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【メンタル】今を生きる

信じられるものがない、そんなつらい世の中ですね。

哲学者ニーチェはかつて「神は死んだ」という名言を『ツァラトゥストラ』のなかで残しました。

ここでいう「神」とは、「真理」などの絶対的な価値のことです。

絶対的で普遍的な価値など無い、そうニーチェは言っていたんですね。

 

不安と恐れが他人を求める

たしかに、それはそうだと思います。

唯一絶対な存在とか崇拝すべき対象なんてのは、この世には無い。

もしそれがあると信じているとすれば、それは宗教という一つの依存のかたちです。

宗教を生きる拠り所にすることに、私は異を唱えません。

それは、誰もが何かに依存して生きているからで、それが人として自然なことだからです。

 

その価値観を自分のなかでのみ大切にしている分にはいいのですが、他人に押し付けてしまうと、それは話が違ってきます。

他人には、他人の生き方があります。

自分が信じているものを他人にも信じてもらわないといけないと思うのは、不安だからです。

本当に信じていいのかどうか心の底では自信が持てないので、他人も信じているという後ろ盾が欲しいから、仲間に引き込もうとするのでしょう。

ゆるぎない信仰であれば、同じ信仰を他人に強要する必要がないですもんね。

「いいものだから教えてあげたい、私は他人のためを思って勧めているのだ」という人もいるのですが、自分が持っている価値観が絶対だと思っている時点で、見誤っているといえます。

他人には、他人の価値観があります。

違う価値観も「そういう考え方もあるよね」と受け容れられないというのは、狭量な世界観に自分が閉じこもっているからです。

 

科学

科学も、絶対ではありません。

エビデンスがあるからと言って、本当にそうだとは限らない。

「どうやらそうらしい」という確率を計算しているだけで、ひとつの可能性でしかない。

マスクの是非やワクチンの是非を、SNS上でやり取りしているのをみると、とてもやるせない気持ちになります。

私はマスクには意味がないと思うし、ワクチンは打たないほうがいいものだと思います。

反対に、マスクもワクチンも必要だ、と思っている人もいると思います。

結論としては、お互いに好きにすればよろしい。

したい人はすればいいし、したくない人はしなくていい。そもそも任意なのですから。

それを「こっちのほうが正しい」「いやこっちが正解だ」と言ったところで、永遠に平行線です。それぞれに信じている宗教が違う、住んでいる精神世界が違うのだから。それぞれが信じる「正しさ」でマウントを取り合っても、溝は深まるばかり。

ネット上での不毛な争いに熱中して、自分の人生を置き去りにしている人がたくさんいるなぁ、と思います。

 

権威

権威というのも、本当にあてにならないものです。

私はAC(アダルトチルドレン)として、権威を恐れてきました。

 

過去記事【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)

過去記事【AC】「権威ある人を恐れること」を受け容れて見えてきたこと

 

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

 

正しさへの固執。

社会的に認められることへの執着。

その根本には、自分が不適当で、無能であるという思い込みがあります。

自分が抱えている不安と恐れが、他者評価を絶対的価値と勘違いさせます。

他人から見た自分のほうが自分が見ている自分よりも大切で正しい、という思い込みとも言えます。

客観的に、とよく言いますが、客観も主観の一つでしかなくて、結局は誰かの目を通じてしか物事をとらえることはできません。

主観からは逃れることができない。それが、私たちの限界です。

 

社会で認められていれば、立派で偉い人でしょうか。

社会的地位のある全ての人が、徳を備えているでしょうか。

そんなわけないですよね。

むしろ、逆なんじゃないかしら、と思う今日この頃です。

私は、この社会は狂っていると思います。

その狂っている社会に認められているということは、その人は「しっかり狂っていますね」という証明なのではないかしら。

狂っているかどうかはともかく、社会的評価というのは、集団的自意識が主観的に判断する一つの切り口でしかなく、絶対的なものではないと思います。

むしろ、ある集団のなかでエリート意識を持ってしまうことでアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)を獲得する「病巣」としての側面を、社会的評価はもっている。

だからこそ、一定の距離を置く必要があるし執着しないで過ごせるほうがいい。

一周回って、私は今そんな風に感じています。

 

お金

お金も、やっぱりあてにはなりません。

お金は現代の狂気の、中核を構成するアイテムです。

ただの紙であり、ただのデータに、私たちは命がかかっていると信じている。

だから命がけで奪い合います。その魔力に狂ってしまっています。

お金のために、平気で人を騙したり、嘘偽りを話したり。

そうやってお金をたくさん集めたとしても、満たされることはないでしょう。

実体のない概念をいくら集めても、心は荒むばかりだからです。

お金持ちは幸せかといえば、私はそうではないように思います。

すでに充分なのに、蓄えたものを守ることに必死で、少しでも減れば損をしたように思って、憤っていたり満たされず飢えていたりします。

羨ましいかというと、私はどうもそうは思えません。そんな人生は嫌ですね。

お金持ちは奪われる恐怖に苛まれ、貧乏な人は嫉妬と憎しみに苛まれる。

お金を人生の中心に据えると、お金に振り回されて、命を見失います。

いかに金銭欲を自分のど真ん中から遠いところに置いておけるか、それが生きる上で最も気を配るべきことかもしれません。

 

蟻一匹、花一輪

では、何を拠り所にして、私たちは生きていけばいいんだろうか。

そう思い悩みますよね。

 

私は「売り買いできないもの」だと思います。

それは、命であり、愛であり、この世の中のありとあらゆるものすべてが、本来はそうだといえます。

誰かが認めなくても、権威で装飾しなくても、私たち一人ひとりに価値があり、蟻一匹、花一輪にも、同等の価値がある。

この世のあらゆる全ては、美しくて元々。

値段などつけられません。順位もありません。

それぞれが、それぞれの生を、ただただ全うしているだけにすぎません。

価値は、何かに限局する必要がなく、常にそこかしこにある。

だからニーチェは「神は死んだ」と言ったのではないかしら、と思うのです。

 

みんな、そういう世界の在り様を忘れているんじゃないかしら、と思います。

終わりがあるから尊く、弱いから美しく愛らしいのです。

永遠の命、繁栄を求めたり、偽りの強さを纏おうと躍起になるから、「生きることそのもの」からいつしか外れていく。外れて戻ってこれなくては、人生苦しむばかりです。

それもまた、我々の弱さゆえの定めなのかもしれません。

この凍てつく冬の時代にも必ず意味がある。そう思います。

生き抜きましょう。

禍福は糾える縄の如し。

焦らず怯えず、躊躇わず、一日一日を大切にしましょう。

それしか、私たちにできる事などないのですから。

明日はどんな日になるでしょうか。

今日一日、悔いのない一日を生きられましたか?

一切は過ぎていきます。

過去は過去。

我々が今いる場所を見失わないようにしましょう。

【メンタル】「自分には価値がない」と嘆いている人へ(ひきこもり・不登校・貧困)

資本主義の世の中では、身の回りにある全てのものは商品になっている。

資本主義社会は本当に良い社会か?

カール・マルクスは『資本論』において、商品は「使用価値」と「交換価値」によって成立するといいました。

そして、スライムが集まってキングスライムになるように、商品が寄せ集まって富が形成されている、として、商品の価値は労働の量だとする「労働価値説」を提唱しました。

交換に便利なものとして、貨幣が生まれました。

商品に付加価値をつけて売ることで利益(剰余価値)を生みます。

価値をどんどん増殖させていくと、資本がどんどん膨らんでいき、資本家が生まれます。

マルクスは「資本家」を「人格化された資本」=お金が人の形を取ったものと定義しました。つまりお金さえ稼ぐことができれば使用価値なんてどうでもいい人たち。とにかくカネのため。

とにかく稼げればなんでもいい資本家は「労働力」を商品化しました。

労働力を仕入れる行為は「雇用」であり、資本家(企業)にとって就職活動・転職活動は、この「労働力」の仕入れです。そして、研修や社員教育で付加価値をつけて、利益を生むために「商品」である私たちを働かせて、仕入れ以上の価値を生ませます。そしてさらに「労働力」を仕入れて得られる利益を増やそうとします。

「労働力」を仮想通貨の運用に例えましょう。

仮想通貨を仕入れて、仕入れより仮想通貨の価値が上がれば儲けが出て、余剰資金が生まれますよね。その余剰資金で、さらに仮想通貨を買う。そうすると、価値が上がり続ける限り、このサイクルで余剰資金はどんどん増えます。

これを人間でやっている、というのが、営利企業です。

つまり、営利企業に雇われているサラリーマンは「労働力」という商品として資本家(企業)に買われているので、私たちの労働力は私たちから切り離されています。

だからサラリーマンはイエスマンが出世するし、結果を出すことと同時に従順であることが求められるのです。「労働力」という商品としての価値を評価されているのが、人事評価です。

人事評価はその人そのものの価値とは関係ありません。その人の一部分「労働力」を商品として切り取ったときの、商品としての評価です。だから、収入が上がろうと人としての価値が上がるわけではありません。

法律的には雇用契約は対等ですが、実質イーブンではありません。

給料とは、再生産費です。

つまり、雇われている我々は「再生産費」分だけ働けばいいのですが、それ以上に働かせれば、資本家(企業)にとっては働かせた分だけ利益になります。

だから、やりがいや目標を示して、勝手に設定して、「再生産費」分より余分に頑張らせようとするんですね。

そしてチームを組ませるのは、協業させることで生産性が上がるからです。

あくまでも、労働力としての運用を最適化しているのであって、社員が快適に働けるとか、充実した人生を送れるとか、そんなことには企業は一切興味がない、というのが本音です。

私たち労働者にもメリットがないわけではなく、企業で働くことで「経験」という付加価値を得ているので、悪い側面ばかりではありません。

しかし基本的に人間は「モノ」として扱われています。それが企業であり、資本家であり、資本主義の世界です。それは人を惨めな気持ちにさせます。

その、人をモノのように扱う資本主義が蔓延し、世界中に広げようと際限なく膨張したのが、今のグローバリズムです。

富める人はさらに富み、際限ない欲望で人間性を失い、人々の健康を害してでも富を拡大しようとする世界。

貧しいものはより貧しくなり、最終的に過労死や自殺をするか、無敵の人になり殺戮事件起こすほど追い詰められる世界。

資本主義社会である以上、この世界観・貧富の格差はどんどん広がります。

共産主義国家は計画経済を導入してしまったのでソ連は崩壊したけど、マルクスの社会主義は、資本主義が限界まで行きついた先にあるものと考えられていました。

つまり資本主義が限界を迎えているまさに今、ようやく条件がそろったといえるでしょう。

 

経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、このような資本主義の限界に問題提起した本です。

 

 

このままさらに格差が拡大するとどうなるでしょうか。

さらなる地獄と化すのではないか、と思います。

 

r(資本収益率=資本家の不労所得の割合)>g(経済成長率=労働による価値創造の割合)

 

このrとgが逆転するのは、戦争により既存の資本が破壊され価値が暴落したとき。そのあとは資本を再形成する必要があるため、労働力の価値が相対的に高まるからです。

そういう異常な状態以外は、この資本主義社会はr>gであるといえます。

そしてその状態が加速すると、世襲資本主義社会になるといいます。

世襲資本主義社会とは、相続による経済格差が努力やチャンスでは裏返らない無理ゲー社会のことです。

つまり、貧乏人は頑張っても報われない世界です。生まれた家が資本家であれば勝ち続けられる、何もしなくてもお金が増える、生まれが全てを決める不平等な世界です。

実際、そうなりましたよね。

シェルバーン伯爵家に連なるロックフェラー・ロスチャイルド。財閥が世界経済を動かし、政治を含めた社会全体を実質的に支配しています。

世界の富の大部分を上位1%の金持ちが占有し、残りの99%の貧乏人は奴隷のような生活で、体を壊すような商品を食べさせられ、マスメディアの洗脳で考える力を弱らせられ、毒に等しい注射で人体実験に使われています。

日本も例外ではなく、政治は政教分離を謳いながらも完全に癒着しており、その政治をハンドリングしている宗教団体は、世界的な財閥の下部組織です。

冒頭に人は「労働力」というモノとして扱われているといいましたが、最終的に人は「奴隷」と等しい扱いをされているといえます。存在そのものをモノとして扱われているということです。

 

「自分たちさえよければいい」社会で人は愛に飢えていく

歴史を振り返ると、戦争が起こると、戦争中の税金は圧倒的に高くなり、個人の財産は凍結されます。

それによって、とくに高所得者からお金を搾り取ることができます。

ウクライナで戦争が起こり、これから台湾・日本で戦争が起こると思いますが、これは軍需産業を握っている1%の財閥が、さらに中途半端な高所得者から金を吸い上げるためです。

