投稿者「ちあき」のアーカイブ

【子育て】育児してるだけですげぇ

マジで時間が取れない。

いつの間にか一日が終わり疲れ果てている。

自分の時間を確保できるのは早朝か深夜だけど、それも子が起きてしまえば寸断されて台無しになる。

 

こんな環境のなかで家事もこなすのは、至難の業。

専業主婦の人を本当に尊敬する。

シングルで仕事しながら家事育児してる人は神だと思う。

とても真似できない。スゲェよほんと。

 

独身、あるいは子供がいない夫婦だけの生活って、すごく恵まれていたんだなぁ、としみじみ思う。

自分のペースで生きられるってだけでありがたすぎる。

当時は当時で大変さはあったけど、自分で生活を組み立てられた。主導権が自分にあった。

子供が産まれたら、子供たちが最優先になるから、どうしても生活が組み立てにくい。

自助グループにしても、行く時間を確保するのが困難。オンライン自助ですら、何かアクシデントがあったら役割もままならない。

なんとかできる範囲で、できる限りのことをやるしかない。

 

このへんが、育児の経験がない人にはなかなか想像ができない。

独身時代は私もできなかった。

長期の連休明けに「休みはゆっくり休めましたか?」なんてずっとボケたことを言っていた。恥ずかしい。

小さい子どもがいる家庭の長期の連休は、戦場だ。

むしろ「長期連休、おつかれさまでした…お互い生き残りましたね…」くらいがしっくりくる声かけだ。

「ゆっくり休めましたか?」と言われると少しイラっとするもん。「休めたわけがねーだろうが」と。

独身の社員、妻に丸投げして子育てしてこなかったであろう男性社員が、能天気に「休んだし今日から仕事だぁ!」みたいなテンションで「休めましたか?」とウキウキ絡んでくるのが本当に疲れる。マジでやめてほしい。

 

なんとかやりくりすれば時間作れるでしょ?その努力が足りないだけでしょ?

そういう輩に限ってこんなふうに言うけど、できる人もいればできない人もいて、できないほうが多数派じゃないかな?と思うよ。

やりくりして作っても潰されることは多々あるし、努力でなんでもかんでも解決するわけじゃない。

賽の河原で石積みをしている人に、

「鬼が見てない間にササっと積んだらいいんだよ」

「積む技術を磨く努力が足りないだけでしょ?」

と安全な下界からヤジを飛ばすようなもんだ。

そんなに言うなら代わりにやってくれって思うわ。笑

 

今しかない小さい我が子の表情。

今ある輝きを楽しむしかない。

過ぎ去ってしまうと「あの時は良かった」などと未来の私は今の私の気持ちを忘れて無責任に懐かしむのだろう。

あんなに恵まれていた独身時代には家庭を持つことに憧れたように、だいたい人間はいつもいつでも無いものねだりをするものなのかもしれない。

 

自分がやりたいことは、できる範囲でできる分だけやるのがMAX。投下可能時間としては最大なのだから、その限られたリソースで発揮するパフォーマンスが、そのときの100%。

諦めずにやろうとする気持ちを捨てない。そんな自分を褒め称えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

【依存症】私が偏見を気にしなくなった理由

アルコール依存症。

そう聞いて、みなさんはどんな印象を持つだろうか。

だらしない?

人生負け組?

ダメ人間?

 

「私はアルコール依存症です。」

私がこうやって病気のことを知らない人に打ち明けると、反応は様々だ。

 

「まずいことを聞いちゃったな」と慌てて話題を変える人。

「へーそうなんだ」と露骨に態度が変わる人。

「あれってどんな病気なの?」と素直に聞いてくる人。

 

その人のなかに『アルコール依存症』のイメージがあり、そのイメージがその人のなかの私のパーソナリティに反映される。

各々が持つイメージが様々だから、反応は聞いた人によって異なるのだろう。

 

基本的に依存症という病気のイメージは偏見と誤解にあふれている。

マスメディアが作り上げたマイナスイメージに引っ張られていることが多い。

 

国民にとって良くない法案を閣議決定をするとき、国民に騒がれたくないので、覚せい剤や大麻などの薬物を使用した芸能人逮捕のニュースを報道する。いわゆるスピン。知る人ぞ知るお決まりのパターン。

権力者側の都合で情報は歪められる。現代社会の常だ。

「覚せい剤」という単語を聞くと、多くの人は反社会的なイメージをもつのではないだろうか。

実は敗戦当時、覚せい剤であるヒロポンやゼドリンは大手をふるって市販されていた。そんなことは教科書に載ってないし学校では勉強しないからほとんどの人が知らない。製薬会社が販売するのを政府は大っぴらに認めていた。帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)をごまかすのにちょうどよかったから。

昔は合法で巷にあふれていた。今使うと違法だからと袋叩きにされる。

確かにアンフェタミンは依存性があるしその当時乱用がかなり問題になった。

しかし、今合法薬物として国内に出回っているアルコール(酒)はどうだろう。

アルコールは自分と他人に対する害が全ての薬物のなかでNo.1の最悪の薬物で、依存性があり、乱用が問題になっている。

けれど、アルコール(酒)は違法にならない。タバコ程度の害しかない大麻は違法なのに。不思議だよねぇ。

答えは、酒もたばこもたくさん課税できて政府が儲かる産業だから。

違法か合法かは、薬物の危険性とは相関しない。

法律はルールだけど絶対に正しいわけじゃない。必ずしも実態に沿って善意で定められているわけじゃない。

だから、違法なものを使ったからといって、その人の人間性がダメなわけがない。たまたまその人にとってどうしても必要だったものが、社会のルール上違法っていう扱いだっただけ。

 

そういうことを考えない人は「とにかく違法だからダメ」「違法なものを使う人はダメな人」と思ってイメージで他人をジャッジする。

正直言って、そういう人はたいしたことないなと思う。あんまり深く物事を考えない、言われたことを疑いもしない、自分が間違っているかもしれないという謙虚な内省を行わない。

もちろん、情報に触れる機会がないと理解する機会もないので、運もあるだろう。

でも、本当に賢い人は「本当にダメなのかな?」「なんでダメなのかな?」「本当は別の理由があるんじゃないかな?」と裏の裏まで考えて、自分で能動的に調べる。

そういう人はちゃんと情報にたどり着く。背景を知ろうとする。

だから誰かがコントロールしようとして流している恣意的な情報に左右されにくい。

このコロナ茶番ではっきりしたよね、その辺は。

わかる人にはわかるっていうこと。

 

アルコールについてもそう。

酒を飲んだときにその人の本性が現れるとか、飲み方がだらしないのはダメな人間だからだとか、偉そうに言う人がいるけど、本当によく調べて自分の頭で考えていれば、そんなふうに誤解したりしない。

知らないし、知らないかもしれないと調べることもない人が、偏見をもつ。

つまり依存症に対する偏見とは、当事者が抱える問題ではなく、非当事者が抱える課題であり問題だ。

偏見を持たれるからといって、当事者である私は特に気にしない。

「よく知らない人が、いい加減なことを言っているなぁ、知る機会がなかったんだなぁ、かわいそうに」と思うだけだ。

私が非当事者に情報を手渡したとして、知りたいと率直に思って聞いてくれる人は理解してくれるし、逆に聞く気がない人は全然理解できない。冒頭にある通り、反応は様々で、それは受け手の知能にかかっている。知能というか「私を本当に理解しようとしているかどうか」にかかっている。

いくら「本当はこういう病気なんです」と声を大にして発信したとしても、相手に受け取る気がなければ伝わらない。

詰め込み教育ばかりを施されてきたこの現代社会というのは、残念ながらそういう消極的な情報の受け手の集合体なので、社会を変えるというのはほぼ困難と言っていい。

変えられないものを「なんで変わらないんだ、偏見をもたれて苦しい」と嘆いていても、しかたがないよなぁ、と思う。

そりゃ理解されなくて悲しい気持ちになることもあるけど、それはもうしょうがないじゃん。だって相手が理解できないし理解する気がないんだもの。

変えられないものを受け容れる落ち着きをもち、変えられるものを変えていく勇気を持つほうが建設的。

変えられるもの、つまり、自分の在り方を考えるほうがいい。

つまり、偏見を持つ人がいる現実を受け容れて、特に気にしないという在り方をとるということ。

 

偏見を持つ人の問題は、その人の問題で、私の問題じゃない。悩む必要がない。

どうでもいい人が私を誤解していても、どうでもいい。

一ミリも私の価値を上げ下げしない。好きなように勝手に誤解していればいい。

わかってくれる人だけ、わかってくれればいい。

わかってくれる人は、賢く優しい人が多い。そういう人は私が付き合いたい人なので有象無象のなかから友人候補を分別でき、むしろ無駄な付き合いを省けるのでちょうどいい。

アルコール依存症というステータスは、私にとって「人との相性診断ができる便利なリトマス試験紙」くらいに思っている。

 

