もうこの国はダメだ。
今回の感染症の騒動でようやく私は気づいた。
それまでは、起きたら新聞を2紙(全国紙と地方紙)目を通し、テレビで朝の報道番組を見ながら支度をし、出社するのが「善き大人」の姿だと信じていた。
父もそうだったし、最初の会社の上司もそうだったし、今いる会社もそんな感じだ。
テレビや新聞は正しい情報を報道していると信じていた。
しかしそれは間違いだった。洗脳されるためのルーティーンでしかなかった。
最初の会社の社長は「記事を読むときは『この記事が出たら誰が得をするのか』を考えて読む」と言っていたが、これは今思えばとてもいいアドバイスだった。彼はある程度分かっていたのかも、と思う。
その人は、環境ビジネスをやっていて、大〇研一のビジネススクール出身。
やっているビジネスと経歴を考えると「ビジネスの世界での成功」という己の損得のために世の中の流れを看破しようと勉強した結果、そこまではたどり着いたのだろう。
世の中の動きを先読みして、投資可能性を計算し、利益を最大化するために。
しかし結局はそこまで。アストンマーティンやマセラティに乗りたいだけの、どこにでもいる強欲な経営者止まりだったように思う。
「善き大人」には、ほど遠い。
私は最近、テレビや新聞はさっぱり見なくなった。
ネットのニュースも全く関心がなくなった。
どうせ、何もかも誰かが金儲けのために投資してできているコンテンツ。
わざわざ貴重な時間を消費して触れる価値などない。
ここは信頼できるかも、と思っても、結局権威的な何かと繋がっていて、誰かへの忖度が垣間見える。
偽物しかないということがわかった。
金儲けは、もう飽きた。
だから困ったことに、仕事にも全く興味がなくなってしまった。
今、私は営業職をやっている。
営業職は、本来、売上推移・新規納入先などを毎日チェックするのが当たり前と教えられてきた。
与えられた計画とどの程度進捗にギャップがあり、どうやってギャップを埋めるかを考え行動計画を策定・適宜修正する。そして必要な行動をいかに早く質高く実行するかを考えるものだと教えられてきた。
今までは結果を求めて意欲的に取り組めたそれらの作業が、とんでもなく、つまらなく感じるんだよ最近。
そもそもこの作業には何の意味があるのか、と深く掘り下げると、底には何もないことに気づいてしまった。
仕事は、ゲームと何も変わらない。
ゲーム内で「こうやればうまくいくんじゃないか」と仮説を立てて実行して検証する。得られるのはゴールドだったりルピーだったりギルだったりした。
ゲーム内の通貨を貯めれば、新しい武器や防具が手に入れることができて、強くなれる。戦闘を積み重ねるほど、経験値が手に入り、レベルが上がる。
仕事というゲームでは、通貨が「円」、強さは経済力、レベルは社会的地位、と呼び方が変わるだけ。物語のシナリオがあらかじめ決まっていない、不確実性があるだけ。ギャンブル性が高い。だからハマるんだろうな。
残念ながら、いくら経済力をつけても、人として強くなっているわけではない。社会的地位がランクアップしても、魂のレベルはアップしない。
むしろ劣化していく。
横並びのプレーヤーと、経済的価値という点で比較して「勝ち組」「負け組」などと互いを罵り合いながら、一喜一憂している「大きなお友達」。それが「現代の大人」の姿。
つまり、ガキのまま図体だけデカくなり、どんどん人としてつまらなくなったのが、今の大人たちの平均的な姿だ。
高度経済成長期には、「ビジネス」は大流行りのゲームだったのだろう。
物質的な豊かさを求めて、それが手に入れば幸せが手に入ると信じた。
ある程度やればやるほど報われる幸運な時代だったので、どっぷり依存した。
それを国も社会も奨励した。24時間働けますか?と。
そうやって、国を挙げてゲームに狂乱している間に、人として生きるということを忘れてしまった。
「善き大人」になろうと己の哲学を深めることもなく、心のど真ん中を空っぽにしたまま、ゲームの攻略法ばかりあーだこーだ言っていて、ふと気がついたら寿命がきている。
実に空虚だ。
なんとなく空虚な人生を過ごしていることは、本人も本能的に自覚している。
しかし深く考えてしまうと、今まで生きてきた人生の背骨をボキリと折られて足元から瓦解するから、否認して無意識のうちに考えないようにしている。
自分と同じように生きることを他人や子孫にも強要する。自分は間違っていなかったと思い込んだまま死にたいから。
本当に大切なことを置き去りにしたまま「これが正しい人生なんだ」とひたすら逃げてるだけ。
依存症者が、自身の心の中にある不安と恐れを否認して問題行動を続けている状態と同じ。
その世代と国境を超えた依存のツケが今、ここにある。
なぜ子供たちがYoutuberやプロEスポーツプレーヤーになりたがるのか?
