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【仕事】製薬業界(MR)から異業種へ転職したい人への注意点

国内MR数 1年で2300人超減少 新型コロナの影響はこれから ミクス調査 

中堅企業の人事担当者からは、「今回回答したMR数に新型コロナの影響は入っていない。MRの存在意義が問われており、今後の数は読めない」との声が寄せられた。新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、デジタルによる情報活動は増加し、MRの医療機関への訪問回数は減少すると見る向きは多い。MRの役割や活動がポストコロナに再定義されたとき、業界のMRの規模もみえてきそうだ。

 

こんな記事に不安になったり、いつまでも在宅勤務で医療機関への訪問ができずに歯ぎしりしているMRは全国にたくさんいそうだ。

特に若い20~30代の世代は、「このままこの業界にいていいのだろうか?」「このままいつまでも外に出られずに気がついたら転職できない年齢になりリストラされるのでは?」と将来が不安になっているかもしれない。

国内の大手製薬企業にストレートで受かってくるような人だから、それなりの学歴で、自分自身をそれなりに優秀と思っているだろう。

しかし、人材としての市場価値があるかどうかは別問題だということと、現状の有難みを理解していないと、決断を急いで悔いを残すことになると思う。

異業種から製薬業界に転職してきた身として、業界の特殊性から転職を考える上での注意点をいくつか紹介したい。

 

①見積書や請求書を取り扱っていない異質さを自覚しよう

MRを一生懸命やってきたひとほど、「私は今まで『営業』の経験を積んできました!」という自負があるだろう。

しかし、実際はMRは営業をしているとはいいがたい。

やっていることは、情報提供。それだけだ。

見積を出し、納品し、請求書を渡しているのは卸のMSだ。私たちは医薬品卸に購入していただいて売上をあげているわけで、実際金品をやり取りしているのは卸だけだ。

特約店担当者だけが、会社の窓口として自社製品に関する生々しいお金の取引をしている。

実際、営業として異業種で働く場合、交渉がどれだけ上手で論理的で話術が巧みであっても、見積の出し方や他社との駆け引きによっていくらでも覆る。

決裁権が誰にあるか、顧客の部門予算は何月〆なのか、会社の体力を考えると何%まで値引き可能なのか。

社外だけでなく社内と常に交渉しなくてはならない。社内が動かないから、という言い訳は通用しない。結局顧客のニーズに合致する金額を社内から引き出せなければ他社に負けるし、いくら動いても売り上げが無くては利益が生まれない。

営業活動も、活動効率を考えなくては、粗利益からどんどん経費が引かれて純利益がなくなっていく。そうした経営者的な感覚で利益を生み出すべく動くことができる人間が、「営業」と名乗っている。

社用車が与えられて、ガソリン代を湯水のごとく出してもらえて、1日得意先を訪問しただけで「日当」という名目で非課税の2000円相当の経費がもらえる会社など、製薬会社以外ありはしない。そうした経費を勘案する必要のない恵まれた職場環境だったという異質さを認識しておくべきである。

 

②営業は売る方法や手段を自分で考える世界だと知ろう

製薬会社が恵まれているのは、発表用のスライドや宣伝資材がすでに完璧に用意されていることだ。

異業種から来た私としては中身をいじることができない、というのは逆に縛りがきつくて窮屈に感じてきたので、その面ではある程度営業活動に自由が利くことにMRはある程度喜びを感じるに違いない。

しかし、自由には責任がつきまとう。

どこかが責任をもってつくってくれていた資材を使うのとは違い、自分でつくり、会社に確認して、会社から了解をもらうという工程を踏まなくてはならなくなる。

実は自分が使う武器をいつも他の部署にアウトソーシングしていたということに気づくだろう。

そして、そうやって作ってもらっているものに文句を言ってばかりで、自分の責任でつくって実績を生み出したことが無いことに気づくだろう。

 

売る方法についても同様である。

マーケティングの部門がボストンコンサルティングやマッキンゼーに高いお金を払って市場分析してくれて、オピニオンリーダーにヒアリングまでして、「こうすれば売れるのではないか」という仮説を立てて、会社として推奨してくれるのは、製薬会社がリッチであることを象徴している。(だいたいその仮説が的外れなので、いつもがっかりするが。)

よくある一般的な企業には高いコンサル料を払う体力はないので、自分で売る方法を考えなくてはならない。

今まで売れなかったものを売る手法を独自に考えることは、誰も正解を知らないのでトライ&エラーの連続だ。失敗の責任はマーケティング部門のせいにはできない。売上の責任はすべて自分にかかる。

月末や年度末に薬剤部にお願いすれば買ってくれることなど無い。あんなのは粉飾決算である。返品ありきで購入してもらうなど、他の業界ではまずありえない。

本当の営業職は会社から言われたことをやっていれば給料をもらえるわけではない、ということに気づかされるだろう。

 

③福利厚生や年収は今よりダウンすることを覚悟しよう

正直、この仕事量でこんなに給料をもらえる仕事は他にはないだろう。

こんな楽な仕事はないと思う。めっちゃ楽だよMR。

接待やイベントへの参加が難しくなってきた今、ほとんどのMRは、毎日数軒の得意先を訪問するかWEB面談をしたりして、海外の論文をいくつか読み、英語の勉強でも隙間時間にしつつ、夕方になったら日報を提出して業務終了するような生活ではないだろうか。

営業は、粗利益で3人分の年収を稼ぐくらいで、一人前だと言われている。

そして粗利率は業界によって大きく異なるものの、数百万の取引では約15~20%程度。

つまり、今の年収を3倍して、その5倍の金額を年間で売り上げることができるかどうか、というイメージである。

例えば年収600万くらいだとすると、転職先の製品を約一億売ることができなくてはならない。その実力があるということを証明できる経歴だろうか。今のビジネスのノウハウで本当にそれだけの売上を達成できるだろうか。面接において、転職希望先の採用担当者を納得させられるキャリアのプレゼンができるだろうか。

考えてみてほしい。そういう視点で自身のキャリアを振り返ってみることがとても重要だ。

医薬品というのは、日常的に処方される。定期的に売れることが当たり前だ。

だから、今MRをしていて、毎日数十万売れていくのは当たり前だと思いがちだが、製薬業界の特殊性はここにもある。

一度処方を決めたらしばらくは毎日飲んだり定期的に投与したりする医薬品のような製品は、ベースの売上を構築しやすく、ビジネスモデルとしてはとても優れている。

そうした売上システムのサービスは、異業種だと携帯電話キャリアの定期契約だったり、機器のリース契約やレンタル契約に近い。いわゆる『定額制ビジネス』だが、これはとてもうまみのある、安定して収益が上がる構造なのだ。

しかし、物販だったり工事契約だったりすると、受注して支払いを確認したら、次をまた一から探さなくてはならない。商売の匂いを嗅ぎつけてあの手この手で群がる営業のなかで、コンペを勝ち抜き、高い勝率を保ち続けなくてはならない。

今日売れても明日売れる保証はないのがデフォルト。

そして、売れなければ居場所はない。

 

それに、製薬会社は、これから転職する会社より「法定外福利厚生」が充実している傾向にあると考えておいたほうがいい。

信じられないかもしれないが、企業型確定拠出年金(DC)すらない会社もある。家賃補助や交通費・家族手当などは無くなることを覚悟したほうがいい。というか、MRはかなり恵まれていて、ぬるま湯だったということを自覚すべきだと思う。

 

 

まとめ:安易にMRから異業種への転職を考えると痛い目に遭う

なんとなく、今まで積もり積もってきた愚痴というか鬱憤を吐き出しただけのような文章になってしまったが、感覚としては間違いないと感じる。

ずっと業界に違和感を感じてきた。

「世の中の仕事はMRよりもっと楽なもんだ」と思っている社員が、多いこと多いこと。

MRのほうが楽だから!こんなに給料もらえること自体がおかしいから!

と声を大にして言いたい。

 

現状に不満があるから異業種に転職したい?このコロナ禍で?

世の中を舐めるのもたいがいにしたほうがいいよ。

MRの経験だけで雇ってくれる一般企業なんて、今はほとんどないよ。

金銭感覚まずおかしいから。1個2000円とか3000円の弁当提供するのが当たり前の業種なんてありえないから。そんなふうに経費使ってサービスするときなんて、受注が確定した時だけだから!笑

そんな弁当をもらっておいて味に文句を言う取引先もあるので、たまげたが。そうした一部の医療関係者の金銭感覚に業界全体が引っ張られてきたというのもあるんだろうけど、浮世離れしていることを自覚しないと、本当に転職してから後悔すると思う。

そして、今は諸先輩方がやってきたような弁当や謝礼で釣る関わり方はもうできなくなっている。正直、やっていることは大したことがなくなってきた人が多いと思う。本当に存在意義が問われている。今、MRのままで自分のスタイルを改革するくらいの気概がないと、結局どの業種でも生きていけない、ジョブホッパーになってしまう瀬戸際にいると思ったほうがいい。

「そんなことはない、自分たちは医者と渡り歩いてきた経験があるし、薬学部を出るくらいには勉強もできたし、世の中のある程度の人間より優れているはずだ」と思うだろう。

ところがどっこい、お勉強ができてテストで点が取れて世の中に優秀な人材として求められるのは、「新卒というスペシャルカードがあるときだけ」なのだ。

勉強ができてもテストで点が取れてもたくさん暗記ができても、営業で生きていくからには今までとは違うサービスを生み出すクリエイティビティが必要不可欠だ。暗記や計算はもはやCPUのほうが早くて正確だ。そういうのは求められていない。

MRが本来強みとしていて、大切にしていたのに無くしてしまったものが、もっとも重要なものだったのだ。それは顧客のニーズととことん向き合い傾聴し、他の営業よりも早く、質の高い提案をもっていくということだ。以前は接待という名の深い付き合いのなかで信頼関係を構築し、先生方の右腕として陰ながら活躍してきたのが、MRだったんだろうと思う。

そうしたつながりは希薄になってしまったが、だからこそ今のこの難しい状況で転職に逃げずに創意工夫することにチャレンジできないMRが、他の業界に移って「優秀でデキる営業として即活躍できる」とは、私には思えないのだ。

 

