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【依存症】依存症になってよかったマジで

私は、アルコール依存症だ。

断酒して5年が過ぎ、もうすぐ6年になろうとしている。

本当にいろいろあった。

「お酒をやめて良かった」と思っていることはもちろん、

「依存症になってよかった」と思っている。

 

そんなわけねーだろ、と思うだろう。

5年前に未来の自分がタイムスリップしてきてそんなことを言いだしたら、私も「なめてんのかコノヤロウ」と確実に殴りかかっていると思う。

それくらい信じがたい、心境の変化だと言える。

 

お酒というドラッグの要らない世界

お酒を嗜む人からすれば「お酒を飲めないなんてかわいそう」と思うだろう。

私は飲んでいたころそう思っていた。下戸の人を、可哀想だと思っていた。

私は断酒してから、よく「人生の半分損してる」とか「楽しみが減って可哀想だね」とか言われた。

全然かわいそうじゃないから、安心してほしい。

むしろ飲んでいる人のほうが可哀想だ。人生の半分がお酒なんかで占められているだなんて、昔の私みたいですね、と思って逆にマジで可哀想だなと思う。いやまてよ、私は9割がお酒だったわ、レベルが地獄で草。多分昔の私よりはかわいそうじゃないわ。

お酒を飲んでいるときは、アルコールでラリっているので、脳がドーパミンによって「楽しい」と勘違いする。いわゆるキマっている状態だから、その場の状況を錯覚する。

この間シラフで職場の食事会に参加してみたが、びっくりするほどおもしろくない場だった。

仕事の愚痴ばっかりだし、大した話もしていないし、知的な刺激が全然ない。それなのに1時間も着座して話を聞いているのが、とてつもなくしんどかった。こんなしんどいこと、そりゃ酒でも飲まなきゃやってられねぇよな。どんなもんなのか試しに行ってみたけど、途中で帰った。もう行かないだろうな。

今私にお酒が要らなくなったのは、お酒が無くても楽しいからだ。いや、むしろ無いほうが楽しいからだ。

お酒を飲んでいたのは、人生がつまらなすぎたから。早く終わりにしたい、でも終わりにできない、という絶望を少しでも紛らわせるには、薬物が必要だった。私が合法的に手っ取り早く仕入れられるドラッグが酒だった。ただそれだけ。

生まれた国が違って、モルヒネやコカインやヘロインが手に入る環境なら、それに手を出しただろう。

違法か合法かなんて関係ない。記憶をぶっ飛ばせればそれでいい。仮死状態になれるならなんでもいい。そんな感じだっただろうと思う。

現実が嫌すぎて、何かで紛らわせていた。その必要がなくなった。その変化は何だろう?

 

余計な荷物がなくなった

私は余計なものをたくさん抱えすぎて、歩くのもしんどくて、でも歩くしかなくて、酒を浴びるように飲んだ。

余計なもの、というのは、私の心の中にあるゴミのような価値観と強迫観念だった。

「親の期待に応えないといけない」そうしないと愛してもらえない

「いい大学やいい会社に行かないといけない」そうしないと愛してもらえない

「一流のビジネスマンになって活躍しないといけない」そうしないと捨てられる

「善良で正しくなくてはいけない」そうしないと愛してもらえない

全部、そんなことはなかった。

 

親の期待は勝手に親が持っているだけで、別に応じる必要はない。

親になってわかったが、正常な親は、子供が元気に自分らしく生きていさえすればそれでいい。

恩返しも必要ない、生まれてきてくれただけでもう十分に親孝行だから。

私の親が異常だから、私をコントロールしたかっただけで、私は親の顔色を窺う必要など全くなかったことが分かった。

なので、この思い込みは余計だったから捨てた。

 

 

いい大学、良い会社、一流のビジネスマン。

そんなものは何の価値もないことが、自分の頭で考えて物事や社会を観察していたらわかった。

使い潰しやすい人的資源を確保するための、政府や企業にとって都合がいいブランドイメージだ。本質的な価値はそこにはない。

だって、本当に価値を測れるなら学歴と職歴が輝かしい人はみんな素晴らしい人格者のはずじゃん。

でも実際は違うよね?みんなも薄々わかってるでしょ?

良い大学を出ていてどんなに優秀な成績を収めていてもクズみたいな人間はゴマンといる。優秀とされている官僚や政治家や医師が、このコロナ騒動でどう立ち回ったかをみてみてよ、一発でわかるでしょうよ。

一流のビジネスマンは私からすると「詐欺がよくできるだけのスーツ野郎でしょ?」というイメージ。

ビジネスとは所詮騙し合いの椅子取りゲームであり、それが人より得意なだけ。ゲームの得意不得意は人間性や人間的魅力とは相関しない。

私はクズや詐欺師にはなりたくない。だから、私にとって追いかける価値のない物差しだとわかった。

これも余計だったから捨てた。

 

 

善良さ、正しさ、というのは自分の良心で判断するしかない。

それを「他人に○○と思われよう」としている時点で、そもそもズレていた。

私は大いにズレていた。

他人が思う善良さや正しさは、他人の物差しであって、それは他人の数だけある。そんな千差万別のものさしすべてに対応するなど不可能。つまり、全員に好かれ評価されることなんて、できるわけがないってことだ。

自分を否定されて傷つくのが怖いから、他人に悪く思われたくなかっただけだ。

裏を返せば、傷つかなければいいだけだった。

他人は私のことをそんなに真剣に見ていない。表面を切り取ってあーだこーだ言っているだけだ。または、自分の内面を私を鏡に使って映し出して何かを言っているだけだ。

だから、他人が下す私の評価というのは、とるにたらない。勘案するに値しない。そんな大した影響力の無いもののためにオドオドしながら顔色を窺って生きるのは、とてももったいない。

言いたい奴には好きに言わせておけばよい。それで私の価値は一ミリも棄損されない。

これも余計だったから捨てた。

 

 

ぜーんぶ、私が大事だと信じていた価値観は、余計だった。だからぜーんぶ捨てた。

そしたら、とても身軽になった。

ちゃんと自分の心の声が聞こえるようになった。

今まで余計なゴミに埋もれて聞こえなかっただけだった。

私の心は死んでなかった。ちゃんと叫んでいた。叫んでいたのに気づかなかった。だから心が病んで動けなくなったのだった。

自分の心の声をちゃんと聴くようになったら、やりたいことや楽しいことや嬉しいことがなんなのか、わかるようになる。

そしてそれを素直に聞いて、素直にやっていれば、私は私をどんどん好きになるし、世界もどんどん輝いてみえてくる。

やりたいことをやれる世界。楽しいことや嬉しいことに満ちた世界。

そんな世界を、薬物キマってぼんやりした脳で過ごしたくない。もったいなさすぎる。ちゃんとクリアな五感で楽しみたい。酒?そんなもん飲んでる場合じゃない。

だから、私にはお酒が要らなくなった。

というか、私の世界から無くなった。必要ないから。

 

依存症という宝

私は、酒を憎んでいるわけでは無い。

むしろ、地球上にあってくれてありがとう、と思っている。

私のためにあったのだとさえ思う。

だって、酒に頼って失敗しないと、私は本当のことに気づかなかったから。

私は酒でごまかして生きてきて、運よくしっかりうまくいかなかった。大きな挫折と痛みをもらった。

上手くいかなくて悩んで苦しんで、運よく死なないうちに問題に向き合うチャンスをつかんだ。

「自分の力だけではどうにもならないことがある」という事実を知るチャンスを。

それほど、酒をやめる前の私は傲慢だった。

成績も、業績も、年収も、他人からの愛情も、人生も、全部コントロールできると思っていたのだから。

なんてやべーやつなんだ。そんなんできるわけないだろ。

努力次第でなんとかなる、今評価されないのは自分がまだまだだからだ、と信じていたので「もっと頑張らなきゃ」「もっとちゃんとしなきゃ」と思っていた。

あのねー、そんなに人間万能じゃないんよ。

頑張ったってたかがしれとるし、ちゃんとできないことだってあるんよ。人間だもの。

私はたまたま、ちょっと受験勉強ゲームで点数が取れて、ちょっと運動できる体だったから勘違いしちゃってただけで、人間はどれもこれもが本来どんぐりの背比べ。大した差など無いし、個体ごとに多少能力値に差があるのはしかたがない、埋めようがない、努力は万能じゃない。自分を買いかぶりすぎただけ。

たまたま受験できるだけのお金が出せる両親のもとに産まれた幸運。

たまたまお客様が契約してくれたから業績が出た幸運。

たまたま五体満足に生まれてきた幸運。

ていうか、この時代・この国に産まれたという幸運。

全部、運である。実力は運である。

たまたま運がよかっただけだ。自分の頑張りは、たまたま生まれた結果を後付けで自分の功績だと解釈したにすぎない。

プロスポーツ選手にしても芸術家にしても、たまたまそれに没頭できる環境と、たまたまそれを上手にできる才能があっただけだ。全部、運です。

だから、やれることはそりゃやるけど、なるようにしかならんし、そもそも何かで結果を出すのは遊びであって、人生の本筋じゃないから、楽しくないならやらんでいい。

前の自分より、上手くなりたい、かっこよくなりたい、それがおもしろいからやるんだよ。

あくまでも比較対象は過去の自分。他人じゃない。他人は違う宇宙。前提が違うから比較しようがない。

それで一喜一憂するのは、走り幅跳びの選手がマラソン選手に100m走を挑んで勝った負けたと嫉妬したりマウント取ったりするのと同じくらいくだらない。

好きなように走り幅跳び楽しんで極めりゃいいじゃないの。

自分が楽しいことを極める。人生はそれだけよ。

 

 

何でもできるわけじゃない。

人それぞれに長所も短所も違う。

 

