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【仕事】「善き大人」の見本がいない問題

もうこの国はダメだ。

 

今回の感染症の騒動でようやく私は気づいた。

それまでは、起きたら新聞を2紙(全国紙と地方紙)目を通し、テレビで朝の報道番組を見ながら支度をし、出社するのが「善き大人」の姿だと信じていた。

父もそうだったし、最初の会社の上司もそうだったし、今いる会社もそんな感じだ。

テレビや新聞は正しい情報を報道していると信じていた。

しかしそれは間違いだった。洗脳されるためのルーティーンでしかなかった。

最初の会社の社長は「記事を読むときは『この記事が出たら誰が得をするのか』を考えて読む」と言っていたが、これは今思えばとてもいいアドバイスだった。彼はある程度分かっていたのかも、と思う。

その人は、環境ビジネスをやっていて、大〇研一のビジネススクール出身。

やっているビジネスと経歴を考えると「ビジネスの世界での成功」という己の損得のために世の中の流れを看破しようと勉強した結果、そこまではたどり着いたのだろう。

世の中の動きを先読みして、投資可能性を計算し、利益を最大化するために。

しかし結局はそこまで。アストンマーティンやマセラティに乗りたいだけの、どこにでもいる強欲な経営者止まりだったように思う。

「善き大人」には、ほど遠い。

 

私は最近、テレビや新聞はさっぱり見なくなった。

ネットのニュースも全く関心がなくなった。

どうせ、何もかも誰かが金儲けのために投資してできているコンテンツ。

わざわざ貴重な時間を消費して触れる価値などない。

ここは信頼できるかも、と思っても、結局権威的な何かと繋がっていて、誰かへの忖度が垣間見える。

偽物しかないということがわかった。

 

金儲けは、もう飽きた。

だから困ったことに、仕事にも全く興味がなくなってしまった。

今、私は営業職をやっている。

営業職は、本来、売上推移・新規納入先などを毎日チェックするのが当たり前と教えられてきた。

与えられた計画とどの程度進捗にギャップがあり、どうやってギャップを埋めるかを考え行動計画を策定・適宜修正する。そして必要な行動をいかに早く質高く実行するかを考えるものだと教えられてきた。

今までは結果を求めて意欲的に取り組めたそれらの作業が、とんでもなく、つまらなく感じるんだよ最近。

そもそもこの作業には何の意味があるのか、と深く掘り下げると、底には何もないことに気づいてしまった。

 

仕事は、ゲームと何も変わらない。

ゲーム内で「こうやればうまくいくんじゃないか」と仮説を立てて実行して検証する。得られるのはゴールドだったりルピーだったりギルだったりした。

ゲーム内の通貨を貯めれば、新しい武器や防具が手に入れることができて、強くなれる。戦闘を積み重ねるほど、経験値が手に入り、レベルが上がる。

仕事というゲームでは、通貨が「円」、強さは経済力、レベルは社会的地位、と呼び方が変わるだけ。物語のシナリオがあらかじめ決まっていない、不確実性があるだけ。ギャンブル性が高い。だからハマるんだろうな。

残念ながら、いくら経済力をつけても、人として強くなっているわけではない。社会的地位がランクアップしても、魂のレベルはアップしない。

むしろ劣化していく。

横並びのプレーヤーと、経済的価値という点で比較して「勝ち組」「負け組」などと互いを罵り合いながら、一喜一憂している「大きなお友達」。それが「現代の大人」の姿。

つまり、ガキのまま図体だけデカくなり、どんどん人としてつまらなくなったのが、今の大人たちの平均的な姿だ。

 

高度経済成長期には、「ビジネス」は大流行りのゲームだったのだろう。

物質的な豊かさを求めて、それが手に入れば幸せが手に入ると信じた。

ある程度やればやるほど報われる幸運な時代だったので、どっぷり依存した。

それを国も社会も奨励した。24時間働けますか?と。

そうやって、国を挙げてゲームに狂乱している間に、人として生きるということを忘れてしまった。

「善き大人」になろうと己の哲学を深めることもなく、心のど真ん中を空っぽにしたまま、ゲームの攻略法ばかりあーだこーだ言っていて、ふと気がついたら寿命がきている。

実に空虚だ。

なんとなく空虚な人生を過ごしていることは、本人も本能的に自覚している。

しかし深く考えてしまうと、今まで生きてきた人生の背骨をボキリと折られて足元から瓦解するから、否認して無意識のうちに考えないようにしている。

自分と同じように生きることを他人や子孫にも強要する。自分は間違っていなかったと思い込んだまま死にたいから。

本当に大切なことを置き去りにしたまま「これが正しい人生なんだ」とひたすら逃げてるだけ。

依存症者が、自身の心の中にある不安と恐れを否認して問題行動を続けている状態と同じ。

その世代と国境を超えた依存のツケが今、ここにある。

 

なぜ子供たちがYoutuberやプロEスポーツプレーヤーになりたがるのか?

そりゃ、私たちがしている仕事が、つまんなそうだからだ。

仕事というゲームより、他のゲームのほうがおもしろそうに映るだからだ。

子どもたちはまだ人間らしさを失っていないので、楽しく生きることが本質だと感じていて、純粋に求めている。

私たち大人は、景気が低迷してもう面白くなくなった仕事ゲームを「これは一番大事で価値があるゲームなんだ」と自分が本心から楽しめてもいないのに、「やるのが当然」だと次世代に有無を言わせず押し付けようとする。

当然反発される。

そんなの、つまんなそうで辛そうにしている大人の表情をみれば、一発でわかる。クソゲーだってことがバレバレ。死んだ魚のような目で日々を過ごす大半の大人みたら、絶対地雷だろって思うよね(笑)。こんなふうになりたくないと思うのは、自然な思考。

「真面目に勉強して良い大学に行って良い会社に入って社会で評価される。」

この王道シナリオは、とっくの昔に崩壊している。

なぜ崩壊しているのか?

このシナリオは、根本的に「やっても意味がない」からだ。

シナリオを追っても幸せを感じられない。他人の目によく映るという「変えられないもの」を変えようとするから、基本的にうまくいかないし、うまくいっても満たされない。

他人のためと口ではきれいごとを言いながら、ビジネスは最終的には自分のためでしかない。本質的には誰かの何かの役に立っているわけでもない。

自分のためにやっているはずが、他人はおろか自分すら幸せになれない。そんなのやる意味がない。

 

そもそも大人は「この社会は素晴らしい」という嘘をついている。

この社会は素晴らしくもなんともない。腐りきっている。

社会的な規範など正しくもなんともない。コントロールのための楔だ。

子どもたちには「嘘をついてはいけません」と教えるのに、嘘しか言わない。まるで説得力がない。

私たちの生き様から、素直で純粋な子どもたちは見抜いている。

だから、言葉を尽くしても信用してもらえない。

なので、圧をかけて従わせようとする。それが「しつけ」。

 

嘘つきばかりで「善き大人」の見本がいない。

子どもたちにとって「この人みたいに生きてみたい」と憧れられる本物がいない。

成功者など、金集めがうまいだけ。尊敬とは程遠い。

金や物では本質的に満たされないことを、私たちを通して子どもたちはすでに気づいている。

でも、寄る辺がない。

道しるべがない暗闇を歩いているようなものだ。

そりゃ、精神を病むし、自殺もするだろう。すべては大人が不甲斐なくてダサいから。年とってもこんなもんかよ、と絶望して人生を降りる。その気持ちはよくわかる。

狂ったシステムになじめない正常な子は、不登校にもなるだろう。

現代社会を「ここは私が居たい世界じゃない」と思えば、オンラインゲームやSNSに逃避するのも当たり前だろう。

学校に通えない子どもたちに問題があるんじゃない。社会が狂っているから、拒否反応が起こっているだけ。私たちが築き上げた虚構の社会に問題がある。

それをこども個人の問題だと思ったり、教育機関の問題だと思ったり、保護者の問題だと思ったりしている。

笑えないほどズレている。

そりゃ生きづらさ抱えるよ。

結局全部金儲けでしかないんだもん。

つまらんよ、そんな社会は。

次世代はもう、株主資本主義社会・資本主義経済社会は、つまらないということに気づいている。

 

ここまで読んで「じゃあ何が面白いんだ?他にどんな意義深いことが、仕事以外にあるんだよ、言ってみろ」と思う大人がいるだろう。

 

お答えしよう。

「自分が心からやりたいとわくわくすること」だ。

 

それが金になるのか、そんなことで生活できるのか、だって?

生きるために金稼ぐのか、金稼ぐために生きるのか、どっちなんだよ。

前者だろうよ。

生きるのが先なの。生きるってことは、自分のしたいことを素直に自由にすることなの。

それが先なの。それが人生なの。仕事なんてのは必要最低限のゴールド稼ぐためのサブクエストなの。

食べるものはつくればいい。買わなくても、金かけなくても、生きていける。家庭菜園でも何でも、やれば何とかなる。タンパク質は豆からも魚からも摂れる。わざわざ畜産やらなくても。

着るものはつくればいい。どんなに着飾ったって、中身がスカスカじゃ意味無いんだから。寒さをしのげれば充分。

住む場所くらいだろう。金がないと手に入らないのは。職人技だから。

本当に必要なのはこの3つだけだ。

三大随筆の『徒然草』で兼好法師はこの3つ以上を望むことを「贅沢」といった。

これ以上の物質的豊かさや地位や名声を私利私欲に任せて求めることは、不幸の種。

来世にキャリーオーバーできないのだから、必要以上のものをいくら集めても意味がない。

この「贅沢」に踊り狂っているのが、今の成功者であり「勝ち組」と言われる者たち。

つまり、可哀想な人たち。

 

可哀想な人たちを「あれが目指すべき姿」って言われても、( ゚Д゚)ハァ?ってなるでしょ。

そういう感覚を無意識に感じてるんだよ、子どもたちは。

最低限のもので満足して心穏やかに過ごせる成熟した存在こそ、本物の「善き大人」。

結局人生の喜びというのは、限りある時間をつかって全力で自分と世界に向き合うことのなかにある。

それ、本当に本気でやってる大人がどれほどいる?

金と欲に翻弄されて、未来の不安に怯えて、そんなふうに生きるのは人生じゃない。本当の意味で人生を生きていない。

だから失望されるんだよ。

「こいつら生きてるふりしてるだけだ」って。

 

学歴のための教育の金は必要ない。あれは教育ではない。学歴はただの奴隷通行証。「私はとっても従順な奴隷です、使ってください」という名札を首から下げているだけ。

この現代に良い仕事などない。どれも詐欺ばかりだ。手が込んでいるか、込んでないかの違いだけ。本来必要のない余剰を、いかに必要っぽく見せるか、いかに欲望を煽るか、やっているのはそれだけ。

第1次産業が最も尊い。

最も尊い仕事の評価(経済的価値)が最も低い社会など、まともな社会ではない。

いずれ潰れる。

そんな終わりが見えている社会なんて、従わなくていいし、順応しなくていい。

 

私たちがやることは、社会に迎合することではない。

私たちがやるべきことは「やりたいこと」それだけだ。

それをやるために、命がある。

それをやるために、衣食住が要る。

それを得るために、最低限の金を稼ぐ。

「やりたいこと」に集中するために、人生を最適化すべきだ。

ということは、できるだけ金に依存しない生き方が最も良い。

要らぬ「贅沢」を極力削ぎ落していく。

答えは自分自身のなかにしかない。本心に向き合う時間こそ最も重要。

貴重な時間を「仕事」というつまらん遊びに費やし、言い訳しながら虚勢を張って尊大にふるまっている大きい子供のいうことなど、誰が聞くだろう。

そういうところなんだよ。

そういうのが見えてないから、見えていないことすら認識できていないから、あきれられる。

言うこと聞かないのは当たり前なの。

聞く価値ないと思われてるんだから、しかたないの。

 

できるだけ経済社会から脱出して生きていきたい。

本当にやりたいことをやって、イキイキと過ごしたい。

本当に世の為人のためになることは、もうビジネスには求めない。

自分の道を進むしかない。

その背中が、希望そのものであり、次の世を創る。

私は兼好法師のような光になりたい。

 

 

【メンタル】「自分には価値がない」と嘆いている人へ(ひきこもり・不登校・貧困)

資本主義の世の中では、身の回りにある全てのものは商品になっている。

資本主義社会は本当に良い社会か?