現代のMRの強みとして、①論理的思考能力、②社内外で嫌われないための責任回避・危機回避能力、③英語力(海外文献を読み込み日常的に英会話を勉強しているMRのみ)④自動車運転の慣れ、が挙げられると思う。正直これだけってのはかなり心もとない。

もし今のこの強みしかない状態で転職するとしたら、同じ製薬業界内にしたほうがいいような気がする。

MR経験を活かしてオーファンドラッグベンチャーのMRに転職するとか、薬学知識と英語力を生かしてMA(メディカルアフェアーズ)やMSL(メディカル・サイエンス・リエゾン)として専門性をとがらせるほうがよっぽど現実的だと思う。地域包括ケアシステム構築のために必要不可欠なかかりつけ薬剤師として、患者さんに選ばれる地域の頼れる薬剤師を目指すのも素晴らしいことだと思う。

もしMRから異業種への転職を逃げ道に考えてフワフワしているとしたら、ちゃんと現実を見たほうがいい。

このままだと、多くの製薬会社の人間がどこにも行けない。

そうしたことは転職エージェントは商売をみすみす逃すことになるから言わないだろうし、面接でも直接教えてくれることはないだろうから、老婆心ながらちょっと書いてみた。

 

いずれにせよ、ここだけの話だが、製薬業界自体、もうかなり腐っている。

元々腐っていたが、もう回復の見込みがないほどの腐りっぷりだ。

このコロナ禍で、本当にはっきりした。絶望しかない。

今回のmRNAワクチンを世に出してしまったたことで、もはや後戻りできない一線を越えてしまった。これを理解していない人は多いが、もう決定的に道を誤った。

私は、もう製薬業界は終わったと思う。

これから就職する人は、絶対にやめておいたほうがいい業界である。

MRとして、製薬会社の人間として、生き残ろうというのはもうすでに破滅の一途をたどる道となった。未来はない。

そりゃ今の居場所に旨味はあるので、居れるだけはいるけど、絶対に長続きしないだろうから、泥船が沈む前に撤収するだろう。

そのために私は次に繋がるように働いているし、並行して勉強し他の業界で生き抜けるように工夫している。

だって、毒を売る会社が長続きするわけないじゃない。信用されるわけないじゃない。そんな会社に入りたい人が今後現れるわけないじゃない。

メガファーマのFとか、MとかTとかAとかは、遅かれ早かれ薬害訴訟だらけになると思う。

そして、誰も信用しなくなるだろう。『バイオハザード』シリーズのアンブレラ社のように。

もう、この業界からは、いつ足を洗うかというステージに来ている。時間は既に、ほとんど残されていない。

 

 

許しがたい罪は、いつの時代も、いつか贖われる運命にある。

人を殺めた大きな隠し事は、いつか白日の下にさらされ裁かれる運命にある。

オオカミ少年が、自分の嘘で己を追い詰めた。身から出た錆。

コントロールを手放せないACは、いつか底つきをする。

どうにもならなかったことを認めざるを得なくなる。

それは、必ず訪れる。

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

現代語訳:祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという物事の道理を示している。おごり高ぶっている人(の栄華)も長く続くものではなく、まるで(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう、まったく風の前の塵と同じである。

引用:平家物語『祇園精舎・冒頭』

 

 

【仕事】Gと仕事は似ている(※虫が苦手な人は見ないでください)

仕事がもうどうでもよくなってきた。

仕事のことをあれこれ愚痴ってきたけれど「もう、いいや」と思えてきた。

今も会議中だけどもう全然聞く気にならない。

それに対してイライラしてきたけど、もうイライラすらしない。

なお、Gとはゴキブリである。苦手なら速攻ブラウザバックしてほしい。

 

資本主義社会は好きじゃない

仕事は、生活するお金を得るために必要だからやっているけれど、本来したいわけがない。

お金が必要だからしぶしぶやっている。

できることなら、好きな本や映画を観て、他人に関わらずのんびり過ごしたい。

でもそんなことは不可能だ。

なぜなら、この世は資本主義社会だからだ。

何かメリットを生み出し、経済価値に還元しなくてはならない。

本当は、感謝されて、その感謝と敬意がお金として支払われるのが健康的だ。

だけど現実はそうではない。

本当は要らないものを必要そうに見せかけたり、業界を独占して提供するサービスの値段を吊り上げたりする。

なぜか?お金に対する恐れと不安から、よりたくさんのお金をより安定的に得ることを追い求めるからだ。

そのために、経済活動を突き詰めれば突き詰めるほど、本質を見失う。

要は、手段が目的になってしまうのだ。

本当に必要なものは何もしなくても売れるので、必要のないものをいかに騙して買わせるかというパワーゲーム・マネーゲームが目的になる。

本当は人と人とを繋ぐ一つの価値観でしかなかったのに、経済的価値は、人々の命と生活をお互いに縛り合う呪縛と化している。

だから楽しくないし疲れる。

人の役に立ちたいという誠実な願いを持つ人間が踏み台にされ「他人より優れていたい」「他人をコントロールしたい」という私利私欲に忠実な人間がのさばる腐りきった世の中。

それが今の世の中。

 

もうそんなもんだと思うしかない

仕事も、嫌すぎたら辞めりゃあいいし、結局どの仕事したって経済活動である以上、同じような人間の嫌らしさや醜さを見ざるを得ない。

それは、転職を経験してよくわかった。

規模の差でも、会社の差でもなかった。

この社会全体がもう醜く歪んでいるからだった。

最近そのことがよくわかった。

 

最終的には、この不快感を「人生の代謝物」として受け入れるしかないんだな、と悟った。

誰でもうんこすると思う。仕事はうんこだ。

どうしても生きていれば汚物を処理しないといけないみたいに。

仕事という呪縛も「変えられないもの」だと知った。

実際、今いる会社の規模がでかいことや、様々な組織が代々いろいろやってきたことの積み重ねで、今の私や私の家族が、社会生物として生きるうえで助けられている。

ゴキブリやハエがバクテリアと一緒に糞尿を分解してくれるから、地球の生命の循環が途切れないわけで、会社や経済的な繋がりは、まさにそんな感じだ。

「ぐえ~…気持ちわりい!」といくら嫌ったところでゴキブリやハエを絶滅させることは不可能だし、そんなことをしたら逆に困ることになる。また別の問題を抱えるだけ。

つまり私が、会社や仕事を「過度に恐れず」「過度に寄りかからず」うまく共生していけたらいいだけなんだよな。

いくら嫌っても仕方がないし、彼らは彼らの生き方を変えることはできない。

そしてもちろん、私は彼らの在り方を変えることはできない。

 

ゴキブリも仕事も 必要な世界の一部

ちなみに私はゴキブリを尊敬している。その不屈の生命力と身体能力の高さには、遭遇するたびに度肝を抜かれる。

でもゴキブリを嫌いな人は、見たくない、触りたくない、この世から抹殺されてほしい、という感じだと思う。私は仕事がそんな感じ。

でも仕事はなくならないし、生きていくためにどうしても付き合っていかなくてはならないものだ。

 

だから、もうしかたない。

嫌いでも割り切って適当に付き合っていくしかない。

そう思ったら、あまりイライラしなくなった。

 

バウンダリー(境界線)を引いて、侵略されたらしっかりアサーティブにコミュニケーションをとる。

ゴキブリに例えるなら、台所に現れてしまったら、目撃した個体をしっかり殺して、私の家の領域を守るために追い出す。

しかし、相手の在り方には干渉せず、違いがあっても、私が嫌いでも、存在を否定せずに、世界の一部として包摂する。

ゴキブリに例えるなら、世界の果てまでゴキブリを駆逐するようなことはせず、自分の家以外で目撃しても温かく見守る。

そんなふうに、お互いの価値観が違っても、境界線を守りながら存在を尊重する関係の在り方を、法人に対してもゴキブリに対しても適用していくのが、一番自然なんだよな、と思う。

私は少し大人になった。

【仕事】株主とオーナー社長のためにあなたが死ぬ必要はない

日本は大富豪たちに都合がいいように作り変えられてしまった。

このことを知ったのは最近だ。

もっと早く知っておくべきだった。

こういうことこそ、早めに教えておくべきではないだろうか。腹立つ。

真の教育・教養とは、世の中の闇を知って余計なところで力をつかわず、何を大切にすべきかに眼を開くことができるようになされるべきである。

 

私たちは奴隷であることに気づこう

まず、企業に勤めている人に聞きたい。

会社の指示や上司の言うことを真剣に聞いて、同僚よりも評価されようと必死に売り上げを追いかけ、昼夜を問わず家族も省みず働いているのではないだろうか?

YESと答えた人。即刻そんなことはやめていい。

現在、日本の大企業の売り上げは横ばいで、人的投資も横ばい(むしろ微減)である。

しかし、経常利益は何倍にも伸びていて、株主配当はその伸び率よりも高い。

これが何を意味しているか?

固定資産を売り払ったり借金をしたりして見かけ上の経常利益を上げているのは、それを株主のためにせっせと支払うためである。

従業員の給料や処遇は上げず、投資もせず、挙句は昨今などリストラの嵐にもかかわらず、である。

つまり大企業の従業員は、株主と株を保有するオーナー社長(CEO)のために働き続ける奴隷ということだ。

つまり、エリートだ大企業勤務だなどと、勝ち誇っている阿呆は、自分が目くそ鼻くそなのだということに気づいていない。

ロックフェラー系やロスチャイルド系の大富豪たちの養分になるための奴隷であることに、ホワイトカラーもブルーカラーも変わりはない。

本来仲間であるはずの日本国民同士でランク分けをして、両方奴隷なのに奴隷同士で勝ち組だ負け組だと争っているのである。笑える。腸ねん転を起こしかねない高度なギャグを展開しているのが、今の日本の現状である。

もちろん、国民同士のルサンチマン(恨み・妬み)を煽っているのは、財閥の息のかかったマスメディア。なぜか?本当の敵である自分たちに気づかれたら困るからだ。

つまり、ここまで読んでくれた懸命な読者はお分かりのとおり、現在大企業が掲げているお題目など金儲けを肯定するための建前に過ぎない。

「顧客のため」「患者さんのため」などとは、オーナー社長は露ほども思っていない。

日本人など奴隷のように働いて、外国人オーナーと株主のために苦しんで死ねばいいと思っているのだ。本当にそう思っている。でないと、日本という国家をここまで貶める行動ができるはずがない。

 

生活が苦しいのは私たちのせいじゃない

根本的に、日本政府もこの動きを助けるための政策しか進めてこなかった。

日本政府は日本の国民を守るために動くべきだが、先ほど話したお金持ちたちの傀儡と化している。

なぜか?

