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【仕事】尊敬できる上司?そんなのいなくない?

あなたの職場に魅力的な上司はいるだろうか?

あこがれる、こんな人になりたい、そんな人はいるだろうか?

私は今はいない。逆に「こんな風にはなりたくないな」と思う。

 

私の職場で出世している人のほとんどは家庭が崩壊している。

妻からも子供からも相手にされていない、さびしい中年男性。

あるいはモラハラ・パワハラで家族を支配している、人としての器が小さい中年男性。

そんなのばっかり。

 

職場の会話では、よくこんなことを言っている。

「もう嫁さんが相手をしてくれない」

「基本自分の部屋にいるけど、子供と話したくなった時だけリビングに行く。そうすると『調子いい時だけ来ないでくれる?』って言われる」

「仕事をやめようか相談したら、事情なんてお構いなしに断固反対される」

「定年退職後は働きたくないから趣味でもやろうと思っているが、妻からは『家に居られても困るから働きに出れば?』と言われている」

「子供とどう話したらいいかわからないから、1時間くらいが限界。どうやって過ごしてる?」

 

 

それさ、もうATMとしてしか、家庭内で居場所がないからだよ。

さびしいね。

ずっと、妻と子供をないがしろにして生きてきたからだよ。

自分の好き勝手に、一番手のかかるときに何もせず、妻に押し付けてきたからだよ。

と、思うけど言わない。言ってももう手遅れだし、どうせ理解できないから。

 

わが子が小さくて手がかかるときに、何もしてこなかった男性は思いのほか多い。

夜泣きがある時期はまとまって寝る時間もないことや、お風呂に入れたり食事の準備をしたりその合間に家事をしたりすることが実は仕事なんかより何倍もしんどいことを、彼らは知らない。

うまく妻に押し付けて乗り切れたと思っている。当時「力を貸してほしい」「責任感を持ってほしい」と訴えた妻の気持ちをただのヒステリーと思い込み、まともに耳を貸さなかったのだろう。「仕事が忙しいアピールをすれば、そのうちだんだん言われなくなるから大丈夫」と攻略法を教えるかのようにドヤ顔で言ってくるぐらいだ。まったく真剣に聞いていない。

妻は絶望しただろう。だから言わなくなったのだ。

やられたほうは一生忘れない。虎視眈々と熟年離婚の準備をしているだろう。

もう終わっている。

 

私はそんな人間になりたくない。

家族から「金を稼ぐしか取り柄のない存在」として認識されたくない。

それこそ、いくらでも代えがきく存在に成り下がってしまうではないか。

会社の雇われなどいくらでも代えがきくが、家族という共同体においては、私たちはそれぞれ代えがきかない存在になれるチャンスがある。

損得ではない絆で結ばれる関係こそが豊かな人間関係であり、その中核を担うのが家族ではないか。

その中核をないがしろにして、仕事でいくら成果っぽいものが出せてたまたま出世したとて、私にとっては優先順位を間違えた愚かな人間にしか見えない。

 

おそらく、鈍感ながらになんとなく家庭内で居場所がないことに気づいているからこそ、さらに仕事に依存を深めるのだと思う。寂しさや不安の裏返し。

家庭で求められない分、会社に求められようとして、組織の言うことをなんでも聞く奴隷に近づいていく。

実は深層心理ではそうやってこき使われるのが苦しいので、他人にも同じように苦しむことを強要する。つまり、仕事に邁進するよう同調圧力をかけたり行動をコントロールしようとしたりする。

思い通りにコントロールできないとわかると「私のほうが優れている」とマウントをとって精神安定を図ろうとする。相手を小さくして心の平安を保とうとする。

自分のほうが優れていて、相手のほうが未熟だから、自分と同じ考えに至らないのだ、という上から目線で、理解が及ばない存在を馬鹿にして矮小化するということだ。

 

なんというか、そんな感じで寂しさを仕事で埋め合わせるために傷をなめあっている中年男性の巣窟が、現在の職場という感じである。

傷のなめあいができないとわかると、否定して排除する。排除できないとわかると馬鹿にする。

そうやって、自分の見たい世界しか見ないように必死で奴隷をやっている。

私から見るとかなり殺伐としている。地獄絵図。

 

そんな職場に順応しようと思って、身を粉にして働いてみたこともあった。

しかし、他人のいい加減な評価軸に沿って、報われるかもわからないのに、やりたくもないことを毎日やって、お陰様で成り立っている現実を自分の成果っぽく虚飾することは、私にとって禿げるほどストレスが強かった。

よくできるなと思う、そういう面では尊敬する。私にはできないことができる人たちだと思う。

私は私が価値があると思えることにしか力を注げない。

私が生きたいと思うようにしか生きられない。

私は私がやりたいようにやりたい。誰かに指図されるなんてまっぴらごめんだ。

賃金をもらって働くなら労働契約以上のことはしないし、契約内容も必要最小限の労力で行う。だって金のためにやっていることで、金以上の価値を感じていないこと=仕事だから。私はそのような優先順位が低い行動にリソースを割きたくない。

 

仕事についても、いろいろと考え、いろいろな本を読み、いろいろな人の話を聞いて、ひとつわかったことがある。

現代において、仕事に価値などない、求めることがナンセンスだということ。

昔は違っただろう、人々が生きるために必要なことが『仕事』だった。命をつなぐために各々ができる能力を持ち寄って、コミュニティを形成し、維持・拡大するために、力を尽くした。貨幣価値に換算できようができまいが、その役割は確かに必要だから存在した。

現代の「仕事」は、このころとは全く違う。

株主資本主義の現代社会において仕事とは、株主の奴隷として人間をこき使うスキームだ。稼ぐ金額と社会的意義は相関しない。むしろ逆相関する。

合理主義に基づいた投資可能性・計算可能性を実現するために、何でも言うことを聞く都合の良い部品が評価され出世し、自分の仕事には価値があると声高に叫ぶ。

実際はマネーゲームの駒のひとつにすぎず、プレイヤー(株主)が飽きたら捨てられる。

虚しすぎる。

どうせ使い捨てされるとわかっているなら、そんなに入れ込まず、ある程度の成果を出しつつ適度にサボるくらいでよい。体よく必要な分だけ金銭を調達できればよく、仕事の内容にも社会的意義にも思いをはせる必要はない。どうせどれでも大差ないのだから。

金稼ぎという意味での「仕事」はそんな扱いでいい。

本来の『仕事』はそんな扱いではダメだ。

本来の『仕事』とは、お金に変えられない、あるいは変えなくても価値を生み出していること。

たとえば、子育て、損得なしに助け合うこと、物々交換を前提とした一次産業的活動などである。こちらにこそ価値がある。

私はそう思っている。

 

だから、上司を魅力的に感じないんだと思う。

私が価値があると思うことに力を注がず、どうでもいいことに右往左往しているように見えるから。

それはそれで、その人の生き方だからいいと思う。私には関係ない。私とは違う生き方だとは思うけど、私の人生ではないからどうでもいい。

私のことを下に見たり上から目線で干渉してくるのは、とても鬱陶しいので、できるだけ近づかない。彼らの安心材料にされる謂れはない。勝手に他人を都合よく使おうとするな。

彼らは便利に他人を使おうとする。実父母のような姑息な側面があるのも、いけ好かないと感じる所以なのだろうなぁ。

他人と比べて上だとか下だとか、どうでもいいんだよそんなことは。暇人がやることだ、そういうどんぐりの背比べは。勝手に一生やってろ。

そのうち、全部がひっくり返る。

今、成功者としてのさばっている人々がないがしろにしてきたことが、最も重要なことだったと、皆が気づかされるようになる。

 

一日も早くそういうふうになって、今上司になっているような人間たちが洗いざらい駆逐されればいいなと思う。

【仕事】肩書きも役職も宗教

「あれだけの役職についておられるということは、人間的にも素晴らしいはずだから。」

こんな言葉を社内で聞いた。私は「それはどうかな」と思ったけど言わなかった。

 

組織における肩書きは個体の優越性証明たりえるか

役職とは、ただの役割である。

高い役職を持つ人は、組織内で裁量が大きい。

しかしいくら権限が付与されていても、収入が高くても、役職はどこまでいっても役割でしかない。

裁量が大きければ責任が伴うはずだが、往々にして上役が責任を取ることはない。責任を取るのが主たる役割のはずなのに。

大きな組織で高い役職につく人とは「失敗という汚点を残さないで働いた人」であり、汚点を残さないことにおいてはたしかに、一流である。

肩書きとは、その立ち回りの小賢しさの証明にはなるかもしれない。しかし人間的に優れているという証明にはならない、と私は思う。

人間的に優れている、とは、そもそもなんだろう。

私にとっては、愛を与えられるかどうかだと思うし、そもそも優劣はつけられないと思う。

役割としてたまたま、あてがわれているだけなので、上役を偉いとか凄いとか私は思えないから思っていない。

「こいつを当てがっても損しないだろう」と思われるだけの隷属を誓って態度で示してきた、という献身はすばらしいと思う。

私にはそんなふうに心を殺して生きることはできないから。

心を殺さずともそう在れたというなら、さらに脱帽する。

そんなふうに思考停止で生きることは、私には不可能だ。

肩書きはむしろ、個人的には侮蔑の対象ですらある。

 

異端審問としての降格人事

組織内のヒエラルキーを重んじない、崇め奉らない、隷属しない。

そんな社員は肩書きという宗教を信仰しない背信者である。権威という神の力を信じない不届者である。

だから、金銭的に不遇な立場に追いやって罰を与え、改心させようとする。

自分たちが信じている宗教が間違っていない、という安心のため、生け贄を痛めつける。

同じような仕事をして同じようなパフォーマンスを発揮していても、上役に傅かない生意気な人間は「人間的に劣っている」神罰の対象者である。

ああ、くだらない。

そのまま、その人の日頃の行いと発する言葉と、成している善行だけを、みるのではだめなのか?

違うことには違うと思うと、忖度なく発言してはダメなのか?