そりゃ、私たちがしている仕事が、つまんなそうだからだ。
仕事というゲームより、他のゲームのほうがおもしろそうに映るだからだ。
子どもたちはまだ人間らしさを失っていないので、楽しく生きることが本質だと感じていて、純粋に求めている。
私たち大人は、景気が低迷してもう面白くなくなった仕事ゲームを「これは一番大事で価値があるゲームなんだ」と自分が本心から楽しめてもいないのに、「やるのが当然」だと次世代に有無を言わせず押し付けようとする。
当然反発される。
そんなの、つまんなそうで辛そうにしている大人の表情をみれば、一発でわかる。クソゲーだってことがバレバレ。死んだ魚のような目で日々を過ごす大半の大人みたら、絶対地雷だろって思うよね(笑)。こんなふうになりたくないと思うのは、自然な思考。
「真面目に勉強して良い大学に行って良い会社に入って社会で評価される。」
この王道シナリオは、とっくの昔に崩壊している。
なぜ崩壊しているのか?
このシナリオは、根本的に「やっても意味がない」からだ。
シナリオを追っても幸せを感じられない。他人の目によく映るという「変えられないもの」を変えようとするから、基本的にうまくいかないし、うまくいっても満たされない。
他人のためと口ではきれいごとを言いながら、ビジネスは最終的には自分のためでしかない。本質的には誰かの何かの役に立っているわけでもない。
自分のためにやっているはずが、他人はおろか自分すら幸せになれない。そんなのやる意味がない。
そもそも大人は「この社会は素晴らしい」という嘘をついている。
この社会は素晴らしくもなんともない。腐りきっている。
社会的な規範など正しくもなんともない。コントロールのための楔だ。
子どもたちには「嘘をついてはいけません」と教えるのに、嘘しか言わない。まるで説得力がない。
私たちの生き様から、素直で純粋な子どもたちは見抜いている。
だから、言葉を尽くしても信用してもらえない。
なので、圧をかけて従わせようとする。それが「しつけ」。
嘘つきばかりで「善き大人」の見本がいない。
子どもたちにとって「この人みたいに生きてみたい」と憧れられる本物がいない。
成功者など、金集めがうまいだけ。尊敬とは程遠い。
金や物では本質的に満たされないことを、私たちを通して子どもたちはすでに気づいている。
でも、寄る辺がない。
道しるべがない暗闇を歩いているようなものだ。
そりゃ、精神を病むし、自殺もするだろう。すべては大人が不甲斐なくてダサいから。年とってもこんなもんかよ、と絶望して人生を降りる。その気持ちはよくわかる。
狂ったシステムになじめない正常な子は、不登校にもなるだろう。
現代社会を「ここは私が居たい世界じゃない」と思えば、オンラインゲームやSNSに逃避するのも当たり前だろう。
学校に通えない子どもたちに問題があるんじゃない。社会が狂っているから、拒否反応が起こっているだけ。私たちが築き上げた虚構の社会に問題がある。
それをこども個人の問題だと思ったり、教育機関の問題だと思ったり、保護者の問題だと思ったりしている。
笑えないほどズレている。
そりゃ生きづらさ抱えるよ。
結局全部金儲けでしかないんだもん。
つまらんよ、そんな社会は。
次世代はもう、株主資本主義社会・資本主義経済社会は、つまらないということに気づいている。
ここまで読んで「じゃあ何が面白いんだ?他にどんな意義深いことが、仕事以外にあるんだよ、言ってみろ」と思う大人がいるだろう。
お答えしよう。
「自分が心からやりたいとわくわくすること」だ。
それが金になるのか、そんなことで生活できるのか、だって?