日本政府、特に政治家や内閣府や財務省の官僚は「国民がどうなるか」よりも「選挙や出世レースで他人に勝とうゲーム」のことしか考えていないから。

大企業の社員もそう。「出世レースで他人に勝とうゲーム」のことしか考えていない。

そうして、本当に日本を支えてくれている介護職やフリーランスや中小企業の人たちが貧困で苦しみ、死んでいくことを見て見ない振りをしている。

つまりこの国は地獄である。先進国などではない。もはや金持ちのための植民地、衰退途上国だ。

 

実際、日本の実質賃金は年々減っている。つまり給料が減っている。

婚姻率が減っているのは、とてもじゃないけどこんな年収じゃ結婚できないってひとが多くなったから。

稼げない若者が結婚できないから、当然出生率は下がる。

子どもが生まれないと、高齢化がさらに進んでいく。

高齢者ばかりになれば生産性は落ち、人口はどんどん減る。人口がいなくなれば需要が増えないので、投資も望めない。市場が拡大しないならマーケットに投資する意味がないから。

そうするとデフレから脱却できない。本当は自国通貨建てで国債を発行できる日本は国債を発行してお金を刷って市場に流通させるべきなのだが、プライマリバランス黒字化という愚かな目標に向かって出世しか考えていない財務省は、国債を刷ろうとしない。

つまり自分の出世のことを考えて、お金を世の中にまわそうとしない。

特に今は、デフレかつコロナ恐慌で多くの人が失業したり自殺したりしている。人がどんどん死んでいるにも関わらず、やれば助かる人が大勢いるのに、やらない。

そんな阿鼻叫喚を生み出している外国人CEOや海外投資家の株主や国内の財閥・政治家は、我関せず。

「市場として魅力がないから投資できないわーwもっと生産性を上げろーww」などと左うちわで好き勝手を言っている。

間接的な殺しが横行している。これに怒らないでいられようか?

私たち日本人は心底バカにされているのだ。

世界から金を生む奴隷扱いされているのだ。

それがこの国の現状だ。

世の中を民主主義的に変えられるはずの政治家は、自分の立場と利権しか考えていない。

大企業に勤めているひとも仕組みに気づかずに出世ゲームに興じて殺人に加担していることに自覚がない。

そういう人に踏みつけにされている人たちは健気にも「なんでこんなに働いているのに苦しいんだろう…わたしたちにちからがないからかな」と国が刷り込んだ「自己責任論」で萎縮する。

まんまと騙されたまま、まともに働きもしない他人に踏みつけにされていることにも気づかないで、自ら命を絶ち死んでいく。

この先にあるのは、日本の滅亡である。終わっている。そしてもはやこれはこのままいけば、ほぼ確実だ。

 

死ぬほど自分を追い詰めて仕事をしたりしないでいい

絶望してほしくてこういうことを書いているわけではなくって、要は「死ぬほど自分を追い詰めて仕事をしなくてもいい」ということを私は言いたい。

過労死をしたり仕事で失敗して自殺したりする人がいる。そういう人はこのコロナ禍でさらに増えている。

そんなことするのは馬鹿らしいから絶対にやめよう。

何かの事情で働けなくなったとして、当然の権利である生活保護を受けて働かずに生きても、何の恥でもない。そのために国家があり、福祉があるのだから。

「一度落ちてしまったら二度と這い上がれない」と心配になるかもしれない。

しかし、どこに勤めていても何で働いていても、日本国民である限りもはや今誰もが同じ奴隷状態なのだ。残念ながらみんな『負け組』だ。

這い上がる云々ではなく、社会が変わらなきゃもうどのみちみんな同じ末路だ。

 

大企業に勤めている人も目を覚ましてほしい。

同僚と争っている場合ではない。

自分の家族を含むこの国の人たちのために何ができるのか真剣に考えてやること以外は、マジで適当でいい。

仕事で多少ミスろうが何しようが、大した問題ではない。重要な社内プレゼンとか、夜テレビ見ながら鼻くそほじるのと同じくらいの価値しかない。そう思う私は最近全く力を入れてない。

適当にお茶を濁して、家族とちゃんと時間をつくったほうが何億倍も価値がある。

大企業で出世している人を「すごい」などと崇め奉る必要もない。彼らは会社にとって扱いやすい「奴隷度」が高いというだけ。より良い奴隷としての才能を認められしクズどもだ。「毎日毎日株主への奉仕活動おつかれさまです」とでも心のなかで唱えてほうっておこう。

働くうえで私たちは、自分がやっている仕事のうち「これだけは本当に社会の役に立つ」と信じられることにだけ力を注げば良い。

たとえば製薬会社のMRならば、薬剤の安全性情報の収集や副作用にどう対処するかを医師に伝える業務。そして地域医療に求められているエリア企画や橋渡しを会社の金を使って実現することだ。

薬を無理に売ろうとしたりする必要は全くない。薬の良い話を医師にしてもらう講演会を企画する必要も全くない。

そういう無駄な仕事でストレスを溜める必要など、実は全くなかったのだ。

そして、今はまだ生きていけても、自分たちが馬鹿にしている貧困層に堕ちるのは時間の問題だということに気づかなくてはいけない。

自分が生きている間は良かったとしても、子や孫は地獄を生きることになる。

 

この地獄でやるべき本当のこと

では、私たちはこのような地獄にあって何をこそすべきなのだろうか?

それは、目先の仕事ではなくちゃんとこの世の役に立つことを見定め実行することである。

具体的に言えば、先ほどお伝えしたように、自分が携わる仕事のなかで社会的意義のある仕事にのみ力を尽くし、真摯に取り組むことがベースになる。

 

そのうえでやらないといけないことは、ちゃんとこの国のことを考えている人の話を聞き、そういう人の話をちゃんと理解し信じて活動をしてくれる政治家に投票することである。

民主主義国家の国民として当然の権利と義務を果たす。それが最もこの世で有益な活動である。

「ちゃんと考えている人がわかんないんだよ」

「どの政治家が何を考えているのかよくわからないんだよ」

わかる。私もそうだった。政治家はどいつもこいつもハゲたクソだと思って「どれに投票してもどうせ腐ってんだから一緒だろ」と思っていたし、この国のことをちゃんと考えている人のことを「なんか胡散臭い」「批判ばっかりして、なんとなくかっこ悪い」と思っていた。

本当に恥ずかしい。私はそうだった。

そこで、私が思う「ちゃんと世の中のことを考えていて話が分かりやすい人」と、「ちゃんとこの国のことを考えて活動してくれている政治家」を挙げていきたい。

 

〇ちゃんと世の中のことを考えていて話が分かりやすい人

藤井聡 京都大学大学院教授(レジリエンス実践ユニット長)& 表現者クライテリオン編集長

三橋貴明 経世論研究所 所長

室伏謙一 政策コンサルタント、室伏政策研究室 代表

せやろがいおじさん おもしろくて頭いい芸人のおじさん

亀石倫子 弁護士

風間暁 児童保護司

松本俊彦 国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長(兼任) 薬物依存症センター センター長

(敬称略)

〇ちゃんとこの国のことを考えて活動してくれている政治家

あんどう裕(ひろし)衆議院議員(自民党 京都6区 ) =自民党なのにちゃんとMMT理論を理解して消費税減税と反緊縮を掲げている超珍しいまともな政治家。

 

私が応援したい人たちなので、別にこれらの人が誰にとっても素晴らしいと言い切るつもりはない。

しかしこのような「反骨」の精神を持つ人がいなくなってしまえば国は間違いなく滅びるし、私はそんな日本を娘や次世代を生きる子供たちに渡したくない。そんなことになったら死んでも死にきれない。強力な地縛霊になりそう。

今サラリーマンとしてやっている仕事は、そんなに真面目にしなくていい。どうせめっちゃ金持ちのどっかの誰かに働いた分だけチューチュー吸われるだけだ。

やめよう、そんな不毛なことは。命のほうが大事だし、大切な人と過ごす時間のほうが大事だ。

世の中の価値観が一部の人のために創られたクソのようなものさしだというのは、ここまで読めば明々白々。

こんな世の中で認められることなんて逆に不名誉だ。「世間」に認められるために生きるのがいかに愚かかわかるだろう。

それよりも確かなのはあなたの感覚であり、あなたの大切にしたいものだ。それこそが本当に大切なものだ。

社会的地位や名誉や年収はほんのこれっぽっちもものさしとして信用ならない。

それを心にとめておくだけで、精神疾患や依存症で苦しむ人はずいぶん減る気がする。

【仕事】「仕事」というゲームに殺されそうな人へ

皆が強制的に参加させられているゲームがある。

それは「仕事」だ。

「仕事」というゲームに今まさに殺されそうな人に、読んでほしくて書いた。

 

 

例えば、サラリーマン。

ゲームホストは経営者。ゲームプレイヤーは社員。

ホストがまずどれだけの利益を出すかを決める。

その利益を得られるように、ホストが「売上目標」を立てる。

「売上目標を達成する」というゴールをホストがプレイヤーに提示する。

プレイヤーに「時間」と「労力」をベットして、「承認」と「収入」を賭けて勝負する。

 

手元にある戦略・戦術のカードを切っていく。

お互いにババを押し付け合い、それでいて早くアガれるようにと画策する。

このゲーム、戦っているのは常に「社内」である。

他のプレイヤーは社員だからだ。

「競合他社ではないのか」って?