古今東西あらゆる哲学者が、承認欲求との付き合い方について説いている。

なんでもそうだが「他人がどう思うか?」というのは他人が抱える問題で、その問題を解決できるのは本人だけだ。外野である私にはどうしようもない。

承認欲求とは、他人に自分を認めさせたいという欲求だが、私を認めるかどうかは他人が決めることだ。

「他人のなかの自分」を現実の自分よりよく見せたいと願う人の、なんと多いことか。

無理して「他人のなかの自分」を良く見せようとがんばるのは、徒労でしかない。

「他人のなかの自分」は、前述のように、その人の先入観やマスメディアのプロパガンダでねじ曲がっている。

そんな歪な「他人のなかの自分」は、他人の数だけ存在する。

虚像であって私そのものじゃない。他人の頭の中にいる自分をいくら着飾り大事にしても、私そのものにはなんの変化も成長もない。逆に、どんなにその虚像が虐げられていても、私そのものに害はない。そんなどうでもいいものに必死になるのは、くだらない。

虚像を実像のように勘違いをするから苦しくなる。虚像だからと軽く見れば、偏見に対する悩みなど吹けば飛ぶほどの軽さになる。

 

私そのものは、私がどう思うかで決まる。

だから他人がどう思おうが関係ない。私の価値は、私が決めるんだから。

私が自分の良いところ、存在そのもの、それをほかならぬ私自身がわかっている限り、私そのものは存在自体がいつもいつでも肯定されている。

私はそう思うようになって、アルコール依存症だよと他人に話すことに躊躇いを感じなくなった。

私にとってアルコール依存症とは愛すべき自分の一部であり、恥ではなく誇りであるから。

 

【メンタル】唯一の羅針盤は、いつも己の心の裡に在る。

誰が何と言おうと、自分が信じるようにやるのが一番よい。

結果的に自分にとってだけではなく、他人にとっても、最もよい。

 

あなたの心が「最良」「最善」と感じたのなら、

その感覚に従うのが最も適切な選択だ。

他の選択肢はない。

「たられば」は存在しない。

常に自分の心に素直に耳を傾け、その声に従って進めばよい。

 

この生き方はとても勇気がいる。

何故なら誰かのせいにはできなくなるから。

どんな結果になっても受け容れて納得するしかない。

 

でも、勇気がないからと決断を他人に委ねたとて、結果がともなうとは限らない。

だれも結果の責任など取れはしない。

結果はコントロールできないものだから。

 

つまり、自分で決めるにせよ、他人に決めてもらうにせよ、どっちに転んでも結果はなるようにしかならない。

それなら、よりあなたが納得できるほうを選択するほうがよい。

あなたは、他人に言われるがままに動くのと、自分の意思で動くのとでは、どちらが納得できるだろうか。

 

前者を選べば、他人のせいにできるから、一時的には楽だ。

だから、恐れと不安を見て見ぬフリしたい人は、判断を他人に委ねる。

誰もが弱い。私もそうだから。

だけど、前者の選択は後々もっと大きい苦しみを抱える可能性がある。

結果が良くても、素直に喜べなくて苦しく、

結果が悪いと、他人を責める理不尽な怒りに苛まれて苦しい。

どっちにしても苦しくなる可能性が高い。

だから私はおすすめしない。

 

後者を選ぶと、結果がどうであっても、ありのままを受け容れられる。

失敗しても成功しても、自分の血肉になる。

 

そもそも、失敗するか成功するかなんて、どうだっていい。

コントロールできない事なんだから、気を揉んでも仕方ない。

やりたいか、やりたくないか。

やるか、やらないか。

本当に決まるべきはそれだけだ。突き詰めると簡単なこと。

 

結果は関係ない。

他人はもっと関係ない。

下手で結構。むしろ下手こそよい。不完全なほうが人間らしくてよい。

 

誰かと比較するから、気後れする。「上手にやらなくては」と身体が硬直する。

あるいは自分のほうが上手いと自惚れて、雑になる。

それでは、あなたは本当の意味で生きることを楽しめない。

本人が楽しめていないうちは、他人を楽しませることは到底できない。

結果にばかり目が行ってしまって、楽しむことが忘れ去られた「屍」では、人は感動しない。

 

ひとつひとつを、まるで初めてやるかのように、何回でもやってみればいい。

何回失敗してもいい。

何回諦めてもいい。

やりたいからやる。

信じたいから信じる。

 

従いたくないことに、従う必要はない。

唯一の羅針盤は、いつも己の心の裡に在る。

【依存症】「なるようになる」=真の自己肯定感 という話

「たぶん、なんとかなる」

私は今までそう思えなかった。

結果が欲しい。

評価が欲しい。

安心が欲しい。

理解者が欲しい。

他人軸の何か後ろ盾になるようなもの。それが無いと私は私にYESと言えなかった。

だけど、今はそう思わなくなってきた。

 

今までいろんなことがあった

今まで生きてきて、様々な出来事があり、様々な感情を味わった。

それでも今、こうして生きている。

それは、乗り越えてきたということだ。

今まで生きてきたすべてが、私という今を肯定している。

ニーチェのいう「永遠回帰」があるとしても、私は私の人生をもう一度生きることにYESと言える。

たぶんまた苦しむだろうし、生きようか死のうか悩む局面に出会うだろう。

でも今乗り越えて息をしている。これからも息をし続けることを望む私がいる。

全てのことに私のなかでは意味があり、必要だから与えられたと思う。

発達障害(神経発達症)として生きづらさを抱えたのも、機能不全家庭に生まれてACとしての特性を抱えたのも、社会に過剰適応しようとしてうつ病やアルコール依存症になったのも、生まれた時代がたまたま資本主義社会であったことすらも、全て私が私であるために必要だったから、そうだっただけ。

 

大谷翔平や鈴木一郎がもてはやされているが、実際人間は大して変わらず、弱くて小さな存在だ。

どんぐりの背比べでしかない。

野球という競技になっているが、元をたどれば暇つぶしの玉転がし遊びであり、それが上手なのは純粋にすごいことだが、それもすべては運だ。

成功には再現性があり、法則がある。そう思うほうが、私たちは希望を持ちやすく不安を見て見ぬフリしやすいので、そう信仰する傾向がある。

ビジネスにも何かしら成功の法則があり、成功者に学べば自分たちもそうなれる、と思って有名人のサロンやビジネススクールに通う。それっぽい理論や前例を学び、信仰を強固なものにする。

しかし繰り返すが、すべては運だ。

先の野球選手の事例でいえば、たまたま野球ができる環境にあり、たまたま努力し続けられる個体に産まれ、たまたま身体的に不具合を持たないで五体満足に生まれて、たまたまそれ以上の個体が野球競技者のなかにいなかった。

だから相対的に順番をつけると上にいて、たまたま周りにいる人たちの見えない協力のおかげで成果も残せた。

実力とはすべてが運であり、成功しているのはたまたまだ。

 

偽物の自己肯定感

だから、相対的な価値観でこしらえた「自信」は、自己肯定感とは程遠い。

仕事で同僚より成果を出している。

スポーツでいい成績を残している。

偏差値が高い大学に合格している。

他人と比べて頑張っている。

平均より良い暮らしをしている。

「だから自分を信じられる」というのは、自分自身ではなく他人の物差しを信じている、という状態だ。

その偽りの自己肯定感は、そのよりどころである他人の物差しが変われば一瞬で雲散霧消するだろう。

 

信仰は選べる。

意思だけは誰にも奪えない。奴隷の哲学者エピクテトスの言葉だ。

結果主義・成果主義のストーリーを信仰するのも自由。

自分の無力を受け容れ、無為自然を説く老子の思想を信仰するのも自由。

在り方は、自由自在だ。自分で選べる。

 

まとめ:なるようになる

唯一確かなのは、それぞれの意思だ。

私は私の意思を信じる。

どうしても自分に嘘がつけない、不器用で愚直な人間として生きてきたこの人生を信じる。

他人が信じるかどうかは関係ない。

成果が出ているかどうかも関係ない。

それは他人の物差しでどうか、ということで、他の宇宙の話だ。私そのものとは関係ない。

どこに価値をおくか、どう思うかは、私が決められる。

いや、私にしか決められない。

こんな私が、今も生きていて、一定の納得のいく思想にたどり着いている。

たまたまそうなった、何か大きな力の支えのおかげで。

ということは、これからなんかあっても、私なら、だいたい何とかなる。なるようになる。

この「なるようになる」というのが、自己肯定感の真の姿だと思う。

私とみんなは失礼ながらどんぐりの背比べなので、みんなもおそらく同じ。

ということは、みんな、だいたいなんとかなる。なるようになる。

みんなのおかげで私がいて、そんなみんなもなるようになるということは、これから先も大丈夫。

 

