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【仕事】組織に使い潰されない!サボリーマンのススメ

 

サラリーマンは仕事に入れ込まなくていい

受け身の雇われ仕事に、基本的に意味などない。

ゼロベースで自分がやるべきこと・やりたいことを明確化し、それを実現するためにやっている分には、大いに意味がある。能動的に思い描く未来の延長線上、通過点に今の仕事があるから。

そういう人を除いた、ただ惰性で言われたことをやっているサラリーマンの仕事のことを「受け身の雇われ仕事」と表現していると思ってほしい。

 

今の待遇・生活を維持するために、やりたくもないけどやっている。

そういう人がほとんどではないだろうか。

周りがやっているからなんとなく始めた就職活動。

会社の名前や知名度で選んだよく知らない会社に、なんとなく就職。

なんとなく組織内の出世競争という「椅子取りゲーム」に巻き込まれて、なんとなく日々消耗している。

不安と恐れと虚しさに苛まれながら毎日が終わっていく。

「こんな人生生きたくない」

その不快で不都合な本音をかき消すために、SNSで暴言を吐いたりより不遇な他人を覗きに行って溜飲を下げたり。少し空いた時間で酒を飲んだりギャンブルをしたりゲームをしたり。

楽しみは全てが本音をみないための対症療法。誰かに飼育される奴隷。

誤魔化しでできている人生。クソのような人生。

客観的にみると改めてそう感じるのではないだろうか。

「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃないか!今の私が生きていくにはこれしかないんだ!」

「そうですか。そりゃしょうがないですね。じゃあずっとこのままそうしてたらいいんじゃないですかね。それしかないんだから。」誰かからそう言われると、本気で腹が立つだろう。

その感覚はとてもわかる。私もそうして摩耗してきたひとりだから。

 

組織はあなたを道具扱いしているという事実

組織は、あなたのお母さんではない。お父さんでもない。

他人である。利己的な他者で構成された、ただの営利団体。

「社員こそわが社の宝」などとほざいているが、嘘八百。

ただの換えの効く歯車だと思っている。金儲けのための道具だ。

使い潰すつもりで雇用している。

あなたの人生なんてどうでもいい。一ミリも考えていない。使った後、どう死のうがどう生きようがどうでもいい。

本当は、どんな会社も、どんな経営者も、心の底ではそう思っている。

だって、利益を出すために組織はあるのだから。

利益を効率的に生み出すには、一人では手が足りないから、人を使う。

できるだけ少ないコストでできるだけ効率的にお金を稼げれば、それが最適。

だから、給料はできるだけ払わないようにしようとするのが当然だし、昇進はできるだけしないようにする引力が当然働く。

私は営業部門において類い稀なる成果を継続的に残してきた。だから、私を認めもっと仕事を任せたいなら昇進させるだろう、昇給するだろうと思っていた。しかし組織はあれやこれやと言い訳をして私を評価しなかった。

結局、昇進・昇給とは、その人の真の価値と相関しない。

組織に対する忠誠、つまり「奴隷としての利用価値」の見せ方と運で決まる。私はそれがなかった。だから組織内で評価されなかった。

 

私はそれでほっとした。

私には奴隷の才能がなかった。道具として使い勝手がよくなかった。だから、評価されなかった。

私は、組織内での「椅子取りゲーム」にはハマれなかった。私にとっては、心底つまらないゲームだったから。

ここまで読んで「負け惜しみじゃん」と思う人もいるだろう。

そう思ってもらって構わない。

私にとって価値がないことで、どうでもいい他人が勝ち負けを勝手につけているだけなので、その勝敗を他人がどうとらえようと、私にとってはどうでもいい。

会社という組織は「横並びにした数字の勝敗でムキになってくれる」「目の前にぶら下げたニンジン(昇進・昇給・賞罰)を追いかけてくれる」そういう他者承認を餌にした心理的誘導に引っかかってくれるようなチョロい奴隷が大好きだ。

「どうぞ終わりのないラットレースに巻き込まれてくださいな。終わらない苦しみを癒すためにせめて私を憐れんだらいい。そして自分の心に目を逸らしながら、無駄な一生を終えればいい。」、「負け惜しみじゃん」と思う人に、私はそう思う。

 

仕事は極限までサボってかまわない

向こうが使い潰す気なんだから、こっちも使い倒す気でいて構わない。

仕事に割くリソースなど、MAX50%でいい。それ以上はかけすぎ。

身を粉にして働く、というのは、自分がやりたいと能動的に思うことなら全然OKだと思う。それは自己実現のカタチだから。

でも、他人にやれと言われて、金でほっぺたをひっぱたかれたからって、そんなに根を詰める必要はない。

向こうができるだけ安く使い倒そうと思っているなら、こちらとしては、できるだけ力を入れずにできるだけ多くの金がもらえればよいと思って何の問題もない。

サラリーマンとはそういうものだ。

だからできるだけサボって構わない。

いやむしろ、サボりを極めたサラリーマンこそ、最も優秀なサラリーマンだ。

 

「やってる感」を出すコツは、理論武装と数字のレトリックにある。

結局ビジネスとは、相手がある以上「変えられないもの」「コントロールできないもの」なので、結果も能力も突き詰めると「運」でしかない。

それっぽく、偶然の産物を「努力によって誰もに再現性のある成功」のように見せているだけだ。理論立てて数字で味付けすれば、その「成功の法則」が出来上がる。

それがその人の「やってる感」「優秀な人材っぽさ」を演出する。

組織での椅子取りゲームは、実はこのイカサマの上手下手を競っている。

上の指示に従って上が決めたことが「成功につながっている正しい判断だ」と証明する材料になるのが、イカサマをそれっぽく見せるには手っ取り早い。だから全社方針・経営者方針を体現した(ように見える)人が出世する。

見え透いていてつまらない。

しかし、他に面白いことのない空虚な人には、すこぶる面白いのだろう。だからなんとか成り上がろうと頑張れる。世にも素晴らしい暇人たちだな、と感心する。

 

まとめ:所詮、金儲けはすべて暇つぶし

そもそも、お金というもの自体に価値がない。

単なる商業用の交換媒体であり、本質的な価値はそこに存在しない。

必要最低限あればよく、囚われてはいけないものの代表例だ。

それをもっと欲しがったり、無駄にかき集めたりして、人生を見失っていく。

たまたま世の中が資本主義経済を主体をした社会だったから、ビジネスがあるだけで、本来の人の営みにはほとんど重要ではない。

ヒマつぶしの遊びのようなものだ。

そんなもんに人生をかける必要はない。

面白がれるならおもしろがり、ハマれないならテキトーにやってる感を出して参加しているふりをしておればよい。

どうせ暇つぶしのゲームなんだから。

ただ、生きている時代のせいで強制的に参加させられているだけ。

仕事はつまんないと感じていいし、やる気が出ないのは当然だ。面白いと感じないなら、それはおもしろくないんだ、あなたにとって。

ゲームごときで、暇つぶしごときで、あなたの貴重な人生を棒に振ってはいけない。

私はそう思う。

 

【メンタル】あなたは「やらないといけないこと」ばかりやっていないか?

私たちはつい「やるべきこと」を優先する。

問題はその価値が「自分にとって」なのか「誰かにとって」なのか。

選びがちな「やるべきこと」は後者。

 

その後者ばかり選んでいると、人はいつしか虚しい時間を生きるようになる。

 

予定を入れられるのが大嫌い

私は仕事の予定が入っていると、落ち着かない。

本当にやりたいことを始めると、終わるまでやらないと気が済まない。

やりたいことを中断する苦痛は筆舌に尽くしがたい。

その苦痛を味わいたくないので「予定までの時間に終われるかどうか」を気にしてしまう。

私がやりたいことは、挑戦になることが多い。

やったことがないことは、どれぐらいかかるかわからない。

終われるかどうかはわからないので、始めるのをためらう。

そのストレスが積み重なると、もはや何もかもどうでもよくなる。

私のうつ状態はこうして形成される。

 

だから、私は予定をブロックされるのを極端に嫌う。

他人の予定は、私を殺す。

 

自分のために

他人に依頼される予定は、他人のための時間だ。

他人のための時間を優先すると、病んでいく。前述した私のように。

 

自分がワクワクすること、やってみたいと思うこと。

それに時間を使うべきだ。それを最優先すべきだ。

そうでなくては心が死ぬ。

 

損得ではダメだ。

この現代社会を生きる上で何かメリットがあるから、という「やりたい」は本当は「やりたくないけどやるべき」を「やりたい」だと自己洗脳している。

「やるべくこと」は、損得関係なく「やりたい」こと。

その「やりたい」は心と体を自由にして、時間に縛られずに生きているときにしか降りてこない。

よく「怠けている、サボっている」と客観的には見える状態のとき、その人は「やりたい」を探すために全身全霊で他のノイズを極限まで削って必死に探している。

決して怠けているわけでも、サボっているわけでもない。

その人なりに必死に足掻いている。

 

不登校にしてもそうだ。

学校という監獄で「これは私の『やりたい』じゃない」と、奴隷教育に対して心も体も拒絶反応を起こしている。だから行けない。

そしてそれはとても自然で健康な反応だ。

その反応を無視しないでちゃんと「学校に行かない」という行動に移せる時点で、すごい。

私は不登校の人を尊敬する。

私は「こんな意味のない場所」と思いながら自分の心の声を無視し続けて、ついには聞こえなくなった。だから今、こんなにも私の心の声はか弱い。耳を澄ますのが大変だ。

聞こえなくなった声。その存在すら忘れて自分を誤魔化し続けた結果、うつ病になりアルコール依存症になった。

もう同じ過ちは繰り返さない。

 

自分のために、自分の声に従って生きる。

それが最も善い生き方だ。

他の誰かの決めたルールや価値観に従ってはいけない。

 

「遊び」を極める

ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』で示すように、この世の活動は全て承認欲求に基づいた「遊び」で、社会は元来「遊び」で構成されている。

資本主義と合理主義によるマネーゲームは、チープでワンパターンなクソゲー。

競争心を煽り他者比較による承認欲求を満たすだけなので、依存性はあるが真の意味での「楽しい」「歓び」はない。真面目で退屈で不毛。

だから現代社会は劇的につまらなくなった。

そのつまらなさに気づいた賢く鋭敏な人は、社会不適合者になる。

無理に過剰適応すると、私のように精神疾患や依存症を発症する。

クソゲーを楽しいと感じる鈍い人間。それがエリートの正体。

この社会が心地よいと感じる鈍感なエリートがいくら社会をいじってもクソゲーにしかならない。

だから、社会には期待していない。悪くなることはあれど、良くなることはない。作っている人間がつまらないなら、つまらないものしかでき上らない。

クソゲーでありクソ社会である現代社会。

それは外部環境であり変えられないもの。

しかたがない。手放し受け容れるしかない。

つまらない。変えられない。ならどうする?

