【AC】他人を頼れないあなたの「自己責任論」には感謝に対する「恐れ」が隠れている

「ひとりで生きてるような顔しちゃってさ」

2年前義母にそう言われたとき、私は「はぁ?」と青筋を立てた。

義母に対して感じた蔑み

第1子の産後、手伝いのために義母が私たち夫婦の家に来て、生後間もない長女の子育てを手伝ってくれていたのだが、私は当時とにかく義母が気に食わなかった。

何で気に食わなかったのか?

それは彼女を心の底ではバカにしていたからだ。

ろくな企業に就職した経験も、ましてや成功した経験もない。子育て中に夫婦生活に耐えかねて3人目の子どもである妻が当時まだ小学生にもかかわらず蒸発して逃げた。今まで最も時間を費やしてきたであろう料理すら、大しておいしくない。

それら全てにおいて、私のほうが現時点で上である、という自信があった。

自分は基本的に能力がなかったけれど、それを努力で埋めて何とか生きてきた自負があった。

だから、冒頭の言葉を言われたとき「それはてめぇがしょぼくて、その上頑張りが全く足りてねぇからだろ?自分の無能さを棚に上げて偉そうに何言ってんだボケ」と思った。

そんな無能なやつに助けなんて借りなくてもやれるのに。

こんなやつに助けを借りないと子供を育てていけないなんて。

だから感じたのは感謝ではなく屈辱だった。

とてつもなく心根が腐った娘婿。

それが私だった。

当時、私は独りで生きてきたつもりだった。

親は精神的支えとしては頼りにならなかった。それどころか、過干渉で侵食してきて逆に人生を邪魔をしてくる存在だった。

クソ田舎でいじめられて辛い思いをした。大しておもしろくもない小さい世界で生きているくそみたいな田舎者に囲まれて暮らしていたのに、何とか抜け出して努力して努力して努力して努力して、なんとか形にしたのだ、と思ってきた。

決して環境は恵まれていないという自覚があった。

そのなかで自分の努力で這い上がってきたと思っていた。

それなのに、特に頑張りもしていない下等なやつが、独りで生きているような顔をしている、と私を下にみるのは許せなかった。

そりゃてめーが無能なのに努力しねーのが悪いんだろうが。ふざけんな。俺は頼れる人間なんていなかったし、独りで生きてこなきゃいけなかったんだよ。お前みたいにしんどかったら逃げたりするような、クズじゃないから大変だったんだよ。ぬるま湯のなかで他人に迷惑をかけて生きてきたくせに偉そうに。用が済んだら大して役に立ってねーんだからさっさと巣に帰れよ。

と思っていた。

だいぶやばいな、書いてて引くわマジ。

つまり、私は共同体に対する感謝なんぞは全くなくて、むしろ憎しみと恨みがあった。

他人はすべて敵だった。自分を否定してきた敵だと思っていた。

ちなみに、私の両親もそのようなルサンチマンを抱えていたように思う。

だから子供に「社会的成功」を求めた。あの、私たちを虐げてきたあいつらを見返そう、という競争に勝ち抜く生き直しを子供に求めたと言える。

我が子が親元を離れても独りで強く生きていけるように。

そんなきれいな言葉の裏には、社会に対する憎しみと恐れが隠れている。

自分たちが優秀であること、それを裏付ける実証的結果を子供の社会的な成功に求めるという「人生の押し付け」が、機能不全家庭では行われる。

感謝は、屈辱であり隷属宣言?

私は「感謝」は「隷属」の宣言だと同じだと思って恐れていた。簡単に感謝することなどできなかった。

親との関係がそうだったからだろう。

「親を頼る」というのは、親の過干渉の支配下に甘んじる状況を許容することを意味したからだ。

屈辱的だった。感謝するときは負けたと思ってた。

成功は自分のおかげ、失敗は自分の努力不足。

そうやって自己責任論に終始していれば、「親に飼われているという屈辱」は少なくとも避けられる。

だからより、他人に感謝したり頼ったりすることを忌避していったといえる。

そうやって凝り固まっていく「自分は自分でコントロールできる」という思い込み。

それは恐れから来ている。

権威ある存在に対する恐れ。コントロールされる恐れ。

親のように、社会にそうされてきたように、「お前の想いなんて知るか、私たちが思うように動け」と強制されるのではないか。

安心感が無い環境で生きてきたことが、他人に伸ばす手を引っ込めさせる。

「無力」という弱さを認める

コントロールに対する恐れ。その劣等感から立脚される自己責任論。

それは「弱さ」そのものだ。

今この日本の社会で成功している人って、実はそういう弱い人が多いんじゃないだろうか。

そしてその弱さに自覚がないからこそ更なる社会的成功を求める。

自己肯定するような大義名分を周囲にも求めるので、認知の歪みをそのまま社会構造に反映させて、システム的に他人にも強いる。

それが日本の貧弱な現代社会の在り方ではないか。

自己責任論はつまり「なんでお前は俺のように強く生きられないの?」という意味なのだが、自己責任論はある種の「弱さ」からくる弱者の処世術だとは気づいていないから、そんな言葉が口から出る。