私はそんな当たり前のことも、競争社会で洗脳され過ぎて忘れていた。

とにかく競争で勝って生き残らなくちゃいけない。だから頑張らなきゃいけない。

テメェの人生は仕事かよ。全然つまんないよそんなの。そりゃ飲むよね、っていうね。

他人にとって当たり前のことが、私にはできない事もある。それが当たり前で、それでいい。

だから誰かと比べて自分を嫌いになる必要なんてなかったし、できないことは悪いことじゃなかった。

できないのに助けてと言えない、私の弱さが、私を追い詰めていただけだった。勝手に苦しんでただけ。独り相撲ってやつです。

 

弱くていい、ダメでもいい、他人を頼ってもいい、他人のために生きなくてもいい、私は私で良い。

そういうことに気づくために、私は依存症という病気が必要だった。

 

この病気が無かったら、私は私の生き方に何ら疑問を持つことなく、そのままおじいちゃんになって死んでいただろう。

そう思うと心底ぞっとする。ずっと「なんでこんなに楽しくないんだろ?でも満たされているはず、私は幸せなはず」と自分を誤魔化し毎日毎日小首をかしげながら、せっかく与えられた時間をクソつまらん競争に投資して、後悔しながら人生を終える。

そんな世界線もあったわけだ。その悪夢のような世界線から、私を分岐してくれた依存症。

ああ、依存症のおかげで、私は一度死に、もう一度生きるチャンスを与えられたのだ。

だから、私は本当に心からこう思う。

依存症になってよかった、と。

うらやましかろ^^

【仕事】起業とか転職とかいろいろ思うこと

おそらく今いる会社には、そう長くはとどまらないと思う。

 

生きていくのに必要なお金を調達できさえすればいいので、組織内でのキャリア形成や社会的評価はどうでもいい。

私はやはり、組織で働くのは向いていないんだろうなぁ。

というか、雇われて働くのが向いていないんだろう。

そうなると、自分で事業を興すしかない。

なので、個人事業主に妻をたてて副業をスタートしたわけだが、今までの年収をカバーしようと思うと、かなり時間がかかりそうである。

 

機能不全家庭に育って、高学歴高収入を目指せと言われ、言われたとおりにレールの上を走ってきた。心を殺して無理をしながら。だから依存症になるほど心が追い詰められていった。

資本主義社会・学歴偏重主義社会にありがちな、典型的な量産型歯車要員。

現在の年収や待遇は、おそらくこの日本ではかなり恵まれていて、生活には全く困らない。家族を養っていける。

しかしこのまま良心の呵責を無視して勤め上げられるほど、私の心は鈍感ではない。

私の人生は、歯車として摩耗するためにあるような、無価値な代物でもない。

 

残念ながら、特に何か秀でた技術や才能があるわけでもない。

コンプレックス克服のために苦手な営業職にあえて突っ込んで行った結果、向いていない営業のスキルばかり身について、何か他に活かせるかというと、正直頭を抱えてしまう。

人生にタラレバはないので、ことこの期に及んでは今のパラメータで市場価値を示すしかないわけだが、これがなかなか難しい。

手に職、というのは実に羨ましく私の目には映る。輝いてみえる。

しかし無いものはない。しかたがない。

 

資本主義経済において市場価値のある私の特性とは何だろう。

プレゼン資料の構成・文章力には多少自信があるが、chatGPTには及ばない。先に触れた技術にしても、作曲・作詞・翻訳・ライター・SE・イラストレーターなどは、今後AIの台頭によりレッドオーシャンになるに違いない。私がこれからライターやブロガーとして生きていくという選択は現実的ではない。

対人関係構築は、ノウハウこそ知っているものの、おそらく不得手な部類だ。何より楽しくない。そんなに他人に興味を持てない。一時的に仲良くなっても、いずれ心理的にも物理的にも離れていく。

「疑り深くひねくれている」という短所の裏返しで、「課題の本質を自分の頭で深く考える」という特性がある。

これは、おそらく人工知能ではできない。なぜなら、AIは人間が明確な課題を提示しなくては答えを出せないから。潜在的な課題の抽出とそれに至る着想、人のなかの見えない想いを整理して可視化・明確化することにおいて、私は長けていると思う。活かすとしたらここだろう。

だからこそのカウンセリング事業であり、かつ対人援助の表に立たないアドバイザー的な在り方が最も向いているポジションだと思う。

逆に妻は、対人関係構築がとても上手で、境界線を守りつつ長く良好な関係を維持することができる。良い意味で楽観的、反面深く考えない。全く正反対の二人だからこそ、良いタッグになる。

 

私一人でなんとかしなくてもいい。

私に足りないところを、妻が補ってくれて、妻にかけている部分を、私が補う。

なぜか妻とは「全く違う」からこそ興味が尽きないし、尊敬し続けることができる。

そうであればこそ、私は苦手な他人との協業にもかかわらず、妻とだけは事業を運営していける自信がある。

 

とはいえ、軌道に乗るまでは、私のWワーク状態は続いていくだろう。

シリコンバレーバンク銀行の破綻。これはおそらく世界恐慌になる。西側諸国主導の経済システムは、もうそろそろ終わる。

そうなると、グローバルユダヤ資本の傘下である日本の大企業の多くが、近々大規模なリストラを国内でも始めるだろう。経営の観点で最もコストがかかるのは人件費であり、人員削減は株主にとって嬉しい経営判断であり、株価を下げたくない雇われ社長は必ずその決断をどこかでする。

私はできるだけ多くの退職金を得られるタイミングで希望退職者に手をあげジョブチェンジしなくてはならない。これは確定事項である。

そうなったとき、既存の産業構造のなかで、私は今何ができるのか。

 

西側諸国の経済システムが終わるとなると、テック系はもうダメだろうと思う。

シンギュラリティ、メタバース、トランスヒューマニズムなど、グローバリストが思い描いてきたグレートリセットは、残念ながら実現しない。

メタの大規模人員削減は、メタバースの開発スタッフが中心だったことからも、彼らの青写真は崩れかけていると感じる。

もちろん医薬品業界・医療業界も、このコロナ詐欺で産業としては成り立たないほどに信頼を失うだろう。コロナワクチンの薬害による疾病の増加でがん・神経変性疾患・心血管疾患・精神疾患の領域はしばらく潤うだろうが、その後は焼け野原になるとみている。

介護業界は今度の介護報酬改定で厳しい予算案が通る予定だ。3~5年激務なのに薄給という悪夢のような状況のあと、コロナワクチンの薬害で高齢者はほぼ死に絶え、利用者すらいなくなるだろう。後遺症で心身を痛めた人々は介護を必要とするだろうが、元気に働ける介護職は減ってしまう。限られた人数で対応するなど不可能な阿鼻叫喚が生まれる。しかしそれでもこの国が今更、報酬を手厚くして介護職の人員を確保し、政府としてケアに力を尽くすことはないだろう。この国はそんな善良な国ではない。

コロナワクチンによる不妊化で、少子化はますます加速する。なので、教育・児童支援の業界も、先細りになる。

学校教育などは、もうすでに奴隷養成所であり、そこで働いている教員ももはや限界を超えた劣悪な労働状況でリタイア寸前なので、仕組み的に続くはずがない。前時代的な詰め込み式の教育や、プログラミングを共通テストの必修科目に今更、しかもこれから導入しようとしている時点で笑ってしまう。

児童支援は、先細りするにはするが、神経発達症・不登校・いじめ・自殺企図など、ますますニーズは高まるだろう。

しかし、この狂った社会常識に盲目的に従うような愚かな大人が問題の本質だ。彼らを中心に構成された家庭環境・学習環境が地獄すぎる。生まれた時から周りがすでに終わっている。

抱えている問題の真因が子どもではないからこそ、ある程度年齢を重ねてしまってからのソーシャルワークの実践は、かなり複雑かつ困難を極めると思う。というか実際現場でそんなふうになっている。はたで見ていて、本当に大変だな、と胸を痛めるほど。

そうなると、せめて未来ある、まだ幼い子どもたちだけでも、手を差し伸べたくなる。

このディストピアで自分らしく生きていけるような居場所を彼らに提供することこそ、本当に世界にとって価値ある行いだと思われる。

大人はもはや救いがたい。腐ったミカンは元には戻らない。他のミカンが腐らないようできるだけ避けておくしかない。

やっぱそれだな。

 

正直、依存症は、支援をやっていてぬぐえない徒労感を感じる。対症療法的でしかないことに、虚しさを覚える。

健全な大人になれなかった大きな子どもをいくら手当てしても、世代間連鎖はすでに継承されていて、キリがない。絶えず来る相談を受けてアプロ―チしていると、承認欲求は満たされるし、やっている側は救ってる感で充実するだろうが、自己満足に過ぎない。際限がなさすぎるのは「社会そのものが狂っている、だから順応なんてしなくていい」という大前提があるからで、それを鉄板の共通認識にしない限り、いつまでも誰もかれもが病み続ける。

私を含めた今の大人たちが盛大に「失敗」したこと、そのせいでこんな狂った世の中になっていることを隠して、偉そうに立派な振りをして居座り子供たちに場所を譲らないから、また同じことの繰り返しになる。

いずれ信用を失う政府とマスメディアと連帯した、既得権益のリソースを通じてやってしまった時点で最初から根本的にダメだったんだよ。それはもう認めるしかないよ。すみませんでした、というところからスタートじゃないかと思う。

もちろん、先人たちの取り組みのおかげで成り立ってきた様々なことがあり、それに対してはとても感謝している。

でも、古代ギリシャ哲学や東洋哲学ですでに優れた生き方の見本が示されていたにもかかわらず、教育からすっかり抜けていたのは、許されざる過失だ。それを思うと、大戦から高度経済成長期にかけてうつつを抜かしたアホすぎるご先祖には、どうしても呆れずにはいられない。命ともいうべき人生哲学を忘れさり、物欲と名誉欲に夢中になってしまって、大事なエッセンスを後世に継承できなかった事実。それがヒラメきょろめ同調圧力MAXの、さもしい日本人の劣等性なのだと思い至るに、深い諦観を覚える。なんかこんなしょぼい国に産まれるなんて結構ハードな運命だな、と思うよね。(笑)