カール・マルクスは『資本論』において、商品は「使用価値」と「交換価値」によって成立するといいました。

そして、スライムが集まってキングスライムになるように、商品が寄せ集まって富が形成されている、として、商品の価値は労働の量だとする「労働価値説」を提唱しました。

交換に便利なものとして、貨幣が生まれました。

商品に付加価値をつけて売ることで利益(剰余価値)を生みます。

価値をどんどん増殖させていくと、資本がどんどん膨らんでいき、資本家が生まれます。

マルクスは「資本家」を「人格化された資本」=お金が人の形を取ったものと定義しました。つまりお金さえ稼ぐことができれば使用価値なんてどうでもいい人たち。とにかくカネのため。

とにかく稼げればなんでもいい資本家は「労働力」を商品化しました。

労働力を仕入れる行為は「雇用」であり、資本家(企業)にとって就職活動・転職活動は、この「労働力」の仕入れです。そして、研修や社員教育で付加価値をつけて、利益を生むために「商品」である私たちを働かせて、仕入れ以上の価値を生ませます。そしてさらに「労働力」を仕入れて得られる利益を増やそうとします。

「労働力」を仮想通貨の運用に例えましょう。

仮想通貨を仕入れて、仕入れより仮想通貨の価値が上がれば儲けが出て、余剰資金が生まれますよね。その余剰資金で、さらに仮想通貨を買う。そうすると、価値が上がり続ける限り、このサイクルで余剰資金はどんどん増えます。

これを人間でやっている、というのが、営利企業です。

つまり、営利企業に雇われているサラリーマンは「労働力」という商品として資本家(企業)に買われているので、私たちの労働力は私たちから切り離されています。

だからサラリーマンはイエスマンが出世するし、結果を出すことと同時に従順であることが求められるのです。「労働力」という商品としての価値を評価されているのが、人事評価です。

人事評価はその人そのものの価値とは関係ありません。その人の一部分「労働力」を商品として切り取ったときの、商品としての評価です。だから、収入が上がろうと人としての価値が上がるわけではありません。

法律的には雇用契約は対等ですが、実質イーブンではありません。

給料とは、再生産費です。

つまり、雇われている我々は「再生産費」分だけ働けばいいのですが、それ以上に働かせれば、資本家(企業)にとっては働かせた分だけ利益になります。

だから、やりがいや目標を示して、勝手に設定して、「再生産費」分より余分に頑張らせようとするんですね。

そしてチームを組ませるのは、協業させることで生産性が上がるからです。

あくまでも、労働力としての運用を最適化しているのであって、社員が快適に働けるとか、充実した人生を送れるとか、そんなことには企業は一切興味がない、というのが本音です。

私たち労働者にもメリットがないわけではなく、企業で働くことで「経験」という付加価値を得ているので、悪い側面ばかりではありません。

しかし基本的に人間は「モノ」として扱われています。それが企業であり、資本家であり、資本主義の世界です。それは人を惨めな気持ちにさせます。

その、人をモノのように扱う資本主義が蔓延し、世界中に広げようと際限なく膨張したのが、今のグローバリズムです。

富める人はさらに富み、際限ない欲望で人間性を失い、人々の健康を害してでも富を拡大しようとする世界。

貧しいものはより貧しくなり、最終的に過労死や自殺をするか、無敵の人になり殺戮事件起こすほど追い詰められる世界。

資本主義社会である以上、この世界観・貧富の格差はどんどん広がります。

共産主義国家は計画経済を導入してしまったのでソ連は崩壊したけど、マルクスの社会主義は、資本主義が限界まで行きついた先にあるものと考えられていました。

つまり資本主義が限界を迎えているまさに今、ようやく条件がそろったといえるでしょう。

 

経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、このような資本主義の限界に問題提起した本です。

 

 

このままさらに格差が拡大するとどうなるでしょうか。

さらなる地獄と化すのではないか、と思います。

 

r(資本収益率=資本家の不労所得の割合)>g(経済成長率=労働による価値創造の割合)

 

このrとgが逆転するのは、戦争により既存の資本が破壊され価値が暴落したとき。そのあとは資本を再形成する必要があるため、労働力の価値が相対的に高まるからです。

そういう異常な状態以外は、この資本主義社会はr>gであるといえます。

そしてその状態が加速すると、世襲資本主義社会になるといいます。

世襲資本主義社会とは、相続による経済格差が努力やチャンスでは裏返らない無理ゲー社会のことです。

つまり、貧乏人は頑張っても報われない世界です。生まれた家が資本家であれば勝ち続けられる、何もしなくてもお金が増える、生まれが全てを決める不平等な世界です。

実際、そうなりましたよね。

シェルバーン伯爵家に連なるロックフェラー・ロスチャイルド。財閥が世界経済を動かし、政治を含めた社会全体を実質的に支配しています。

世界の富の大部分を上位1%の金持ちが占有し、残りの99%の貧乏人は奴隷のような生活で、体を壊すような商品を食べさせられ、マスメディアの洗脳で考える力を弱らせられ、毒に等しい注射で人体実験に使われています。

日本も例外ではなく、政治は政教分離を謳いながらも完全に癒着しており、その政治をハンドリングしている宗教団体は、世界的な財閥の下部組織です。

冒頭に人は「労働力」というモノとして扱われているといいましたが、最終的に人は「奴隷」と等しい扱いをされているといえます。存在そのものをモノとして扱われているということです。

 

「自分たちさえよければいい」社会で人は愛に飢えていく

歴史を振り返ると、戦争が起こると、戦争中の税金は圧倒的に高くなり、個人の財産は凍結されます。

それによって、とくに高所得者からお金を搾り取ることができます。

ウクライナで戦争が起こり、これから台湾・日本で戦争が起こると思いますが、これは軍需産業を握っている1%の財閥が、さらに中途半端な高所得者から金を吸い上げるためです。

実際、軍需産業の株価はどんどん上がっていますよね。

総本山はアメリカでもなくイギリスでも中国でもありません。

財閥とは、地縁主義ではないからです。

「契約の民」と呼ばれるユダヤの血縁です。

血縁により繋がっているので、国はただの枠組みです。商売の道具です。貨幣は価値変換のためのおもちゃです。

だから最近は新しく「仮想通貨というおもちゃ」を使って儲けを生もうと画策しています。

通貨をつくる側・ルールを決める側が、儲かるようにできています。ルールを作る側ではない一般の投資家が損をするのはそのためです。

STEPNなどのM2E(Move to Earn)で大損した人がたくさんいますよね。それは、もともとそういうメカニズムになっている、ということです。多少庶民に利益が渡るケースが生まれてしまうのも、ユダヤにとっては想定済みの必要経費。いずれ回収しようと考えています。

 

ユダヤ人は歴史的に「美味しいものを心ゆくまで食べること」を人生の第一に掲げています。

そのための金銭であり資本なわけです。つまりお金を手段として割り切っている。

思考は、教育で子どもの頃から徹底される能力主義・実力主義に基づいています。迫害されてきた防衛本能から、他民族に対する警戒心が強い。その警戒心から納得するまで他者を調べ尽くす知的好奇心をもちます。

一言でよければ「自分たちさえよければいい」

世界経済を動かしている人たちがその原理で動いているので、現代社会がそうなるのは、考えてみると当たり前ですよね。

 

 

ここまで読んでみて、どうでしょうか。

お金や資本主義に「愛」という要素が全くないことに気づきますよね。

モノとして扱われる世界で愛を感じられるはずがありません。

「自分たちさえよければいい」という民族の思想が蔓延している状態で、他人に無償の愛を注ぐ人が現れるはずがありません。

でも「愛」がなくては人は生きていけません。

その、生きていくために最も重要なエッセンスが欠落している。

それが資本主義社会であり、現代社会です。

だから、みんな精神を病んでいくのだと思います。

精神疾患も依存症もACも差別も、何もかもの本質はここにあります。

私が最近、精神疾患も依存症もACも個人の課題ではなく、社会そのものの課題だと考えているのは、そういう背景です。

 

お金から距離を取ること、資本主義であるこの社会から距離を取ること。

この「離脱」こそが、これから人間らしく生きていくために必要なことになってきたなぁ、と実感しています。

これからは、できるだけそれらの要素を削ぎ落していく「離脱」の生き方を実践していきたいと思っています。

まさにそれを人生を賭して体現したのが、マハトマ・ガンディーだと思っています。本当にすごい人です。

彼は「欲望を削減する」ということを説いています。

経済社会そのものは否定しないけれども、人は本来必要なものを必要な分だけ得ればそれでよく、欲望を最小化することによって真に幸福な人生が送れると考えました。

ユダヤ民族の人生観とは、真逆ですよね。

私はガンディーの教えにこそ人としての「生の実感」、人としての本質があると考えています。真に感じるべき感覚は生死と欲望を越えた「存在の絶対感」だと思います。

お金を集めても、仕事を頑張っても、いくら物質的に豊かになっても、幸せではありませんでしたよね。それを経験的に証明するためにユダヤに連なる資本主義全盛時代を人類は経験する必要があったのではないかと思っています。

もう、お金や社会に踊らされるのは、やめましょう。

目の前にある花や木や草や、触れ合える世界が全てです。自分自身を含めた現実世界を愛で、好意を伝えること・肯定することに、全力で集中しましょう。

貨幣が創り出す仮想の世界に生き、命を消耗するのは、もう終わりにしましょう。

バーチャルの世界に幸せはありません。ネットは使うモノです。大切な自己を道具に没入させてはいけません。

最も価値あるものすべては、もうすでに全員の、現実の肉体と精神にある。他に求めなくてもいいし、客観的に証明する必要もない。あると思えばある。ないと思うからない。

これ以上、安心のために「形ある何か」を求めるのはやめにしましょう。それらは全て虚構であり虚空です。

楽しいと思えること、美しいと思えるもの、それを感じる時間と感性を大切にしましょう。

生きることは、それだけで100点満点だといえるでしょう。そのほかはオマケです。

 

そう考えると、とても気楽になりませんか?

経済社会に参加できるかどうか、なんて、人間本来の価値には微塵も影響しないのです。

引きこもりだろうが、不登校だろうが、社会不適合者だろうが、障害が有ろうがなかろうが、ただ存在するだけで、存在価値があります。お金に変換しようとするから、無いように錯覚するだけです。

みんながそのことに気づけば、世の中はもっとまともになるんだろうなぁ、と思います。

【仕事】「底辺の仕事ランキング」問題からわかる現代社会の病

このニュースが話題になっていたので、ちょっと書いてみる。

就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

 

「就活の教科書」というサイトに掲載された『【底辺職とは?】底辺の仕事ランキング一覧』という記事が炎上したという話。

引用:「就活の教科書」HP

 

問題のランキング表はこちら。

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

 

なぜこのランキングが生まれ、なぜ人々が反応したのか。

そこから現代社会の病が見えてくる。

 

①資本主義・新自由主義が生む「損得マシーン」の世界

②自己肯定感を失った寄る辺ない心

③共感性・想像力を失う「言葉の自動機械」化

④正義という暴力 現実逃避のための憂さ晴らし

 

この4つに分けて、抱える病について話していきたい。

 

①資本主義・新自由主義が生む「損得マシーン」の世界

経済で社会を構成しよう、というのが資本主義。

できるだけ公的介入を少なくして、自由に競争させることで資本主義経済を最適化しよう、というのが新自由主義。

現代社会は資本主義社会であり、新自由主義社会である。

儲かるか、儲からないか。つまり、損か得か。

そういった合理的な判断をもとに、計算可能性・投資可能性で人がやることを決めるのが、今の社会のルールとなった。

そのルールのもと、人間は「損得マシーン」になっていく。

そうなると、就職活動も結局は「楽して稼げるか」という観点で就職先を選ぶのが、最も合理的という判断にならざるを得ない。

底辺職の特徴について、

(1)肉体労働である

(2)誰でもできる仕事である

(3)同じことの繰り返しであることが多い

—- と解説しており、

デメリットについては、

(1)平均年収が低い

(2)結婚の時に苦労する

(3)体力を消耗する

—- を挙げた。

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

だから、デメリットの箇所のような思考になる。

投資する労力に対して、金銭的なメリットが大きいかどうか、婚活において市場競争力があるか、という「効率」でしか仕事を評価していない。

つまり何もかも「コスパ」で考えてしまうそもそものこの社会における価値判断が、大きく歪んでいるのである。

画一的な価値観を刷り込まれている。その歪んだ思考回路に気づいていないのが、病。

 

②自己肯定感を失った寄る辺ない心

なんで「ランキング」をつくるのか。

なぜそれを人々は嬉々として、あるいは戦々恐々として見に行ってしまうのか。

それは、順位をつけて上か下かを見て、安心したいからだ。

裏を返せば「相対的に他人と比べて上か下か」しか自分を肯定する材料がない、ということだ。

しかも、収入というごく一部の側面での、優劣でしか、自分を測れなくなっているということだ。

元々狩猟採集民族であった人類は、「目標」というものに弱い。

命を繋ぐために100万年以上「目標」を達成してきた私たちの遺伝子には、「目標」を達成しようとする精神神経回路が強烈に組まれている。

なので、競争の勝ち負けに人間の脳は引かれやすくできている。

ゲーム開発者はハマりやすいこの回路に働きかけて、よりゲームにハマってたくさん時間を使ってもらえるように、ゲーム内のランキングという「目標」をあえてつくっている。

本来、自分に合った仕事を誠実に行っていれば、それだけで有意義だと感じられるはずだ。仕事を通じて感謝され、自己実現が叶うのなら、それはその人にとって最良の仕事だといえる。

