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【仕事】肩書きも役職も宗教

「あれだけの役職についておられるということは、人間的にも素晴らしいはずだから。」

こんな言葉を社内で聞いた。私は「それはどうかな」と思ったけど言わなかった。

 

組織における肩書きは個体の優越性証明たりえるか

役職とは、ただの役割である。

高い役職を持つ人は、組織内で裁量が大きい。

しかしいくら権限が付与されていても、収入が高くても、役職はどこまでいっても役割でしかない。

裁量が大きければ責任が伴うはずだが、往々にして上役が責任を取ることはない。責任を取るのが主たる役割のはずなのに。

大きな組織で高い役職につく人とは「失敗という汚点を残さないで働いた人」であり、汚点を残さないことにおいてはたしかに、一流である。

肩書きとは、その立ち回りの小賢しさの証明にはなるかもしれない。しかし人間的に優れているという証明にはならない、と私は思う。

人間的に優れている、とは、そもそもなんだろう。

私にとっては、愛を与えられるかどうかだと思うし、そもそも優劣はつけられないと思う。

役割としてたまたま、あてがわれているだけなので、上役を偉いとか凄いとか私は思えないから思っていない。

「こいつを当てがっても損しないだろう」と思われるだけの隷属を誓って態度で示してきた、という献身はすばらしいと思う。

私にはそんなふうに心を殺して生きることはできないから。

心を殺さずともそう在れたというなら、さらに脱帽する。

そんなふうに思考停止で生きることは、私には不可能だ。

肩書きはむしろ、個人的には侮蔑の対象ですらある。

 

異端審問としての降格人事

組織内のヒエラルキーを重んじない、崇め奉らない、隷属しない。

そんな社員は肩書きという宗教を信仰しない背信者である。権威という神の力を信じない不届者である。

だから、金銭的に不遇な立場に追いやって罰を与え、改心させようとする。

自分たちが信じている宗教が間違っていない、という安心のため、生け贄を痛めつける。

同じような仕事をして同じようなパフォーマンスを発揮していても、上役に傅かない生意気な人間は「人間的に劣っている」神罰の対象者である。

ああ、くだらない。

そのまま、その人の日頃の行いと発する言葉と、成している善行だけを、みるのではだめなのか?

違うことには違うと思うと、忖度なく発言してはダメなのか?

私にはよくわからない。

営利組織の営みが、金という暴力で他人を服従させたり下にみたりするための、ひどくくだらない遊びにみえる。

 

飽きた

もう飽きた。

結局のところ、パワーゲームはただただ虚しいしつまらない。

大企業でも中小企業でも、変わらない。醜いことには変わりなかった。よくわかった。

パワーゲームで成り立つこの社会は、人として気高く尊い在り方よりも、損得と迎合が最優先であり正義なのである。

実にくだらない。

こんなつまらない社会、早く滅びて仕舞えばいい。

人間がそんな浅薄な生き物だとしたら、絶滅して仕舞えばいい。

とりあえず擬態しながらそれなりの収入を得られるよう省エネで立ち回り、本当に大切な行動と思索に命を燃やそう。

もう、ある意味あきらめる。

【メンタル】無理をして好かれようとしなくていい

とても穏やかに日々を過ごしている。

身体は健康だし、光も匂いも感じる。

欲や恐れに振り回されるでもなく、日々をのんびり有難く生きている。

 

なにより背伸びをしなくなった。

他人にどう思われようが気にしなくなった。

無理して自分を良くみせようとは思わなくなった。

何か成果をカタチにして認められなくてはと自分を追い詰めなくなった。

 

そんなことは必要がないと気づいたからだ。

 

今までの私を振り返ると

今まで私は、自分がどう思うかより、私が他人にどう映るかを、気にして生きていた。

内心、ひどく怯えていたように思う。

嫌われないように、なめられないように、自分を温厚に見せたり強くみせたりしようとして、一生懸命虚勢を張っていた。

そうやってどこか敵対するような緊張感をもって、他人と接していた。

だから他人に会うと、ドッと疲れた。私にとって人の群れに混ざるのは、戦争の最前線に赴くようなものだった。

 

そうやって勝手に緊張して、勝手に疲れて、自分の感覚というか心の声を蔑ろにしてきたように思う。

他人の視線にばかり気を配り、自分自身に配慮しなかった。自分の心の声はいつも無視されっぱなしだった。

だからいつも疲れていて、イライラしていた。

 

なにが転機だったか?

エピクテトスやマルクスアウレリウスをはじめとしたストア哲学に触れたあたりだろうか。

あるいは岡本太郎先生の著書を読んだあたりだろうか。

 

「私にはどうしようもない、気にしても仕方がないことを、いくら気にしていても結局しかたない。」という心がストンと落ちてきた。

いや、もっと丁寧に表現するなら、心がもともとあった場所に降りてきた。久しぶりに帰ってきたような感覚。

スッと馴染んで落ち着く。寒い夜にやっとのことで家に帰りつき、温かいココアを飲んだときの、染みわたる安心感に似ている。

 

今まで無理やり論理的に考えて「気にするべき要素ではない」と自分を説得していた。

しかしそれは真の理解ではなく、誤魔化しだった。

事実、仕事を評価される場面で私は一喜一憂していたし「認められたい」「バカにされたくない」という気持ちに内心振り回されていた。未熟だった。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き

ああ、本当に、どうでもいいことだったんだ、と思った。

 

神様、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして、二つを見分ける賢さを

二ーバーの祈り

 

変えられないものを、私は変えようとしていたのか。

だから苦しかったのか、と。

 

自由に至る唯一の道は『我々次第でないもの』を軽く見ることである

エピクテトス

 

私にできることは、意思に基づいてどう行動するか、現実をどう解釈するか、そのくらいしかない。

それ以外はほとんど自分のコントロール下にない事柄だ。

いつの時代に、どこに生まれて、どう育てられるかなど、選べない。

それと同じように、他人にどう思われるか、どう見られるか、ということは、私にはどうにもできないことだ、とわかった。

 

そもそも、他人の心の中にいる「私」は、私じゃない。

その人から見た架空のイメージとしての「私」であり、イコールじゃない。

厄介なことに、そのイメージは発想者により必ず歪む。

被写体をとらえるレンズのようで、そのレンズは発想者の心の傷や想いを一緒に投影する。

むしろ映しているのはその人自身と言える。

 

 

だから、他人が何か「私」を主語に「私」についてあることないこと言っていたとしても、実はそれはその人のその人自身についての感想であって、私は何も言われていないのと一緒ということだ。

つまり独り言だ。

独り言に相槌を打つ必要はない。それと同じように、他人が私についてアレコレ言っていたとしても、応じる必要も反論する必要もない。

「あなたの中でそうなんだね」で基本的には終わる。

もちろんその感想のなかには、私にはない視点からの気づきをもたらしてくれることもある。

そのときは「それは気づかなかった、教えてくれてありがとう」である。

要するに、他人の評価というのはその程度のものなので、そんなに重苦しく考えるものではない、ということ。

私が「違うなぁ」と思えば違うし、「そうだなぁ」と思えばそう。

 

他人から何か攻撃的なことを言われたり、馬鹿にするような言葉を言われたとして、その言葉やその人に腹が立つのは、自分が「そうだなぁ」と内心思って認めているからだ。

 

幼い子供が「やーい、ばーか」と言ってきても、あなたは怒らないでしょう?