私にはよくわからない。

営利組織の営みが、金という暴力で他人を服従させたり下にみたりするための、ひどくくだらない遊びにみえる。

 

飽きた

もう飽きた。

結局のところ、パワーゲームはただただ虚しいしつまらない。

大企業でも中小企業でも、変わらない。醜いことには変わりなかった。よくわかった。

パワーゲームで成り立つこの社会は、人として気高く尊い在り方よりも、損得と迎合が最優先であり正義なのである。

実にくだらない。

こんなつまらない社会、早く滅びて仕舞えばいい。

人間がそんな浅薄な生き物だとしたら、絶滅して仕舞えばいい。

とりあえず擬態しながらそれなりの収入を得られるよう省エネで立ち回り、本当に大切な行動と思索に命を燃やそう。

もう、ある意味あきらめる。

【仕事】お金のためにする仕事の虚しさ

かっこいいことを書けたらいいし、悟ったようなことを書けたらいいが、私はそんなに人間できていない。

とある人にブログのことを貶されて以来、なんだか書きたくないなぁ、と思っていたし、書くとしても読むに値するものを書かなければ、と思ってしまっていた。

弱音を吐こうものなら、画面の向こうで嗤われているような気がして素直に書けなくなった。

でも、そんなの気にせずに気取らずに書けばよかったんだよな。

私はそもそもそのためにブログを立ち上げて、わざわざサーバーの費用を払っているんだし。

読んだ人がどう思おうが、何を言われようが、知ったことか。

ここは私が書きたいことを書く場所なんだ。別に金をもらってるわけでもない。感謝されるために書いているのでもない。認められるためでもない。

なら、遠慮する必要はないよな、と思ったので書いてみる。

 

ブレインフォグ

最近、仕事のこととなると頭がどうも鈍い。

脳内に霧がかかったようになって、するべきことが霧散していく。

「するべきこと」とは商売上組織がしてほしいことであって、私が心からしたい事じゃない。だからADHDの特性も相まってまったく集中できない。

以前は、自分が心からやりたい事だったから、まだなんとかなっていた。

医薬品を届けることは良いことで、科学的医学的アプローチは回復に必要な素晴らしいことだと考えていたから。

必ずしもそうではない、場合によっては悪ですらある、そう思うようになってから、途端にやっていることへの興味がすっかり失せてしまった。

成果が上がってもそれは喜ばしいことなのか。素直に喜べない、というか喜びを感じない。

ないがしろにされながらなんとか時間をもらって会って話して、他の薬よりはマシだから切り替えてもらったとして、それはどれほどの意義があるのだろうか、と自問自答する日々。

組織からは「あれもやれ」「これもやれ」と山のようにタスクが降ってきて、どれもこれもが本質的価値のないゴミのように見える。ゴミがどんどんたまっていく。

溜まるゴミを生きるために掃除する。いつまでもゴミが降ってくる。死ぬまで終わらない掃除をしているような気分だ。賽の河原と同じ。

組織は、そのくだらないゴミ掃除をしているかどうか、ITシステムを駆使して監視している。まさに監獄パノプティコンだ。私は雇われている今の私を囚人のようだと思っている。

毎日懲役に服するように、ゴミ掃除をし、喜びも楽しみもないことを、朝から晩までやっている。

正直なところ、実に虚しい。生きながらにして死んでいるのと同じだ。

 

ジレンマ

では、今の仕事をやめて別の仕事をすればいいのではないか?

そもそも仕事なんてそこまで言うならしないでいいじゃないか?

 

そんなわけにはいかない。

私には家族がいて、家族を養わなくてはならない。

小さい子供ふたりが、将来金銭的な理由で選びたい未来を選べないなんて、そんな状況には絶対にしたくない。

そのためにはある程度の資産がなくてはならない。

現時点でも養育費はかかるし、生活費を稼いでこなくてはならない。

 

もしひとりきりだったら、仕事をやめて退職金で農地付きの中古物件を買ってみたい。

限りなくオフグリッドで食べ物は自給自足し、自然のなかで哲学をもっと深めたいし、その内容をまとめて執筆したり発信したりしたい。

実際に農業系のコミュニティに参加して、そうした生活を選びイキイキと生きている人に会ったことがある。

男女問わず独身で、そこには高い自由度があった。

うらやましくないと言えばうそになる。

 

しかし、家族のおかげで私はとても幸せな時間を過ごしている。

満ち足りた気持ちになる。生きていてよかったと思う瞬間がそこにはある。

昔抱えていた言いようのない孤独感や不安がないのは、心許せる本当の家族がいるおかげだ。

だから私は、この人たちとの関わりこそ最も人生のなかで重要なことで、それを外敵や脅威から守ることが私が果たしたい私の役割だと知っている。

 

得たものもあれば、失うものもある。

そのバランスのなかで、どう現実をやりくりしていくか。

結局は、面白くもなんともない答えだが、「中庸」に行きつく。

どうにかこうにか楽しみを見つけて、やり過ごすしかいない。

苦難や苦痛を全く無くすることなどできない。

 

それでも、わかっちゃいるけど、今はけっこうきつい。

なんとかして他に収入の柱を増やして、組織の奴隷である割合を減らすしかない。

収入の柱というのは単に金の調達手段だけではなく、生活に必要な物資を調達する手段だ。

それさえ徐々に確立できていけば、金銭に依存するウエイトを減らせる。

ウエイトを減らせれば、金銭を子供たちに回せる。そうなれば、不安は少ない。

 

カタストロフ

この国は一度大きな大きなカタストロフに遭遇すると思っている。

資本主義経済社会は、今限界にきている。がけっぷちだ。

おそらく、今まで常識となっていた社会通念や社会基盤は崩壊する。

現在の円安・ドル高は、世界恐慌前と似ている。あるいは、ヴェルサイユ講和条約後のドイツのハイパーインフレの時に似ている。

借金誘導型マネーシステムを根幹とする今の社会は、もうそろそろ維持できなくなるだろう。

円もドルも紙屑同然になり、貨幣による価値交換ではなく、物々交換が実用的な手段になると思う。

そうなるのが今年中か、2025年7月なのかは、私にはわからないが、遅かれ早かれそうなる。

 

そうなれば、私たちのほとんどは貨幣価値に基づく財産をすべて失う。

そうなっても困らないようにできる範囲で資産を分散しているものの、私は結構焦りを感じている。

 

そうなったとき、私は家族を支えられるだろうか。いや、支えなくてはならない。

それは結局、貨幣経済社会だろうが、物々交換の原始的な社会だろうが、変わらない。

社会の収益構造は学閥的エスカレーターシステムでなくなるだろうし、子供たちにとっては日本に住み続けるのではなく、海外でこそ必要な学びを得られるかもしれない。

そうなったときに必要な分の資産は残しておきたい。

 

不安はまだ起こっていないことから生まれる

書きながら眺めていて気付いたのだが、これらはまだ起こっていない未来のことなんだよな。

未来がどうなるかわからないのなら、不安になったって仕方がない。

今できることをして、今準備できることをやったなら、あとは天にゆだねるしかない。

今できることは何だろう?

それは、このゴミのような仕事をひとつひとつ行うことだし、将来必要だと思う農耕ができる土地を今の資産の範囲内で確保することだ。

それ以上に重要なのは、今を楽しむことだ。

私にはこれが決定的に欠けている。

 

やりたくもないことに楽しみを見出す。

これがとても難しい。少なくとも私にとっては。

養老孟子先生も確かおっしゃっていた。

「どうせやりたいことだけなんてできねぇんだから、やらなきゃいけないことを好きになるしかねぇんだよな」

好きになるしかねぇのか。きついな。

好きじゃないのに好きになるってどうやってやるんだ?

好きじゃないもんは好きじゃなくない?

分解して、好きだな、と思う部分を見つけるのか。

やってみよう。

 

私が扱っているモノには、社会的意義も価値もない。むしろ毒かもしれない。

それを届けること、世に流通させることは、むしろ悪行かもしれない。

モノはダメだとして、行動はどうだろうか?

ユーザーに聞いてまわって、問題がなかったかどうか、事実をヒアリングするのは意義がある。好きかも。

行動の一部には好きな部分がありそうだ。

それを制限しようとする組織の活動方針が邪魔だ。

組織としてはできるだけたくさん売り上げを上げたいし、利益を生み出したい。

だからモノを使わせる方向になんとか動かそうとして、そのための行動指標を策定してくる。

これがうっとおしい。まったくやる気がしない。

これを好きになるにはどうすればいいか?

ギャンブル要素のあるゲーム性を楽しもうとしたが、ダメだった。競争・他者比較でのパワーゲームは私には嫌悪感しかなかった。ハマれなかった。

できるだけやってる風を装うという演技のゲームだと思って楽しもうとしたが、ダメだった。私は演技が下手だし、嘘がうまくないし、第一まったく気分が良くなかった。

実験だと思ってやってみるのはどうだろうか?

戦略推進室が立案した戦略は、現実において本当に再現性があるのか?を検証するというのは。これはちょっとおもしろそう。

戦略自体にも結果にも興味はないが、それが想定通りにいくのかどうかを確かめるという行為そのものは、好きかもしれない。

弱いな、もっと他にワクワクすることはないか?

自分で考えて試す、ということに私はもっとワクワクするに違いない。

しかし独自性を出すと組織は命令に従えという。どうしようか。

ここなんだよな。

好きになるには自分で考え、自分で試すという試行錯誤と、その結果の享受が不可欠だ。

それを奪うからやる気がなくなる。過干渉や世話焼きにあっているアダルトチルドレンの状態に似ている。

好きなようにはやらせてもらえないが、好きになるしかない。

やらされ仕事を好きになるのは私には無理だ。

 

結局は、指示の範囲内で実証実験する、といったところか。

観測者的な立ち位置で仕事のタスクをとらえてみよう。

やれる範囲でやってみて、やれないことはあきらめよう。

そのあとの未来はどうとでもなれ、だ。

とりあえず命令されている行動指標だけやって観察してみよう。そのあとのことは知らん。

求められているのは命令の遂行なのだから。心のなかでは責任はとらない。知ったこっちゃない。

そう思うと少し楽になってきた。

どうせただの金集めなのだ。真面目になることはない。

 

その程度のこと

私は仕事という遊びにはハマれない。

が、ハマれないながらに楽しむしかない。

嫌だと言っていてもやらなくては今のところ生きていけないのだから、やるしかない。

幸い、死ぬほどきついことでもないし、割に合わなさすぎる給料でもない。社会的な信用はあるほうだし、それに伴うメリットを生かして本当にほしい状況を作る足掛かりとしよう。

ラッキーだと思おう。

仕事とは、私にとってその程度のことだ。悩むほど大きい存在ではないじゃないか。

とりあえずのらりくらり、こなしていこう。

 

それにしても、それ以外の個人的な楽しみがないのは問題だ。

最近筋トレもなんだか味気ないというか、面白みに欠ける。

ワクワクするような金に依存しない何かを、見つけていきたい。

自然農は実に興味深く、やってみたいが、今の環境では難しい。

今できる、楽しいことにアンテナを張って生きてみよう。

【神経発達症】この社会を生きることの難しさ

私は人にとても興味が薄いらしい。

ごく親しい人(家族)以外の人のことをすぐに忘れるし、知りたいともあまり思わない。

顔も名前も「そんな人いたっけなぁ」という感じで、うまく思い出せない。

別に薄情なわけではないと自負しているが、他の人々のように深く知りたいとも関わりたいとも思わないのだ。

ASD・ADHDの併存だからだろうか。

私は本当はどう考えているのだろうか。

 