国民性なら、もうそもそも無理じゃね?とも思うことがある。

特にマスクもろくに外せない今の状況をみると、何もかもやるだけ無駄なんじゃないかとすら思う。

 

しかし、希望を捨てきれない。他ならぬ我が子の輝く姿が、そうさせない。

日本社会はこんなにもゴミなのに、大人たちはこんなにもクズしかいないのに、プロパガンダと奴隷教育に洗脳される前の子どもたちの眼の光、なんと美しいことか。

やはり彼らに関わるしかないと思えてくる。本当に唯一の希望。

書いていて思ったが、私は給料が低かろうが、他人に馬鹿にされようが、児童福祉支援、特に保育のフィールドでこそ、生きる意味を見出せるのではないかと思う。

まだ幼く凝り固まっていない、ちゃんと自分の頭で考えられる幼少期に、依存症にしても哲学にしても世の中の狂気にしても、まだ吸収できる余地がある。共同身体性と感性を養う、いや、養うというより、彼らがまだもっているそれらを守る、そのチャンスは療育者によって与えられるべき当然の栄養だと思う。

保育士はやはり取ろう。

おそらく私は変なので既存の組織には受け容れられないだろうから、いずれは自分でエピクロスの園のような認可外保育施設を立ち上げるしかなくなるだろうが、今の会社を離れなくてはならない状況になったら、経験を積むために保育施設や児童福祉支援施設で働こう。そうすれば実務も内情も、知らない部分も見えてくる。

うん、これだ。やはりこれだ。

それまでに、保育士を取って、副業を軌道に乗せて、ダブルインカムで子どもたちが好きな国に留学できるくらいの資本力を維持できさえすればいい。

物質的に欲しいものなどもう無い。家も両親が近々コロナワクチン後遺症で死ぬだろうから、本家と分家の2軒空くので最悪あてはある。

マイナンバーカードの激推しの背景には、超監視社会を構築する意図があるのはもう皆さんご存知の通りである。

日本は愚かなので、おそらく西側が倒れるにもかかわらず、世界から取り残されて、ある程度までディストピア化は進んでしまうだろう。そうなると有事を理由に捕捉された財産は取り上げられる危険性が高い。だから所有する財産を守るためにも、負債を抱えることだけは避けたい。

なぜなら、個人が負債を抱えていれば政府が抵当権を行使して、マイナンバーで捕捉できていなかった財産を合法的に取り上げられるから。その後、働く自由を奪われてベーシックインカムで飼われる奴隷に成り下がることになる。このタイミングで新築物件を買い住宅ローンを組むなど自殺行為。できる限り借金は今すべきではなく、資産を政府に捕捉されるべきではない。

そう考えると、現時点で設備投資や初期投資はできないので、虎視眈々と耐えて、時期を待つしかない。

おそらくこれから起こるであろう「台湾での戦争」あるいは「自然災害」で緊急事態条項を発令し、全体主義の最終仕上げに乗り出した後だ。

どうせそれは失敗に終わり、巨大なカタストロフのあと、小さな共同体、その土地ごとの「空き地」ができる。

そのときこそ、夢を実現するタイミングだと思う。

それまで、信頼できる人との繋がりを大切に、自分たちで生き抜く生活の知恵を学び実践し、クソくだらない社畜のふりをしながら、今を楽しんで生きていく。

それが、いずれ経済が崩壊した後に、何物にも代えがたい本物の財産となる、

【哲学】楽観的虚無主義のススメ

諸行無常

世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。 人生は、儚く虚しいものであるということ。

諸法無我

全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないということ。

 

『徒然草』『方丈記』を読んでいて、やはりこの世は虚無なんだろうな、と思う。

人の負の感情は、この世に期待しすぎていることから生まれている。

 

対人関係において。

「当たり前だ」と思う心が、今目の前にいる存在への感謝を忘れさせる。

感謝を忘れて、不満を抱えるのは、自分の心。心のありよう次第。

自分の思い描いたとおりに、他人は動かない。それこそが当たり前。

期待とは自分の勝手な思い込み。

信頼を裏切られた、と私たちはよく感じるが、そもそも人間は信頼できるようなつくりをしていない。

いい加減だし、気分で言うことは変わるし、ズルくて残酷で、基本的に終わっている。

信頼に値しない存在として過度な期待をしないでいれば、善行に心から感謝できる。

 

組織において。

基本的に、行政官僚制組織は腐敗する。

損得マシーン・法の奴隷・言葉の自動機械。

終わっている人間が、さらに終わった人形に成り下がるシステムに取り込まれているのだから、もう期待のしようがない。

資本主義経済のこの世では、会社は営利目的の詐欺団体であり、政府は既得権益の保存機関であるのが、むしろ自然なレゾンデートル。悪であることが当たり前なんだと思う。

だから、善良な人ほど仕事は疲れるし、しんどい。悪を行なっているから。

わかりやすく稲盛和夫の『生き方』を読んで、尤もらしい顔をして「人として成長するために仕事がある」などと鼻息を荒くしていた20代。

当時を思い出すだけで恥ずかしくて穴があったら入りたい。

資本主義社会での仕事は、単なる暇つぶし。金のためにやることで成長することなど無い。

この虚しい世から目を背け何とかやり過ごすための、奴隷としての精神が培われる。

つまり「調教」されることはあるだろうけれど、いずれ本質的な生の概念に近づくと、本来の姿である毒に裏返る。自分を騙し続けて「生きづらさ」として抱えた負債は、心身の病となってあわられる。

仕事に正義や愛を求めることは、悪質な高利貸しに募金を求めるようなものだ。

どだい、無理な話である。

だから、会社に、仕事に期待をしなくなった。

企業が利益追求の巨大な捕食者であるという「変えられない事実」を認め、組織本来の存在定義を受け容れ、共存する方法を模索する。

私にとっての悪もあってのこの世。

悪をときには利用し、ときには遠ざけて。

かつて人類が「火」を手にしたように。

欲望の傀儡と化した営利組織という集合体と、智慧ある私たちのほうが、距離とバランスをとっていくよりほかはない。

彼らの在り方は変わらないし、私たちは生きていきたいのだから。

生まれた瞬間から、子々孫々にわたっての共犯関係である。

 

家族において。

そもそも、無理なことをしているという自覚はとても重要である。

人間は基本的に相容れない。

それなのに、同じ屋根の下譲り合って暮らしている。それはまさに奇跡である。

力を合わせて生活を成り立たせている。

相手がいるのは当たり前でなく、家族がいることは当たり前ではない。

我が子が存在することももちろん当たり前ではない。

今のこの瞬間は、偶然にも与えられた非日常である。

だから、洗濯物を取り込むこと、ゴミを出すこと、皿洗いをすること、どんな些細なことも、すべてが本来自分でやらなくてはならなかったことで、やってくれただけで感謝しかない。

金を稼いできているからといって「家事育児は妻がやって当然」などと言うのは、とても愚かな考えである。

パートナーがいるから、生活が維持できている。いつ離れても不思議ではないのに、なぜか一緒にいてくれている。それが本来だが、当たり前だと思い込んで、感謝を忘れる。

お互いに損得と使役の関係になったが最後、それは小さな行政官僚制組織になり果てる。

つまり、クズの巣窟となる。

崩壊(離婚)するのは、当然の帰結。なぜなら、行政官僚制を布いた時点で、マックスヴェーバーの予言を再現するだけ。つまり「破綻」は運命づけられている。

 

いずれすべてが無に帰す

 

何もかもはコントロールできない。

自分自身すら、思い通りにはならない。

できることを、精一杯するだけ。それで100%である。

結果を期待しない。そして、恐れない。

自分のまごころが善だと感じることを、ただただ行うのみ。

本来それだけで、尊くて美しい。

それ以上のなにかは総じて虚飾である。不純物であり、オマケであり、娯楽である。

善行という生の本質から離れることなく、浮世の遊びとして楽しむ程度がよい。

借りものの身体を通じて、魂が震える体験をするための享楽。

その享楽にのめり込み過ぎて溺れると、苦しみと悲しみの多い人生になる。

エビデンスも法律も、しょせん言葉遊び。

良心だけが、唯一の羅針盤である。

この世界の計り知れない大きな流れに身を任せる。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

【メンタル】神経発達症のためのライフスキル「言いにくいことを伝える配慮」

私は他人に言いにくいことを伝えるのが下手である。

理路整然と話をまとめる技術と、伝わるように伝える技術は、全く違うベクトルだ。

論理的に構成がきれいでも、人間は機械ではないので、受け取り方は様々だ。

いくら理屈っぽく正しそうな話をしても、気持ちが伝わらなければその言葉は無駄になる。

では、どうすれば伝わるのだろうか、伝えたい思いをどう言葉にすればいいのだろうか。

その答えに近いものを発見したので、書き起こしてみる。

 

妻は、伝えるのが上手だ。

私は少なくとも警戒せずに聞くことができる。

多少耳が痛いことを言われても、心の扉をとじないで落ち着いて耳を傾けることができる。

それはなぜなのか、彼女の話の組み立てを分析してみた。

そして、以下の法則があることが分かった。

 

■言いにくいことを他人に伝えるときには話す順序がある

①感謝を伝える

②「助けてほしい」「困っている」と投げかける

③歩み寄り:こちらで対応可能な範囲を提示する

④提案:相手に「してほしいこと」を明確にする

⑤御礼:「話を聞いてくれてありがとう」「話せてよかった」

順番に解説していく。

 

①感謝を伝える

まず、「いつも有難いと思っている」「あなたがいてくれて助かっている」ということから話を始める。

私が今まで体系的に理解してきたビジネスコミュニケーションとは異なる。ビジネスシーンでは結論から話すことが最善とされているが、これは言いにくいことを伝える際には逆効果になる。