いやいや、競合他社はただの環境要因に過ぎない。

プレイヤーにとって重要なのは「自分が会社に他プレイヤーと比較されたとき、いかにより優れた評価をされるか」ということだけだ。

 

営利団体である限り、私益のために働く。公益に資する存在であるはずの政治家もそうだし、官庁もそうだ。

この国の組織はほとんどそんなふうだ。

 

人から褒められたい。人から尊敬されたい。お金が今よりももっとたくさんほしい。

考えているのはそんなことだけだ。

 

承認欲求を満たすため、己の懐を温めるため、時間と労力をベットする。

ゲームに勝てば、欲が満たされ、金が他人より多く手に入る。

 

世の中の、あんまり何も考えていない人や、このゲームが得意で勝てる自信がある人は、「世の為人の為」などということは頭にない。いわゆる社会的利益のことは、本当に考えない。

世間でいうところの『社会人』というのは、そういうペルソナのことを言う。

私益をめぐって人生を賭け続ける、ギャンブル型リアルシミュレーションゲーム。

このゲームに何の疑いもなく己のすべてをベットできる人たち。ある意味幸せである。

 

矜持など無い。

他の卓(競合他社・異業種など別の利益団体)でこっそり交換したカードを切って自社のライバルを出し抜いたりすることを「関係構築力」「人脈の有効活用」などとビジネスでは綺麗にな言葉でもてはやす。

配られるカードはホスト次第だし、そもそも卓がクソだったりする。

 

ではホスト(経営者)になればいいのではないか?と言えば、そうでもない。

「国」というカジノの総元締めが、メンバーを集められずゲームを大規模にできない卓を、つぶしにかかるからだ。

ホスト同士も、他人を遊ばせながら、他のホストより多くの「時間」と「労力」をベットさせて目的を予定通り達成するというゲームに興じている。

勝てばホスト続行。負ければホストから、観客(無職)か、プレイヤー(雇われ社員)に転落だ。

 

品のないクソゲー

このように、この世で「仕事」と一般的に呼ばれているものは、ただのゲームでしかない。

そして、このクソゲーは命を賭してやるほど面白いものではない。

いや、語弊があるな。このゲームのとらえ方は人それぞれだろう。

だって、大切な人を養うためにと過労死するほど命をベットする人もいるし、ゲームの進捗さえ順風満帆なら家族など省みない人もいる。

金を稼ぐという「業」。業とはカルマ。報いのもととなるすべての行い。

稼業というゲームでの行いは、全て己に還ってくる。報いを受ける。

 

このゲームは品がない。

人間の醜い面を、これでもかと表にえぐりだしてくる。

自分だけが得をしようという利己心の醜さで、世界中で殺し合いを始めるほど荒れている。

ビジネスとはある種の殺し合いだ。略奪合戦に他ならない。

プレイヤーにとっても、ホストにとっても、常に他人を自分と比較し、他人を蹴落として自分が一番になることを目指すゲームだから。

だから「勝ち組」「負け組」などという概念が生まれる。

 

結局このゲームの業とは、参加する人の魂を貧相にする、ということのようだ。

だって一つのゲームしか認めないなんて、そんなゲームセンターおもしろいか?

価値観が硬直化している。画一的すぎる。だから、箱としておもしろみに欠ける。

しかし今の世の中は、一種類のゲームしか推奨していないゲームセンターみたいなものだ。

一生「仕事」というババ抜きをやっているしかない、と親や教師やどっかの知らない偉い人に言われて、言われるがままわけもわからずぶち込まれるのだ。

もう本当に最悪だ。

一生懸命やってもゲームで得られるものは、金という紙切れと他人から与えられた偽りの承認欲求だけ。

そんなもん、徳が高くて品がある人からやりたくなくなるに決まっている。

 

だから、徳のある人ほど、ビジネスから遠ざかるように思う。

ビジネスという品のないギャンブルに溺れて腐ってしまった社会には、とても適合することができないから。

「社会人」というのが優れていて「社会不適合者」は劣っている。

そんな風に世間では勘違いをしているけれど、実は逆だ。

こんな社会に適合できるようなギャンブラーのほうが狂っていて、社会不適合で悩んでいる人のほうが正常なのだ。

良心と道徳心があるからこそ、こんなギャンブルにはとてもじゃないけどずっと「時間」や「労力」を使っていられないのだ。

 

まとめ:夢破れた君へ

「ありがとう」

「あなたがいてくれてよかった」

そんな温かい言葉が形を変えてお金となり手元に届く。

感謝と感動がお金に変換され、労働の対価として受け渡される。

だから、仕事は素晴らしいものなんだ。

 

そんな風に考えていた時期が私にもあった。

 

稲盛和夫の本なんかを読んで仕事に青い夢を抱いていた当時の自分をグーで殴りたい。

「目を覚ませ」と、肩を激しく揺さぶりたい。

 

仕事にそんなことを期待してはいけない。

これはただのつまらないゲームだ。ただのつまらないギャンブルだ。

人生を賭けていいような代物じゃない。

 

そんなことのために私たち一人一人の命があるわけじゃない。時間があるわけじゃない。

もっともっと貴重なものだ。つまらないゲームなんかで浪費してはならない、とても大切なもので、かけがえのないものだ。

 

だから、仕事がうまくいかないからと言って、ダメな人間だと思ったりするんじゃあない。

だかが一つのゲームにすぎない。

このゲームが苦手なら、それでも全然かまわない。

何にどれだけ「時間」と「労力」をベットするかは、私たち一人一人に選ぶ権利がある。

そう、どのゲームに力を入れるかは、君も私も自由に選べる。

私もそうだが、他のゲームを楽しむために、君もこの世にログインしてきたんだと思う。

この仕事というクソゲーはそこそこにしておいて、一緒に他のゲームで遊ぼうよ。

もっと楽しい、もっと素敵なプレーヤーと遊べるゲームがきっとある。

それをやらずにログアウトするのは、もったいなさすぎる。

 

「仕事」なんて人生のほんの一部なんだ、という、よくあるありきたりな話を長々と喩え話を交えながら文字にしてみると、こんなふうだろうか。

「仕事」というゲームに今まさに殺されそうだったいつかの私に向けて、今の私が書いてみた。

【仕事】仕事で他人にマウントを取るの、もうやめました。

今日、私が今まで担当していた仕事を引き継いだ同僚Aさんから電話があったんですよね。

 

Aさん「B(私が担当していた取引先)って、訪問してました?」

私「あー、手紙を出したり訪問したりはしていましたが、ついぞ会えませんでしたね。」

Aさん「あー(笑)私、運がよかったのか、アポイントもらえたんですよ」

私「おおおおー!!マジですか!!よかったですねー!!(*^-^*)」

Aさん「・・・」

私「すごいですねー!!私は会えなかったから何もお伝え出来ることがなくて申し訳ないですが、アポイントぜひがんばってくださいね!」

Aさん「ええ、まあ、・・・はい」

 

「?…なんか歯切れ悪いな」と思いながら電話を切りました。

なんか私が一緒に喜んでいることが意に反しているというか、若干不服そうだったような…なんなんだろう…この違和感。

 

後で考えてみて「ああそうか」と分かり少し寂しくなりました。

彼は、私と一緒に喜びたかったのではなかったのです。

彼は、「ちあきが今までできなかったことをできた俺はすごい」と私に思ってほしくてマウントを取ろうと考えた。

不安に揺れるろうそくの灯のような自尊心を少しでも守りたかったのでしょう。

私は、私の力には限界があること、他人には私にない可能性があることを知っています。いや、理解しようとしています。

だから、当然私には出来ることと出来ないことがあり、私が出来ないことを彼が出来たとして何の不思議もない。

そして、それは喜ばしいことなのです。

得意先に良い影響がもたらされればいいわけだから、私に出来ないことをかれがやってくれたなら、それは私にとって嬉しい報告でしかない。

彼は、私が悔しがり、彼を「すごい」と仰ぎ見ることを期待したのだろうけど、あるがままであれば、私に対してはただそれだけで「尊重されるという目的」はすでに達成されている。わざわざマウントを取る意味はないのです。

 

・権力がほしい

・お金がほしい

・ほめてほしい

・居場所がほしい

 

そういう切なる願いで、一生懸命仕事で認めてもらおうとする事も、また人の営みなんですよね。

最近は「私にもそういうときがあったんだもんな」と、そういうマウント合戦を仕掛ける人を、一歩引いて温かい目で眺めていられるようになってきました。

私をみくびり「俺の方が優秀だ」という気持ちをチらつかせずにはいられないのです。

自分だけで何かを成し遂げることなどほとんどない。

それなのに、他人にやってもらったことの有難みに気付けずにいるのです。

それは、己のなかの不安と焦りを見ないようにしているからです。

それは、かつての私そのものです。

 

「相手に勝ってやろう」

「己の力を、強さを、存在を誇示したい」

「俺を見ろ」と。

そんなことのために剣は、武はあるのかね?

我々が命と見立てた剣は、そんな小さなものかね?

 

出典:『バガボンド』第7巻

 

誰かより上か下か。

そんなことは、どうでもいいことです。

 

私が目指している状態=真理に近い状態 に近づけるかどうか。

それだけが重要なことです。

 

真理に近い状態とは、もともとのありのままの姿に戻ること。

それでいいと思えるようになること。

これこそが、最も重要で難しいこと。

この世のすべて事象は、私の肉体や精神すらもその到達のための道具です。

そう捉えると、道具に良し悪しなど無く、較べることなどできない。

だから、他人と比較する必要が全くないことに気づけるのです。

 

「体を使えと……もらったこの体を使って知れと……何を? その前のもともとの俺をーー体がそういうものだとしたら 俺だけじゃなくてこの世のもんすべてが それを知るためにあって いやものだけじゃなくて人も 出会う人も 父も母も すべてそのために出会うのなら……ほんとは誰も恨まなくていいーーそういうことなのか……?」

出典:『バガボンド』第32巻

 

「誰かを恨まず、誰かのせいにもせず、あるがままを生きる」

 

どうやれば売上が上がるか、そのためにやればいい事は何か、は限られていて、もう大体分かりました。

だけど、それよりも大事な事があります。

だから、私は残りの限られた人生をそっちに割きたい。

たとえば、家族と過ごす時間とか、売上に直接インパクトはなくても、自分が世の中にとっていいと思う活動とか。

 

それは、私が全身全霊で私であることの裡に在るということ。

それが最も自然で、最も価値があり、最も生産性が高いのです。

今のど真ん中にいるために、己であることを徹底する。

それが、最も良いことだと悟りました。

 

だから、会社の人たちと話が合わなくて今まで悩んできましたが、唐突に「もう合わなくていいんだ」と思えるようになりました。

忙しなく己の立ち位置を気にして戦々恐々とする同僚たち。

彼らにマウントを取ろうとされても取り合わず「焦らずとも大丈夫ですよ」というくらいで、心を揺らすことなく終えることができるようになった自分に、確かな手ごたえを感じます。

 

彼らもまた、彼らが好きなようにやればいいのです。

その過程で、大事なことに気づける人は気付くだろうし、気づかない人は気づかないのだから。その人にとっての最適なタイミングが、きっとくる。

それは私には変えられないし、関わる必要もないことです。

「がんばって。お互い、いいことあるといいね。」と思っています。

それしかもうかける言葉がない。

 

親が子供の独り立ちを見守る気持ちは、こんな感じなのかもしれません。

己が己を見失わない限り、与えられるすべてのことは、必要なことにたどり着くために用意されたものです。

だから、もう自然に任せていい。いや、むしろ任せるしかないのです。

コントロールすることなどできない。

やりたいようにやってみて、その結果を受け容れる。

私たちがやれることは、ただただ、それだけなのです。

【仕事】製薬会社のMRがオワコンと蔑まれるようになった本当の理由

MRとは「Medical Representative」の略で、日本語では「医療情報担当者」つまり製薬会社の現場担当者である。

日本のMRは、海外に比べてその存在を尊重されていない。

海外旅行で出会ったチェコ人やアメリカ人に「何の仕事をしているのか?」と聞かれて「私は日本でMRをしている」というと、握手を求めてくれたりする。

日本以外では握手を求められるほど素晴らしい職業だと認識されているということだ。

日本と海外では、なぜこれほどまでにMRという職業に対する認識に違いがあるのだろうか?