「無いなら、つくっちゃえばいい」

擬態して適応してるフリをしてやり過ごしながら、自分がワクワクする「遊び」に最大限のリソースを割く。楽しめる部分は楽しみ、既存の評価や価値観を「どうでもいいこと」と認識することが重要だ。

問題はその「遊び」は何か?ということ。

それは自分の心の声を聞くしかない。人による。千差万別だ。

だから、少しでも情熱の炎がチラリとしたら、全力でそれに取り組んでみる。

最も重要視すべき感覚だ。他のことはどうでもいい。情熱を感じる感覚を全身全霊で探す。

三日坊主でも構わない、下手ならなお結構。

とにかく少しでもワクワクするほうへ、足を運んでみる。行動する。

その繰り返しの先にしか、それぞれにとっての本当の「遊び」はない。

 

私は「遊び」を見つけたい。

正直今はもがき苦しんでいる。

仕事はクソつまらない。この社会も壊れたガラクタにみえる、クソどうでもいい。

私のワクワクはこの枠組みには存在しない。ただ金を得るための火葬場。

でも、少しずつ情熱の炎のカタチを掴みつつある。

 

まとめ

これはあくまで私にとっての形。絶対的な真理などない。

私にとってはクソゲーでそれにハマるエリートは鈍い人間に見える。

私は「変えられないもの」があると気づく謙虚さを自覚する程度にしか賢くない。

数多ある砂粒のひとつまみ。

自分の魂が歓ぶ「遊び」を見つけるために、人生は与えられたのだと再定義する。

個々の意識の問題であり、第三者は提案することしかできない。

しかしこの再定義により、病む必要がなくなり依存する必要がなくなるので、依存症は無くなる。これが真の依存症予防啓発。

私の依存症予防啓発は、私自身の人生が体現している。

私そのものを世界に発信するのが、私にとってやりたい・おもしろいことで、同時に価値があること。

同じように、他の人の人生も貴重な物語だ。ひとりひとりが最高に面白い創作物だ。

フィクションでも、ノンフィクションでも、新しい物語に触れると、私はとてもワクワクする。だから、私はそんな話を聞きたい。

そのワクワクを、私の得意な伝達手段でシェアしたい。

だんだんみえてきた。

【哲学】潮が何か運んでくる(トムハンクス主演映画から考える人生論)

これから どうするか?

息をし続ける

明日も太陽が昇り

潮が何か運んでくる

引用:映画『キャスト・アウェイ』

 

なんだかトム・ハンクスの映画が目に留まって、続けて観てしまった。

「観てしまった」と書いたが、結果的に観てよかった。

『キャスト・アウェイ』と『フォレスト・ガンプ』がすごく心に響いた。

今観るべき巡り合わせだったんだな、って思った。

 

人生は、なるようになる

 

これは『フォレスト・ガンプ』の主人公フォレストのお母さんが言ったセリフ。

開けてみないと分からない。

食べてみないと分からない。

生きてみないと分からない。

本当に、想定外のことばかり起こる。

奇跡のような巡り合わせがあったり、悪夢のような地獄を経験することもある。

本当にその時になってみないと分からない。

でも、わからないからこそ、コントロールできないからこそ楽しいし、価値があるんだと思う。

私もうつ病になったり、アルコール依存症になったり、ADHDと診断されたり、ACと自覚したりするとは、夢にも思ってなかった。

でも、それらは何かに私が気づけるように、あらかじめ用意されていたかのようだと、今は思う。

世界とは脳の信号が創り出す仮想現実に近い。限られた情報を私の身体が電気信号にして脳に送り、脳が自覚する世界が、この世界の見え方だ。

そういう意味では、世界は捉え方次第であり、自分の「思い通り」になる。

不幸だと思えば不幸だし、幸福だと思えば幸福。

起こったと知覚している現象を「哀しい・つらい・怖い・不安」と意味付けすれば、世界は悪意に満ちていて絶望的な地獄にみえる。

起こった事・起こる事をあるがままに受け容れ、私が善く生きるために何か与えられたものだと思えば、それは「喜ばしい・有難い・かけがえのない」ものになる。それがどんなに客観的に悲劇的であっても。

私は首になりかけてよかった。そのおかげでアルコールの問題を抱えていることに向き合えた。

私はACでよかった。愛情とは何なのか?を真剣に考えるきっかけになった。

私は発達障害(神経発達症)でよかった。人と見え方が違うことで、常識や世間がいかに空虚かに気づくことができた。

私はうつ病になってよかった。うつ病になったのは私が悪いんじゃなくて、社会が歪んでいるからだと気づけた。

私がそう思えば、そうなのである。

私の脳が、物事の意味を定義し、そこから自分なりの何かをつかむことができるように、全ての事象は与えられている。自分の身体も、人との出会いも。

 

人事を尽くして天命を待つ

これも、フォレストのお母さん。いいこというよなー。

なんだかずいぶん有名な映画だったらしいんだけど、観るべきときは今だったのだろう。

私は、今とても失望している。そして苦しんでいる。

 

今している仕事に価値を見出せない。

この会社に所属していて全く誇らしいと思えない。それどころか恥だと思っている。

私がやっていることに、私の良心が拒否反応を示している。

「これは善行ではない」と。

だからなんだか、とてもやる気がしない。熱も込められない。

全て本質からズレていて、私にとってはどうでもいいゲームの一つにしか思えない。

しかし、今の生活、家族を養っていくには、今は辞めるのは得策ではない。頭では分かっている。しかし体が拒否っている。困ったものである。

 

今ある状態、今与えられている状況。

この辛い状況も、何かに気づくために、いや、思い出すために、与えられているのだろう。

全てはもうすでに準備されていて、私は良心に従って勇気をもって生きていきさえすれば、必ずなるようになる。

というか、なるようにしかならない。

できることは、今与えられている状況でベストを尽くすこと。

何よりも自分を大事に、心に正直に、私が今できることを、できる範囲で、やりきる。

ただそれだけ。

やってきたことをやるだけ。やれることをやるだけ。

結果は関係ない。「結果」という意味は私が後からつければいい。

他人は関係ない。他人とは、別の世界。脳が違うから。同じだと思い込んでいるだけで、違う現実を見ている。

「他人とは別の宇宙だ」という言葉を聞いたことがある。

まさしくその通りだと思う。

脳が違うので、違う。世界の見え方も、法則も、何もかもが。だから、比べようがない。定型発達や発達障害など、実は存在しない。

定型発達だろうが、ADHDだろうが、ASDだろうが、LDだろうが、それは人間が勝手に考えた仮説。宗教と同じ。

それぞれが全員、少しずつなのか、実はとんでもなくなのか、生きる世界が違う。

その違いが多数派からみた、偏差値であり、集団生活で問題視されるかどうか。それだけだ。

集団生活で問題視されるかどうかも、その集団がどういう価値観でどういう社会を形成しているかによって、違う。

たまたま貨幣経済社会で、たまたま金になる仕事で働かないと生きていけない社会構造で、たまたま学校というものがあって、たまたま暗記してアウトプットする「勉強」という遊びを皆が真剣にやっているだけだ。

全部、正しさなんてない。だから学歴も社会的地位もフォロワー数もチャンネル登録者数も、私にとってはなんの価値もない。

価値があると思う人には価値がある。それはそれ、違う宇宙の話だ。

 

私は私が「善い」と感じることをすればいい。与えられたすべてをつぎ込んで。

 

まとめ:あまり気負わず、息をし続けよう

これから どうするか?

息をし続ける

明日も太陽が昇り

潮が何か運んでくる

引用:映画『キャスト・アウェイ』

 

冒頭のこれは『キャスト・アウェイ』で主人公が終盤にいうセリフ。

時の流れは、それぞれに流れている。時間は絶対の概念ではない。相対性理論じゃないけど、定量化できるものではないし、過去から未来に流れるのでもない。それぞれが捉えたように、時間すら在り方が変化する。

縁も、何か大きな、私なんぞがわかりもしない力に導かれるように、結ばれたり離れたりする。

人生は、いつまでも続くわけでは無い。明日、いや今夜、唐突に終わりが来るかもしれない。それは誰にも分らない。わからないから貴重で、尊い。

与えられた最後の一片まで、使い切る。味わいつくす。

そのために、息をし続ける。できる限り、やれる限り。

生きている意味があろうがなかろうが、先行きが不安だろうが順風満帆そうだろうが、関係ない。それは次の瞬間にはひっくり返るかもしれない。

「潮が何か運んでくる」というのは、そんな未知と可能性の言語化だ。

何でもコントロールできる、思い通りにできる、という大脳新皮質の驕り。

私はその理性という病をこじらせて依存症になった。だからその貧弱さがよくわかる気がする。気がするだけで、そんなにわかっていないかもしれないが。とにかく、理性や科学というのは、それっぽく見えるだけで、実は宗教と変わりない。

だから、そんなに身構えなくてもいい。

「世間」は尤もらしいことを突き付けてくるかもしれないけど、そんなのは「そういう可能性もあるかもね」というだけなので、「自分は違うかな」と思ったら違うんだ。それで全然かまわない。

自分の「善い行い」「善い生き方」を素直に正直に考えて実践するだけでいい。

あとは自分の力の及ばないことだから、受け容れるしかない。

人生とはそれだけなんだ。悩むほどのもんじゃなかった。

と、仕事がつまらないと愚痴るか細い声の主が書いている。

弱くていい。本来弱いんだ人間というのは。だから、支え合いながら助け合いながら生きている。それに気づいて感謝できれば、その瞬間からあなたは幸せ者の仲間入りだ。

【発達障害】なんであなたは他人といるだけで疲れてしまうのか?