仕事に関する考察

たとえば、仕事。

顧客のことを知るために、チームの他の優秀な営業は、あらゆる手を尽くす。

SNSやネットからストーカーのように調べ上げるのは当たり前で、家族構成や誰と親しいか、何に興味があって、どういう時間帯が一番余裕があるのかなど、あらゆることを知ろうとする。

正直ドン引きする。

相手に時間を割いてもらうために、自社の製品を売り込むために、一生懸命だ。

お金が欲しい、第三者からの評価を得たい、そういった利己的なモチベーションを基盤としているのかもしれないが、知ろう・把握しようというものすごい熱意を感じる。

そんな熱意は私には持てそうにない。

お金は必要最低限あればいいし、他者評価とは水物で「変えられないもの」なので、コントロールできるように思えても、それは幻想だと私は思う。

コントロール欲求と物欲の無意味さは、仏教でも古典哲学でも古くから語られている。それらは人生の最優先事項ではない。人生とは、いかに自分らしく与えられた時間を感謝して過ごすか、に尽きる。

一種のゲームであり、楽しめる人は楽しみ、楽しめない人がいてもそれは不自然ではないはずだ。

しかし、この世の中は資本主義経済社会なので、定量的かつ金銭的なメリットに基づいて人々は行動する。そういう社会構造だからで、人そのものが性悪なのではない。システムが合理主義と功利主義に立脚しているのであれば、そうなるのはしかたない。

が、この金儲けゲームを楽しめない人は、社会の輪から自然とはじかれてしまう。

 

上司がこの間言っていた言葉でとても印象的なものがある。

「自分ひとりでできることは限られている。いかに他人との繋がりをもつか、それによって成せる仕事の大きさは変わる。」

 

なるほど。

前半には同意する。

ひとりでできることは限られている。人間ができることには限界がある。個体の能力値もばらつきがあり、生まれつき平等ではない。それはそうだ。

だが、後半には首をひねった。

他人との繋がりを持つことによって、リソースが増える。だからできることの幅が広がる。そう考えるのは、少し傲慢ではないだろうか。

それは、自分が望むように他人が役立ってくれるから、意図している成果を創出できる、という発想だが、私はそれはコントロールできないものをコントロールできると妄信しているだけのように思う。

 

他人との本物の「繋がり」というのは、利害関係ではないのではないだろうか。

愛による「繋がり」が本物だと私は思う。

 

利用できて得をするから繋がりがあったほうがいいという考え方に、気持ちがとても萎える。

でもそうか、本当に人生を賭してでも成し遂げたい事があるなら、どんなものだろうと誰であろうと頼るのかもしれない。

それって、なんなんだろう?

経済活動と社会に関する考察

私は今売っている製品に愛着がほとんどない。エンドユーザーに届こうと届かなかろうと、大差はないと思っている。

実際そうだ。産業構造が根本的に腐敗しているので、本来公に資するべき収入体系の生命関連産業にもかかわらず、株式会社の形態をとっている。

そのせいで、売り上げを伸ばし続けて利益を生み出し続けないといけないという株主資本主義的な強迫に近い圧力を、ステイクホルダーに与え続けている。

そうなると、本当に必要かどうかわからない人にまでごり押しして売ることになる。そこに歪みが生じ、煩悩と苦痛が発生する。

しかも、本当に必要かどうかを判断するのは、こちらではなく顧客だ。顧客の自由意思が第一で、私たち営業ができるのはその一助になるかもしれない手を差し伸べることだけだ。

手を取るかどうかは、相手次第。意思決定は相手にゆだねるべきだ。

もしも手を取らないのなら、それはしかたのないことだし、それは営業のせいではない。

「伝える」と「伝わる」は違うというが、それは双方がアサーティブにコミュニケーションをとる意欲と準備ができているかどうかという話で、必ずしも伝える側だけの問題ではない。

受け取る側に準備ができていない、その気がない、それは相手の課題で、課題の分離でいうと影響できる範囲を超えている。

意思疎通の齟齬を自責とするのは、行き過ぎた自己責任感であり、アダルトチルドレンの概念でいうイネイブリングにつながる危険性をはらんでいる。

こちらが愛情をもって差し伸べたものを受け取らなくても、それはしかたのないことだと受け容れて、執着しないことが最も理想的な心の在り方だと私は思っている。

だとすると、会う気のない顧客に時間をもらうためにあれこれと時間を割くことは、私にとっては余剰分の愛で行うことような優先順位の低いことで、熱心にやるべきことではない。

 

物質的なあらゆるものは、必要最低限あれば本来はそれでよい。

人間はどうせ死ぬのだから、どれだけ資産を増やしどれだけたくさんのものを所有したように思えても、ゆくゆくはあらゆるすべてを手放すことになるからだ。

すべては今この世を生きている魂が借りたもの。天にほんの一時だけ預けられた貸与物。それが多いか少ないかで人間の価値は測れない。人間はだれもがどんぐりの背比べで、たまたま与えられたものが違っただけ、器が違っただけ。

だから、現在取り扱っている製品だけでなく、他のどんな製品でも、私はそこまで愛着を持たないと思う。

それが金銭と交換に提供された人にとって、物質的な豊かさを一時的に与える可能性があったとしても、それは本質的にその人に役立ったとは言えないからだ。

その人がその人らしく生きるために必要なのは、お金で買えるものではなく、その人が自然に心から感じる命への感謝。それが真の豊かさだ。内在的なものであるがゆえに、お金では買えない。

しかもその人のなかにすでに充分備わっているもので、感じる力を持っていて、きっかけは天によって用意されている。

だから他人が意図的に何かを施す必要は誰にもどこにもなく、あるがままに在れば、それが最も良い社会貢献だと言える。

 

だとすると、私は商売(あらゆる経済活動)にまったく価値を見出せない。

マネーゲームというただのゲームで、それ以上でもそれ以下でもない。暇つぶしにするためのものだ。

しかし、コントロール欲求に支配された人々が政を行うがゆえに、計算可能性が必要で、そのための支配システムとして資本主義経済を導入し、人々をゲームに強制的に組み込むようプログラムした。

今までもこれからも永続的に物質的に金銭的に豊かに過ごせるよう一部の人々の利益のために生み出されたのが、今の社会だ。そりゃあ、ゲームマスターはすべてを掌握した気分で実に愉快だろうが、使われるほうの我々プレイヤーが病むのは当然だ。

だから精神疾患があるし、ルサンチマンがあるし、自死や他殺がある。現代社会を生きる多くの人々を苦しめ死に至らしめるのは社会そのものだと思う。

 

在り方に関する考察

だから、経済システムからいかに離脱し、ゲームから降りるかが、最も建設的な選択ではないだろうか。

すでにそういった真理に気づいた人々は、自分たちで田畑を耕し、オフグリットを確立すべく動き出している。実に賢い人たちだと思う。

盲目的に現在の価値観と社会システムに振り回され、人間らしさを忘れたまま人生を浪費していく人は、一生懸命死に急いでいるようなものだ。

ビジネスに偽りの価値を見出し、それに傾注するのは、まさにそんな生き様だと思う。

私はそこから一刻も早く脱したがっているのか。

そうか。

 

それこそ一人ではできないので、他人との繋がりとやらが必要になってくるのだろう。

たしかに、私は今立ちすくんでいる。

この社会で生きるために家族を支えなくてはならない、そのためにやりたくもない仕事に一日の大半を捧げ、虚ろな目をしている。よくない。

 

しかし、勇気をもって助けを求め、自分が配分できる限りの愛を与える以外に、できることはないように思う。

それこそ、そうあれかしと願い、それが本当にあるべき姿なら、おのずと縁は紡がれていくはずだ。依存症とアダルトチルドレンを通じて、それは体感的に理解している。すべては、意図しなくともおのずとすべて与えられる。気づくか気づかないか、というだけ。

 

私は、生かされている今の状況と、その状況をつくってくれている顧客に、まずは感謝を届けたいと思う。

それは、私が届けたいものだ。選んで使ってくださっている稀有な方々に、ひとりひとりありがとうを伝えることは、私が心から望んでいてやりたいことだ。

まずはそれでいい気がしてきたぞ。

それなら、他人にも会いたいと思える。感謝を受け取り、私という存在に求めることがあって、私にできることなら、応えたいと思う。

他人とはそういうやり取りをしていきたい。

そういう繋がりでも、私は同じように顔も名前も忘れてしまうだろうか。

実の親ですら生きていても死んでいてもどうでもいいと思う私が、生きていてほしい、かけがえがない、と感じるだろうか。

 

それを実験してみようと思う。それが私が私らしく生きていく道につながっているはずだ。

遠回りに見えて、実はそれが最短距離だった、ということは、何度も経験してきただろう?信じて、もう少しやってみよう。

 

感謝

とりとめのないこんな文章を最後まで読んでくれた、そこのあなた。

あなたにも、ありがとう、と言いたい。

存在してくれて、読んでくれて、ありがとう。

【仕事】組織に使い潰されない!サボリーマンのススメ

 

サラリーマンは仕事に入れ込まなくていい

受け身の雇われ仕事に、基本的に意味などない。

ゼロベースで自分がやるべきこと・やりたいことを明確化し、それを実現するためにやっている分には、大いに意味がある。能動的に思い描く未来の延長線上、通過点に今の仕事があるから。

そういう人を除いた、ただ惰性で言われたことをやっているサラリーマンの仕事のことを「受け身の雇われ仕事」と表現していると思ってほしい。

 

今の待遇・生活を維持するために、やりたくもないけどやっている。

そういう人がほとんどではないだろうか。

周りがやっているからなんとなく始めた就職活動。

会社の名前や知名度で選んだよく知らない会社に、なんとなく就職。

なんとなく組織内の出世競争という「椅子取りゲーム」に巻き込まれて、なんとなく日々消耗している。

不安と恐れと虚しさに苛まれながら毎日が終わっていく。

「こんな人生生きたくない」

その不快で不都合な本音をかき消すために、SNSで暴言を吐いたりより不遇な他人を覗きに行って溜飲を下げたり。少し空いた時間で酒を飲んだりギャンブルをしたりゲームをしたり。

楽しみは全てが本音をみないための対症療法。誰かに飼育される奴隷。

誤魔化しでできている人生。クソのような人生。

客観的にみると改めてそう感じるのではないだろうか。

「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃないか!今の私が生きていくにはこれしかないんだ!」

「そうですか。そりゃしょうがないですね。じゃあずっとこのままそうしてたらいいんじゃないですかね。それしかないんだから。」誰かからそう言われると、本気で腹が立つだろう。