 

売れればなんでもいいという医療従事者としての意識の低さ

海外のMRは接待が違法だ。法律で禁止されている。

だから絶対に個人的な癒着などで処方をお願いしようなどとはしない。

あくまでも、MRとしての技術や能力で医師に貢献するため、深い知識を身に着けて対等にはっきりと医師に対して提案し主張するべきを主張する。

そういう誇り高い働き方をしている。

 

一方、日本のMRはといえば、勝てば官軍負ければ賊軍、と言わんばかりで、とにかく自社の製品が売れさえすればいいと思っている人間が大半を占めている。

ルール内でありとあらゆる手を尽くす。ときにはルールを逸脱してでも倫理観や医療従事者としての規範を放り捨てて売り上げのほうをとる。

そういう下品さが、日本におけるMRの特徴だ。

 

なぜそんなに下品になってしまったかと言えば、どれだけ医療に貢献していようといまいと、結局は売上で評価されるからだ。

そりゃあ、現場感覚も歪むだろう。

副作用情報を一回も聴取したことがないMRがマネージャーに昇進したりするのだから、(真剣に症例に向き合い、医師と薬剤の話をしていたら確率的にはあり得ない)部下はとにかく売上さえあげておけばいいと思って当然だ。

副作用(AE)情報の収集などは、売上に関係のない『余分な仕事』だと本気で思っているMRが今もまだいることに、私は驚きを隠せない。MRにとってAE情報収集は最も重要な仕事のひとつであり、むしろそれさえちゃんとしていれば本邦においてもまだ存在意義があるんじゃないかと思うが、AEの収集や薬剤の適切な処方方法についてフラットな話ができないようでは、本当に居る意味がない。本当に要らない。

患者さんを大事にしようがしまいが、とにかく薬が売れればいい、それが今まで現場を跋扈していた「デキるMR」という痛い生き物である。

 

MRに対する医師の不信

だから医師は、MRが話すことなど信じなくなってしまった。

「結局こいつらは売れさえすればいいのだ。いいことしか言わない。」

「売り上げに影響しそうなマズい情報は、本当に大事な情報だったとしても隠すやつらだ。信用ならない。」

そうやって諦められてしまった。

だから、訪問を断られる。

なぜなら、話す価値がないからだ。

そりゃそうだ。自社に都合のいいことばかり言って、本当に伝えてほしいリスクの部分をちゃんと伝えないような人間に会う時間は、唯々もったいない。私だって断るだろう。

医師はMRに会うよりも、ネットで情報を集めるようになり、何か困ったら製薬会社の問い合わせ窓口に電話するようになった。そのほうが正確だし早いから。

本来MRが充足するはずだったソフト面のサービスを、他で代替せざるを得ない状況をつくってしまったのは、製薬会社自身である。

売上で評価して、数字として表れないMRとしての働きを評価しなかった。そういう人事面での評価を簡略化した怠慢が、信頼の喪失という最悪の形で表出しているに過ぎない。

MRの技量不足ではない。会社のそもそもの体質と経営方針が、問題なのだ。

 

迷走する哀れなMRたち

信じてもらえないから、より屈折したアプローチに傾倒していくMRたちを何人も見てきた。

会社が信じてもらえないから、自分という人間を信じてもらえるように頑張る。それはすなわち個人的な癒着に他ならない。

そんなMRを取り巻く環境は、コロナ流行以前に比べて、以降は特に厳しい。

「会わなくてもあまり医療に関係ないんだ」ということが、医師にも会社にもわかられてしまったと言ってもいいだろう。

それは製薬会社そのものが、本来あったMRの役割や良さをどんどんこそげ落としてきたからだ。しかし現場のMRたちは、少しずつ会社に洗脳され、じわじわと翼を毟られていたとは、今まで自覚してこなかったので、自力では飛べなくなっていることに今更気づいて青ざめている。

そういう意味では、そもそも医療者として思慮が浅すぎることこそMRの罪だったのだが、いまさら言っても詮無き事。

会社が言うとおりに訪問して、製品をコールしてコールして、売上が上がれば褒めてくれる会社のためにシャカリキになって頑張った。そんな共依存的で忠実な奴隷社員が、今マネージャーとして現場を統括しているのだから、もう目も当てられない。

もう会社に褒めてもらうというくだらない承認欲求のために、一度しかない貴重な人生を犠牲にするべきではない。

早期退職制度が各製薬会社で推奨されはじめて久しいが、ついに先日武田薬品でも開始されたとニュースになっている。「フューチャー・キャリア・プログラム」などと呼称し、「キャリア支援の一環」と称してはいるが、とどのつまりはリストラである。

今までのような会社の奴隷ではなく、地頭で考えて社内評価などという些末な価値観に左右されない医療従事者としての矜持と信念を持った者でなければ、もう務まらない職業になってきた。

そして、それはあるべき姿に戻ろうとしている過渡期の姿でもある。

 

これからあるべきMRの姿

正直、訪問や情報伝達は、2〜3ヵ月に1回でいい。

①取り扱っている製品知識と②製品の対象疾患知識、③対象疾患に関連する併存疾患知識。これを医師とディスカッションできるレベルにすることが前提条件である。

今までのMRは勉強しなさすぎ。せめて上記の3つは会社の教育制度に頼らず、毎日勉強してしかるべきだと思う。

勉強と称して日々受けさせられていた製品の社内教育は、聞き流しておこう。

売るためだけの指導プログラムはもう要らない。そういう社内教育は全部無視していい。会社都合の洗脳プログラムであり、聞くだけ無駄。

また、これは本社マターになるが、マネージャー登用はマネジメントの能力を評価する独自のジョブポスティング制度を設けて、実績にかかわらずマネジメントの能力でポジショニングするのが良い。

そうでないと、またしょうもないマネージャーが量産されてしまう。現場で実績を残せる人と、素晴らしいマネジメントができる人は、イコールではない。そもそも特性が違うし、役割が違う。

マネージャーを昇進と位置付けるからおかしなことになる。「かつて売る技術に長けていた者が売りつけるノウハウを部下に教える役割」と勘違いしているマネージャーが多いようだが、そんな役割はもう要らないし、そもそも売ることが目的ではない仕事でこれ自体おかしい。

マネージャーは、MRに適切な情報活動ができるようサポートするJOBのひとつ。

そうなりたいひとが現場を経験しながらマネジメントを学び、ジョブポスティング制度でテストしてから配置して、現場で適性が確認された者のみを採用しつづければよい。

今後、そうした在り方が正しかったということを、自分の身をもって証明していけたらいいな、と思う。

【仕事】製薬会社の限界について考える

私は製薬会社で働いているのだが、どうにもこれはもうやばいな…と思っている。

先日会議に出てストレスがたまったので、割といろいろぶっちゃけてみようと思う。

 

自社の医薬品をいかにたくさん売るか?しか考えていない

大義名分としては「患者さんを第一に」とか言っているけれど、結局は売れればいいのである。

そういう下心をもっている人が多い。だからこそ人を見るプロである医師にも見抜かれていて、あまり信用されていないのがMR(製薬会社の営業みたいなもの)という職業である。

海外ではMRといえば医薬品のプロとして重宝され医師と並ぶほど社会的地位も高いのだが、この日本においては「医者のご機嫌取りをする金魚の糞」みたいな感じである。そして結局そういう前時代的な在り方が良しとされ、医療スタッフのみなさんからは「弁当屋さん」などと侮蔑の意味を込めて呼ばれてきた仕事だ。

なぜ弁当屋?と思うかもしれないが、製薬会社は勉強会のときなどに医師や看護師さんたちにいい気持ちで説明を聞いてもらおうと、せっせと弁当を運んでくるからだ。むしろ先生方からすれば「弁当をタダで食べたいからしつこいMRのために勉強会をやらせてやっている」という感じだ。

 

MRとはそもそも、営業というよりは、医薬情報を扱う担当者である。

MRの仕事は医療機関を訪問することにより、自社の医療用医薬品を中心とした医薬情報(医薬品およびその関連情報)を医療関係者(医師、歯科医師、薬剤師、看護師など)に提供し、医薬品の適正な使用と普及を図ること、使用された医薬品の有効性情報(効き目や効果的な使い方)や安全性情報(副作用など)を医療の現場から収集して報告すること、そして医療現場から得られた情報を正しい形で医療関係者にフィードバック(伝達)することなどを主な業務としています。

引用:公益社団法人MR認定センターHP

医薬品を適切に使ってもらうために、使い方や有効性・安全性などを伝達する人で、医療現場で副作用が起こった場合はその対応方法をすばやく伝達し、会社に報告して医薬品のリスクについて情報収集することを主としている。

売ることが目的とはどこにも書いていない。

だから、そもそも、優秀なMRでありたいのならば、きちんとそうした医療機関のニーズに対応できさえすれば、自社の医薬品が売れる必要はないのである。ボーナスが下がり、昇進できないだけで。