いきなり受け入れがたい要求をバーンと提示されると、人は必ず身構える。その瞬間から、私が話す言葉はもう相手の心に届いていない。耳を通過して右から左に流れていく。相手は、どう断ろうか、どう切り返そうか、を頭の中で考えているから、聞いていない。

まずは、私と相手の関係が大切で、私にとってはかけがえのないものだ、という共通認識を持つことからスタートするのがよい。

対話できると信じているから話をするし、大切だからこそ言いにくいことも伝えようと思う。

それを相手に伝えるには、感謝を言葉にすることが重要だ。

 

②「助けてほしい」「困っている」と投げかける

「Youメッセージ」と「Iメッセージ」というのがある。

「Youメッセージ」は「なんであなたは○○なの?」とか「どうしてあなたは○○してくれないの?」と主語が相手になる話し方。

「Iメッセージ」とは、「私は○○だと感じている」「私は○○で悩んでいる」という「私」を主語にした話し方。

「Youメッセージ」では話すと、相手は独断で断罪されているように感じる。境界線を侵害された痛みと混乱で防衛本能が働き「違う、そうじゃない」「私だって○○なんだ」と反発する気持ちが生まれる。

「Iメッセージ」で伝えられたとき、相手は自分を否定されているとは感じない。「ああ、あなたはそうなんだね」と思いながら落ち着いて言葉を受け取ることができる。

相手に言いにくいことを伝える、というのは、何か問題が起きていて、それを解決したいからコミュニケーションを取ろうとしている状況だ。

責任の所在は置いておいて、話し合ってその問題を解決することが対話の目的だ。

したがって、相手を責めても仕方がない。自分が過剰にへりくだっても仕方がない。

「悩んでいる」「困っている」「助けてほしい」その主体はあくまでも私だ。

「私は○○だと、とてもつらい気持ちになる、それで困っている、あなたの力を貸してほしい」

という具合に、まずは抱えている困難は何なのか、Iメッセージで伝える。

そうすると、相手は私がどんな状況で何に困っているのかが、抵抗なく理解できる。

 

③歩み寄り:こちらで対応可能な範囲を提示する

さて、困った状況をどうするか、に言及するフェーズだが、焦って④に行ってはいけない。

その前にやることがある。

それが「これからも良い関係を続けていきたい」という意思表示だ。

「歩み寄り」である。

相互の対等な関係である以上、こちらもできる限り相手に寄り添った形で着地点を探りたい。

私と同じように、相手にも権利と自由がある。それを最大限尊重し合って、お互いに納得できる妥協点を探すのが、コミュニケーションの基本原則だと思う。

一方的にこちらに有利な条件を飲ませよう、というのは、不誠実だ。コントロールであり、過干渉であり、傲慢不遜な相手に対する攻撃である。

私たちが争いたいのではない、話し合いたいのだ。

「これからもあなたとの関係を大切にしていきたい」

「だから、私としては現段階でここまでならできる、こういう工夫ならできる」

「逆に、○○は難しいと感じている」

と、今発生している問題に対して自分ができる事・できない事を提示する。

 

④提案:相手に「してほしいこと」を明確にする

そのうえで、自分の範疇を越えた、相手にしかできない事を、「してほしいこと」「教えてほしいこと」として提示する、または意見を求める。

「○○のとき○○をしてほしいと私は思うんだけど、あなたとしてはどうだろう?」

「○○なとき私は○○な状態にしたいんだけど、あなたはどう考えているか教えてほしい」

という具合だ。

相手ができそうだと感じるか、難しいと感じるか、尋ねる。

どの範囲までなら協力を得られるのか、教えてもらう。

それで初めて着地点が見えてくる。

もちろん、当初期待したほどの協力を得られないかもしれない。してほしかったことの100%は叶わないかもしれない。

でも、そもそも元の状態を考えてみよう。

相手が全く協力してくれないなら、それは0%。もともと0%だったのだから、協力してくれるというのはそれだけで有難いことだ。

私もあなたも、無理なく継続していくために、お互いが実現できる「協力」がそれぞれなんなのか、お互いに手札をすべてテーブルにさらして検討するのである。

一定の協力が得られないと達成できない事なら、現状二人だけでは達成できない、という結論を踏まえて、別の話し合いになる。

具体的にいえば、結婚生活の継続が達成できないようなら、離婚を視野に入れて関係の在り方を模索する、夫の協力が得られず子育ての継続が達成できないようなら、別居し実家に帰る・お金を払ってシッターなどの民間サービスを利用検討する、などである。

 

⑤御礼:「話を聞いてくれてありがとう」「話せてよかった」

結論は出ないかもしれない。

それでも、時間を取ってお互いの意見を交換することなしに、事態の改善を模索することはできなかった。

相手がいて初めて成立する「対話」という機会を設けられたことに感謝する。

「話を聞いてくれてありがとう」

「話を聞かせてくれてありがとう」

「あなたと話せてよかった」

そういう感謝の言葉で会話を締めくくる。

議論が平行線だったとしても、関係が大切なことには変わりない。その気持ちが相手に伝わる。相手は少なくとも「もう二度と話したくない」とは思わないだろう。

話し合いの機会が持てることは、こちらにとって有難いことであり、相手なくしては叶わない。

 

まとめ:私も相手も大切

全体の工程を通じて共通するのは「自分と相手を尊重する」という姿勢だ。

私の意見も大事。でも相手の意見も大事。

共同生活を送るためには、調整する必要がある。だから話し合う。

基本的に人は独りでは生きていけない。

だから、他人の存在には常に感謝と礼節をもって対応する。

かといって「他人がいないと何もできないのだから、ヘコヘコして機嫌を損なわないように無理をしなくては」というのは、違う。

なぜならそれは、自分を蔑ろにしているからだ。

自分も、かけがえのない大切な存在で、相手だってあなたがいないと困るのだ。あらゆる人は、老若男女問わず完全に対等である。

私は永らく、他人なくして生きていけない自分の脆弱さが許せなかった。

そんな弱いことだから他人と関わらなくては生きていけないのだ、苦労して他人のご機嫌取りをしないといけないのだ、人間になんて生まれなければよかった、来世は石になりたい…などと何度も何度も思った。

何かを成し遂げても誰かのおかげ、生きていることすら他人のおかげ、何もかも全部自分の実績として誇れず、誰かに感謝しながら生きていかなくてはならないのか、重すぎるよ他人の恩…それならいっそ死にたいよって感じだった。

でもどうあがこうと、私は弱いのだった。それはもうどうしようもないことだった。

そして安心したことには、他人も一様に、私と同じように弱いのだった。

全員弱い。

強そうに見える人も、偉そうにしている人も、誰でも他人がいないと生きていけない弱い生き物であることに変わりがない。

だから、ひとりで何でもできるほど強くなくていい。それは私も他人もそうだった。

なーんだ。

誰だって持ちつ持たれつだったんだ。

自分だけで生きていくなんて、人類には不可能なんだ。

だったら恥ずかしがったり負い目を感じたりすることないじゃないか。

そう思って一気に心が軽くなった。

お互いに対等な弱い存在。だから力を貸してくれるなら心の底からありがとうだし、力を貸せないときも「弱いんだからしかたがないよな」と許せる。

基本的に自分が生きるだけで精いっぱいの弱い存在が、何とか肩を寄せ合って生きている。

そういう認識で改めて振り返ると、対話というモノの尊さと有難さをしみじみ実感する。

【AC】「他人の言動を悪くとらえてしまう」という悩み

私の話である。

私は他人と話していて、その言動の裏を勘繰る癖がある。

これは、機能不全家庭で培われた歪んだライフスタイル、ACとしての恐れと不安によるものだ。

言葉の通りに受け取ってきて、痛い目に遭ってきた経験に裏付けられた悪癖。

ADHD・ASDとして、相手の言葉をそのまま受け取ってきたが、多くが言葉通りの意味では無かったり、あとで真意を聞かされて混乱したりしてきた。

そんな私は幼い頃、クラスメートに「変なやつ」扱いされ、爪はじきにされてきたと感じていた。

両親は何かを決めるとき、いつも「自分で選んでもいいのよ」と口では言ったが、常に彼らが選んでほしい選択肢が先に決まっていた。違う選択をした場合は、否定されるか落胆された。

なので、私は「自分で選んでもいい」という言葉の本当の意味は「親の私たちが思い描く正解を当てなさい」だと考えるようになった。

常に他人にとって違和感がない「正解」を当てなければ、思わぬ地雷を踏んで被害を被る。まるで戦場にいるような緊張感があった。

そういう歪んだ関わりと苦い経験に基づいて、私は「言葉をそのまま受け取らず、その真意をよく吟味して咀嚼してから行動する」ようになった。

 

しかし、このスタイルは私を生きづらくさせてきた。

今も健全な人間関係の構築を阻害している。

ACとして問題を抱えている、と思う。

私はこの問題を手放し、もっと率直にアサーティブに人と接することが必要だし、またそうしたい。

私の願いは問題解決だ。だから今回はこの問題について深く考えようと思う。

 

自分が敵だと思うから相手が敵に見える

たとえば妻は「基本的に他人は私に悪意を向けていない」という前提で他人と接する。

私とは逆のスタイルだ。

そして妻は私から見れば、仲間に囲まれ、善意と好意に包まれて幸せそうに見える。

本人も「そのほうが楽しいから」と問題を感じていない。

つまり、私にとっては理想的な関係性を構築している。

 

これは井上雄彦先生の『バガボンド』にも同じような描写がある。

それこそがお前の殺気 わし始め他人はそれを映す鏡にすぎぬ

今まで何人打ち殺してきたか・・・さぞかし多くの敵に囲まれ生きてきたことじゃろうな

だが それはお前自身が仕立てあげた敵にすぎぬ お前自身の殺気が出会う者すべてを敵にする

あと何人斬り殺す?そういうのは強いとはいわん 不細工じゃ

引用:『バガボンド』井上雄彦 第4巻「不細工」より 宝蔵院胤栄

武蔵が宝蔵院胤栄と初めて畑で出会った時のシーン。

胤栄が鍬をもって畑を耕していて、襲いかかってくるように感じて身を固くする武蔵。

そんな武蔵に対して「殺気が不細工」だと言う胤栄。

自分自身の殺気が、出会う者すべてを敵にする。

これはとても耳が痛い台詞である。

私は多くの他人を「敵」として捉えて生きてきて、不細工な殺気を纏ったこのときの武蔵のように、出会う者すべてを敵にしていたと思う。

妻は、出会う他人を「味方」と捉えて生きているので、自分にも相手にも「味方」に見え、実際にそうなっていく。

妻という存在、私という存在がその確かさを実証している。

私が他人を「敵」と捉えなければ、世界に「敵」はいなくなる。

ではなぜ「敵」と捉えることを私はやめられないのだろうか?