それは相手が子供であなたのことをちっとも知らないで言っていると思えているから。

「そんなこと言うけど、私はバカじゃないよ」とあなたの心が堂々と答えている。

 

じゃあなぜ大人に「おまえはバカだ」と言われると腹が立つかというと、「私はバカだ」と認めているから。

それは、発言した他人が振りかざす権威、つまり社会的地位などから「自分よりも正しい見方をしている」と思い込んでいるため。

そんなことはありえない。

あなたのことを一番よく知っている一番のサポーターは、あなたなんだから。

どっかの偉い人よりも、育ての親よりも、あなたはあなたのエキスパートである自信と自覚を持っていい。あなたが「そうじゃない」と思えば、「そうじゃない」が正解だ。

そうじゃないのに勘違いして見当違いな発言をしているのは、他人のほうだ。

だから「フフフ、勘違いしちゃって」と思って聞き流しておればよい。

 

偏見やレッテル張りも同じように無視でいい

同じような理由で、私は依存症についても、全く気にならなくなった。

依存症のイメージがその人のなかでどうでも、私にはどうしようもない。

「私は当事者としてはこう思っているし、学説としてはこういう病態ですよ」と、私なりの解釈と事実と思しき知識はできるだけ伝わるように工夫して伝えるかもしれないが、それが他人のなかでどう消化されるか、どう伝わるかは、他人の問題。

ましてや社会に、私の解釈や知識が浸透するかどうかなど、とうに範疇を越えている。

メディアのイメージ戦略やプロパガンダをそのまま信じている時点で、物事をそんなに深く考えていない。本当に賢ければ、自分の目で現場現物を見る。自分の耳で当事者に話を聞きにくる。

偏見を持つのは偏見を持ちたいからで、その人自身が問題を抱えていることの表出のひとつ。

他人を下に見る必要がその人の内部にあるから、無意識的に飛びつく。あらためて調べないし、見方に偏りがあるのではないかという疑義が生じない。要は実態などどうでもよく、その人にとっては自分より下の存在を調達できればいい。ただそれだけの理由。

だから、せめてもの慰みに、その勝手なイメージを抱いていればいいよ、と思う。

私が額に汗して説得する必要は全くない。

耳を傾けて無駄なエネルギーを浪費する必要もない。

本人が本人のためにやりたくてやっていて、私という人間をしっかり見て言っているわけでは無いのだから。いわばオナニーだ。一人で好きなだけしといてもらえばいい。

その勝手なイメージが多数派だろうが、かまわない。多数決で多数だからといって正しいわけじゃない。いつも正しいかどうかは自分のなかの良心でしか判断できない。

どう思われようが、私がやることに変わりはなく、私の人生に変わりはない。

 

結論

【メンタル】唯一の羅針盤は、いつも己の心の裡に在る。

誰が何と言おうと、自分が信じるようにやるのが一番よい。

結果的に自分にとってだけではなく、他人にとっても、最もよい。

 

あなたの心が「最良」「最善」と感じたのなら、

その感覚に従うのが最も適切な選択だ。

他の選択肢はない。

「たられば」は存在しない。

常に自分の心に素直に耳を傾け、その声に従って進めばよい。

 

この生き方はとても勇気がいる。

何故なら誰かのせいにはできなくなるから。

どんな結果になっても受け容れて納得するしかない。

 

でも、勇気がないからと決断を他人に委ねたとて、結果がともなうとは限らない。

だれも結果の責任など取れはしない。

結果はコントロールできないものだから。

 

つまり、自分で決めるにせよ、他人に決めてもらうにせよ、どっちに転んでも結果はなるようにしかならない。

それなら、よりあなたが納得できるほうを選択するほうがよい。

あなたは、他人に言われるがままに動くのと、自分の意思で動くのとでは、どちらが納得できるだろうか。

 

前者を選べば、他人のせいにできるから、一時的には楽だ。

だから、恐れと不安を見て見ぬフリしたい人は、判断を他人に委ねる。

誰もが弱い。私もそうだから。

だけど、前者の選択は後々もっと大きい苦しみを抱える可能性がある。

結果が良くても、素直に喜べなくて苦しく、

結果が悪いと、他人を責める理不尽な怒りに苛まれて苦しい。

どっちにしても苦しくなる可能性が高い。

だから私はおすすめしない。

 

後者を選ぶと、結果がどうであっても、ありのままを受け容れられる。

失敗しても成功しても、自分の血肉になる。

 

そもそも、失敗するか成功するかなんて、どうだっていい。

コントロールできない事なんだから、気を揉んでも仕方ない。

やりたいか、やりたくないか。

やるか、やらないか。

本当に決まるべきはそれだけだ。突き詰めると簡単なこと。

 

結果は関係ない。

他人はもっと関係ない。

下手で結構。むしろ下手こそよい。不完全なほうが人間らしくてよい。

 

誰かと比較するから、気後れする。「上手にやらなくては」と身体が硬直する。

あるいは自分のほうが上手いと自惚れて、雑になる。

それでは、あなたは本当の意味で生きることを楽しめない。

本人が楽しめていないうちは、他人を楽しませることは到底できない。

結果にばかり目が行ってしまって、楽しむことが忘れ去られた「屍」では、人は感動しない。

 

ひとつひとつを、まるで初めてやるかのように、何回でもやってみればいい。

何回失敗してもいい。

何回諦めてもいい。

やりたいからやる。

信じたいから信じる。

 

従いたくないことに、従う必要はない。

唯一の羅針盤は、いつも己の心の裡に在る。

【メンタル】あなたは「やらないといけないこと」ばかりやっていないか?

私たちはつい「やるべきこと」を優先する。

問題はその価値が「自分にとって」なのか「誰かにとって」なのか。

選びがちな「やるべきこと」は後者。

 

その後者ばかり選んでいると、人はいつしか虚しい時間を生きるようになる。

 

予定を入れられるのが大嫌い

私は仕事の予定が入っていると、落ち着かない。

本当にやりたいことを始めると、終わるまでやらないと気が済まない。

やりたいことを中断する苦痛は筆舌に尽くしがたい。

その苦痛を味わいたくないので「予定までの時間に終われるかどうか」を気にしてしまう。

私がやりたいことは、挑戦になることが多い。

やったことがないことは、どれぐらいかかるかわからない。

終われるかどうかはわからないので、始めるのをためらう。

そのストレスが積み重なると、もはや何もかもどうでもよくなる。

私のうつ状態はこうして形成される。

 

だから、私は予定をブロックされるのを極端に嫌う。

他人の予定は、私を殺す。

 

自分のために

他人に依頼される予定は、他人のための時間だ。

他人のための時間を優先すると、病んでいく。前述した私のように。

 

自分がワクワクすること、やってみたいと思うこと。

それに時間を使うべきだ。それを最優先すべきだ。

そうでなくては心が死ぬ。

 

損得ではダメだ。

この現代社会を生きる上で何かメリットがあるから、という「やりたい」は本当は「やりたくないけどやるべき」を「やりたい」だと自己洗脳している。

「やるべくこと」は、損得関係なく「やりたい」こと。

その「やりたい」は心と体を自由にして、時間に縛られずに生きているときにしか降りてこない。

よく「怠けている、サボっている」と客観的には見える状態のとき、その人は「やりたい」を探すために全身全霊で他のノイズを極限まで削って必死に探している。

決して怠けているわけでも、サボっているわけでもない。

その人なりに必死に足掻いている。

 

不登校にしてもそうだ。

学校という監獄で「これは私の『やりたい』じゃない」と、奴隷教育に対して心も体も拒絶反応を起こしている。だから行けない。

そしてそれはとても自然で健康な反応だ。

その反応を無視しないでちゃんと「学校に行かない」という行動に移せる時点で、すごい。

私は不登校の人を尊敬する。

私は「こんな意味のない場所」と思いながら自分の心の声を無視し続けて、ついには聞こえなくなった。だから今、こんなにも私の心の声はか弱い。耳を澄ますのが大変だ。

聞こえなくなった声。その存在すら忘れて自分を誤魔化し続けた結果、うつ病になりアルコール依存症になった。

もう同じ過ちは繰り返さない。

 