実際、軍需産業の株価はどんどん上がっていますよね。

総本山はアメリカでもなくイギリスでも中国でもありません。

財閥とは、地縁主義ではないからです。

「契約の民」と呼ばれるユダヤの血縁です。

血縁により繋がっているので、国はただの枠組みです。商売の道具です。貨幣は価値変換のためのおもちゃです。

だから最近は新しく「仮想通貨というおもちゃ」を使って儲けを生もうと画策しています。

通貨をつくる側・ルールを決める側が、儲かるようにできています。ルールを作る側ではない一般の投資家が損をするのはそのためです。

STEPNなどのM2E(Move to Earn)で大損した人がたくさんいますよね。それは、もともとそういうメカニズムになっている、ということです。多少庶民に利益が渡るケースが生まれてしまうのも、ユダヤにとっては想定済みの必要経費。いずれ回収しようと考えています。

 

ユダヤ人は歴史的に「美味しいものを心ゆくまで食べること」を人生の第一に掲げています。

そのための金銭であり資本なわけです。つまりお金を手段として割り切っている。

思考は、教育で子どもの頃から徹底される能力主義・実力主義に基づいています。迫害されてきた防衛本能から、他民族に対する警戒心が強い。その警戒心から納得するまで他者を調べ尽くす知的好奇心をもちます。

一言でよければ「自分たちさえよければいい」

世界経済を動かしている人たちがその原理で動いているので、現代社会がそうなるのは、考えてみると当たり前ですよね。

 

 

ここまで読んでみて、どうでしょうか。

お金や資本主義に「愛」という要素が全くないことに気づきますよね。

モノとして扱われる世界で愛を感じられるはずがありません。

「自分たちさえよければいい」という民族の思想が蔓延している状態で、他人に無償の愛を注ぐ人が現れるはずがありません。

でも「愛」がなくては人は生きていけません。

その、生きていくために最も重要なエッセンスが欠落している。

それが資本主義社会であり、現代社会です。

だから、みんな精神を病んでいくのだと思います。

精神疾患も依存症もACも差別も、何もかもの本質はここにあります。

私が最近、精神疾患も依存症もACも個人の課題ではなく、社会そのものの課題だと考えているのは、そういう背景です。

 

お金から距離を取ること、資本主義であるこの社会から距離を取ること。

この「離脱」こそが、これから人間らしく生きていくために必要なことになってきたなぁ、と実感しています。

これからは、できるだけそれらの要素を削ぎ落していく「離脱」の生き方を実践していきたいと思っています。

まさにそれを人生を賭して体現したのが、マハトマ・ガンディーだと思っています。本当にすごい人です。

彼は「欲望を削減する」ということを説いています。

経済社会そのものは否定しないけれども、人は本来必要なものを必要な分だけ得ればそれでよく、欲望を最小化することによって真に幸福な人生が送れると考えました。

ユダヤ民族の人生観とは、真逆ですよね。

私はガンディーの教えにこそ人としての「生の実感」、人としての本質があると考えています。真に感じるべき感覚は生死と欲望を越えた「存在の絶対感」だと思います。

お金を集めても、仕事を頑張っても、いくら物質的に豊かになっても、幸せではありませんでしたよね。それを経験的に証明するためにユダヤに連なる資本主義全盛時代を人類は経験する必要があったのではないかと思っています。

もう、お金や社会に踊らされるのは、やめましょう。

目の前にある花や木や草や、触れ合える世界が全てです。自分自身を含めた現実世界を愛で、好意を伝えること・肯定することに、全力で集中しましょう。

貨幣が創り出す仮想の世界に生き、命を消耗するのは、もう終わりにしましょう。

バーチャルの世界に幸せはありません。ネットは使うモノです。大切な自己を道具に没入させてはいけません。

最も価値あるものすべては、もうすでに全員の、現実の肉体と精神にある。他に求めなくてもいいし、客観的に証明する必要もない。あると思えばある。ないと思うからない。

これ以上、安心のために「形ある何か」を求めるのはやめにしましょう。それらは全て虚構であり虚空です。

楽しいと思えること、美しいと思えるもの、それを感じる時間と感性を大切にしましょう。

生きることは、それだけで100点満点だといえるでしょう。そのほかはオマケです。

 

そう考えると、とても気楽になりませんか?

経済社会に参加できるかどうか、なんて、人間本来の価値には微塵も影響しないのです。

引きこもりだろうが、不登校だろうが、社会不適合者だろうが、障害が有ろうがなかろうが、ただ存在するだけで、存在価値があります。お金に変換しようとするから、無いように錯覚するだけです。

みんながそのことに気づけば、世の中はもっとまともになるんだろうなぁ、と思います。

【哲学】自分の死とはなにか

解剖学者の養老孟司先生は、「自分の死」は「論理的に意味がない」と言いました。

 

「死」とは、自分のものではない、ということです。

「死」という概念は、その人の親しい人の死で構成されています。

親の死。子どもの死。恋人の死。友人の死。会って話したことのある人の、直接の死。

知らない他人の死は、どこか遠くで起きている出来事のようで、つまりみんなどうでもいいと思っているんですね。死のうが生きようが知ったこっちゃない。

客観的に、自分の死体というのは知覚することができません。

死んだら、自意識は存在しないから。

つまり、自分の死というのは、想像の産物です。

想像の産物をいくら考えても、仕方がないし意味がない。

それでもなぜ考えてしまうのか。

「終わり」ということへの、恐れと不安があるからです。

つまり、自分の「死」というのは、「恐れと不安」に因数分解されます。

何に対する恐れと不安なのか。

それは、自分の生に価値があったのか、結論を出すことへの恐れと不安です。

「自分は人生において価値を残せないまま終わるのではないか?」という恐れです。あるいは「感じるべき喜び・本来やるべき責務を残したまま終わりを迎えるのではないか?」という不安です。

 

漫画『バガボンド』で、槍の名手である宝蔵院胤舜は、武蔵と闘った末に生と死のはざまをさまよいます。その際、自分の人生を走馬灯のように振り返ります。

そして、己が強さと勘違いしていたものは、弱さを覆い隠すための「偽りの強さ」であり、自分の弱さを隠すことに必死で精いっぱいだったために、自らを孤独にしていたことに気づきます。

 

俺は強くなったはずだった

 

強くなろうと思って

懸命に砂をかけていたのか

 

罪を 弱さを 覆い隠す為に完全無欠の強さを求めたのか

 

俺はここから一歩も動いちゃいなかった

俺自身も覆い隠し 誰に何も与えもせず

 

孤独

 

孤独のまま

もう誰にも手の届かない場所に

 

生きたい

 

引用:『バガボンド』第8巻 砂遊びより

 

死への恐れと不安、未練ともいうべきか。

死に直面してはじめて彼は、深くカギをかけて向き合ってこなかった現実に気づきます。

友がいたこと、愛に包まれていたこと、孤独ではなかったこと、自分の弱さ。

真の「孤独」とは、それらの周りの愛に気づかないまま、己の弱さを直視しないまま、誰とも繋がらないままに生きてしまうことで生まれるのではないでしょうか。

己の弱さを認めて受け容れることができない限り、本当の強さには到達しえない。

本当の強さとは、「自分が弱い」という事実を知り受け容れていることです。

だから、強い人は優しい。

 

武蔵……

優しくなった

強くなっているんだな

強い人は皆優しい

引用:『バガボンド』第25巻 より

 

命が終われば、一切は関係がなくなります。

どれだけ賞賛され財産を蓄えようとも、それはこの世界からの借り物。

我々は受託者であって、所有者にはなりえない。

なぜなら、いつかその人生には、終わりが来るからです。誰にも等しく、借りていたものを手放すときが来るからです。

大好きなあの人も、憎くてたまらないあの人も、認めてくれたあの人も、認めてくれないあの人も、誰もかれもが、いつか必ずこの世界から姿を消します。

死後のどんな名声も悪評も、死んでしまったら、自分自身には何の損得もありません。自分の肉体は既に朽ち、知覚する意識も身体的機能も土に還っているから。

だから、誰かに認められようとか、誰かに気に入られようとか、誰かに復讐してやろうとか、そういう感情も対象も、いずれは何もかもが消えてなくなるということです。

もっと巨万の富を得ようとか、もっと社会的権威を得ようとか、そんな行動には意味がないということです。

そんな意味のないことに費やす時間。とてももったいないと思いませんか。

 

今そこにある現実だけがすべて。

ということは、与えられるべきものはいつでも、全て揃っているといえるでしょう。

終わり(死)というのは、いつも傍にある、ということです。

常に誰の隣にもひっそりと確実に寄り添っていて、当人がそれを身近に感じるか、遠く感じるかの違いでしかない。等しく終わりはある。

それが救いでもあり、恐れと不安の源でもあるんだなぁ、と思います。

 

限られているからこそ、その一瞬一瞬には価値がある。

桜を美しいと思う心があるように、その輝きが有限であるからこそ、人は美しいと感じるのです。

限りがあるからこそ与えられたものを有難いと感じ、生命感があるからこそ、深い歓喜を味わうこともできるのだと思います。

 

今与えられているものに不満がある、というのは、不自然な欲望に目が眩んでいるから。

哲学者エビクロスが分類した欲望には、自然な欲望と無益な欲望の二種類があります。

無益な欲望は、富・名声・権力などです。

自然な欲望には2種類あります。

必須ではないものは、豪華な食事・性愛など。

必須なものは、衣食住・友人・健康など、です。

 

日本の三大随筆『徒然草』で兼好法師も次のように言っています。

人間にとって必要なものは、衣食住に薬。

その四つが満たされていない状態を、貧しいというべきであって、これらが満たされているのなら、その人は充分に豊かな生活をしているといえるだろう。

そして、この四つ以上のことを追求することを、贅沢と考えることだ。

引用:『徒然草』兼好法師

 

結局、名誉や欲望に囚われて心静かに過ごす暇もなく死んでいくというのは、とても苦しい不幸なことだということです。

財産や名声を失うことを恐れ、満たされない欲望に不安を感じながら、業火に焼かれるように生きる。そんな苦しみに満ちた人生は、豊かな人生と言えるでしょうか。

「足るを知る者は富む」という言葉がありますが、あるものに感謝できて平穏な心で「今」を生きることができる、それが真に豊かなことだと思うのです。

 

そんなふうに穏やかに強く優しく生きている人は、他人に施すことができます。

見返りを求めず、自分が大切に想うものを差し出すことができます。

それを、愛といいます。

愛を譲りうけると、その人と繋がることができます。愛によって、ひとは他人と繋がります。

そしてその繋がりは、死してなお、生きている人を勇気づけます。

肉体が滅びようとも、今を生きる人のなかに、あたたかな支えとして在り続けることができます。

その支えで生きた人が、また愛をこめて他人に関わると、それは次世代に引き継がれていきます。

「いつまでも生きていたい」という欲望のために、他人を使おうとしたり操作しようとしたりする人がいますが、それは永遠とは最も遠いところにある行いだといえるでしょう。

唯一、私たちが死を越えて残せるとすれば、それは愛しかない。

逆に言えば、大切な人に無償の愛を捧げた人は、死なない。

 

存在しない「自分の死」。

その妄想に目を眩まされることなく、今を生き、愛を行う。

それしか、私たちにできる事はなく、それこそが、死を乗り越える唯一の方法だといえるでしょう。

 

愛するということについては、フロムの技術体系をこちらにまとめています。

【メンタル】失われた「愛する」という技術(エーリッヒ・フロム)

 

 

【メンタル】勝利主義がもたらした「呪い」からの脱出方法

勝てば官軍負ければ賊軍。

この世は不幸な人しか生まない勝利主義社会です。

99%の負け犬と、1%の傲慢な勝者で構成されています。

 

昭和の時代、高度経済成長期にあった時代は、まだ立身出世主義の神話が成立していました。

頑張れば頑張るだけ裕福になれる。努力は必ず報われる。

そういう宗教を信じることができる、幸運な時代。

しかし今は違います。

小泉政権による派遣法改正により、圧倒的に非正規雇用が増えました。

安い労働力として人材を派遣会社からとっかえひっかえできるようになってしまったことで終身雇用は崩壊。「いい会社に一生勤めれば安泰」という神話は過去の遺物となりました。

いつ首を切られてもおかしくない。正社員もそんな不安と緊張にさらされ、大企業にいてもいくら出世しても、将来の道筋は判然としません。

「いくら頑張っても報われないじゃないか」

「こんな希望のない社会で、生きている意味なんてないんじゃないか」

抱える絶望は、人々を「ニヒリズム(自分が何のために生きるのか見失い、絶対的な価値や希望など無いと気づいて絶望すること)」に陥らせます。

 

99%の負け犬は、負けを背負って妬み嫉みに身を焼かれます。

本来その人に与えられたものは決して卑下するものではないとしても、恵まれた他者と比較すると、相対的な価値観に囚われ、あったはずの満足は霧散していきます。

この世には、とてもたくさんの人がいます。

常に自分より優れている人がいるものだし、常に自分より社会的に成功している人がいるものです。

だから、他人と比較するのをやめられない限り、嫉妬の炎に身を焦がす苦しみからは逃れられません。

 

負け犬はもちろんのこと、1%の傲慢な勝者ですら、不幸です。

国内で成功者といえばプロ野球選手の「イチロー」を思い浮かべる人もいるでしょう。

彼は「もう一度生まれ変わったら野球をやりますか?」と聞かれたとき「やりたくない」と言ったといいます。「野球はやめたかった、つまらなかった」と言ったそうです。

なぜか?