生きるために金稼ぐのか、金稼ぐために生きるのか、どっちなんだよ。
前者だろうよ。
生きるのが先なの。生きるってことは、自分のしたいことを素直に自由にすることなの。
それが先なの。それが人生なの。仕事なんてのは必要最低限のゴールド稼ぐためのサブクエストなの。
食べるものはつくればいい。買わなくても、金かけなくても、生きていける。家庭菜園でも何でも、やれば何とかなる。タンパク質は豆からも魚からも摂れる。わざわざ畜産やらなくても。
着るものはつくればいい。どんなに着飾ったって、中身がスカスカじゃ意味無いんだから。寒さをしのげれば充分。
住む場所くらいだろう。金がないと手に入らないのは。職人技だから。
本当に必要なのはこの3つだけだ。
三大随筆の『徒然草』で兼好法師はこの3つ以上を望むことを「贅沢」といった。
これ以上の物質的豊かさや地位や名声を私利私欲に任せて求めることは、不幸の種。
来世にキャリーオーバーできないのだから、必要以上のものをいくら集めても意味がない。
この「贅沢」に踊り狂っているのが、今の成功者であり「勝ち組」と言われる者たち。
つまり、可哀想な人たち。
可哀想な人たちを「あれが目指すべき姿」って言われても、( ゚Д゚)ハァ?ってなるでしょ。
そういう感覚を無意識に感じてるんだよ、子どもたちは。
最低限のもので満足して心穏やかに過ごせる成熟した存在こそ、本物の「善き大人」。
結局人生の喜びというのは、限りある時間をつかって全力で自分と世界に向き合うことのなかにある。
それ、本当に本気でやってる大人がどれほどいる?
金と欲に翻弄されて、未来の不安に怯えて、そんなふうに生きるのは人生じゃない。本当の意味で人生を生きていない。
だから失望されるんだよ。
「こいつら生きてるふりしてるだけだ」って。
学歴のための教育の金は必要ない。あれは教育ではない。学歴はただの奴隷通行証。「私はとっても従順な奴隷です、使ってください」という名札を首から下げているだけ。
この現代に良い仕事などない。どれも詐欺ばかりだ。手が込んでいるか、込んでないかの違いだけ。本来必要のない余剰を、いかに必要っぽく見せるか、いかに欲望を煽るか、やっているのはそれだけ。
第1次産業が最も尊い。
最も尊い仕事の評価(経済的価値)が最も低い社会など、まともな社会ではない。
いずれ潰れる。
そんな終わりが見えている社会なんて、従わなくていいし、順応しなくていい。
私たちがやることは、社会に迎合することではない。
私たちがやるべきことは「やりたいこと」それだけだ。
それをやるために、命がある。
それをやるために、衣食住が要る。
それを得るために、最低限の金を稼ぐ。
「やりたいこと」に集中するために、人生を最適化すべきだ。
ということは、できるだけ金に依存しない生き方が最も良い。
要らぬ「贅沢」を極力削ぎ落していく。
答えは自分自身のなかにしかない。本心に向き合う時間こそ最も重要。
貴重な時間を「仕事」というつまらん遊びに費やし、言い訳しながら虚勢を張って尊大にふるまっている大きい子供のいうことなど、誰が聞くだろう。
そういうところなんだよ。
そういうのが見えてないから、見えていないことすら認識できていないから、あきれられる。
言うこと聞かないのは当たり前なの。
聞く価値ないと思われてるんだから、しかたないの。
できるだけ経済社会から脱出して生きていきたい。
本当にやりたいことをやって、イキイキと過ごしたい。
本当に世の為人のためになることは、もうビジネスには求めない。
自分の道を進むしかない。
その背中が、希望そのものであり、次の世を創る。
私は兼好法師のような光になりたい。