しかし、そういった自分の内面から湧き上がるような意思を持っていないと、与えられた「目標」に引っ張られる。それが、「お金=収入」という社会が与えた「目標」だ。

他人が考える他人が良しとする他人の為の目標。それに引っ張られて、自分が本当に成し遂げたい目標が無い。

つまり自分がない。空っぽだ。

自分の心から出発するものではないから、いくら他人から賞賛されても、いくら稼げても、その胸のうちは空虚で飢えている。

自己肯定感は、自分が自分として生きる過程でしか育まれない。そして、成功ではなく失敗からしか、実は自分のありのままを肯定するエッセンスは得られない。

失敗しないように、他人に認められるように、と生きていればいるほど、自己肯定感は養われない。

そうやって、空っぽになり穴を抱えた寄る辺ない寂しい心を「ランキング」で慰めるのは、実に空虚な行いだ。

 

③共感性・想像力を失う「言葉の自動機械」化

再びこの引用箇所を読んでみてほしい。

底辺職の特徴について、

(1)肉体労働である

(2)誰でもできる仕事である

(3)同じことの繰り返しであることが多い

—- と解説しており、

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

決定的に、想像力が足りないことに気づくだろう。

たとえば11番目に挙げられた、保育士。

この仕事は、肉体労働という側面だけではない。神経発達症や学習障害をもつ子の療育について専門書を読んで学ぶ必要もあるし、子どもだけでなく親についても学ぶ必要がある、実に専門性を問われる性質を持っている。

誰でもできるわけではない。子どもを複数人同時に見守る、ということは、そう簡単にできる事ではない。子育てをした経験がある人なら、容易に想像できるはずだ。

毎日が同じことの繰り返しであるはずがない。子どもたちは日々成長するし、その子ごとに日によって遊びたい内容も気分も違う。喧嘩が起こる日もあれば、急な体調変化で対応に迫られる日もある。

つまり、この記事を書いた人は、保育士という仕事のリアルを知らない。

なぜリアルを知らないのに底辺の仕事と位置づけたかというと、給与水準・平均的な学歴といった、データでしか仕事を見ていないからだ。

実際に体験したことのない、あるいは体験した人の話を聞いたことすらない、共同身体性を伴わない平坦な言葉や数字だけの情報を鵜吞みにしてしまう思慮の浅さ。これこそが「言葉の自動機械」化であり、問題の本質だ。

 

④正義という暴力 現実逃避のための憂さ晴らし

「職業に貴賎なし」

この正義の名のもとに、問題の記事を書いた人、掲載した会社を断罪するツイートをよく見かけた。

ごもっともだし、正論だ。正論には力がある。

その力を借りて、自らの残虐な嗜虐心を正当化してはいないだろうか。

人間が最も残虐になるのは、悪に染まったときではなく、真偽どうあれ「正義の側に立った」と思ったときだ。

「自分は正しい」という免罪符を手に入れて、正義という名のこん棒で悪とみなしたものの頭を打ちのめす快感に溺れる。

何かの漫画の一コマで有名な一節である。なんだったっけ・・・。

 

言いたいのは、この記事を書いた人と同じ、加害者になっているということ。

正義で他人を叩き殺す快感で、何を忘れたいのか。

それは「うまくいかない自分の現実(リアル)」だ。

自分の仕事の報われなさ、虐げられた記憶で同調し、その憎しみをぶつけることで、憂さを晴らす。そのために、このネタを使っているに過ぎない。

 

「自分はそうはならない」と心のなかで思っている。

それはわからない。私たちは誰もが、何もかも知っているわけではない以上、見えない差別(アンコンシャス・バイアス)で誰を傷つけてもおかしくない。

自分も叩かれる側になる日がくるかもしれない。その想像力にかけている。それは誰もが同じなのかもしれない。

その共感性と想像力の欠如こそ、この社会が抱える問題であり、議論すべきことではないだろうか。

そして、こうした「尊い仕事の給料が低いこと」が解決すべき課題であり、本来目を向けて皆で解決していかなくてはならない問題の本質ではないか。すなわち新自由主義的な社会が構造的に間違っている、それをどうするか、という問題だ。

暴力を暴力で解決しようとするのでは、同じになってしまう。いつまでも形を変えて同じ悲しみが繰り返されるだけ。

 

私が就活生に声をかけるとしたら

この社会は、いずれ崩壊する。

行き過ぎた資本主義が行きつく先は、ごく一部の富裕層による全体主義化だからだ。

99%の人間が不幸になる。そしてその不満が頂点に達したとき、カタストロフが起こる。歴史は繰り返されてきた。

潰える運命のこの社会の常識。それにどれほど価値があるだろうか。

常識はいずれ非常識に裏返る。そのとき私たちは何を寄る辺として立つのだろうか。

 

本当に価値あるものは、自分のなかにしか見いだすことができない。

ランキングなど、ただの低俗な遊び。気にする価値もない。

自分に問いかけよう。

本当に価値があると心から思えることをしよう。それが天職だ。

そして志を同じくする、損得ではなく心で通じ合える仲間を持とう。

金の切れ目が縁の切れ目。金で繋がる縁など、本当の繋がりではない。本当に困ったとき、手を差し伸べられる、手を差し伸べてくれる友人こそ、最も大切にすべきものだ。

経済も社会も崩壊したとき、本当に頼りになるのはそれだけだ。逆に言えば、その繋がりさえあれば、愛で繋がるコミュニティーに属していさえすれば、助け合って生きていける。

 

私が就職活動をしている学生にアドバイスをするとしたら。

 

何度失敗してもいい。まずはやってみること。そうでなくては見えない世界がある。

自分でつかんだ経験と哲学に照らし合わせ、自分の内なる声を聞き、望む道を見出すこと。

その道で出会えた心から尊敬できる仲間を大切にすること。

 

そんなところだろうか。

【雑談】迷走する製薬会社と自殺するMRたち

どことは言わないが、とある大手製薬会社は勘違いをしている。

正直、もうダメだな、と思う。

 

製薬会社が患う病

企業名という看板(ブランド)が、まだ通用すると信じている。

おそらく信じたいのだと思う。

自分たちはすごいんだ、有名企業なんだ、そのブランドでまだ売れるんだ、と。

残念ながらそれは悲しい妄想だ。

今まで主流だった生活習慣病領域や消化器疾患領域で築き上げてきたブランドイメージが、他の疾患領域で通用するかというと、そうではない。

というか、そんなわけがない。

しかも、そのかつては栄華を極めていた(らしいがその当時も二番煎じばかりではなはだ疑問の)時代は、ほぼ金でつくりあげたものだ。

接待OK、派手な講演会OK、ゴルフや懇親会などのイベント参加OK、学会共催や医師会共催なんでも肩代わりOK、東京や大阪や福岡でバンバン研究講演会を開いて飛行機代とホテル代を負担して先生たちに旅行がてら話を聞いてもらって、予算を使いまくれた。

だから、それなりに先生たちも製薬会社と付き合うことに価値(メリット)を見出していた。

MRは「飲み友達」「遊び相手」というポジションで「こいつのためだったら話を聞くか」と思わせるような愛されキャラが売れて、そういう寝技的な営業手法がもてはやされた。すなわち、とことん付き合うこと、できるだけ会うこと、とにかく頑張りを見せること。実に体育会系というか、努力・根性・やる気という私が大嫌いな成分で構成されたエリート意識である。

だから、昔は与えられた予算を使い切らないと仕事してないとまで言われた。期末はみな何とか残予算を0にしたいから「飲みに行きませんか?」と先生を誘いまくった。結果、9月と3月は連日飲み会で二日酔いになりながらヘロヘロで仕事をしていた社員がたくさんいたらしい。完全に飲酒運転じゃん。

そんな時代に一番に評価してもらえたからといって、今、この環境で同じように評価されるわけがない。

なぜなら、金も使えない、飲み友達にもなれない、自分たちの団体に出資すらできない、そんな存在は利用価値(メリット)がないから。

むしろ今までそんな泥臭い部分でしかメリットを提供できていなかったことが問題。

社員たちはみなその問題を薄々分かっていながら、腫れ物に触るように口にしない。

昔の先輩を悪く言って睨まれたくないので、忖度している。過去の人々を否定することは、上司やその上の世代を否定すること。そんなことをする社員は出世できなくなる。

現役社員は、本質的な問題には目を逸らしつつ「自分たちはブランドがある」という幻想を捨てられない旧世代にゴマを擦ってご機嫌取りしている。

現実問題として、今この会社が参入している新しい疾患領域は発足当時ひどかった。MRは素人に毛が生えた程度で、私も含め本当に役に立たなかった。周辺疾患の知識がまるでなく、現場感覚も分かっていない人間の提案を、医師が聞くはずがない。

賢いMRは、その現実を謙虚に受け容れていたので「わからないのでどうか教えてください」のスタンスで最初は製品の紹介などせず、先生方の話をきちんと傾聴した。だから生の知識を得て、提案すべきポイントを踏まえることができたので、売上の立ち上がりは遅かったかもしれないが今後を支える人材として成長した。

でも、残念ながら、現在前者の賢いMRは結構他社に流れてしまったと思う。会社に失望するのも無理はない。当初コントラクトMRとして配属されていた賢いMRも派遣切りのようにして切ってしまった。せっかくの財産を自らみすみす手放すという愚を犯した。

アホなMRは、会社の洗脳をそのまま信じて一生懸命追いかけまわして話しかけた。今まで貢献してこなかった素人がえらそうにデータがデータがと毎日駆け寄ってきたら、そりゃあもうウザくてたまらなかっただろう。先生方は本当にお気の毒様である。

賢いMRが去り、アホなMRばかりが蔓延って幅を利かせているのが今だ。

「あんまりにもしつこすぎるから、ちょっとだけ使ってしばらく黙らせとこう」と少し処方したのを「ほら!やっぱり諦めずにしつこく宣伝するのが大事なんだ!」と小躍りして喜んでいる。真性のアホである。しかしそんなエピソードが成功例として社内プレゼンされる。そしてそれを他のアホがマネする。そうやって「やってます感」をうまく社内で形に残せたMRが社内でポイントを獲得して出世する。つまりアホが出世する。

そして会社の上層部はどんどんアホばかりになっていく。実際そうなっている。

だから、過去の栄光、ブランドイメージが今も通用するなどとおめでたい発想を「偉い人が言うんだから本当なんだ」とかあまり自分の頭で考えず継承してしまうのである。

 

私が社会的意義や医療貢献を主眼に置いて発言したり企画をあげたりすると、マネジメント層は決まってこの言葉を返してくる。

「私たちはNPO法人ではなく、営利企業なので、利益が見込めなくては投資できない」

 

はいはい。株式会社ですもんね。わかるわかる。

なんていうと思っとるんですか。何を寝ぼけているんだ。

 

私たちの製品は公的医療保険で7割~9割を負担してもらっている。つまり税金である。

私たちの医薬品が売れて入るお金は、70~90%が税金ということだ。

それって、ほぼ公務員じゃないの?

ボランティアじゃやれないとかいうけど、そもそもが公益事業でしょうよ。

税金から金もらっといて、自分たちにメリットがなければ何もやりませんって、それはおかしくない?