 

傷つくことへの恐れと不安

結論から言えば、他人を「敵」と想定して行動することに「メリット」があったからである。

他人を「本当のことを言わない、油断すれば加害を加えてくる脅威」として認識しておくことで、どんなメリットがあっただろうか。

・親の機嫌を損ねずに済んだ、そうしていれば親から愛されないかもしれないという不安を感じなくてよかった

・いじめなど、うかつに信用して危害を加えられることを未然に防げた、同じような辛い気持ちを味わわないでよかった

つまり、今までに経験した出来事、それにともなう負の感情を再び味わうことへの恐れと不安が、私が最も避けたいことだった。常に猜疑心をもち、他人を敵と同定する思考方法により、それらを避けられる、ゆえに傷つく頻度を最小化できるという信仰があった。

この信仰は、当時の幼い私にとっては、自分を守るために最も有効でメリットのある対応の仕方だった。

それ自体を否定することはできない。するつもりもない。一生懸命生きてきた。生きるために必要な防衛本能だった。

 

しかし、その信仰は今も有効に機能しているだろうか?

今は有効に機能しているとは言い難い。いや、素直に認めよう、有効どころか有害である。

他人の言葉の裏にありもしない悪意を探して、勝手に勘違いして傷ついたり腹を立てたりする。とてつもなく不毛で、相手に対して失礼な態度を生み出している。

善意を悪意と勘違いして、不必要なほど距離を取ったり、アサーティブでない形で「牽制」という大義名分で言葉の加害を加えることが、人を遠ざける。結果、私の孤立を深めている。

いじめもそうだが、この世にあるのは事実ではなく解釈である。

当時にタイムスリップしてみないと分からないが、もしかすると、「いじめられていた」という私の解釈は、歪んでいたかもしれない。実は相手にはそんなに悪意はなかったかもしれない。あるいは予想通り悪意に満ち満ちていたかもしれない。

それは確かめようがない。そして過去は変えられない。人の本心はどこまでいっても永遠に分からない。

なら、あるのかないのかわからないようなものは「あった」と信じることも「なかった」と信じることもできる。

背景をどう規定するかは、私自身に権利と自由がある。

私は好んで「悪意がある」と信じるほうをとっているけれども、それは別の問題を生み出してはいないだろうか。

出会う人すべてを敵にして、孤独にさいなまれ、独りで何でもやろうとするのでしなくてもよい苦労をしていないだろうか。

 

「他人」という呪縛から自分を解放する

そもそも、他人とはそこまで重要な存在なのか?ということを再考してみる。

もっと言うと、他人の評価や、行動である。

 

まず評価から言及する。

他人のなかで自分がどう位置付けられたかは、私の価値に直接影響しない。心の中で馬鹿にされたり、あるいは裏で誹謗中傷をしていても、そしてその言葉を信じる人がいても、それは私の問題ではなく、他人の問題である。他人の解釈の問題であり、私が事実と認識しない限り事実ではない。

私は私らしく生きている限り、私は私であり、またそうでしかありえない。

「他人が私をどう思うか」が私自身に影響する、と信じているから、他者評価を重要視する。

なんら影響しない、と信じている場合は、なんの重要性もない。

つまり、他人の評価は私にとってどうでもいいことに分類することが可能だ。

 

では行動はどうだろうか。

不愉快な干渉や攻撃があれば、そのときに「それはやめてほしい」というだけでよい。

それ以外の行動の裏に、その因子を見つけ出そうとする努力は、しなくてもいい努力だと言える。

どれだけ注意深く他人を観察したとしても、分かることは限られている。そして、できる事も限られている。コントロールすることはできない。

悪いことをする人はどこにでもいるし、いつの時代もいなくならない。

降りかかる火の粉を降りかかったときに払えばよく、そんなに他人の一挙手一投足に注意を払わなくていい、ということだ。

引っかかることを言われたら「それってどういう意味?」と切り返す。

嫌なことをされたら「嫌なんだけど、やめてくれない?」と物理的に距離を取る。

そういう反射的な対応さえ身につけ実践すれば、成人した今では、そこまで困ることはない。

もちろん何も考えずただ信じる、というのでは、昨今の医療詐欺や食品詐欺を考えた人たちに私の大事な身体を傷つけられる可能性がある。

落ち着いて情報を調べ、自分の頭で考え、判断すればいい。唯一の自由である「意思」を他人に明け渡しさえしなければ、どう受け取るか、どう行動するかは、自分で決められる。

他人の行動はコントロールすることはできない。する権利もない。

相手が私をコントロールしようとすることも、止めようがない。

私には相手の不当な要求を拒否する権利があり、自由がある。

ただそれだけのことなのである。

だから、他人の行動は重要ではない。自分がどう行動するか、それのみが重要である。

 

まとめ

他人はそれほど脅威ではない、ということだ。

評価は勝手につけていればよく、行動も私の迷惑にならなければ特に干渉する必要もない。

脅威としての存在感が小さく、むしろ協力者としての存在感が大きいのが実際だ。

人は独りでできる事は限られている。

何かを成し遂げたいと思ったとき、力を貸してくれる仲間がいるというのは、とても有難いことだ。

私は極力他人を頼りたくないと思いがちだ。

なぜなら借りを作ることになるから。借りとは負い目である。何かの形で返さなくてはいけない、つまり心の負債となる。だから避けてきた。

しかし、よくよく友好的な人々を観察していると、どうやら見返りを求めないらしい。愛というのは見返りを求めない。

今まで私が受け取ってきたものは、本当は愛だったかもしれないのに、負債だと思って受け取っていた可能性がある。返す必要がないのに、返さなくてはいけないと思っていたということ。まるでアホである。

返さなくていいなら、どんどん頼ればよかった。苦しい、助けて、と言えばよかった。痛いなら痛いと言えばよかった。居たいなら居たいと言えばよかった。

なのにそうしなかった。それは私に「愛を受け取る勇気」がなかったからだ。「愛されるべき存在だ」と他ならぬ己自身が、己を肯定していなかったから。

私が助けを求めたとき、損得を考えず駆け付けて力になってくれる人。それが仲間であり、友達であり、そんな人には私も無償でできる限りのことをするだろう。

それが健全な協力関係で、実はそんなふうに弱さを曝け出して助けを求める勇気さえあれば、他人とは、最もありがたくて愛しい存在なのかもしれない。

そう思って感謝しながら生きていけるとしたら、それほど幸せな人生はない。私はそんな風に生きていたい。

だから、私は今、無償で力になりたいと思うことに力を入れている。ワクチン後遺症の支援や国内の農業を守る活動にも携わっている。そういう「助けて」に損得ではなく良心で手を差し伸べること。それが私が人との健全な繋がりを取り戻すために、まずやれることだ。

世界はどんな風に色を変えるだろうか。楽しみだ。

生きるのが楽しみだと思えるのは、今まで生きてきてなかなか味わったことがない感覚だ。

生まれてきてよかった。

 

【仕事】もう営業やりたくない

私はもう営業職を楽しいと思えなくなってしまった。

ものすごくつまらなくて虚しい。

14年間やってみて、私が本当にありたい姿ではなかったとわかった。

 

営業というのは、きれいごとをいくら並べようと売上がすべてである。

売上を上げるために、他人に要らぬ過干渉するのが仕事である。

良いものは自然に売れる。自然に売れないということは「どうでもいいもの」だからだ。

「どうでもいいもの」に価値があるかのように見せかけて、金を引き出すのが、営業の存在意義と言っても過言ではない。

自分の目的(給料や社内ポジション)のために他人を思い通りに動かそうというのは、実に浅ましい態度である。

もはや歩くコントロール欲求。コントロールを手放すどころの騒ぎではない。全身全霊でとらわれまくりである。

 

ある種のゲームとして、この仕事を楽しめる人は実在していて、そういう人種にとってはこのうえなくやりがいのある仕事なんだと思う。

手練手管を尽くして、数字というわかりやすいゴールに向かって試行錯誤し、報酬を勝ち取る。心の底では他人がどうなろうが知ったこっちゃないと思える自己中心性がないと、このゲームに没頭することは難しい。

横並びに比較されてランキング形式で競わされる。承認欲求を満たすために「成果出そうレース」に人生のリソースのほどんどを投下する。ほかのプレイヤー(同僚)の上にいるとか下にいるとかで一喜一憂する。

なるほど、営業職というのは、ゲーム依存・SNS依存を構築する要素がふんだんにちりばめられた、依存性の高いゲームだと言える。

①結果の不確実性(ギャンブル要素)…あたかも再現性のある成功方法がありコントロールできるような錯覚を起こすが、そんな法則はない。そもそも相手ありきのゲームなので、コントロールできない。アウトカムは運次第。ギャンブル要素があると、人はその不確実性にのめりこみやすい心理構造をしている。

②ランキング形式…常に他人と比べられると、ひとは危機感を煽られ、緊張状態に陥る。実際は環境も条件も全く違うので比較に何の意味も価値もないが、人事評価・報奨金というニンジンをぶらさげることで存在価値とリンクしているように錯覚させる。他人より優れていたい、という承認欲求を巧みにくすぐり、ゲームに没頭させる。