その感覚はとてもわかる。私もそうして摩耗してきたひとりだから。

 

組織はあなたを道具扱いしているという事実

組織は、あなたのお母さんではない。お父さんでもない。

他人である。利己的な他者で構成された、ただの営利団体。

「社員こそわが社の宝」などとほざいているが、嘘八百。

ただの換えの効く歯車だと思っている。金儲けのための道具だ。

使い潰すつもりで雇用している。

あなたの人生なんてどうでもいい。一ミリも考えていない。使った後、どう死のうがどう生きようがどうでもいい。

本当は、どんな会社も、どんな経営者も、心の底ではそう思っている。

だって、利益を出すために組織はあるのだから。

利益を効率的に生み出すには、一人では手が足りないから、人を使う。

できるだけ少ないコストでできるだけ効率的にお金を稼げれば、それが最適。

だから、給料はできるだけ払わないようにしようとするのが当然だし、昇進はできるだけしないようにする引力が当然働く。

私は営業部門において類い稀なる成果を継続的に残してきた。だから、私を認めもっと仕事を任せたいなら昇進させるだろう、昇給するだろうと思っていた。しかし組織はあれやこれやと言い訳をして私を評価しなかった。

結局、昇進・昇給とは、その人の真の価値と相関しない。

組織に対する忠誠、つまり「奴隷としての利用価値」の見せ方と運で決まる。私はそれがなかった。だから組織内で評価されなかった。

 

私はそれでほっとした。

私には奴隷の才能がなかった。道具として使い勝手がよくなかった。だから、評価されなかった。

私は、組織内での「椅子取りゲーム」にはハマれなかった。私にとっては、心底つまらないゲームだったから。

ここまで読んで「負け惜しみじゃん」と思う人もいるだろう。

そう思ってもらって構わない。

私にとって価値がないことで、どうでもいい他人が勝ち負けを勝手につけているだけなので、その勝敗を他人がどうとらえようと、私にとってはどうでもいい。

会社という組織は「横並びにした数字の勝敗でムキになってくれる」「目の前にぶら下げたニンジン(昇進・昇給・賞罰)を追いかけてくれる」そういう他者承認を餌にした心理的誘導に引っかかってくれるようなチョロい奴隷が大好きだ。

「どうぞ終わりのないラットレースに巻き込まれてくださいな。終わらない苦しみを癒すためにせめて私を憐れんだらいい。そして自分の心に目を逸らしながら、無駄な一生を終えればいい。」、「負け惜しみじゃん」と思う人に、私はそう思う。

 

仕事は極限までサボってかまわない

向こうが使い潰す気なんだから、こっちも使い倒す気でいて構わない。

仕事に割くリソースなど、MAX50%でいい。それ以上はかけすぎ。

身を粉にして働く、というのは、自分がやりたいと能動的に思うことなら全然OKだと思う。それは自己実現のカタチだから。

でも、他人にやれと言われて、金でほっぺたをひっぱたかれたからって、そんなに根を詰める必要はない。

向こうができるだけ安く使い倒そうと思っているなら、こちらとしては、できるだけ力を入れずにできるだけ多くの金がもらえればよいと思って何の問題もない。

サラリーマンとはそういうものだ。

だからできるだけサボって構わない。

いやむしろ、サボりを極めたサラリーマンこそ、最も優秀なサラリーマンだ。

 

「やってる感」を出すコツは、理論武装と数字のレトリックにある。

結局ビジネスとは、相手がある以上「変えられないもの」「コントロールできないもの」なので、結果も能力も突き詰めると「運」でしかない。

それっぽく、偶然の産物を「努力によって誰もに再現性のある成功」のように見せているだけだ。理論立てて数字で味付けすれば、その「成功の法則」が出来上がる。

それがその人の「やってる感」「優秀な人材っぽさ」を演出する。

組織での椅子取りゲームは、実はこのイカサマの上手下手を競っている。

上の指示に従って上が決めたことが「成功につながっている正しい判断だ」と証明する材料になるのが、イカサマをそれっぽく見せるには手っ取り早い。だから全社方針・経営者方針を体現した(ように見える)人が出世する。

見え透いていてつまらない。

しかし、他に面白いことのない空虚な人には、すこぶる面白いのだろう。だからなんとか成り上がろうと頑張れる。世にも素晴らしい暇人たちだな、と感心する。

 

まとめ:所詮、金儲けはすべて暇つぶし

そもそも、お金というもの自体に価値がない。

単なる商業用の交換媒体であり、本質的な価値はそこに存在しない。

必要最低限あればよく、囚われてはいけないものの代表例だ。

それをもっと欲しがったり、無駄にかき集めたりして、人生を見失っていく。

たまたま世の中が資本主義経済を主体をした社会だったから、ビジネスがあるだけで、本来の人の営みにはほとんど重要ではない。

ヒマつぶしの遊びのようなものだ。

そんなもんに人生をかける必要はない。

面白がれるならおもしろがり、ハマれないならテキトーにやってる感を出して参加しているふりをしておればよい。

どうせ暇つぶしのゲームなんだから。

ただ、生きている時代のせいで強制的に参加させられているだけ。

仕事はつまんないと感じていいし、やる気が出ないのは当然だ。面白いと感じないなら、それはおもしろくないんだ、あなたにとって。

ゲームごときで、暇つぶしごときで、あなたの貴重な人生を棒に振ってはいけない。

私はそう思う。

 

【仕事】起業とか転職とかいろいろ思うこと

おそらく今いる会社には、そう長くはとどまらないと思う。

 

生きていくのに必要なお金を調達できさえすればいいので、組織内でのキャリア形成や社会的評価はどうでもいい。

私はやはり、組織で働くのは向いていないんだろうなぁ。

というか、雇われて働くのが向いていないんだろう。

そうなると、自分で事業を興すしかない。

なので、個人事業主に妻をたてて副業をスタートしたわけだが、今までの年収をカバーしようと思うと、かなり時間がかかりそうである。

 

機能不全家庭に育って、高学歴高収入を目指せと言われ、言われたとおりにレールの上を走ってきた。心を殺して無理をしながら。だから依存症になるほど心が追い詰められていった。

資本主義社会・学歴偏重主義社会にありがちな、典型的な量産型歯車要員。

現在の年収や待遇は、おそらくこの日本ではかなり恵まれていて、生活には全く困らない。家族を養っていける。

しかしこのまま良心の呵責を無視して勤め上げられるほど、私の心は鈍感ではない。

私の人生は、歯車として摩耗するためにあるような、無価値な代物でもない。

 

残念ながら、特に何か秀でた技術や才能があるわけでもない。

コンプレックス克服のために苦手な営業職にあえて突っ込んで行った結果、向いていない営業のスキルばかり身について、何か他に活かせるかというと、正直頭を抱えてしまう。

人生にタラレバはないので、ことこの期に及んでは今のパラメータで市場価値を示すしかないわけだが、これがなかなか難しい。

手に職、というのは実に羨ましく私の目には映る。輝いてみえる。

しかし無いものはない。しかたがない。

 

資本主義経済において市場価値のある私の特性とは何だろう。

プレゼン資料の構成・文章力には多少自信があるが、chatGPTには及ばない。先に触れた技術にしても、作曲・作詞・翻訳・ライター・SE・イラストレーターなどは、今後AIの台頭によりレッドオーシャンになるに違いない。私がこれからライターやブロガーとして生きていくという選択は現実的ではない。

対人関係構築は、ノウハウこそ知っているものの、おそらく不得手な部類だ。何より楽しくない。そんなに他人に興味を持てない。一時的に仲良くなっても、いずれ心理的にも物理的にも離れていく。

「疑り深くひねくれている」という短所の裏返しで、「課題の本質を自分の頭で深く考える」という特性がある。

これは、おそらく人工知能ではできない。なぜなら、AIは人間が明確な課題を提示しなくては答えを出せないから。潜在的な課題の抽出とそれに至る着想、人のなかの見えない想いを整理して可視化・明確化することにおいて、私は長けていると思う。活かすとしたらここだろう。

だからこそのカウンセリング事業であり、かつ対人援助の表に立たないアドバイザー的な在り方が最も向いているポジションだと思う。

逆に妻は、対人関係構築がとても上手で、境界線を守りつつ長く良好な関係を維持することができる。良い意味で楽観的、反面深く考えない。全く正反対の二人だからこそ、良いタッグになる。

 

私一人でなんとかしなくてもいい。

私に足りないところを、妻が補ってくれて、妻にかけている部分を、私が補う。

なぜか妻とは「全く違う」からこそ興味が尽きないし、尊敬し続けることができる。

そうであればこそ、私は苦手な他人との協業にもかかわらず、妻とだけは事業を運営していける自信がある。

 

とはいえ、軌道に乗るまでは、私のWワーク状態は続いていくだろう。

シリコンバレーバンク銀行の破綻。これはおそらく世界恐慌になる。西側諸国主導の経済システムは、もうそろそろ終わる。

そうなると、グローバルユダヤ資本の傘下である日本の大企業の多くが、近々大規模なリストラを国内でも始めるだろう。経営の観点で最もコストがかかるのは人件費であり、人員削減は株主にとって嬉しい経営判断であり、株価を下げたくない雇われ社長は必ずその決断をどこかでする。

私はできるだけ多くの退職金を得られるタイミングで希望退職者に手をあげジョブチェンジしなくてはならない。これは確定事項である。

そうなったとき、既存の産業構造のなかで、私は今何ができるのか。

 

西側諸国の経済システムが終わるとなると、テック系はもうダメだろうと思う。

シンギュラリティ、メタバース、トランスヒューマニズムなど、グローバリストが思い描いてきたグレートリセットは、残念ながら実現しない。

メタの大規模人員削減は、メタバースの開発スタッフが中心だったことからも、彼らの青写真は崩れかけていると感じる。

もちろん医薬品業界・医療業界も、このコロナ詐欺で産業としては成り立たないほどに信頼を失うだろう。コロナワクチンの薬害による疾病の増加でがん・神経変性疾患・心血管疾患・精神疾患の領域はしばらく潤うだろうが、その後は焼け野原になるとみている。

介護業界は今度の介護報酬改定で厳しい予算案が通る予定だ。3~5年激務なのに薄給という悪夢のような状況のあと、コロナワクチンの薬害で高齢者はほぼ死に絶え、利用者すらいなくなるだろう。後遺症で心身を痛めた人々は介護を必要とするだろうが、元気に働ける介護職は減ってしまう。限られた人数で対応するなど不可能な阿鼻叫喚が生まれる。しかしそれでもこの国が今更、報酬を手厚くして介護職の人員を確保し、政府としてケアに力を尽くすことはないだろう。この国はそんな善良な国ではない。