しかし、会社はせっかく開発したんだから高い薬価でたくさん売りたいし、それを元手に開発を進めて新しい薬を生み出さないと生きていけない。なぜなら薬を創っても、特許が切れたらやっすいジェネリック医薬品にとってかわられるからだ。常にいい薬を生み出し続けなくては生きていけない。

だから、会社はできるだけ売れるようにマーケティング部門や製品教育部門を動かす。

マーケティング部門は、できるだけたくさんの患者さんに投与してもらえるような患者さん像をイメージして、そのような患者さんに投与すると効果があると信じてもらえるようなデータを収集する。

そのような自社に都合がいいデータをうまく紹介できるようにMRを洗脳するべく、製品教育部門が社内研修を頑張る。それはしばしば偏っていて少々強引である。

洗脳されて「自社製品はこういう患者さんに投与されるべきなんだ」と信じ込んだMRが会社に教えられたとおりに先生に伝えに行く。

医師は内心『ああ、こいつは会社に洗脳されているんだな…でも会社からこれを言ってこいって言われてんだろうな…可哀想だからちょっとだけ聞いてやるか』という憐みの気持ちで話を聞き、あまりにもしつこいので「わかった、使ってみるよ」とMRが上司に報告するために言ってほしいであろう言葉をしぶしぶ伝えて早く帰ってもらおうとする。

こんなのが製薬会社の実情である。

新卒で入社する会社を選んでいるなら、製薬会社はやめておいたほうがいいと思う。

社内会議は売り上げで横並びに営業所やMRごとに比較される。なぜうまくいっていないのかをプレゼンさせられたり、うまくいっているように見えるMRが自慢げに、自分がいかに優秀かを、社内にアピールする。他人のオナニーを見せられるのは苦痛以外の何物でもない。

社内教育の時間も、無駄で長い。重箱の隅を楊枝でほじくるような質問を上から目線で製品教育部門の社員からされて嫌な気持ちになる。みんなの前で当てられて、答えられなければ「こんなこともわからないなんて」と高圧的な態度でさらし者にしてバカにしてくる。そういうプライドがエッフェル塔のように高い人たちがひしめいてマウントを取り合っている業界なのだ。

たまに「いやー…もうこれ可能性のレベルで絶対先生に話しても鼻で笑われるだけだよ」っていうデータを紹介してこいということがある。「なぜこのエビデンスレベルの低いデータをもとに処方提案をしなくてはならないのかわからない」と疑問を訴えても、「全社でそういう方針だから…」という謎の答えが返ってくる。だからなんなのだろう?答えになっていない。全く意味が分からない。

 

 

MR不要論はこのような製薬会社の傲慢さに起因する

そもそも、製薬会社が「よりたくさん売りたい」という欲を出すからこういうことになっているのだと思う。

私は正直、会社が提示する製品の価値やその裏付けのデータをあまり信じていない。それよりも、先生方の実臨床での経験や否定的な話をしっかり聞くようにしている。

 

 

学問的なエビデンスレベルのピラミッドはこのようになっていて、最強のデータはメタアナリシスやネットワークメタ解析だ。

その下に前向きのランダム化比較実験・二重盲検比較試験・コホート研究などがある。

学ぶべきは、この順番にどのような科学的根拠があるのか?そのなかで自社の医薬品はどのような位置づけなのか?という事実である。

ガイドラインや標準治療は常に新しいエビデンスにより改訂されていくので、今あるガイドラインが全てではないことは重々考慮すべきことだが、今推奨されている治療と照らし合わせて、自社の新薬を使った治療がどのような期待でどういう患者さんに投与されるかは、先生が決めることだ。

製薬会社が欲張ってたくさんの患者さんに投与されるようにコントロールするものではない。

創ったものをどう活かすかを相談しながら、安全性について教えていただきつつ慎重に一緒に治療のカスタマイズを進めていくべきであって、そのパートナーになるためにはフラットで実直で科学的な態度で臨まなくては信頼されない。

まさにこの、医師の製薬会社に対する不信。不振を招く不誠実な企業姿勢が、MR不要論を招いているように思う。

どの製薬会社も誠実に自社のデータやエビデンスを欲に目を眩まされずに紹介していて、伝えるべきリスクを的確に伝え、有効性・安全性の実臨床情報の収集を主とした活動をMRにお願いしていれば、話を聞いてもらうために弁当を用意する必要もないし、何百万もかけて講演会を企画する必要もない。

そもそも、私が患者なら「MRが頑張っているから」等という理由で処方薬を変える医師なんて主治医に選びたくない。

EBM(Evidence-Based Medicine)=科学的根拠に基づいた治療を真摯に実行している医師に診てほしいし、薬剤選択してほしい。どっかの製薬MRと癒着していて製品を贔屓にするような医師が選ぶ薬は飲みたくない。

だから結局マーケティング部門や製品教育部門がいくら社内を頑張って洗脳しようとも、それは社会的に見れば全く善い行いではないということだ。

良い部分はもちろん知らなくてはならない。いい薬なのに世の中で生かされないのは社会的損失だからだ。しかし、他社の薬のほうが優れている面があるのにそれを見て見ない振りをしたり、まるで遜色ないかのように印象操作しようとするのは間違っている。

そういうことをしない体で会社や社内では議論が行われているが、実態としては今も昔も変わっていない。その証拠に、まだ売上計画達成率でMRを評価している。MRの本分を求めるならば、副作用収集業務のコンスタントな実施報告や市販直後調査の伝達遂行率などが評価されているはずだ。そういう評価は全くない。副作用報告をしたことがないMRが昇進してマネージャーになるくらいだ。もはや終わっている。

 

まとめ:私はとにかく誠実に活動したいだけ

先生方を信頼し、コントロールを手放そうよ、と思う。

医師というのは、あんなにつまらない勉強を机にかじりついてやってまで、人の命に関わろうという高尚な精神の持ち主なのだから、きっとデータを見ればちゃんと理解してくれる。

そりゃあいろんな医者がいる。お金持ちになりたかったから。親が医者だからなりたくなかったけどなった。そんな先生もいて当たり前だろう。

だけど、もともと頭の回転が速いひとたちだ。プライドは多少高いかもしれないし、生育歴的にAC気質で共依存しやすい人もいるけど、誠実に真摯に話せば基本的にはちゃんとわかってくれる人たちである。患者さんの話を熱心に一日中聞いているだけあると思う。

だから、「こういう薬なんですけど、どういう人に効果を期待できそうですか?」「懸念に思われている点はどのような特性ですか?」というふうに、常に学ばせていただく姿勢で、先生の実臨床経験をもとに少しずつ無理のない範囲で役立ててもらうのが最も世の中にとって望ましいやり方だと思う。

だって私たちは患者さんに直接話ができるわけではないのだ。

患者さんと向き合っているのは先生なんだから。

その先生の経験を尊重しないで、何を尊重するというのか。

先生に「こう刷り込んでやろう」「こういう印象を持たせよう」などとコントロール欲求丸出しで接するから、信頼されないし要らないと言われるのだ。

おこがましい。こざかしいよ。

薬剤師と医師どちらが上とか下とかとかそんな小さい話をしているんではなくて、そもそも治療のサポートなんだよね、私たち製薬会社は。

治療って薬物治療だけではないし、むしろ薬物治療ってサポートで、本人が努力するものだ。本人が、治すものだ、病気というものは。治してやろうと思っている医師がいたとしたらそれは少し傲慢な考えだと思う。

みんな傲慢すぎるのです。

私は誠実に、ただ実直に、世の中に最もよいと私が思うことがしたい。

【仕事】会社の指示に従うことがつらいひとへ

会社に勤めている人にとって、共通の悩みなんじゃないでしょうか。

「今日中にあれをやれ」

「早くこれをみろ」

「なぜまだできてないんだ」

朝令暮改のくだらない指示が雨あられと降ってきます。その処理に右往左往していると、疲労感だけがずっしり肩にのしかかってきますよね。

そんなひとにぜひ読んでほしいなと思って書きます。なぜなら、私がそうだったから。

 

実は、会社の指示は真剣にやらなくてもいい

そんなわけないやん、と思うでしょう。

でも、私自身試してみたんですけど、事実でした。

提出物、リモート会議、営業ノルマ、KPI(Key Performance Indicatorの略で、日本語に訳すと「重要業績評価指標」という意味)。

これらを一か月間、形だけやっているふりをして、一つも真剣にやらないことにしました。

全部内心で無視してみたんですよね。そうしてみたら、誰もそれに気づきませんでした。

そして、驚くべきことに結果(売上や伸長率)も変わりませんでした。

それでいて、無駄が省かれて、私の心はとても落ち着いていて、穏やかでした。

当然、上司や他の従っている人は、私が指示に従うようにコントロールできなくてイライラしたり説得したりしようしているようでした。

しかし、結果が変わらないので、次第に黙りました。

 

 

意味がないのに「従わないといけない」と思い込んでいる理由とは?

結果が変わらないとしたら、私たちはなぜやらないといけないと思うのか?

なぜ、イライラし焦り、やりたくないと愚痴りながらもやろうとするのか?

