【共依存】世間というのは、君じゃないか

最近、特に世の中が好きではない。

不倫を叩いたり、飲酒運転を叩いたり、違法薬物所持を叩いたり。

『世間』とは、何様なのだろう。

堀木は、いよいよ得意そうに、

「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」

世渡りの才能。……自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。

自分に、世渡りの才能!

しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧狡猾の処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

~中略~

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。

人間の複数でしょうか。

どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ!

などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

「冷汗《ひやあせ》、冷汗」

と言って笑っただけでした。

出典:『人間失格』太宰治 P43

「世間というのは、君じゃないか」

これはあまりにも有名な多くの人が知っているセリフだが、今、私が最も言いたいのはこのことだ。

この14文字に集約されている。

この大庭葉蔵の、表には出てこないが深く水底に揺蕩うような人間に対する恐れ・怒り・憎しみ・嘲り・淋しさは、よくわかる。

そういうものと一緒に連れ添ってきた人生だったように思う。

そしてそれは、この世で生きている限り、非常に逃れ難いものでもある。

例えば、ワイドショー。

素人のコメンテーターに何の根拠もないことをベラベラとしゃべらせ、街の人の声と言いながらカンペを出してしゃべらせた音声を集めて、あなたが泣いても謝っても病んだ状態から回復しようとしても「世間が許さない」と言う。

例えば、警察庁。

「サギ集団に一度加担すれば、あなたの人生はもう終わり。」と脅して、あなたが生きていることを「世間が許さない」と言う。

世間というのは、そういう「お前たち」だろう。

お前たちが許したくないだけだろう。

そしてちゃんと当事者のことを知らないくせに、訳知り顔で語るお前たちが好き勝手に石を投げるから、独りで寂しく苦しんで死んでいく命が後を絶たない。

もういいや、こんなごみ溜めのような場所なんじゃ、生きてたって仕方ないや。

そう思うのも無理はないと思う。

レオ・レオニの『スイミー 小さなかしこいさかなのはなし』は、小さな魚が集まって力を合わせることで、大きな魚の脅威に対抗するという素晴らしいストーリーだ。

だが、私は小さい頃、この絵本を読むたびに恐ろしさを感じてきた。

私はよく、虐められて独りだった。

大勢の人間が徒党を組んで、独りを虐めることで平和を保つことは、子供社会でもよくあることだった。

そんな私にとって「追い払われたほうの大きな魚」の気持ちのほうがしっくりきた。

小さい細々としたものが、大きなうねりとなって脅威に膨れ上がる。

そういう集団の持つ圧力や恐怖を目の当たりにしてきて、私はどうしても気持ちよくこの話を聞けなかった。

仲間を持てない私は生きていてはいけないのか?

独りぼっちの私は生きていてはいけないのか?

なんで群れるほうが偉いんだ。なんで群れるほうが正しいんだ。

人と仲良くしなくっちゃいけないのか?

人と仲良くなれない私は、生きていちゃダメなのか?

そう思った。

そんな話をお母さんに聞いてほしかったが、それどころではなかった。

私の母は。

私の母。

私の母は、こんな風だった。

いつも「ちあきのためだから」と言っていた。

あれもしてあげた

これもしてあげた

お母さんはお母さんの人生を犠牲にして尽くした

だからお母さんを愛して当然よね

だからお母さんを一番大事にして当然よね

お母さんを幸せにして当然よね

なのになんでそうしてくれないの?

これは通訳すると

「あんなに欲しがっている(ように母親からは見えた)ものを私が与えてあげたのに、なんで感謝しないの?なんで私の思い通りにならないの?」

と言っていることに、数十年経って気づいた。

他人に対して受動的に立ち回り、譲れない部分で自分が返してほしいと思ってきた期待を裏切られそうになったり、コントロールしたい将来像の方向性に反した動きをしたり思いを語ったりすると、母は態度が豹変して、私を責め・悲しみで攻撃した。