成果をコントロールしようとしなくていい。

他人をコントロールしようとしなくていい。

未来をコントロールしようとしなくていい。

だってそれぞれにとんでもないパワーを秘めていて、自分で自由にとらえ方を決められるうえに、この世界は「なるようになる」ようにうまくできているのだから。

これまで肩にのしかかっていた不安や重圧が、一気に軽くなるのを感じないだろうか。

なんにも心配しなくてよかったのだ。

しようとしたってできないことを、無理してしようとしなくていい。

他人の評価もポジションも、全然気にしなくていい。

お金があるかないか、少ないか多いか、も全然気にしなくていい。

だって私たちは、私たちらしく泥臭く素直に生きていさえすれば「なるようになる」のだから。

何か意味があるとしたら、それは私たちがそれぞれに自由に決められる。

この信仰で生きる人は、どこまでも自由で、開放的である。

【仕事】組織に使い潰されない!サボリーマンのススメ

 

サラリーマンは仕事に入れ込まなくていい

受け身の雇われ仕事に、基本的に意味などない。

ゼロベースで自分がやるべきこと・やりたいことを明確化し、それを実現するためにやっている分には、大いに意味がある。能動的に思い描く未来の延長線上、通過点に今の仕事があるから。

そういう人を除いた、ただ惰性で言われたことをやっているサラリーマンの仕事のことを「受け身の雇われ仕事」と表現していると思ってほしい。

 

今の待遇・生活を維持するために、やりたくもないけどやっている。

そういう人がほとんどではないだろうか。

周りがやっているからなんとなく始めた就職活動。

会社の名前や知名度で選んだよく知らない会社に、なんとなく就職。

なんとなく組織内の出世競争という「椅子取りゲーム」に巻き込まれて、なんとなく日々消耗している。

不安と恐れと虚しさに苛まれながら毎日が終わっていく。

「こんな人生生きたくない」

その不快で不都合な本音をかき消すために、SNSで暴言を吐いたりより不遇な他人を覗きに行って溜飲を下げたり。少し空いた時間で酒を飲んだりギャンブルをしたりゲームをしたり。

楽しみは全てが本音をみないための対症療法。誰かに飼育される奴隷。

誤魔化しでできている人生。クソのような人生。

客観的にみると改めてそう感じるのではないだろうか。

「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃないか!今の私が生きていくにはこれしかないんだ!」

「そうですか。そりゃしょうがないですね。じゃあずっとこのままそうしてたらいいんじゃないですかね。それしかないんだから。」誰かからそう言われると、本気で腹が立つだろう。

その感覚はとてもわかる。私もそうして摩耗してきたひとりだから。

 

組織はあなたを道具扱いしているという事実

組織は、あなたのお母さんではない。お父さんでもない。

他人である。利己的な他者で構成された、ただの営利団体。

「社員こそわが社の宝」などとほざいているが、嘘八百。

ただの換えの効く歯車だと思っている。金儲けのための道具だ。

使い潰すつもりで雇用している。

あなたの人生なんてどうでもいい。一ミリも考えていない。使った後、どう死のうがどう生きようがどうでもいい。

本当は、どんな会社も、どんな経営者も、心の底ではそう思っている。

だって、利益を出すために組織はあるのだから。

利益を効率的に生み出すには、一人では手が足りないから、人を使う。

できるだけ少ないコストでできるだけ効率的にお金を稼げれば、それが最適。

だから、給料はできるだけ払わないようにしようとするのが当然だし、昇進はできるだけしないようにする引力が当然働く。

私は営業部門において類い稀なる成果を継続的に残してきた。だから、私を認めもっと仕事を任せたいなら昇進させるだろう、昇給するだろうと思っていた。しかし組織はあれやこれやと言い訳をして私を評価しなかった。

結局、昇進・昇給とは、その人の真の価値と相関しない。

組織に対する忠誠、つまり「奴隷としての利用価値」の見せ方と運で決まる。私はそれがなかった。だから組織内で評価されなかった。

 

私はそれでほっとした。

私には奴隷の才能がなかった。道具として使い勝手がよくなかった。だから、評価されなかった。

私は、組織内での「椅子取りゲーム」にはハマれなかった。私にとっては、心底つまらないゲームだったから。

ここまで読んで「負け惜しみじゃん」と思う人もいるだろう。

そう思ってもらって構わない。

私にとって価値がないことで、どうでもいい他人が勝ち負けを勝手につけているだけなので、その勝敗を他人がどうとらえようと、私にとってはどうでもいい。

会社という組織は「横並びにした数字の勝敗でムキになってくれる」「目の前にぶら下げたニンジン(昇進・昇給・賞罰)を追いかけてくれる」そういう他者承認を餌にした心理的誘導に引っかかってくれるようなチョロい奴隷が大好きだ。

「どうぞ終わりのないラットレースに巻き込まれてくださいな。終わらない苦しみを癒すためにせめて私を憐れんだらいい。そして自分の心に目を逸らしながら、無駄な一生を終えればいい。」、「負け惜しみじゃん」と思う人に、私はそう思う。

 

仕事は極限までサボってかまわない

向こうが使い潰す気なんだから、こっちも使い倒す気でいて構わない。

仕事に割くリソースなど、MAX50%でいい。それ以上はかけすぎ。

身を粉にして働く、というのは、自分がやりたいと能動的に思うことなら全然OKだと思う。それは自己実現のカタチだから。

でも、他人にやれと言われて、金でほっぺたをひっぱたかれたからって、そんなに根を詰める必要はない。

向こうができるだけ安く使い倒そうと思っているなら、こちらとしては、できるだけ力を入れずにできるだけ多くの金がもらえればよいと思って何の問題もない。

サラリーマンとはそういうものだ。

だからできるだけサボって構わない。

いやむしろ、サボりを極めたサラリーマンこそ、最も優秀なサラリーマンだ。

 

「やってる感」を出すコツは、理論武装と数字のレトリックにある。

結局ビジネスとは、相手がある以上「変えられないもの」「コントロールできないもの」なので、結果も能力も突き詰めると「運」でしかない。

それっぽく、偶然の産物を「努力によって誰もに再現性のある成功」のように見せているだけだ。理論立てて数字で味付けすれば、その「成功の法則」が出来上がる。

それがその人の「やってる感」「優秀な人材っぽさ」を演出する。

組織での椅子取りゲームは、実はこのイカサマの上手下手を競っている。

上の指示に従って上が決めたことが「成功につながっている正しい判断だ」と証明する材料になるのが、イカサマをそれっぽく見せるには手っ取り早い。だから全社方針・経営者方針を体現した(ように見える)人が出世する。

見え透いていてつまらない。

しかし、他に面白いことのない空虚な人には、すこぶる面白いのだろう。だからなんとか成り上がろうと頑張れる。世にも素晴らしい暇人たちだな、と感心する。

 

まとめ:所詮、金儲けはすべて暇つぶし

そもそも、お金というもの自体に価値がない。

単なる商業用の交換媒体であり、本質的な価値はそこに存在しない。

必要最低限あればよく、囚われてはいけないものの代表例だ。

それをもっと欲しがったり、無駄にかき集めたりして、人生を見失っていく。

たまたま世の中が資本主義経済を主体をした社会だったから、ビジネスがあるだけで、本来の人の営みにはほとんど重要ではない。

ヒマつぶしの遊びのようなものだ。

そんなもんに人生をかける必要はない。

面白がれるならおもしろがり、ハマれないならテキトーにやってる感を出して参加しているふりをしておればよい。

どうせ暇つぶしのゲームなんだから。

ただ、生きている時代のせいで強制的に参加させられているだけ。

仕事はつまんないと感じていいし、やる気が出ないのは当然だ。面白いと感じないなら、それはおもしろくないんだ、あなたにとって。

ゲームごときで、暇つぶしごときで、あなたの貴重な人生を棒に振ってはいけない。

私はそう思う。

 

【メンタル】あなたは「やらないといけないこと」ばかりやっていないか?

私たちはつい「やるべきこと」を優先する。

問題はその価値が「自分にとって」なのか「誰かにとって」なのか。

選びがちな「やるべきこと」は後者。

 

その後者ばかり選んでいると、人はいつしか虚しい時間を生きるようになる。

 

予定を入れられるのが大嫌い

私は仕事の予定が入っていると、落ち着かない。

本当にやりたいことを始めると、終わるまでやらないと気が済まない。

やりたいことを中断する苦痛は筆舌に尽くしがたい。

その苦痛を味わいたくないので「予定までの時間に終われるかどうか」を気にしてしまう。

私がやりたいことは、挑戦になることが多い。

やったことがないことは、どれぐらいかかるかわからない。

終われるかどうかはわからないので、始めるのをためらう。

そのストレスが積み重なると、もはや何もかもどうでもよくなる。

私のうつ状態はこうして形成される。

 

だから、私は予定をブロックされるのを極端に嫌う。

他人の予定は、私を殺す。

 

自分のために

他人に依頼される予定は、他人のための時間だ。

他人のための時間を優先すると、病んでいく。前述した私のように。

 

自分がワクワクすること、やってみたいと思うこと。

それに時間を使うべきだ。それを最優先すべきだ。

そうでなくては心が死ぬ。

 