自分のために、自分の声に従って生きる。

それが最も善い生き方だ。

他の誰かの決めたルールや価値観に従ってはいけない。

 

「遊び」を極める

ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』で示すように、この世の活動は全て承認欲求に基づいた「遊び」で、社会は元来「遊び」で構成されている。

資本主義と合理主義によるマネーゲームは、チープでワンパターンなクソゲー。

競争心を煽り他者比較による承認欲求を満たすだけなので、依存性はあるが真の意味での「楽しい」「歓び」はない。真面目で退屈で不毛。

だから現代社会は劇的につまらなくなった。

そのつまらなさに気づいた賢く鋭敏な人は、社会不適合者になる。

無理に過剰適応すると、私のように精神疾患や依存症を発症する。

クソゲーを楽しいと感じる鈍い人間。それがエリートの正体。

この社会が心地よいと感じる鈍感なエリートがいくら社会をいじってもクソゲーにしかならない。

だから、社会には期待していない。悪くなることはあれど、良くなることはない。作っている人間がつまらないなら、つまらないものしかでき上らない。

クソゲーでありクソ社会である現代社会。

それは外部環境であり変えられないもの。

しかたがない。手放し受け容れるしかない。

つまらない。変えられない。ならどうする?

「無いなら、つくっちゃえばいい」

擬態して適応してるフリをしてやり過ごしながら、自分がワクワクする「遊び」に最大限のリソースを割く。楽しめる部分は楽しみ、既存の評価や価値観を「どうでもいいこと」と認識することが重要だ。

問題はその「遊び」は何か?ということ。

それは自分の心の声を聞くしかない。人による。千差万別だ。

だから、少しでも情熱の炎がチラリとしたら、全力でそれに取り組んでみる。

最も重要視すべき感覚だ。他のことはどうでもいい。情熱を感じる感覚を全身全霊で探す。

三日坊主でも構わない、下手ならなお結構。

とにかく少しでもワクワクするほうへ、足を運んでみる。行動する。

その繰り返しの先にしか、それぞれにとっての本当の「遊び」はない。

 

私は「遊び」を見つけたい。

正直今はもがき苦しんでいる。

仕事はクソつまらない。この社会も壊れたガラクタにみえる、クソどうでもいい。

私のワクワクはこの枠組みには存在しない。ただ金を得るための火葬場。

でも、少しずつ情熱の炎のカタチを掴みつつある。

 

まとめ

これはあくまで私にとっての形。絶対的な真理などない。

私にとってはクソゲーでそれにハマるエリートは鈍い人間に見える。

私は「変えられないもの」があると気づく謙虚さを自覚する程度にしか賢くない。

数多ある砂粒のひとつまみ。

自分の魂が歓ぶ「遊び」を見つけるために、人生は与えられたのだと再定義する。

個々の意識の問題であり、第三者は提案することしかできない。

しかしこの再定義により、病む必要がなくなり依存する必要がなくなるので、依存症は無くなる。これが真の依存症予防啓発。

私の依存症予防啓発は、私自身の人生が体現している。

私そのものを世界に発信するのが、私にとってやりたい・おもしろいことで、同時に価値があること。

同じように、他の人の人生も貴重な物語だ。ひとりひとりが最高に面白い創作物だ。

フィクションでも、ノンフィクションでも、新しい物語に触れると、私はとてもワクワクする。だから、私はそんな話を聞きたい。

そのワクワクを、私の得意な伝達手段でシェアしたい。

だんだんみえてきた。

【哲学】楽観的虚無主義のススメ

諸行無常

世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。 人生は、儚く虚しいものであるということ。

諸法無我

全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないということ。

 

『徒然草』『方丈記』を読んでいて、やはりこの世は虚無なんだろうな、と思う。

人の負の感情は、この世に期待しすぎていることから生まれている。

 

対人関係において。

「当たり前だ」と思う心が、今目の前にいる存在への感謝を忘れさせる。

感謝を忘れて、不満を抱えるのは、自分の心。心のありよう次第。

自分の思い描いたとおりに、他人は動かない。それこそが当たり前。

期待とは自分の勝手な思い込み。

信頼を裏切られた、と私たちはよく感じるが、そもそも人間は信頼できるようなつくりをしていない。

いい加減だし、気分で言うことは変わるし、ズルくて残酷で、基本的に終わっている。

信頼に値しない存在として過度な期待をしないでいれば、善行に心から感謝できる。

 

組織において。

基本的に、行政官僚制組織は腐敗する。

損得マシーン・法の奴隷・言葉の自動機械。

終わっている人間が、さらに終わった人形に成り下がるシステムに取り込まれているのだから、もう期待のしようがない。

資本主義経済のこの世では、会社は営利目的の詐欺団体であり、政府は既得権益の保存機関であるのが、むしろ自然なレゾンデートル。悪であることが当たり前なんだと思う。

だから、善良な人ほど仕事は疲れるし、しんどい。悪を行なっているから。

わかりやすく稲盛和夫の『生き方』を読んで、尤もらしい顔をして「人として成長するために仕事がある」などと鼻息を荒くしていた20代。

当時を思い出すだけで恥ずかしくて穴があったら入りたい。

資本主義社会での仕事は、単なる暇つぶし。金のためにやることで成長することなど無い。

この虚しい世から目を背け何とかやり過ごすための、奴隷としての精神が培われる。

つまり「調教」されることはあるだろうけれど、いずれ本質的な生の概念に近づくと、本来の姿である毒に裏返る。自分を騙し続けて「生きづらさ」として抱えた負債は、心身の病となってあわられる。

仕事に正義や愛を求めることは、悪質な高利貸しに募金を求めるようなものだ。

どだい、無理な話である。

だから、会社に、仕事に期待をしなくなった。

企業が利益追求の巨大な捕食者であるという「変えられない事実」を認め、組織本来の存在定義を受け容れ、共存する方法を模索する。

私にとっての悪もあってのこの世。

悪をときには利用し、ときには遠ざけて。

かつて人類が「火」を手にしたように。

欲望の傀儡と化した営利組織という集合体と、智慧ある私たちのほうが、距離とバランスをとっていくよりほかはない。

彼らの在り方は変わらないし、私たちは生きていきたいのだから。

生まれた瞬間から、子々孫々にわたっての共犯関係である。

 

家族において。

そもそも、無理なことをしているという自覚はとても重要である。

人間は基本的に相容れない。

それなのに、同じ屋根の下譲り合って暮らしている。それはまさに奇跡である。

力を合わせて生活を成り立たせている。

相手がいるのは当たり前でなく、家族がいることは当たり前ではない。

我が子が存在することももちろん当たり前ではない。

今のこの瞬間は、偶然にも与えられた非日常である。

だから、洗濯物を取り込むこと、ゴミを出すこと、皿洗いをすること、どんな些細なことも、すべてが本来自分でやらなくてはならなかったことで、やってくれただけで感謝しかない。

金を稼いできているからといって「家事育児は妻がやって当然」などと言うのは、とても愚かな考えである。

パートナーがいるから、生活が維持できている。いつ離れても不思議ではないのに、なぜか一緒にいてくれている。それが本来だが、当たり前だと思い込んで、感謝を忘れる。

お互いに損得と使役の関係になったが最後、それは小さな行政官僚制組織になり果てる。

つまり、クズの巣窟となる。

崩壊(離婚)するのは、当然の帰結。なぜなら、行政官僚制を布いた時点で、マックスヴェーバーの予言を再現するだけ。つまり「破綻」は運命づけられている。

 

いずれすべてが無に帰す

 