勝ち続けなくてはならない「成果出そうゲーム」は、降りたら終わりだからです。勝者で在り続けるためには、降りられないからです。

ずっと競争して、ずっと評価にさらされて、あんなに小さい頃好きだった野球が、嫌いになったといいます。

 

世界に目を向けてみると、古代ギリシャで大帝国を築いたとされる「アレクサンドロス大王」がいますね。

彼は歴史に残る大勝利をおさめた英雄ですが、その功績が自分を神と称するほどの傲慢さをもたらしました。

大酒飲みで、猛烈な癇癪持ちで、他人に関心を持たず自分のことばかりだったといいます。そしてもっともっとと領土を欲し戦いに明け暮れていたところ、あっけなく病に倒れ32歳という若さでこの世を去ります。

人間らしさを極限まで削り取り、何か一つの要素(アレクサンドロス大王の場合は「戦争に勝利する能力」)で秀でたとして、本当の意味で彼は幸せだったのでしょうか。

 

会社員もそうですよね。

入社したら問答無用で出世レースに乗せられます。失敗したら終わり。辞めたり休職したりしてレースを降りたら終わり。

優れた営業成績を出したり、プロジェクトを成功させたり、結果を出せば会社が褒めてくれる。同僚や部下に馬鹿にされずに済む。

私も今までそうでした。そのためのノウハウを詰め込んで、いっぱいいっぱいになりながら働きました。

こうすれば売れる。こうすればできる。

有能な社員としての在り方はわかるし、ある程度できるようになりました。

でも、ある日ふと思うのです。

「これが本当にありたい自分だろうか?」

うではない。だから、つまらないし苦しい。そのことに気づくのです。

そのことに気づくこともできない鈍感な人間だけが、評価主義・功利主義・勝利主義のレースのなかで「偽りの幸せ」に騙されて、平気な顔で生きていられる。

この社会でのエリートや勝ち組というのは、実はそういう滑稽で哀れな人種です。

 

「ホリエモン(堀江貴文)」さんや「ひろゆき」さんはまさにこの人種で、ニーチェのいうところの「末人」ではないかしら、と思うのです。

 

 

「勝てばあとは何でもいい、勝つこと以外に価値はない」。ある種のニヒリズムをこじらせて結果主義の先を誰よりも突き進んだ結果、その人は「今だけ金だけ自分だけ」に堕ちていきます。

彼らをもてはやし崇め奉る人は、現代社会において驚くほど多いですよね。

彼らの裏にあるのは、「勝ち組の側でいたい・負け犬の側になりたくない心理」、つまり恐れと不安と憎悪です。

今まで美辞麗句を並べながら何も変えられなかった親世代を、論理でバッサリ「バカ」だと切り捨てる話口は、親世代に不満を抱えている彼らにとって実に痛快です。しかも経済的に成功した功績があり、数字のうえでの「見た目上勝っている側」だという後ろ盾(信用)がある。

「俺たちが言いたかったことをよくぞ言ってくれた」と拍手喝采して彼らを肯定することで、彼らの側、勝ち組側に「同化」したいのです。

なぜか?

負け犬である自分たちの現実を忘れたいから。

「本当は俺たちはこっち側なんだ、勝っているんだ」と錯覚したいからです。

だから盲目的に崇拝する。自分の心を守るために。

しかし、それって承認欲求の満たされなさからきている痛切な願いなんですよね。

「他人から愛されたい」「なんとしても気に入られたい」

それが満たされない現実が苦しいし辛いし悲しい。

何としてでもよく思われようとして、他人に同化しようとするとき、人は「奴隷」に成り下がります。

 

つまり、生きる意味を見失っているのです。

ホリエモンさんやひろゆきさんを崇拝する彼らも、末人ということになります。

ニーチェはニヒリズムが世界を覆いつくし、末人だらけの世の中になり、人々は生きる意味を見失うだろうと予見していました。その通りになりましたね。

 

自分の行動を、自分以外の誰かに握られ、支配されるということは、

「他人からどう思われるか」

「他人から気に入られるか」

を気にして生きるということです。

「自ら自由な生き方を放棄している」ということと同じ。

自らの意思を放棄して、長いものに巻かれて、自分の満たされない承認欲求を誤魔化している人は、とても多いので、それが当たり前になって久しいと思いませんか。

「いい大学に進学する」

「いい大企業に就職する」

「有名人とお近づきになる」

「インフルエンサーになる」

「上司に卑屈なほど遜りゴマをする」

そんな自由な生き方を放棄した大人たちに失望した子どもたちが、生きることに価値を見出せないのは当たり前です。

子どもたちは、内心そんな大人たちを蔑み憐れんでいるので、だからこそ大人になんてなりたくないし、社会になんて出たくないと思うのでしょう。

男の子の将来の夢の第1位が「Youtuber」で第2位が「Eスポーツプロプレーヤー」になるのも、納得です。

子どもたちがダメになったんじゃない。不真面目で夢見がちなんて、とんでもない。大人たちと大人たちがつくったこの社会に全く魅力がないからですよ。

 

本来、夢にはいろんな形があります。

しかし「夢がかなったイメージ」を想像すると、皆から認められ称賛を浴びているシーンを思い浮かべてしまいがちです。

この社会に生きる多くの人にとって、分かりやすい成功イメージとは「他者が自分の価値を決めているシーン」に固定されてしまっています。

この社会はランキング主義であり、評価主義です。

他人が自分の価値を決めるのが成功なら、裏を返せば「結果が出ていて他人がそれを認めてくれなければダメ=夢はかなわない」という図式だと言うことです。

評価の軸が自分では無くて、他者に委ねられている。

フォロワー数、動画再生数、年収、偏差値。

数字になってわかりやすい評価軸には、実は実体がなく、空虚な蜃気楼にすぎません。

なぜなら、他人の評価とは、うつろいやすい水物で、雰囲気のようで、自分とは切り離された「他人のなかの勝手な思い込み」だからです。

年収が高いからいい仕事をしているとは限らないし、そもそもお金はただの紙です。偏差値が高いから賢いわけでもないのは、コロナ騒動で皆さんもよく知るところでしょう。動画視聴やフォローも気分でクリックたまたましただけです。実際は鼻で笑ってみているだけかもしれないし、動画は1秒くらいしか観ていないかもしれません。

ひとつの切り口としてのデータで在り、本人そのものの価値とは全くリンクしない。本人そのものに関するするものではないから。データが付加価値を自分に付与してくれると信仰しているだけ。

 

私はこの評価主義・ランキング主義という宗教に、まんまと騙されて生きてきました。とても恥ずかしいですが。

大学受験は偏差値だけで大学を選びました。そこで何を学びたいとか、考えもしていませんでした。そのくせ、自分より偏差値の低い大学を出た人間、大学すら言っていないような人間は、自分より下等な生き物だと思っていました。恐ろしいアホですよね。(笑)

最初に入社した中小零細企業から超大企業に憧れて転職したのも、内心自分の社会的価値が上がると思ったからでした。

ふたを開けてみれば、何のことはない、同じような詐欺を大規模に展開しているか、小規模展開しているかの違いしかなかった。

私のやることはほとんど変わらず、自分の価値などもちろん上がることはなかった。

確かに、肩書が変わったことで、婚活市場では「優良物件」とそれなりに競争力を得て、銀行は給与口座をすぐに開設してくれました。

しかし私という人間は良質なものに成ったかと言えばそうではなく、本質は何も変わっていません。むしろさらに病んでアルコール依存症がひどくなっただけでした。(笑)

 

哲学者エピクテトスは、次のような趣旨の言葉を残しています。

自由な人生を望むなら、なぜ他人の評価にとらわれて生きるのか。

それは、ほんとうに自由な生き方と言えるだろうか?

地位や名誉や財力に囚われ、それを基準に生きるとは、何かに囚われる不自由な人生である。

我々次第ではないものを、もっと軽く見なさい。

そんなものは、人生にとって重要なものだと真剣にとらえなくていい。軽んじていい。

自分が変えられる範囲のものに、重きをおきなさい。

 

また、依存症の自助グループでよく唱和される『平安の祈り』ではこんな言葉がつづられています。

神よ、私にお与え下さい。

自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを。

変えられるものは 変えていく勇気を。

そして 二つのものを見分ける賢さを。

原典『ラインホールド・二ーバーの祈り』

 

他人の評価というのは「我々次第ではないもの」であり「変えられないもの」です。

そんなものを人生の軸に据えてはいけないのです。

自分には力の及ばないものとして謙虚に受け容れ、囚われない落ち着きをもつ者こそ、真の賢者といえます。

ずっと、負けないように他人と比較しながら、蹴落とし蹴落とされてボロボロになりながら生きる人生。

それをまた生きたいと思いますか?

また生きたいと思えない人生が、あなたの本当の人生でしょうか?

きっと違いますよね。

 

ニーチェのいう「永遠回帰」とは、この人生が永遠に繰り返されるという仮説です。

永遠に繰り返されるとして、あなたは今、あなたの行動をどう選択するでしょうか。

変えられないものに固執して「自分は幸せなんだ」と自分を騙しながら生きる努力を続けますか?

その無駄な努力を捨てて、自分が変えられる範囲のものに重きをおく。

変えられるものを変えていく勇気を持つ。

それがニヒリズムの克服です。

 

三大幸福論のひとつの著者、バートランド・ラッセルは、次のように言っています。

「私たちの生き方というのは、私たち自身の深い衝動によって生きる道が切り開かれていく。」

 

他の誰かの価値観ではなく、自分の価値観と内なる声にしたがって人生の一つ一つを選択したのなら、その結果がどうであっても、あなたは納得することができるでしょう。そしてあなた自身を誇り、運命を引き受けることができます。

不幸も失敗も、どんなに苦しい瞬間や深い絶望も、自分が選んだものとして向き合い受け容れる勇気をもつことができます。

そうすれば未来にも失敗にも、怯えることなく生きていけるのではないでしょうか。

だって、結果がどうなっても、あなたが決めてあなたが行動したことに価値があり、常にそれだけが最善なのだから。

であるならば、あなたは不幸も失敗も含めて人生そのものを肯定して生きていくことができるのではないですか?それ以上のそれ以下もないのだから。

そんな人生ならば、もう一度繰り返すことになったとしても、それを受け容れることができるのではないでしょうか。

これが本当の「自己肯定」だと、私は考えています。

何かができるとか、誰かより何かで優れているとか、社会に役に立っているとか、そんなことで存在価値を補強する必要なんてないのです。

自分には限界がある。それでも常に最善を尽くす。その行動が目に見える結果に結びつかなくても、大丈夫。きっと経験が糧となり、どこかの何かと繋がっている。だから絶望する必要はなく、落胆する必要もない。

このラッセルがいうところの「いい諦め=希望に根差した諦め」は、実に清々しいと思いませんか。

 

ホモ・ルーデンスは「遊びは文化よりも古い」という言葉を残しています。

「文化」の上位概念として「遊び」がある、というんですね。

競技性がある以上、法律というルールで競う裁判も、弁論を戦わせて真実を求める哲学も、全て遊びであると。

そして「遊び」の本質は、自分の内なる純粋な感覚の発露であり、他人には決して侵害できないし、決められないものです。

だって利害もなく制約もなく、あなたが「面白いから」という晴れやかな感激のための行動なのですから、他人には定義しようがないのです。あなたのなかにしか基準が存在しない。

子どもの頃、今思えばくだらない遊びに没頭した経験はないでしょうか。

朝露が光るだけで、なぜこんなに美しいのかと心を躍らせたことはないでしょうか。

私たちは、そのやり方をすでに知っています。

私たちのなかの子ども(インナーチャイルド)が、すべて経験してきたことです。

 

現代社会は、遊びが失われた世界です。

功利主義・合理主義・経済的な競争社会が遊びの要素を根こそぎ剥ぎ取ってしまった。

金儲けのために、皆真面目になり過ぎたのです。

そのため、遊びの要素を失った「文化」は崩壊が進みつつあります。

資本主義経済社会における「マネーゲーム(商業競争)」は、闘争本能に従うだけの偽りの遊びです。

過度に競争心を煽り消耗しあうだけで、得られるのは晴れやかな感激とはほど遠い、行き過ぎた興奮に狂っています。まるでジャンキーです。

「仕事だから」とマネーゲームいう偽りの遊びに重きをおきすぎていませんか?