損得ではダメだ。

この現代社会を生きる上で何かメリットがあるから、という「やりたい」は本当は「やりたくないけどやるべき」を「やりたい」だと自己洗脳している。

「やるべくこと」は、損得関係なく「やりたい」こと。

その「やりたい」は心と体を自由にして、時間に縛られずに生きているときにしか降りてこない。

よく「怠けている、サボっている」と客観的には見える状態のとき、その人は「やりたい」を探すために全身全霊で他のノイズを極限まで削って必死に探している。

決して怠けているわけでも、サボっているわけでもない。

その人なりに必死に足掻いている。

 

不登校にしてもそうだ。

学校という監獄で「これは私の『やりたい』じゃない」と、奴隷教育に対して心も体も拒絶反応を起こしている。だから行けない。

そしてそれはとても自然で健康な反応だ。

その反応を無視しないでちゃんと「学校に行かない」という行動に移せる時点で、すごい。

私は不登校の人を尊敬する。

私は「こんな意味のない場所」と思いながら自分の心の声を無視し続けて、ついには聞こえなくなった。だから今、こんなにも私の心の声はか弱い。耳を澄ますのが大変だ。

聞こえなくなった声。その存在すら忘れて自分を誤魔化し続けた結果、うつ病になりアルコール依存症になった。

もう同じ過ちは繰り返さない。

 

自分のために、自分の声に従って生きる。

それが最も善い生き方だ。

他の誰かの決めたルールや価値観に従ってはいけない。

 

「遊び」を極める

ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』で示すように、この世の活動は全て承認欲求に基づいた「遊び」で、社会は元来「遊び」で構成されている。

資本主義と合理主義によるマネーゲームは、チープでワンパターンなクソゲー。

競争心を煽り他者比較による承認欲求を満たすだけなので、依存性はあるが真の意味での「楽しい」「歓び」はない。真面目で退屈で不毛。

だから現代社会は劇的につまらなくなった。

そのつまらなさに気づいた賢く鋭敏な人は、社会不適合者になる。

無理に過剰適応すると、私のように精神疾患や依存症を発症する。

クソゲーを楽しいと感じる鈍い人間。それがエリートの正体。

この社会が心地よいと感じる鈍感なエリートがいくら社会をいじってもクソゲーにしかならない。

だから、社会には期待していない。悪くなることはあれど、良くなることはない。作っている人間がつまらないなら、つまらないものしかでき上らない。

クソゲーでありクソ社会である現代社会。

それは外部環境であり変えられないもの。

しかたがない。手放し受け容れるしかない。

つまらない。変えられない。ならどうする?

「無いなら、つくっちゃえばいい」

擬態して適応してるフリをしてやり過ごしながら、自分がワクワクする「遊び」に最大限のリソースを割く。楽しめる部分は楽しみ、既存の評価や価値観を「どうでもいいこと」と認識することが重要だ。

問題はその「遊び」は何か?ということ。

それは自分の心の声を聞くしかない。人による。千差万別だ。

だから、少しでも情熱の炎がチラリとしたら、全力でそれに取り組んでみる。

最も重要視すべき感覚だ。他のことはどうでもいい。情熱を感じる感覚を全身全霊で探す。

三日坊主でも構わない、下手ならなお結構。

とにかく少しでもワクワクするほうへ、足を運んでみる。行動する。

その繰り返しの先にしか、それぞれにとっての本当の「遊び」はない。

 

私は「遊び」を見つけたい。

正直今はもがき苦しんでいる。

仕事はクソつまらない。この社会も壊れたガラクタにみえる、クソどうでもいい。

私のワクワクはこの枠組みには存在しない。ただ金を得るための火葬場。

でも、少しずつ情熱の炎のカタチを掴みつつある。

 

まとめ

これはあくまで私にとっての形。絶対的な真理などない。

私にとってはクソゲーでそれにハマるエリートは鈍い人間に見える。

私は「変えられないもの」があると気づく謙虚さを自覚する程度にしか賢くない。

数多ある砂粒のひとつまみ。

自分の魂が歓ぶ「遊び」を見つけるために、人生は与えられたのだと再定義する。

個々の意識の問題であり、第三者は提案することしかできない。

しかしこの再定義により、病む必要がなくなり依存する必要がなくなるので、依存症は無くなる。これが真の依存症予防啓発。

私の依存症予防啓発は、私自身の人生が体現している。

私そのものを世界に発信するのが、私にとってやりたい・おもしろいことで、同時に価値があること。

同じように、他の人の人生も貴重な物語だ。ひとりひとりが最高に面白い創作物だ。

フィクションでも、ノンフィクションでも、新しい物語に触れると、私はとてもワクワクする。だから、私はそんな話を聞きたい。

そのワクワクを、私の得意な伝達手段でシェアしたい。

だんだんみえてきた。

【哲学】潮が何か運んでくる(トムハンクス主演映画から考える人生論)

これから どうするか?

息をし続ける

明日も太陽が昇り

潮が何か運んでくる

引用:映画『キャスト・アウェイ』

 

なんだかトム・ハンクスの映画が目に留まって、続けて観てしまった。

「観てしまった」と書いたが、結果的に観てよかった。

『キャスト・アウェイ』と『フォレスト・ガンプ』がすごく心に響いた。

今観るべき巡り合わせだったんだな、って思った。

 

人生は、なるようになる

 

これは『フォレスト・ガンプ』の主人公フォレストのお母さんが言ったセリフ。

開けてみないと分からない。

食べてみないと分からない。

生きてみないと分からない。

本当に、想定外のことばかり起こる。

奇跡のような巡り合わせがあったり、悪夢のような地獄を経験することもある。

本当にその時になってみないと分からない。

でも、わからないからこそ、コントロールできないからこそ楽しいし、価値があるんだと思う。

私もうつ病になったり、アルコール依存症になったり、ADHDと診断されたり、ACと自覚したりするとは、夢にも思ってなかった。

でも、それらは何かに私が気づけるように、あらかじめ用意されていたかのようだと、今は思う。

世界とは脳の信号が創り出す仮想現実に近い。限られた情報を私の身体が電気信号にして脳に送り、脳が自覚する世界が、この世界の見え方だ。

そういう意味では、世界は捉え方次第であり、自分の「思い通り」になる。

不幸だと思えば不幸だし、幸福だと思えば幸福。

起こったと知覚している現象を「哀しい・つらい・怖い・不安」と意味付けすれば、世界は悪意に満ちていて絶望的な地獄にみえる。

起こった事・起こる事をあるがままに受け容れ、私が善く生きるために何か与えられたものだと思えば、それは「喜ばしい・有難い・かけがえのない」ものになる。それがどんなに客観的に悲劇的であっても。

私は首になりかけてよかった。そのおかげでアルコールの問題を抱えていることに向き合えた。

私はACでよかった。愛情とは何なのか?を真剣に考えるきっかけになった。

私は発達障害(神経発達症)でよかった。人と見え方が違うことで、常識や世間がいかに空虚かに気づくことができた。

私はうつ病になってよかった。うつ病になったのは私が悪いんじゃなくて、社会が歪んでいるからだと気づけた。

私がそう思えば、そうなのである。

私の脳が、物事の意味を定義し、そこから自分なりの何かをつかむことができるように、全ての事象は与えられている。自分の身体も、人との出会いも。

 

人事を尽くして天命を待つ

これも、フォレストのお母さん。いいこというよなー。

なんだかずいぶん有名な映画だったらしいんだけど、観るべきときは今だったのだろう。

私は、今とても失望している。そして苦しんでいる。

 

今している仕事に価値を見出せない。

この会社に所属していて全く誇らしいと思えない。それどころか恥だと思っている。

私がやっていることに、私の良心が拒否反応を示している。

「これは善行ではない」と。

だからなんだか、とてもやる気がしない。熱も込められない。

全て本質からズレていて、私にとってはどうでもいいゲームの一つにしか思えない。

しかし、今の生活、家族を養っていくには、今は辞めるのは得策ではない。頭では分かっている。しかし体が拒否っている。困ったものである。

 

今ある状態、今与えられている状況。

この辛い状況も、何かに気づくために、いや、思い出すために、与えられているのだろう。

全てはもうすでに準備されていて、私は良心に従って勇気をもって生きていきさえすれば、必ずなるようになる。

というか、なるようにしかならない。

できることは、今与えられている状況でベストを尽くすこと。

何よりも自分を大事に、心に正直に、私が今できることを、できる範囲で、やりきる。

ただそれだけ。

やってきたことをやるだけ。やれることをやるだけ。

結果は関係ない。「結果」という意味は私が後からつければいい。

他人は関係ない。他人とは、別の世界。脳が違うから。同じだと思い込んでいるだけで、違う現実を見ている。

「他人とは別の宇宙だ」という言葉を聞いたことがある。

まさしくその通りだと思う。

脳が違うので、違う。世界の見え方も、法則も、何もかもが。だから、比べようがない。定型発達や発達障害など、実は存在しない。

定型発達だろうが、ADHDだろうが、ASDだろうが、LDだろうが、それは人間が勝手に考えた仮説。宗教と同じ。

それぞれが全員、少しずつなのか、実はとんでもなくなのか、生きる世界が違う。

その違いが多数派からみた、偏差値であり、集団生活で問題視されるかどうか。それだけだ。

集団生活で問題視されるかどうかも、その集団がどういう価値観でどういう社会を形成しているかによって、違う。

たまたま貨幣経済社会で、たまたま金になる仕事で働かないと生きていけない社会構造で、たまたま学校というものがあって、たまたま暗記してアウトプットする「勉強」という遊びを皆が真剣にやっているだけだ。

全部、正しさなんてない。だから学歴も社会的地位もフォロワー数もチャンネル登録者数も、私にとってはなんの価値もない。

価値があると思う人には価値がある。それはそれ、違う宇宙の話だ。

 

私は私が「善い」と感じることをすればいい。与えられたすべてをつぎ込んで。

 

まとめ:あまり気負わず、息をし続けよう

これから どうするか?