母のような人の胸の内は、これだ。

「いいよいいよ、やってあげるよ」と相手に譲っているようで、実はこっそり自分の「望み」を無理やり貸付けようとする。

善意という貸付金を相手にわからないように勝手に上乗せして、やがて限度額がくると我慢の限界に達して、ものすごい剣幕で「贖罪としての善意」の返済を迫る。

まるで闇金融のようだ。

望みどおりにならなさそうだと感じ取ると、悔い改めろと私に詰め寄り、思い通りの方向に他人をシフトさせよう、思い通りにコントロールしようとあの手この手で奮戦する。

それにより、子供の私は最終的に謝らざるを得なくなり、意思を曲げて従ったりする。

母親は子供(私)に対する影響力を確認できる。

幸せの青い鳥は、まだかごの中で飼い殺しにできる、と胸を撫で下ろす。

子供に尽くすフリをしていれば、直視するのが不安な自分のすっからかんの人生を見ないで済む。精神安定剤になる。

私は、母親の、あんたの精神安定剤じゃない。

幸せの青い鳥でもない。

私は、いっこの人間だ。

私にだって意思があるし、眩い輝きを放つ願いも夢も、あったはずなんだ。

それを「あなたのため」という言葉で飾り立てて、本当の私を、イキイキと笑う本来の私を、やんわりと真綿で徐々に絞め殺していったのは、あなただ。

よくも私を殺したな。

あんなに健気で純粋に好意を持っていた私を、よくも殺したな。

おかげで私のインナーチャイルドは、いくら話しかけても、もう息をしていない。

全部、自分のためじゃないか。

自分を安心させるため。

自分が楽をするため。

自分が責められる側に回らないため。

だから、子供に形の上では決めさせて、子供に譲って与えたふりをして結果を盗む。

それは、優しさじゃない。

卑怯さであり残酷さだ。

自分の人生に、気持ちに、行動の結果に、全面的に責任を取ることを恐れるが故に、子供の人生をマリオネットのように操って遊んでいる。そのほうが楽だから。

自分の保身しか考えない残酷な心だ。

私は、人形じゃない。

お母さん、あなたの行動の責任は、あなたにしか取れないんです。

お母さん、私は肩代わりしようと一生懸命になって、でももうそんな役割はしたくないんです。

私はお母さんが好きだったけど、お母さんは私が好きなんじゃなくて、「お母さんに都合のいい私」が好きだったんだね。

私は、それがいつも悲しくて、葉蔵のように道化を演じる子供になっていったんだよ。

いつまで私を縛るつもりだ。

もう30年以上経った。いつまで人形遊びをしているつもりだ。

あなたは、しっかりあなたを生きてください。

そう思う。

随分と話がそれた気がする。

が、そう主題は変わっていないような気もする。

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

結局のところ、人間関係と言うのは、徹頭徹尾これなのだ。

近いようでいてものすごく遠い。

一番近いはずの母が、最も遠いところで私を見ていなかったように。

生みの親がそんなふうなのだ。誰ができるのだろう?と思うことは不自然だろうか。

あるのかないのかもわからない、人と人とのつながりという「幻想」を信仰できるかどうか。

確かなのは、己の愛のかたちであり、己がどう感じたか、どう選び取るかだけだと思う。

確かにある、私が他人に抱く愛。

それを他人が抱いているかは、検証しようがない。

心は可視化できないし、確かめようがない。

私が思う他人が、世の中を歩いているのだ。

世間とは、わたしでもある。

私が信じるように、世界は見えていて、すなわち世界を変えるには、私が信じるしかない。

中村光先生の『荒川アンダー ザ ブリッジ』の主人公「市ノ宮行(リクルート)」とものすごく他人の恩についての考え方が似ている。

命の恩人っていうのはつまり

これから先

俺がケーキを食ってうまいと感じてもこの女のおかげ

カンパニーを継いで社長イスに座ってもこの女のおかげ

俺のこれからの人生全部この女のおかげ

重い!!重いぞ命の恩人ー!!!

市ノ宮行(リクルート)

恩とは、借りだと、ずっと考えてきた。

そう思うのは、最近分かったのだが、『私が善意の貸し付けをしているから』だ。

恩を、好意を、貸し付けしている。つまり、母親と同じことをやっている。

ああ・・・

だから母親のそういうコントロールを思い出すと、頭を掻きむしりたくなるほどイライラするのだ。それは、他ならぬ自分の恥部であり、暗部だからだ。

他人の善意を受けるとき、借りを作るように感じるのは、そういうことか。

全部、自分。

自分が貧しく乏しく、そんなだから、世界もそう見えるのだ。

私が世界を寂しくくだらなくしている。

「世間というのは、君じゃないか」

そうさ、私だ。

この、みすぼらしい私の精神の姿だよ。

世間というのは、鏡だったのだ。

一生懸命やってきて、少しはましになったと思った。

それはどうやら、思い過ごしで買いかぶりだったようだ。

もう何もかも燃えつきてしまえばいい、と思うところは、酒を飲んでいたころと何一つ変わらないんだから。

世界の見え方はいまだ変わらない。

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