むしろ公に奉ずるものであって、個人の利益に走っていい財務体系をしていないじゃないの。

売上至上主義を正当化したい理由は、結局、株主である投資家様にもっと稼いでこいって言われてるからでしょ。

株式会社は「もっと金をよこせ」という支配的な株主に逆らえない。でもそれが真の理由だとは言えないので「研究開発に投資するためには売り上げを上げて利益を出さないといけない」とか「営利企業として成長し続けないとみんなを雇用し続けられない」とか言って誤魔化す。

残念ながら、このとある大手製薬会社の配当性向は100%を超えている。これは何を意味するかというと、実力以上に株主配当に回しているということ。その株主配当と高額すぎる役員報酬を含めると、研究開発費と同じくらいの額になる年もあるほど高額になる。

結局、会社をおもちゃにして金を稼ぎたい株主と経営者のために、売上を割いているんじゃない。研究開発費に使ってないじゃない。つまり売上達成の目的は研究開発に投資するためじゃないじゃん。

真実をていよく誤魔化して、建前で塗り固めた大義名分を述べているだけ。

 

木を見て森を見ず

活動方針や行動そのものも、功利主義的というか、自分たちのことしか考えていないようなも戦略がほとんどだ。

「とにかくたくさん処方してもらおう」

考えているのはこれだけだ。

患者さんの為とか社会の為とか、本当は全く考えていない。

建前として毎回口にする「患者さんのため」が、聞くに堪えない。

行動計画の端々から本音がだだ漏れしているのに、いけしゃあしゃあと「患者さんのため」とかいうのを見ているこっちが恥ずかしくなる。

 

世の中にとって必要なサービスと存在であるからこそ組織は存続できるわけで、自分たちの損得しか考えない組織はいずれ滅びる。

まさに滅びの道を全速力で突っ走っているのが、製薬業界じゃないかなと思う。

 

MRは、上司を通じて会社から毎日毎日プレッシャーをかけられ「とにかく計画を達成しないといけない」「そうじゃないとバカにされるし降格されるしクビにされる」と精神的に追い込まれる。

追い込まれた人間は、とにかくその苦しみから逃れようとあの手この手で説得しようと焦る。結果をコントロールしようとする。本来はコントロールできないのに。

当然ながら、処方というのは、医師が決めることだ。

私たちはその判断をサポートをする存在だ。私たちが医師の治療方針をこちらに都合のいいように誘導して変えさせよう、というのは根本的に越権行為であり、過干渉である。アプローチが間違っている。

私たちはあくまで医師と患者さんの困りごとを解決するお手伝いをするために存在していて、そのための一つの方法として自分たちが扱っている医薬品がある。

困りごとに寄り添い、その解決を一緒に考える過程で、医師と患者さんが「これは役に立つ」とご本人が判断して利用する。

その結果、医薬品が役立ち、その副産物として売上が生まれ利益が生まれる。

その間にある最も重要な活動をすっ飛ばして、いきなり自分たちに都合のいい結果を求めるなんて、お粗末すぎる。

例えるなら、とにかく女の子とヤりたいからって会って速攻ホテルに連行しようとする、モテないイモ男みたいな感じ。

 

自分たちに都合のいいデータしか紹介しないのも、話を聞く価値がないと思われる原因。

「自分たちの製品を使ってもらう」という結果有りきなので、必然的に良かったデータしか会社は取り上げないし、自分で調べない社員は会社が教えてくれるデータしか知らない。

そうなると、MRが持っている情報は実に偏った、ご都合主義の代物になる。

そんな情報を、医師が聞きたいと思うだろうか。当然、思うはずがない。

面会してくれている医師でさえ、「はいはい、売りたいから都合のいいデータ持ってきたんでしょ」と思いながら、会社に洗脳されたかわいそうなMRを見るに見かねて、聞いているふりをしているだけだと思う。

コロナを理由に会ってもらえないのは「MRなんてわざわざ会う価値がない」と思われているからだ。コロナのせいではない。ていのいい断り文句として使っているだけ。

医師が信頼するとしたら、同じ目線で現状をとらえ、純粋に力になろうとしてくれる味方だ。

医師は科学者だが人間でもある。自分たちと同じ目線で、より良い未来をつくろうと本気で考え話をする人だから、その人の話を信頼して時間を取ってでも聞きたいと思うんじゃないだろうか。それが人間だと思う。

MRが話を聞いてもらおうと思ったら、まずは目的を根本から見直さなくてはならない。

会う目的はどこにあるのか。売りたいだけなのか、それとも役に立ちたいのか。

医師はたくさんの患者さんを診ているので、人を見るプロでもある。下心で建前だけ並べているような人間は簡単に見抜かれる。

「英語論文なら信じてもらえるかも」などと小手先で説得しようとしてくるようなMRなど、ただただ小賢しい。

しかし、たいていのMRや製薬会社はそんなことはわからない。

あろうことか「医師はプライドが高いからMRを下に見ているので、MRの話を信用しないのだろう」と自分の無能を医師のせいにしている。

何を言っているんだろうか。

自分たちが学歴コンプレックスを抱えているだけじゃないか。

医学部に合格する偏差値がなかった自分たちの歪んだ劣等感を乗り越えられていないので、医師をプライドが高い偏屈で世間知らずの人種だと蔑視してプライドを守る。この傾向は実にずれているし、嘆かわしい。

たしかに、たまにやたらえらそうな態度のデカい先生もいるけど。

医師の世界は学歴バリバリの権威主義社会なので、一定数そういう勘違いしている人が出てくるのも事実。そういう社会の仕組みだから仕方がない。

学歴社会で受験戦争を勝ち抜いた。その成功経験だけがプライドを支えていると、自分を肯定するために学歴や社会的地位で価値を測る人間になってしまう。この社会も、学校という奴隷養成施設で良い子ちゃんでいることを肯定している。お勉強ができて余計な反抗をしない模範的な歯車でいれば大人に褒めてもらえる。

周りの大人の言うことを聞いていれば、偽りの自己肯定感を得られる。

学歴カーストに隷属して褒められることを精神的拠り所にしていると、人間的に成熟することができないまま年を重ね、自信のない傲慢不遜な人間に仕上がる。

そんな残念なタイプの医師にひどいことを言われたりゴミ扱いされたりした経験から、医師への歪んだ敵意が生まれたのかもしれない。虐げられてきた過去は、同情に価すると思う。

でも、そのバイアスで十把一からげに医師全部を色眼鏡で見るのは、どうかと思う。

他人のせいにして、自分が向き合うべき課題とそれに対してできることから逃げているだけ。

特定の医師の価値観が歪んでいるとしたら、それはその人たちの問題である。私たちにはどうしようもない。

売らなきゃいけない、というのはこちらのエゴ。そのエゴが通らないからと、己のチンケなプライドや自尊心を守るために、医師を不当に見下して、MRとしての使命を軽く見た。

その結果が、この惨状だ。

 

最後に

私は、MRは必要な存在だと思う。

ちゃんと副作用情報を収集して集積し、市場を挟まず適切な使い方について科学的な情報を提供するだけで、充分に存在価値がある。

患者さんの状況は千差万別だ。一つ一つの症例に寄り添ってベストな提案ができる薬剤の専門家は、AIやコールセンターだけではできない。

現在同社のコールセンターの質は残念ながら低く、オペレーターは空気が読めない。自分ならもう問い合わせしないだろうな、という応対で医療関係者をイライラさせるので、あとで謝罪に行かなくてはならないほどだ。仕事を増やすの、本当にやめてほしい。

そういう意味でも、独特の感覚と商習慣をもつ医療機関との橋渡しは、経験豊富なMRでなくては、現状務まらないと思う。外注したり、マニュアル人間に任せられるほどこのサービス業は簡単ではない。

でも、製薬会社が今のままなら、MRは要らなくなるし、製薬会社そのものも衰退する未来しかない。

エビデンス主義や西洋医学の論理が絶対ではないことは、最近の感染症にまつわるあれやこれやで詳らかになってきた。わかるひとはわかっている。

エゴから生まれた化合物なんて飲まないし打たないよ、そんなもの。製薬会社がそんな体たらくであり続ける限り、いずれ製薬会社とかかわりを持つことそのものが経営的なリスクになる。医師を信頼できないとして、患者さんのほうが離れていくだろうから。

もう遅いかもしれないけど。

【仕事】デキる上司ほど部下を潰す!:山田玲司先生直伝 自分を守る「4つの作戦」

この世の悩みは「人間関係」だと言い切ったのは、心理学者アルフレッド・アドラーだが、職場の悩みの原因もだいたいは「人間関係」だと言われている。

人間関係というかコミュニケーションの問題かもしれない。

 

やばい上司

人は、誰しも苦しくなると、過去の成功体験を支えにするものだ。

自分は他人よりも優秀だ、と考えている人ほど、過去の栄光に固執する。

「自分はこうやってうまくいって、今の立場がある。だから正しい。」と思いたい。

思いたいのは勝手だ。だが、それを他人に押し付けてはいけない。

でも押し付けちゃう上司ってほんと多いよね。

 

デキる人というのは、出来ない人がなんでできないかわからない。

原因や理屈を頭で理解しても、その心情までつぶさにその感覚に身を寄せることはできない。自分ではその挫折感や屈辱感を経験することができないからだ。

誰でも自分にできることが、相手にもできると思ってしまいがちで、デキる人は「自分にできるんだから頑張ればできる」と短絡的に思考してしまうことがある。

そう簡単にはできない人もいて、できる能力がたまたまあっただけなのに、それを「なまけている」「やる気がない」「根性がない」とその人の気持ちの問題だと思ってしまう。

ここに、大きなコミュニケーションにおける問題が発生する。

上司は「できるのにやらない」と思って不信感を募らせる。

かたや部下は「正しいのは分かるけどできない」だけなのに、今までの努力や熱意を全否定されたように感じて、次第に鬱屈していく。

あるいは、上司が過去の成功体験を引っ張り出してきて、前時代的だったり背景が違ったりして通用しないにも関わらず信仰していて押し付けてしまう。

部下は「こんなんうまくいくわけないじゃん」と思いながらも実績と経験がまだ少ないことを理由に拒否できず、やる気を失う。

 

やたら世話を焼き、手取り足取り細部まで管理したがるリーダーもやばい。

このダンゴムシのようなもの。

「自分の言う通りにすればうまくいくんだ」とやり方から過ごし方までマイクロマネジメントをして、部下を言う通りに動かそうとする行為は、虫をいじくりまわして意図せず殺してしまう幼児と同じだ。

あくまでも、本人の自主性が最も大切な原動力であり、尊重すべき個性なのに、それを否定されて道具のように扱われたら、人の心は簡単に死ぬ。

 

 

上に立って部下を育てるとき役立つのは、失敗した経験である。

部下はかつて成功した再現性のない武勇伝より、尊敬する上司の生々しい失敗経験のほうが、よっぽど聞きたいし、よっぽど勇気をもらえる。自分もがんばろう、と思える。

だから、本当に頑張ってできなかったことができるようになった人が、上司に最もふさわしい。

しかし、この資本主義経済社会では、負けたら終わりのルールなので、基本的に減点がたくさんついた人間は、出世しないようにできている。

結果として、あまり失敗を経験できなかった、保守的でリスク回避がうまいだけの、薄っぺらい人間が上に立つことになる。

ぶっちゃけ、システムとして、クズだけが上に行くようにできている。

だから上司にクズが多いのは当たり前のことなのだ。とんでもないブラック社会である。

 

上司の3要件として「ご機嫌でいる」「愚痴らない」「威張らない」というのがある。

「この3つができないなら人の上に立つ資格はない」とまで漫画家の山田玲司先生はいう。

 

今まで働きやすい環境を整えてくれて、人間的にも尊敬できる上司は、本当にこんな感じだ。

反対意見は逆に面白がるし、真剣かつ謙虚に耳を傾ける。

『貞観政要』で李世民が魏徴の率直な意見を兼聴することを忘れなかったように、優秀なリーダーはきちんとそこを踏まえている。

 

 

それに、会議でもなんでも、せっかくなら参加しているメンバーに楽しく参加してもらおうと態度だけでも明るくする。

そして、権力を振りかざすことを決してしない。

この世は、その逆をやっているマネージャーが多数派だと思う。

 

上司(他人)は変えられない

いつも不機嫌で愚痴ばかりで威張り散らすような上司と一緒に仕事をするのは、地獄でしかない。しかしそういう人がほとんど。

ではどうするか?

 

基本的に、合わないところにいてはいけない。

人というのは、合わない場所・合わない文化・合わない集団にいるだけで、疲れ果ててしまうものなので、基本的に向いている居場所で生きていくのが一番だ。

さっさと転職しよう。あるいは、上司がいない働き方を求めて独立しよう。

 

というのがベストだが、言うは易く行うは難し。なかなかハードルが高い。

 

つらいところなのが、他人である上司に何とか変わってもらおうというのは、現実問題難しいということだ。

なぜなら、上司は上司なりに人生を歩んできて、そのバックボーンがあってのその人なのであって、私に私の物語があり信念があるように、上司にもそれがあるのが当たり前だからだ。

そのバックボーンをタイムリープして変えることなどできないし、その人にはその人のやり方があり生き方があり意志がある。

それは私が私を尊重してほしいのと同じように、彼らも尊重してあげるべきなのだ。

変わろうとすることは、その人にしか決められない。変化は変わろうと自発的に思ったときにしか起こりえない。

私がコントロールできる範疇の外にある。変えられないものなので、そこはどうしようもない。

 

今すぐできる!山田玲司先生直伝の「4つの作戦」

だから、変えられるとしたら自分のほうだ。

「なんで?!私は間違ってないのに変わらないといけないの!?」と憤ったそこの貴方。

大丈夫。安心してほしい。

あなたそのもの、あなたの生き方や信念を捻じ曲げる必要はない。

それぞれに粛々と生きたいように生きればいいだけで、あなたは上司の納得できないやり方に首を縦に振る必要もないし、跪く必要もない。

じゃあどんなふうに振舞ったらいいの?ということで、4つの作戦を紹介したい。

 

①妖怪ウォッチ作戦

人間ではない「妖怪」だと思って接しよう。

同じ人間だと思うからしんどくなるわけで、年取ったジバニャンがなんか言ってるなー、変わってんなー、と思って聞き流すと、結構気が楽になる。

 

②主治医作戦

私もたいがい精神を病んでいるが、基本的にビジネスに携わっている人というのは、多かれ少なかれ精神を病んでいる。

ワーワーとまくしたてたり、意味不明な行動をしたりしている上司を、「患者さん」だと思って接してみる。

「はいはい、患者さんこっちですよ、今日はどうしたんですか?」と、主治医になった気持ちで耳を傾けてあげる。精神を病んでいる人のカウンセリングだと思えば、時間を浪費するというより、時給をもらいながら精神療法をしている感覚になるので、イライラしづらくなる。