ADHD・ASDでアダルトチルドレン(AC)の私は、そんなに嫌いでない人でも、他人といるだけでドッと疲れてしまうことに悩んできた。

今までの考察から、私が疲弊する理由は、大きく分けて3つある。

現在ではそれが軽減されてきたので、他人がひしめき合う社交場に出てもさほど疲れなくなったが、それでもやはり疲れることはある。

とりあえず今までの自己分析まとめてみる。

 

過去のトラウマからくる防衛本能

私は今までの経験から、他人とは私を攻撃する存在だと認識している。

その認知の形成には、いじめに苦しんだ暗い過去の経験が影響を与えていると思う。

 

通っていたサッカークラブ。

私は一つのことにしか集中できないので、ボールだけに集中して周りが見えなくなる。

サッカークラブの練習は途中から各自ボールを持って自主練をする時間があり、何人かでグループになってパスを回したり、思い思いに時間を過ごした。

私は他人とできるだけ絡みたくなかったので、壁に向かって蹴ったりリフティングをしたりしていた。

周りになじまずグループに入らない私は奇異に映ったのだろう。

ひとりで黙々と練習している私に、ボールを蹴って当てるゲームを始めるグループがあった。

面白半分に彼らはやっていたのだろうが、私はいきなり横っ面にサッカーボールをぶつけられてとても痛かったしそのたびに驚いた。

やめてほしいと伝えても、彼らは私が鈍いのを馬鹿にしてますます面白がった。

コーチはそういうところまで目が届かなくて、私は自主練の時には攻撃を受けないよう隅っこにいるようになった。壁で自分を守り、じっとしていた。

学校でも似たようなものだった。

私は優しい性格だったので、他人に何か嫌なことをするなんて想像もつかず、自分の好きなように遊んでいた。ひとりで色水を作ったり、木を削ったり、砂で造形を作るのが好きだった。

ずっと一人で遊んでいると、必ず邪魔者が現れた。

水をひっくり返してみたり、気を取り上げてみたり、砂で作った私の作品を破壊してみたり。

「放っておくと、他人は私に危害を加える。厄介で恐ろしい外敵だ」と他人という存在について私は認識を改めるようになった。他人なんて気にもとめていなかったが、私の邪魔しかしない。こんな迷惑なやつら一人残らず死ねばいいのに、と心から思っていた。

なので、私は他人が一定の距離以上に近づくと反撃できるよう、攻撃をかわせるよう、体を硬直させる。臨戦態勢に入るように体が自動的にプログラムされた。

そうなると厄介なことだが、他人がそばにいるだけで交感神経優位になりノルアドレナリン神経系が活発になる癖がついた。他人がいるだけで落ち着かないばかりかとてもストレスを感じるようになった。

サウナ後の外気浴でリラックスしていても、足のあたりを他人が通り過ぎるだけで「足を踏まれるのではないか」と神経がピリつく。まったくリラックスできない。

会議で他人が近くにいると、ソワソワしイライラしてくる。ストレッサーが近くにいるので精神的に摩耗していく。だから話の内容はほとんど頭に入らない。リモート会議になって本当によかった。ここだけはコロナ茶番に感謝している。

他人には近づかないか、近づいてきたら威嚇する。

そういう処世術が身についたのは、成育歴に由来する。

 

会話という行為に対する疲労感

警戒心MAXなのも疲れの主たる要因だが、会話という行為そのものも非常にストレスフルである。

音がうるさい

まず、声がうるさい。

キンキンと高い女性の声は、脳がキリでつつかれるような感じがする。不快極まりない。

興奮すると音量が大きくなるので、とてもめんどうくさい。

伝えたい内容を、できるだけ穏やかな声音で、的確かつ簡略化して話せばいいのに、どうでもいいことばかり大声で喚き散らす。

私はおそらくASDによくある感覚過敏だ。音は特に快不快を感じやすい。

視覚優位なので、聴覚情報が視覚情報の処理を邪魔してとてもストレスになる。

集団で会話していると、同時に複数の人が話始めたりするけど、イライラして口を開いているやつ全員をぶん殴りたくなる。

一度にしゃべったら処理できないだろ、お前ら全員聖徳太子かよ、と。

情報入力ソースとして、音声は私にあまりそぐわないんだろうな、と思う。

人に会うとうるさい音声を出す、だから他人に絡みたくない、という感じだ。

 

会話の作法(マナー)がめんどうくさい

会話がいざ始まると、いつも私を悩ませるのが、社交辞令などの「定型発達の間で交わされているの暗黙の了解」=常識・マナーである。

腹の底では行く気もないパーティーに「ぜひ行きたいですねー」と言ったり。

何かを見せられたとき条件反射的に「かわいい~」「すてき~」と言ったり。

本題に入る前にまったく中身のない世間話をしたり。(=アイスブレイクのこと)

そんなもん誰も決まりとして明文化していないのに、なんで守らなきゃいけないんだ、と思う。そもそもそんなマナーや常識を提唱していながら、内容の精査が甘い。形式ばってアイスブレイクとか言っている暇があったら、もっと内容を詰めるべきだと思う。

だけど、定型発達はみなそうとは思わないらしい。謎は深まるばかりである。

相手の利益のために伝えるべきことを伝える。

聞いてほしいと前置きして悩みを相談する。

相談されたことに対してクリティカルに求めている情報を提供する。

人と人とがわざわざ時間を使って会話をするのは、そういう目的在りきだと思うんだけど。

今まで人と関わってきて、なんだかダラダラグダグダととりとめのない話を聞かされ長時間拘束されることがあった。その経験から学び、私は他人と好んで会話しなくなったのだと思う。

 

ありのままでいられないストレス

会話の形式もさることながら、内容も非常に気を遣う。

幼少期に思ったことをそのまま言葉にしていたら、なぜか相手が泣いたり怒ったりすることがあった。

私としては自分の本心なので、噓をつくよりよっぽど誠実に他人と向き合っていると胸を張って言葉をかけていた。

それが仇となり、私は盛大に集団いじめにあった。

私が私らしくしていると、他人は不愉快そうに攻撃を仕掛けてきた。

まったく迷惑な話である。しかし脅威ではあった。降りかかる火の粉は払わなくてはならない。自分らしくいるより、この不可解な集団に同調して擬態しておいたほうが、デメリットが少ない。

そう思った私は、自分の思いをそのまま話すのをやめ、周りを観察した。

こういうときはこう反応する。

この話にはこう切り返せば笑いをとれる。

こういうときにはあまり言葉を挟まないほうがいい。

定型発達者同士の会話のやり取りを分析し、因数分解して応用する。

意図した反応が得られれば成功、反応が芳しくなければ失敗。

私が自己防衛のために構築してきた会話方法は、地味な科学実験の賜物だ。

はたしてストラテジーの構築が完了し。最もリスクが低い(=定型発達に違和感を持たれない)応酬話法が可能になった。

しかし、困ったことが起こった。とても疲れるのである。

まったく楽しくない。ただの作業。工場のライン作業のようなものである。自動迎撃システムのようでもある。つまらなすぎて対応を間違えることも増えた。

自分の言いたいことを言えない。なんの面白みもない繰り返し。

それはとてつもなくストレスフルな行動だった。だから、結果的に会話をできるだけ避けるようになった。必要最低限の場面で最低限しかできなくなった。

 

まとめ:経験不足を補うための自助グループ

そうなると、当然会話の経験が少なくなる。

本来人と人との会話というのは、実はこうではなくて、みんなちょっとずつ本心をさらけ出しながら、その摩擦により距離感を学んでいたと、つい最近になって気づいた。

圧倒的に真心でぶつかり合って研磨するという経験が不足していた。気づいた時にはもう大人になっていた。しかし大人になってからではもう得難かった。

それが孤独を深め、孤立を深めた。

依存症になる人も、こうした他人との関係の不健全さと経験のなさが大いに関係している。

他者との関係構築が下手くそなので、交流によって癒されることを知らない。だからその癒しを物質や行為に求めて、泥沼にはまる。

糖質と脂質とたんぱく質をバランスよく摂取しなくては体調が崩れるのと同じに、他者との適度なコミュニケーションは心に必要な栄養であり、それが欠乏すれば心が病むのは当たり前。

私は自助グループでこの経験不足を補う機会を得た。

断酒会やAAやACAは、人間関係のへたっぴ同士の集まりだ。心理的安全性が担保された環境でみんなで言いっぱなし聞きっぱなしをして、失われた経験を取り返していく。その経験は心が子供から大人になっていくのに必要な試練である。

その過程で摩擦や衝突はつきものだが、霊的な道具である12ステッププログラムがセットであることを忘れてはならない。

私がそうであったように、不健全な関係で身に着けた歪んだやり方が、問題として顕在化されてくる。認知の歪みを自覚すること、それを取り除こうと棚卸しをすること。それによって、他者との健全な関係構築の精度は高まっていく。

逆に言えば、ただ自助グループに行っていても変わっていかない。自らを省みて変化するためには霊的な道具とそれに沿った謙虚な行動が必要だから。

それでも反応してしまう場合、私でいうトラウマが根強くある場合は、トラウマセラピーによって心理的に自動化された反応プログラムを解除する必要がある。PTSDなど過去に経験した強いストレスでどうしようもなく拒否反応が出る人は少なからずいる。

このように、今まで形成された歪んだ認知、つまり自分を守るために刷り込んだ思い込みを、絡まった糸を一本一本解きほぐすように、丁寧にひとつひとつやっていく。

そうすれば、少しずつストレスは軽減されていき、人との交流を楽しむという新たな感覚に出会える。

私はまだ途中だが、当初から考えるとかなりストレスは軽減できていると思う。無理せず、しかしあきらめず、自分がありたい姿を思い描いて、行動を積み重ねていくと、変化は訪れる。

希望を持ってほしい。

【依存症】依存症になってよかったマジで

私は、アルコール依存症だ。

断酒して5年が過ぎ、もうすぐ6年になろうとしている。

本当にいろいろあった。

「お酒をやめて良かった」と思っていることはもちろん、

「依存症になってよかった」と思っている。

 

そんなわけねーだろ、と思うだろう。

5年前に未来の自分がタイムスリップしてきてそんなことを言いだしたら、私も「なめてんのかコノヤロウ」と確実に殴りかかっていると思う。

それくらい信じがたい、心境の変化だと言える。

 

お酒というドラッグの要らない世界

お酒を嗜む人からすれば「お酒を飲めないなんてかわいそう」と思うだろう。

私は飲んでいたころそう思っていた。下戸の人を、可哀想だと思っていた。

私は断酒してから、よく「人生の半分損してる」とか「楽しみが減って可哀想だね」とか言われた。

全然かわいそうじゃないから、安心してほしい。

むしろ飲んでいる人のほうが可哀想だ。人生の半分がお酒なんかで占められているだなんて、昔の私みたいですね、と思って逆にマジで可哀想だなと思う。いやまてよ、私は9割がお酒だったわ、レベルが地獄で草。多分昔の私よりはかわいそうじゃないわ。

お酒を飲んでいるときは、アルコールでラリっているので、脳がドーパミンによって「楽しい」と勘違いする。いわゆるキマっている状態だから、その場の状況を錯覚する。

この間シラフで職場の食事会に参加してみたが、びっくりするほどおもしろくない場だった。

仕事の愚痴ばっかりだし、大した話もしていないし、知的な刺激が全然ない。それなのに1時間も着座して話を聞いているのが、とてつもなくしんどかった。こんなしんどいこと、そりゃ酒でも飲まなきゃやってられねぇよな。どんなもんなのか試しに行ってみたけど、途中で帰った。もう行かないだろうな。

今私にお酒が要らなくなったのは、お酒が無くても楽しいからだ。いや、むしろ無いほうが楽しいからだ。

お酒を飲んでいたのは、人生がつまらなすぎたから。早く終わりにしたい、でも終わりにできない、という絶望を少しでも紛らわせるには、薬物が必要だった。私が合法的に手っ取り早く仕入れられるドラッグが酒だった。ただそれだけ。

生まれた国が違って、モルヒネやコカインやヘロインが手に入る環境なら、それに手を出しただろう。

違法か合法かなんて関係ない。記憶をぶっ飛ばせればそれでいい。仮死状態になれるならなんでもいい。そんな感じだっただろうと思う。

現実が嫌すぎて、何かで紛らわせていた。その必要がなくなった。その変化は何だろう?