そんなことに存在価値や人生を賭けていると、人は疲弊して病んでいくものです。

だから、こんなにもこの国は自殺者が増加し、精神疾患患者が増え、SNSは怨嗟の声にあふれかえっているのではないか、と思うのです。

 

もっと、心のままに遊びましょう。

私心のない興味を、最も大切にしましょう。

この世は不思議なことだらけです。「もっと知りたい」と思う純粋なその興味に素直になりましょう。

人間はいつ死ぬか、わかりません。それは誰だってそう。

望んでか望まずか、偶然にもこの世に生を受けたのですから、やっているだけで楽しいような何かに、全神経を集中させましょう。

変えられないものではなく変えられる範囲のものに、自分を楽しませることに、集中しましょう。

 

そんな風に思う今日この頃。

【雑談】結婚はしてもしなくてもいい(男女それぞれの勘違い)

未婚率を年齢(5歳階級)別にみると、2015(平成27)年は、例えば、30~34歳では、男性はおよそ2人に1人(47.1%)、女性はおよそ3人に1人(34.6%)が未婚であり、35~39歳では、男性はおよそ3人に1人(35.0%)、女性はおよそ4人に1人(23.9%)が未婚となっている。長期的にみると未婚率は上昇傾向が続いているが、男性の30~34歳、35~39歳、女性の30~34歳においては、前回調査(2010(平成22)年国勢調査)からおおむね横ばいとなっている。

引用:内閣府HP 内閣府ホーム >  内閣府の政策 >  子ども・子育て本部 > 少子化対策 > 少子化社会対策白書 > 平成30年版 少子化社会対策白書(全体版<HTML形式>) > 第1部 少子化対策の現状(第1章 3)

 

結婚とは、国の洗脳でありビジネスのためのもの

結婚は幸せと直結しない。

なぜなら、国のための制度だから。

1898年に明治民法で家制度が制定された。

なぜか?天皇制の国家制度を定着させるためだ。

家長である世帯主と家族の関係を、天皇と国民の関係性になぞらえて、「天皇は国の家長」という価値観を定着させるため。

戦後の民法改正で家制度は廃止されたが、刷り込まれた価値観はそのまま国民のなかに残存する。

そのため、今なお「結婚して家庭を持つもの」という価値観をぬぐえないのだ。

 

結婚産業の力も大きい。

結婚式は大きなカネが動くので、ビジネスとして旨味がある。婚活イベントや結婚専門雑誌や結婚式場や写真家や飲食業界など様々な利害関係者が存在している。

だから「結婚するのが当然」と社会が認識しているほうが、彼らにとっても都合がいい。

あの手この手で婚期を焦らせる。「結婚適齢期」とか「婚活偏差値(結婚偏差値)」とか、数字で横並びにして劣等感を煽る。「みんなしているのに、自分だけしていないのは変に思われるでは」とこの国が大好きな同調圧力で不安を煽る。

 

こうして、なんとなく「みんながするものだから」と他人の価値観をもとに結婚を選択する。

国がかつて意図した仕組みのための洗脳と、結婚によって儲かるビジネスを終わらせたくない人々に選択させられている。

自分が「したいからする」ことは、少ないのではないだろうか。

 

 

女も男も、どっちも幻想を「待っている」

承認欲求を満たしてくれる白馬の王子様を待っている女

「誰かが見つけて迎えに来てくれる」

そう思って運命の人が自分にアプローチしてくれる日を待っている。

女性は、ルッキズムの呪いで、男性からも同性からも容姿で順位を付けられる苛酷な世界を生きている。

そんな厳しい競争社会のなかで、自分磨きによりをかけ、女としての価値を高める努力を強いられながら、「一生幸せにする」という確約をくれる契約相手が現れるのを待つ地獄。

いつか自分の輝きを見出してくれる異性が現れる、その特別な誰かと一緒になれば幸せになれるという、幻想を信じている。

実は、「幸せ」より「安心」が欲しい。

真の敵は女の目であり、自分の女としてのランキングが平均より下にならないか、知り合いの誰かより下にならないか、それを心底恐れている。

腕によりをかけて女としての自分を高めたと認識すればするほど、その努力と築いてきたプライドに報いるような収入・ルックス・甲斐性がある異性でなくては納得できなくなる。

しかしそんな異性は、この貧困にあえぐ日本において数%であり、すでに契約済みの物件ばかり。

白馬の王子様候補は他に取られてしまったと気づいて、何とか我慢できる程度の相手に妥協する。

しかし、欲しい「安心」は理想より格下の「王子もどき」では得られないので、徐々にストレスを抱えていく。

「妥協して私にふさわしくないにも関わらず結婚相手に選んでやった」という忸怩たる思いがあるので、一挙手一投足が癪に障る。

家事育児ができない、仕事ができない、配慮ができない。できないことばかりが目に付く。

 

 

自分より弱い自分だけのマリア様を待っている男

「女はどうせ相手にしてくれない」

スクールカーストのトラウマを抱えた男の子。それが多くの男性の姿。

バスケ部のキャプテンやテニス部のエースなど、スクールカーストトップの男しか男として認識されない。思春期の多感な時期に、否定され続けた心の傷を抱えて、「女は怖くてめんどくさい生き物だ」と半ばあきらめムードで引いていっている。

それでも、誰かを守って死にたいとどこかで思っている、哀れな生き物。

異性に褒められたい、認められたい。否定され続けた恐れで自分からはもうアプローチする気力はない。だが、自分より弱い、儚げな誰かを求めている。

だから、女性が強いとなると、男はもう出る幕がない。

マウントを食らって正論で論破されようモノなら、もう黙るしかなくなる。

実家のお父さんがしゃべらない静かな存在になっていくのはそのため。

女性と喧嘩するということは、男性にとっては裁判で尋問されるようなものだ。

自動的に女性は判事であり、男性は被告である。過去に遡って過失をひとつひとつ列挙され、人格否定とジャッジが始まる。

判事に1つ口答えすれば、100倍になって返ってくることを知っている。

否定され続けた思春期を経て、もう男性の心はボロボロなので、裁判を戦える心の体力はすでに皆無。

馬鹿で弱いので「とりあえず同意して聞き流しておけば収まる、言い返しても長くなるだけだ」と諦めている。だから、男性を説教して成長させようなどとは、女性は期待しないほうがいい。男は正論で論破しても決して成長しない。殻にこもるだけだ。

このように、弁舌やコミュニケーション能力もさることながら、女性のほうが基本的に生物として男性よりも強い。痛みにも強い。精神力も強い。男性が敵うわけがない。

男性が夢見ている女性像が、そもそも現実の女とはかけ離れているのが問題。

自分を褒めてくれて、優しく包んでくれる優しさを持つマリア様を望んでいる。幻想を待ち望んでいるのは男性も同じ。

そう錯覚して幻想と結婚すると、すぐに現実を突きつけられてまごつく。

生理により毎月ホルモンバランスと激しい闘いを繰り広げる妻。楽屋は戦場である。仕事で疲れて帰ってきても、家庭も戦場。終わりなき戦場めぐりを体験し、こんなはずではなかった、と後悔する。

一緒になった妻は、もうあの頃の可憐でか弱い彼女ではない。

「結婚して・子供ができて妻は変わってしまった」と嘆く男性が多いが、それは男性側が勝手に勘違いしていただけだ。変わってなどいない。元からそうだったのだ。

目の前の女性ではなく、妄想のなかの自分だけのマリア様と結婚した気になった。

だから、女性としても、夫から自分以外の誰かのような期待を持たれて当惑するし、寂しさを感じるようになる。自分を自分として愛してくれていたのではないと思うようになる。

夫は「か弱い守るべき存在」と思い込んで接してくるので、妻である自分を下に見ているように感じる。

 

お互いに「あれ?なんか違う」ということに、結婚してから気づく。

 

どちらも孤独で不安で、病んでいる

女性も、男性も、病んでいる。

どちらも「助けて」と叫んでいる。

溺れながら相手を求め、相手も溺れているので、一緒に足を引っ張りあいながら水底に沈んでいく。そして、さらに深い場所で息もできない孤独と不安にもがき苦しむ。

これが、結婚後うまくいかない夫婦の姿だと思う。

 

自分に欠けた何かを、相手に求める。

それは自然なことだし、自分に無いものを持っているから惹かれる。似た遺伝子をかけ合わせないで子孫を残すために、遺伝子配列が異なる個体を本能的に求めている。

ここで問題なのは「相手の『自分と違う部分』を含めて『人』として尊敬しているか」ということ。

自分に無い部分の補填要員として夫・あるいは妻をリクルートすると、『自分と違う部分』が鼻につく。それは結婚により自由を失う代わりに求めているサービスとは関係がない、不純物だから。

お互いにある種のビジネスで一緒になってしまうと、相手を人として見ていない。所有物として、購入済みの商品として見ている。

それが問題の根本。

自分の生きづらさを他人で埋めようとしない。埋める手段にしない。

自分の生きづらさは自分の課題として引き受けたうえで、相手を人として尊敬するから一緒に生きていきたいと思う。

そういう前提で結婚して一緒に生活するなら、独りでいるよりも人生は実り多いものになると思う。

夫婦間の愚痴、諍い、内に秘めた恨みを感じるたびに、結婚するにあたって前提を間違えて選択している男女がとても多いのではないか、と想像する。

 

結婚はしてもしなくてもいい

結婚は、してもしなくてもいい、そんなに気にする必要のないものだと思う。

他人の目を気にしてするものでは、決してない。

男女とも、同性間でランキングをつけられることに恐怖している。

その恐れから逃れるための「逃げ道」として結婚を手段として使うと、自分の幸せから余計に遠ざかる。

誰かの一番でなくても、私もあなたもそれぞれの世界のなかで一番であることに変わりはない。主人公は自分自身。

私は永らく、同性の親友がいないことにコンプレックスを抱えていた。

他人との関係を深められない、つまらない人間だから、親友ができないのだと思っていた。

それは、相手に特別視されることで、自分が価値ある人間だと思いたかったからだった。

自分自身が自分に価値があると信じられないから、他人の物差しを頼る。それは、他人の目を気にして結婚を急ぐ人と全く同じ思考回路だった。

自分が「こいつは俺にとっての親友だ」と思っていれば、もう親友でよかった。

相手がどれだけ自分を慕っているかは、あまり関係なかった。そのことに気づいた。

つまり、自分が「いない」と思っていただけで、実はそこかしこに居たのだった。

あえて形にしなくても、または相手が証言してくれなくても、自分が信じるならそれは真実であり、他人には否定できない。

だから、親友がいるかいないか、と同じように、伴侶がいるかいないか、はそんなに大きな問題ではない。真の幸せに必要な条件ではない。

そう考えると、結婚しても離婚しても、それは自然なことでもあり、必要かどうかは人それぞれであり、結婚していなくてもしていても、自分の価値には大して影響を与えないという価値観は、素直に受け入れられるようになるだろう。

素直に自由に選択することが、結果的に後悔しない選択をすることに繋がると思う。

【メンタル】生きるのが楽になる!コミュニケーションの2つの大原則(山田玲司)

この内容がすごく大事だったので、文章にまとめてみる。

 

コミュニケーションからは逃げられない

私はASDの特性からか、他人と話すのを苦痛に感じることが多い。

というか、他人に関わるのが結構しんどい。

そういうタイプなので、できればコミュニケーションを避けて生きていきたかった。

それこそ幼稚園の頃などは、とにかく幼稚園が好きではなかった。

なんでこんなよくわからない他人と一緒の空間にいないといけないんだろう…そう思って行きたくないと親に言い、着せられた服を脱いだりしたが、無駄な抵抗だった。

無慈悲にもバスは毎朝きて、暗澹たる気持ちでゆられていた白黒の世界を思い出す。

帰るときは嬉しかった。

何故かヤクルトを飲んでから帰るという風習がある幼稚園で、ヤクルトが配られるときは希望に満ち溢れていた。

やっと帰れる!このくそみたいな空間から、自分の居場所である自宅に帰れる!

