「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ
この世は、物質的にはかつてないほど豊かになった。
街にもネットにも商品が溢れている。
SNSもyoutubeも、観ているだけでweb広告がひっきりなしに眼前に提示される。
「物質的な豊かさが人生の幸せなんだ」そういうふうに語りかけてくる。
しかし、私たちは本当に幸せだろうか?
若くして自殺する人は、この国では少なくない。
就職して結婚して子供を授かり、お金が足りないとあくせくしながら、義務に追われるように生きている。
やりたくもない仕事や家事に追われ、気づいたら1日が終わっている。
いつか自由になったらやろう。ボロボロになるまで我慢して働いて、気づいたときにはやりたいことができないくらい老いていて、時間も体力もない。
そもそも、やりたいことが何だったのかさえ、自分にもわからなくなっている。
こんな人生は、本当に幸せだろうか。
あなたは子供の頃から、そんなふうに生きていきたいと、心から願っていただろうか。
元々は、もっと自由に、やりたいことが山のように浮かんで、夜寝るのは惜しく朝が来るのが楽しみだったはず。
それが、物に埋もれ、義務に埋もれ、金に囚われ、世間体に囚われ、いつのまにか雁字搦めになり身動きが取れなくなってはいないだろうか。
その束縛が解けないまま、時間が矢のように過ぎていく。
そんなふうには、未来を描いていなかった人がほとんどではないだろうか。
欲望を削減する
ガンディーが弟子たちに示した戒律に「不盗」がある。
「不盗」とは、盗まない、ということ。
窃盗や万引きだけを言っているのではない。
必要量以上のものを受け取ることは、盗みだという。
「あの人の〇〇が羨ましい・妬ましい」と他人の何かを欲しがることを、人間の精神を貶める、最も陰惨な盗みだという。
欲しがるのは、今あるものに目を向けず、他人の何かを思い焦がれて欲望にうつつを抜かす。それはあなたの心を、あなた自身が盗んでいるということになる。
お金や物だけでなく、時間・エネルギー・機会もまた、奪ってはならない。
そもそも、この世のあらゆるものは一次的に預かっているもの。身体ですら、借り物であるといえる。
誰のものでもない物や金を不必要な分まで余計に蓄えるというのは、足るを知らないということであり、満たされない心が同時に蓄えられる。
つまり、借り物の物と金とセットで、その人は不安と恐れを溜め込む。
失う不安、奪われる恐れ。
だから、物質的・金銭的な豊かさは、不安と恐れが豊かなのであって、幸せとは対極にある在り方だ。
まとめ
無限の欲を駆り立てる現代社会。
金という幻想に左右される人間。
全て、今を生きていない。
欲と幻を追いかける虚構の世界のことわり。それを人々は「常識」とか「普通」と言って信仰する。
でもその宗教では、誰も幸せになれない。なれなかった。今どん詰まりにたどり着きつつある合理主義・資本主義・勝利主義社会が、それを証明したといえる。
幸せとは、あなたの心のなかにしかない。
誰かに与えられるものでもないし、一定の条件を満たさなければ見つからないものでもない。
ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。
あなたの心が答えを知っている。おそらく、ずっと叫んでいるはずだ。あなたが耳を傾けていないだけ。
物や金の先に、幸せは無い。
あったと思っても、それは酒を飲み過ぎた夜にふと目にチラつく幻覚のようなものだ。
一切合切何もかも制約がないとしたら。
あなたがやりたいことは、なんだろう?
あなたの心が喜ぶ行いは、なんだろう?
ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。