 

余計な荷物がなくなった

私は余計なものをたくさん抱えすぎて、歩くのもしんどくて、でも歩くしかなくて、酒を浴びるように飲んだ。

余計なもの、というのは、私の心の中にあるゴミのような価値観と強迫観念だった。

「親の期待に応えないといけない」そうしないと愛してもらえない

「いい大学やいい会社に行かないといけない」そうしないと愛してもらえない

「一流のビジネスマンになって活躍しないといけない」そうしないと捨てられる

「善良で正しくなくてはいけない」そうしないと愛してもらえない

全部、そんなことはなかった。

 

親の期待は勝手に親が持っているだけで、別に応じる必要はない。

親になってわかったが、正常な親は、子供が元気に自分らしく生きていさえすればそれでいい。

恩返しも必要ない、生まれてきてくれただけでもう十分に親孝行だから。

私の親が異常だから、私をコントロールしたかっただけで、私は親の顔色を窺う必要など全くなかったことが分かった。

なので、この思い込みは余計だったから捨てた。

 

 

いい大学、良い会社、一流のビジネスマン。

そんなものは何の価値もないことが、自分の頭で考えて物事や社会を観察していたらわかった。

使い潰しやすい人的資源を確保するための、政府や企業にとって都合がいいブランドイメージだ。本質的な価値はそこにはない。

だって、本当に価値を測れるなら学歴と職歴が輝かしい人はみんな素晴らしい人格者のはずじゃん。

でも実際は違うよね?みんなも薄々わかってるでしょ?

良い大学を出ていてどんなに優秀な成績を収めていてもクズみたいな人間はゴマンといる。優秀とされている官僚や政治家や医師が、このコロナ騒動でどう立ち回ったかをみてみてよ、一発でわかるでしょうよ。

一流のビジネスマンは私からすると「詐欺がよくできるだけのスーツ野郎でしょ?」というイメージ。

ビジネスとは所詮騙し合いの椅子取りゲームであり、それが人より得意なだけ。ゲームの得意不得意は人間性や人間的魅力とは相関しない。

私はクズや詐欺師にはなりたくない。だから、私にとって追いかける価値のない物差しだとわかった。

これも余計だったから捨てた。

 

 

善良さ、正しさ、というのは自分の良心で判断するしかない。

それを「他人に○○と思われよう」としている時点で、そもそもズレていた。

私は大いにズレていた。

他人が思う善良さや正しさは、他人の物差しであって、それは他人の数だけある。そんな千差万別のものさしすべてに対応するなど不可能。つまり、全員に好かれ評価されることなんて、できるわけがないってことだ。

自分を否定されて傷つくのが怖いから、他人に悪く思われたくなかっただけだ。

裏を返せば、傷つかなければいいだけだった。

他人は私のことをそんなに真剣に見ていない。表面を切り取ってあーだこーだ言っているだけだ。または、自分の内面を私を鏡に使って映し出して何かを言っているだけだ。

だから、他人が下す私の評価というのは、とるにたらない。勘案するに値しない。そんな大した影響力の無いもののためにオドオドしながら顔色を窺って生きるのは、とてももったいない。

言いたい奴には好きに言わせておけばよい。それで私の価値は一ミリも棄損されない。

これも余計だったから捨てた。

 

 

ぜーんぶ、私が大事だと信じていた価値観は、余計だった。だからぜーんぶ捨てた。

そしたら、とても身軽になった。

ちゃんと自分の心の声が聞こえるようになった。

今まで余計なゴミに埋もれて聞こえなかっただけだった。

私の心は死んでなかった。ちゃんと叫んでいた。叫んでいたのに気づかなかった。だから心が病んで動けなくなったのだった。

自分の心の声をちゃんと聴くようになったら、やりたいことや楽しいことや嬉しいことがなんなのか、わかるようになる。

そしてそれを素直に聞いて、素直にやっていれば、私は私をどんどん好きになるし、世界もどんどん輝いてみえてくる。

やりたいことをやれる世界。楽しいことや嬉しいことに満ちた世界。

そんな世界を、薬物キマってぼんやりした脳で過ごしたくない。もったいなさすぎる。ちゃんとクリアな五感で楽しみたい。酒?そんなもん飲んでる場合じゃない。

だから、私にはお酒が要らなくなった。

というか、私の世界から無くなった。必要ないから。

 

依存症という宝

私は、酒を憎んでいるわけでは無い。

むしろ、地球上にあってくれてありがとう、と思っている。

私のためにあったのだとさえ思う。

だって、酒に頼って失敗しないと、私は本当のことに気づかなかったから。

私は酒でごまかして生きてきて、運よくしっかりうまくいかなかった。大きな挫折と痛みをもらった。

上手くいかなくて悩んで苦しんで、運よく死なないうちに問題に向き合うチャンスをつかんだ。

「自分の力だけではどうにもならないことがある」という事実を知るチャンスを。

それほど、酒をやめる前の私は傲慢だった。

成績も、業績も、年収も、他人からの愛情も、人生も、全部コントロールできると思っていたのだから。

なんてやべーやつなんだ。そんなんできるわけないだろ。

努力次第でなんとかなる、今評価されないのは自分がまだまだだからだ、と信じていたので「もっと頑張らなきゃ」「もっとちゃんとしなきゃ」と思っていた。

あのねー、そんなに人間万能じゃないんよ。

頑張ったってたかがしれとるし、ちゃんとできないことだってあるんよ。人間だもの。

私はたまたま、ちょっと受験勉強ゲームで点数が取れて、ちょっと運動できる体だったから勘違いしちゃってただけで、人間はどれもこれもが本来どんぐりの背比べ。大した差など無いし、個体ごとに多少能力値に差があるのはしかたがない、埋めようがない、努力は万能じゃない。自分を買いかぶりすぎただけ。

たまたま受験できるだけのお金が出せる両親のもとに産まれた幸運。

たまたまお客様が契約してくれたから業績が出た幸運。

たまたま五体満足に生まれてきた幸運。

ていうか、この時代・この国に産まれたという幸運。

全部、運である。実力は運である。

たまたま運がよかっただけだ。自分の頑張りは、たまたま生まれた結果を後付けで自分の功績だと解釈したにすぎない。

プロスポーツ選手にしても芸術家にしても、たまたまそれに没頭できる環境と、たまたまそれを上手にできる才能があっただけだ。全部、運です。

だから、やれることはそりゃやるけど、なるようにしかならんし、そもそも何かで結果を出すのは遊びであって、人生の本筋じゃないから、楽しくないならやらんでいい。

前の自分より、上手くなりたい、かっこよくなりたい、それがおもしろいからやるんだよ。

あくまでも比較対象は過去の自分。他人じゃない。他人は違う宇宙。前提が違うから比較しようがない。

それで一喜一憂するのは、走り幅跳びの選手がマラソン選手に100m走を挑んで勝った負けたと嫉妬したりマウント取ったりするのと同じくらいくだらない。

好きなように走り幅跳び楽しんで極めりゃいいじゃないの。

自分が楽しいことを極める。人生はそれだけよ。

 

 

何でもできるわけじゃない。

人それぞれに長所も短所も違う。

 

私はそんな当たり前のことも、競争社会で洗脳され過ぎて忘れていた。

とにかく競争で勝って生き残らなくちゃいけない。だから頑張らなきゃいけない。

テメェの人生は仕事かよ。全然つまんないよそんなの。そりゃ飲むよね、っていうね。

他人にとって当たり前のことが、私にはできない事もある。それが当たり前で、それでいい。

だから誰かと比べて自分を嫌いになる必要なんてなかったし、できないことは悪いことじゃなかった。

できないのに助けてと言えない、私の弱さが、私を追い詰めていただけだった。勝手に苦しんでただけ。独り相撲ってやつです。

 

弱くていい、ダメでもいい、他人を頼ってもいい、他人のために生きなくてもいい、私は私で良い。

そういうことに気づくために、私は依存症という病気が必要だった。

 

この病気が無かったら、私は私の生き方に何ら疑問を持つことなく、そのままおじいちゃんになって死んでいただろう。

そう思うと心底ぞっとする。ずっと「なんでこんなに楽しくないんだろ?でも満たされているはず、私は幸せなはず」と自分を誤魔化し毎日毎日小首をかしげながら、せっかく与えられた時間をクソつまらん競争に投資して、後悔しながら人生を終える。

そんな世界線もあったわけだ。その悪夢のような世界線から、私を分岐してくれた依存症。

ああ、依存症のおかげで、私は一度死に、もう一度生きるチャンスを与えられたのだ。

だから、私は本当に心からこう思う。

依存症になってよかった、と。

うらやましかろ^^

【仕事】起業とか転職とかいろいろ思うこと

おそらく今いる会社には、そう長くはとどまらないと思う。

 

生きていくのに必要なお金を調達できさえすればいいので、組織内でのキャリア形成や社会的評価はどうでもいい。

私はやはり、組織で働くのは向いていないんだろうなぁ。

というか、雇われて働くのが向いていないんだろう。

そうなると、自分で事業を興すしかない。

なので、個人事業主に妻をたてて副業をスタートしたわけだが、今までの年収をカバーしようと思うと、かなり時間がかかりそうである。

 

機能不全家庭に育って、高学歴高収入を目指せと言われ、言われたとおりにレールの上を走ってきた。心を殺して無理をしながら。だから依存症になるほど心が追い詰められていった。

資本主義社会・学歴偏重主義社会にありがちな、典型的な量産型歯車要員。

現在の年収や待遇は、おそらくこの日本ではかなり恵まれていて、生活には全く困らない。家族を養っていける。

しかしこのまま良心の呵責を無視して勤め上げられるほど、私の心は鈍感ではない。

私の人生は、歯車として摩耗するためにあるような、無価値な代物でもない。

 

