それは、顧客の在り方そのものを、何より信頼して任せているからだ。

必ずや、ハイヤーパワーに導かれて、彼らが今必要なものを掴み取るのだと、信じるからだ。その結果与えられるものが、私が今、与えられるべきものだ。

 

営業は、優秀であればあるほど、自分が無力であることを忘れがちだ。

「顧客はわかってないから分らせよう」

「こう言えば心理学的にはこう思い動くはず」

「この情報は不利になるから伏せよう」

こんな下心が働くのは、根本的なところで、相手を信じていないからだ。

「私がやり方や言い方を変えれば相手の未来を変えられる」。そう思い違いをしている。コントロールできると思っている。

残念ながら、それは虚しい妄想だった。

そんなことは神にすらできはしないのに、私たちはつい原因と結果を掌の中だけで考えて、自分の手柄のように錯覚してしまいがちだ。

掌ばかり凝視していることに気付いて見上げると、雲の上の、自分にはコントロールできない様々なモノたちのお陰で、今手中にある『成果』が形作られていることに気づく。

そして『成果』はたまたま、今私の手に落ち着いているが、私にはどうしようもない流れに沿って流動的に世の中を巡り巡るのだ、ということに気づく。

雨と川

だから、仕事の成果に一喜一憂することは、天気の変化に一喜一憂するような、そんな笑っちゃうようなことなのかもしれない。

限られた状況のなかで、最大限の自分にできることをする。そうしてできたものは、紛れもなく今の私の100%である。それ以上でもそれ以下でもない。

私は、変えられないものと変えられるものを見分ける賢さがほしい。

私は「もしもっと私が勉強していれば」とか「もしもっと会社がしっかりしていれば」とか、タラレバに囚われて後悔の底なし沼から抜け出せなくなる時が、よくある。

 

状況は変えられないもの。

未来は変えられないもの。

過去も変えられないもの。

「今ここ」のみが、変えられるもの。

そう、今ここだけだ、私が影響を及ぼせるのは。その積み重ねが道筋となる。

雨の一滴一滴が、川になり海にたどり着くように、一滴一滴に力など無いが、私は一滴として今日一日、今この時を全力で生きれば、それでもう100点満点なのだ。

それが私の預かり知らない、山の地形や、河口の形に沿ってゆっくりと流れていき、やがてあるべき姿へと落ち着いていく。

必ずや、そうあると信じること。

つまり。雨の一滴一滴が、自然の摂理を信じて疑わないようなことが、人としてハイヤーパワーを信じることなのかな、と思う。

実際生きてきて、私は会うべき人に逢い、するべき失敗をして、今ここに息をしているのだと思う。

それは、世間の常識とか倫理とか理論とか、そんなちっこいルールなんかよりもドッシリと、この世に根を張っているように感じる。その感覚からすると、一部の常識や理論をちょっとでも信じているなら、ハイヤーパワーこそ信じて当たり前のような気がしてくる。

 

私は一滴として、ただただ一生を、仕事を全うしたい

かなり脇道に逸れたが、私が言いたいことは概ねこういうことだ。

仕事人としての私は、所詮雨粒のひとつ。

たまたま他の雨粒から「周りより大きい」と言われたり、「素晴らしい雨粒だ」と言われたりしたとしても、雨粒は雨粒。一滴の力しかない。私は、それをいつも何度でも忘れてしまうから、出来るだけ忘れたくない。

山があるから流れられる。

川になるから流れられる。

一滴ではできないこと。

海があるから、また雲になる。

一滴に還ることができる。

そのあまりにも偉大な、私にはどうすることもできない力(ハイヤーパワー)を信じて、途方もない道のりはいつか海に開けるのだと、安心して肩の力を抜き、この身を委ねていたい。

個体の違いや優劣に、飽きもせず日々動揺し怒り悲しみ憎み苦しむ。そんな矮小な雨粒だけれども、一滴としてそういう全ての醜さを受け容れられたなら、と思う。

そんな雨の日の午後。

【ヘルスケア】無料!2~5分間!ストレス解消!おススメ自宅ワークアウト4選(+おまけ)