でもこれは、比較的余裕があるときにしたほうがいい。

上司が「今、俺の話、部下に伝わってる!」と勘違いをしてやる気を出し、わりと終わらせるのに時間がかかることがある。しかしガス抜きさせてあげるのには得策。

③動物園の園長作戦

これは①に似てますが、さまざまな上司がそれぞれに狂っている場合に使う。

動物園で日々様々な獣のお世話をするような気持ちで接する方法だ。

無意味なうえに荒れて長引いている会議中など、とても有用。

「よしよし、今日もみんな元気に吠えてるな」と思って数歩引いてみてみると、頭に血が上ることもない。

④悲しみのバックストーリー政策委員会作戦

これは、思いがけず傷つくことを上司から言われたときに実行する。

「この人は、なんでこんな部下を悲ませるようなことを言うようになってしまったんだろうか」と考えを巡らせてみる。

たとえば、誰かより上だとか下だとか、誰のほうがすごいとかダメだとか、相対的な価値観に引っ張られる上司の場合、だいたい親から成績で他の子と比べられ続けてきた幼少期を過ごしていたり、他人にマウントを取られてとんでもないトラウマを抱えていたりしている。

「そうかそうか、ちっちゃい頃につらいことがあって、そのせいで病んでしまったんだね・・・」と思うと、なんとなくその人の人生の不幸に同情して受け流すことができる。

他人に何かを言われたとき、自分が否定されたと感じているから痛みを感じる。

しかし、指摘されたことに学ぶべきものがない限り、その発言はえてして他人の問題の表面化に過ぎない。

つまり、上司が自分にひどい言葉を投げかけるのは、自分に非があるのではない場合、たいてい上司の人生の問題なので、基本的に自分には関係ないことで、そんな言葉であなたの価値は傷つかないのである。

だから、「(あなたのなかでは)そうなんですか、気を付けます」とでも言って憐れんでおけばよい。

 

まとめ

正直今の上司は本当に困ったちゃんで、結構疲れる。

そんななか、われらが山田玲司先生が、とってもわかりやすく問題解決について語ってくれていたので、まとめてみた。

4つの作戦を実際に実践してみた結果、とてもストレスがなくなったしなんだか優しい気持ちになれるので、おすすめしたいと思った。

いろんなひとがいて、いろんな傷を抱えて生きている。

所詮金を稼ぐための仕事なんてゲームなので、気楽にいこうではないか。

自分の情熱を傾けて作品をつくったり、何かを育てたり、大切な人を大切にしてご機嫌に過ごすことのほうが、人生においては仕事の何億倍も大事なので、つまらないサブクエストで死にたくならないように、一緒にのんびりいこう。

 

【仕事】「仕事に行きたくない」「毎日が虚しい」「朝がくるのが憂鬱」

こんなふうに感じること、ない?

 

仕事をしていて思うのは「お金のため」に仕事をしている人ばかりだ、ということだ。

「社会のため」でもなく「自分のため」ですらなく、ただ「お金のため」。

稼ぐのに、効率がいいから、利回りがいいから、そんな理由で行動が選択されていて、そこには自分も他人も無い。

たとえば、今勤務している会社の社宅の賃貸契約をする代行業者がいる。

社宅の入退去時にやり取りするのだが、まぁ他人事でやる気がない。

彼らは不動産のプロのはずだ。プロとして契約し中抜きして収入を得るからには、入居者と大家や管理会社の仲介役として、何らかのバリューを生むべく存在していると私は思いたい。

しかしやり取りしている背後から聞こえてくるのは「面倒なことにはタッチしません」「私には責任ないです」「楽して適当に終わらせたいです」という、心の声。

私たちに価値を提供しようとは思っていない。私たちがどこに住んでどうなろうが、大家がどう思おうが、リスクを負わされて面倒なことになりさえしなければ、心底どうでもいいというのが伝わってくる。

本当にイライラする。いや、イライラするというより哀しくなる。

あんたら、そんなんでいいの?なんのためにそこにいるの?何のために今生きてるの?できるだけ効率的に金さえもらえれば、携わった人が困っていたってどうでもいいのかい?それが自分や自分の大切な人なら、同じように無気力に右から左に流して済ますのかい?

そんな?がたくさん浮かんでくる。

世の中にはこういう無責任な仕事をする人が本当に多いと思う。

自分の損得、会社の損得、全部、損得。損得マシーンと化している。

裏を返せば、それだけ余裕がないのだ。他人のことなど気にかける余裕もなく、毎日を生きるために日銭を稼ぐこと、それにできるだけエネルギーを使わないこと。それだけを死んだ目をして送りたくもない「日常」をやっている。それで精いっぱい。

そこに、込めることができる魂はない。マシーンだから。

 

替えがきく歯車でいいのか

替えの効く既製品の労働マシーンとして、私たちは組織に、資本主義社会に飼われている。

毎日カネ、カネ、カネと鳴きながら回る歯車である。しかも替えがきく。

そんなものであると自覚しているのかいないのか、自分自身の気持ちさえわからなくなっている。何が楽しいとか、何がうれしいとか、どう生きていきたいとか、そういう心のど真ん中にあるべき燃える大切な何かが見えない。もう完全に鎮火され消し炭になってしまったのか。

 

本当はもうこんなの嫌だ、と心が叫んでいる。

でもこんなの嫌だと自覚してしまうと、苦しくて仕方がないので、なかったことにしているのだ。

できるだけ心を痛めないように生きていくには、心を抹殺して「歯車」になりきって生きているほうが楽だから、無意識に逃げている。

歯車としての「立ち回り方」にだけ集中していれば、余計なことを考えなくて済む。(余計なことではなく、むしろ避けていることこそ人生を賭して考えるべきコトなのだが。)

他の歯車に簡単に交換されないように、毎日怯えながらいかに優秀な歯車かを示すそうとアピールに必死である。出世ばかりを気にする人や所謂エリートは、そんな感じの模範的な歯車。

しかし、どれだけアピールしようと所詮は替えがきくから歯車なのであって、いてもいなくてもどっちでもいい存在。この資本主義社会においては。

だから、出世レースは虚しい。マウント合戦は悲哀に満ちている。

心はいつまでも渇いたまま。

 

異世界に逃亡するたいやきくんたち

 

まいにち まいにち ぼくらは てっぱんのうえで やかれて いやになっちゃうよ

引用:『およげ!たいやきくん』作詞・作曲:‎‎高田ひろお、佐瀬寿一

たいやきくんのように、嫌になっちゃうのである。

嫌になっちゃった たいやきくんは、海に逃げ込む。

 

心の渇きを癒すために人は何をするかというと、さらに逃げる。

私は酒で前頭前野を麻痺させることで、現実という悪夢から合法的にトリップしようとした。そしてアルコール依存症になるまで飲み続け身も心もズタボロになった。

だから、逃げたくなる気持ちは人一倍わかるつもりでいる。

なろう系、いわゆる異世界転生モノが流行っているが、これもまさに麻酔コンテンツと言えるだろう。

「俺は特別」「オレは最強」「未来を好きなように変えられる」

歯車がみる夢を体現している。それが、なろう系を人が群がって貪る理由である。

しかし私は知っている。

大失敗して死ぬか生きるか悩むところまで堕ち、泥水をすすりながら這い上がってきたから知っている。

いくら麻痺させても、いくら逃げても、現実はそこにある。

私たちは、それぞれの個体の限界を受け容れて生きていくしかない。自分以外の存在にはなれない。

仮想世界にいくら逃げ道を探しても、自分自身の心の声を無視し続ける限り、渇きは癒えることはない。

どんなにどんなにもがいても ハリがのどから とれないよ

引用:『およげ!たいやきくん』作詞・作曲:‎‎高田ひろお、佐瀬寿一

何が嫌なのか、何が辛いのか、その暗く深い心の泉を覗き込み、水底の泥さらいをしなくては、本当に聞きたい本音は聞こえてこない。心に突き刺さったハリはとれない。

しかし、歯車たちはそれがどれだけしんどいか、どれだけ泥さらいの過程で傷つくか、薄々分かっている。もがいてもとれなかった学習性無力感で、もはや取る気もない。先延ばしにしてみて見ぬフリをしているのである。

そんな人がたくさんいれば、魂のない仕事が巷を埋め尽くすのは、当たり前だ。

だって、目の前の人は、そこにいないのだから。今この瞬間を生きていない。心の鼓動が聞こえない。ここではないどこかにトリップしていて、対話していると思っても、そこにいるのは心を持たないただの抜け殻なのだから。独り言を言い合っているようなものだ。

仕事で他人と話をしていると、どこか空虚な感じがするのは、ドッと疲れるのはそのためだ。

 

資本主義社会はもうお腹いっぱい

逃げている、といったが、それは歯車たちが弱いからではない。

むしろそれは当然である。なぜなら社会がそうなるようにできているからだ。いや、そうなることを望んでいるといってもいい。

資本主義社会、特に株主資本主義で経済が回っているこの現代社会は、仕事の社会的な意義よりも、投資可能性と計算可能性だけで構成されている。

お金を持っている人が、さらにお金を増やしたい、と思った場合、投資したときに確実に投資額よりも多いリターンを得られる未来が予測しやすいように、市場と人をコントロールしようとする。

そうなると人間性という非合理的なものは予測を不確実なものにする「ノイズ」「リスク」でしかないので、極力排除したいと考える。

 

資本主義社会において組織は行政官僚制を布く。つまりピラミッド型の組織体系である。

そのほうが理論上は、命令通りに人を動かすことができ合理的かつ効率的に最大効果を得られるはずだからだ。

しかし社会学者ロバート・キング・マートン(1910-2003)が指摘したように、行政官僚制は最終的に非合理的な組織に変貌する。

顧客のためではなく組織内の忖度のために働き、規則の奴隷となり自己成長をやめ、リスクを回避するために処罰を免れることができる必要最小限の行動しかとらず、既存体系を変えることを怖がる。

だから組織が大きくなればなるほど、中にいる人はどんどん没人格化していく。人間性を失い、先に述べた「死んだ目をした歯車」が大量に生産される。

 

資本主義社会を動かしている側、お金を持っているヒエラルキーの頂点にいる人たちにとっては、下民がそうやって人間をやめていってくれたほうが、予測可能性を狂わせるノイズがなくなり、かえって好都合だから。

病んだ現実逃避をしていようが、苦痛にあえいでいようが、野垂れ死のうが、知ったコトではない。自分たちより下の者たちなど、道具であり、商品であり、心の底では私たちを人間ではないと思っている。そうやってこの社会は、偽りの平和を語りながら、歯車たちの声なき悲鳴を轟かせつつ、今日も冷酷に回っている。

 

しかし、もうこんなのはうんざりだ!とさすがの歯車も軋み始めているんじゃないだろうか。そろそろ現実からあれやこれやと逃げ続けることも、限界を迎えているのではないか、という雰囲気を感じる。

 

テメェの人生は仕事かよ

歯車で生涯を終える。

本当に、心の底からそれでいいなら、それもまた一つの生き方だ。尊重したいと思う。

でも、本当にそうか?

偽りの安心を買うために、やりたくもないことをやり、話したくもないことを話し、嬉しくもないのに笑って、数十年を無意味に過ごし、何も残さないまま土に還る、そんなことを本当に心から望んでいるのか?それが、子どもの頃からの夢だったのか?

本当は、そうじゃないんじゃないか?