残念ながら、特に何か秀でた技術や才能があるわけでもない。

コンプレックス克服のために苦手な営業職にあえて突っ込んで行った結果、向いていない営業のスキルばかり身について、何か他に活かせるかというと、正直頭を抱えてしまう。

人生にタラレバはないので、ことこの期に及んでは今のパラメータで市場価値を示すしかないわけだが、これがなかなか難しい。

手に職、というのは実に羨ましく私の目には映る。輝いてみえる。

しかし無いものはない。しかたがない。

 

資本主義経済において市場価値のある私の特性とは何だろう。

プレゼン資料の構成・文章力には多少自信があるが、chatGPTには及ばない。先に触れた技術にしても、作曲・作詞・翻訳・ライター・SE・イラストレーターなどは、今後AIの台頭によりレッドオーシャンになるに違いない。私がこれからライターやブロガーとして生きていくという選択は現実的ではない。

対人関係構築は、ノウハウこそ知っているものの、おそらく不得手な部類だ。何より楽しくない。そんなに他人に興味を持てない。一時的に仲良くなっても、いずれ心理的にも物理的にも離れていく。

「疑り深くひねくれている」という短所の裏返しで、「課題の本質を自分の頭で深く考える」という特性がある。

これは、おそらく人工知能ではできない。なぜなら、AIは人間が明確な課題を提示しなくては答えを出せないから。潜在的な課題の抽出とそれに至る着想、人のなかの見えない想いを整理して可視化・明確化することにおいて、私は長けていると思う。活かすとしたらここだろう。

だからこそのカウンセリング事業であり、かつ対人援助の表に立たないアドバイザー的な在り方が最も向いているポジションだと思う。

逆に妻は、対人関係構築がとても上手で、境界線を守りつつ長く良好な関係を維持することができる。良い意味で楽観的、反面深く考えない。全く正反対の二人だからこそ、良いタッグになる。

 

私一人でなんとかしなくてもいい。

私に足りないところを、妻が補ってくれて、妻にかけている部分を、私が補う。

なぜか妻とは「全く違う」からこそ興味が尽きないし、尊敬し続けることができる。

そうであればこそ、私は苦手な他人との協業にもかかわらず、妻とだけは事業を運営していける自信がある。

 

とはいえ、軌道に乗るまでは、私のWワーク状態は続いていくだろう。

シリコンバレーバンク銀行の破綻。これはおそらく世界恐慌になる。西側諸国主導の経済システムは、もうそろそろ終わる。

そうなると、グローバルユダヤ資本の傘下である日本の大企業の多くが、近々大規模なリストラを国内でも始めるだろう。経営の観点で最もコストがかかるのは人件費であり、人員削減は株主にとって嬉しい経営判断であり、株価を下げたくない雇われ社長は必ずその決断をどこかでする。

私はできるだけ多くの退職金を得られるタイミングで希望退職者に手をあげジョブチェンジしなくてはならない。これは確定事項である。

そうなったとき、既存の産業構造のなかで、私は今何ができるのか。

 

西側諸国の経済システムが終わるとなると、テック系はもうダメだろうと思う。

シンギュラリティ、メタバース、トランスヒューマニズムなど、グローバリストが思い描いてきたグレートリセットは、残念ながら実現しない。

メタの大規模人員削減は、メタバースの開発スタッフが中心だったことからも、彼らの青写真は崩れかけていると感じる。

もちろん医薬品業界・医療業界も、このコロナ詐欺で産業としては成り立たないほどに信頼を失うだろう。コロナワクチンの薬害による疾病の増加でがん・神経変性疾患・心血管疾患・精神疾患の領域はしばらく潤うだろうが、その後は焼け野原になるとみている。

介護業界は今度の介護報酬改定で厳しい予算案が通る予定だ。3~5年激務なのに薄給という悪夢のような状況のあと、コロナワクチンの薬害で高齢者はほぼ死に絶え、利用者すらいなくなるだろう。後遺症で心身を痛めた人々は介護を必要とするだろうが、元気に働ける介護職は減ってしまう。限られた人数で対応するなど不可能な阿鼻叫喚が生まれる。しかしそれでもこの国が今更、報酬を手厚くして介護職の人員を確保し、政府としてケアに力を尽くすことはないだろう。この国はそんな善良な国ではない。

コロナワクチンによる不妊化で、少子化はますます加速する。なので、教育・児童支援の業界も、先細りになる。

学校教育などは、もうすでに奴隷養成所であり、そこで働いている教員ももはや限界を超えた劣悪な労働状況でリタイア寸前なので、仕組み的に続くはずがない。前時代的な詰め込み式の教育や、プログラミングを共通テストの必修科目に今更、しかもこれから導入しようとしている時点で笑ってしまう。

児童支援は、先細りするにはするが、神経発達症・不登校・いじめ・自殺企図など、ますますニーズは高まるだろう。

しかし、この狂った社会常識に盲目的に従うような愚かな大人が問題の本質だ。彼らを中心に構成された家庭環境・学習環境が地獄すぎる。生まれた時から周りがすでに終わっている。

抱えている問題の真因が子どもではないからこそ、ある程度年齢を重ねてしまってからのソーシャルワークの実践は、かなり複雑かつ困難を極めると思う。というか実際現場でそんなふうになっている。はたで見ていて、本当に大変だな、と胸を痛めるほど。

そうなると、せめて未来ある、まだ幼い子どもたちだけでも、手を差し伸べたくなる。

このディストピアで自分らしく生きていけるような居場所を彼らに提供することこそ、本当に世界にとって価値ある行いだと思われる。

大人はもはや救いがたい。腐ったミカンは元には戻らない。他のミカンが腐らないようできるだけ避けておくしかない。

やっぱそれだな。

 

正直、依存症は、支援をやっていてぬぐえない徒労感を感じる。対症療法的でしかないことに、虚しさを覚える。

健全な大人になれなかった大きな子どもをいくら手当てしても、世代間連鎖はすでに継承されていて、キリがない。絶えず来る相談を受けてアプロ―チしていると、承認欲求は満たされるし、やっている側は救ってる感で充実するだろうが、自己満足に過ぎない。際限がなさすぎるのは「社会そのものが狂っている、だから順応なんてしなくていい」という大前提があるからで、それを鉄板の共通認識にしない限り、いつまでも誰もかれもが病み続ける。

私を含めた今の大人たちが盛大に「失敗」したこと、そのせいでこんな狂った世の中になっていることを隠して、偉そうに立派な振りをして居座り子供たちに場所を譲らないから、また同じことの繰り返しになる。

いずれ信用を失う政府とマスメディアと連帯した、既得権益のリソースを通じてやってしまった時点で最初から根本的にダメだったんだよ。それはもう認めるしかないよ。すみませんでした、というところからスタートじゃないかと思う。

もちろん、先人たちの取り組みのおかげで成り立ってきた様々なことがあり、それに対してはとても感謝している。

でも、古代ギリシャ哲学や東洋哲学ですでに優れた生き方の見本が示されていたにもかかわらず、教育からすっかり抜けていたのは、許されざる過失だ。それを思うと、大戦から高度経済成長期にかけてうつつを抜かしたアホすぎるご先祖には、どうしても呆れずにはいられない。命ともいうべき人生哲学を忘れさり、物欲と名誉欲に夢中になってしまって、大事なエッセンスを後世に継承できなかった事実。それがヒラメきょろめ同調圧力MAXの、さもしい日本人の劣等性なのだと思い至るに、深い諦観を覚える。なんかこんなしょぼい国に産まれるなんて結構ハードな運命だな、と思うよね。(笑)

国民性なら、もうそもそも無理じゃね?とも思うことがある。

特にマスクもろくに外せない今の状況をみると、何もかもやるだけ無駄なんじゃないかとすら思う。

 

しかし、希望を捨てきれない。他ならぬ我が子の輝く姿が、そうさせない。

日本社会はこんなにもゴミなのに、大人たちはこんなにもクズしかいないのに、プロパガンダと奴隷教育に洗脳される前の子どもたちの眼の光、なんと美しいことか。

やはり彼らに関わるしかないと思えてくる。本当に唯一の希望。

書いていて思ったが、私は給料が低かろうが、他人に馬鹿にされようが、児童福祉支援、特に保育のフィールドでこそ、生きる意味を見出せるのではないかと思う。

まだ幼く凝り固まっていない、ちゃんと自分の頭で考えられる幼少期に、依存症にしても哲学にしても世の中の狂気にしても、まだ吸収できる余地がある。共同身体性と感性を養う、いや、養うというより、彼らがまだもっているそれらを守る、そのチャンスは療育者によって与えられるべき当然の栄養だと思う。

保育士はやはり取ろう。

おそらく私は変なので既存の組織には受け容れられないだろうから、いずれは自分でエピクロスの園のような認可外保育施設を立ち上げるしかなくなるだろうが、今の会社を離れなくてはならない状況になったら、経験を積むために保育施設や児童福祉支援施設で働こう。そうすれば実務も内情も、知らない部分も見えてくる。

うん、これだ。やはりこれだ。

それまでに、保育士を取って、副業を軌道に乗せて、ダブルインカムで子どもたちが好きな国に留学できるくらいの資本力を維持できさえすればいい。

物質的に欲しいものなどもう無い。家も両親が近々コロナワクチン後遺症で死ぬだろうから、本家と分家の2軒空くので最悪あてはある。

マイナンバーカードの激推しの背景には、超監視社会を構築する意図があるのはもう皆さんご存知の通りである。

日本は愚かなので、おそらく西側が倒れるにもかかわらず、世界から取り残されて、ある程度までディストピア化は進んでしまうだろう。そうなると有事を理由に捕捉された財産は取り上げられる危険性が高い。だから所有する財産を守るためにも、負債を抱えることだけは避けたい。

なぜなら、個人が負債を抱えていれば政府が抵当権を行使して、マイナンバーで捕捉できていなかった財産を合法的に取り上げられるから。その後、働く自由を奪われてベーシックインカムで飼われる奴隷に成り下がることになる。このタイミングで新築物件を買い住宅ローンを組むなど自殺行為。できる限り借金は今すべきではなく、資産を政府に捕捉されるべきではない。