在宅勤務やテレワークが長くなり、家にずっといると煮詰まってきてなんだか疲れちゃいます。

お子さんがいる家庭では、今は特に大変ですよね。

・子供の世話をしなくてはならない

・料理も作らないといけないから時間がない

・家のことが忙しくても在宅勤務で仕事もいつも通りこなさなくてはならない

・気晴らししようにも気楽に外出したり、子供を預けたりできない

・ストレスと寝不足でご飯食べるぐらいしか娯楽がない

こんな状況でダイエットなんて無理!って思いますよね。

私も同じで、ウエイトトレーニングはやっていましたが、そればかりやって有酸素運動をおろそかにしていたせいで、80kgから88kgに太ってしまいました。

これはまずい!ということで、様々なトレーニングを試しました。

 

私がたどり着いたのは、YouTubeで無料で動画を観ながら簡単にでき、数分で終わるワークアウトを、できるときに無理なくやるという方法でした

「子供がいて在宅勤務や家事に忙しくても中断せずやり切れる所要時間」で「脂肪燃焼効果があり器具のない家庭でもやりやすい内容」のおススメトレーニングをいくつかご紹介したいと思います。

「あ、今できる!」というすきま時間(子供のお昼寝中・早朝誰も起きていないとき・皆が寝静まった深夜)におすすめだし、「どうしても気持ち的に、今すぐやりたい!」っていうときにも、5分以内なら、家族が何かでわめき散らし騒いでいてもなんとかトレーニングできます。

これなら中断しなくていいし、最後までできるし、ストレスにならないと気づきました。

【地獄の5分】HIITトレーニング(ノーマル)

まずはこれが手っ取り早いです。

飛んだり跳ねたりしないので、騒音が気になるマンションでもできます。

「HIIT」とは「High-Intensity Interval Training(ハイ・インテンシティ・インターバル・トレーニング)」の略。いわゆる高強度インターバルトレーニングを指します。インターバルトレーニングとは、高負荷の運動と低負荷の運動を交互に入れること。それの強度をぐんと高めたものがHIITなのです。

HIITトレーニングは以下のメリットがあり、私はいつもこれを最初にやります。

・短期集中で効果が表れる
・一般的な有酸素運動の数倍とされる脂肪減少効果をもつ
・心肺機能の強化、筋力アップなどにも効果あり

 

【地獄の3分】腹筋ワークアウト

これが一番短いし、お腹周りを引き締めるのに効果的なワークアウトが、いい感じに組み合わさっています。

腹筋と背筋は体を支える重要な筋肉なので、バランスよく体を引き締めるためには押さえておきたいところです。

しかも3分!これならちょっとした時間にできます。

 

【地獄の3分】背筋ワークアウト

腹筋の次は背筋です。

これ結構私はしんどかったです。もともと体も硬いせいか、全然上がりません。背筋の衰えを実感します。背中って意外に鍛えられていなかったんだな、と思い知る3分です。

これのおかげは、4週間たった今、私は腰痛と肩こりが楽になりました。

 

【地獄の2分】本気のスクワット(食欲を抑える)

食事の前にやるといい感じです。

毎食前にやるのはきついかもしれません。足の筋肉は大きいので、鍛えれば効率よく痩せられて、おすすめです。私は子供(10kg)を抱っこしながらやっていますが、子供をあやせてちょうどいいので、パパさんはぜひママさんと一緒にPCやスマホで流しながら一緒にトライしてみてください。

 

そして…

今までの全部やってみたけど、こんなの軽くてトレーニングにならない、全然物足りない!というストイックなひとへの追加メニューがこちら!

【超地獄の3分】HIITトレーニング(ハード)

HIITトレーニングの上級編です。上記に加えてこの3分をやり切れば、かなりの運動量になります。

今まで定期的に運動をしていた人におすすめです。小・中学生で体力があり余ったお子さんがいるなら、一緒に体力の続く限りリピートするサバイバルモードで勝負を持ち掛けて、限界に挑戦してみるのもいいかもしれません。

 

【男性向けの3分】二の腕を強く逞しくする自重トレ

ただ腕立て伏せするだけでは物足りなかったので、このトレーニングをやっています。

ジムでバーベルやケーブルマシンを使って鍛えていたけれど、家には器具が何もない・・・と悲しみに暮れている男性におすすめです。

見た目以上にシンドイです。

 

 

まとめ:数分なら何とかなる

有酸素運動なら30分しないと…とか思うと、すごく気が重いし、そんな時間取れないし、ストレスたまりますよね。

数分のワークアウトを、やれるとき・やりたいときにすぐやる!