 

私は我が子を見ていて思う。

子どもの目からみて、世界はとても美しく輝いて映っていると思う。

それは、損得だとか、規則だとか、既存の価値観だとか、そういう「ノイズ」で心を檻に閉じ込めないで、ありのままの心で見ているからだ。

人間性が「ノイズ」なんじゃない。社会を縁取る枠組みこそ「ノイズ」なんだ。

素直な驚き。純粋な疑問。瑞々しい、心揺さぶられるような感覚。それを子供たちは全身で表現する。だからこちらまで嬉しくなるような眩い光を放つ。それが美しいということではないだろうか。

子どもは絵を描くとき、ルールや得手不得手を気にしない。

「描きたい」ただそれだけだ。

筆の手触りと重み、画用紙の上をすべる筆の感覚、現れた色彩。

全身全霊で今ここにあるリアルに向き合い格闘する。

自分が表現したいものを形にするためだけに、全神経を集中させて画用紙を見つめる瞳は、どんな宝石よりも美しい。

そこに「これは売れるだろうか」とか「これをやってキャリアに意味があるだろうか」とか、そういったつまらない打算は存在しない。

だからこそ、たどたどしく描かれたその線に、その迫力に、圧倒されるのである。

 

そんな生き方をもう一度取り戻したいとは、思わないだろうか。

あのとき、私たちもそうだったではないか。

汚れてしまったかもしれない、いまさら恥ずかしいかもしれない。

でも、まだ生きている。命はまだ終わってない。

なら、もう一度、本気で賭けてみよう。

 

私は断酒をはじめたとき、そんな気持ちだった。

再飲酒をして何度もこけた。でも諦めないで生きてきた。今が人生で最高だ。

だからこんなふうに思うのかもしれない。

【共依存】仕事に逃げる男たち

男たちが仕事にこだわる理由。

それは結論から言えば「人生から逃げるため」である。

 

彼氏彼女の幻想の崩壊

男はジェンダーロールという呪いを背負っている。「強くなくてはならない」「社会で成功しなくてはならない」「仕事をして稼いでこなくてはならない」という洗脳を受けて大人になる。

これは戦前から連綿と続くアメリカでいうマッチョイムズである。日本では「家長」としての父親像から端を発する。戦後の核家族化・高度経済成長の流れのなかで、徐々に男性の役割が「家長」ではなく「大黒柱という名のATM化」に移行していくが、ジェンダーロールは今までの時代の流れから形成されている呪いである。

この呪いは根深い。

専業主夫という概念を若干見下す一定の世代の偏見は、こうした既存の価値観からきている。

「男は外で汗水たらして金を稼いでくるのが役割」だと刷り込まれている。

その価値観を引き継ぎ是とするままのこの現代社会で、若者が結婚する気になれるわけがない。

昨今の若者は、生まれてからずっと経済社会が悪くなるところしか見ていない。バブル崩壊後どんどん経済が低迷していき、ろくな景気対策もできない政治をする大人たちを見て育ってきた。経済が上向かない・よくなる未来が全く見えない今の日本で「金を稼いで家族を養う」なんてできないと絶望しているのである。

だから未婚率が高くなるのは必然だ。

 

結婚できたとしても、結婚生活がうまくいかない。

なぜなら「結局は自分が稼いでこなくてはならない」というプレッシャーを常に感じながら生活していて、仕事に重点を置かざるを得ない心理的呪縛が抜けないからだ。

結婚すると生活は一変する。

まるでナウシカのように、彼女は優しく自分をあるがまま受け容れてくれる存在だと、付き合っているときには勘違いしている。その認識のまま結婚する。結婚して妻になり子供が産まれた瞬間、彼女だったあの子はもういなくなる。完全に消滅する。

女性はその子の母になる。旦那の世話など二の次・三の次、いや果てしなく優先順位は下だ。

それは当然であり、男たちが勝手に勘違いして幻想を抱いていた彼女像が、そもそもの認識間違いである。

妻は、夫の母代わりではない。

独立した別の人格を持つ、尊厳ある一人の人間であり、共同生活を共に営む、いうなれば相棒・会社でいうところの共同経営者だ。

しかし男たちは、妻を、自分のことを一番に考えてくれて辛いときは慰めてくれて、欲しい承認欲求を与えてくれて、守るべき存在でありながら自分を包んでくれる存在だ、と思い込んで結婚している。

そんな風に妻のことをいつまでも自分だけの女神さまのように思ってきて、ある日「あれ?なんか思ってたのと違うな」となる。

子ども最優先になり、今までやってくれていたことはできなくなる。

妻はホルモンバランスが変わり、子ども最優先で行動するよう生体からプログラムされている。夫のことは、男性としてではなく子育てチームの一員としてみるようになる。ガラリと変わるその様は、男性にとって、まるで妻が別人になったかのように見える。

それは母として最適化するよう遺伝子にプログラムされていることなので、本人たちにもどうしようもない。

そして、夫が家事育児の領域で役に立たないと、妻はむちゃくちゃイライラする。そもそも寝不足で身体はガタガタなのでメンタルのコンディションは最悪だ。あらゆることが癪に障る時期なので、どうしようもない。役に立っていても基本的には存在しているだけでムカつく、そんな感じだ。

そうなると次第に夫は妻に、妻は夫に不満を持つようになる。

「付き合っていたときとは、変わっちゃったな」

「こんな人だとは思わなかった」

そもそも付き合っていたときに感じているときめきが一種の幻覚であり恋の「病」。異性に求めていることが根本的にマザコン的な依存である男性は、それをいつまでも叶えてくれるなんていうのがとんでもない幻覚妄想の類で、スタートから間違いなのだが、徐々に夢から醒めていく。

そしてある時期から「なんでこんな人と結婚したんだろ…これが望んだ結婚生活なのだろうか?」と夫婦ともにお互いが小首をかしげはじめる。

しかし、それを直視した先に、「離婚」あるいは「別居」という重いテーマに対峙しなくてはいけなくなることを、うすうす気づいている。

だからお互いに見て見ない振りをして、夫は仕事に逃げ、妻は子どもに逃げる。

その結果、2人のコミュニケーションは劇的に少なくなる。お互いに対する徐々に不満と怒りをため込む。ため込んだ不満と怒りは腐敗して、消しがたい恨みとなっていく。

そして両者の溝は決定的に埋めがたいほど深くなっていく。

 

仕事に逃げる男 子どもに逃げる女

両者の関係が険悪になるにつれ、一緒にいることが辛くなってくる。

ひとつ屋根の下共同生活を送ることそのものがストレッサーになり始める。

そうなると、男は仕事からなかなか帰ってこなくなる。

「家にいるより仕事をしていたほうが心理的ストレスがないから、朝早くても夜遅くても大丈夫です」

とは、最近新生児が生まれた後輩のMくんの発言だが、まさにこれだ。

そもそも二人でいることが辛いのに加えて、子どもは夜泣きするし、妻はいつも不機嫌だし、家庭にいる時間を針の筵のように感じているのだろう。

つまり、生きづらさの逃げ道として「仕事」を選ぶ。

社会的には仕事にまい進するのは肯定されているし、頑張って成果を出せば、組織内で評価してくれる。

条件付きではあるものの、かつて彼女に求めていた「俺を認めてほしい」「俺を褒めてほしい」という承認欲求を満たしてくれる体験を仕事に見出せるのではないか、と考える。

出発点として、自己肯定感とは、「自分が」「自分を」ありのままで存在を肯定できることなので、それがないから彼女に求めているところに、男性たちの闇がある。

結局は、他人の承認なくして自分の存在を価値あるものと認識できない男たちは、スタートからすでに共依存の病を抱えているのである。

しかしそんな概念をもちろん知りもしないし、自分が病んでいる自覚もないので、内省には至らない。

母として子を見るようになり自分を見てくれなくなった妻を逆恨みし、会社に足しげく通う。共依存相手を、妻(かつての彼女)から会社にシフトする。

だから、成果を出してもなかなか認めてもらえないと、望んでいるもの(承認欲求)を差し出さない会社を恨み、同僚と飲みに行って愚痴を言ったりするのである。

もっと評価されよう、もっと褒めてもらおう。よしよししてもらいたい一心で仕事を生活の中心に据えて、関係が悪くなり居心地の悪い家庭のこと、満たされない自分のことに向き合うことから逃げ続ける。

 

かたや妻のほうはといえば、逃げまくる夫に家事育児を押し付けられて、途方に暮れる。

かつて頼りにしていたカッコいい彼氏は消え失せて、独り。孤独感と閉塞感でいっぱいだ。

家から出られない。か弱い子どもの命を常に守らなくてはならない親の重責を抱えて、一時も休みがない。

そうなると、夫の環境に嫉妬する。夫は仕事とはいえ外に出ることができるし、独りの時間を持てる。自分には持てないものを享受していると、嫉妬する。

自分は我慢していることをさんざん日中やっているくせに、家に帰ってきても一向に戦力にならない夫に、怒りが蓄積されていく。

「あなたはいつもなんで何もやってくれないの?!」の裏には「私は苦しい、私を助けて」という本音が裏側にあるが、YOUメッセージ(主語に「あなたは」がくる)で伝えているので、夫は否定され責められているようにしか感じない。次第に聞いているのが辛くなり聞き流すようになる。ますます共依存で仕事に執着していくだけ。夫は妻のSOSに気づかない。

ある時期から、妻は悟りをひらく。

「ああ、こいつには何を期待しても無駄だ」

そう思って、期待するのを諦める。

夫は「最近小言を言われなくなったな」と内心ホッとする。実にアホである。なぜなら、この諦めは最後通告を無視し続けた末の完全なる決別の証であり、関係修復が絶望的になったことを意味するからだ。

この諦めの瞬間から、妻のなかでは夫はもう家族の一員ではなく「言葉をしゃべって飯を消費するATM」であり、人ではないのである。もはや期待しているのは稼ぎだけになる。

生きていても死んでいてもどうでもよくなった夫のことはさておいて、妻は子どもに失われた時間の対価を見出そうとする。

「子どもがより良い人生を送れるように」という大義名分を盾にして、結婚後の失われた人生、うまくいかなかった結婚生活から目を逸らすために、子どもに共依存していく。

母が子どもに過干渉・イネイブリングをするのはそのためである。

父親的な存在を彼氏に求めて結婚する女性もまた、自分そのものを肯定できていない。自分を愛し「君だけだ」と言ってくれる王子様に承認欲求を求める。

王子様だったはずの夫。恋焦がれた王子様は遠い幻影となり、使えない同居人になり、最終的にしゃべって食べるATMになる。

 

要するに、彼氏彼女はお互いに求めていたものを相手から得られなくなったので、向き合うことから逃げて他で承認欲求を補填しようとする、ということだ。

 

男女それぞれの共依存が生む弊害

まず男が仕事に依存すると、「プライオリティ(優先順位)の1番を仕事にすること」を他人にも強要するようになる。

「プライベートを言い訳にするのか」

「仕事ができて一人前」

という言葉で表面化するこの価値観の押し付けが発生する。

家庭から逃げてきた男たちにとって、会社こそが「家」であり、仕事仲間こそ「家族」だからだ。

だから会社(家)のために頑張り、家族(仕事仲間・上司)から褒めてもらおうと、必死で働く。会社(家)で存在価値を示すことが、唯一自分を肯定してくれることになってしまう。その一方で、心の奥底では、本当の家族をないがしろにしている後ろ暗さが常に背後にある。

恐れを抱いて震えながら、自分という存在の生き残りをかけて仕事でマウント合戦をやっている。それが仕事ばかりしている夫の真の姿である。

それで正しいんだと安心するためには、他人が同じでなくては困る。

今まで逃げ続けてきたこと、妻と向き合い家庭と向き合うことが仕事なんかよりよっぽど大切だった、ということに気づいてしまうと、今までのすべての自分が瓦解してしまう。

だから、自分を支えている世界観が壊れることを恐れて、他人にも自分と同じように生きよと強要するのである。

仕事よりも家庭を大事にしている同僚を目にすると、内心穏やかではない。

だから「あいつは仕事ができないダメなやつだ」とか「仕事をもっと真剣にやらないから出世できないんだ」とかレッテルを貼って下に見ることで、心の平穏を保とうと必死になる。

上から目線で見下すという態度は、自分ができなかったことをする人に恐怖している証拠である。

こうして、本当に大切なものを大切にしている人を迫害し始めるので、病んだ男たちにとっての歪な「会社」という家庭は地獄そのものになる。

 

妻はといえば、「子どものため」と言いながら、イネイブリングで子供を虐待する。

自分の生き直しとして手取り足取り教え、転ばぬ先の杖を用意し、子どもから「失敗の経験」という人生の宝を盗む。

自分の生きづらさを解消してくれる自分の所有物(おもちゃ)として子供にちょっかいを出しまくる。

そうして、子どもは「失敗の経験」を横取りされ、自分で自分の人生を決める権利を奪われ、アダルトチルドレンという生きづらさの呪いを背負わされる。

この幼少期の共依存的な関わりが「自分で挑戦して人生を生き成功も失敗も肯定する感覚」=自己肯定感をがっぽり子供から吸い取っていく。元から発生しないように阻害してしまうとでもいうべきか。

これがのちに成人すると、仕事に逃げる男、子どもに逃げる女、に変身する。

こうして、生きづらさは世代間連鎖する。

【仕事】営業は営業したら負けなんで(鷹嶺ルイ)

最近観たこの動画、おもしろかった。

とても丁寧に相談に答えていて、優秀な方なんだなと感じた。

多くに人に参考になる内容だったと感じたので、個人的にまとめてみる。

 

「鷹嶺ルイ」って誰?