そう考えると、現時点で設備投資や初期投資はできないので、虎視眈々と耐えて、時期を待つしかない。

おそらくこれから起こるであろう「台湾での戦争」あるいは「自然災害」で緊急事態条項を発令し、全体主義の最終仕上げに乗り出した後だ。

どうせそれは失敗に終わり、巨大なカタストロフのあと、小さな共同体、その土地ごとの「空き地」ができる。

そのときこそ、夢を実現するタイミングだと思う。

それまで、信頼できる人との繋がりを大切に、自分たちで生き抜く生活の知恵を学び実践し、クソくだらない社畜のふりをしながら、今を楽しんで生きていく。

それが、いずれ経済が崩壊した後に、何物にも代えがたい本物の財産となる、

【哲学】楽観的虚無主義のススメ

諸行無常

世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。 人生は、儚く虚しいものであるということ。

諸法無我

全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないということ。

 

『徒然草』『方丈記』を読んでいて、やはりこの世は虚無なんだろうな、と思う。

人の負の感情は、この世に期待しすぎていることから生まれている。

 

対人関係において。

「当たり前だ」と思う心が、今目の前にいる存在への感謝を忘れさせる。

感謝を忘れて、不満を抱えるのは、自分の心。心のありよう次第。

自分の思い描いたとおりに、他人は動かない。それこそが当たり前。

期待とは自分の勝手な思い込み。

信頼を裏切られた、と私たちはよく感じるが、そもそも人間は信頼できるようなつくりをしていない。

いい加減だし、気分で言うことは変わるし、ズルくて残酷で、基本的に終わっている。

信頼に値しない存在として過度な期待をしないでいれば、善行に心から感謝できる。

 

組織において。

基本的に、行政官僚制組織は腐敗する。

損得マシーン・法の奴隷・言葉の自動機械。

終わっている人間が、さらに終わった人形に成り下がるシステムに取り込まれているのだから、もう期待のしようがない。

資本主義経済のこの世では、会社は営利目的の詐欺団体であり、政府は既得権益の保存機関であるのが、むしろ自然なレゾンデートル。悪であることが当たり前なんだと思う。

だから、善良な人ほど仕事は疲れるし、しんどい。悪を行なっているから。

わかりやすく稲盛和夫の『生き方』を読んで、尤もらしい顔をして「人として成長するために仕事がある」などと鼻息を荒くしていた20代。

当時を思い出すだけで恥ずかしくて穴があったら入りたい。

資本主義社会での仕事は、単なる暇つぶし。金のためにやることで成長することなど無い。

この虚しい世から目を背け何とかやり過ごすための、奴隷としての精神が培われる。

つまり「調教」されることはあるだろうけれど、いずれ本質的な生の概念に近づくと、本来の姿である毒に裏返る。自分を騙し続けて「生きづらさ」として抱えた負債は、心身の病となってあわられる。

仕事に正義や愛を求めることは、悪質な高利貸しに募金を求めるようなものだ。

どだい、無理な話である。

だから、会社に、仕事に期待をしなくなった。

企業が利益追求の巨大な捕食者であるという「変えられない事実」を認め、組織本来の存在定義を受け容れ、共存する方法を模索する。

私にとっての悪もあってのこの世。

悪をときには利用し、ときには遠ざけて。

かつて人類が「火」を手にしたように。

欲望の傀儡と化した営利組織という集合体と、智慧ある私たちのほうが、距離とバランスをとっていくよりほかはない。

彼らの在り方は変わらないし、私たちは生きていきたいのだから。

生まれた瞬間から、子々孫々にわたっての共犯関係である。

 

家族において。

そもそも、無理なことをしているという自覚はとても重要である。

人間は基本的に相容れない。

それなのに、同じ屋根の下譲り合って暮らしている。それはまさに奇跡である。

力を合わせて生活を成り立たせている。

相手がいるのは当たり前でなく、家族がいることは当たり前ではない。

我が子が存在することももちろん当たり前ではない。

今のこの瞬間は、偶然にも与えられた非日常である。

だから、洗濯物を取り込むこと、ゴミを出すこと、皿洗いをすること、どんな些細なことも、すべてが本来自分でやらなくてはならなかったことで、やってくれただけで感謝しかない。

金を稼いできているからといって「家事育児は妻がやって当然」などと言うのは、とても愚かな考えである。

パートナーがいるから、生活が維持できている。いつ離れても不思議ではないのに、なぜか一緒にいてくれている。それが本来だが、当たり前だと思い込んで、感謝を忘れる。

お互いに損得と使役の関係になったが最後、それは小さな行政官僚制組織になり果てる。

つまり、クズの巣窟となる。

崩壊(離婚)するのは、当然の帰結。なぜなら、行政官僚制を布いた時点で、マックスヴェーバーの予言を再現するだけ。つまり「破綻」は運命づけられている。

 

いずれすべてが無に帰す

 

何もかもはコントロールできない。

自分自身すら、思い通りにはならない。

できることを、精一杯するだけ。それで100%である。

結果を期待しない。そして、恐れない。

自分のまごころが善だと感じることを、ただただ行うのみ。

本来それだけで、尊くて美しい。

それ以上のなにかは総じて虚飾である。不純物であり、オマケであり、娯楽である。

善行という生の本質から離れることなく、浮世の遊びとして楽しむ程度がよい。

借りものの身体を通じて、魂が震える体験をするための享楽。

その享楽にのめり込み過ぎて溺れると、苦しみと悲しみの多い人生になる。

エビデンスも法律も、しょせん言葉遊び。

良心だけが、唯一の羅針盤である。

この世界の計り知れない大きな流れに身を任せる。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

【メンタル】神経発達症のためのライフスキル「言いにくいことを伝える配慮」

私は他人に言いにくいことを伝えるのが下手である。

理路整然と話をまとめる技術と、伝わるように伝える技術は、全く違うベクトルだ。

論理的に構成がきれいでも、人間は機械ではないので、受け取り方は様々だ。

いくら理屈っぽく正しそうな話をしても、気持ちが伝わらなければその言葉は無駄になる。

では、どうすれば伝わるのだろうか、伝えたい思いをどう言葉にすればいいのだろうか。

その答えに近いものを発見したので、書き起こしてみる。

 

妻は、伝えるのが上手だ。

私は少なくとも警戒せずに聞くことができる。

多少耳が痛いことを言われても、心の扉をとじないで落ち着いて耳を傾けることができる。

それはなぜなのか、彼女の話の組み立てを分析してみた。

そして、以下の法則があることが分かった。

 

■言いにくいことを他人に伝えるときには話す順序がある

①感謝を伝える

②「助けてほしい」「困っている」と投げかける

③歩み寄り:こちらで対応可能な範囲を提示する

④提案:相手に「してほしいこと」を明確にする

⑤御礼:「話を聞いてくれてありがとう」「話せてよかった」

順番に解説していく。

 

①感謝を伝える

まず、「いつも有難いと思っている」「あなたがいてくれて助かっている」ということから話を始める。

私が今まで体系的に理解してきたビジネスコミュニケーションとは異なる。ビジネスシーンでは結論から話すことが最善とされているが、これは言いにくいことを伝える際には逆効果になる。

いきなり受け入れがたい要求をバーンと提示されると、人は必ず身構える。その瞬間から、私が話す言葉はもう相手の心に届いていない。耳を通過して右から左に流れていく。相手は、どう断ろうか、どう切り返そうか、を頭の中で考えているから、聞いていない。

まずは、私と相手の関係が大切で、私にとってはかけがえのないものだ、という共通認識を持つことからスタートするのがよい。

対話できると信じているから話をするし、大切だからこそ言いにくいことも伝えようと思う。

それを相手に伝えるには、感謝を言葉にすることが重要だ。

 

②「助けてほしい」「困っている」と投げかける

「Youメッセージ」と「Iメッセージ」というのがある。

「Youメッセージ」は「なんであなたは○○なの?」とか「どうしてあなたは○○してくれないの?」と主語が相手になる話し方。

「Iメッセージ」とは、「私は○○だと感じている」「私は○○で悩んでいる」という「私」を主語にした話し方。

「Youメッセージ」では話すと、相手は独断で断罪されているように感じる。境界線を侵害された痛みと混乱で防衛本能が働き「違う、そうじゃない」「私だって○○なんだ」と反発する気持ちが生まれる。

「Iメッセージ」で伝えられたとき、相手は自分を否定されているとは感じない。「ああ、あなたはそうなんだね」と思いながら落ち着いて言葉を受け取ることができる。

相手に言いにくいことを伝える、というのは、何か問題が起きていて、それを解決したいからコミュニケーションを取ろうとしている状況だ。

責任の所在は置いておいて、話し合ってその問題を解決することが対話の目的だ。

したがって、相手を責めても仕方がない。自分が過剰にへりくだっても仕方がない。

「悩んでいる」「困っている」「助けてほしい」その主体はあくまでも私だ。

「私は○○だと、とてもつらい気持ちになる、それで困っている、あなたの力を貸してほしい」

という具合に、まずは抱えている困難は何なのか、Iメッセージで伝える。

そうすると、相手は私がどんな状況で何に困っているのかが、抵抗なく理解できる。

 

③歩み寄り:こちらで対応可能な範囲を提示する

さて、困った状況をどうするか、に言及するフェーズだが、焦って④に行ってはいけない。

その前にやることがある。

それが「これからも良い関係を続けていきたい」という意思表示だ。

「歩み寄り」である。

相互の対等な関係である以上、こちらもできる限り相手に寄り添った形で着地点を探りたい。

私と同じように、相手にも権利と自由がある。それを最大限尊重し合って、お互いに納得できる妥協点を探すのが、コミュニケーションの基本原則だと思う。

一方的にこちらに有利な条件を飲ませよう、というのは、不誠実だ。コントロールであり、過干渉であり、傲慢不遜な相手に対する攻撃である。

私たちが争いたいのではない、話し合いたいのだ。

「これからもあなたとの関係を大切にしていきたい」

「だから、私としては現段階でここまでならできる、こういう工夫ならできる」

「逆に、○○は難しいと感じている」

と、今発生している問題に対して自分ができる事・できない事を提示する。

 

④提案:相手に「してほしいこと」を明確にする

そのうえで、自分の範疇を越えた、相手にしかできない事を、「してほしいこと」「教えてほしいこと」として提示する、または意見を求める。

「○○のとき○○をしてほしいと私は思うんだけど、あなたとしてはどうだろう?」

「○○なとき私は○○な状態にしたいんだけど、あなたはどう考えているか教えてほしい」

という具合だ。

相手ができそうだと感じるか、難しいと感じるか、尋ねる。

どの範囲までなら協力を得られるのか、教えてもらう。

それで初めて着地点が見えてくる。

もちろん、当初期待したほどの協力を得られないかもしれない。してほしかったことの100%は叶わないかもしれない。

でも、そもそも元の状態を考えてみよう。

相手が全く協力してくれないなら、それは0%。もともと0%だったのだから、協力してくれるというのはそれだけで有難いことだ。

私もあなたも、無理なく継続していくために、お互いが実現できる「協力」がそれぞれなんなのか、お互いに手札をすべてテーブルにさらして検討するのである。

一定の協力が得られないと達成できない事なら、現状二人だけでは達成できない、という結論を踏まえて、別の話し合いになる。

具体的にいえば、結婚生活の継続が達成できないようなら、離婚を視野に入れて関係の在り方を模索する、夫の協力が得られず子育ての継続が達成できないようなら、別居し実家に帰る・お金を払ってシッターなどの民間サービスを利用検討する、などである。