 

それは、「もし従わずにうまくいかなかったとき、会社に言い訳ができない」からです。

 

会社の指示に従っている限り、うまくいかなくても「会社の指示が間違っていたからだ」という言い訳ができます。評価者から責められたときの私たちの心の安全を守ってくれます。

実は私たちは、「従いたくない」と言いながら、メリットがあるからあえて能動的に選択しています。従えば責任を負わずに済む。だから私たちは嫌々やるべきだ、それが仕事なんだ、と思って我慢しています。

そう、実はやりたくないのに我慢しています。それでもやる理由は、デメリットを上回る「責任転嫁」のメリットがあるから。

 

見定めないといけないのは、「本当にメリットがあるのか?」ということです。

会社は結局、結果が悪ければ守ってくれません。

失敗をすれば切り捨てるし、結果が出ない場合は契約更新してくれません。

結局は、なんだかんだ言っておきながら、私たちのことを深く考えてくれてなどいないのです。

替えがきく労働力。それが日本という国の、企業という組織の、労働者に対する扱いです。

つまり、どれだけ尽くして会社のために何かをしたとしても、報われる可能性はそこまで高くない。非常に効率が悪い。「慈善事業」に近い。ただの善意のボランティアです。

 

会社に使われるな、こちらが使ってやれ

私たちは、会社のほうが、労働力が必要だから、提供してあげているのです。

雇ってもらっているのではありません。

雇われてあげているのです。

雇用関係というのは対等です。契約に基づき労働に見合った賃金を支払う、というフェアトレードです。

 

だから、相手が望む最低レベルをきちんとこなしていれば、とやかく言われる筋合いはない、ということです。

 

逆に、会社を使いましょう。

会社はツールです。個人ベースではできないことを、組織の力を借りて実現することができる。それを可能にするために、私たちは能動的に会社に所属している、と考えましょう。

会社に尽くすことが生き方を磨く、みたいな稲盛和夫さんの時代の考え方は、正直もう不可能だと思っています。不平不満を漏らさず「自分は素晴らしい会社に勤めているのだ、素晴らしい仕事をしているのだ」と自己洗脳するには、あまりに報われない不義理が行われているのが現実です。稲盛和夫さんの時代のような終身雇用制度はもはや崩壊し、上が下を育てるような愛情は希薄になっています。

この時代、わたしたちには「この会社を選ばない選択肢だってある」と気持ちの上では組織と自分を切り離すことが重要です。今あるツールとして会社をこちらが使って、スキルアップすればいい。その結果、自分が実現したいワークスタイルが確立できればいいのだと思います。

 

まとめ:私たちは縛られず、好きにしていい

そう考えると、会社に従う価値は、どこまであるのでしょうか。

私は、会社に何度も改善提案をしてきました。

方針や指示に矛盾が有ったり、効率が悪かったり、意味がないことには、エネルギーを最大限に割いて真摯に提案してきました。

しかし、会社は「それはわかるけど、もうすでに決まってしまったから動かしたくない」ということで、何も汲んではくれませんでした。

私はここで底打ちしたといいますか、会社の方向性はもう私には影響できないものなんだな、と悟りました。「もっとこうしてほしい」という願望を持つことを諦め、コントロールを手放した境地に至りました。

そうすると、「もう好きなだけ、好きなようにやったらいいんじゃないかな」と思って聞き流すことができるようになってきました。

やりたいんだったらやったらいいと思います。結局やってもやらなくても同じなら、やって上司に評価されようと、やらなくて評価されなかろうと、私の本質的な価値は変わらないのです。ならやらなくていい。

お互い、好きなようにやったらいいんだなって感じます。

「給料分の、会社が株主に提出しなければならない『やってる雰囲気』は整えるよう協力してあげるから、まぁ好きにがんばってみて」と思って、会社の向かう方向を俯瞰して眺めることにしました。

納得してないことを無理にやらなくて良いって、分かりました。

もういちいち全部真面目に取らなくても良いんだなって思って、気が楽になりました。

 

あってるとか、間違ってるとか、やってみるまでわからないんですよね。

自分で思い描いたことは、やってみるまでわかりません。

私がやりたいやり方は本当はやってみたら効率が悪かったり間違ってるかもしれません。会社のやりたい方向性が結果的に成功するのかもしれません。

つまり、会社の方針も、個人の方針も、現時点では良いも悪いもない。

結果が出ないから悪いわけでもないし、結果が出たから正しいわけでもない。

結局、最も重要なことは「今ココの自分が、納得してやれることかどうか」だけなんですよね。

結果がまだわからないなら、確か道しるべはそれだけです。

だから、誤魔化さずにやりたいことを、あなたが決めてやるだけでいいのです。

そう、あなたが決めていい。やるかやらないかは。

それぞれ、会社も私たちも、やるときめたことをやればいいだけ、実はシンプルだった、ということです。

 

ちなみに、他の社員がイライラしたり不安になったり、上司が言うことをきかせたいっていうのは、実は相手のなかの課題であって、私の課題じゃないんですよね。

他人は鏡にすぎません。人は他人を鏡に見立てています。

うつった自分に対して、抱えているイライラをぶつけたり、怒鳴ったりしてるわけです。

だから、本質的には自分が言われてるわけじゃない、と思うと気が楽になります。

私たちは、私たちそれぞれの声だけに従えばいい。

シンプルに生きましょう。

【仕事】働きながら専門学校に行きたい人が押さえるべき4つのポイント

このたび、私は2年間かけて社会福祉士という国家資格に挑みました。

働きながら国家資格(社会福祉士)を取るってどんな感じなの?

特に何を押さえればいいの?

という疑問にこたえようと、まとめてみました。

 

「社会福祉士」とは?

社会福祉士は、いわゆる「ソーシャルワーカー」と呼ばれる社会福祉専門職の国家資格です。

身体的・精神的・経済的なハンディキャップのある人から相談を受け、日常生活がスムーズに営めるように支援を行ったり、困っていることを解決できるように支えたりすることが主な仕事となります。

また、他分野の専門職などと連携して包括的に支援を進めたり、社会資源などを開発したりする役割も求められます。地域を基盤として、さまざまな場所で活躍しています。

1987年の「社会福祉士及び介護福祉士法」制定と同時に誕生し、少子高齢社会がすすみ、さまざまな福祉的課題が注目される現在、社会福祉士への期待はますます高まってきています。

 

※国家資格には「名称独占」と「業務独占」の2種類の資格がありますが、社会福祉士の資格は「名称独占」です。資格を持っている人だけが「社会福祉士」と名乗れますが、業務に関しては資格を持っていない人も行うことが可能です。医師や看護師などの資格は「業務独占」となります。

 

仕事の内容は?

社会福祉士の仕事の範囲や対象は多岐にわたります。

お年寄りや身体・知的障害者、ひとり親家庭などの相談にのり、それぞれの状況に応じた支援を行います。また、行政や医療機関など各関連施設をつなぐ役割も担います。

社会福祉士資格取得者が働く職場としては社会福祉施設等が多く、その他社会福祉協議会、医療機関、行政機関、独立型社会福祉士事務所等が代表的なものです。

 

資格を取るまでの道のりは?

社会福祉士の資格を得るためには、「社会福祉士国家試験」に合格しなければなりません。

国家試験を受けるまでにはさまざまな道のりがありますが、大きくは大学等で指定科目を履修する、短大等で指定科目を履修して実務1~2年を経験する、養成施設を経る、指定施設で実務を5年以上経験するという4つのルートに分けられます。

※受験資格の詳細は、公益財団法人社会福祉振興・試験センターを参照ください。

 

つまり、現在働いている人で全く福祉にかかわりがなかった人で、4年制大学を卒業している人は、社会福祉士一般養成施設(実習込みの福祉系専門学校)に1年以上行けば国家試験を受ける権利を得ることができる、ということです。

 

社会福祉士国家試験について

国家試験は、年1回2月初旬に行われます。

筆記試験のみで、5つの選択肢から原則、正しいもの(適切なもの)を選ぶ形式です。

だいたい毎年4万人くらいが受験して、1万人くらいが合格(合格率25~30%)の試験です。

 

■第31回(2018年度)受験データ(厚生労働省発表)

受験者数/41,639名(43,937名)
合格者数/12,456名(13,288名)
合格率/29.9%(30.2%)
*( )内は前年データ。

 

参考:社会福祉士とは?(中央法規)

 

働きながら通える通信制専門学校

1年8ヶ月、私は専門学校生となり、無事卒業しました。

肝心な学費は、トータル 36~40万円前後でした。(教科書・実習費用込み)

「スクーリング」という学校へ実際に行き、講義を受ける日が11日間あります。いずれも、土日や大型連休に合わせて、仕事に支障があまりないようにスケジューリングされています。

「レポート」の提出が通学の証明となります。2か月に1回4通、40回ほど、約2000字のレポートを提出しました。これは仕事をしながら、空いた時間を見つけて書きます。テキストを読み、設問に対応する小論文を作成するようなイメージです。これで、100点満点中60点以上を毎回とれば、無事卒業となります。

「相談援助実習」が、働いている人には一番厄介です。

入学時に実務経験が1年未満の方(2020年3月31日時点で実務経験が1年以上ない方)は「相談援助実習」の履修が必要です。社会福祉の現場で実習を行い、相談援助に関する専門知識や専門援助技術、関連知識を学びます。

実習は、学校が指定する施設において、180時間以上(23日間)実施します。

時期は、スクーリング「相談援助実習指導(実習前)」受講後、だいたい1月~8月となります。

参考:日本福祉教育専門学校HP 四国中央医療福祉総合学院HP

 

押さえるべきポイント1:あらかじめ上司に了解を取る

事前に許可を取らなくてはならないのは、「相談援助実習」の実習期間、休みをいただくことです。

180時間以上(23日間)というと、ほぼ1ヶ月まるまる職場を離れることになります。なぜなら、実習は可能な限り連続して経験しなくてはいけないからです。

なので、どうしても出席しなくてはいけない会議以外はすべて有給休暇や代休を繋げて休ませてもらうことに、上司に了解をもらわなくてはなりません。

有給休暇は労働者の義務なので、本来であれば自由に取る権利があります。なので、上司が「困る」と言ったとしても、権利を行使して強行することは可能です。

しかし、現実的には一応了解をとるのが一般常識とされているので、事前に相談しておきましょう。あとあと「聞いていなかった!」などと騒がれて実習中に連絡されても迷惑ですし。

ちなみに、私は事前に直属の上司とその上長とその上にも了解を取り入学手続きをしたにもかかわらず、夏が来て休むことを改めて確認したとき「聞いてない!」と言われ、呆れ返りました。聞いていないわけないだろ、アホか。

 

押さえるべきポイント2:あえて仕事を詰めこみ過ぎない

実は、レポートが結構大変です。

学校によっては、手書きを強要されたりします。(コピペ防止のため)

私の通っていた学校も途中まで手書きでした。私は課題をため込む典型的なサボりタイプなので、2か月ごとに2000字×4通=8000字のレポートを一晩で書いたりする羽目になり、泣きそうになりながら腱鞘炎一歩手前の手を引きずり、なんとか卒業した感があります。

真面目な皆さんにおかれましては、こんなことはないかもしれませんが、日ごろの仕事を詰め込み過ぎると、こんなことになってしまうかもしれません。

私は仕事で手を抜くことが当時、とても下手っぴだったので、全力でやって夜は泥のように眠り、土日は疲れて何もできない、ということになっていました。

なので、学校に通いだしたら、少し仕事のスケジュールは楽をするようなイメージでスケジューリングして、レポートを書く時間を少し開けるくらいの余裕があったほうが、いいなと思います。