何もかもはコントロールできない。

自分自身すら、思い通りにはならない。

できることを、精一杯するだけ。それで100%である。

結果を期待しない。そして、恐れない。

自分のまごころが善だと感じることを、ただただ行うのみ。

本来それだけで、尊くて美しい。

それ以上のなにかは総じて虚飾である。不純物であり、オマケであり、娯楽である。

善行という生の本質から離れることなく、浮世の遊びとして楽しむ程度がよい。

借りものの身体を通じて、魂が震える体験をするための享楽。

その享楽にのめり込み過ぎて溺れると、苦しみと悲しみの多い人生になる。

エビデンスも法律も、しょせん言葉遊び。

良心だけが、唯一の羅針盤である。

この世界の計り知れない大きな流れに身を任せる。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

【メンタル】神経発達症のためのライフスキル「言いにくいことを伝える配慮」

私は他人に言いにくいことを伝えるのが下手である。

理路整然と話をまとめる技術と、伝わるように伝える技術は、全く違うベクトルだ。

論理的に構成がきれいでも、人間は機械ではないので、受け取り方は様々だ。

いくら理屈っぽく正しそうな話をしても、気持ちが伝わらなければその言葉は無駄になる。

では、どうすれば伝わるのだろうか、伝えたい思いをどう言葉にすればいいのだろうか。

その答えに近いものを発見したので、書き起こしてみる。

 

妻は、伝えるのが上手だ。

私は少なくとも警戒せずに聞くことができる。

多少耳が痛いことを言われても、心の扉をとじないで落ち着いて耳を傾けることができる。

それはなぜなのか、彼女の話の組み立てを分析してみた。

そして、以下の法則があることが分かった。

 

■言いにくいことを他人に伝えるときには話す順序がある

①感謝を伝える

②「助けてほしい」「困っている」と投げかける

③歩み寄り:こちらで対応可能な範囲を提示する

④提案:相手に「してほしいこと」を明確にする

⑤御礼:「話を聞いてくれてありがとう」「話せてよかった」

順番に解説していく。

 

①感謝を伝える

まず、「いつも有難いと思っている」「あなたがいてくれて助かっている」ということから話を始める。

私が今まで体系的に理解してきたビジネスコミュニケーションとは異なる。ビジネスシーンでは結論から話すことが最善とされているが、これは言いにくいことを伝える際には逆効果になる。

いきなり受け入れがたい要求をバーンと提示されると、人は必ず身構える。その瞬間から、私が話す言葉はもう相手の心に届いていない。耳を通過して右から左に流れていく。相手は、どう断ろうか、どう切り返そうか、を頭の中で考えているから、聞いていない。

まずは、私と相手の関係が大切で、私にとってはかけがえのないものだ、という共通認識を持つことからスタートするのがよい。

対話できると信じているから話をするし、大切だからこそ言いにくいことも伝えようと思う。

それを相手に伝えるには、感謝を言葉にすることが重要だ。

 

②「助けてほしい」「困っている」と投げかける

「Youメッセージ」と「Iメッセージ」というのがある。

「Youメッセージ」は「なんであなたは○○なの?」とか「どうしてあなたは○○してくれないの?」と主語が相手になる話し方。

「Iメッセージ」とは、「私は○○だと感じている」「私は○○で悩んでいる」という「私」を主語にした話し方。

「Youメッセージ」では話すと、相手は独断で断罪されているように感じる。境界線を侵害された痛みと混乱で防衛本能が働き「違う、そうじゃない」「私だって○○なんだ」と反発する気持ちが生まれる。

「Iメッセージ」で伝えられたとき、相手は自分を否定されているとは感じない。「ああ、あなたはそうなんだね」と思いながら落ち着いて言葉を受け取ることができる。

相手に言いにくいことを伝える、というのは、何か問題が起きていて、それを解決したいからコミュニケーションを取ろうとしている状況だ。

責任の所在は置いておいて、話し合ってその問題を解決することが対話の目的だ。

したがって、相手を責めても仕方がない。自分が過剰にへりくだっても仕方がない。

「悩んでいる」「困っている」「助けてほしい」その主体はあくまでも私だ。

「私は○○だと、とてもつらい気持ちになる、それで困っている、あなたの力を貸してほしい」

という具合に、まずは抱えている困難は何なのか、Iメッセージで伝える。

そうすると、相手は私がどんな状況で何に困っているのかが、抵抗なく理解できる。

 

③歩み寄り:こちらで対応可能な範囲を提示する

さて、困った状況をどうするか、に言及するフェーズだが、焦って④に行ってはいけない。

その前にやることがある。

それが「これからも良い関係を続けていきたい」という意思表示だ。

「歩み寄り」である。

相互の対等な関係である以上、こちらもできる限り相手に寄り添った形で着地点を探りたい。

私と同じように、相手にも権利と自由がある。それを最大限尊重し合って、お互いに納得できる妥協点を探すのが、コミュニケーションの基本原則だと思う。

一方的にこちらに有利な条件を飲ませよう、というのは、不誠実だ。コントロールであり、過干渉であり、傲慢不遜な相手に対する攻撃である。

私たちが争いたいのではない、話し合いたいのだ。

「これからもあなたとの関係を大切にしていきたい」

「だから、私としては現段階でここまでならできる、こういう工夫ならできる」

「逆に、○○は難しいと感じている」

と、今発生している問題に対して自分ができる事・できない事を提示する。

 

④提案:相手に「してほしいこと」を明確にする

そのうえで、自分の範疇を越えた、相手にしかできない事を、「してほしいこと」「教えてほしいこと」として提示する、または意見を求める。

「○○のとき○○をしてほしいと私は思うんだけど、あなたとしてはどうだろう?」

「○○なとき私は○○な状態にしたいんだけど、あなたはどう考えているか教えてほしい」

という具合だ。

相手ができそうだと感じるか、難しいと感じるか、尋ねる。

どの範囲までなら協力を得られるのか、教えてもらう。

それで初めて着地点が見えてくる。

もちろん、当初期待したほどの協力を得られないかもしれない。してほしかったことの100%は叶わないかもしれない。

でも、そもそも元の状態を考えてみよう。

相手が全く協力してくれないなら、それは0%。もともと0%だったのだから、協力してくれるというのはそれだけで有難いことだ。

私もあなたも、無理なく継続していくために、お互いが実現できる「協力」がそれぞれなんなのか、お互いに手札をすべてテーブルにさらして検討するのである。

一定の協力が得られないと達成できない事なら、現状二人だけでは達成できない、という結論を踏まえて、別の話し合いになる。

具体的にいえば、結婚生活の継続が達成できないようなら、離婚を視野に入れて関係の在り方を模索する、夫の協力が得られず子育ての継続が達成できないようなら、別居し実家に帰る・お金を払ってシッターなどの民間サービスを利用検討する、などである。

 

⑤御礼:「話を聞いてくれてありがとう」「話せてよかった」

結論は出ないかもしれない。

それでも、時間を取ってお互いの意見を交換することなしに、事態の改善を模索することはできなかった。

相手がいて初めて成立する「対話」という機会を設けられたことに感謝する。

「話を聞いてくれてありがとう」

「話を聞かせてくれてありがとう」

「あなたと話せてよかった」

そういう感謝の言葉で会話を締めくくる。

議論が平行線だったとしても、関係が大切なことには変わりない。その気持ちが相手に伝わる。相手は少なくとも「もう二度と話したくない」とは思わないだろう。

話し合いの機会が持てることは、こちらにとって有難いことであり、相手なくしては叶わない。

 

まとめ:私も相手も大切

全体の工程を通じて共通するのは「自分と相手を尊重する」という姿勢だ。

私の意見も大事。でも相手の意見も大事。

共同生活を送るためには、調整する必要がある。だから話し合う。

基本的に人は独りでは生きていけない。

だから、他人の存在には常に感謝と礼節をもって対応する。

かといって「他人がいないと何もできないのだから、ヘコヘコして機嫌を損なわないように無理をしなくては」というのは、違う。

なぜならそれは、自分を蔑ろにしているからだ。

自分も、かけがえのない大切な存在で、相手だってあなたがいないと困るのだ。あらゆる人は、老若男女問わず完全に対等である。

私は永らく、他人なくして生きていけない自分の脆弱さが許せなかった。

そんな弱いことだから他人と関わらなくては生きていけないのだ、苦労して他人のご機嫌取りをしないといけないのだ、人間になんて生まれなければよかった、来世は石になりたい…などと何度も何度も思った。