コロナワクチンによる不妊化で、少子化はますます加速する。なので、教育・児童支援の業界も、先細りになる。

学校教育などは、もうすでに奴隷養成所であり、そこで働いている教員ももはや限界を超えた劣悪な労働状況でリタイア寸前なので、仕組み的に続くはずがない。前時代的な詰め込み式の教育や、プログラミングを共通テストの必修科目に今更、しかもこれから導入しようとしている時点で笑ってしまう。

児童支援は、先細りするにはするが、神経発達症・不登校・いじめ・自殺企図など、ますますニーズは高まるだろう。

しかし、この狂った社会常識に盲目的に従うような愚かな大人が問題の本質だ。彼らを中心に構成された家庭環境・学習環境が地獄すぎる。生まれた時から周りがすでに終わっている。

抱えている問題の真因が子どもではないからこそ、ある程度年齢を重ねてしまってからのソーシャルワークの実践は、かなり複雑かつ困難を極めると思う。というか実際現場でそんなふうになっている。はたで見ていて、本当に大変だな、と胸を痛めるほど。

そうなると、せめて未来ある、まだ幼い子どもたちだけでも、手を差し伸べたくなる。

このディストピアで自分らしく生きていけるような居場所を彼らに提供することこそ、本当に世界にとって価値ある行いだと思われる。

大人はもはや救いがたい。腐ったミカンは元には戻らない。他のミカンが腐らないようできるだけ避けておくしかない。

やっぱそれだな。

 

正直、依存症は、支援をやっていてぬぐえない徒労感を感じる。対症療法的でしかないことに、虚しさを覚える。

健全な大人になれなかった大きな子どもをいくら手当てしても、世代間連鎖はすでに継承されていて、キリがない。絶えず来る相談を受けてアプロ―チしていると、承認欲求は満たされるし、やっている側は救ってる感で充実するだろうが、自己満足に過ぎない。際限がなさすぎるのは「社会そのものが狂っている、だから順応なんてしなくていい」という大前提があるからで、それを鉄板の共通認識にしない限り、いつまでも誰もかれもが病み続ける。

私を含めた今の大人たちが盛大に「失敗」したこと、そのせいでこんな狂った世の中になっていることを隠して、偉そうに立派な振りをして居座り子供たちに場所を譲らないから、また同じことの繰り返しになる。

いずれ信用を失う政府とマスメディアと連帯した、既得権益のリソースを通じてやってしまった時点で最初から根本的にダメだったんだよ。それはもう認めるしかないよ。すみませんでした、というところからスタートじゃないかと思う。

もちろん、先人たちの取り組みのおかげで成り立ってきた様々なことがあり、それに対してはとても感謝している。

でも、古代ギリシャ哲学や東洋哲学ですでに優れた生き方の見本が示されていたにもかかわらず、教育からすっかり抜けていたのは、許されざる過失だ。それを思うと、大戦から高度経済成長期にかけてうつつを抜かしたアホすぎるご先祖には、どうしても呆れずにはいられない。命ともいうべき人生哲学を忘れさり、物欲と名誉欲に夢中になってしまって、大事なエッセンスを後世に継承できなかった事実。それがヒラメきょろめ同調圧力MAXの、さもしい日本人の劣等性なのだと思い至るに、深い諦観を覚える。なんかこんなしょぼい国に産まれるなんて結構ハードな運命だな、と思うよね。(笑)

国民性なら、もうそもそも無理じゃね?とも思うことがある。

特にマスクもろくに外せない今の状況をみると、何もかもやるだけ無駄なんじゃないかとすら思う。

 

しかし、希望を捨てきれない。他ならぬ我が子の輝く姿が、そうさせない。

日本社会はこんなにもゴミなのに、大人たちはこんなにもクズしかいないのに、プロパガンダと奴隷教育に洗脳される前の子どもたちの眼の光、なんと美しいことか。

やはり彼らに関わるしかないと思えてくる。本当に唯一の希望。

書いていて思ったが、私は給料が低かろうが、他人に馬鹿にされようが、児童福祉支援、特に保育のフィールドでこそ、生きる意味を見出せるのではないかと思う。

まだ幼く凝り固まっていない、ちゃんと自分の頭で考えられる幼少期に、依存症にしても哲学にしても世の中の狂気にしても、まだ吸収できる余地がある。共同身体性と感性を養う、いや、養うというより、彼らがまだもっているそれらを守る、そのチャンスは療育者によって与えられるべき当然の栄養だと思う。

保育士はやはり取ろう。

おそらく私は変なので既存の組織には受け容れられないだろうから、いずれは自分でエピクロスの園のような認可外保育施設を立ち上げるしかなくなるだろうが、今の会社を離れなくてはならない状況になったら、経験を積むために保育施設や児童福祉支援施設で働こう。そうすれば実務も内情も、知らない部分も見えてくる。

うん、これだ。やはりこれだ。

それまでに、保育士を取って、副業を軌道に乗せて、ダブルインカムで子どもたちが好きな国に留学できるくらいの資本力を維持できさえすればいい。

物質的に欲しいものなどもう無い。家も両親が近々コロナワクチン後遺症で死ぬだろうから、本家と分家の2軒空くので最悪あてはある。

マイナンバーカードの激推しの背景には、超監視社会を構築する意図があるのはもう皆さんご存知の通りである。

日本は愚かなので、おそらく西側が倒れるにもかかわらず、世界から取り残されて、ある程度までディストピア化は進んでしまうだろう。そうなると有事を理由に捕捉された財産は取り上げられる危険性が高い。だから所有する財産を守るためにも、負債を抱えることだけは避けたい。

なぜなら、個人が負債を抱えていれば政府が抵当権を行使して、マイナンバーで捕捉できていなかった財産を合法的に取り上げられるから。その後、働く自由を奪われてベーシックインカムで飼われる奴隷に成り下がることになる。このタイミングで新築物件を買い住宅ローンを組むなど自殺行為。できる限り借金は今すべきではなく、資産を政府に捕捉されるべきではない。

そう考えると、現時点で設備投資や初期投資はできないので、虎視眈々と耐えて、時期を待つしかない。

おそらくこれから起こるであろう「台湾での戦争」あるいは「自然災害」で緊急事態条項を発令し、全体主義の最終仕上げに乗り出した後だ。

どうせそれは失敗に終わり、巨大なカタストロフのあと、小さな共同体、その土地ごとの「空き地」ができる。

そのときこそ、夢を実現するタイミングだと思う。

それまで、信頼できる人との繋がりを大切に、自分たちで生き抜く生活の知恵を学び実践し、クソくだらない社畜のふりをしながら、今を楽しんで生きていく。

それが、いずれ経済が崩壊した後に、何物にも代えがたい本物の財産となる、

【仕事】もう営業やりたくない

私はもう営業職を楽しいと思えなくなってしまった。

ものすごくつまらなくて虚しい。

14年間やってみて、私が本当にありたい姿ではなかったとわかった。

 

営業というのは、きれいごとをいくら並べようと売上がすべてである。

売上を上げるために、他人に要らぬ過干渉するのが仕事である。

良いものは自然に売れる。自然に売れないということは「どうでもいいもの」だからだ。

「どうでもいいもの」に価値があるかのように見せかけて、金を引き出すのが、営業の存在意義と言っても過言ではない。

自分の目的(給料や社内ポジション)のために他人を思い通りに動かそうというのは、実に浅ましい態度である。

もはや歩くコントロール欲求。コントロールを手放すどころの騒ぎではない。全身全霊でとらわれまくりである。

 

ある種のゲームとして、この仕事を楽しめる人は実在していて、そういう人種にとってはこのうえなくやりがいのある仕事なんだと思う。

手練手管を尽くして、数字というわかりやすいゴールに向かって試行錯誤し、報酬を勝ち取る。心の底では他人がどうなろうが知ったこっちゃないと思える自己中心性がないと、このゲームに没頭することは難しい。

横並びに比較されてランキング形式で競わされる。承認欲求を満たすために「成果出そうレース」に人生のリソースのほどんどを投下する。ほかのプレイヤー(同僚)の上にいるとか下にいるとかで一喜一憂する。

なるほど、営業職というのは、ゲーム依存・SNS依存を構築する要素がふんだんにちりばめられた、依存性の高いゲームだと言える。

①結果の不確実性(ギャンブル要素)…あたかも再現性のある成功方法がありコントロールできるような錯覚を起こすが、そんな法則はない。そもそも相手ありきのゲームなので、コントロールできない。アウトカムは運次第。ギャンブル要素があると、人はその不確実性にのめりこみやすい心理構造をしている。

②ランキング形式…常に他人と比べられると、ひとは危機感を煽られ、緊張状態に陥る。実際は環境も条件も全く違うので比較に何の意味も価値もないが、人事評価・報奨金というニンジンをぶらさげることで存在価値とリンクしているように錯覚させる。他人より優れていたい、という承認欲求を巧みにくすぐり、ゲームに没頭させる。

③チームプレイ…江戸幕府が強制施行した庶民の隣保組織「五人組」のように、必ずチームで行動させ連帯責任を負わせる。これにより、連帯責任を発生させてゲームにある一定の力を注がざるを得ないような同調圧力を発生させる。特に日本では同調圧力が強力なので、途中でやめにくく、力を抜きずらくする。激務で鬱積したルサンチマンは結果を残せなかった同僚を迫害することで発散させるので、支配層にとっては組織運営もしやすい。行政官僚制の計算可能性を実現するための支配構造。

すべて、GAFAMやオンラインゲームがやっていることと同じ。

「いかに課金してもらうか、いかに長くプレイしてもらうか」を考え抜いて実装した、人類史に基づいた本能に訴えかける彼らのシステムと酷似している。

「いかに会社のために人生の時間的リソースを割かせるか、いかに仕事だけをさせるか」がよく考えられているのが「営業職」であり、社畜化しやすい職種だということ。

今まではそうしたデジタルでの依存性コンテンツが存在しなかった。男たちは、アナログの「仕事という依存性の高いコンテンツ」に没頭してきて、それを社会的に良しとされてきたので、基本的にワーカーホリックだらけである。女性から見て男がガキっぽいのは、ビジネスマンなんて所詮ゲームばっかりしているガキみたいなものだからだ。

そんなのに囲まれていると、頭がおかしくなりそうだ。

自分の人生に向き合わず、ゲームばっかりやっている子供の群れ。しかも、同じようにゲームに熱中しろと口うるさい。好きでもないMMORPGに毎日ディスコードで呼ばれてやりたくもないクエストに参加させられる気持ちを想像してみてほしい。反吐が出るだろう。

 

