実力も運のうち 能力主義は正義か?【電子書籍】[ マイケル サンデル ]
この本、とても面白かったです。
かいつまんで内容に触れながら、エリート・能力主義の裏側について考えていきたいと思います。
エリートが抱えるアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)
この社会は自由と平等の名のもとに「能力主義」「成果主義」を土台として構築されてきました。
そしてその社会で成功を目指す人々はみな、平等に与えられた(ということになっている)権利とチャンスのなかで、自己を結果と結びつけて確立していきます。
その結果、だれもが多かれ少なかれ「他社にとって良い人(価値ある人)」であるように自己査定しながら生きていて、共依存的な生き方(「他者によって」自分の欲望を定義されることを必要とするような生き方)が主流となってしまいました。
共依存という概念は、今や依存症の臨床のなかだけでなく、社会全体のカギとなる概念になりつつあります。(斎藤学「イネイブリングと共依存」精神科治療学 10(9);963-968,1995)
成功を自分の努力や能力のおかげだと驕るいわゆる「エリート主義者」は成功できなかった者に対して冷たい心を持っています。
「平等にチャンスはあったはずなのに掴まなかったのが悪い」
と自己責任論を振りかざします。
この自己責任論は逃げ場を奪うきつい態度です。なぜなら、あらゆる人に言い訳を許さないからです。
能力主義が絶対的正義だと進行している彼らは、自分たちが無意識に権威や成果で他人を差別をしていることに鈍感です。
知識社会は高度化し、高学歴と低学歴の分断はいよいよ拡大し、溝は埋めがたいまでになっているのが現実です。
しかしエリート主義者は、学歴・経歴・自分のモチベーションはコントロールできるメリット(価値)だと信じて疑いません。
たとえばアメリカは特に顕著で、アメリカンドリームに表されているように、成功は「個人がどれだけ頑張ったか」という美談として語られます。
成功は個人の頑張り次第、ということは、機会の平等さえ確保すればいい。そう考え、小さな政府にしていった結果、社会保障が弱くなりました。医療費などはよい例で、保険会社によって受けられる医療サービスに格差が生じて、助かりたくてもお金がないと助かれない医療制度です。心臓疾患を患う娘の手術費が出せない…などの描写がよく洋画で登場するのはそのためです。
「努力」を過大評価しているのが、アメリカの姿です。
一方でヨーロッパの文化は、成功は「運」と考える傾向があります。
たまたま貴族の家に生まれてラッキーだったから富を得る。そんな運がある人は恵まれない人のために社会を支えるのが当然だろう。そういう価値観です。
そのため、社会保障は当然強くなります。
「努力」を過小評価しているのが、ヨーロッパの姿といえるでしょう。
努力できる才能も遺伝
実は、努力できる事も才能であり、遺伝によって生まれたときからすでに決まっていると言われています。
双子を何組もリクルートして行った面白い実験で、「A.裕福で高度な教育を受けられる家庭」と「B.経済的に恵まれず両親の生活レベルも学歴も低い家庭」2つの環境に送り込み、バイオリンをさせた結果、環境によってバイオリンの演奏に優劣が付くのか調べたデータがあります。
これによると、環境によってバイオリンの巧さに差は出ず、どの双子もそれぞれ同様のレベルの演奏をしたということです。つまり、遺伝子によってどんな環境であっても一定のレベルまでできるかできないかはすでに決まっているということになります。
成功者は、この議論を嫌います。
なぜなら、掴んだはずの経済的な成功はほとんどすべて運ということになるからです。
この結論は所得税を正当化するうえに、「成功者は偉いわけでも賢いわけでもない」ということになるので、彼らにとっては非常に具合が悪い。
しかし現実は「実力も運のうち」です。
エリートによるエリートのための世界にひきこもる人々
優れた個体を真似る、成功個体に憧れる。
これは生まれ持った防衛本能であり、生き残るために備わったシステムです。
金持ちは金持ちを真似て、金持ちのなかだけで結束し孤立する傾向があります。
優れた個体の一員でありたいし、そう自己認識を持っていたいので、そう認識し合える一定の条件をクリアしている人間だけでコミュニティーをつくります。そのなかでお互いの客観的評価を補完し合い縛りあいながら強い絆を形成します。
官僚も同様で、定義としては公僕ですが、彼らは公僕だとは深層心理では思っていません。
官僚は官僚のなかで縛られた下僕であり、国民のために働く公僕ではありません。
つまり、コミュニティーの外側にいる国民が困ることより、コミュニティーの内側の仲間である省庁の身内が困ることを避けるように、意志決定をします。
だから、国民の生活を無視した法案や制度が出来上がるのは当然です。彼らのなかで重要なのは仲間のメンツを潰さないことと、エリートコミュニティーからはじかれないようにすることなのですから。
そんな官僚がつくった作文を読むだけの政治家でいくら政治をやっても、民主主義がまともに機能しないのは当然ですよね。そもそも身内のためで国民のためではないので、国民の声が政治に反映されるわけがない。
これは特定のバックグラウンドを持った社会的弱者にも言える傾向です。
ある種の負け組的なエリート意識を持つ者同士で集まると、同じような苦しみを味わっていない人間とは心理的物理的に距離を取り、傷を舐めあうためのコロニーを形成します。
そのなかだけで結束して孤立し「どうぜあいつらにはわからない」とコミュニケーションを拒絶します。
いずれにせよ、分断はかくして起こります。
全ては与えられたもの
この分断を打破するにはどうすればよいのでしょうか。
エリートがここから脱するには、経済的な貧富を超えた連帯、共同体としての共感覚を形成する必要があります。
たとえば、身分も収入も関係なく対等に互いを尊重することができるグループに属すること、マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻(経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性)」の外側に繋がりを持つことです。(「鉄の檻」について詳しくは、こちらをご参照ください。)
その繋がりによって、人と人との真に対等な繋がりを再確認すると、おそらく「できないのはやらないから」という能力主義のバイアスから目を覚ますことができるでしょう。
全ては与えられたもの。
全ては借りているだけ。
その恵みに感謝すること。
自分の力だ、自分のモノだ、自分の価値だと、勘違いしないこと。
持つ者と持たざる者。この世の不平等を自分では変えられないものとして受け容れること。
変えられないものへのコントロールを手放し、自分とはかけ離れた「誰か」になろうとする虚しい努力をあきらめること。
お互いに与えられた個性を慈しみ、尊敬して補い合うこと。
運によって今持っているものに固執せず、自分の実力などと思い違いをしないで、ありのままを受け容れる勇気と落ち着きと賢さが、この身にいつか宿るのを願うこと。
そうした認識ができていて行動でその内面を示している人間こそ、真のエリートなのだと思います。たとえばマハトマ・ガンディーのような。
この現代社会の価値はどれもこれも相対的で、誰もが自分と誰かを比べては一喜一憂しています。しかしそれではキリがなく、いつまでもどこか不安で苦しく、恐れに震えながら生きることになります。
そんな人生は、つまらないですよね。
誰かに認められるために生きるというのは、ちっともおもしろくない。
他人から褒められたり、世の中から評価されたりしなくても、全然問題ありません。
あなたが心から、おもしろいと思うこと、ワクワクすること、楽しい気持ちになること、愛しいと思うこと、尊いと思うこと。
それが最も大切な感覚であり、それによって繋がる人が、あなたが本当に大切にすべき人です。
世俗的な価値に換算できない繋がりを、大切にしていきましょう。