何かを成し遂げても誰かのおかげ、生きていることすら他人のおかげ、何もかも全部自分の実績として誇れず、誰かに感謝しながら生きていかなくてはならないのか、重すぎるよ他人の恩…それならいっそ死にたいよって感じだった。

でもどうあがこうと、私は弱いのだった。それはもうどうしようもないことだった。

そして安心したことには、他人も一様に、私と同じように弱いのだった。

全員弱い。

強そうに見える人も、偉そうにしている人も、誰でも他人がいないと生きていけない弱い生き物であることに変わりがない。

だから、ひとりで何でもできるほど強くなくていい。それは私も他人もそうだった。

なーんだ。

誰だって持ちつ持たれつだったんだ。

自分だけで生きていくなんて、人類には不可能なんだ。

だったら恥ずかしがったり負い目を感じたりすることないじゃないか。

そう思って一気に心が軽くなった。

お互いに対等な弱い存在。だから力を貸してくれるなら心の底からありがとうだし、力を貸せないときも「弱いんだからしかたがないよな」と許せる。

基本的に自分が生きるだけで精いっぱいの弱い存在が、何とか肩を寄せ合って生きている。

そういう認識で改めて振り返ると、対話というモノの尊さと有難さをしみじみ実感する。

【哲学】豊かさとは何か

「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ

 

この世は、物質的にはかつてないほど豊かになった。

街にもネットにも商品が溢れている。

SNSもyoutubeも、観ているだけでweb広告がひっきりなしに眼前に提示される。

「物質的な豊かさが人生の幸せなんだ」そういうふうに語りかけてくる。

しかし、私たちは本当に幸せだろうか?

若くして自殺する人は、この国では少なくない。

就職して結婚して子供を授かり、お金が足りないとあくせくしながら、義務に追われるように生きている。

やりたくもない仕事や家事に追われ、気づいたら1日が終わっている。

いつか自由になったらやろう。ボロボロになるまで我慢して働いて、気づいたときにはやりたいことができないくらい老いていて、時間も体力もない。

そもそも、やりたいことが何だったのかさえ、自分にもわからなくなっている。

こんな人生は、本当に幸せだろうか。

あなたは子供の頃から、そんなふうに生きていきたいと、心から願っていただろうか。

 

元々は、もっと自由に、やりたいことが山のように浮かんで、夜寝るのは惜しく朝が来るのが楽しみだったはず。

それが、物に埋もれ、義務に埋もれ、金に囚われ、世間体に囚われ、いつのまにか雁字搦めになり身動きが取れなくなってはいないだろうか。

その束縛が解けないまま、時間が矢のように過ぎていく。

そんなふうには、未来を描いていなかった人がほとんどではないだろうか。

 

欲望を削減する

ガンディーが弟子たちに示した戒律に「不盗」がある。

「不盗」とは、盗まない、ということ。

窃盗や万引きだけを言っているのではない。

必要量以上のものを受け取ることは、盗みだという。

「あの人の〇〇が羨ましい・妬ましい」と他人の何かを欲しがることを、人間の精神を貶める、最も陰惨な盗みだという。

欲しがるのは、今あるものに目を向けず、他人の何かを思い焦がれて欲望にうつつを抜かす。それはあなたの心を、あなた自身が盗んでいるということになる。

お金や物だけでなく、時間・エネルギー・機会もまた、奪ってはならない。

そもそも、この世のあらゆるものは一次的に預かっているもの。身体ですら、借り物であるといえる。

誰のものでもない物や金を不必要な分まで余計に蓄えるというのは、足るを知らないということであり、満たされない心が同時に蓄えられる。

つまり、借り物の物と金とセットで、その人は不安と恐れを溜め込む。

失う不安、奪われる恐れ。

だから、物質的・金銭的な豊かさは、不安と恐れが豊かなのであって、幸せとは対極にある在り方だ。

 

まとめ

無限の欲を駆り立てる現代社会。

金という幻想に左右される人間。

全て、今を生きていない。

欲と幻を追いかける虚構の世界のことわり。それを人々は「常識」とか「普通」と言って信仰する。

でもその宗教では、誰も幸せになれない。なれなかった。今どん詰まりにたどり着きつつある合理主義・資本主義・勝利主義社会が、それを証明したといえる。

 

幸せとは、あなたの心のなかにしかない。

誰かに与えられるものでもないし、一定の条件を満たさなければ見つからないものでもない。

ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。

あなたの心が答えを知っている。おそらく、ずっと叫んでいるはずだ。あなたが耳を傾けていないだけ。

物や金の先に、幸せは無い。

あったと思っても、それは酒を飲み過ぎた夜にふと目にチラつく幻覚のようなものだ。

 

一切合切何もかも制約がないとしたら。

あなたがやりたいことは、なんだろう?

あなたの心が喜ぶ行いは、なんだろう?

 

ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。

 

【メンタル】「他人」の目に縛られる人が抱える心の闇

阿波踊りを非難する人がいる。

新型コロナの感染拡大がどうのと言っている。

 

その背景は2通りある。

ひとつは、損得。

もうカラクリがバレてすでに一部の人には飽きられているものの、感染症に怯えて政府が推奨する感染対策を続けてもらわないと困る人間が、さらなる利益拡大のため、頑張って煽っている。ご苦労様。

こっちは正直どうでもいい。

 

もうひとつは、病。

こちらについて、今日はまとめていきたい。

 

「他人の幸せは自分の不幸」という洗脳

日本は戦争に負け、植民地となった。

多くの人は独立国家だと思っているが、実際は違う。

欧米諸国の言いなりで、彼らの利益のために飼われている。

近代化の名のもとに戦後教育が布かれた。洗脳するために。

西洋が先進的で正しく東洋は未熟で発展途上だと刷り込み、上書きしていった。

その結果、見事に思考停止の愚民国家に仕上がった。

彼らにとっては、いい仕事をしたというところか。

日本人を、アメリカ・ヨーロッパに憧れ猿真似をする立派なイエローモンキーに変容させたのだから。

 

義務教育は、都合よく動く奴隷が頭に入れておくべき予備知識を詰め込む洗脳教育として普及して久しい。

私たちは彼らに都合の良い情報を暗記させられ、ちゃんと覚えたか確認される。

定期考査という名の奴隷テストである。

「どれだけ物覚えがよく従順な奴隷か」を測定するテスト。これで横並びに比較される。

そして、この奴隷テストで偏差値が決まり、将来の平均年収が決まる、と脅される。

奴隷テストで良い点を取らなくては、限られた恩恵にあずかれない。

そうなれば、クラスメイトは仲間や友人ではない。敵である。

他の人間が良い点を取ることは、自分の奴隷としての順位を下げることであり、喜ばしいことではない。

 

こんな経験はないだろうか。

クラスで成績のランキングが発表される。

自分より成績の悪いクラスメイトを心の中で嘲笑いながら、何となく安心する。

自分より成績の良いクラスメイトを心の中で恐れながら、何となく「失敗すればいいのに」と妬む。

でも「友達とは仲良くするもの」と先生から教えられているので、そんなことは感じてはいけないと蓋をする。そして、表面上は仲良しこよしのフリをして、ひとりぼっちにならないように愛想笑いを振りまく。

集団から孤立したら皆のストレスのはけ口になってしまう。「生贄」にされないために、多数派に属そうとする。

自分がクラスのヒエラルキーのなかでどの位置にいるかを、内心怯えながら推し量って行動する。

そして卒業したら、特に何の関係も無くなる。

 