なぜ私がこのゲームを楽しめないかというと、短絡的で自己中心的で底が浅いからだ。

他人に勝ってうれしい。

認められてうれしい。

お金がたくさんもらえてうれしい。

この3つの「うれしい」を嬉しがるくらいしかやることがない。

他人のため、社会のため、なんて建前で、誰もそんなことは思っていない。

ただただ自分のためでしかない。

 

それが私にはつまらなすぎる。

他人に勝ってうれしい?は?なんじゃそりゃ。

他人と自分の価値は比べるべくもなく、それぞれがただそれぞれにあるだけ。エリートたりえたのは運であり、資本主義社会における実力とは虚構。すべては運のうちだ。たまたまいい大学に入れる経済力を持つ親の元に生まれて、たまたま五体満足に生んでもらって、たまたま今の成果っぽいものが与えられているだけ。それを自分の力だと思いあがるのは、精神的に未熟だからだ。

認められてうれしい、というのも、失笑ものである。

価値を他者評価にゆだねた時点で、自分の人生を他人に譲り渡したようなものだ。第三者評価はいかにも客観的で合理的な評価のように思うだろうが、結局は誰かの主観であり、自分の価値を規定するのは自分以外にありえない。つまり、他人がどう思おうが、本人の本質的な存在価値に何の影響も及ぼさない。一ミリも関係ない。だから他人に認められるかどうかは大切なことではない。馬鹿にされることも、差別されることも、他人の認知の問題であって、本人の尊厳を少しも傷つけることはできない。

お金がたくさんもらえてうれしい…

代えのきく使い捨ての歯車に成り下がって、ケツをなめ靴をなめ、その人生を小銭に変えられれば満足なのか。なんとも殊勝な心掛けだ。涙が出る。貨幣は結局それそのものに何の価値もない。金銭的な価値基準にとらわれている限り、本当にあるべき姿は見えてこない。私はお金は最小限でいいので、もっともらおう、たくさんもらおう、他人より多くもらおう、とは思えない。そんなくだらないことのために人生の時間をたくさん使いたくない。

 

ここまで書いて気付いたのだが、私は営業をもうしたくない、という背景に、お金儲けはもうしたくない、と思っているらしい。

とにかく金と資本主義社会での労働から遠ざかりたい。

生物としての営みに集中したい。

まったく無駄な時間だ。金儲けのための労働時間というのは。

本質的なことは近代化の真逆のベクトルにある。

科学が今まさに信頼性を失いつつある。

これから社会がもっともっとゴミになれば、もっともっと人そのものが輝く。

生命としての輝きであり、知的生命体としては哲学が道しるべとなる。

美しい輝きと、その奇跡に対する愛と感謝。それを全身で味わいながら生きて、死んでいきたいのだ。

そのためには、ごちゃごちゃと邪魔くさいものがこの世には増えすぎた。

金にまつわる欲と罪で雁字搦めになっている。生きづらいったらありゃしない。

もっとシンプルに、生きたいように生きるべきだ。

自分で田畑を耕し、周りにあるものや命に感謝して、自然にあるものを少しだけいただきながら、生きていることそのものに思いをはせる。

私はやはり宮沢賢治のような生活にあこがれる。物質的・経済的な豊かさより、精神的な豊かさが最も重要だと思う。

 

とにかく仕事はできるだけ最小限にして、資本主義経済社会に頼らない生き方にシフトすべく、鉄の檻の外側でいかに快適に生きていくか模索を続けていきたい。

 

 

 

【仕事】私が製薬会社を離れようと決心した理由

結局、私がやっていたのは「要らないものをつくって売る」という詐欺に加担することだったんだな、と思う。

 

私は製薬業界に転職してきたとき、希望に満ち溢れていた。

世の中の困っている人々の役に立つ大事な仕事だと思って入社した。

国のチェックが入る試験を3回もして世の中に出てくるのだから、ましてや人の命に係わるものなんだから、いい加減なものや有害なものは創らないだろう、と思った。

ましてや国内トップクラスの会社なら、他の小さい会社では多少そんなことがあっても、いろんな意味でちゃんとしているだろうと思った。

科学を信じていた。

事実を客観的に確認するためにエビデンスがあり、それを根拠に間違いの少ない誠実に仕事ができると思った。

 

でも、ふたを開けてみれば、全部でたらめだった。

科学は宗教だった。

「確からしさ」を分析するためだったはずの科学は、「それっぽさ」で他人を納得させるために、金で舗装されているものが、科学の正体だった。

統計の解析方法、試験の条件設定次第で、いくらでも都合よく統計学的に有意な差を示すことが可能だと知った。どんなデータも、なんの保障にもなりはしない。方法としてすでに腐敗していた。

主要評価項目で満足いく結果がでなければ、副次評価項目やサブ解析でなんとかほしい結果をひねり出す。それをもとに「いい薬です」と言ってこいと会社からは命令された。

そもそも現代の医療がインチキだった。

西洋医学から出発するあらゆる治療法は、人間本来の在り方から逸脱させる人工化合物を投与することで、別の病気を生むだけだった。

良くするどころか、悪くするだけ。

mRNA遺伝子製剤だけではない。PPIもARBも、スタチンも抗がん剤も、SSRIもSNRIも。もう何もかも信用できない。

製薬会社は所詮、売り上げを上げて利益を生むことしか、考えていない。

新薬をつくり高値で売りさばき、病んだ人が多ければ「市場性がある」と喜んで要らない薬を大量に処方するように、医師や薬剤師に提案する。

 

本来、薬は飲まなくていいなら飲まないほうがいい。

自然界に存在しない、余計なものを身体に入れないほうがいいに決まっている。

であるならば、ビジネスとしては拡大するより縮小したほうが望ましいのだ、人々の健康にとって。成長産業になるということは、それだけ社会が病んでいる、ということだ。

つまり、病む人が大量に発生するような社会に問題があり、私たちが本当にアプローチすべきは、マクロでは「その社会をどう適切な在り方に導くか」、ミクロでは「病んだ社会とどう距離を取るか」ということに他ならない。

自然に生まれて、不安や恐れや欲望に振り回されることなく、「今ココ」の生の喜びを享受して、自然に死ぬ。土から生まれ、土に還る。

その生命のサイクルを無理にひき伸ばそうとしたり、経済的な尺度で人の存在価値を評価する歪んだ社会に不自然に適応させようすることは、その人らしさを蔑ろにしている。生命の倫理に反する。

しかし、そんなことは製薬会社にいる人間の多くが全く考えない。考えが及ばない。

彼らの頭の中にあるのは「自分の給料をもっと増やそう」とか「もっといいポジションに就くために組織で認められよう」という私利私欲。その割合はおそらく90%以上だ。だいたい自分のことしか考えていない。自分が売った薬で他人が苦しもうが、知ったコトではない。自分と自分の身内が金銭的に豊かであればそれでいい。それが彼らの本音だ。

社会のことや他人のことを自分事としてとらえて、真面目に働くとバカをみる。

 

希望は、ほどなくして絶望に変わった。

勤務して10年。ここで私がしたいことは、もはや何もないと悟った。

結局は、彼らの思考や行動は、すべて金だ。

金が儲かるかどうかが全て。自分たちが得をするかどうかが全て。

口では「患者さんファースト」だの「人々の健康のために」だのとのたまっているが、中身は腐りきっていた。

金を儲けるためではない、というのなら、本当に必要最小限の患者さんに必要最低限の処方をしてもらうべきだ。

薬価は限りなく低く設定し、治療費で医療保険制度を圧迫しないように、他の必要な社会保障に財源が回せるようにするだろう。

売上や計画達成率などでMRやチームにランキングをつける必要もない。

売上が小さくなるほどその地域は薬を必要としていない=病んでいない、ということだ。

計画を設定されてその達成率でボーナスが変わるなら、MRは無理をして売ってくる。そういう倫理に反する行動を誘発しかねないシステムを導入しないはずだ。

あくまでも副作用の報告を収集したり、使い方がわからない医師からの求めに応じて必要な薬剤特性を伝達すればよく、それで充分職務を全うしている。その労働に見合う対価を支払えばいいだけだ。

つまり、本来必要なくなることが最善であるサービスでありビジネス。それが製薬業界だ。

それなのに事業規模を拡大し、取締役が億を超える役員報酬を得ている。

MRの目の前にニンジンをぶら下げて、不必要に処方されるよう暗に促す。

それでつくるのがmRNAのような毒なんだから、目も当てられない。

 

本当にこの世界に神様がいるなら、こんな悪行にはいずれ天罰が下るだろう。

そうでないなら、神などいないということだろう。

これだけ私利私欲に塗れ、人を不幸にし、命すら奪って私腹を肥やす業界が潰れないなら、文字通り神も仏もない。

おそらくMRをはじめ国内の従業員はこれから大量解雇がはじまるだろう。特に国内は。

もうすでに医療関係者からハエか蚊のような扱いを受けている。しつこく売り込みにくるスーツ野郎として通常診療の邪魔者扱いされて久しい。価値を感じられていない。当然だ。

AIやデジタルの導入が加速している。しかもMRに目標を課して自分の墓を自分で掘らせている。製薬会社は株主配当と役員報酬の確保のために必ず人減らしをする。人間より機械のほうが管理しやすく、ランニングコストもかからない。まずは手始めにこの春、事務員から首を切られていくだろう。

金のことしか考えていない製薬会社だ、必ずそうする。絶対にそうなる。この流れは変わらない。

このプランデミックで多くの人が「医療は詐欺である」と気づいたと思うが、そうなれば医療は信頼されなくなるだろう。少なくとも地頭の賢い人々は利用しなくなる。

ということは、医療業界が衰退していく。それにともなって、紐づいた製薬業界も衰退していく。

西洋医学という宗教を信じる信者たちは、これからも今まで通りありがたがって毒を買い毒を飲み苦しみながら死んでいくだろうが。

つまり、もう産業としても会社としてもオワコン確定なうえに、このコロナ騒動に関わってしまっている時点で、世界が正常な方向に向かうとすれば、戦犯扱いされる惨めな末路は避けられない。

正常な方向に世界が向かわないとしても、私はこれ以上悪事に加担するのは耐えられない。良心の呵責がすさまじくてとてもじゃないけど仕事にならない。

 

今から製薬会社に行こうなどと思うひとはいないだろうが、絶対に行かないほうがいい。

待っているのは、暗い未来だけだ。自分の経歴に泥を塗るだけだ。マジでやめておいたほうがいい。

今はまだかろうじて羽振りがいいこの業界だが、気づいている人はそんなにいないのかもしれない。少し先までは見えていたとしても、背景にある資本主義経済社会システムが諸悪の根源であること、哲学を失った虚しい営みであることには思い至らないだろう。