③チームプレイ…江戸幕府が強制施行した庶民の隣保組織「五人組」のように、必ずチームで行動させ連帯責任を負わせる。これにより、連帯責任を発生させてゲームにある一定の力を注がざるを得ないような同調圧力を発生させる。特に日本では同調圧力が強力なので、途中でやめにくく、力を抜きずらくする。激務で鬱積したルサンチマンは結果を残せなかった同僚を迫害することで発散させるので、支配層にとっては組織運営もしやすい。行政官僚制の計算可能性を実現するための支配構造。

すべて、GAFAMやオンラインゲームがやっていることと同じ。

「いかに課金してもらうか、いかに長くプレイしてもらうか」を考え抜いて実装した、人類史に基づいた本能に訴えかける彼らのシステムと酷似している。

「いかに会社のために人生の時間的リソースを割かせるか、いかに仕事だけをさせるか」がよく考えられているのが「営業職」であり、社畜化しやすい職種だということ。

今まではそうしたデジタルでの依存性コンテンツが存在しなかった。男たちは、アナログの「仕事という依存性の高いコンテンツ」に没頭してきて、それを社会的に良しとされてきたので、基本的にワーカーホリックだらけである。女性から見て男がガキっぽいのは、ビジネスマンなんて所詮ゲームばっかりしているガキみたいなものだからだ。

そんなのに囲まれていると、頭がおかしくなりそうだ。

自分の人生に向き合わず、ゲームばっかりやっている子供の群れ。しかも、同じようにゲームに熱中しろと口うるさい。好きでもないMMORPGに毎日ディスコードで呼ばれてやりたくもないクエストに参加させられる気持ちを想像してみてほしい。反吐が出るだろう。

 

なぜ私がこのゲームを楽しめないかというと、短絡的で自己中心的で底が浅いからだ。

他人に勝ってうれしい。

認められてうれしい。

お金がたくさんもらえてうれしい。

この3つの「うれしい」を嬉しがるくらいしかやることがない。

他人のため、社会のため、なんて建前で、誰もそんなことは思っていない。

ただただ自分のためでしかない。

 

それが私にはつまらなすぎる。

他人に勝ってうれしい?は?なんじゃそりゃ。

他人と自分の価値は比べるべくもなく、それぞれがただそれぞれにあるだけ。エリートたりえたのは運であり、資本主義社会における実力とは虚構。すべては運のうちだ。たまたまいい大学に入れる経済力を持つ親の元に生まれて、たまたま五体満足に生んでもらって、たまたま今の成果っぽいものが与えられているだけ。それを自分の力だと思いあがるのは、精神的に未熟だからだ。

認められてうれしい、というのも、失笑ものである。

価値を他者評価にゆだねた時点で、自分の人生を他人に譲り渡したようなものだ。第三者評価はいかにも客観的で合理的な評価のように思うだろうが、結局は誰かの主観であり、自分の価値を規定するのは自分以外にありえない。つまり、他人がどう思おうが、本人の本質的な存在価値に何の影響も及ぼさない。一ミリも関係ない。だから他人に認められるかどうかは大切なことではない。馬鹿にされることも、差別されることも、他人の認知の問題であって、本人の尊厳を少しも傷つけることはできない。

お金がたくさんもらえてうれしい…

代えのきく使い捨ての歯車に成り下がって、ケツをなめ靴をなめ、その人生を小銭に変えられれば満足なのか。なんとも殊勝な心掛けだ。涙が出る。貨幣は結局それそのものに何の価値もない。金銭的な価値基準にとらわれている限り、本当にあるべき姿は見えてこない。私はお金は最小限でいいので、もっともらおう、たくさんもらおう、他人より多くもらおう、とは思えない。そんなくだらないことのために人生の時間をたくさん使いたくない。

 

ここまで書いて気付いたのだが、私は営業をもうしたくない、という背景に、お金儲けはもうしたくない、と思っているらしい。

とにかく金と資本主義社会での労働から遠ざかりたい。

生物としての営みに集中したい。

まったく無駄な時間だ。金儲けのための労働時間というのは。

本質的なことは近代化の真逆のベクトルにある。

科学が今まさに信頼性を失いつつある。

これから社会がもっともっとゴミになれば、もっともっと人そのものが輝く。

生命としての輝きであり、知的生命体としては哲学が道しるべとなる。

美しい輝きと、その奇跡に対する愛と感謝。それを全身で味わいながら生きて、死んでいきたいのだ。

そのためには、ごちゃごちゃと邪魔くさいものがこの世には増えすぎた。

金にまつわる欲と罪で雁字搦めになっている。生きづらいったらありゃしない。

もっとシンプルに、生きたいように生きるべきだ。

自分で田畑を耕し、周りにあるものや命に感謝して、自然にあるものを少しだけいただきながら、生きていることそのものに思いをはせる。

私はやはり宮沢賢治のような生活にあこがれる。物質的・経済的な豊かさより、精神的な豊かさが最も重要だと思う。

 

とにかく仕事はできるだけ最小限にして、資本主義経済社会に頼らない生き方にシフトすべく、鉄の檻の外側でいかに快適に生きていくか模索を続けていきたい。

 

 

 

【雑談】日本という植民地に生まれて

私は青かった。

「先進国で民主主義国家の日本に生まれてなんて幸せなんだ」

今までそんなふうに思っていられた私の頭は確かに幸せなお花畑だったな、と自嘲せずにはいられない。

 

愛知県知事選挙。たった今、現職の大村秀章知事が当選を確実にした。

ありえない。

スパイクたんぱく質そのものに毒性があることが科学的に明らかになり、そんなスパイクたんぱく質を体内で大量生産するmRNA遺伝子製剤を「打って打って打ちまくるしかない」と喧伝した人物が再当選を果たす、この国の選挙とは何なのか。

この国の民主主義は機能していない。選挙で民意は反映されない。ただのガス抜きイベントである。

そもそもこの日本という国は、近代国家にすらなりきれないまま、体裁だけを整えて国家のふりをしてきた、植民地でしかない。先進国などではないのは言わずもがな。唯一の同盟国はアメリカだけで、それはつまりアメリカの属国ということだ。正確に言えば、欧米諸国の、である。戦後からずーっと、この国は彼らに植民地支配されていたといえる。

昨今の新型ウイルス感染症に関してこの国でやられてきたことと海外の動向をみていて、私のようにようやく気付いた人も多いのではないだろうか。

 

まったく意味のない感染対策を強行する行政府。それに唯々諾々と従う国民。

報じられている情報の真偽を調べようとせず、テレビだけを漫然と眺めている。

海外ではすでに訴訟が起きていたり、推奨されなくなったりしていることを全く知らずに「ルールだから」「国が決めたから」と思考停止。

そりゃ滅びるよなと思う。義務教育により物言わぬ家畜としてしっかり調教してきた成果が顕著に表れている。

かつて、社会学者の宮台真司氏が「日本人の劣等性」について論ずるのを、正直忌々しい気持ちで聞いていた感覚があった。

「日本人を馬鹿にするな、私たちはそんなふうに劣等種族と馬鹿にされる存在じゃない」という反骨精神というか、抵抗感があった。

しかし、今となっては彼の主張に同意せざるを得ない。

現実がそうだからもう反論の余地がない。

かといって私は欧米諸国が優越性をもっているとは思っていない。しかし、厳然たる事実として、日本の民衆のこの有様はとてもじゃないけど優れた先進的な国家とは言い難い。

 

今、世界は第三次世界大戦の最中にある。

しかしそう思っている人が、この国にどれほどいるのだろうか。

ウクライナの凄惨な状況は、ロシアのせいだと思っているのだろうか。そして、遠いところのまったく関係ない出来事だと思っているのだろうか。そう遠くない未来の日本だとは、想像しないのだろうか。

日本は同じような災禍にみまわれると予想している。

経済制裁の名のもとにロシアのエネルギー資源を断ち自らの首を絞めて滅びゆく欧米諸国の、一時しのぎの悪あがきのために。彼らはもはや軍需産業で経済を支えるしかないから、武器を消費するために今度は中国にケンカを売るだろう。この極東の植民地が戦火に飲まれるのは目に見えている。

だからこその「マイナンバー制度」であり「緊急事態条項」であり、回転ずしチェーン店の炎上騒ぎである。

超監視社会の実現、全体主義の徹底により、人的資本としてしっかり金儲けに役立てられるよう、原住民はよく躾けて管理しておかなくてはならないからだ。

この国はそう遠くない未来に国家として成り立たなくなる。つまり滅びる。

 

超過死亡がとんでもないことになっている。

しかしマスメディアではそんなことは報じない。広告主の不利益になるようなことは言わない。というか言えない。

 

一時期、依存症の偏見を是正したいとメディアに集団訴訟をすることで、偏向報道に声を上げるべきではないか、と考えていたことがあった。なんて青臭い発想だろう!穴があったら入りたい。とても恥ずかしい。世の中のことを何も知らなかった。

既存のメディアはどれも基本的に「報道機関」ではない。広告塔だ。そんな高貴な役割を期待してはいけなかった。私はまずそれを理解すべきだった。

そんな、ただの広告媒体にいちいち目くじらを立てなくてもよかった。わかる人にはわかる。マスメディアを鵜吞みにして信じるような思考能力の低い人たちに、本質的なことを理解する能力は期待できない。わからないなら勘違いさせておけばいいだけの話で、そんなくだらない人々に誤解されていても痛くもかゆくもない。

だから裁判で訴える必要すら、元からなかったのだ。どうせ損得で世迷言を垂れ流しているだけの紙屑なのだから。信じるバカは放っておけばよかった、それだけの話だ。

子供に「お前は○○だ」と突っかかられて、本気で腹を立てる人はいないだろう。何も知らないのだから仕方がない、と本気で受け取らない。

大人に「お前は○○だ」と突っかかられて頭にくるのは、その言い分が真っ当であるはずだという信頼があるからだ。つまり、言われていることを事実と認めているから、腹が立つ。