これが、最もストレスなく確実にできることだと分かりました。

緊急事態宣言が一部解除になり、これから新しい生活様式での生活がスタンダードになっていったとき、お金をかけずに自らのフィジカルを保てるスキルはますます重要になっていくでしょう。

私も今ある中でできる事を探して、また皆さんにご紹介できるようなものが生まれればいいなと思います。

【メンタル】何かとざわつく今、大切にしたい『而今』という言葉

 

 

 

 

『而今』という禅語は、命の真実は『今』にしかないことを説いた言葉です。

私たちは『今』この瞬間にしか生きることはできません。

昨日の自分はすでに死んでいるのと同じ。

明日生きているという保証もないのです。

であるからこそ、『今』という時期を大切に生きることが大事なのです。

出典:『おだやかに、シンプルに生きる』枡野俊明 著

「マインドフルネス」という言葉は、ビジネスパーソンの間で一時期流行り、ご存知の方も多いと思います。

「マインドフルネス」こそ、『今』に集中している状態を示していて、反対の状態を「マインドワンダリング」というそうです。

「マインドワンダリング(Mind Wandering)」とは、心が、「今この瞬間」に起こっていることに注意を向けないで、目の前の課題とは全く関係のないことを考えて、さまよう状態のことです。

 

私は、滅法、マインドワンダリングしやすいです。

 

つい、明日のアレをやらなきゃいけないから今はこれをしなきゃ、とか、昨日のあの言葉は○○じゃなくて△△って言えばよかったな、とか、心がワンダリングしまくります。

考えてもまだ来ていないか、もう過ぎ去っているか、どちらかだというのに。

特に風呂場とか、何気なく散歩しているときなんかに、思い出してしまうから質が悪いんですよね。リラックスしようと思っているときに、頭のなかにポツリポツリとそうした雑念がわいてくるのです。

 

特に今は、新型コロナウイルスの感染がひろがり、みなさんの心も私と同じように、不安や恐怖でいっぱいでしょう。

将来がどうなるのか全く見えないことについて、不安になることは当然だと思います。それによって苛立ち、いつもは言わないような言葉を大切な人にかけてしまうこともあるでしょう。それらの行いを悔いて、夜寝られないようなこともあるでしょう。

私も同じように、何となくざわざわしたような、怒りと不安にもみくちゃにされたような心でなんとか懸命に毎日を生きている、といった具合です。

 

そんなときに、SNSのタイムラインが政府への非難や世の中に対する怒りと悲しみに満ちていると、見るだけで疲れてしまいますよね。

私は疲れてしまいます。正直、結構キーワードミュートにしています。

 

だって、いくら考えても、いくら悲しんでも、いくら怒っても、仕方がないからです。

わたしたち一般市民には、最低限の衛生上の管理を守る、そのくらいしか、できることはないのですから。

政府の対応がいくらまずくても、困っている人のために自分がアクション出来る範囲で提言することしかできません。決定的にコントロールすることなど、残念ながら不可能なことです。何もかも汲んでうまくやってくれる政府であれば、私たちは日ごろもっと幸せに生きていたことでしょう。今それが変わるかどうかは、きわめて可能性が低いことです。

現状を変えていく努力はもちろん継続的にするべきことだと思います。

でも、コントロールはできないということを理解していてやるのと、変わらないことへ苛立ち精神を摩耗するのとでは、大きな違いがあるんじゃないかな、と思います。

 

いつ収束するか?なんて、新型コロナたんにしかわかりません。どのくらい繁殖したいかウイルスは答えられませんから、やはり世界でどうなるかは、もう神のみぞ知るといったところでしょう。

誰も答えを持っていない問いをいくら投げかけても、虚しくなるだけです。

 

会社でも同じですね。

すごくみんな不安そうにしているくせに、無理に前向きにアピールしようとしたりして、正直どんどん迷走しています。

人の小さな間違いを見つけてはやり玉にあげたり、皆ストレスが溜まっています。

自分の仕事が失われるのではないか?このまま何もしなければとんでもないことになるんじゃないか?と怯えている人ほど、他人に対して攻撃的になり、不安定になっていきます。

