私には、できないことや持ってないものがたくさんある。
何かの能力で私よりも優れている人はごまんといる。
それでも、私は私でいい、生きていていい、そう思うようになった。
それは、なぜなんだろう?
「自信」とは何か。
評価とは、常に相対的なものだ。
誰かと何かで比べて優劣をつけている。
しかし、他人と比べてもしかたがない。上下をつけて一喜一憂しても、きりがない。
人は平等ではない。
生まれ持った能力や才能、育った環境。前提が何もかも違う。
たとえば科学の世界でも、臨床試験をはじめ科学的な研究において、対照群と介入群のベースラインが同じでなくては、結果は意味を失う。
そう考えると、この世のあらゆる比較や競争は、前提を全く同じにすることができない以上、意味がないと言える。
あらゆる他者との競争は、結局のところ「遊び」でしかない。
勝った負けたとゲーム性を持たせることで、つまらないことを面白がってやろう、というのがそもそものスタート。
偏差値もそうだし、営業成績もそうだし、年収ランキングもそう。数値化できるから横並びに比較しやすいので、ゲームにしやすい、というだけ。
だから他人と比べて「なんて自分はダメなんだ」とか「私は他人より優れているから安心」とか、そんな一喜一憂がいかに意味がないことか、なんとなく想像できるだろう。
誰かと比べて生じる優越感も劣等感も、幻なのである。
つまり、他人と比較して得た「自信」とは、幻だ。
今、自分。
これが真のベースライン。
過去の自分ができなかったことが、できるようになる。
過去の自分が作れなかったものを、作れるようになる。
それが本当に対等で検証する価値のある「成長」という結果である。
しかも、アウトカムの良し悪しはどうでもいい。
私たちはできるようになったかどうかを「自信」の後ろ盾にしなくてもいい。
結論、できなかったことをできるようにならなくてもいいのだ。
できるようになったら自分が嬉しいから、力の限りがんばった。
他人に褒められるためじゃなく、自分の心がそれそのものの顕在化を望むから、形にしようとした。
それはあなたがあなたである証であり、魂に実直に生きた証である。
カタチある何かにならなくてもいい。
満足いく何かでなくてもいい。
自分を偽らず、全力で自分に立ち向かい、人生に果敢に挑んだ。
その行動を起こしただけで、あなたは称賛に値する。
自分を裏切らない。正直に謙虚に認めて向き合う。
これはこの世で最も難しいことで、同時に最も尊いこと。
その行動の積み重ねが、自分と世界を愛することであり、真の「自信」を構築する礎となる。まさに宝だ。
つまり自信とは、「私は私を裏切らない」と、自分へ信頼を寄せることができる、ということに他ならない。
そこに他人は介在しない。比べる必要がない。なぜなら、命題はあくまでも、あなたとあなたの中の良心・魂・信念との、信頼関係でしかないから。
だから、他人と比べなくていい。
そう納得したとき、自分自身も他人も世界も敵ではなく、心強い仲間でしかなかったことに気づく。
私はただ、私らしく生きていけばよかったんだ。
そう思えたとき、爽やかな自己肯定感が宿る。
今は、そんなふうに思っている。