思い至っていれば、私のように思い悩み、病んでいるはずだから。

 

 

【仕事】西洋医学の始まりと終わり

西洋医学の成り立ち

「西洋医学の父」といえばヒポクラテス。

I swear by Apollo the Physician, and Aesculapius, and Health, and All-heal, and all the gods
and goddesses, that, according to my ability and judgment, I will keep this oath and this
stipulation-to reckon him who taught me this art equally dear to me as my parents, to
share my substance with him, and relieve his necessities if required; to look upon his
offspring in the same footing as my own brothers, and to teach them this art, if they shall
wish to learn it, without fee or stipulation; and that by precept, lecture, and every other
mode of instruction, I will impart a knowledge of the art to my own sons, and those of my
teachers, and to disciples bound by a stipulation and oath according to the law of medicine,
but to none others. I will follow that system of regiment which, according to my ability and
judgment, I consider for the benefit of my patients, and abstain from whatever is
deleterious and mischievous. I will give no deadly medicine to anyone if asked, nor suggest
any such counsel ; and in like manner I will not give to a woman a pessary to produce
abortion. With purity and with holiness I will pass my life and practice my art. I will not cut
persons laboring under the stone, but will leave this to be done by men who arepractitioners of this work. Into whatever houses I enter, I will go into them for the benefitof the sick, and will abstain from every voluntary act of mischief and corruption of females or males, of freemen and slaves. Whatever, in connection with my professional practice,
or not in connection with it, I see or hear, in the life of men, which ought not to be spoken of abroad, I will not divulge, as reckoning that all such should be kept secret. While I continue to keep this oath unviolated, may it be granted to me to enjoy life and the practice of the art, respected by all men, in all times ! But should I trespass and violatethis oath, may the reverse be my lot!

『医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う、私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。
この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。
その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。
そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている
弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
○私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
○頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。
○純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
○結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
○いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。
○医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
○この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運
命を賜りたい。

引用:ヒポクラテスの誓い

 

この誓いを読むに、おそらく西洋医学の本当に初期の出発点では、医学は良心と倫理によって成り立っていたのだと思う。

しかし問題はその後の後継者たちだ。

フランスの哲学者で医者のジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーは1747年に刊行した『人間機械論』において、人間の魂は脳の物質的組織の一部であり、その動力によって動かされる機械であると定義した。

古代ギリシャのエピクロスの流れを汲んでいる。彼は万物は人間の身体はもちろん、魂をも含めて、いっさい、原子とその運動に由来すると考えた。

私は個人的にエピクロスの「隠れて生きよ」という言葉に代表されるような、俗世間の動乱に惑わされず、心理的にそこから離れて暮らすことにより、心の平静(アタラクシア)を得て、快適な生を送ろう、という生き方が好きだ。

しかしながら、人間の身体も魂も物理現象でしかない、と考えたのはいささか極端すぎると思う。死の恐怖や不安を解体するためにそう結論付けたのかもしれないが、この思想は危うい。

時は移ろい、19世紀ドイツ。

エピクロス、ラ・メトリ―の思想を汲んで医師、病理学者、先史学者、生物学者、政治家のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウが「病理学の法王」として当時の医学会に君臨し始めたあたりから、医学は完全に道を間違えた。

何ともおぞましい彼の言葉を引用しよう。

「人間の体は機械であり物であり自分で治す生命力はあるはずもない。病気を治すのは医学であり医者であり医薬だ」

「医療はすべて政治であり、政治とは大規模な医療にほかならない」

医療は政治であるという言葉通り、彼はある人物を迫害し追い出す。

その人物とは、センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプである。

19世紀中ごろには産褥熱の発生数が多く、産婦の死亡率も高かった。特にウィーン総合病院では、一般的な助産師による出産と比べ死亡率が3倍も高くなっていた。ここに勤務していたセンメルヴェイスは、産褥熱の発生数を調査し、1847年、産科医が次亜塩素酸カルシウムで手を消毒することで劇的に産婦の死亡率を下げることが出来ることを発見し、”Die Aetiologie, der Begriff und die Prophylaxis des Kindbettfiebers”(産褥熱の病理、概要と予防法)と題した本にまとめて出版した。

センメルヴェイスは手洗い法が死亡率を1%未満にまで下げられる科学的な証拠を数多く示したが、この方法は、医師が死亡原因だったという都合の悪い真実が明るみに出てしまうと、医師が批判にさらされることになるので、当時の医学界に受け入れられなかった。むしろ彼に怒りを示したり嘲笑したりする医師さえいた。

その初期の反対者の一人だったのが、フィルヒョウだった。彼は科学的事実ではなく、政治的利益をとった。患者の命ではなく、医師の社会的立場を守ったのである。

当時最大の病理学者であるフィルヒョーの反対は影響力が大きく、センメルヴェイスがウィーンからハンガリーへ去る原因の一つを作ったと思われる。1865年、センメルヴェイスは神経衰弱に陥り、精神科病棟に入れられ、その後学説が認められないまま若くしてこの世を去る。

当時からすでに、医学はサイエンスではなく、政治としての機能を色濃くしていたと言わざるを得ない。

 

医療への絶望

現代の全ての医師がこんな体たらくだとは思っていない。

本当に命を救いたいと志して医師になった先生をたくさん知っているし、尊敬している。

全否定する気持ちがない一方で、西洋医学を信頼することは難しいとも思っている。

なぜなら、それは大きな枠組みとして、私たちのためのモノではなく、政治のためのモノに成り下がっているのが前提だからだ。

前述のとおり、近代から現代にかけて、医学は大いに道を間違えた。ヒポクラテスの誓いを蔑ろにする、傲慢な理論に発展してしまったと思う。

こういう視点であらためて現代を眺めてみると、この惨状は当然のように思えてくる。

 

政治的意図を達成するための創薬をする製薬会社。

創られたものが毒にしろ薬にしろ、権威に従属し特に考えず、損得で患者に投与する医療従事者。

被害が出ても不都合な結果を隠ぺいし、犯罪を合法化する政府機関。

現代のメガファーマのマッチポンプ、特にワクチン詐欺は、起こるべくして起こったといえる。「医療を用いた大量殺戮」という犯罪のエッセンスは、もうすでに19世紀から育てられていたということだ。

 

私は、医療を信じたかった。でももう無理だ。

製薬会社は、まるで行政機関のようだ。

自分の頭で考えられない、没人格化した人間がひしめき合っている。権威を盾する。その代わりに忖度を繰り返す。そうやってもう腐敗しきっている。

そんな組織のなかでイノベーションが起こるはずもなく、自分が多少損をしてでも問題を告発するような『賢くない』選択をする人格者は存在しえない。なぜなら、マネジメント層が組織の規律を乱す厄介者・異分子として排除するからだ。

つまり、もう製薬会社はダメだ。泥船である。いずれ沈む。改善も改心も期待できない。終わっている。

そんな製薬会社とねっとり癒着している医療も、もう信頼されるのは難しいと思う。

学のない私でも気づくくらいだから、もう末期的だ。

いや、投資可能性で考えれば、商品としての医療はまだ健在で、これからも詐欺ビジネスとして存続するかもしれない。が、もはや本来の清く美しい倫理的な本来の医学は、機能は果たせないと思う。時間をかけて哲学が歪み過ぎている。

これから、mRNAワクチンのリスクを皮切りに、どんどん後ろ暗いことが明るみになっていくと思う。いや、もうなっているのか。わかる人はわかっている。だから、国はもちろん、医学も信頼を失墜する。おそらく回復不可能なほどに。愚かな人はそのまま信じて、金儲けの道具に使われて苦しんで死ぬ。

とても哀しいし、やるせない。だがしかたない。

 

私はもう今の仕事に価値を見出せない。

それなのに生活費を稼ぐためにこんな汚れた仕事をしなくてはならない。

それがとてもつらい。

今まではモチベーションが多少あったが、もはや一ミリもない。だって、頑張ってやったところでたくさんの人が苦しむだけだから。

組織内の人間とも合わない。みんな自分のポジションと給料のことしか考えていないクズばかりだ。吐き気がする。

苫米地英人先生が「フォートトーク」をつくった気持ちがなんとなくわかる。彼の「自分以外の人たちの利益のために生きてる人としか付き合いたくない」という言葉に、ものすごく共感している。

フォートトークを紹介したところで私には1円も入りはしない。しかし、良いものは良い。おすすめ。

話はそれたが、そんなつらい状態なので、私は医療業界から離れようと思っている。

私はお金のために他人を殺せるほど下品ではない。

そんなのの仲間でいるのはこれ以上良心の呵責に堪えられない。

鈍感な同僚は全くそんな感覚ではない。だから仲良くなる必要もない。

今や問題は、別の道で生きていく準備をどう進めるか、経済と社会から物理的にも心理的にも距離を取ってどう生きていくのか。

私の視線はそちらに向いている。

【仕事】完全ワイヤレスイヤホン おすすめ 3選!選び方 徹底解説(ビジネスVer)

在宅ワークやオンラインミーティングが日常になった今、わずらわしいコードから解放されて自宅での仕事時間を快適に集中して過ごせる完全ワイヤレスイヤホンが人気です。

しかし、いざ調べてみるとAirpodsPro高っけー!!ってなりません?

他に良いのないのかな?と思って調べてみるも、価格幅が広いうえに種類が多く、違いがわからなくて悩んでいませんか?