 

その不安や恐怖は、持っていて恥ずかしいものではない、ということを私は言いたい。

 

未来がわからないことは怖いです。

「これから生きていけないかもしれない」って思うことを怖いと思わない人は、生きていたくないか、もう人生がどうでもいいか、のどちらかだと思います。

つまり、一生懸命生きようとしているから、不安になる、ということについて、あなたの真摯な生きる姿勢が逆説的に証明されたようなものだと思います。

私も、まだ死にたくないし、貧困にも陥りたくないし、幸せに生きていきたいです。

それが、シンプルな願いであるということです。

私たちはその「生きたい」というシンプルな願いをかなえるために、今を生きることがもっとも「やりたいこと」であると思います。

そのためには、今何をすべきなのか?というところに、立ち返ってみましょう。

 

そのときに見えてくる答えが、『而今』という言葉なんじゃないかな、と思います。

私たちは『今』この瞬間にしか生きることはできません。

昨日の自分はすでに死んでいるのと同じ。

明日生きているという保証もないのです。

であるからこそ、『今』という時期を大切に生きることが大事なのです。

再度引用して読んでみます。

結局、新型コロナウイルスがどうなろうと、未来には予測不可能なことが次々と起こるのです。地震も起こるし、火災も起こるし、殺人も起こることがあります。それらはすべて、私たちがコントロールできるものではありません。「変えられないもの」です。

 

自分が世界に影響できる範囲は、ほんのわずか、これっぽっちしかない、ということを改めて認識すると、それら「変えられないもの」について思い煩うことの無意味さが実感としてわいてくるのではないでしょうか。

突然、明日コロナではなく交通事故で死ぬかもしれない。

昨日の私自身の行いをリセットすることはできない。

ならば、今。確実に変えられる、楽しめるのは、今、ということになります。

 

今、あなたは何をしたいですか?

 

こんな自粛のときに、できることなんてないよ!

そのやりたいことをできないようにさせられてんだよ!

やりたいことやってる場合じゃないよ、生活が最優先だよ!

 

様々な声が聞こえてきそうです。

そうですよね。うん。やりたいことを取り上げられ、生活のことだけで頭がいっぱいになるほど追い詰められていますよね。つらい状況です。

だからこそ、今できるやりたいことを探してみませんか?

家にいるなら、今まで目を向けていなかった家事の大変さを味わい、やってくれているパートナーに感謝することもできるし、子供と過ごす時間が取れなかった人は、子供の笑顔を見ることができます。

どうせ仕事ができないなら、遠くまで散歩に出てみるのもいいでしょう。今まで通ったことのない道を通ってみるのもいいでしょう。

未来に仕事があるかないか。そんなことは、未来の自分に任せましょう。

大丈夫、ここまで生きてきたあなたなら、きっとたくましく生きていける。何かを失っても、きっと別の何かを得て、喜びに顔をほころばせる日が来るでしょう。

なぜなら、今までも、この日本という国は、とても冷たい、つらいことが多い国だったからです。私は発達障害者・依存症者というマイノリティーとして生きてきて、この国がどれほど不寛容で、偏見に満ちていて、弱い民族の国であるかを身をもって味わってきたつもりです。

 

日本の自殺率は世界で6位です。↓

OECD (2020), Suicide rates (indicator). doi: 10.1787/a82f3459-en (Accessed on 07 April 2020) 

 

そのような過酷な国で今まで自殺せずに生きてきたんです。すごいんです。

 

それに、辛くて当然なんです。だから、弱音を吐いてもいいし、もうやってらんねーわ!って思ったっていい。

未来なんてわからないんだから、今できる楽しめることを探して、全力で今を楽しむしかない。

そのためには、私はお酒を飲まずに自分が正常な状態で世界を感じたい。もう、エチルアルコールで脳がラリった状態で死んだように生きるのは「やりたいこと」ではないから。

風の匂いや、空の色や、知識欲を満たしてくれる書籍や、愛すべき仲間との語らいに、時間を使いたい。

それが私を真に豊かにしてくれるものだからです。

 

そういうふうに、今を過ごしていけたらいいな。と思います。