そう思って幼稚園にいる時間のなかで、唯一ウキウキした。

小学校も嫌だった。

次第に、この変な集まりには絶対に参加しなくてはならない社会のルールなのだと理解した。

深く絶望した。

他人は必ず存在して、うまく付き合っていかなくてはいけない。

そういうことなのだと悟った。諦めた。

 

そこから私の戦いははじまった。

とにかく他人を模倣して、馴染むように徹底的に努力した。

偽りの関係しか結べない、偽りの人間関係だったが、徐々にコツがつかめてきて、周りから迫害されることはなくなった。

しかし、相変わらず空虚で、接すれば接するほど病んでいった。

もっとうまくやらないといけない。

そうしないと社会で生きていけない。

その危機感はあった。

 

だから、向いていない営業を仕事に選んだのだろう。

ほぼ無意識に、この欠点を補修工事しないことには、人間らしく生きていくことが不可能だと思っていたようだ。

そして地獄のような社会人生活がはじまった。

「空気を読め」「ちょっと想像すればわかるだろ」「相手の立場に立て」

意味不明だった。

今までは勉強とスポーツができていれば、ある程度の処世術になったが、社会人はそうはいかなかった。

より高度なコミュニケーションを要する社会人生活で、私は完全に挫折した。

アルコールで何とか不安をかき消し、頑張り続けた結果、うつになりアルコール依存症になり、ボロボロになった。

 

そんな私は今、ある程度人との関わりを前向きにとらえることができるようになった。

それは、私の病巣の根本に欠けていた「自己受容」を成し得たからだと思う。

ASD・ADHDである自分。アダルトチルドレンである自分。

生きづらさを生む根本的な他人との違いを、問題として認識し、受け容れ、それでも自分には価値があると思えたこと。

それにより「他人に合わせなくてはならない」「うまくやらないといけない」という呪いを祓った。

自分を認めることは、他人を認めることに繋がった。

違ってもいい、間違ってもいい、だから自分も他人も許せる。

そういう到達点にあって、山田玲司先生のおっしゃることは真理だと思った。

 

コミュニケーションの大原則①

「人は変えられない」

相手のためを思ってって言いながら

相手を自分の意のままにコントロールしようとするというのは

近代の病です。

そして人間の傲慢なんですよ。

とんでもない傲慢で 己を知らない

無知の知ってやつですよ。

自分が無知であることが分かってないから

自分が言ってることが正しいと信じて

相手をその考えのもとで変えようとしている。

 

私の親は、私を変えようとしたがった。

私が一人で居ようとすると、無理にでも友達と遊ばせようと外に追い出した。

私が他の子と違うと、悲しげな表情で「なんで他の子と同じようにできないの?」と聞いた。

違うんだからしかたないじゃないか。

そう思っても、そう言っても、違和感があってはダメだと言われた。

これはとてつもなく強い呪いとして、私の幼い心に冷たい楔を打ち込んだ。

「ちあきのためを思って、言っているのよ」

と何度言われたことか。

私のためを思うなら、私のありのままを受け容れてくれさえすればよかった。

最も私を肯定してくれるはずの両親が、私が私のままでいたらダメだと言われたら、立つ瀬がない。もうどこにも居場所がない。

親は、親自身の考えが正しいと信じ込んでいるとき、子どもを否定する。

自分たちのほうが正しいと思い込んで、それを刷り込もうとする。

何と傲慢なことだろう。

子どもだって一人の尊厳ある人間であり、その瞬間に感じることは、その子にとってのゆるぎない真実だ。それを否定してはいけない。そんな権利は、親にも、世界中の誰にもありはしない。

結局、私は私のままだった。全力で偽装と模倣はしたが、本質は変わらない。

人は他人が変えるものではなく、自ら変わろうとするときに変わるものだ。他人が変えようとすることは、そもそも不可能なのだ。

なのに、親は自分の子どもを「教育できる」「育てられる」と思っている。

自分の分身のように勘違いしているので、そういう発想になるのだと思う。

そうやって子供を自分の持ち物のように扱っていると、私のように病んだ子供になる。

 

まずは、自分が正しい、という思い込みを捨てること。

正しいことなんて、この世にありはしない。正しいように見えるだけで、本人が信じる世界が、そのすべてだ。それを書き換えようとするのは、人権侵害であり越権行為だ。

そして、影響を及ぼせるのは自分だけで、自分すらままならない、という事実を受け容れること。

まして、他人をや、である。

自分で自分をコントロールできる、ということすら、傲慢な思い込みで、そんなことはできはしない。

人間というのは、ありとあらゆるこの世のすべてから影響を受けていて、その一部でしかない。

木の葉が木の幹に逆らうことができないように、木の葉の栄養なしに木の幹が太くなることができないように、全は一、一は全である。

 

 

コミュニケーションの大原則②

「デスノート禁止」

自分内憲法によって相手を裁くのが、デスノート理論です。

(自分のなかの)「許せない」が多い人ほど不幸な人生になる。

自分憲法をやめて、自分美学にしなよ。

 

小さい頃から思い知ってきた。自分と他人とは違う、ということを。

価値観も違う。背丈や見た目も違う。育ってきた環境も、目指している場所も違う。

譲れないことも、許せることも違う。

他人とは、別の宇宙で生きているようなものだ。

同じ空間、同じ世界で生きているようで、心が通うように錯覚することはあれど、それぞれの精神世界は完全にシンクロすることはない。

違って元々。そしてそれぞれが美しくて元々。

私は自分の世界を否定されて育ったので、自分の世界を憎み、他人の世界をもっと憎んでいた。

「そんなにお前らが正しいって言うんなら、どんなに素晴らしいもんか見せてみろや」

と思っていた。

否定する気満々なので、見るものすべてが不快で、欠点ばかりに思えた。

それを心のなかで否定するにとどまらず、対外的に攻撃性として内包し続けた。

それを他人に直接ぶつけられないので、反転して自分に殺意が向いた。アルコールを過剰摂取していたようなもの。自傷したり、過食や拒食に陥る人も、同じような感覚なのかな、と思う。

私は私のなかで、他人を決して許しはしなかった。

虐めた人間はフルネームで覚えていて、どこかで会ったらいつか復讐してやろうと思っていたし、何か気に入らないことを言った人間のことを繰り返し思い出していた。

心のなかのデスノートは、たくさんの名前でいっぱいだった。

恨みを抱えて、誰も許せない。「許せない」が飽和状態になり、心を埋め尽くす。

それはそれは生きるのが辛かった。なんてしんどいんだろうと思った。

こんなに嫌な世の中、早く寿命がきて終わりにならないかな、いっそのこと終わらせてしまおうか。

そんな風に思って生きていた。

外への攻撃性を自分に向けた結果、自暴自棄になる。

そのまま外に攻撃性を向けた場合は、わかりやすく逮捕される。

それだけの違いだと思う。

 

つまり、自分の世界を認めさえすれば、他人の世界も許容できる。お互い様だから。

自分の世界を他人に否定され続けて、自分自身も否定するようになると、苦しくなる。

他人は、親も含めて、否定して当たり前だった。違う宇宙だから。

それを私に押し付けたことは、彼らの罪だが、それは彼らもそうされて育ってきた呪いを継承したに過ぎないのだろう。

だから私は親を許すことができた。彼らもまた被害者だから。

ただ、同じ呪いを受け継ぐつもりはないので、私は私をありのまま受け容れる決心をした。

そして私の世界を、他人に押し付けることをしないと誓った。

とはいえ、なかなか難しいもので、他人が私の世界を否定して変えてやろうと干渉してきたとき、境界線を越えてきたことへの怒りでついつい反撃したくなる。

そういうときは「この人は今なお、受け継いだ呪いに苦しんでいるんだな」と思うことだ。

ガンディーは狂信的なヒンズー教原理主義者の凶弾に倒れ暗殺されるとき、薄れゆく意識のなか、自らの額に手を当てた。

これはイスラム教で「あなたを許す」というジェスチャーだった。

つまり、彼は自分の命を奪いにきた相手にすら「それでもあなたを許そう」と思える偉大な人だった。

私はまだまだそんな域には達することはできないが、これが一つの解答だと思う。

 

 

まとめ

①変えられない自分を含めて、人は変わらないということを、それでいいんだと受け容れる。

②心のなかのデスノートを抱えて生きるより、自分も他人も許して生きていくほうが、楽しいし幸せだと理解する。

このふたつで、人生は、今までよりはるかに生きやすくなると思う。

私は遙かに楽になった。生きやすいし、毎日が楽しい。

心の大部分を占めていた怒りや恨みを手放すと、心のなかにゆとりができる。

それではじめて、世界の美しさや自分の心の声が視えてくる。それなしには、自分の世界を愛することなどできはしない。「他人」という負の意識に埋め尽くされているうちは、己を理解しようと耳を澄ます余裕すらないのだから。

仕事においては、呪いを背負いまくっている自称エリートの病人たちが同僚なので、度重なる過干渉に辟易とすることはある。

というか、この世の中はそんな病人ばかりだ。社会そのものの病み方がもはや末期的。そりゃしかたない、この人たち一人一人のせいじゃないよな、と同情する。

しかしまあ、それも含めて変えることはできないし、私の仕事ではない。私は私をご機嫌にすることが唯一他人ができる事なので、「御気の毒様」と思ってあまり触らず流している。流せるようになったのは、成長の証だ。

彼らからしたら「なんでいうことを聞かないんだ」「私が正しい、あんなのはダメだ」と心底受け入れがたいかもしれないが、申し訳ないけど私のなかで違うものは違う。違っていいと思うし、他人が違う世界の理で生きていてもいいと思う。私に押し付けさえしなければ。まあ押し付けてしまう気持ちも分かるので、それも含めて、彼らが思うように生きたらいいと思うよ。

私の世界を受け容れられないのは彼らの心の問題であって、私は私で生きていくほかない。それでベストだから、もうどうしようもない。あきらめてほしい。(笑)

なんだか、そういう最近よく感じることに重なる動画だったので、とても感慨深かった。

 

参考:冒頭にご紹介したまとめ動画の元動画はこちら↓

 

【仕事】デキる上司ほど部下を潰す!:山田玲司先生直伝 自分を守る「4つの作戦」

この世の悩みは「人間関係」だと言い切ったのは、心理学者アルフレッド・アドラーだが、職場の悩みの原因もだいたいは「人間関係」だと言われている。

人間関係というかコミュニケーションの問題かもしれない。

 

やばい上司

人は、誰しも苦しくなると、過去の成功体験を支えにするものだ。

自分は他人よりも優秀だ、と考えている人ほど、過去の栄光に固執する。

「自分はこうやってうまくいって、今の立場がある。だから正しい。」と思いたい。

思いたいのは勝手だ。だが、それを他人に押し付けてはいけない。

でも押し付けちゃう上司ってほんと多いよね。

 

デキる人というのは、出来ない人がなんでできないかわからない。

原因や理屈を頭で理解しても、その心情までつぶさにその感覚に身を寄せることはできない。自分ではその挫折感や屈辱感を経験することができないからだ。

誰でも自分にできることが、相手にもできると思ってしまいがちで、デキる人は「自分にできるんだから頑張ればできる」と短絡的に思考してしまうことがある。

そう簡単にはできない人もいて、できる能力がたまたまあっただけなのに、それを「なまけている」「やる気がない」「根性がない」とその人の気持ちの問題だと思ってしまう。

ここに、大きなコミュニケーションにおける問題が発生する。

上司は「できるのにやらない」と思って不信感を募らせる。

かたや部下は「正しいのは分かるけどできない」だけなのに、今までの努力や熱意を全否定されたように感じて、次第に鬱屈していく。

あるいは、上司が過去の成功体験を引っ張り出してきて、前時代的だったり背景が違ったりして通用しないにも関わらず信仰していて押し付けてしまう。

部下は「こんなんうまくいくわけないじゃん」と思いながらも実績と経験がまだ少ないことを理由に拒否できず、やる気を失う。

 

やたら世話を焼き、手取り足取り細部まで管理したがるリーダーもやばい。

このダンゴムシのようなもの。

「自分の言う通りにすればうまくいくんだ」とやり方から過ごし方までマイクロマネジメントをして、部下を言う通りに動かそうとする行為は、虫をいじくりまわして意図せず殺してしまう幼児と同じだ。

あくまでも、本人の自主性が最も大切な原動力であり、尊重すべき個性なのに、それを否定されて道具のように扱われたら、人の心は簡単に死ぬ。

 

 

上に立って部下を育てるとき役立つのは、失敗した経験である。

部下はかつて成功した再現性のない武勇伝より、尊敬する上司の生々しい失敗経験のほうが、よっぽど聞きたいし、よっぽど勇気をもらえる。自分もがんばろう、と思える。

だから、本当に頑張ってできなかったことができるようになった人が、上司に最もふさわしい。

しかし、この資本主義経済社会では、負けたら終わりのルールなので、基本的に減点がたくさんついた人間は、出世しないようにできている。

結果として、あまり失敗を経験できなかった、保守的でリスク回避がうまいだけの、薄っぺらい人間が上に立つことになる。

ぶっちゃけ、システムとして、クズだけが上に行くようにできている。

だから上司にクズが多いのは当たり前のことなのだ。とんでもないブラック社会である。

 

上司の3要件として「ご機嫌でいる」「愚痴らない」「威張らない」というのがある。

「この3つができないなら人の上に立つ資格はない」とまで漫画家の山田玲司先生はいう。

 

今まで働きやすい環境を整えてくれて、人間的にも尊敬できる上司は、本当にこんな感じだ。

反対意見は逆に面白がるし、真剣かつ謙虚に耳を傾ける。

『貞観政要』で李世民が魏徴の率直な意見を兼聴することを忘れなかったように、優秀なリーダーはきちんとそこを踏まえている。

 

 

それに、会議でもなんでも、せっかくなら参加しているメンバーに楽しく参加してもらおうと態度だけでも明るくする。

そして、権力を振りかざすことを決してしない。

この世は、その逆をやっているマネージャーが多数派だと思う。

 

上司(他人)は変えられない

いつも不機嫌で愚痴ばかりで威張り散らすような上司と一緒に仕事をするのは、地獄でしかない。しかしそういう人がほとんど。

ではどうするか?