メディアという広告塔が広告として報じている内容を事実だと思う己の誤認から、メディアに人権侵害をされたと感じてしまうだけで、出鱈目をいっている子供だとわかっていれば、本気で受け取らないし、腹も立たない。

世の中のことをある程度見えている人には、わかってもらえているのだから、それだけでよい。元来、それ以上は望むべくもない。

 

超過死亡の話に戻ろう。

この国では今、あの東日本大震災があった時期よりも大量の人間が、死んでいる。これからさらに増えるだろう。原因は言わずもがな。数年前から国民がこぞって注射したmRNA遺伝子製剤に他ならない。ウイルスによる感染症が原因ではない。説明がつかない。

そういう現状を踏まえても、物理的にこの国は人口減少が進み、機能不全に陥ると考えている。

そうした状況に危機感をもち、京都大学名誉教授の福島雅憲先生や大阪市立大学名誉教授の井上正康先生らが、厚労省に対して訴えを起こしている。

まだこの国を見限っていない、本当に心が清い人々だな、と思う。

損得ではなく良心に基づいて行動できる人というのが本当の賢者だが、福島先生や井上先生がまさにそれである。

こういう大人でありたいなと思う。

 

陰謀論者だと馬鹿にする人もいるだろう。

勝手に馬鹿にすればよい。

この国が言っていることより、陰謀論と揶揄される類の考察のほうがはるかに信ぴょう性がある。

陰謀論とレッテルを貼られて嘲笑を浴びてきた人々の言うとおりに、ディストピアに向かってこの世界は転がり落ちているではないか。

つまり、陰謀論とはもはや誉め言葉である。隠したいことが明るみにならないための印象操作として貼られるレッテル。

 

私は最近、世界が裏返ったような感覚をもつことがある。

私が今まで教えられ信じていた常識や世間や社会情勢というのは、基本的にまるっと虚構でしかなかったと思う。

当時尊敬し畏怖した大人たちは、無自覚かつ静かにこの社会を腐らせていたにすぎず、この地獄を残しただけだったのではないか、と失望したりする。

社会に適合できない自分がダメなんだと思っていたけれど、こんな腐った社会に適合できるほうがどうかしていて、私はまともな感性を失わなかったから、うつになったり依存症になったりしたんじゃないかと思う。

日本という植民地に生まれて、私はこの気づきを得た。逆境を経験して突き抜けることができた。

そういう点では、この国に生まれてよかったと思う。この地獄のような環境に感謝するとすれば、そこだろう。

【依存症】私は己の高慢さと無知から他人を遠ざけ勝手に孤独になった

私には反省すべき点がたくさんある。

特に人間関係の構築はとても不得手で、他人とのかかわりをストレスに感じることが多い。

それはなぜなのか。

なぜなら、私が高慢で狭量だからである。

 

妻を見ているとよくそう思う。

妻は「私は知らないことばかりだから」と口癖のように言う。

「知らない」ということを知っている。哲学の父ソクラテスの無知の知である。

教えてくれること、その主体である他人という存在に素直に感謝できる。それは実はとても難しいことだと私は思う。

そして他人を簡単にジャッジしない。

「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼らない。

「この人には私が知らない面がたくさんある」と思いながら、他人の在り方をそのまま受け容れたうえで接する。

だから他人は否定されていると感じないで快く接することができる。ジャッジされる緊張感で在り方を偽る必要がない。だから、一緒にいて居心地が良いと感じる。

友人が多い人というのは、こういうフラットな在り方が自然に行える人なんじゃないかと思う。そして、出会った人を「友か友でないか」と線引きしないので、ほとんどが「友人」という定義に合致する。だから必然的に「友人」と認識する人数は多くなる。そう思われている相手もそう認識する。友人関係というのは相互認識で、明確な定義などないため、「友人と思っているかどうか」という認識がすべて。

 

私はどうかと言えば、残念なことに真逆をいっている。

「友人が少ない」という認識は、自分が他人のことを拒否しているからだ。友人だと思っていないなら、その数は少なくなるのも当たり前。

なぜ他人のことを拒否するかと言えば「わかったつもり」になって自ら遠ざけるから。

「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼る。そして関係を継続する価値がないと判断する。そして関係を断つ。浅い関係でそれなりに対応する。相手もそれを感じて、距離を取る。だから周りに誰もいなくなる。

なぜ他人を早期に判断するのかといえば、自分がその人のことをまだほんの一部しか知らない、ということを認識していないから。

もっと言えば、自分が知っていることなどほんの一部であることを、心から認めていないから。

私は他人よりもよく物事をよく見聞きし分かり「正しい判断ができる」と思いあがっているからだ。

実に乏しい人間である。

 

私のように高慢で不遜な人は、他人にどれだけ助けられて今があるのかを忘れている。

顔も見たことがない、声も聞いたことがない、この世に生きるいろいろな人がいて、私は今の生活を送れている。

確かに悪意にさらされて傷ついた経験は今でも心にずっしりと残っている。

しかしながら、そんな人々もまた誰かの大事な人であり、何か世界に影響を与えていたと考えると、巡り巡って私を支えていた可能性がある。

悪意をもって私に接した背景には、彼らなりの苦しみと生きづらさがあり、表出した一部を私が体験しただけかもしれない。

簡単に、表出した一部だけを切り取って、その人そのものを語ることはできない。

過去の悪事を切り取って、その人の人生をすべて否定することはできないように。

そう考えると、たまたまその瞬間においては「私」と「その人」は良い関係ではなかった、というだけである。それを一般化して「他人なんてくだらない」と断ずるのは短絡的だ。論理的に飛躍しすぎている。

なぜ短絡的にレッテルを貼ろうとするかというと、これ以上傷つくのを恐れているからだ。同じような経験をして痛みを感じるのを恐れて、カテゴライズし予測可能性を見出したくなる。予測可能性があれば、投資可能性があり、自分の行動で結果をコントロールできると思い込める。実際には世界のほとんどの事象において、コントロールすることなどできないのに。

恐れによる認知の歪みはこうして起こる。

 

人と人の関係というのは、すべてがオーダーメイドなのである。

あるカテゴリ、あるレッテルをもとに語り始めた途端、その人そのものから遠ざかっていく。

そしてほんの一部だけかじって、終わりにする。

それはとてももったいないし、第一つまらない。

私の人生がつまらなかったのは、私がつまらなくしていたから、という事実を認めなければならない。

妻は友人に囲まれ私よりはるかに楽しそうに生きている。ように私には見える。

実際楽しいからまだ死にたくない、と言っている。

私はと言えば、死にたいと思っていることが人生の時間の大部分を占めてきた。終了させてもらえるなら今すぐにでも終了させてほしい、そう願いながら生きていた。

この違いである。

「アディクション(依存)の反対は、コネクション(繋がり)」という依存症の世界では有名な言葉があるが、まさにその通りである。

人との繋がりを自分からつまらなくした、あるいは過去の経験によってつまらないと思うことで自分を守った結果、それ以外のものに依存しなくては、立っていられなかった。命を継続することが困難だった。

それが、依存症になる人が抱えている、生き方の根本的な機能不全のひとつだと思う。

 

では、この場合、生き方の機能不全をどう対処していけばよいのだろうか。

「変えられるもの」は他人ではなく自分の在り方なので、恐れに向き合い、恐れを受け容れ、傲慢と偏見を一度捨てて、他人との関わりに挑戦することが大事だ。

挑戦できるようになるまで、恐れについて徹底的に棚卸をする。安心安全な場所(自助グループ)にアウトプットして、供養する。自己憐憫に陶酔する時期もあるだろうが、飽きるまで徹底的に吐き出す。

もう言っているのが馬鹿らしくなるくらい話しつくすと「まぁいつまでも言ってても仕方ないし、これからどうしようか」と思えてくる。そう思えるまでの時間は人それぞれだが、それは短いからよいとか長いからダメとか、そういうものではない。それはジャッジだ。その人には、それだけの時間が必要だった、ただそれだけ。

そこからはじめて、ひとは前に進める。そして、前に進むことができるのは、自分で進みたいと思った時だけだ。

ニーバーの祈りにある「変えられるものは変えていく勇気」が己の心に降りてくる瞬間。

その瞬間から世界の色が変わっていくのだろう。他人という脅威が恩恵に感じる世界へ足を踏み入れるのだろう。

このような認知の転換は、奇跡であり、どんな経済価値にも代えがたい、宝である。

損得やコスパを超えた人間として生きる面白みがここにある。

だから、何度でも生き直せるし、ひとは輝く。

【仕事】私が製薬会社を離れようと決心した理由

結局、私がやっていたのは「要らないものをつくって売る」という詐欺に加担することだったんだな、と思う。

 

私は製薬業界に転職してきたとき、希望に満ち溢れていた。

世の中の困っている人々の役に立つ大事な仕事だと思って入社した。

国のチェックが入る試験を3回もして世の中に出てくるのだから、ましてや人の命に係わるものなんだから、いい加減なものや有害なものは創らないだろう、と思った。

ましてや国内トップクラスの会社なら、他の小さい会社では多少そんなことがあっても、いろんな意味でちゃんとしているだろうと思った。

科学を信じていた。

事実を客観的に確認するためにエビデンスがあり、それを根拠に間違いの少ない誠実に仕事ができると思った。

 

でも、ふたを開けてみれば、全部でたらめだった。

科学は宗教だった。

「確からしさ」を分析するためだったはずの科学は、「それっぽさ」で他人を納得させるために、金で舗装されているものが、科学の正体だった。

統計の解析方法、試験の条件設定次第で、いくらでも都合よく統計学的に有意な差を示すことが可能だと知った。どんなデータも、なんの保障にもなりはしない。方法としてすでに腐敗していた。