息をし続ける

明日も太陽が昇り

潮が何か運んでくる

引用:映画『キャスト・アウェイ』

 

冒頭のこれは『キャスト・アウェイ』で主人公が終盤にいうセリフ。

時の流れは、それぞれに流れている。時間は絶対の概念ではない。相対性理論じゃないけど、定量化できるものではないし、過去から未来に流れるのでもない。それぞれが捉えたように、時間すら在り方が変化する。

縁も、何か大きな、私なんぞがわかりもしない力に導かれるように、結ばれたり離れたりする。

人生は、いつまでも続くわけでは無い。明日、いや今夜、唐突に終わりが来るかもしれない。それは誰にも分らない。わからないから貴重で、尊い。

与えられた最後の一片まで、使い切る。味わいつくす。

そのために、息をし続ける。できる限り、やれる限り。

生きている意味があろうがなかろうが、先行きが不安だろうが順風満帆そうだろうが、関係ない。それは次の瞬間にはひっくり返るかもしれない。

「潮が何か運んでくる」というのは、そんな未知と可能性の言語化だ。

何でもコントロールできる、思い通りにできる、という大脳新皮質の驕り。

私はその理性という病をこじらせて依存症になった。だからその貧弱さがよくわかる気がする。気がするだけで、そんなにわかっていないかもしれないが。とにかく、理性や科学というのは、それっぽく見えるだけで、実は宗教と変わりない。

だから、そんなに身構えなくてもいい。

「世間」は尤もらしいことを突き付けてくるかもしれないけど、そんなのは「そういう可能性もあるかもね」というだけなので、「自分は違うかな」と思ったら違うんだ。それで全然かまわない。

自分の「善い行い」「善い生き方」を素直に正直に考えて実践するだけでいい。

あとは自分の力の及ばないことだから、受け容れるしかない。

人生とはそれだけなんだ。悩むほどのもんじゃなかった。

と、仕事がつまらないと愚痴るか細い声の主が書いている。

弱くていい。本来弱いんだ人間というのは。だから、支え合いながら助け合いながら生きている。それに気づいて感謝できれば、その瞬間からあなたは幸せ者の仲間入りだ。

【発達障害】なんであなたは他人といるだけで疲れてしまうのか?

ADHD・ASDでアダルトチルドレン(AC)の私は、そんなに嫌いでない人でも、他人といるだけでドッと疲れてしまうことに悩んできた。

今までの考察から、私が疲弊する理由は、大きく分けて3つある。

現在ではそれが軽減されてきたので、他人がひしめき合う社交場に出てもさほど疲れなくなったが、それでもやはり疲れることはある。

とりあえず今までの自己分析まとめてみる。

 

過去のトラウマからくる防衛本能

私は今までの経験から、他人とは私を攻撃する存在だと認識している。

その認知の形成には、いじめに苦しんだ暗い過去の経験が影響を与えていると思う。

 

通っていたサッカークラブ。

私は一つのことにしか集中できないので、ボールだけに集中して周りが見えなくなる。

サッカークラブの練習は途中から各自ボールを持って自主練をする時間があり、何人かでグループになってパスを回したり、思い思いに時間を過ごした。

私は他人とできるだけ絡みたくなかったので、壁に向かって蹴ったりリフティングをしたりしていた。

周りになじまずグループに入らない私は奇異に映ったのだろう。

ひとりで黙々と練習している私に、ボールを蹴って当てるゲームを始めるグループがあった。

面白半分に彼らはやっていたのだろうが、私はいきなり横っ面にサッカーボールをぶつけられてとても痛かったしそのたびに驚いた。

やめてほしいと伝えても、彼らは私が鈍いのを馬鹿にしてますます面白がった。

コーチはそういうところまで目が届かなくて、私は自主練の時には攻撃を受けないよう隅っこにいるようになった。壁で自分を守り、じっとしていた。

学校でも似たようなものだった。

私は優しい性格だったので、他人に何か嫌なことをするなんて想像もつかず、自分の好きなように遊んでいた。ひとりで色水を作ったり、木を削ったり、砂で造形を作るのが好きだった。

ずっと一人で遊んでいると、必ず邪魔者が現れた。

水をひっくり返してみたり、気を取り上げてみたり、砂で作った私の作品を破壊してみたり。

「放っておくと、他人は私に危害を加える。厄介で恐ろしい外敵だ」と他人という存在について私は認識を改めるようになった。他人なんて気にもとめていなかったが、私の邪魔しかしない。こんな迷惑なやつら一人残らず死ねばいいのに、と心から思っていた。

なので、私は他人が一定の距離以上に近づくと反撃できるよう、攻撃をかわせるよう、体を硬直させる。臨戦態勢に入るように体が自動的にプログラムされた。

そうなると厄介なことだが、他人がそばにいるだけで交感神経優位になりノルアドレナリン神経系が活発になる癖がついた。他人がいるだけで落ち着かないばかりかとてもストレスを感じるようになった。

サウナ後の外気浴でリラックスしていても、足のあたりを他人が通り過ぎるだけで「足を踏まれるのではないか」と神経がピリつく。まったくリラックスできない。

会議で他人が近くにいると、ソワソワしイライラしてくる。ストレッサーが近くにいるので精神的に摩耗していく。だから話の内容はほとんど頭に入らない。リモート会議になって本当によかった。ここだけはコロナ茶番に感謝している。

他人には近づかないか、近づいてきたら威嚇する。

そういう処世術が身についたのは、成育歴に由来する。

 

会話という行為に対する疲労感

警戒心MAXなのも疲れの主たる要因だが、会話という行為そのものも非常にストレスフルである。

音がうるさい

まず、声がうるさい。

キンキンと高い女性の声は、脳がキリでつつかれるような感じがする。不快極まりない。

興奮すると音量が大きくなるので、とてもめんどうくさい。

伝えたい内容を、できるだけ穏やかな声音で、的確かつ簡略化して話せばいいのに、どうでもいいことばかり大声で喚き散らす。

私はおそらくASDによくある感覚過敏だ。音は特に快不快を感じやすい。

視覚優位なので、聴覚情報が視覚情報の処理を邪魔してとてもストレスになる。

集団で会話していると、同時に複数の人が話始めたりするけど、イライラして口を開いているやつ全員をぶん殴りたくなる。

一度にしゃべったら処理できないだろ、お前ら全員聖徳太子かよ、と。

情報入力ソースとして、音声は私にあまりそぐわないんだろうな、と思う。

人に会うとうるさい音声を出す、だから他人に絡みたくない、という感じだ。

 

会話の作法(マナー)がめんどうくさい

会話がいざ始まると、いつも私を悩ませるのが、社交辞令などの「定型発達の間で交わされているの暗黙の了解」=常識・マナーである。

腹の底では行く気もないパーティーに「ぜひ行きたいですねー」と言ったり。

何かを見せられたとき条件反射的に「かわいい~」「すてき~」と言ったり。

本題に入る前にまったく中身のない世間話をしたり。(=アイスブレイクのこと)

そんなもん誰も決まりとして明文化していないのに、なんで守らなきゃいけないんだ、と思う。そもそもそんなマナーや常識を提唱していながら、内容の精査が甘い。形式ばってアイスブレイクとか言っている暇があったら、もっと内容を詰めるべきだと思う。

だけど、定型発達はみなそうとは思わないらしい。謎は深まるばかりである。

相手の利益のために伝えるべきことを伝える。

聞いてほしいと前置きして悩みを相談する。

相談されたことに対してクリティカルに求めている情報を提供する。

人と人とがわざわざ時間を使って会話をするのは、そういう目的在りきだと思うんだけど。

今まで人と関わってきて、なんだかダラダラグダグダととりとめのない話を聞かされ長時間拘束されることがあった。その経験から学び、私は他人と好んで会話しなくなったのだと思う。

 

ありのままでいられないストレス

会話の形式もさることながら、内容も非常に気を遣う。

幼少期に思ったことをそのまま言葉にしていたら、なぜか相手が泣いたり怒ったりすることがあった。

私としては自分の本心なので、噓をつくよりよっぽど誠実に他人と向き合っていると胸を張って言葉をかけていた。

それが仇となり、私は盛大に集団いじめにあった。

私が私らしくしていると、他人は不愉快そうに攻撃を仕掛けてきた。

まったく迷惑な話である。しかし脅威ではあった。降りかかる火の粉は払わなくてはならない。自分らしくいるより、この不可解な集団に同調して擬態しておいたほうが、デメリットが少ない。