 

基本的に、合わないところにいてはいけない。

人というのは、合わない場所・合わない文化・合わない集団にいるだけで、疲れ果ててしまうものなので、基本的に向いている居場所で生きていくのが一番だ。

さっさと転職しよう。あるいは、上司がいない働き方を求めて独立しよう。

 

というのがベストだが、言うは易く行うは難し。なかなかハードルが高い。

 

つらいところなのが、他人である上司に何とか変わってもらおうというのは、現実問題難しいということだ。

なぜなら、上司は上司なりに人生を歩んできて、そのバックボーンがあってのその人なのであって、私に私の物語があり信念があるように、上司にもそれがあるのが当たり前だからだ。

そのバックボーンをタイムリープして変えることなどできないし、その人にはその人のやり方があり生き方があり意志がある。

それは私が私を尊重してほしいのと同じように、彼らも尊重してあげるべきなのだ。

変わろうとすることは、その人にしか決められない。変化は変わろうと自発的に思ったときにしか起こりえない。

私がコントロールできる範疇の外にある。変えられないものなので、そこはどうしようもない。

 

今すぐできる!山田玲司先生直伝の「4つの作戦」

だから、変えられるとしたら自分のほうだ。

「なんで?!私は間違ってないのに変わらないといけないの!?」と憤ったそこの貴方。

大丈夫。安心してほしい。

あなたそのもの、あなたの生き方や信念を捻じ曲げる必要はない。

それぞれに粛々と生きたいように生きればいいだけで、あなたは上司の納得できないやり方に首を縦に振る必要もないし、跪く必要もない。

じゃあどんなふうに振舞ったらいいの?ということで、4つの作戦を紹介したい。

 

①妖怪ウォッチ作戦

人間ではない「妖怪」だと思って接しよう。

同じ人間だと思うからしんどくなるわけで、年取ったジバニャンがなんか言ってるなー、変わってんなー、と思って聞き流すと、結構気が楽になる。

 

②主治医作戦

私もたいがい精神を病んでいるが、基本的にビジネスに携わっている人というのは、多かれ少なかれ精神を病んでいる。

ワーワーとまくしたてたり、意味不明な行動をしたりしている上司を、「患者さん」だと思って接してみる。

「はいはい、患者さんこっちですよ、今日はどうしたんですか?」と、主治医になった気持ちで耳を傾けてあげる。精神を病んでいる人のカウンセリングだと思えば、時間を浪費するというより、時給をもらいながら精神療法をしている感覚になるので、イライラしづらくなる。

でもこれは、比較的余裕があるときにしたほうがいい。

上司が「今、俺の話、部下に伝わってる!」と勘違いをしてやる気を出し、わりと終わらせるのに時間がかかることがある。しかしガス抜きさせてあげるのには得策。

③動物園の園長作戦

これは①に似てますが、さまざまな上司がそれぞれに狂っている場合に使う。

動物園で日々様々な獣のお世話をするような気持ちで接する方法だ。

無意味なうえに荒れて長引いている会議中など、とても有用。

「よしよし、今日もみんな元気に吠えてるな」と思って数歩引いてみてみると、頭に血が上ることもない。

④悲しみのバックストーリー政策委員会作戦

これは、思いがけず傷つくことを上司から言われたときに実行する。

「この人は、なんでこんな部下を悲ませるようなことを言うようになってしまったんだろうか」と考えを巡らせてみる。

たとえば、誰かより上だとか下だとか、誰のほうがすごいとかダメだとか、相対的な価値観に引っ張られる上司の場合、だいたい親から成績で他の子と比べられ続けてきた幼少期を過ごしていたり、他人にマウントを取られてとんでもないトラウマを抱えていたりしている。

「そうかそうか、ちっちゃい頃につらいことがあって、そのせいで病んでしまったんだね・・・」と思うと、なんとなくその人の人生の不幸に同情して受け流すことができる。

他人に何かを言われたとき、自分が否定されたと感じているから痛みを感じる。

しかし、指摘されたことに学ぶべきものがない限り、その発言はえてして他人の問題の表面化に過ぎない。

つまり、上司が自分にひどい言葉を投げかけるのは、自分に非があるのではない場合、たいてい上司の人生の問題なので、基本的に自分には関係ないことで、そんな言葉であなたの価値は傷つかないのである。

だから、「(あなたのなかでは)そうなんですか、気を付けます」とでも言って憐れんでおけばよい。

 

まとめ

正直今の上司は本当に困ったちゃんで、結構疲れる。

そんななか、われらが山田玲司先生が、とってもわかりやすく問題解決について語ってくれていたので、まとめてみた。

4つの作戦を実際に実践してみた結果、とてもストレスがなくなったしなんだか優しい気持ちになれるので、おすすめしたいと思った。

いろんなひとがいて、いろんな傷を抱えて生きている。

所詮金を稼ぐための仕事なんてゲームなので、気楽にいこうではないか。

自分の情熱を傾けて作品をつくったり、何かを育てたり、大切な人を大切にしてご機嫌に過ごすことのほうが、人生においては仕事の何億倍も大事なので、つまらないサブクエストで死にたくならないように、一緒にのんびりいこう。

 

【メンタル】失われた「愛する」という技術(エーリッヒ・フロム)

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』『愛するということ』を読了して、内容をまとめつつ思うところを書いてみる。

 

人は安心に依存する

ナチスドイツのファシズムに服従したように、人は自由を求めながら権威に跪く。

中世ヨーロッパでは、身分が決まっていた封建社会だったので、決まった役割をやっていればよかった。それなりに生きていけた。

社会・共同体の一部として、やりたいことは全て叶わなくても、やるべき役割をやっていれば誰かが守ってくれる。そんな「安心」があった。

しかしルネサンスを期に、資本主義・自由主義が社会に広まるにつれて「個人」という概念が生まれるようになる。

中世の崩壊とともに、自分が何者かわからなくなり、今まで享受していた「安心」を失う。繋がりを失い、路頭に迷う。

そこで宗教改革である。

今まで教会は「神」と「人々」を繋ぐ役割を担う権威そのものだったが、プロテスタントは「神」と「個人」が直接繋がれる代わりに「神」には絶対服従で、本来が存在として悪である人間は「労働」に真面目に禁欲的に励むことにより禊を済ませることができる、と説いた。

これにより、産業革命の只中、過酷な労働を強いられても喜んで働く、今でいう社畜のような状態に人々をコントロールすることに成功する。

寄る辺をなくした民衆は、身を粉にして働いていれば「神」が救ってくれる、という新たな「安心」を得る。代わりに「神」に服従するマインドを刷り込まれる。

近代資本主義は、人間を伝統的な束縛(役割)から解放したが、同時に人間を孤立させ、無力感・孤独感・恐怖を与えた。資本的に「強い個人」と「弱い個人」を生み、社会は金儲けのための機械になり、人々は歯車として生きるようになった。

自分の幸せが生きる目的ではなくなり、あくまでも組織・社会の経済的な発展に奉仕することを目的とする、孤独な歯車である。

近代から現代に時代が進むにつれ、さらに孤独感や無力感を増大させていく。

 

自由から逃げたくなる3つの心理(逃避のメカニズム)

人が自由という重責から逃げてしまうのは、3つの心理が働いているからだとフロムはいう。

権威主義

自分が欠けている力を獲得するために、自分以外の何かに依存して補おうとする心理のことである。

自分の進むべき道をあれこれ指示してくれる「権威」にすがりたくなるパターン。影響力のある人、カリスマ性のある集団に思考停止でついていってしまう。(マゾヒズム)

もう一つが、他人を支配し操作することで自らが権威者になりたがるパターン。(サディズム)

両者とも、上下関係でいいから誰かと繋がりたい、安心したいという気持ちが働いている。

破壊性

対象を壊すことによって苦しみから逃れたい心理のことである。

どうしても敵わない・邪魔な対象を、殺してしまいたい、消滅させてしまいたい、と考える。外側に攻撃性が表出するパターンである。

それが自分自身、つまり内側に向かうと、自殺になる。自分を破壊することで全てを終わらせるのである。

 

機械的画一性

自分が自分であることをやめることである。

自分の思考・感情・意思を放棄して、集団に迎合することにより、溶け込ませて孤独感を埋めようという心理である。

心を殺してまるでターミネーターのように生きる。そこには偽りの「安心」はあるが、幸せはない。

 

こうして、人々は「安心」を得るために自由から逃げだし、個性を失い、自分を失い、権威に簡単に服従するような生き物になっていったのである。

その受け皿として機能したわかりやすい代表例が、冒頭にふれたファシズムだ。権威ある集団帰属意識を与えるファシズムは、孤独感でいっぱいの民衆を取り込むことに成功した。

しかし、歴史が示すように、その結果は多くの犠牲者と不幸の量産だった。

残された道

では、孤独な私たちは何を頼りに歩んでいけば良いのだろう。

役割でもなく、神でもなく、権威でもない世界に繋がる何かとは、なんだろう。

自発的に自己表現をすることで、私たちは世界と繋がることができる。その最たるもの、つまり先の問いに対する答えは「愛する」ということだ。

愛することは、能動的かつ自発的な活動である。受動的な感情ではない。自ら踏み込み与えることである。愛は他人としての態度であり、性格の方向性のことをいう。

健全に自由に自分と自分以外を繋げるものは「愛」だと、フロムは訴えている。

 

現代人は、愛について誤解をしている。

たとえば、収入さえあれば、容姿がよければ、愛されることができると条件で考えている人。

または、運命の人が現れ自然発生的に恋に落ち、いつか誰かと愛し合えると思って待ち焦がれている人。

これは間違いだという。

では、どうすることが、真に愛するということなのだろうか。

 

愛する人というのは、与える人である。

自分のなかに息づいているもの、大切なものを相手に与えることだ。

多くの人は、何かを与えれば、自分から何かが失われるのではないか、損をするのではないかと内心恐怖している。そのせいで、愛する勇気を持てないでいる。

自分の大切なものを自ら与えることができる勇気と、自立した精神をもつ成熟した人格の持ち主が、愛を実践することができる。

モノや力や正しさで相手をコントロールしようとすることは愛ではない。歪んでいる。この歪みはいつか破綻を招く。

 

愛を構成している4つの要素

愛を形づくる要素は4つである。

配慮

愛する者の生命や成長を積極的に気にかけているだろうか。愛をいくら語ろうとも、積極的な行動に現れていなければ、それは疑わしいものになる。

責任

自分に対して誰かが何かを求められたとき、その要求に応える準備ができているだろうか。自分と同じように他人のことに責任を持ち、その人本人から発せられるSOSに快く応えるマインドセットができている必要がある。

尊重

相手がその人らしく成長していくことを気遣うことである。相手の行動や思考を自分の都合のいいようにコントロールしよう、というのは、利用しようという意図が介在している。母親が、子どもを自分の思い通りのいい大学に進学させよう、良い会社に就職させよう、と過干渉することは愛ではない。