 

⑤御礼:「話を聞いてくれてありがとう」「話せてよかった」

結論は出ないかもしれない。

それでも、時間を取ってお互いの意見を交換することなしに、事態の改善を模索することはできなかった。

相手がいて初めて成立する「対話」という機会を設けられたことに感謝する。

「話を聞いてくれてありがとう」

「話を聞かせてくれてありがとう」

「あなたと話せてよかった」

そういう感謝の言葉で会話を締めくくる。

議論が平行線だったとしても、関係が大切なことには変わりない。その気持ちが相手に伝わる。相手は少なくとも「もう二度と話したくない」とは思わないだろう。

話し合いの機会が持てることは、こちらにとって有難いことであり、相手なくしては叶わない。

 

まとめ:私も相手も大切

全体の工程を通じて共通するのは「自分と相手を尊重する」という姿勢だ。

私の意見も大事。でも相手の意見も大事。

共同生活を送るためには、調整する必要がある。だから話し合う。

基本的に人は独りでは生きていけない。

だから、他人の存在には常に感謝と礼節をもって対応する。

かといって「他人がいないと何もできないのだから、ヘコヘコして機嫌を損なわないように無理をしなくては」というのは、違う。

なぜならそれは、自分を蔑ろにしているからだ。

自分も、かけがえのない大切な存在で、相手だってあなたがいないと困るのだ。あらゆる人は、老若男女問わず完全に対等である。

私は永らく、他人なくして生きていけない自分の脆弱さが許せなかった。

そんな弱いことだから他人と関わらなくては生きていけないのだ、苦労して他人のご機嫌取りをしないといけないのだ、人間になんて生まれなければよかった、来世は石になりたい…などと何度も何度も思った。

何かを成し遂げても誰かのおかげ、生きていることすら他人のおかげ、何もかも全部自分の実績として誇れず、誰かに感謝しながら生きていかなくてはならないのか、重すぎるよ他人の恩…それならいっそ死にたいよって感じだった。

でもどうあがこうと、私は弱いのだった。それはもうどうしようもないことだった。

そして安心したことには、他人も一様に、私と同じように弱いのだった。

全員弱い。

強そうに見える人も、偉そうにしている人も、誰でも他人がいないと生きていけない弱い生き物であることに変わりがない。

だから、ひとりで何でもできるほど強くなくていい。それは私も他人もそうだった。

なーんだ。

誰だって持ちつ持たれつだったんだ。

自分だけで生きていくなんて、人類には不可能なんだ。

だったら恥ずかしがったり負い目を感じたりすることないじゃないか。

そう思って一気に心が軽くなった。

お互いに対等な弱い存在。だから力を貸してくれるなら心の底からありがとうだし、力を貸せないときも「弱いんだからしかたがないよな」と許せる。

基本的に自分が生きるだけで精いっぱいの弱い存在が、何とか肩を寄せ合って生きている。

そういう認識で改めて振り返ると、対話というモノの尊さと有難さをしみじみ実感する。

【AC】「他人の言動を悪くとらえてしまう」という悩み

私の話である。

私は他人と話していて、その言動の裏を勘繰る癖がある。

これは、機能不全家庭で培われた歪んだライフスタイル、ACとしての恐れと不安によるものだ。

言葉の通りに受け取ってきて、痛い目に遭ってきた経験に裏付けられた悪癖。

ADHD・ASDとして、相手の言葉をそのまま受け取ってきたが、多くが言葉通りの意味では無かったり、あとで真意を聞かされて混乱したりしてきた。

そんな私は幼い頃、クラスメートに「変なやつ」扱いされ、爪はじきにされてきたと感じていた。

両親は何かを決めるとき、いつも「自分で選んでもいいのよ」と口では言ったが、常に彼らが選んでほしい選択肢が先に決まっていた。違う選択をした場合は、否定されるか落胆された。

なので、私は「自分で選んでもいい」という言葉の本当の意味は「親の私たちが思い描く正解を当てなさい」だと考えるようになった。

常に他人にとって違和感がない「正解」を当てなければ、思わぬ地雷を踏んで被害を被る。まるで戦場にいるような緊張感があった。

そういう歪んだ関わりと苦い経験に基づいて、私は「言葉をそのまま受け取らず、その真意をよく吟味して咀嚼してから行動する」ようになった。

 

しかし、このスタイルは私を生きづらくさせてきた。

今も健全な人間関係の構築を阻害している。

ACとして問題を抱えている、と思う。

私はこの問題を手放し、もっと率直にアサーティブに人と接することが必要だし、またそうしたい。

私の願いは問題解決だ。だから今回はこの問題について深く考えようと思う。

 

自分が敵だと思うから相手が敵に見える

たとえば妻は「基本的に他人は私に悪意を向けていない」という前提で他人と接する。

私とは逆のスタイルだ。

そして妻は私から見れば、仲間に囲まれ、善意と好意に包まれて幸せそうに見える。

本人も「そのほうが楽しいから」と問題を感じていない。

つまり、私にとっては理想的な関係性を構築している。

 

これは井上雄彦先生の『バガボンド』にも同じような描写がある。

それこそがお前の殺気 わし始め他人はそれを映す鏡にすぎぬ

今まで何人打ち殺してきたか・・・さぞかし多くの敵に囲まれ生きてきたことじゃろうな

だが それはお前自身が仕立てあげた敵にすぎぬ お前自身の殺気が出会う者すべてを敵にする

あと何人斬り殺す?そういうのは強いとはいわん 不細工じゃ

引用:『バガボンド』井上雄彦 第4巻「不細工」より 宝蔵院胤栄

武蔵が宝蔵院胤栄と初めて畑で出会った時のシーン。

胤栄が鍬をもって畑を耕していて、襲いかかってくるように感じて身を固くする武蔵。

そんな武蔵に対して「殺気が不細工」だと言う胤栄。

自分自身の殺気が、出会う者すべてを敵にする。

これはとても耳が痛い台詞である。

私は多くの他人を「敵」として捉えて生きてきて、不細工な殺気を纏ったこのときの武蔵のように、出会う者すべてを敵にしていたと思う。

妻は、出会う他人を「味方」と捉えて生きているので、自分にも相手にも「味方」に見え、実際にそうなっていく。

妻という存在、私という存在がその確かさを実証している。

私が他人を「敵」と捉えなければ、世界に「敵」はいなくなる。

ではなぜ「敵」と捉えることを私はやめられないのだろうか?

 

傷つくことへの恐れと不安

結論から言えば、他人を「敵」と想定して行動することに「メリット」があったからである。

他人を「本当のことを言わない、油断すれば加害を加えてくる脅威」として認識しておくことで、どんなメリットがあっただろうか。

・親の機嫌を損ねずに済んだ、そうしていれば親から愛されないかもしれないという不安を感じなくてよかった

・いじめなど、うかつに信用して危害を加えられることを未然に防げた、同じような辛い気持ちを味わわないでよかった

つまり、今までに経験した出来事、それにともなう負の感情を再び味わうことへの恐れと不安が、私が最も避けたいことだった。常に猜疑心をもち、他人を敵と同定する思考方法により、それらを避けられる、ゆえに傷つく頻度を最小化できるという信仰があった。

この信仰は、当時の幼い私にとっては、自分を守るために最も有効でメリットのある対応の仕方だった。

それ自体を否定することはできない。するつもりもない。一生懸命生きてきた。生きるために必要な防衛本能だった。

 

しかし、その信仰は今も有効に機能しているだろうか?

今は有効に機能しているとは言い難い。いや、素直に認めよう、有効どころか有害である。

他人の言葉の裏にありもしない悪意を探して、勝手に勘違いして傷ついたり腹を立てたりする。とてつもなく不毛で、相手に対して失礼な態度を生み出している。

善意を悪意と勘違いして、不必要なほど距離を取ったり、アサーティブでない形で「牽制」という大義名分で言葉の加害を加えることが、人を遠ざける。結果、私の孤立を深めている。

いじめもそうだが、この世にあるのは事実ではなく解釈である。

当時にタイムスリップしてみないと分からないが、もしかすると、「いじめられていた」という私の解釈は、歪んでいたかもしれない。実は相手にはそんなに悪意はなかったかもしれない。あるいは予想通り悪意に満ち満ちていたかもしれない。

それは確かめようがない。そして過去は変えられない。人の本心はどこまでいっても永遠に分からない。

なら、あるのかないのかわからないようなものは「あった」と信じることも「なかった」と信じることもできる。

背景をどう規定するかは、私自身に権利と自由がある。

私は好んで「悪意がある」と信じるほうをとっているけれども、それは別の問題を生み出してはいないだろうか。

出会う人すべてを敵にして、孤独にさいなまれ、独りで何でもやろうとするのでしなくてもよい苦労をしていないだろうか。

 

「他人」という呪縛から自分を解放する

そもそも、他人とはそこまで重要な存在なのか?ということを再考してみる。

もっと言うと、他人の評価や、行動である。

 

まず評価から言及する。

他人のなかで自分がどう位置付けられたかは、私の価値に直接影響しない。心の中で馬鹿にされたり、あるいは裏で誹謗中傷をしていても、そしてその言葉を信じる人がいても、それは私の問題ではなく、他人の問題である。他人の解釈の問題であり、私が事実と認識しない限り事実ではない。

私は私らしく生きている限り、私は私であり、またそうでしかありえない。

「他人が私をどう思うか」が私自身に影響する、と信じているから、他者評価を重要視する。

なんら影響しない、と信じている場合は、なんの重要性もない。

つまり、他人の評価は私にとってどうでもいいことに分類することが可能だ。

 