そう思った私は、自分の思いをそのまま話すのをやめ、周りを観察した。

こういうときはこう反応する。

この話にはこう切り返せば笑いをとれる。

こういうときにはあまり言葉を挟まないほうがいい。

定型発達者同士の会話のやり取りを分析し、因数分解して応用する。

意図した反応が得られれば成功、反応が芳しくなければ失敗。

私が自己防衛のために構築してきた会話方法は、地味な科学実験の賜物だ。

はたしてストラテジーの構築が完了し。最もリスクが低い(=定型発達に違和感を持たれない)応酬話法が可能になった。

しかし、困ったことが起こった。とても疲れるのである。

まったく楽しくない。ただの作業。工場のライン作業のようなものである。自動迎撃システムのようでもある。つまらなすぎて対応を間違えることも増えた。

自分の言いたいことを言えない。なんの面白みもない繰り返し。

それはとてつもなくストレスフルな行動だった。だから、結果的に会話をできるだけ避けるようになった。必要最低限の場面で最低限しかできなくなった。

 

まとめ:経験不足を補うための自助グループ

そうなると、当然会話の経験が少なくなる。

本来人と人との会話というのは、実はこうではなくて、みんなちょっとずつ本心をさらけ出しながら、その摩擦により距離感を学んでいたと、つい最近になって気づいた。

圧倒的に真心でぶつかり合って研磨するという経験が不足していた。気づいた時にはもう大人になっていた。しかし大人になってからではもう得難かった。

それが孤独を深め、孤立を深めた。

依存症になる人も、こうした他人との関係の不健全さと経験のなさが大いに関係している。

他者との関係構築が下手くそなので、交流によって癒されることを知らない。だからその癒しを物質や行為に求めて、泥沼にはまる。

糖質と脂質とたんぱく質をバランスよく摂取しなくては体調が崩れるのと同じに、他者との適度なコミュニケーションは心に必要な栄養であり、それが欠乏すれば心が病むのは当たり前。

私は自助グループでこの経験不足を補う機会を得た。

断酒会やAAやACAは、人間関係のへたっぴ同士の集まりだ。心理的安全性が担保された環境でみんなで言いっぱなし聞きっぱなしをして、失われた経験を取り返していく。その経験は心が子供から大人になっていくのに必要な試練である。

その過程で摩擦や衝突はつきものだが、霊的な道具である12ステッププログラムがセットであることを忘れてはならない。

私がそうであったように、不健全な関係で身に着けた歪んだやり方が、問題として顕在化されてくる。認知の歪みを自覚すること、それを取り除こうと棚卸しをすること。それによって、他者との健全な関係構築の精度は高まっていく。

逆に言えば、ただ自助グループに行っていても変わっていかない。自らを省みて変化するためには霊的な道具とそれに沿った謙虚な行動が必要だから。

それでも反応してしまう場合、私でいうトラウマが根強くある場合は、トラウマセラピーによって心理的に自動化された反応プログラムを解除する必要がある。PTSDなど過去に経験した強いストレスでどうしようもなく拒否反応が出る人は少なからずいる。

このように、今まで形成された歪んだ認知、つまり自分を守るために刷り込んだ思い込みを、絡まった糸を一本一本解きほぐすように、丁寧にひとつひとつやっていく。

そうすれば、少しずつストレスは軽減されていき、人との交流を楽しむという新たな感覚に出会える。

私はまだ途中だが、当初から考えるとかなりストレスは軽減できていると思う。無理せず、しかしあきらめず、自分がありたい姿を思い描いて、行動を積み重ねていくと、変化は訪れる。

希望を持ってほしい。

【依存症】依存症になってよかったマジで

私は、アルコール依存症だ。

断酒して5年が過ぎ、もうすぐ6年になろうとしている。

本当にいろいろあった。

「お酒をやめて良かった」と思っていることはもちろん、

「依存症になってよかった」と思っている。

 

そんなわけねーだろ、と思うだろう。

5年前に未来の自分がタイムスリップしてきてそんなことを言いだしたら、私も「なめてんのかコノヤロウ」と確実に殴りかかっていると思う。

それくらい信じがたい、心境の変化だと言える。

 

お酒というドラッグの要らない世界

お酒を嗜む人からすれば「お酒を飲めないなんてかわいそう」と思うだろう。

私は飲んでいたころそう思っていた。下戸の人を、可哀想だと思っていた。

私は断酒してから、よく「人生の半分損してる」とか「楽しみが減って可哀想だね」とか言われた。

全然かわいそうじゃないから、安心してほしい。

むしろ飲んでいる人のほうが可哀想だ。人生の半分がお酒なんかで占められているだなんて、昔の私みたいですね、と思って逆にマジで可哀想だなと思う。いやまてよ、私は9割がお酒だったわ、レベルが地獄で草。多分昔の私よりはかわいそうじゃないわ。

お酒を飲んでいるときは、アルコールでラリっているので、脳がドーパミンによって「楽しい」と勘違いする。いわゆるキマっている状態だから、その場の状況を錯覚する。

この間シラフで職場の食事会に参加してみたが、びっくりするほどおもしろくない場だった。

仕事の愚痴ばっかりだし、大した話もしていないし、知的な刺激が全然ない。それなのに1時間も着座して話を聞いているのが、とてつもなくしんどかった。こんなしんどいこと、そりゃ酒でも飲まなきゃやってられねぇよな。どんなもんなのか試しに行ってみたけど、途中で帰った。もう行かないだろうな。

今私にお酒が要らなくなったのは、お酒が無くても楽しいからだ。いや、むしろ無いほうが楽しいからだ。

お酒を飲んでいたのは、人生がつまらなすぎたから。早く終わりにしたい、でも終わりにできない、という絶望を少しでも紛らわせるには、薬物が必要だった。私が合法的に手っ取り早く仕入れられるドラッグが酒だった。ただそれだけ。

生まれた国が違って、モルヒネやコカインやヘロインが手に入る環境なら、それに手を出しただろう。

違法か合法かなんて関係ない。記憶をぶっ飛ばせればそれでいい。仮死状態になれるならなんでもいい。そんな感じだっただろうと思う。

現実が嫌すぎて、何かで紛らわせていた。その必要がなくなった。その変化は何だろう?

 

余計な荷物がなくなった

私は余計なものをたくさん抱えすぎて、歩くのもしんどくて、でも歩くしかなくて、酒を浴びるように飲んだ。

余計なもの、というのは、私の心の中にあるゴミのような価値観と強迫観念だった。

「親の期待に応えないといけない」そうしないと愛してもらえない

「いい大学やいい会社に行かないといけない」そうしないと愛してもらえない

「一流のビジネスマンになって活躍しないといけない」そうしないと捨てられる

「善良で正しくなくてはいけない」そうしないと愛してもらえない

全部、そんなことはなかった。

 

親の期待は勝手に親が持っているだけで、別に応じる必要はない。

親になってわかったが、正常な親は、子供が元気に自分らしく生きていさえすればそれでいい。

恩返しも必要ない、生まれてきてくれただけでもう十分に親孝行だから。

私の親が異常だから、私をコントロールしたかっただけで、私は親の顔色を窺う必要など全くなかったことが分かった。

なので、この思い込みは余計だったから捨てた。

 

 

いい大学、良い会社、一流のビジネスマン。

そんなものは何の価値もないことが、自分の頭で考えて物事や社会を観察していたらわかった。

使い潰しやすい人的資源を確保するための、政府や企業にとって都合がいいブランドイメージだ。本質的な価値はそこにはない。

だって、本当に価値を測れるなら学歴と職歴が輝かしい人はみんな素晴らしい人格者のはずじゃん。

でも実際は違うよね?みんなも薄々わかってるでしょ?