ホロライブというVtuber事務所に所属している人で、もともとブラック企業に勤めていた経験がある。

通常、同業他社で30軒くらいの取引先担当数が相場の業界で、何倍ももたされてクレーム対応も任されてしまい、一時は常に胃が壊れた状態で生活していたとのこと。

始発で出勤して終電で帰り、家でも残業して2~3時間寝たらもう始発の時間・・・というような苛酷な時代を生き抜いてきただけあって、話に説得力がある。

鷹嶺ルイ先生のお話は大きく分けて3つ。

①営業・伝え方について

②人間関係について

③セルフコントロールについて

では、さっそくひとつひとつルイ先生のアドバイスを見てみよう。

①営業・伝え方について

営業は営業したら負けというのは本当にそうで、売れない人ほど売ろうとしてしまう。

売りたいのはこちらのエゴ。

顧客に寄り添い、その人にとって役立つ必要なものだと気づいてもらったからこそ、買いたいと思ってくれて、結果として売れるのである。

自分が良いと思っていて、この人にもそうなんじゃないか?と思うから勧められるわけで、自分が欲しくもないようなものを勧めることができないように、そういうものは売るのが困難で、売れているとしてもストレスがハンパではない。

そういう場合ルイ先生は、早めの転職をお勧めしている。

 

ルイ先生が好きじゃないタイプの営業、という話題のなかで出てきた重要なキーワード。

「勝手に人の気持ちを語る営業」。

これめっちゃくちゃ多い。マジで巷にあふれている。

とにかく相手のニーズを勝手に決めつけて、購入を強要しようとするのだが、それはただの迷惑である。嫌がられるに決まってる。

また、そのニーズを口に出させようとあからさまに誘導尋問しようとするのも、これと同じようなものだ。

結論ありきで質問してこちらに都合の良い回答を引き出そうとするのなら、結局他人の気持ちや願いには全く耳を貸していないのと同じ。人の話を聞いているようで聞いていない。

本心から出てくる言葉を確認するために質問するのであり、自分の質問に本心で答えてもらえるためには、その人にとって誠実で信頼してもらえるような人でなくてはならない。

信用はカネでは買えない。

 

それに通じるのだが、社内であっても相手を思いやること、それは相手の時間を大切にする意味で分かりやすい伝え方をするのが大切だ、というお話もされている。

・カテゴリに分けてあらかじめ伝える

・結論から言う

これは本当に大事な2要素で、これに気をつけるだけで、相手にとっては話を聞くとき負担が相当少なくなる。

伝わり理解してもらえるので、相手はその後の行動がしやすい。だから結果が出る。

 

②人間関係について

職場の悩み、退職の理由の第1位はいつも「職場の人間関係」である。

特に上司との人間関係に悩む人は、いつの時代もどこにいても絶えることはない。

2つ目が特に大事だ。

こちらの思い込みで、何となく伝えにくいと思っていたけど、話してみたら理解してくれた。そんなことは往々にしてある。

私は話してみて理解してもらえないようだったらスッパリ諦めて距離を取るタイプだが、わりと話を聞いてもらうと理解してくれるケースがある。

その人の表情や印象などの先入観で、こちらがつくってしまった壁が障害になっているなんてもったいない。

勇気を持つことが、誤解を解くきっかけになる。

ホウレンソウは私もとても苦労した。

新入社員の頃、何を言わないといけないのか、何を言わなくていいのか、全くわからなかった。

報連相をしろと言われて逐一報告していたら「そんなつまらないことでいちいち話しかけてくるな」と言われるし、それなら重要なことだけ…と話していないと「なんで前もって言ってくれなかったんだ」と言われる。その繰り返しだった。

その繰り返しのなかでだんだんわかってきたのは、「自分以外の人の作業・最終的な着地に影響があるかもしれないこと」が「重要なこと」であり報連相すべきことだということだ。

報連相をしろというのは、自分以外の誰か影響があるかもしれないことがあったら話してほしいということだった。そう言ってほしかった。

つまり、言いづらいこと、というのは、悪い意味で結果に影響が出るかもしれないとわかっているから、言いづらく感じている。ということは、影響が出るかもしれないと自覚している時点で報連相の対象になる。「悪いことほど早めに報告」しなくてはならないのはそのためだ。

途中にミスがあろうが予定変更があろうが組織としては「最終的に勝てばよかろうなのだァ~!」なので、帳尻が合えば問題ないし、少し違った結果になっても誤差が少ないほうがいい。

だから修正可能な初期のうちに言われたほうが組織としては助かる。

逆に言えば、問題を抱え込む人はリスクを抱え込むということなので、計算可能性が低くなる。

組織としては仕事を任せることそのものがリスクと認識されるので、社員としての信頼は失われていく。

だから、評価を下げたくなくて言いにくいことを抱えるよりも、むしろ積極的に悪いことほど報連相しておいたほうが信頼されるし評価される。

 

社内でキャリアアップするためにも好かれよう、嫌われないようにしよう、と意気込む人はどの年代にも存在する。

しかしそんなことは必要ない。

どんな人とも仲良くできるはずがない。人はそれぞれ個性を持っていて、その人らしく生きている限り合わない人は必ず存在する。

それを我慢してヘコヘコしたりキョロキョロしたりしていると、心が腐っていく。やめといたほうがいい。

基本的にはビジネスライクに対応しておけば問題ない、というのは、私もまったく同じ意見。

むしろあまり深い付き合いをしたくない。金が絡むと人付き合いはだいたい醜いものになるから、わざわざ深めたいとは思わない。

 

私も人を頼るのが苦手だ。

なぜなら不確実性が増す気がするからだ。

これはコントロール欲求の裏返しで、結果にこだわっているときにこうなる。

自分のできることというのは限られている。時間も有限だ。

同じ目的のために集まっている職場の人間は、仲間だから、頼るために存在してる。

遠慮なく頼ろう。

 

これめちゃくちゃ笑った。

休憩まで他人に気を遣っていたら、疲れちゃうよ。休もう。

③セルフコントロールについて

少し②の人間関係にも重なるが、自分の承認欲求のコントロールという意味でこちらにカテゴライズした質問である。

早く出世したいという人もいるだろう。

そんな人にはこのアドバイスを心に刻んでほしい。

焦ってもいいことはない。ひとつひとつ着実に力にしていくのが、遠回りしているようで、実は最短距離である。

その組織が健全で審美眼のある組織なら、普通にしていればおのずと輝きを見出してくる。

無理に装飾しようというのは、自分に自信がないことの現れであって、虚飾を評価されて期待されたとしても、自分のキャパを超えていて期待を裏切ったりするから、結局お互いのためにならない。

私も寝坊にはとても悩んだ。

私はアルコール依存症真っ只中のときは、毎日ワイン2本飲んで寝ていた、というか気絶していたので、どうしても起きられなかった。

上司に馬鹿にされ続けてぶちギレ「定刻起床装置 個人簡易型 (SAC-5A型)」というクソ高い(10万円)JR乗務員が使う目覚ましをつかったりしていた。

モーニングコールサービスを頼ったらよかったなぁ、と思った。

まあ結果的に睡眠障害(REM睡眠行動障害)もあったし、そもそもアルコール依存症の底付きのために必要なことだったので、どうしても起きられないときは何かが病んでいるから、病院にかかったほうがいいよ。

 

まとめ

鷹嶺ルイさんは、他にも様々なおもしろい動画を投稿していて、これ以外にもぜひ観てみてほしい。『アウトラスト』というホラゲ実況で伝説を残していることで有名。(笑)

随所に高い知性が垣間見えるし、社会人としてしっかり生きてきたからか、話し方がちゃんとしていて聞きやすい。英語もタイ語も話せるので、語学に興味がある人も知っておいたほうがいい人のひとり。

あとセクシーでかわいい。

 

【仕事】優秀なプレーヤーをマネージャーにしてはいけない理由

マネジメントって難しい仕事だよな、と思う。

現場でプレイヤーとしていくら実績をあげていたとしても、マネージャーとして優秀かどうかといえば、話は全く違ってくる。

いや、むしろプレイヤーとして優秀であればあるほど、マネージャーとしては壁にぶち当たることになる。

えてして組織ではプレーヤーとして優秀な成績を収めたことを手土産にマネージャーに昇格するが、これが部下の不幸の源泉であるといっても過言ではない。

本来は適性が全く違うので無理して優秀なプレーヤーから選出することそのものに無理があるのだが、「納得感」と引き換えに非合理的な人事がまかり通るのが、この世の中である。

 

優秀さとは「点の状況」

まず、プレーヤーとして優秀なことはすばらしいことだ。別にそれを悪く言うつもりはない。

優秀なプレーヤーは、周りのプレーヤーよりも結果的に成果を出す。

成果の要因は実は複合的だ。プレーヤー自身の能力だけではない。

周りに協力してもらったこと、運がよかったこと、それら外部要因を全てをひっくるめて、結果的に結果が出た。それが、優秀なプレーヤーの背景である。

もちろん、プレーヤー自身の能力は、単純に比較してみて平均的な他のプレーヤーの能力よりもある点において優れているだろう。

お金集めというゲームのなかで「勝ちたい」「勝利者でいたい」という競争心が強い傾向にあり、そのために身体的精神的リソースを実際に割いている。「勝つ」という目的を達成するための知恵と工夫にも秀でたものがある。

つまり「他人との競争に勝つために思考し行動できる」という点では、個体として優れており、その行動が結実する環境(外部要因:周りの協力・運など)に恵まれた結果、優秀なプレーヤーと組織から認識される状況が生まれる。

 

そんなひとが陥りがちな落とし穴が、「自分は優秀だという思い込み」である。

確かに、事実、勝ってきたのだろう。

積み重ねた努力も並大抵ではないだろう。

周りのタスク処理能力と比べて、自分のそれは高いと自負しているだろう。

私も、そうだった。

「自分一人の力でのし上がってきた、苦しんでいるとき誰も手を差し伸べてくれなかったけど、なんとかしてきたのは私だ。だから私は優秀なんだ。そのへんの運だけで勝ってきたヤツらと一緒にしてもらっては心外だ。今のこの現状は私の実力なんだ。」

そんなふうに思っていた時期が私にもあった。

しかし結論から言えば、これはひどい勘違いであり、思い込みだ。

 

物事はそんなに分かりやすく合理的にはできていない。

 

たまたま勝ちを拾ってきたにすぎない。

何か一つ違えば、私は同じ結果を出せなかったかもしれない。

全て自分の力だけ、という条件そのものが、この世では成り立たないから。

自分には変えられないものが必ず介在する。そこに私の力は及ばない。

変えられるものを変えるチャンスがあった、そしてその時点で変えることができる個体だっただけだ。

変えることができたのは、自分の努力だから、自分の力だろうか。

私が努力できたのは、努力できる個体としてたまたまそういうふうに産んでもらったからだ。遺伝子の配列が少しでも違ったら、私の特性はどういうベクトルに向いていたかわからない。

「優秀さ」というのは、自分を含めたこの世のあらゆるものが総合的に作用した結果、ある一定の側面からある一定の集団が見たときの、「点の状況」に過ぎない。

 

成功者の内なる功罪

「勝てる法則」とか「成功の方程式」とか、ちまたにはたくさんの自己啓発本やビジネス本が本棚にひしめき合っている。

これらは、社会的に成功したという近視眼的な状況に、もっともらしく後付けの因果関係らしき理由を添えただけの、個人の物語だと私は思っている。

成功を一般化することはできない。

成功を不自然に一般化して人材として評価すると、評価された人はその勘違いにより、次第に傲慢になる。

「俺のほうが正しい」「私のやり方が最も優れている」「他人は俺より下だ」

心の奥底に、そうした傲慢さがこびりつく。これは自信ではなく勘違いなのだが、本人は自信として社会的な存在としての、精神的な拠り所にする。

これがとても厄介で、コントロールに心を支配され依存が生まれる温床となる。

一時的に偽りの自信を得るかわりに、健全な心を見失う。

 

自分は「優秀」なので他人の意見は自分の意見よりも劣っている、ととらえると、根本的に許容範囲が狭くなり視野狭窄に陥る。

人はみな違うので、意見や考えはそれぞれに良さも悪さもあり多種多様だ。環境と条件は常に変化しているので、行動がもたらす可能性を一概に推定することはできない。だから、やってみないとわからない。

しかし「優秀さ」に囚われていると、そうした落ち着いた賢い理解ができなくなる。

自分が自分のやり方でやることが、最もいい結果になる、と信仰してやまない。

なので本人は良かれと思って、他人に自分のやり方を強いる。あったかもしれない無限の可能性を潰して。

そして思い通りに他人が動かないと、さらに他人を下に見る。「俺の考えが理解できない低能なやつだ」とか「使えないやつだ」とか、自分のなかで他人の立場を下げることで、うまくコントロールできない不安と恐れを見て見ない振りをする。

あるいは、強制したり監視したりして何とか他人が思い通りに動くようコントロールしようとする。いわゆるイネイブリングである。

こうして、本来コントロールすることができない他人や成果を、「コントロールできる」と偽りの自信に裏打ちされた勘違いによって、一生懸命何とかしようとする羽目になる。

そしてうまくいかない現実を、自分以外の人間の無能さのせいにしながら、永遠に報われない試行錯誤を繰り返すのである。

 

部下が苦しむメカニズム

何となく見えてきたと思う。

優秀なプレーヤーがマネージャーになったときに部下の不幸が生じる原因が。

プレーヤーとして優秀であればあるほど、マネージャーになったとき今まで書いてきたような虚しいイネイブリングを部下にとことんやってしまう。

毎日のスケジューリング、訪問時の折衝の仕方、企画立案の方向性、はてはタスクの進捗管理まで、全てを管理・監視しようとされたら、される側はどうなるだろうか。

まるで成長しない。

全てを手取り足取り教えることは、とても親身になって部下を思う上司に見えるだろう、はたから見る分には。

しかし実際は、部下を自分の操り人形のように扱っているだけで、本人の自主性や独創性や可能性の価値を、生かせないばかりか貶めているのだ。

当然部下は最終的に「上司様の言われたことをやるだけ」の歯車になっていく。自分で考え自分で実行し、自分で結果を味わうという、成長に欠かせない経験を奪われるので、仕事をしていても自己効力感はなく、虚しいばかりである。