なぜなら、子どもを尊重すべき一つの人格として認める気持ちがそこにはないからである。自分が精神的に自立していなくては、相手に施す余裕などなく、結果として相手をありのままに尊重することもできない。

知る

相手の性格や考え方や価値観を知っているだろうか、知ろうとしているだろうか。

相手のことを知らなければ、その人が真に必要としているものも、その人の発言の裏にある真意も理解することはできない。能動的に知ろうとする態度が、愛するうえで必要不可欠だ。

 

真実の愛

ここまで読んでくださった方のなかには、愛って存外難しくて面倒臭いな、と感じる人もいるかもしれない。

それもそのはず。ある人を愛する、ということは、その人の周囲・世界・構成するすべてのものを愛するということ、つまり博愛である。

人類全体に対する愛を「友愛」という。

表面的な個人の能力の差や損得など関係なく、無条件に人類全体を愛するということだ。

他人への愛は、自分への愛でもある。人類全体のなかには、自分も入っている。

ちなみに自己愛は利己心とイコールではない。

利己的だということは、自分を愛していないことを意味している。エゴイズムの根底にあるのは、不安と恐れであり、その埋め合わせとして自己中心的な態度でごまかしているに過ぎない。利己的な人は、不幸な人である。

 

資本主義社会では、愛は失われて久しい。

計算可能性・合理性をもとに行動するようプログラムされた社会を生きる現代人は、まるでみな「商品」である。モノとして人はお互いを見ている。愛がかようはずもない。

自他共に存在を商品化してしまった現代人は、自分の時間やエネルギーを使うことを投資のように考えてしまっている。これは人生を損得で動かされていることを意味している。

また、個人は集団からはみ出さないよう、空気を読み顔色をうかがいながら暮らしている。そんな私たちは、集団のなかにあっても、いつも孤独で、不安と恐れに押しつぶされそうになっている。

そのため、組織の歯車として画一化された仕事や、音や映像のエンターテイメントで、傷んだ心の痛みを麻痺させることにいつも一生懸命だ。

心の鎮痛剤として、様々な商品やコンテンツとして市場に出回る。酒・たばこ・ギャンブル・薬物・背景に哲学のないメディアやゲームコンテンツなどは、その代表作だ。そう考えると依存症というのは、愛のない社会が生んだ社会そのものの病である。

目を逸らすためにインスタントな「楽しさ」「痛み止め」を限りなく消費しながら、身も心も商品として売り渡している哀しい存在が、私たちの姿だ。

 

愛する技術を習得するための4条件

そんな私たちが愛を実践するためには、何を会得する必要があるのか。

フロムは4つの条件を提示している。

規律を守る

外から強制された仕事の反動で、休日は何もせずダラダラしたくなりはしないだろうか。

愛する技術を身につけるのなら、外側から強制された命令に嫌々でも従うようなトレーニングをしてはいけない。

学校というのは、いわばそうした絶対服従のためのトレーニングである。だから私は個人的に、自分の意志で目的を持ち通うのでなければ、学校は行かなくていいとさえ思っている。

自分の意志こそが絶対の約束である。規律とはそれだ。

自分との約束を守れる人、それが規律を守れる人である。

 

集中

マルチタスクをしてはいけない。1つの行動だけに集中しよう。社会が推奨する逆が正解である。

あなたは相手の話を聞くとき、次に何を話そうか思案してはいないだろうか。

相手がしゃべっているときは「傾聴」に集中しなくてはいけない。

しかし、昨今流行りの会話術といえば「○○と言われたら○○と切り返す」とか、理論武装としての応酬話法ばかりである。これは全く相手の話を聞いていない。

特にビジネスにおいては、自分の都合のいいように会話の着地点をコントロールしようと、あの手この手で相手に素直に話をさせない。そんなエゴにまみれたノウハウばかりをもてはやしている。

実にくだらない。

他人を愛していない、商品として見ているから、こんな関わり方になる。こういうコミュニケーションの取り方をするようでは、お互いに愛することはできないばかりか、さらに遠ざかる。しかし、今は夫婦間ですらこんな調子ではないだろうか。そりゃ離婚もするよな、と思う。

また、集中という観点では、自己との対話に集中することもまた重要である。

つまり、ボッチでいるトレーニングをする必要がある。

瞑想が現代人に勧められるべきルーティーンなのは、愛することに繋がっているからだ。自分の内なる声を「傾聴」する時間と技術を身につけなくては、自分を見失ってしまう。自分を見失っていては、自立し成熟した人間として愛を実践することはできなくなる。

敏感に、自分の不調や不安、恐れを見直す。それらを誤魔化さず客観的に受け容れる勇気は、すなわち謙虚さである。

そのひとつの方法として確立しているのが、12ステップ・プログラムなのだろう。

だから回復を目指すアディクトって、素敵な人が多いのかな、と納得した。

忍耐

すぐに結果や答えを求めたり焦ったりしないで、地に足をつけて一歩一歩身に着ける忍耐強さが、愛には必要である。

現代は合理主義や結果主義で、速さばかりを評価する。まるで逆だから、愛から離れていくのは当然だ。

私の愛は信頼に値する、そう信念を持とう。他人の可能性を信じる忍耐は、信念によって支えられる。

たとえば子育て。

子どもの精神が健全に発達するためには、保護者や教師やそのような立場にいる大人が、子どもの可能性を忍耐強く本気で信じなくてはならない。

教育とは、子どもの未来を信じ、それを助けること。信念がない教育は教育ではなく、ただの「洗脳」である。そう考えると、巷に溢れる教育という名のカリキュラムは、ほぼどこかの誰かの損得で差し向けられた洗脳コンテンツではないだろうか。

愛はギブアンドテイクではない。愛すれば自分が愛されるだろう、と他人に愛情を押し売りする態度は、愛ではない。

愛すれば、きっと相手の心に届き、相手のなかに愛が生まれるだろうという希望に全身をゆだね、何の保証も見返りもなしに行動することである。

そんな親は、いったいどれほどこの世にいるだろうか。

関心

愛が習得したい技術ならば、常に強い関心をもつことが重要だ。

古典哲学に触れるのが大切なのは、この観点に由来するのだろう。

真に成熟した人間とはどういうものか。それを現代を生きる浅い人間から学ぶことは容易ではない。

古典哲学という作品を通じてであれば、先人たちの叡智に触れることによって、彼らが愛をどう哲学していたのか、偉人たちと時空を超えて対話し学ぶができる。その思想を鏡にして、自分の価値観や在り方を見直すのである。

 

愛は、以上のように、真剣な想いと弛まぬ実践を通じてやっとたどり着ける険しい道のりであり、簡単においそれと身につくものではないと、覚悟しなくてはならない。

 

愛を生涯にわたって実践したマハトマ・ガンディーは次のように言っている。

愛とは、一般的に思われているほど単純でもなければ、体得が容易なものでもありません。

愛の道は、綱渡りをしているかのような集中力を要求されます。

そのため、心にごくわずかな隙があっても、たちまち地上に転落してしまうのです。

絶え間ない努力はもちろん、終わりなき苦痛と果てしない忍耐を覚悟する必要があります。

しかしそれによって私たちは、生きとし生けるものが自分の友であることを知り、自分の果たすべき務めと謙虚さを学ぶのです。

愛の道を進む者は、どんな邪念も、嘘も、憎しみも、もってはなりません。

また、皆が欲しがるものをひとりで貯め込んではなりません。

愛とは私たちにとって、最高の義務です。

一切の執着を断ち切り、力の限り理想に向かって進んでいくのです。

 

【参考文献】

 

【メンタル】まともな人ほど心は病むよね(山田玲司)

 

この動画で山田玲司さんが話していることがむちゃくちゃ重要だったので、要点を書き起こして考察してみる。

 

ちゃんと感じることのできる「まともな人」が「メンヘラ」になる、

ちゃんと感じることのできる人なんじゃないのって俺は思ってる。メンヘラって。

だからこそキツいことになっちゃうよね、この文明社会では。

だから俺は近代病だと思ってる。文明病みたいな。

 

本当にそうだよな、と思う。

この世の中は基本的に狂っている。

この資本主義経済がベースにある社会では、なんでも市場価値に換算して相対的に比較するし、合理主義が神よりも信仰されているし、とにかく人間がクズになる。

没人格化して機械のように生きることが正解の世の中で、病まないはずがない。

今の社会に適応できている人こそ狂っている。

だから、今の社会で成功を掴んでいるとかいって称えられている人を素直に憧れるのはやめておいたほうがいい。

人間をやめた人を参考にしても、人間をやめることになるだけだからだ。

まだ人間をやめていないまっとうな人が、耐えきれずにメンヘラになる。

だから、メンヘラこそまともな人、というわけ。

 

スターウォーズ問題

 

「親の問題」っていうものを解決できるかどうかっていうことを、子どもは関係ないのに背負わされるわけ。これは、本人のせいではないわけ。親がダースベーダーだったかどうかだよ。

 

これはいわゆるAC(アダルト・チルドレン)の話だ。

日本の家はほぼ機能不全家庭だといっても過言ではない。

過干渉・共依存のオンパレードで、何かしら闇を抱えた親に育てられて、そのまま闇を繰り越すことを何代もやってきたのが、日本人だろう。

学歴がなくて出世できず苦労したから、やたらと高学歴にこだわる父親。

旦那がパッとしなくてタワマンカーストでマウントを取られたトラウマがあるから、やたらとハイスペックな男と娘を結婚させたがる母親。

もう日本中だいたいおかしなことになっている。

おかしいと自覚していないだけで。

親はそういうトラウマからくる「偏執性」を子供に背負わせる。

子どもは自分の分身である親を信じているし、無条件で愛してしまうので、最初にその「偏執性」をインストールしてしまう。

そして、自分の問題ではない問題を背負った呪いに苦しむ。

 

 

「君は努力が足りない」とか「暗いからダメなんだ」とか、そういう簡単な浅ーい認識で人間を評価してきた歴史があんだけど、もういい加減分かってきてるでしょって、この時代ならさ。

(中略)

これ(親やその前の代の影響がその人のフォーマットをつくっていること、それは本人のせいではないこと)をわかんないで本人のせいにしたり薬入れたりとかするから…

そんな簡単に治んないですよって話。

 

最近医療がアホらしいな、と思うのはココで、本人しか見ていないのに何がわかるのか?というところ。

エビデンスが、研究結果が、とかいうけど、同じ家族背景で対象患者をリクルートすることなどできない。ここに抱えている呪いは程度も種類も違う。

そんな精神を病んだってだけで十把ひとからげに集めてきて、この薬使ったら効きました!とか言ってるのを聞くと、本当かよ?と思う。

担当医がちゃんと診察の過程で、背負わなくていい自分の荷物を下ろすのを手伝ってくれたから回復したのかもしれない。

あるいは、他人との出会いで、自分に気づきを与えてもらって、捉え方が変わった結果、そんなに悩まなくて済む状態になったのかもしれない。

人生の長い長い期間で、ほんの一瞬、よくなったからと言って、本当に効果があったといえるだろうか。

精神領域の実臨床というのは、それこそオーダーメイドである。

他人がポッと現れてちょっと見て「とりあえず今こんな感じだからこの病気だよね」と勝手にレッテルを貼って薬だしときゃ治るなら、そもそも苦労しない。

それぞれの物語に自分自身が向き合っていく手助けくらいしか、他人にはできない。治すとか治さないではない。その人自身にしか、その人を変えることはできない。

そのあたりに簡単に介入できる、と思っている時点で疑わしいことこの上ない。

 

水槽(アクアリウム)問題

中にいる魚って、魚単体が病気になるんじゃなくて、水槽全体が病気をつくるんだよ。

魚単体の話をしてもしょうがないんだよ。これが、患者単体の話、心を病んでいる人単体の話にしてはいけないっていうやつ。

もう結局そこって環境じゃないですか?って話。

 

結局、この社会でそこそこ良い位置にいるような人間が、心を病んでいる人の健全な心をわかるはずがないのである。

この社会でそこそこ良い位置にいるということは、この行政官僚制のバトルロワイヤルで生き残ってきた、「勝ち組という狂人類」のカテゴリにいる人だからだ。

狂っている人に、狂っていない人の気持ちがわかるはずがない。

そんな狂人たちに支配されているこの社会は、もう完全に終わっている。

 