では行動はどうだろうか。

不愉快な干渉や攻撃があれば、そのときに「それはやめてほしい」というだけでよい。

それ以外の行動の裏に、その因子を見つけ出そうとする努力は、しなくてもいい努力だと言える。

どれだけ注意深く他人を観察したとしても、分かることは限られている。そして、できる事も限られている。コントロールすることはできない。

悪いことをする人はどこにでもいるし、いつの時代もいなくならない。

降りかかる火の粉を降りかかったときに払えばよく、そんなに他人の一挙手一投足に注意を払わなくていい、ということだ。

引っかかることを言われたら「それってどういう意味?」と切り返す。

嫌なことをされたら「嫌なんだけど、やめてくれない?」と物理的に距離を取る。

そういう反射的な対応さえ身につけ実践すれば、成人した今では、そこまで困ることはない。

もちろん何も考えずただ信じる、というのでは、昨今の医療詐欺や食品詐欺を考えた人たちに私の大事な身体を傷つけられる可能性がある。

落ち着いて情報を調べ、自分の頭で考え、判断すればいい。唯一の自由である「意思」を他人に明け渡しさえしなければ、どう受け取るか、どう行動するかは、自分で決められる。

他人の行動はコントロールすることはできない。する権利もない。

相手が私をコントロールしようとすることも、止めようがない。

私には相手の不当な要求を拒否する権利があり、自由がある。

ただそれだけのことなのである。

だから、他人の行動は重要ではない。自分がどう行動するか、それのみが重要である。

 

まとめ

他人はそれほど脅威ではない、ということだ。

評価は勝手につけていればよく、行動も私の迷惑にならなければ特に干渉する必要もない。

脅威としての存在感が小さく、むしろ協力者としての存在感が大きいのが実際だ。

人は独りでできる事は限られている。

何かを成し遂げたいと思ったとき、力を貸してくれる仲間がいるというのは、とても有難いことだ。

私は極力他人を頼りたくないと思いがちだ。

なぜなら借りを作ることになるから。借りとは負い目である。何かの形で返さなくてはいけない、つまり心の負債となる。だから避けてきた。

しかし、よくよく友好的な人々を観察していると、どうやら見返りを求めないらしい。愛というのは見返りを求めない。

今まで私が受け取ってきたものは、本当は愛だったかもしれないのに、負債だと思って受け取っていた可能性がある。返す必要がないのに、返さなくてはいけないと思っていたということ。まるでアホである。

返さなくていいなら、どんどん頼ればよかった。苦しい、助けて、と言えばよかった。痛いなら痛いと言えばよかった。居たいなら居たいと言えばよかった。

なのにそうしなかった。それは私に「愛を受け取る勇気」がなかったからだ。「愛されるべき存在だ」と他ならぬ己自身が、己を肯定していなかったから。

私が助けを求めたとき、損得を考えず駆け付けて力になってくれる人。それが仲間であり、友達であり、そんな人には私も無償でできる限りのことをするだろう。

それが健全な協力関係で、実はそんなふうに弱さを曝け出して助けを求める勇気さえあれば、他人とは、最もありがたくて愛しい存在なのかもしれない。

そう思って感謝しながら生きていけるとしたら、それほど幸せな人生はない。私はそんな風に生きていたい。

だから、私は今、無償で力になりたいと思うことに力を入れている。ワクチン後遺症の支援や国内の農業を守る活動にも携わっている。そういう「助けて」に損得ではなく良心で手を差し伸べること。それが私が人との健全な繋がりを取り戻すために、まずやれることだ。

世界はどんな風に色を変えるだろうか。楽しみだ。

生きるのが楽しみだと思えるのは、今まで生きてきてなかなか味わったことがない感覚だ。

生まれてきてよかった。

 

【仕事】もう営業やりたくない

私はもう営業職を楽しいと思えなくなってしまった。

ものすごくつまらなくて虚しい。

14年間やってみて、私が本当にありたい姿ではなかったとわかった。

 

営業というのは、きれいごとをいくら並べようと売上がすべてである。

売上を上げるために、他人に要らぬ過干渉するのが仕事である。

良いものは自然に売れる。自然に売れないということは「どうでもいいもの」だからだ。

「どうでもいいもの」に価値があるかのように見せかけて、金を引き出すのが、営業の存在意義と言っても過言ではない。

自分の目的(給料や社内ポジション)のために他人を思い通りに動かそうというのは、実に浅ましい態度である。

もはや歩くコントロール欲求。コントロールを手放すどころの騒ぎではない。全身全霊でとらわれまくりである。

 

ある種のゲームとして、この仕事を楽しめる人は実在していて、そういう人種にとってはこのうえなくやりがいのある仕事なんだと思う。

手練手管を尽くして、数字というわかりやすいゴールに向かって試行錯誤し、報酬を勝ち取る。心の底では他人がどうなろうが知ったこっちゃないと思える自己中心性がないと、このゲームに没頭することは難しい。

横並びに比較されてランキング形式で競わされる。承認欲求を満たすために「成果出そうレース」に人生のリソースのほどんどを投下する。ほかのプレイヤー(同僚)の上にいるとか下にいるとかで一喜一憂する。

なるほど、営業職というのは、ゲーム依存・SNS依存を構築する要素がふんだんにちりばめられた、依存性の高いゲームだと言える。

①結果の不確実性(ギャンブル要素)…あたかも再現性のある成功方法がありコントロールできるような錯覚を起こすが、そんな法則はない。そもそも相手ありきのゲームなので、コントロールできない。アウトカムは運次第。ギャンブル要素があると、人はその不確実性にのめりこみやすい心理構造をしている。

②ランキング形式…常に他人と比べられると、ひとは危機感を煽られ、緊張状態に陥る。実際は環境も条件も全く違うので比較に何の意味も価値もないが、人事評価・報奨金というニンジンをぶらさげることで存在価値とリンクしているように錯覚させる。他人より優れていたい、という承認欲求を巧みにくすぐり、ゲームに没頭させる。

③チームプレイ…江戸幕府が強制施行した庶民の隣保組織「五人組」のように、必ずチームで行動させ連帯責任を負わせる。これにより、連帯責任を発生させてゲームにある一定の力を注がざるを得ないような同調圧力を発生させる。特に日本では同調圧力が強力なので、途中でやめにくく、力を抜きずらくする。激務で鬱積したルサンチマンは結果を残せなかった同僚を迫害することで発散させるので、支配層にとっては組織運営もしやすい。行政官僚制の計算可能性を実現するための支配構造。

すべて、GAFAMやオンラインゲームがやっていることと同じ。

「いかに課金してもらうか、いかに長くプレイしてもらうか」を考え抜いて実装した、人類史に基づいた本能に訴えかける彼らのシステムと酷似している。

「いかに会社のために人生の時間的リソースを割かせるか、いかに仕事だけをさせるか」がよく考えられているのが「営業職」であり、社畜化しやすい職種だということ。

今まではそうしたデジタルでの依存性コンテンツが存在しなかった。男たちは、アナログの「仕事という依存性の高いコンテンツ」に没頭してきて、それを社会的に良しとされてきたので、基本的にワーカーホリックだらけである。女性から見て男がガキっぽいのは、ビジネスマンなんて所詮ゲームばっかりしているガキみたいなものだからだ。

そんなのに囲まれていると、頭がおかしくなりそうだ。

自分の人生に向き合わず、ゲームばっかりやっている子供の群れ。しかも、同じようにゲームに熱中しろと口うるさい。好きでもないMMORPGに毎日ディスコードで呼ばれてやりたくもないクエストに参加させられる気持ちを想像してみてほしい。反吐が出るだろう。

 

なぜ私がこのゲームを楽しめないかというと、短絡的で自己中心的で底が浅いからだ。

他人に勝ってうれしい。

認められてうれしい。

お金がたくさんもらえてうれしい。

この3つの「うれしい」を嬉しがるくらいしかやることがない。

他人のため、社会のため、なんて建前で、誰もそんなことは思っていない。

ただただ自分のためでしかない。

 

それが私にはつまらなすぎる。

他人に勝ってうれしい?は?なんじゃそりゃ。

他人と自分の価値は比べるべくもなく、それぞれがただそれぞれにあるだけ。エリートたりえたのは運であり、資本主義社会における実力とは虚構。すべては運のうちだ。たまたまいい大学に入れる経済力を持つ親の元に生まれて、たまたま五体満足に生んでもらって、たまたま今の成果っぽいものが与えられているだけ。それを自分の力だと思いあがるのは、精神的に未熟だからだ。

認められてうれしい、というのも、失笑ものである。

価値を他者評価にゆだねた時点で、自分の人生を他人に譲り渡したようなものだ。第三者評価はいかにも客観的で合理的な評価のように思うだろうが、結局は誰かの主観であり、自分の価値を規定するのは自分以外にありえない。つまり、他人がどう思おうが、本人の本質的な存在価値に何の影響も及ぼさない。一ミリも関係ない。だから他人に認められるかどうかは大切なことではない。馬鹿にされることも、差別されることも、他人の認知の問題であって、本人の尊厳を少しも傷つけることはできない。

お金がたくさんもらえてうれしい…

代えのきく使い捨ての歯車に成り下がって、ケツをなめ靴をなめ、その人生を小銭に変えられれば満足なのか。なんとも殊勝な心掛けだ。涙が出る。貨幣は結局それそのものに何の価値もない。金銭的な価値基準にとらわれている限り、本当にあるべき姿は見えてこない。私はお金は最小限でいいので、もっともらおう、たくさんもらおう、他人より多くもらおう、とは思えない。そんなくだらないことのために人生の時間をたくさん使いたくない。

 

ここまで書いて気付いたのだが、私は営業をもうしたくない、という背景に、お金儲けはもうしたくない、と思っているらしい。

とにかく金と資本主義社会での労働から遠ざかりたい。

生物としての営みに集中したい。

まったく無駄な時間だ。金儲けのための労働時間というのは。

本質的なことは近代化の真逆のベクトルにある。

科学が今まさに信頼性を失いつつある。

これから社会がもっともっとゴミになれば、もっともっと人そのものが輝く。

生命としての輝きであり、知的生命体としては哲学が道しるべとなる。

美しい輝きと、その奇跡に対する愛と感謝。それを全身で味わいながら生きて、死んでいきたいのだ。

そのためには、ごちゃごちゃと邪魔くさいものがこの世には増えすぎた。

金にまつわる欲と罪で雁字搦めになっている。生きづらいったらありゃしない。

もっとシンプルに、生きたいように生きるべきだ。

自分で田畑を耕し、周りにあるものや命に感謝して、自然にあるものを少しだけいただきながら、生きていることそのものに思いをはせる。

私はやはり宮沢賢治のような生活にあこがれる。物質的・経済的な豊かさより、精神的な豊かさが最も重要だと思う。

 

とにかく仕事はできるだけ最小限にして、資本主義経済社会に頼らない生き方にシフトすべく、鉄の檻の外側でいかに快適に生きていくか模索を続けていきたい。