特に1960年代(2021年現在で50代)の世代などは特に濃い。日本の高度成長期の下克上的歴史的背景のなかで生きてきたので、共同体(関係性や恩)を切り捨てて全部自分でやってきたという自負がある。だから無意識に同じ苦しみを味わうのが当然だと思いこみやすい。

だから論理的に効率的に、共同体の機能的向上や快適さの追求を下の世代が訴えると、「甘え」だと思い批判的な態度を取りがちだ。

たとえば、今あるプラットフォームに乗っかって何かしようとすることを不自然に嫌う。

一から何か作れよ、そしててめーの力見せろよ、とヤンキーが根性焼きを迫るようなパワハラをかましてくる。それは結局ただのマウンティングだけど、本人たちは良かれと思っている。タチが悪い。

この動画がとても勉強になった。

持たざる者として辛酸をなめてきた人々。社会を恨み構造改革してメガコンペティションのなかに人々をぶち込むという「自分が信じる正義」の実現を目指した人々。それがグローバリストの背景だと思うし、今偉い立場にいる人たちのメンタリティの基礎だと思う。

このメンタリティは「自分の人生をコントロールできる」という驕りの上に成り立っていて、結局は12ステップ・プログラムにおけるステップ1の「無力」を認めていない。

だから、認知の歪みを生じる。

自由競争のなかで、助けを借りず、生き抜く・勝ち抜く・自己成功することは「良いことだ」と思っているわけだが、そうではない。

なぜなら、人は誰であっても人である限り例外なく「無力」で、自分の人生すらコントロールできないからだ。

たまたま日本に産まれて、たまたま食うに困らない家に生まれて、たまたま学費が払える家に生まれて、たまたま他の人たちが立ち上げてくれた会社があったから就職先があって。

私はいろいろなものに支えられて今の状況を生きている。

それと同じように、今成功している人もまた、様々な共同体に無意識に所属していて、その「自分を超えた大きな力」に支えられて立っている、か弱い存在なのだ。

どんなに偉い人も、どんなにすごい人も、どんなに魅力がある人も、そうだ。

人は誰であっても人である限り例外なく「無力」で、自分の人生すらコントロールできない。

それを謙虚に認めたとき、景色は変わる。

この世にあるものは憎き敵ではなく、親愛なる友だったということだ。自分が敵だと思うから敵に仕立て上げていて、遠回りではあるが本当は全てのこの世のものが私を助けるものだったということに気づく。

無力を認めるステップ1を阻む「恐れ」を乗り越える

今までの文章を読んで冒頭の義母のセリフを読んでみると「ムカつくけどまあそうだよね」と思わないだろうか。私は思う。

当時、私には驕りがあった。だれにも頼らず独りで生きてきたという驕り。初期のステータスが大して恵まれてはいなかったのに、努力・自分の力で何とか生きてきたという驕り。

それは、恐れから目を背けるためだった。

恐ろしい他人を頼らなくては生きていけないような無力な自分を抱えて生きていかないといけないなんて、叫びだしたいほど怖い。

つまりそれほどの孤独のなかで生きてきたということで、それは意外と多くの人が抱えている心の穴なのではないだろうか。

頼れない。頼らないのではない、恐ろしくて頼れないのだ。

それは弱さに他ならない。でも弱さが悪いなんて言わない。みんな弱いのだ。私やあなただけが弱いわけでは無い。

弱い。それは変えられない。それでも頼れる勇気がある。それは強くあろうとする心。

勇気が持てないのもしかたない。心臓をえぐり取って差し出すようなことを、そうそうできるものではない。少なくとも私たちアダルトチルドレンにとって、依存症当事者にとっては、他人を頼るというのはそういう行為だったのだと受け容れよう。

何故、他人を頼ることができる人は、それができるのかといえば、安心感があるからだ。

頼ることを否定されなかった経験。皆に支えられて生きていて、それを交換条件に取引されるような環境ではなかった幸運。それらに恵まれているから、我々より勇気が比較的必要ないだけ。

つまり、その経験を私たちも積めばいい。そうすれば勇気が出せる。

それができるのが、自助グループという場所だ。

自分が思うことを話し、自分がしたいから協力する。

そういう共同体だからこそ、他人の好意を素直に受け取ることができる。

その経験を積み重ねて、勇気を出す練習をする。

それが、自助グループという守られた共同体で行える「尊いやり直し」だ。

今、社会で成功しているように見える・社会的成功に固執する人にこそ、12ステップ・プログラムと自助グループは、必要不可欠な処方だと思う。

だけど、それはあと20年後くらいの話だろう。

グローバリズムが終焉を迎えて、私たちが信じてきた自己責任論でどうにも首が回らなくなったとき。

私たちのなかで、最も尊いテックとして12ステップ・プログラムが注目され、自助グループという共同体の意味を知るのだと思う。

今はまだまだ残念だけど社会の壊れ方が足りないんだろう、これでも。充分やべーけど。

もっともっとどうしようもない地獄になって社会全体が「底付き」することが必要だ。

私はそのときのために、できる準備をしていきたい。

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