主要評価項目で満足いく結果がでなければ、副次評価項目やサブ解析でなんとかほしい結果をひねり出す。それをもとに「いい薬です」と言ってこいと会社からは命令された。

そもそも現代の医療がインチキだった。

西洋医学から出発するあらゆる治療法は、人間本来の在り方から逸脱させる人工化合物を投与することで、別の病気を生むだけだった。

良くするどころか、悪くするだけ。

mRNA遺伝子製剤だけではない。PPIもARBも、スタチンも抗がん剤も、SSRIもSNRIも。もう何もかも信用できない。

製薬会社は所詮、売り上げを上げて利益を生むことしか、考えていない。

新薬をつくり高値で売りさばき、病んだ人が多ければ「市場性がある」と喜んで要らない薬を大量に処方するように、医師や薬剤師に提案する。

 

本来、薬は飲まなくていいなら飲まないほうがいい。

自然界に存在しない、余計なものを身体に入れないほうがいいに決まっている。

であるならば、ビジネスとしては拡大するより縮小したほうが望ましいのだ、人々の健康にとって。成長産業になるということは、それだけ社会が病んでいる、ということだ。

つまり、病む人が大量に発生するような社会に問題があり、私たちが本当にアプローチすべきは、マクロでは「その社会をどう適切な在り方に導くか」、ミクロでは「病んだ社会とどう距離を取るか」ということに他ならない。

自然に生まれて、不安や恐れや欲望に振り回されることなく、「今ココ」の生の喜びを享受して、自然に死ぬ。土から生まれ、土に還る。

その生命のサイクルを無理にひき伸ばそうとしたり、経済的な尺度で人の存在価値を評価する歪んだ社会に不自然に適応させようすることは、その人らしさを蔑ろにしている。生命の倫理に反する。

しかし、そんなことは製薬会社にいる人間の多くが全く考えない。考えが及ばない。

彼らの頭の中にあるのは「自分の給料をもっと増やそう」とか「もっといいポジションに就くために組織で認められよう」という私利私欲。その割合はおそらく90%以上だ。だいたい自分のことしか考えていない。自分が売った薬で他人が苦しもうが、知ったコトではない。自分と自分の身内が金銭的に豊かであればそれでいい。それが彼らの本音だ。

社会のことや他人のことを自分事としてとらえて、真面目に働くとバカをみる。

 

希望は、ほどなくして絶望に変わった。

勤務して10年。ここで私がしたいことは、もはや何もないと悟った。

結局は、彼らの思考や行動は、すべて金だ。

金が儲かるかどうかが全て。自分たちが得をするかどうかが全て。

口では「患者さんファースト」だの「人々の健康のために」だのとのたまっているが、中身は腐りきっていた。

金を儲けるためではない、というのなら、本当に必要最小限の患者さんに必要最低限の処方をしてもらうべきだ。

薬価は限りなく低く設定し、治療費で医療保険制度を圧迫しないように、他の必要な社会保障に財源が回せるようにするだろう。

売上や計画達成率などでMRやチームにランキングをつける必要もない。

売上が小さくなるほどその地域は薬を必要としていない=病んでいない、ということだ。

計画を設定されてその達成率でボーナスが変わるなら、MRは無理をして売ってくる。そういう倫理に反する行動を誘発しかねないシステムを導入しないはずだ。

あくまでも副作用の報告を収集したり、使い方がわからない医師からの求めに応じて必要な薬剤特性を伝達すればよく、それで充分職務を全うしている。その労働に見合う対価を支払えばいいだけだ。

つまり、本来必要なくなることが最善であるサービスでありビジネス。それが製薬業界だ。

それなのに事業規模を拡大し、取締役が億を超える役員報酬を得ている。

MRの目の前にニンジンをぶら下げて、不必要に処方されるよう暗に促す。

それでつくるのがmRNAのような毒なんだから、目も当てられない。

 

本当にこの世界に神様がいるなら、こんな悪行にはいずれ天罰が下るだろう。

そうでないなら、神などいないということだろう。

これだけ私利私欲に塗れ、人を不幸にし、命すら奪って私腹を肥やす業界が潰れないなら、文字通り神も仏もない。

おそらくMRをはじめ国内の従業員はこれから大量解雇がはじまるだろう。特に国内は。

もうすでに医療関係者からハエか蚊のような扱いを受けている。しつこく売り込みにくるスーツ野郎として通常診療の邪魔者扱いされて久しい。価値を感じられていない。当然だ。

AIやデジタルの導入が加速している。しかもMRに目標を課して自分の墓を自分で掘らせている。製薬会社は株主配当と役員報酬の確保のために必ず人減らしをする。人間より機械のほうが管理しやすく、ランニングコストもかからない。まずは手始めにこの春、事務員から首を切られていくだろう。

金のことしか考えていない製薬会社だ、必ずそうする。絶対にそうなる。この流れは変わらない。

このプランデミックで多くの人が「医療は詐欺である」と気づいたと思うが、そうなれば医療は信頼されなくなるだろう。少なくとも地頭の賢い人々は利用しなくなる。

ということは、医療業界が衰退していく。それにともなって、紐づいた製薬業界も衰退していく。

西洋医学という宗教を信じる信者たちは、これからも今まで通りありがたがって毒を買い毒を飲み苦しみながら死んでいくだろうが。

つまり、もう産業としても会社としてもオワコン確定なうえに、このコロナ騒動に関わってしまっている時点で、世界が正常な方向に向かうとすれば、戦犯扱いされる惨めな末路は避けられない。

正常な方向に世界が向かわないとしても、私はこれ以上悪事に加担するのは耐えられない。良心の呵責がすさまじくてとてもじゃないけど仕事にならない。

 

今から製薬会社に行こうなどと思うひとはいないだろうが、絶対に行かないほうがいい。

待っているのは、暗い未来だけだ。自分の経歴に泥を塗るだけだ。マジでやめておいたほうがいい。

今はまだかろうじて羽振りがいいこの業界だが、気づいている人はそんなにいないのかもしれない。少し先までは見えていたとしても、背景にある資本主義経済社会システムが諸悪の根源であること、哲学を失った虚しい営みであることには思い至らないだろう。

思い至っていれば、私のように思い悩み、病んでいるはずだから。

 

 

【依存症】妻が子どもを連れて実家に帰った話

やっぱ、家族って大事だなって思った年末年始でした。

いやー。

なんだかんだ言って、みんながいないとダメね。

 

年末、妻が子どもたちを連れて義実家に帰りました。

先に行って、私は後から合流するってことにしたんですよ。

私は妻には申し訳ないんだけど、やっぱ居心地が良くないんですよね、義実家。

ずっといると、なんかストレス溜まっちゃって、だんだんイライラしてくるんです。

なんとなく居場所がなくて、かと言って周囲に気晴らしに行けるような場所もなく、だんだん追い詰められていくんですよね。

私たちの子どもだから私たちが面倒みるのは当たり前なんですけど、率先してみてくれるわけでもないから、育児の負担はあんまり変わらないし、台所自由に使えるわけじゃないから、好きな時に好きなように料理できるでもなく。

妻は料理が上手で、出してくれるものはなんでもありがたく美味しく食べられるんですけど、義母の料理はなんか雑というか、はっきり言っちゃえば不味いので、食の面でも気持ちが沈んでいきます。

しかも出し方がわけわからん。後から「コレがある」「アレもあった」と小出しにしてくる感じで、お腹が空いてたなら食べたかったものが後から出てきたりすると「なんやねん」ってなります。

家が全体的に埃っぽいし散らかってて、なんか安らげない…かといって掃除すればいいレベルの散らかり具合ではない…なんか、荒んだ気持ちになるんです。

人様の家だから、文句いうのもなんだし、泊まらせていただいてるのにアレなんですけど。

しかもあの人たち、断酒してる私にお構いなしに酒飲みまくるんだよなぁ…。缶も乱雑にテーブルの上に置いとくし、なんなら酒買ってきてくれって頼んだりしてくるんですよ。なんか、そういう無神経なところがまた神経を逆撫でしてくるわけです。

そんなわけでいつもイライラし始める私を見かねて「ちあきだけ滞在期間が短くなるような帰省の仕方」を妻が提案してくれたという経緯があります。

正直スマンと思ってる。

妻的には「イライラして近くにいられるくらいなら、ひとりでゆっくりしといてほしい」という気持ちだそうで、ありがたく提案に乗りました。

 

さて、新幹線で妻と子どもを見送って、ひとり犬たちだけが待つ自宅に帰宅しておどろきました。

静かすぎる…。

犬たちも不安そうにこちらを見つめてきます。

「いつも情緒がアレなコイツだけ帰ってきた…やべぇ…やべぇよ…」という目をしています。

スマンて。いつもアレなのだけでスマンて。

 

ひさびさに飲酒欲求がきたのも、びっくり。

「今日くらい羽を伸ばしてもいいんじゃないか」という気持ちがまだ湧いてくるんだなぁ、と思うと、改めて私は病気なんだなぁって感じました。

変に我慢するとヤバいと思ったので、ノンアルコールビールを買って飲みました。

あんま美味しくない…こんなのいらないな…となって、気持ちがスッと落ち着きました。

開業の準備とか、たまった仕事の雑務とか、子どもたちいないからやりまくれる!と思ってたのに、全然なんのやる気も起きないんですよね。

あー…静かだな…寂しいな……って気持ちで、youtube観てもアマプラで観たかった映画観ても、なんも楽しくない。

ひとりで断酒してる人すげぇよ。よくこんな時間を耐えてるなと思う。

改めて、家族のおかげで断酒続いてるんだなって実感しました。マジでいつもありがとうございます。

自分でヘルシーな料理作って食べてたんですけど、ひとりで食べるの侘しすぎ。

もう、何しててもつまんない。

ブログも書きたい事のネタメモしてたのに、全く筆がのらない。

そんな感じだったから、とりあえず毎日LINEで妻や子どもたちとビデオ通話してましたね。笑

んで、なんかものの数日で会いたくなって、早めに義実家にきちゃいました。

会えないくらいなら、多少義実家が不快でも行くしかない、って感じでした。

家族のありがたみがよく身に染みた年末年始でした。