本来あったユニークさや個性はそぎ落とされ、ただ指示に従うだけの無気力人間の出来上がりである。

それが深層心理で上司であるマネージャーが望んだ部下の姿であり、本人の成長など本当はどうでもいいという本心の現れである。

そうやって自分のおもちゃのように部下に指図してやらせるだけのマネージャーがほとんどで、チームを台無しにしてしまうことがよくある。

そしてうまくいかなかった原因を、口では「私がリーダーとして至らなかった責任」だとか何とか言いながら、心のなかでは部下にあると思い込み、謙虚に省みることがない。

「たまたまそろった面子が使えないやつばかりだったから、今回は結果が出なかっただけだ、次はもっとうまく厳しくやろう」と決意を新たに、イネイブリングを強めていくだけだ。

 

この囚われから脱するのは、現実問題としてかなり難しい。

言い訳の余地もないほど徹底的に天狗の鼻がぽっきり折れるような「底つき」が必要だからだ。

自らの「優秀さ」が偶発的であった事実を認めることは、今まで社会的な存在としての自分を成り立たせてきた精神的な支えを失うことを意味する。なので、なかなか手放せない。アルコホーリクが酒を手放せないのと同じように。

「成功を掴み家族を養うため」という大義名分で、家庭を蔑ろにしてきたとしたら、いっそう始末に負えない。偽りの自信のために今まで失ってきたものを数えれば、事実はどんどん認めがたくなる。

あれやこれやと言い訳をしながら、必死にしがみついてしまうのは、しかたがない。

しかしこの囚われを乗り越えたひとは、マネージャーとして花開くだろう。

 

じゃあマネージャーに向いているのって?

むしろ一度ボキボキに折れて「優秀さ」とはかけ離れている人ほどいい。

己の無力さに打ちひしがれて、泥水をすすって地べたを這いずりまわってきたような、そんな人ほど、事実を謙虚に理解するために必要な経験をしてきたといえる。

こういう人は「自分自身すら、自分だけではどうにもならないこと」を心から認めている。

だから、自分以外の存在を有難いと思える。

他人に個体として敵わず、劣等性をまざまざと見せつけられて、自分ひとりだけでは何事もなしえないことを体験として知っている。自分の弱さを知っている。

 

しかしそれで他人を妬んだり世の中を恨んだりしているのではまだまだで、自分だけが弱いのではないことも知っているのが重要だ。

生きとし生けるものすべてが不完全な存在であり、多かれ少なかれその恩恵なくして、命すら成り立たない。それは皆同じで、みな弱いのだ。自覚しているかしていないかの違いしかない。

そのことを知るには、心を開いて他人と交流する経験が必要である。

自分の弱さを認めてさらけ出すのは、とてつもなく勇気がいる。

しかしこちらがその勇気を持たなくては、他人もまた弱さをさらけだすことができない。

勇敢な弱者が、その行動により他人の弱さを垣間見たとき、真実を理解することができる。

この「行動」こそ「変えられるもの」だ。

 

己の無力を認め、「変えられないもの」を受け容れる落ち着きを持ち、「変えられるもの」を変えていく勇気を持ち、その二つを見極める賢さを持つ。

そんな人がマネージャーに向いているわけだが、そんなひとはほとんどいない。

 

そう在れたなら、本当の意味での権限移譲ができる。

信じて託すことができる。愛に根をはる想いから行動し、他人に施すことができる。

異なる価値観を持つ他人を受容し、互いを尊重する前提で未来を語り合うことができる。

小手先の「効率性」や「合理性」を超えたギフトを、部下は上司から手渡されることになる。そうなると部下は上司であるマネージャーに対して、敬意と感謝を抱く。

心理的安全性が保たれた共同体が形成され、チームとして真の強さを帯びはじめる。

その結果、「自分でやればうまくいく」と想定したよりもはるかに大きな結果をともなって、行動の結果がマネージャーである自分にも還ってくる。

この好循環が生まれるからこそ、チームがあり、組織がある。、

 

俯瞰的な見方をすれば、貨幣経済の社会秩序を重んじる合理性と計算可能性に支配された行政官僚制の組織そのものが、この好循環を阻害する諸悪の根源であるといえる。

この経済社会において、営利組織に属するプレーヤーが傲慢さに囚われるのも、マネージャーがイネイブリングに陥るのも、ごく自然なことではある。

誰も悪いわけじゃない。社会がそういうつまらない社会だというだけ。

私が組織を形成するとしたら、このことを忘れないようにしたいと常々思う。

【仕事】「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

上司が最近とても焦っています。

おそらく上からプレッシャーをかけられているのでしょう。中間管理職ってなりたくないなーって思います。割に合わないですよね、ストレス度合いと給料のバランスから考えて。

まあとにかくあれこれと口を出し、成果が出そうだと感じたことを片っ端から思い付きで指示を出そうとしていらっしゃいます。

成果が出ていなければ、当然焦るのはわかります。

でも、焦ってあれこれ手を付けても、物事というのは結局は結実しないものです。

なぜか?

結論から申し上げますと、「自分の都合しか考えていないから」です。

繋がるべき相手が見えていない。自分のなかの不安や恐れと、独り相撲を取っているようなものです。

今回は、そんなふうに「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」状況について考えてみたいと思います。

 

なぜ焦るのか?

他人から「あれをしなさい」「これができていない」「他の人はできているのに」などと言われると、なぜ焦るのでしょうか。

それは、他人のなかの自分の評価が下がってしまう、そのことに恐れを抱いているからです。

悪く思われてしまうのではないか。

バカにされてしまうのではないか。

嫌われて悲しい思いをしたり、不利益を被るのではないか。

恐れは、不安を呼びます。

不安になって、その悪い未来について考えます。

あたかも、今行動しなければ、その悪い未来が現実になるような気持ちになって、いてもたってもいられなくなる。

そんな感じじゃないでしょうか。

 

では、いったん落ち着いて考えてみましょう。

自分を他人がどうとらえるか、その印象って、操作可能なものだと思いますか?

私は、これはコントロールできない、自分の範疇を超えたところだと思っています。

他人がどう思うかは、他人次第です。他人に決める権利があることです。

私たちには、どうすることもできない手の届かないところにある問題。

なので、まずは、それをどうにかしようとすることはとても不確実なことだということ。

あれこれ焦って取り繕っても、コントロールできないことだ、と認識すると、それなら焦っても仕方ないよな、って思いませんか。

 

なぜ評価されたいのか?

もう一段深く考えてみましょう。

なぜ、焦って自分を追い詰めてまで、その人のなかの自分の評価を高く保ちたいのでしょうか。

特別に尊敬している大事な人だから?

評価を下げられて出世できなくなったら嫌だから?

なめられて馬鹿にされたくないから?

 

本当に付き合いを深めるべき本質を理解している人というのは、実は世の中にはそんなにいません。

本質を理解している人は、他人を見下したり、成果というひとつのものさしで他人を測ろうとしたりしません。一人の人間として、あなたの価値観を尊重し、自分の価値観も尊重する。あなたの尊厳を傷つけようとはしない人です。

だから、今たまたま成果に繋がっていなくとも、あなたが自分が可能な範囲で心を込めて丁寧な仕事をしているのなら、何も取り繕う必要もありません。ちゃんとわかってくれます。

つまり、表面的な結果や数字だけを見てあれやこれやと他人を勝手にジャッジする人は、本質を理解していない人です。道端の石と同じ、付き合いを深める必要のない、あなたの人生にそこまで関係しない人、ということになります。

道端の石に「お前はダメなやつだ」と言われたところで、あなたは気にするでしょうか。

「ああ、オレは本当にダメなやつだ」と思うでしょうか。

私はそんな人たちにどう思われるかより、愛する家族や尊敬すべき人たちとの交流に時間と頭を使いたい、と感じます。心を込めて、そういう人たちに接するために人生を費やしたいと思います。

 

目の前にいる他人のなかの評価を高く保ちたい、という欲求は、自分を他人に認めてもらいたい=他人から認められないと自分の価値が無いように感じて不安だから安心したい、という願望の現れです。

 

なぜ他人からの承認が必要なのか?

他人に認められないと自分の価値が無いように感じる、というのは、なぜでしょうか。

それは自分に自信がないからです。

では自信とは何でしょうか。

それは何かを「他人と比べて」自分のほうができる、と信じることです。

自信とは、相対的な価値観です。

他人がもし誰もいなかったとして、あなたが好きなことをやるとき、そこには比較対象が存在しないので、あなたは誰かより優れているとか劣っているとか、そんな些末なことを気にせず思うまま楽しく好きなように熱中して取り組むでしょう。

他人と比較するから、自信という価値観にとらわれる、ということです。

 

ひとは、誰もが違います。同じ人はひとりもいない。

得意なことも苦手なことも、考え方も、価値観も、やり方も違います。

もっと言ってしまえば、与えられた才能や環境など、自分にはどうにもならないことも、それぞれ全然違います。

昨今では「能力主義」が正義とされていて、そうした違いを言い訳ととらえる人が多くなりましたよね。

「やればできるのにやらないのは、お前が怠けているからだ」

「平等にチャンスを与えられているのだから、つかめないお前が悪い」

「成果が出ないのは、お前の頑張りが足りないからだ」

一度はこんなことを言われた経験があるのではないでしょうか。

でも、実際そんなに人間は万能でもないし、強くもありません。

人類は、誰もがひとりだけでは何もおぼつかないので、家族を構成し、社会を構築して、この世を生き延びてきた種族です。

やってもできないことはあるし、チャンスは平等ではないし、頑張っても報われないことだってたくさんありますよね。

それはあなたが悪いわけではない。何かのめぐりあわせでこの世にあなたとして生まれて、今できるorできないがある。それだけの話です。

 

だから、他人と比べてもしかたがないし、意味がないのです。

楽しむ分にはいいですけどね。ゲームとして。

優劣はゲームでしかない。本来自分と他人は前提が違い過ぎて比べられないからです。

そんな不確かなゲームに委ねなくてはならないほど、あなたは無価値ではない。

他人より優れていようと劣っていようと、あなたが考える、あなたがやりたいこと。それが実行に移されて、世界と繋がること。

それにこそ価値があり、それであなたが楽しい・嬉しい・好きと感じることが、もっとも意味のあることです。

「下手なら、なお結構。」とは、大阪万博の「太陽の塔」でおなじみの芸術家:岡本太郎さんの言葉です。

「ダメならダメなりに、ダメでもいいと思って、全力でその瞬間にすべてをかけろ。」

そのように岡本太郎さんはおっしゃいます。私もそう思います。

 

自分には自信がない、と他人の目を気にして、本当にやりたいことを自由にできない。

なんて悲しいことでしょう。

自分にはどうしようもない、比べる意味もない。

そんな概念でブレーキをかけ、自分が本当にしたいことをしない。

なんともったいない。

 

なぜ生きているのか?

自分が本当にしたいことを我慢して、他人の目に怯えて、やれと言われたことを焦りながらやって。

それが、あなたが生きたい人生でしょうか。

そのおかげで家があるから、お金が稼げるから、他人に嫌われないから、幸せ?

本当に?

本当にそうでしょうか?

あなたはそれで本当に幸せといえるでしょうか。

もう一度全く同じ人生をやれと言われて、喜んで生きたいと思うでしょうか。

 

私は小さい頃、自由に生きていたら、クラスメートから「異質な存在」と判断され、いじめられました。両親からは「なんで他の子と同じようにできないの?」と悲しげに叱責されて、つらかったのを覚えています。

それから他人に気に入られよう、両親に認められよう、と思って、やりたくない勉強も、やりたくない人付き合いも、一生懸命努力してやってきました。

自分が本当にしたいことがわからなくなるくらい、気持ちにふたをして。

そして、アルコール依存症になり、うつになり、自殺しようと思うまで追い詰められました。

 

私としては、そんなふうに生きるのはお勧めしません。

私はそのままもっと自由に生きていてもよかった。

両親が求める「優秀な息子」でなくてよかった。

みんなに好かれる「普通の人」でなくてよかった。

それらに囚われる人生は、私が生きたい人生ではなかった。

 

「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

それは、こんな小さい頃の私を見ているようです。

だから私は、そんな人に、小さい頃の私に語りかけるように、こう伝えたい。

 

あなたは、他人より優れていなくてもいい。

あなたは、誰からも好かれなくても全然悪くない。

あなたが心からやりたいと思うことのなかに、本当の価値がある。

他人の目なんか気にするな。ただ、やりたいことを精一杯がんばってやればいい。

そのために、あなたはこの世にいるのだから。