これは、一般的な学生時代の心理状態である。

ここで刷り込まれているのは「他人の幸せは自分の不幸」という前提だ。

ルサンチマンに駆られて奴隷同士でいがみあうように、奴隷同士で真の心の結束を持たせないように、自分の立場をわきまえて自制し権力者に逆らうことなど思いつきすらしないように、躾けるシステムが正常に働いている。

そのシステムにより。奴隷は他の奴隷の幸せを憎み、足を引っぱるようになる。

そうすることが、自分が幸せになるために必要だと、無意識に刷り込まれている。

だから私たちは、他人の不幸を蜜の味だと感じる。

他人の幸せな姿をみると、むかっ腹が立つ。

そういう風に教育されている、というか飼育されているので、それが自然。

 

他人を下げることで相対的に自分を上げたい

失敗した人、間違えた人を、執拗に叩くのも、よく見る光景だ。

なぜそんなにも攻撃的になるのか。

それは、自分が上がるには他人が下がらなくてはいけない、という相対的な価値観に囚われているから。

これも、丁寧に施された奴隷教育により、そう認知の歪みを起こすよう幼少の頃より丁寧に躾けられた成果だ。

 

自分の失敗は隠す、あるいは認めない。

失敗を隠しきれなかった人間に制裁を加え、地に落とす。

エリートほど無謬性の神話に囚われて、謝り方をまるで知らない。

失敗しないように生きてきて、失敗をどう謝罪すればよいかを知らない。

そんなことは学校で習わないから。

それゆえ、謝罪会見などは炎上する。

形ばかりの似非謝罪が書かれた紙を読み上げることしかできないので、謝意が被害者の心に届くことはない。そもそも、謝意そのものがない。自分がこれ以上責められないために、自己保身と自己弁護の言い訳を謝罪っぽく聞こえるように発声しているだけ。

謝罪する人間を叩く側も、受け取る気がない。

謝罪を要求するとき、基本的にその人間を貶めることを目的としている。

だから、言い回しや言葉尻を捕らえて挑発することでさらに失言を引きだそうとする。

社会的制裁を確定させ、対象が明らかな不利益を被る姿を見るまでは、執拗に攻撃する。

奴隷教育で培った「いじめ」のテンプレートに沿って、奴隷同士足を引っ張り合っているのが、ネット炎上の正体。

実に下らない。

 

本来、他人がどう生きようが、自分の人生の価値には影響しない。

その人にはその人の、私には私の与えられた人生があり、それぞれがオーダーメイドなので、比較することは難しい。というかできない。

そもそも比較できないものを比較しても、意味がない。

他人が何か嬉しいことがあってハッピーになったのなら、それは私にとっても良いことだ。

なぜなら、他人に良いことがあれば、その人は機嫌よく生きていられる。私は機嫌よく生きている人間といるほうが、不機嫌な人間といるより好きだ。ストレスがない。

一緒になって喜んでいれば、お互いにストレスなく生きることができる。

ひとつのパイを奪い合っているように錯覚させられているが、実際はそれぞれにパイは配られている。

生まれや運でそのパイの大きさは多少誤差はあるかもしれないが、他人のパイを小さくしても、自分の手元のパイは大きくならない。

それぞれのオーダーメイドのパイ生地に、どんなフルーツを乗せようか、どんな風に食べようか、ご機嫌に話していればよい。

それなのに、必死で他人が大切に抱えているパイを足で蹴落とし土をつけようとする。

自分には本来、何の関わりもないのに。無益なことだ。

そんなことをして他人のパイばかりに注目しているので、自分の手元のパイはいつまでも完成しないし、魅力的なものにならない。

そして目を離しているスキに、別の他人に蹴落とされる。

 

 

他人にも同化を強いるのは無理して我慢しているから

本当は、自由に生きたいと誰もが思っている。

しかし権力者の言うことをしっかり守るように躾けられてきた私たちは、ルールに自ら縛られる。

「法の奴隷」としての性質を合理主義・功利主義の観点から補強されるので、もはやそのルールの檻から抜け出せない。

 

教育もそうだが、島国として培ってきた陰湿な性質もある。

島では、物資も人も限られた環境であり、頻繁に争っては生活ができないので、できるだけ争わないようになる。

争わないようにはするが、人間同士なので不満は溜まる。

不満が溜まっても、生活のために我慢して合わせる。

そうなると、我慢するのが当たり前だと信じなくてはやっていられなくなる。

なので、我慢せずに思ったことを素直に言っている人をみると「自分だって我慢しているのにズルい」と怒りを感じる。

表立っては争えないので、怒りの矛先を向ける場所がなくなる。

 

この場合奴隷がとる対処方法は二つ。外に発散するか、内でわからないように攻撃するか。

 

外に発散するケースの説明として、沖縄がわかりやすい。

沖縄県民は「うちなんちゅ(沖縄の人)」と「やまとんちゅ・ないちゃー(内地人・沖縄の人ではない人)」を明確に区別する。そして心理的に距離をおく。

自分たちの結束を高めるために、外の人間である「ないちゃー」を仮想敵として活用する。その仮想敵に怒りの矛先を集中させることで、内部分裂を避ける。

 

内で分からないように攻撃する方法として、集団から孤立させる、というのがある。

よくない噂を流す、嫌がらせをする、などその集団からはじかれるように手練手管を尽くす。

うまくいって集団から排除できれば儲けもの。

排除できなくても、従順な奴隷同士で手を組んで、チクチク痛めつけて溜飲を下げる。

 

残念ながら、洗脳される前からそういう同調圧力の強さ、陰湿な性格を持った民族が、日本人である。

 

本質的な問題点は、納得して「我慢すること」を選択できていないことにある。

自分の判断が他人から与えられる損得か恐怖で誘導されているので、自己効力感がなく、納得感もない。

それが不満を感じる根源。

みんなで暮らしていくためにある程度の調和が必要であったとしても、アサーティブに話し合ってお互いに納得できる着地点を探すのが、本来の姿だ。

しかしそうした真の民主主義を実践する自我も勇気も持たない奴隷の我々は、こぶしを握り締めながら卑屈に引き下がる。

 

自分の意見を表明するのを恐れる。

他人と違ってはいけない、と周囲を窺う。

主張するに足る「正しさ」という保険を他人から持たせてもらえないと、何も言えない。

真の意味で、自分で何かを決定することができない。

だから生きていても空虚に感じる。他人の言いなりで今までずっと生きているから。

できないことをしている人を見ると、劣等感を感じる。劣等感を認めることもできない。

だから自由で素直な人を余計に攻撃せずにはいられない。

みんなで誰も自由にできなくすることで、各々の不自由を肯定する。

惨めな民族である。

不毛な社会である。

 

まとめ:全ての答えは自分のなかにある

義務教育のせいだ、欧米諸国のせいだ、民族性のせいだ、というつもりはない。

おそらく因果関係としてはそうだろう、という仮説にすぎない。

状況はどうあれ、その人の意思はその人のモノだ。何人たりとも奪うことはできない。

 

奴隷の哲学者エピクテトスはこう言っている。

自由意志は 盗人の手のとどかざる 財宝なり。

 

 

つまり、どれだけ不自由であっても、たとえ手足を拘束されていたとして、意思だけは誰にも奪うことができない、ということ。

五賢帝時代の繁栄を奴隷という立場で見せつけられ続けたばかりか、足を悪くして思うように歩くことすらできなかったエピクテトス。

その彼が言うのだから、説得力がある。

 

たとえ、年端も行かない子があなたを馬鹿にして傷つけようとしてきたとしても、「その指摘は事実ではない」と思うのであれば、真面目に受け取らないし腹も立たない。

馬鹿にされて傷ついた思うのは、相手が言ったことを「その指摘は事実だ」と思うから。

相手が言ったことを自分が「そうかもしれない」と認めていると腹が立つ。

他人がどれだけ口汚く侮辱してきたとしても、それが事実でないなら気にしなくてもいい。腹を立てる必要もない。幼子が言っているデマカセと同じなのだから。

相手が言っていることを気にしなくていいとしたら、どう行動したいだろうか。

その意思だけは、エピクテトス大先生も奪えないとおっしゃっている。

 

その意思は、いったいどこへ行ったのだろうか。

もしやとは思うが、自ら、譲り渡してはいないだろうか。

損をしないために?これ以上痛い目に遭わないように?あるいは、無意識に?