良い大学を出ていてどんなに優秀な成績を収めていてもクズみたいな人間はゴマンといる。優秀とされている官僚や政治家や医師が、このコロナ騒動でどう立ち回ったかをみてみてよ、一発でわかるでしょうよ。

一流のビジネスマンは私からすると「詐欺がよくできるだけのスーツ野郎でしょ?」というイメージ。

ビジネスとは所詮騙し合いの椅子取りゲームであり、それが人より得意なだけ。ゲームの得意不得意は人間性や人間的魅力とは相関しない。

私はクズや詐欺師にはなりたくない。だから、私にとって追いかける価値のない物差しだとわかった。

これも余計だったから捨てた。

 

 

善良さ、正しさ、というのは自分の良心で判断するしかない。

それを「他人に○○と思われよう」としている時点で、そもそもズレていた。

私は大いにズレていた。

他人が思う善良さや正しさは、他人の物差しであって、それは他人の数だけある。そんな千差万別のものさしすべてに対応するなど不可能。つまり、全員に好かれ評価されることなんて、できるわけがないってことだ。

自分を否定されて傷つくのが怖いから、他人に悪く思われたくなかっただけだ。

裏を返せば、傷つかなければいいだけだった。

他人は私のことをそんなに真剣に見ていない。表面を切り取ってあーだこーだ言っているだけだ。または、自分の内面を私を鏡に使って映し出して何かを言っているだけだ。

だから、他人が下す私の評価というのは、とるにたらない。勘案するに値しない。そんな大した影響力の無いもののためにオドオドしながら顔色を窺って生きるのは、とてももったいない。

言いたい奴には好きに言わせておけばよい。それで私の価値は一ミリも棄損されない。

これも余計だったから捨てた。

 

 

ぜーんぶ、私が大事だと信じていた価値観は、余計だった。だからぜーんぶ捨てた。

そしたら、とても身軽になった。

ちゃんと自分の心の声が聞こえるようになった。

今まで余計なゴミに埋もれて聞こえなかっただけだった。

私の心は死んでなかった。ちゃんと叫んでいた。叫んでいたのに気づかなかった。だから心が病んで動けなくなったのだった。

自分の心の声をちゃんと聴くようになったら、やりたいことや楽しいことや嬉しいことがなんなのか、わかるようになる。

そしてそれを素直に聞いて、素直にやっていれば、私は私をどんどん好きになるし、世界もどんどん輝いてみえてくる。

やりたいことをやれる世界。楽しいことや嬉しいことに満ちた世界。

そんな世界を、薬物キマってぼんやりした脳で過ごしたくない。もったいなさすぎる。ちゃんとクリアな五感で楽しみたい。酒?そんなもん飲んでる場合じゃない。

だから、私にはお酒が要らなくなった。

というか、私の世界から無くなった。必要ないから。

 

依存症という宝

私は、酒を憎んでいるわけでは無い。

むしろ、地球上にあってくれてありがとう、と思っている。

私のためにあったのだとさえ思う。

だって、酒に頼って失敗しないと、私は本当のことに気づかなかったから。

私は酒でごまかして生きてきて、運よくしっかりうまくいかなかった。大きな挫折と痛みをもらった。

上手くいかなくて悩んで苦しんで、運よく死なないうちに問題に向き合うチャンスをつかんだ。

「自分の力だけではどうにもならないことがある」という事実を知るチャンスを。

それほど、酒をやめる前の私は傲慢だった。

成績も、業績も、年収も、他人からの愛情も、人生も、全部コントロールできると思っていたのだから。

なんてやべーやつなんだ。そんなんできるわけないだろ。

努力次第でなんとかなる、今評価されないのは自分がまだまだだからだ、と信じていたので「もっと頑張らなきゃ」「もっとちゃんとしなきゃ」と思っていた。

あのねー、そんなに人間万能じゃないんよ。

頑張ったってたかがしれとるし、ちゃんとできないことだってあるんよ。人間だもの。

私はたまたま、ちょっと受験勉強ゲームで点数が取れて、ちょっと運動できる体だったから勘違いしちゃってただけで、人間はどれもこれもが本来どんぐりの背比べ。大した差など無いし、個体ごとに多少能力値に差があるのはしかたがない、埋めようがない、努力は万能じゃない。自分を買いかぶりすぎただけ。

たまたま受験できるだけのお金が出せる両親のもとに産まれた幸運。

たまたまお客様が契約してくれたから業績が出た幸運。

たまたま五体満足に生まれてきた幸運。

ていうか、この時代・この国に産まれたという幸運。

全部、運である。実力は運である。

たまたま運がよかっただけだ。自分の頑張りは、たまたま生まれた結果を後付けで自分の功績だと解釈したにすぎない。

プロスポーツ選手にしても芸術家にしても、たまたまそれに没頭できる環境と、たまたまそれを上手にできる才能があっただけだ。全部、運です。

だから、やれることはそりゃやるけど、なるようにしかならんし、そもそも何かで結果を出すのは遊びであって、人生の本筋じゃないから、楽しくないならやらんでいい。

前の自分より、上手くなりたい、かっこよくなりたい、それがおもしろいからやるんだよ。

あくまでも比較対象は過去の自分。他人じゃない。他人は違う宇宙。前提が違うから比較しようがない。

それで一喜一憂するのは、走り幅跳びの選手がマラソン選手に100m走を挑んで勝った負けたと嫉妬したりマウント取ったりするのと同じくらいくだらない。

好きなように走り幅跳び楽しんで極めりゃいいじゃないの。

自分が楽しいことを極める。人生はそれだけよ。

 

 

何でもできるわけじゃない。

人それぞれに長所も短所も違う。

 

私はそんな当たり前のことも、競争社会で洗脳され過ぎて忘れていた。

とにかく競争で勝って生き残らなくちゃいけない。だから頑張らなきゃいけない。

テメェの人生は仕事かよ。全然つまんないよそんなの。そりゃ飲むよね、っていうね。

他人にとって当たり前のことが、私にはできない事もある。それが当たり前で、それでいい。

だから誰かと比べて自分を嫌いになる必要なんてなかったし、できないことは悪いことじゃなかった。

できないのに助けてと言えない、私の弱さが、私を追い詰めていただけだった。勝手に苦しんでただけ。独り相撲ってやつです。

 

弱くていい、ダメでもいい、他人を頼ってもいい、他人のために生きなくてもいい、私は私で良い。

そういうことに気づくために、私は依存症という病気が必要だった。

 

この病気が無かったら、私は私の生き方に何ら疑問を持つことなく、そのままおじいちゃんになって死んでいただろう。

そう思うと心底ぞっとする。ずっと「なんでこんなに楽しくないんだろ?でも満たされているはず、私は幸せなはず」と自分を誤魔化し毎日毎日小首をかしげながら、せっかく与えられた時間をクソつまらん競争に投資して、後悔しながら人生を終える。

そんな世界線もあったわけだ。その悪夢のような世界線から、私を分岐してくれた依存症。

ああ、依存症のおかげで、私は一度死に、もう一度生きるチャンスを与えられたのだ。

だから、私は本当に心からこう思う。

依存症になってよかった、と。

うらやましかろ^^

【仕事】起業とか転職とかいろいろ思うこと

おそらく今いる会社には、そう長くはとどまらないと思う。

 

生きていくのに必要なお金を調達できさえすればいいので、組織内でのキャリア形成や社会的評価はどうでもいい。

私はやはり、組織で働くのは向いていないんだろうなぁ。

というか、雇われて働くのが向いていないんだろう。

そうなると、自分で事業を興すしかない。

なので、個人事業主に妻をたてて副業をスタートしたわけだが、今までの年収をカバーしようと思うと、かなり時間がかかりそうである。

 

機能不全家庭に育って、高学歴高収入を目指せと言われ、言われたとおりにレールの上を走ってきた。心を殺して無理をしながら。だから依存症になるほど心が追い詰められていった。

資本主義社会・学歴偏重主義社会にありがちな、典型的な量産型歯車要員。

現在の年収や待遇は、おそらくこの日本ではかなり恵まれていて、生活には全く困らない。家族を養っていける。

しかしこのまま良心の呵責を無視して勤め上げられるほど、私の心は鈍感ではない。

私の人生は、歯車として摩耗するためにあるような、無価値な代物でもない。

 

残念ながら、特に何か秀でた技術や才能があるわけでもない。

コンプレックス克服のために苦手な営業職にあえて突っ込んで行った結果、向いていない営業のスキルばかり身について、何か他に活かせるかというと、正直頭を抱えてしまう。

人生にタラレバはないので、ことこの期に及んでは今のパラメータで市場価値を示すしかないわけだが、これがなかなか難しい。

手に職、というのは実に羨ましく私の目には映る。輝いてみえる。

しかし無いものはない。しかたがない。

 

資本主義経済において市場価値のある私の特性とは何だろう。

プレゼン資料の構成・文章力には多少自信があるが、chatGPTには及ばない。先に触れた技術にしても、作曲・作詞・翻訳・ライター・SE・イラストレーターなどは、今後AIの台頭によりレッドオーシャンになるに違いない。私がこれからライターやブロガーとして生きていくという選択は現実的ではない。

対人関係構築は、ノウハウこそ知っているものの、おそらく不得手な部類だ。何より楽しくない。そんなに他人に興味を持てない。一時的に仲良くなっても、いずれ心理的にも物理的にも離れていく。

「疑り深くひねくれている」という短所の裏返しで、「課題の本質を自分の頭で深く考える」という特性がある。

これは、おそらく人工知能ではできない。なぜなら、AIは人間が明確な課題を提示しなくては答えを出せないから。潜在的な課題の抽出とそれに至る着想、人のなかの見えない想いを整理して可視化・明確化することにおいて、私は長けていると思う。活かすとしたらここだろう。

だからこそのカウンセリング事業であり、かつ対人援助の表に立たないアドバイザー的な在り方が最も向いているポジションだと思う。

逆に妻は、対人関係構築がとても上手で、境界線を守りつつ長く良好な関係を維持することができる。良い意味で楽観的、反面深く考えない。全く正反対の二人だからこそ、良いタッグになる。

 