この国のな、なんで心を病むかっていったら、だいたい1%の勝者と99%の負け犬っていうシステムになってんの。

「野球やりたい!」っつったときに全員がイチローになれないの。「そういうふうになったら良いなと思ってました」っていうひとたちがほとんどの国なのこの国は。

だからそこで夢を語るとかいうのが、まずそこでちょっとおかしいんだよ。

 

誰かが富めば、誰かが貧しくなる。

他人の幸せは自分の不幸になるシステムになっている。

そんな救われないシステムのなかで夢を抱いて前に進めと言われたって、そんなの無理に決まってるじゃないの。

もう『カイジ』の利根川さんみたいな人ばっかりである。

勝たなきゃゴミだとか言われて、それが正論で、そんな世の中で生きていて楽しいわけがない。

 

学校という地獄

学校ってさ、異常なシステムだと思うんだよ。

家庭でスターウォーズやって、学校でバトルロワイヤルやって、もう戦争から戦争ですわ。そんな毎日を送って「学校行きたくない」って言うに決まってるべ。

 

学校というのは、地獄である。

いきなり年齢が同じだから、と箱にぶち込まれて、そのなかでバトルロワイヤルをやらされる。そういう空間である。

成績・ルックス・運動能力。

そういう薄っぺらい限られた価値観で相対的に互いを評価しあい、1%のリア充と99%の有象無象に分けられるトラウマを製造する。1%のエリートも、金という虚しい紙きれを追い求める悲しい怪物として使い倒せるように型にはめられていく。

まさに蟲毒である。

お互いを敵として、モノとして認識させ、コントロールしやすい歯車を生み出すための奴隷養成所。それが学校である。

そんなとこ、行きたくなるわけがない。

行きたくなくなるのが普通だ。行けているほうが狂っている。

だけど、不登校というと、なんだか道から外れたダメな子だとか言われる。

逆だ。

まともだから、不登校になるんだ。感性がまだ死んでいないから、しんどくなれるんだ。

だから、私は子どもに学校なんてどうしても行きたくないなら行かなくてもいいからね、と言っている。

 

学校ってなんで…話の下手なね、公務員のね、つまらない話をね、1日6時間も聞かなきゃいけないのっていう、この苦行。

俺の若い時代を返せと言いたい。だって時計しか見てなかったもん。「終わんないかなー」しか考えないでしょそんなもん。そうでしょ?

なんでで12時になったら嬉しいの?おかしくない?1日の半分が終わっちゃうのに。

つまんないからだよ!つまんないから!

くそみたいな授業受けるから、学問っていうのがつまんなくなっちゃって、「学校つまんない」=「学問つまんない」っていってしまった人たちのなんと多いことか。

 

一生懸命授業の準備してくれていたんだと思うんだけど、申し訳ないけど、先生という人種の話は基本的にとてもつまらない。

教師は社会にまともに出ずに教師になることが多い。

教育学部で実習して、そのまま学校に公務員として就職して、民間で働いた経験がないので、社会でいろいろな人と話をしていろんな人がいるんだなということに触れる機会もない。

ずっと「学校」という異常なシステムの箱庭のなかにいた人間が、社会を語ることそのものが困難だ。だから仕方がないと思う。

 

実際、社会で不条理や苦渋を味わってから古典哲学に触れて、ハマりまくっている。

学問はこんなに面白いのか、と思う。

私が学校でやっていたことは、狂った異常なシステムで表向き正しいとされているノウハウだとか、受験というゲームを攻略するために必要な暗記方法だとか、そんな些末な似非学問であって、学問じゃなかった。

学問とは、生きることのど真ん中にあり、それは「学校」で机に座っているだけでは絶対に教わることができないものだった。

なのに、人生の大半を机にかじりつき続けてきた人が学問を語る。

もはやコントである。

 

生き延びて逃げろ

今どうしたらいいかっていうと「逃げろ」「生き延びて逃げろ」ってこと。

今はまだわかんないんだよ、でもこの先には巨大なカタストロフ(壮大な破滅)が待ってますから。一気に壊れるからバーッていろんなことが。

そうするとまた「空き地(フロンティア)」できるから。っていうことの繰り返しなんで歴史って。

だから、そのときまで「なんとか生き永らえろ」って話なの。

 

早く破滅してほしいな、と思う。

世の中が全部完全に壊れて、今までの価値観なんて木っ端みじんになってほしい。

言っちゃ悪いけど、だんだんとみんな気づいてきていると思うけど、もうこの社会はもうダメなんだ。

今はまだ外向きのカタチを保ってはいるけど、中身がもうスッカラカンの張りぼて社会だ。

だからそんな社会に否定されたって、気にするな。

頭おかしなやつがなんか言ってんな、って聞き流しておけばいい。

学校に馴染めなくても、一向にかまわない。むしろそのほうがいい。

変に周りをキョロキョロみて怯えながら空気を読んで、合わせようとしなくていい。どんどんクズになっていくだけだから。

不登校でもいい。むしろ行きたくないと言えてお前は偉い!と言いたい。私は親に洗脳されていたので、行きたくないという本心を握り潰してしまった。私よりもみんなのほうが優秀だ。誇るべきことだ。

おそらく苦労はあるだろう。

学歴がないことで、金が稼げないことで、今は不遇の時期を過ごすかもしれない。

しかし、全てが終わったとき、メンヘラこそが世界を再構築できる救世主でもある。

それまで、ともに狂人の圧政から逃げて、生き永らえよう。

 

【メンタル】「おまえもやればできる」に隠された偏見と分断

この本、とても面白かったです。

かいつまんで内容に触れながら、エリート・能力主義の裏側について考えていきたいと思います。

 

エリートが抱えるアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)

この社会は自由と平等の名のもとに「能力主義」「成果主義」を土台として構築されてきました。

そしてその社会で成功を目指す人々はみな、平等に与えられた(ということになっている)権利とチャンスのなかで、自己を結果と結びつけて確立していきます。

その結果、だれもが多かれ少なかれ「他社にとって良い人(価値ある人)」であるように自己査定しながら生きていて、共依存的な生き方(「他者によって」自分の欲望を定義されることを必要とするような生き方)が主流となってしまいました。

共依存という概念は、今や依存症の臨床のなかだけでなく、社会全体のカギとなる概念になりつつあります。(斎藤学「イネイブリングと共依存」精神科治療学 10(9);963-968,1995)

 

成功を自分の努力や能力のおかげだと驕るいわゆる「エリート主義者」は成功できなかった者に対して冷たい心を持っています。

「平等にチャンスはあったはずなのに掴まなかったのが悪い」

と自己責任論を振りかざします。

この自己責任論は逃げ場を奪うきつい態度です。なぜなら、あらゆる人に言い訳を許さないからです。

能力主義が絶対的正義だと進行している彼らは、自分たちが無意識に権威や成果で他人を差別をしていることに鈍感です。

 

知識社会は高度化し、高学歴と低学歴の分断はいよいよ拡大し、溝は埋めがたいまでになっているのが現実です。

しかしエリート主義者は、学歴・経歴・自分のモチベーションはコントロールできるメリット(価値)だと信じて疑いません。

たとえばアメリカは特に顕著で、アメリカンドリームに表されているように、成功は「個人がどれだけ頑張ったか」という美談として語られます。

成功は個人の頑張り次第、ということは、機会の平等さえ確保すればいい。そう考え、小さな政府にしていった結果、社会保障が弱くなりました。医療費などはよい例で、保険会社によって受けられる医療サービスに格差が生じて、助かりたくてもお金がないと助かれない医療制度です。心臓疾患を患う娘の手術費が出せない…などの描写がよく洋画で登場するのはそのためです。

「努力」を過大評価しているのが、アメリカの姿です。

 

一方でヨーロッパの文化は、成功は「運」と考える傾向があります。

たまたま貴族の家に生まれてラッキーだったから富を得る。そんな運がある人は恵まれない人のために社会を支えるのが当然だろう。そういう価値観です。

そのため、社会保障は当然強くなります。

「努力」を過小評価しているのが、ヨーロッパの姿といえるでしょう。

 

努力できる才能も遺伝

実は、努力できる事も才能であり、遺伝によって生まれたときからすでに決まっていると言われています。

双子を何組もリクルートして行った面白い実験で、「A.裕福で高度な教育を受けられる家庭」と「B.経済的に恵まれず両親の生活レベルも学歴も低い家庭」2つの環境に送り込み、バイオリンをさせた結果、環境によってバイオリンの演奏に優劣が付くのか調べたデータがあります。

これによると、環境によってバイオリンの巧さに差は出ず、どの双子もそれぞれ同様のレベルの演奏をしたということです。つまり、遺伝子によってどんな環境であっても一定のレベルまでできるかできないかはすでに決まっているということになります。

成功者は、この議論を嫌います。

なぜなら、掴んだはずの経済的な成功はほとんどすべて運ということになるからです。

この結論は所得税を正当化するうえに、「成功者は偉いわけでも賢いわけでもない」ということになるので、彼らにとっては非常に具合が悪い。

しかし現実は「実力も運のうち」です。

 

エリートによるエリートのための世界にひきこもる人々

優れた個体を真似る、成功個体に憧れる。

これは生まれ持った防衛本能であり、生き残るために備わったシステムです。

金持ちは金持ちを真似て、金持ちのなかだけで結束し孤立する傾向があります。

優れた個体の一員でありたいし、そう自己認識を持っていたいので、そう認識し合える一定の条件をクリアしている人間だけでコミュニティーをつくります。そのなかでお互いの客観的評価を補完し合い縛りあいながら強い絆を形成します。

 

官僚も同様で、定義としては公僕ですが、彼らは公僕だとは深層心理では思っていません。

官僚は官僚のなかで縛られた下僕であり、国民のために働く公僕ではありません。

つまり、コミュニティーの外側にいる国民が困ることより、コミュニティーの内側の仲間である省庁の身内が困ることを避けるように、意志決定をします。

だから、国民の生活を無視した法案や制度が出来上がるのは当然です。彼らのなかで重要なのは仲間のメンツを潰さないことと、エリートコミュニティーからはじかれないようにすることなのですから。

そんな官僚がつくった作文を読むだけの政治家でいくら政治をやっても、民主主義がまともに機能しないのは当然ですよね。そもそも身内のためで国民のためではないので、国民の声が政治に反映されるわけがない。

 

これは特定のバックグラウンドを持った社会的弱者にも言える傾向です。

ある種の負け組的なエリート意識を持つ者同士で集まると、同じような苦しみを味わっていない人間とは心理的物理的に距離を取り、傷を舐めあうためのコロニーを形成します。

そのなかだけで結束して孤立し「どうぜあいつらにはわからない」とコミュニケーションを拒絶します。

いずれにせよ、分断はかくして起こります。

 

全ては与えられたもの

この分断を打破するにはどうすればよいのでしょうか。

エリートがここから脱するには、経済的な貧富を超えた連帯、共同体としての共感覚を形成する必要があります。

たとえば、身分も収入も関係なく対等に互いを尊重することができるグループに属すること、マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻(経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性)」の外側に繋がりを持つことです。(「鉄の檻」について詳しくは、こちらをご参照ください。)

その繋がりによって、人と人との真に対等な繋がりを再確認すると、おそらく「できないのはやらないから」という能力主義のバイアスから目を覚ますことができるでしょう。

 

全ては与えられたもの。

全ては借りているだけ。

その恵みに感謝すること。

自分の力だ、自分のモノだ、自分の価値だと、勘違いしないこと。

持つ者と持たざる者。この世の不平等を自分では変えられないものとして受け容れること。

変えられないものへのコントロールを手放し、自分とはかけ離れた「誰か」になろうとする虚しい努力をあきらめること。

お互いに与えられた個性を慈しみ、尊敬して補い合うこと。

運によって今持っているものに固執せず、自分の実力などと思い違いをしないで、ありのままを受け容れる勇気と落ち着きと賢さが、この身にいつか宿るのを願うこと。

 

そうした認識ができていて行動でその内面を示している人間こそ、真のエリートなのだと思います。たとえばマハトマ・ガンディーのような。

この現代社会の価値はどれもこれも相対的で、誰もが自分と誰かを比べては一喜一憂しています。しかしそれではキリがなく、いつまでもどこか不安で苦しく、恐れに震えながら生きることになります。

そんな人生は、つまらないですよね。

誰かに認められるために生きるというのは、ちっともおもしろくない。

他人から褒められたり、世の中から評価されたりしなくても、全然問題ありません。

あなたが心から、おもしろいと思うこと、ワクワクすること、楽しい気持ちになること、愛しいと思うこと、尊いと思うこと。

それが最も大切な感覚であり、それによって繋がる人が、あなたが本当に大切にすべき人です。

世俗的な価値に換算できない繋がりを、大切にしていきましょう。