 

己の唯一の所有物を、他人に献上しているから、奴隷なのだ。

人生がいつまでも不安と恐れに支配されるのだ。

 

この世に生と邪があるならばこれは正ぞ。

たとえ死んだとてあの世で父祖にこう言える。

戦って死んだと。家族を守ろうと死んだと。

女房を取り返せ。

子を取り返せ。

国を取り返せ。

己を取り返せ。

 

全ての答えは、自分のなかにある。意思を取り戻すことで、奴隷から人間に戻ることができる。「生きている」と言えるのはそれからだ。生きるというのは、そういうことだ。

【哲学】あした死ぬかもよ?(ひすいこうたろう)

尊敬するマルクス・アウレリウスも『自省録』のなかでこう言っている。

今日まで君は、どんな態度で過ごしてきただろうか。

神々に対しても、両親・兄弟・配偶者そして教師や友人に対しても、誰に対しても、君はひどい扱いをしたり、ひどいことを言わなかっただろうか。

そして、君がこれまで経験してきたこと、耐えてきた困難を思い返してみるのだ。

君の人生の物語は、今ここで、終わった。

世のため、人の為にやれることはもうない。任務は、終了したのだ。

今こそ思い出すがいい。

これまで君が見てきた、美しいものを。

そして、どれだけ多くの苦痛や快楽に負けず、どれだけ多くの名誉に囚われず、どれだけ不親切な者たちに親切な態度を示したかを。

さあ、思い出してみるのだ。

 

 

彼は毎日ナイトルーティーンとして自らを振り返り、記録を続けた。

死すべき存在である自分を常に忘れず、一日一日を人生最後の日のように過ごす。

その生々しい人生の記録の集積が、この『自省録』である。

だからこそ手に取るたびに温かく清々しい気持ちを取り戻せる。

 

君も私も必ず、いつか死ぬ

これだけは失いたくない。

そういうものが、あなたにはいくつあるだろうか。

家族?友人?ペット?家や貯金などの財産?今の仕事のポジション?

 

残念ながら、私たちはそれらを、いつか必ず全て、失う。

死んだら、今持っている何もかも失う。

そして、それは誰にでも必ず訪れる終焉。

いつその時が来るかは、誰にもわからない。

明日かもしれないし、明後日かもしれないし、もっと先かもしれない。

でも、100%間違いなく、あなたは全てを失う。私も失う。

 

あなたは今日死ぬとして、このまま寝たらもう二度と目覚めないとして、どう思うだろうか。

 

決して誤解してほしくないのは、私はあなたに「だから頑張れ」などというつもりはないということだ。

今日が最後の日だと思って一生懸命やろうとか、そんな安っぽい自己啓発本みたいなことを言うつもりは毛頭ない。

人生最後の日だったとしても、頑張れない日は頑張れないだろうし。

 

「楽しかった、悔いはない」と思うだろうか。

私は人生山あり谷ありでエキサイティングだったので、今日死んだとしても別にかまわない。

結構満足だ。充分楽しかったし苦しかった。

美しいものもたくさん見ることができた。もうすでに、必要なものは与えられるだけ与えられたと思っている。

 

いろいろ失った。

出世の道は、懲戒処分によって失った。

もっと貯められたであろう給料のほとんどは、酒に消えた。

酒を飲んできた結果、アルコール依存症という病名を背負い社会的信頼を失った。

酒の飲み過ぎとタバコの吸い過ぎで、健康な体も失った。

コンクリに頭からダイブして前歯も失ったなぁ。

失ったものは数えきれない。

でも、本当にそれが必要だったかというと、そんなに必要じゃないと失って気づく。

肉体は、生まれた瞬間から失われ始める。そして、いつか必ず土に還る。

だからいずれなくなるものなので、失ったところで遅いか早いかの違いだ。

出世や社会的信頼も、死んだらもう関係ない。

給料や財産も、黄泉の国へは持っていけない。いくら貯め込んでも意味がない。

 

失うことは不幸ではない

不幸とは、失うことではない。

不幸とは、今際の際に「もっと○○しておけばよかった」と後悔することだ。

いくら分かりやすい価値に恵まれていても、死ぬ間際に嘆きながら亡くなるなら、その人の人生は不幸せだろう。

なぜ後悔するのか。

それは、心のままに自由に生きられなかったからだ。

 

あなたを縛る制限は、あなたの心の中にある。

「やりたいけど、やってはいけないことだから」

「今はもっと重要なやらなければならない(と言われている)ことがあるから」

「失敗しないようにしないといけないから」

「嫌われないようにしないといけないから」

「みんなと仲良くしないといけないから」

たくさんの「○○でなければならない」「○○しないといけない」で自分を縛り上げてはいないだろうか。

そうやって自分で自分を雁字搦めにして、思うように生きられなかったとき、人は死ぬときにこうつぶやく。

「そんなこと気にしないで、もっと楽しめばよかった」と。

あれもしたかった、これもしたかった、会ってみたい人にも会えていない、見たい景色も見れていない、本当はしたかったことが走馬灯のように浮かぶ。

そして、絶望のなか、目を閉じる。

そして二度と目覚めない。意識も肉体も、消えてなくなる。

 

どうせ死ぬのだ。

どうせ死ぬなら、好きなように思い切り生きよう。

 

私はお酒で大失態をして、懲戒解雇を検討されたことがある。

誰とも連絡を取るなと会社から厳命を受け、自宅待機を命じられた。

部屋に座り込んで茫然としていると、一日が終わる。そんな毎日を過ごした。

もう、社会的な死は免れない。私は終わった。そう思った。

よろよろとホームセンターに行って自殺用のロープを買い、どの山で首を吊るかをスマホで調べた。

妻に懲戒処分の検討中で、最悪解雇になるかもしれないと告げた。

「仕事なくなったって、また別の仕事探せばいいんだし。あなたが一生懸命に頑張ってたこと、私は知ってる。だからまあ、大丈夫なんじゃない?なんとかなるっしょ。人生なるようにしかならないし。」と笑いながら返された。

そっかぁ。じゃあ一回死んだと思って、生きてみようか。

そう思って今がある。

アルコール依存症の治療に向き合い、アダルトチルドレンの課題に向き合い、発達障害としての自分に向き合い、今がある。

私の死ぬ意志は本物だった。だから、もうどうせ一回死んでるんだし、ダメでもともと。

思いつく限り何もかも試してみて、それでもダメなら、そのときに終わりにすればいい。

何もかもやってみたけどダメでしたってわかってからでも、自殺するのに遅くはない。

そう思い直してふっ切れた結果、今がある。

 

己の声に耳を傾け、全身全霊で生きてみた結果、私が大事だと教えられてきたことは大して大事でもなかったことがわかった。

守らなくてはならない、と教えられてきたルールは、守らなくてもいいことがわかった。

失ったら大変なことになる、と教えられてきたが、失ってもピンピンして生きている。

教えた誰かが悪いのではない。彼らも自分を縛り上げていただけ。

自分を縛っていたのは、自分自身だった。自分自身の恐れと不安だった。

 