私一人でなんとかしなくてもいい。

私に足りないところを、妻が補ってくれて、妻にかけている部分を、私が補う。

なぜか妻とは「全く違う」からこそ興味が尽きないし、尊敬し続けることができる。

そうであればこそ、私は苦手な他人との協業にもかかわらず、妻とだけは事業を運営していける自信がある。

 

とはいえ、軌道に乗るまでは、私のWワーク状態は続いていくだろう。

シリコンバレーバンク銀行の破綻。これはおそらく世界恐慌になる。西側諸国主導の経済システムは、もうそろそろ終わる。

そうなると、グローバルユダヤ資本の傘下である日本の大企業の多くが、近々大規模なリストラを国内でも始めるだろう。経営の観点で最もコストがかかるのは人件費であり、人員削減は株主にとって嬉しい経営判断であり、株価を下げたくない雇われ社長は必ずその決断をどこかでする。

私はできるだけ多くの退職金を得られるタイミングで希望退職者に手をあげジョブチェンジしなくてはならない。これは確定事項である。

そうなったとき、既存の産業構造のなかで、私は今何ができるのか。

 

西側諸国の経済システムが終わるとなると、テック系はもうダメだろうと思う。

シンギュラリティ、メタバース、トランスヒューマニズムなど、グローバリストが思い描いてきたグレートリセットは、残念ながら実現しない。

メタの大規模人員削減は、メタバースの開発スタッフが中心だったことからも、彼らの青写真は崩れかけていると感じる。

もちろん医薬品業界・医療業界も、このコロナ詐欺で産業としては成り立たないほどに信頼を失うだろう。コロナワクチンの薬害による疾病の増加でがん・神経変性疾患・心血管疾患・精神疾患の領域はしばらく潤うだろうが、その後は焼け野原になるとみている。

介護業界は今度の介護報酬改定で厳しい予算案が通る予定だ。3~5年激務なのに薄給という悪夢のような状況のあと、コロナワクチンの薬害で高齢者はほぼ死に絶え、利用者すらいなくなるだろう。後遺症で心身を痛めた人々は介護を必要とするだろうが、元気に働ける介護職は減ってしまう。限られた人数で対応するなど不可能な阿鼻叫喚が生まれる。しかしそれでもこの国が今更、報酬を手厚くして介護職の人員を確保し、政府としてケアに力を尽くすことはないだろう。この国はそんな善良な国ではない。

コロナワクチンによる不妊化で、少子化はますます加速する。なので、教育・児童支援の業界も、先細りになる。

学校教育などは、もうすでに奴隷養成所であり、そこで働いている教員ももはや限界を超えた劣悪な労働状況でリタイア寸前なので、仕組み的に続くはずがない。前時代的な詰め込み式の教育や、プログラミングを共通テストの必修科目に今更、しかもこれから導入しようとしている時点で笑ってしまう。

児童支援は、先細りするにはするが、神経発達症・不登校・いじめ・自殺企図など、ますますニーズは高まるだろう。

しかし、この狂った社会常識に盲目的に従うような愚かな大人が問題の本質だ。彼らを中心に構成された家庭環境・学習環境が地獄すぎる。生まれた時から周りがすでに終わっている。

抱えている問題の真因が子どもではないからこそ、ある程度年齢を重ねてしまってからのソーシャルワークの実践は、かなり複雑かつ困難を極めると思う。というか実際現場でそんなふうになっている。はたで見ていて、本当に大変だな、と胸を痛めるほど。

そうなると、せめて未来ある、まだ幼い子どもたちだけでも、手を差し伸べたくなる。

このディストピアで自分らしく生きていけるような居場所を彼らに提供することこそ、本当に世界にとって価値ある行いだと思われる。

大人はもはや救いがたい。腐ったミカンは元には戻らない。他のミカンが腐らないようできるだけ避けておくしかない。

やっぱそれだな。

 

正直、依存症は、支援をやっていてぬぐえない徒労感を感じる。対症療法的でしかないことに、虚しさを覚える。

健全な大人になれなかった大きな子どもをいくら手当てしても、世代間連鎖はすでに継承されていて、キリがない。絶えず来る相談を受けてアプロ―チしていると、承認欲求は満たされるし、やっている側は救ってる感で充実するだろうが、自己満足に過ぎない。際限がなさすぎるのは「社会そのものが狂っている、だから順応なんてしなくていい」という大前提があるからで、それを鉄板の共通認識にしない限り、いつまでも誰もかれもが病み続ける。

私を含めた今の大人たちが盛大に「失敗」したこと、そのせいでこんな狂った世の中になっていることを隠して、偉そうに立派な振りをして居座り子供たちに場所を譲らないから、また同じことの繰り返しになる。

いずれ信用を失う政府とマスメディアと連帯した、既得権益のリソースを通じてやってしまった時点で最初から根本的にダメだったんだよ。それはもう認めるしかないよ。すみませんでした、というところからスタートじゃないかと思う。

もちろん、先人たちの取り組みのおかげで成り立ってきた様々なことがあり、それに対してはとても感謝している。

でも、古代ギリシャ哲学や東洋哲学ですでに優れた生き方の見本が示されていたにもかかわらず、教育からすっかり抜けていたのは、許されざる過失だ。それを思うと、大戦から高度経済成長期にかけてうつつを抜かしたアホすぎるご先祖には、どうしても呆れずにはいられない。命ともいうべき人生哲学を忘れさり、物欲と名誉欲に夢中になってしまって、大事なエッセンスを後世に継承できなかった事実。それがヒラメきょろめ同調圧力MAXの、さもしい日本人の劣等性なのだと思い至るに、深い諦観を覚える。なんかこんなしょぼい国に産まれるなんて結構ハードな運命だな、と思うよね。(笑)

国民性なら、もうそもそも無理じゃね?とも思うことがある。

特にマスクもろくに外せない今の状況をみると、何もかもやるだけ無駄なんじゃないかとすら思う。

 

しかし、希望を捨てきれない。他ならぬ我が子の輝く姿が、そうさせない。

日本社会はこんなにもゴミなのに、大人たちはこんなにもクズしかいないのに、プロパガンダと奴隷教育に洗脳される前の子どもたちの眼の光、なんと美しいことか。

やはり彼らに関わるしかないと思えてくる。本当に唯一の希望。

書いていて思ったが、私は給料が低かろうが、他人に馬鹿にされようが、児童福祉支援、特に保育のフィールドでこそ、生きる意味を見出せるのではないかと思う。

まだ幼く凝り固まっていない、ちゃんと自分の頭で考えられる幼少期に、依存症にしても哲学にしても世の中の狂気にしても、まだ吸収できる余地がある。共同身体性と感性を養う、いや、養うというより、彼らがまだもっているそれらを守る、そのチャンスは療育者によって与えられるべき当然の栄養だと思う。

保育士はやはり取ろう。

おそらく私は変なので既存の組織には受け容れられないだろうから、いずれは自分でエピクロスの園のような認可外保育施設を立ち上げるしかなくなるだろうが、今の会社を離れなくてはならない状況になったら、経験を積むために保育施設や児童福祉支援施設で働こう。そうすれば実務も内情も、知らない部分も見えてくる。

うん、これだ。やはりこれだ。

それまでに、保育士を取って、副業を軌道に乗せて、ダブルインカムで子どもたちが好きな国に留学できるくらいの資本力を維持できさえすればいい。

物質的に欲しいものなどもう無い。家も両親が近々コロナワクチン後遺症で死ぬだろうから、本家と分家の2軒空くので最悪あてはある。

マイナンバーカードの激推しの背景には、超監視社会を構築する意図があるのはもう皆さんご存知の通りである。

日本は愚かなので、おそらく西側が倒れるにもかかわらず、世界から取り残されて、ある程度までディストピア化は進んでしまうだろう。そうなると有事を理由に捕捉された財産は取り上げられる危険性が高い。だから所有する財産を守るためにも、負債を抱えることだけは避けたい。

なぜなら、個人が負債を抱えていれば政府が抵当権を行使して、マイナンバーで捕捉できていなかった財産を合法的に取り上げられるから。その後、働く自由を奪われてベーシックインカムで飼われる奴隷に成り下がることになる。このタイミングで新築物件を買い住宅ローンを組むなど自殺行為。できる限り借金は今すべきではなく、資産を政府に捕捉されるべきではない。

そう考えると、現時点で設備投資や初期投資はできないので、虎視眈々と耐えて、時期を待つしかない。

おそらくこれから起こるであろう「台湾での戦争」あるいは「自然災害」で緊急事態条項を発令し、全体主義の最終仕上げに乗り出した後だ。

どうせそれは失敗に終わり、巨大なカタストロフのあと、小さな共同体、その土地ごとの「空き地」ができる。

そのときこそ、夢を実現するタイミングだと思う。

それまで、信頼できる人との繋がりを大切に、自分たちで生き抜く生活の知恵を学び実践し、クソくだらない社畜のふりをしながら、今を楽しんで生きていく。

それが、いずれ経済が崩壊した後に、何物にも代えがたい本物の財産となる、