土日にやろうと思っても、結構やれません。家庭の用事が入ったり、スクーリングが入ったり、結構時間ないです。平日にやれるように、調整したほうが無難です。

 

押さえるべきポイント3:試験対策は3ヶ月前からはじめると楽

せっかく2年近く学校に通っても、国家試験に合格できなくては当初目的としていた「社会福祉士」は取れません。

なので、国家試験の試験勉強はしっかりやる時間を必ず確保しましょう。

19科目あり、そのどれかで0点科目があると無条件で落ちます。

合計で60%が合格ラインとされていますが、その年の難易度により合格ラインは上下します。

だいたい100点以上取れていれば確実ですが、そうすると67%、約70%点数を取れなくてはなりません。この点数は過去問を見ていただいたら分かると思うのですが、結構勉強しないと取れません。

少なくとも3ヶ月は真面目に勉強する時間を設けたほうが無難です。

私の参考にならない試験対策レポートを、以前ブログにあげたので、もしよかったらご覧ください。勉強方法だけは参考になるかもしれません。

【社会福祉士】私はこうして5日間で合格率30%の国家試験に合格した(2020年最新版)

 

押さえるべきポイント4:学費サポートを活用する

失敗したのがこれです。
「専門実践教育訓練給付金」というのがあります。

「学費クッソ高いやん…」と思った方。ちゃんと卒業したら、お金50%戻ってきます。

教育訓練経費(学費)の50%に相当する額(最大40万円)が支給されます。さらに、資格取得をし、かつ修了した日の翌日から1年以内に一般被保険者として雇用された場合、教育訓練経費(学費)の20%(上限16万円)が追加で支給されます。

私はこれの申請時期をうっかり逃してしまいました。妻にめっちゃ怒られました。学費が40万円だったら、20万円返ってくるからです。

これはマジで本当に後悔しているので、専門学校の人によく話を聞き、ハローワークで現職の勤務状況と照らし合わせて支給対象になるか確認に行きましょう。ハローワークで所定の手続きが必要だからです。

※制度に関する詳細は最寄のハローワークへお問い合わせください。

 

まとめ:仕事をしながら資格取得するのは楽しい

「仕事をしながら学校なんて通えるかな」

「私はそんな余裕ないから」

と思って、興味がある資格取得を諦めかけている、そこのあなた。

やる前から諦めてしまったら、もったいないですよ。

あなたなら、できます。大丈夫。

 

資格取得のために通学する学校では、同じように働きながら資格取得を目指す仲間に会えます。本当にみんないろいろな仕事をしていて、異なる人生経験を積んでいます。全く知らなかった世界が開けます。それだけでも、学費を出して知らない世界に飛び込む価値があります。
トライすることに意味があります。応援しています。

【仕事】利己主義の集まりはチームではなくグループ

こんな自己中心的な考えばかりの人間が集まって何のメリットがあるのだろう、と今の組織で仕事をしていて、うんざりした気持ちになることはありませんか?
どんな組織が「チーム」なのでしょうか?

「チーム」とは?

チームteam)は、共通の目的、達成すべき目標、そのためのやり方を共有し、連帯責任を果たせる補完的なスキルを備えた少人数の集合体を理想とすることがある。
実際には、チームといっても目的、目標、やり方は指導者から与えられただけで、変更権がなく共有できていないことがある。
つまり、目的や目標が「同じもの」であり、そのためにやり方を創意工夫して、当事者意識をもって取り組む少人数の集合体である、ということですね。
同じ方向を向いて進んでいける仲間が「チーム」になります。

方向性が一致していない集団は「グループ」

では、私が働いている組織のように、方向性が一致していない集団は、どう表現したらよいのでしょうか?
そのような集団は、「グループ」であるといえます。
ただ集まっただけ。寄せ集められた烏合の衆。目的や統一された意識のない、当事者意識もない、人の群れです。
目的が同じでなくては、方向性やゴールはそれぞれ異なってしまいます。また、価値判断も異なり、最も重要視するべきコトにズレが生じます。
ましてや、利己的な人間が集まっても不協和音しか生まれません。
個人の営業成績の見栄えの良さを優先したり、表彰されるような功績をあげたいと他人の手柄を横取りしたり、そういう「自分さえよければいい」という人が集まったとしても、それはただの足し算であって、むしろ足を引っ張り合い、引き算にすらなりえるのです。

チームには、個人の利益の最大化から離れられる魅力的なビジョンが重要

とはいえ、自分の身はかわいいもので、それぞれ家族もありますので、個人の利益は大事です。
しかし、チームで集まる意味は、存在を掛け算することで、ひとりではできなかったことを成し遂げることにあります。
それは、自分一人では実現できなかった理想を実現できるという、夢のあるビジョンです。それが、個人の利益から、集団の利益の最大化へと行動をシフトさせます。
つまり、個人の利益追求よりも魅力的な「集団の利益」と感じられる、魅力的なビジョンが共有されていることが、「チーム」の前提条件だということです。
たとえば、「世界一お客様が感動してくれるレストランにしよう」とか、「ひとりでも多くの発達障害の当事者が、自分らしくイキイキと生きていける社会を創ろう」とか。
レストランがミシュランで三ツ星をとって、予約の取れないレストランになり、商売繁盛するのは、そのビジョンを実現するにあたって副次的に生まれたことであって、感動してくれるレストランを目指すから、人々が評価するほどの味やサービスになっていくのです。
もともと、ミシュランで三ツ星をとることや、商売が繁盛することを目的にしていたら、経費をケチったり、ミシュランの審査員っぽいひとにだけ過剰なサービスをしたりと、損得勘定が働きます。目先の利益にとらわれて動いている限り、お客様を感動させるようなサービスは生まれないし、結局目標は達成できないでしょう。
なぜなら、個人が目指すゴールが、それぞれに「このぐらいでいいだろう」という損得勘定により設定されるからです。
利益が出るなら多少質が悪くてもいいだろうとか、評価してくれる人にだけ評価されればいいだろうとか、あまり味に詳しくない客にはこのぐらいにしておけば騙せるだろうとか、そういう浅はかな気持ちが生まれます。これは、私利私欲をなげうってでも成し遂げたい夢のようなビジョンでなくては、人は往々にして、個人の利益(効率)の最大化を最終的な着地にしてしまうからです。

まとめ:マネージャーの仕事とは、まさにそれ

今回私は何を言いたいかというと、やはり結局マネジメント層に対する愚痴という、ものすごく俗物な主張なのでした。
そういうビジョンを掲げて「チーム」を引っ張るマネージャーは、そういう魅力的なフラッグを掲げなくてはいけないんだよな、ということです。
それは、組織のなかで全国No.1になろう!とか、全国で表彰されよう!とか、そんな安いフラッグではダメなのです。
そんなの、ただの横並びの比較じゃん。しかも、条件同じじゃないから、アンフェアです。全然面白くない。つまんない。
我々が働いているのは、なぜなのか?
どんな人に役に立ちたくて、私たちは毎日朝から晩まで駆けずり回るのか?
それは、社会の役に立つからです。
存在意義があるからですよ。
それによって、何よりも自分が生きている価値が認められるからです。
働く元々の意味は、お金をもらいたいからじゃない。
そんなことなら、テキトーに老人でも騙して金を巻き上げればいい。
お金を稼げばいいなら、合法か違法かくらいの違いで、そんなに変わりませんよ。
無知な人を騙してお金を動かす。それは詐欺師と一緒です。
詐欺師ではない、仕事人として、プロとして社会でお金をいただく意義は何なのか?
誇りに対して支払われる対価を受け取る。そういうイキイキとしたチームは、
・自分たちが成し遂げたい夢
・それは独りではできないほど大きい
それを常に忘れず、だからこそ仲間の存在に感謝していて、お互いに夢の実現という共通のゴールに向かって常に進化していけるのだと思います。
そういう矜持が足りないと、やはり虚しさを感じます。
そういう仕事人としての深みがちゃんとある人が好きです。
自分のことや目先のことだけのマネージャーは、一緒にやっているとイライラするし、発言にイラっとするんです。
メンバーも「グループ」であって、全然楽しくない。個人のボーナスや営業成績の見栄えしか考えていない。
そもそも、今の会社にはそういう人しかいなさすぎて、くそつまらんな、と思うことがあります。
特に、ある程度の偏差値の大学や大企業にストレートで入ってしまった、とてもかわいそうな価値観のひとたちが多いのです。
彼らは、人生がいかに多様性で失敗があるからこそおもしろい、その奥深さを知らない。この新自由主義において、学歴社会において、たまたま勝者になれたから、自分がすべて正しいと思って他人を見下しています。浅い経験が全てだと思っている。
このようなルールからあぶれた者たちは自分より劣悪な人間であると根本的に思い上がりをしているのです。いつ何時、自分たちが社会的弱者と呼ばれるそう見下していた人たちのように苦労するか、分からないのに。
そのような乏しい、幅のない人生をこれからも送っていくのでしょう。可哀想なことです。
これから社会は多様化に向けて動いていきます。それなのに、既定の価値観にとらわれて、様々な生き方を学ぶ気持ちもなく、おそらく中年以降は自分がいかに優れていたか、という誰も聞いてくれない自慢話をして嫌われていき、「周りはバカばっかりだ」と言いながら死んでいくのです。
マネージャーがゴミみたいなビジョンしか掲げられないと、このように下まで腐っていきます。
今まさに、大企業病に侵されたエリート(笑)が集まっているのが、今の日本の優良企業という泥船の正体です。
それを創ったのは、今ふんぞり返っている上司たちです。つまらない、表面的な価値だけにとらわれ、右往左往してきた人々。
言っても分からない人には、エネルギーを割くのはもうやめました。価値観の相違というやつで、私とは違う世界で生きている人たちだと考えるようになりました。
人生を40~50年近くもその価値観で生きてきた人に、その価値観の幅を広げてくれといっても、土台無理な話です。
私は、今の社会や常識になんか、認められなくていいや、と思っています。
こんな壊れた社会に認められている人は、いずれ滅びる気がします。だから、逆に認められて褒められて天狗になっている人は、やばいような気もします。
自分が実現したい未来に向かってがんばりましょう。そして、同志を見つけたら、そのときには「チーム」になり、夢を成し遂げましょう。