できれば使用目的に最適なイヤホンを選びたいですよね。

そこで今回は特に「ビジネスシーンで完全ワイヤレスイヤホンを使いたい人」が知っておきたい3つのポイント

①音質

②ノイズキャンセリング機能

③マイク性能

を詳しく解説しながら、本当にオススメの完全ワイヤレスイヤホンを紹介していきます。

完全ワイヤレスイヤホンの選び方

高音質のいい完全ワイヤレスイヤホンを選ぶ

イヤホンには「ドライバーユニット」(以下、ドライバー)というパーツが内蔵されています。音声信号を音に変換する振動板・コイル・マグネットなどで構成されています。振動板の口径が大きいほど低音再生で力を発揮する反面、振動の大きい高音域に弱くなります。また、口径が大きくなればなるほど音域にブレが発生して応答性が下がります。

ドライバーユニットの違いが、得意な音質を分けます。

「ダイナミック型」と「BA型(バランスドアーマチュア型)」があります。二つのタイプを兼ね備えた「ハイブリッド型」を合わせて3種類です。

2つのタイプをそれぞれ見ていきましょう。

重低音にこだわる楽曲重視なら「ダイナミック型」

重低音とは、20Hz〜100Hz付近の低い帯域の音域のことです。低音は360度に広がる性質を持っています。そのため、低音再生にはヘッドホンや耳栓型(カナル型)のように外に音が漏れないよう気密性が高いデバイスが適しています。そのヘッドホンの一般的な駆動方法として「ダイナミック型」があります。

ロックやヒップホップ、ダンスミュージックなどの楽曲を迫力たっぷりの音質で楽しみたいドンシャリ派なら、このダイナミック型が適しています。

中〜高音域がクリアなバランス派は「BA型(バランスドアーマチュア型)」

中〜高音域とは、500Hz〜20kHzの音域のことです。高音になるほど、音は真っ直ぐに耳に届く性質を持っており、人間が聞き取りやすい音域は300〜3000Hzと、中音域に近い音域です。

BA型は主に耳栓型(カナル型)に使用される方式で、小型化が容易なことから補聴器に採用されています。クリアで明瞭な音が特徴です。

 

必然的に小型化する必要がある完全ワイヤレスイヤホンは、BA型か、小型化したダイナミック型を採用しています。

最新のモデルはいずれもオンラインミーティングや通話などビジネスシーンでの使用に十分耐えうる音質性能を兼ね備えています。音楽鑑賞の音質にも特にこだわるなら、ダイナミック型をお勧めします。

 

参考:ハイレゾ音源好きはコーデックで選ぶ

ハイレゾ音源とは「解像度の高い音源」のことで、まるで目の前にいるかのような臨場感が楽しめる音源として親しまれています。

コーデックとは、音声を圧縮する方式のことです。

一般的にイヤホンの仕様には「SBC」というコーデックが採用されています。SBCより高音質なコーデックが「AAC」で、AirPodsProにはSBCとAACが採用されています。

さらに高音質再生に対応できるコーデックとして「aptX HD」「LDAC」があります。

職業柄ハイレゾ音源に対応しなくてはならない人や、より高音質な音声出力を望む人は「aptX HD」「LDAC」を採用しているイヤホンを選びましょう。

※スマホやプレイヤーが「aptX HD」「LDAC」に対応していないとスマホやプレイヤーのコーデックで再生されるので、注意しましょう。

 

ノイズキャンセリング機能で選ぶ

在宅ワーク中の家族の話し声や通勤電車内の環境音をシャットアウトし、集中したいことに集中する。そのためにはノイズキャンセリング機能が欠かせませんよね。

ノイズキャンセリングには2種類の方法があります。

パッシブ・ノイズキャンセリング(PNC)

イヤホンの形状や材質の工夫によって物理的に雑音を遮断する(簡単に言えば、耳栓をして聞こえなくする)方法で、高音域のノイズ低減が得意です。特殊な技術や処理を必要としないため、比較的安価に導入できるのが特徴です。

アクティブ・ノイズキャンセリング(ANC)

デジタル処理によって雑音を打ち消す方法です。雑音と反対の形の音波を生み出すことで、音を相殺する、という処理をするのですが、リアルタイムに正確に音波を生み出すためには高度なデジタル設計技術が必要です。そのため、この技術を搭載しているイヤホンは価格が高い傾向があります。「AirPods Pro」に搭載されているのはこの技術です。

ノイズ低減は低音域〜中音域が得意で、周りにいる人の話し声や生活音を遮断するのに適しています。

在宅ワーク中の雑音を気にせず仕事に集中したいなら、ANCが搭載されているかどうかは要チェックです。

 

マイクの性能で選ぶ

相手との通話をスムーズに行うために、マイクの性能は重要なポイントですよね。

ここでは、筆者が出力された音声を聴き比べて、実際に音声をクリアに届けていると感じたモデルに搭載されている、3つの機能をご紹介します。

 

デュアルビームフォーミング機能

マイクを2箇所に設けて音の差異を感知し、発言者の音声以外を拾わないようにする仕組みです。「AirPods Pro」に搭載されているのはこの技術です。他には、Beats Studio Buds などのモデルにも搭載されています。

 

ノイズリダクション機能

Anker社のマイクの機能のひとつです。両側合計6つのマイク全てにノイズリダクション機能が搭載されています。同社は、マイクの数とこの機能が組み合わせることによりデバイスのマイク性能を向上させています。ZoomやTeamsで会議中通話する際の音声に違いを実感することでしょう。

同じような機能に、「cVcノイズキャンセリング機能」があります。

クアルコム社のソフトウエア技術で、cVc(Clear Voice Capture)という略称の通り、入力された音声を識別しそれ以外の雑音をソフトで分離することで、通話相手にノイズを伝えないようにする技術です。

cVcノイズキャンセリング機能は最新の完全ワイヤレスイヤホンには標準装備されており、こちらの音声をきれいに伝えられるよう設計されています。

骨伝導テクノロジー

Jabra社の独自技術の一つです。強風などによる風切り音を検知すると音声入力を自動で切り替え、顎の振動から伝達される音声を捉えることで風切り音を除去します。

仕事柄外回りをする方で、屋外にいるシチュエーションで通話しないといけないケースがある人にはオススメの技術です。

 

このように、マイク性能には各社独自の工夫を凝らしています。

音声入力に強いモデルを探したい場合は「こだわりの独自技術を搭載しているか」をチェックしましょう。

その他・便利機能で選ぶ

他にも、ユーザーのさまざまなニーズに応える便利機能をいくつか紹介します。

スポーツシーンでの使用も考えるなら防水防滴機能をチェック

「IP(International Protection)コード」をご存知ですか?

2003年に国際電気標準会議(IEC)によって定められた、電気製品の防水・防塵性能を表す規格です。

「IP45」などと表記されます。この場合、この製品は「防塵性能=4、防滴性能=5」という意味です。つまり、防滴性能はIPコードの後半の数字をチェックします。0〜8まで全9等級で評価されます。

ランニングで使用するなど汗に濡れても大丈夫なレベルであれば、4(IPX4)以上が必要です。

ハードなアウトドアシーンでの使用を考える場合は、7(IPX7)以上をお勧めします。

 

長時間に及ぶ通話や会議が多いなら再生時間で選ぶ

マネジメント・管理職・事務職のビジネスマンの方は社内ミーティングが仕事の大半を占めます。ひとつの会議が終わればすぐまた次の会議、と長時間使用になることが多いでしょう。

そんな忙しい「電池切れにならないかどうか」が気になりますよね。

その場合は、「連続再生時間」をチェックしましょう。完全ワイヤレスイヤホンは内蔵されているバッテリーが小型のため、平均3〜4時間が一般的です。しかし近年では10時間を超える連続再生時間を誇るモデルも登場しています。

長時間使用を考えている方は「連続再生時間」が長いモデルを選びましょう。

完全ワイヤレスイヤホン おすすめ 3選

ここまで、ビジネスシーンで使用する完全ワイヤレスイヤホンを選ぶ際にチェックすべきポイントをまとめてきました。

ここからは、紹介した重要ポイントを踏まえ、Air pods Pro を含めたおすすめモデル3選を紹介します。

 

 

モデル名:Anker Sound core Liberty Air2 Pro
メーカー:Anker
希望小売価格:12,980円

 

【製品詳細】
イヤホン重量:(片耳)約5.0g
ケース重量:約62.0g
連続再生時間:最大6時間(ケース併用時最大21時間)※ノイズキャンセリングモードの場合
防水性能:IPX4
Bluetoothコーデック:SBC / AAC / LDAC(※ファームウェアのアップデートが必要です)
Bluetoothバージョン:5.0
Bluetooth対応プロファイル:A2DP, AVRCP, HFP, HSP
ノイズキャンセリング(ANC有無):○
マイク性能:ノイズリダクション機能

特徴:マイク性能・防水性能・高音質に対応しているにも関わらず、1万円台で入手できるコスパ最強モデル。独自技術「ウルトラノイズキャンセリング」により環境に合わせたノイズキャンセリングのモード選択が可能。

 

モデル名:Jabra Elite 7 Pro
メーカー:Jabra
希望小売価格:24,800円

 

【製品詳細】
イヤホン重量:(片耳)5.4g
ケース重量:44.0g
連続再生時間:最大8時間(ケース併用時最大30時間)※ANCオンの場合
防水性能:IP57
Bluetoothコーデック:SBC / AAC
Bluetoothバージョン:5.2
Bluetooth対応プロファイル:A2DP, AVRCP, HFP, HSP.SPP
ノイズキャンセリング(ANC有無):○
マイク性能:骨伝導テクノロジー

特徴:補聴器の老舗メーカーで、リモート通話・WEB会議に特化したスピーカーフォンでも高いマイク性能・通話品質を誇るJabra社の最新モデル。調整可能な ANC とヒアスルー機能により、自分の周囲の音をどの程度聞くか、または聞かないかを完璧にコントロールできる。防水レベルの高さも魅力。

 

モデル名:Air Pods Pro(第2世代)
メーカー:Apple
希望小売価格:39,800円

【製品詳細】
イヤホン重量:(片耳)5.3g
ケース重量:50.8g
連続再生時間:最大6時間(ケース併用時最大30時間)
防水性能:IPX4
Bluetoothコーデック:SBC / AAC
Bluetoothバージョン:5.3
Bluetooth対応プロファイル:A2DP, AVRCP, HFP, HSP
ノイズキャンセリング(ANC有無):○
マイク性能:デュアルビームホーミング機能

特徴:根強い人気があるApple社の完全ワイヤレスイヤホン。高性能の通話音質とマイク性能に加え、防滴性能もある隙のない完成度を誇る。

完全ワイヤレスイヤホンまとめ

本記事のポイントをまとめます。

 

①音質

ドライバーユニットには「ダイナミック型」と「BA型(バランスドアーマチュア型)」「ハイブリッド型」がある。

完全ワイヤレスイヤホンの場合、オンラインミーティングや通話などビジネスシーンでの使用を考えるなら、そこまでこだわる必要はない。

楽曲の音質にもこだわるなら「ダイナミック型」が最適。さらに高音質再生に対応できるコーデック「aptX HD」「LDAC」搭載のモデルを選ぼう。

 

②ノイズキャンセリング機能

ノイズキャンセリング機能は「PNC」と「ANC」の2種類がある。

在宅ワーク中の雑音を気にせず仕事に集中したいなら「ANC」が搭載されているかどうかで選ぼう。

 

③マイク性能

マイク性能には各社独自の工夫を凝らしている。

音声入力に強いモデルを探したい場合は「こだわりの独自技術を搭載しているか」をチェックしよう。

 

④その他・便利機能

汗に濡れる可能性がある人(ランニングやウォーキングでも使用する人)は、「IPコード」が4(IPX4)以上のモデルを選ぼう。

立て続けにあるオンライン社内会議などで長時間使用する方は「連続再生時間」が長いモデルを選ぼう。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

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