あなたは今日が人生最後の日だとして、何を思い、何をするだろうか。

今抱えている悩みは、人生最後の日にも悩むことだろうか。

人生とは、限られている。

偉大な何かから限られた時間を与えられていて、私たちはその「時間」という与えられた無形資産を消費しながら生きている。

あなたが今やっていることは、何もかもすべて、命を懸けてやっていることだ。

そう、命がかかっている。

Twitterをみるのもそう。Youtubeをみるのもそう。仕事の愚痴をいっているのもそう。仮想通貨の相場に一喜一憂するのもそう。子どもと昼寝するのもそう。愛する人に「愛している」と言葉を贈るのもそう。虫を捕まえようと必死に走り回るのもそう。ランニングをするのもそう。食事を食べるのもそう。顔を洗うのもそう。歯磨きをするのもそう。コーヒーを飲みながらテレビを見るのもそう。出世を気にして意味がないと思いながら無駄な仕事をするのもそう。嫌われないように愛想笑いを浮かべるのもそう。

あなたが今やっていること、今日やろうとしていることは、命を懸けてでもやりたいと心から思えることだろうか。

そうじゃないなら、やらなくてもいい。私が保証しよう。失ったってたかがしれている。

 

やりたいと思うなら、やればいい。

やりたいと思えることをやればいい。

あなたはいくら楽しんでもいい。

あなたはいくら失敗してもいい。

あなたはいくら嫌われてもいい。

 

あなたは、幸せになってもいい。

 

さあ、楽しい一日の始まりだ。

人生最後の今日を、はじめよう。

 

 

【哲学】クズがこの世に蔓延る理由(『ゴルギアス』:プラトン)

 

 

 

弁論術などの「技術」を使って「他人を支配すること」。

それは果たして本当に賢い優れた人間がすることだろうか?

この主題について書いた『ゴルギアス』に、今の社会の絶望が凝縮されている。

現代と同じく、古代ギリシャでも、人間は「コントロール欲求」と「権威主義」と「能力主義」に精神を支配されていたといえる。

人間って、本当に同じようなところでぐるぐると悩んでは彷徨っているんだな、と思う。

 

結局、弁論術にしろビジネススキルにしろ、私利私欲のための「技術」には、何の価値もない。

「自分が正しいと相手に信じ込ませよう」とか「相手を思い通りに操ろう」というのは、古代ギリシャの弁論家が駆使した弁論術の真の目的だが、これはまさに現代社会において「成功者」と世間的に評価されている人々が執着している思考と同じである。

一見すると「他人をコントロールする能力」というのは魔法のようで、得をする優秀な人間や勝ち組になる賢い人間であるための必要条件のように見える。

実際、現代社会のなかには、そのような魔法を使えるようになりたい、どんな手を使ってでも成功することが正義だ、と心の中で思っている人は多い。

そう思うので、自分を「成功者」として認識してもらえるように着飾る。

自分を大きく見せようとして権威を笠に着たり、結果にこだわり他人と比較して能力的に優れていると主張したりする。

しかし、お金や権力や名誉さえ一時的に手に入ってしまえば、何でも望み通りだと心から思えるだろうか、幸福になれるだろうか。

「いつか自分が大したことないとバレるのではないか」

「不正を暴かれるのではないか」

「認識をコントロールできなくなり、低く見られてバカにされるのではないか」

「成功者」を演じることで得た何かは、そんな不安と恐れを抱えることとセットではないだろうか。

抱えた不安や恐れをかき消すために、さらに欲望を満たそうとする。

そうすると、さらに不安と恐れを抱えることになる。

「欲望」と「業」の無限増殖を引き起こし、そのサイクルから逃れられなくなる。

「業」とは、罪と悪のこと。

「業」をたくさん背負うような人生は、罪と悪に塗れて生きる人生。

重すぎる罪と悪を背負って追いかけるほど、お金や権力や名誉は、人々にとって本当に生きるために必要だろうか。

 

一時的に他人よりも得することができた「成功者」がいたとして、損得で世界を考え自分の欲望を満たすことしか考えずに限りある一生を生き、その事実を認識していながら意に介さず死ぬなら、私はその人生を「虚しい人生」だと思う。

少なくとも、賢くもなければ、優れているわけでもないんじゃないかな、と思う。

なぜなら、社会的な評価(地位・名誉)や社会的な価値(お金)に翻弄されている時点で、その人は他人の価値観に支配されているからだ。

支配しているつもりで、支配されている。

「自分という人間は、他人が存在しなければ、他人が評価してくれなければ、自分の存在を確立できない、自分の不安をぬぐうこともできない。私はそういう軸のない人間です。」

そう証明しているに過ぎない。

自分そのものに向き合うことができなかったから逃げただけ。

死ぬまで他人の目ばかり気にして、自分と向き合うことから逃げ続けただけの人生。

その事実が内心恐ろしくて情けなくて、目を背けるために他人を「使う」という発想しかできなかった、哀れで可哀想な人だと思う。

同情はするが、尊敬とは程遠い。

 

本当に賢く優れている人というのは、自分そのものに向き合い、謙虚にあるがままを受け容れられる器の大きさを持っていると、私は思う。

最も恐ろしい人生の課題から逃げないで生きることこそ、最も難しいと思う。

その課題を生涯考え続けた人、たとえば哲学者などは、真の尊敬に値する。

 

現代においては、社会的に迫害されたり差別されたりして苦しんだ経験がある人ほど、そうした哲学的な真理に到達していることがある。

そういう賢者は、人々にわかりやすい煌びやかさや華やかさを持たない代わりに、穏やかで謙虚で、優しい。

損得で物事を考える人間からはバカにされていて、一見損をしているように見えるが、はるかに高い視座で世界をとらえていて、そんな世俗的な損得は意に介していない。

マウントを取るようなことをしないので、リラックスした状態でその人と関わることができる。

成功や失敗で他人をジャッジしたりしないので、その人には素直に想いを打ち明けることができる。

 

現代は、損得マシーンであふれている。

人間らしい生を生きることを、否定されて育つからだと思う。

 

私は、教師の先生方をはじめ教育現場に関わる人々は、本当に心から頑張っていると思う。

子どもたちが社会に適応できるように、社会で生きていくのに困らないように、必死で自分の時間を捧げていると思う。

その人たちを否定する気持ちは全くない。

 

個人の問題ではなく、社会システムの問題だと思う。

社会は、資本主義と権威主義に基づいて構成されている。

合理性と効率化という新しい神の信仰に基づいて行動するうちに、人としての本質を忘れ去った、空っぽの社会。

その空虚な社会に適応するという教育は、子どもから「善く生きる意思」を剥ぎ取ってしまう。

純粋な生命として生まれた子どもたちは、教育という拷問を受けて「今だけ金だけ自分だけ」の損得マシーンになる。

資本主義と権威主義の洗脳という拷問を何とも思わないような感受性の低い個体が、いわゆる「成功者」の才能を持っているといえる。

つまり、既存の価値観の型にはめられ雁字搦めにされても苦しさを感じず、他人の命令をただ遂行する学校生活に疑問を持たず、「成功者」という正解の裏にある罪と悪に呵責する良心を失うことができた個体である。

そういうのを、人々は一般的に「クズ」とよぶ。

クズこそ成功できるのが、この社会で、クズになるように教え込むのが、現代社会の教育ということだ。

だから、世の中がクズだらけになるのは当たり前だし、トップがクズのなかでも選りすぐりのクズなのだから、まともな世界にならないのが道理である。

古代ギリシャの時代から「本当にそれでいいの?」と疑問を呈してきた先人たちの取り組みもむなしく、今まさに世は大海賊時代…じゃなくて「クズの全盛期」を迎えている。

 

私はそのお仲間にはなりたくないので、これからも哲学から「善く生きる」という美しい信仰のほうを学んで、実践していきたいと思う。