月別アーカイブ: 2022年8月

【共依存】呪いを愛と騙る

引用:『呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校』

人工甘味料と共依存

私は、この五条悟のセリフに違和感がある。

呪いなのは、愛ではなく、偽愛。

つまり共依存ではないだろうか。

彼は、共依存を愛と混同しているように思う。

 

 

人工甘味料は「つくりもの」であり偽物である。

人工甘味料には、サッカリン、アスパルテーム、ネオテーム、スクラロース、アセスルファムKなどがある。

カロリーゼロやシュガーレスを謳っているほとんどの商品には、これらの人工甘味料が使われている。

砂糖(蔗糖)の350倍(200~700倍)があると言われるこれらの物質を、一般的に人々はあまり気にせずこれらの物質を日常的に摂取している。

実は、砂糖のほうがまだマシなほど、人体には有害な物質である。

知らず知らずのうちに「ホルモンに作用する」「味覚を鈍化させる」「依存性がある」「腸内細菌への影響」「うつ病のリスク上昇」「腎機能低下」「脳卒中・心筋梗塞のリスク上昇」など様々な悪影響を受けている。

罪悪感に悩まされず甘いものを食べたい。

その欲望を狙って、金儲けのために製品化された毒物。

売るほうは金が欲しい。買うほうは言い訳が欲しい。

言い訳を金と交換している。無意識に自分自身を犠牲にして。

そこに愛はない。自愛も他愛もない。

 

共依存はまさに、この取引関係によく似ている。

「他者承認」が通貨。「安心」という自分への言い訳。

 

 

本当は、自分も他人も愛していない。大切にはしていない。

他人を道具に使っている。

偽りの「安心」を得るために「他者承認」を引き出す、あるいは与える。

そうして、しんどい人生から目を逸らし、見て見ぬふりをする。

人工的なその場しのぎ。

 

偽りの安心は、不安と恐れに苛まれる人にとって、甘美で刺激が強い。

「もっとほしい」「まだ足りない」・・・際限なく求める。

 

他人に気に入られるために自分を押し殺す。

他人から望む反応を引き出そうとコントロールしようとする。

自分のことを蔑ろにして、他人のことばかり考える。

 

基本的に人工甘味料のように本来は毒なので、摂れば摂るほど病んでいく。

気づけば、より多くの大切なものを手放している。

他人ばかりで占められた心。その芯には何もない。

スカスカのままの自分に、いずれは途方に暮れることになる。

他人も自分も承認していないので、通貨は底をつき、ついには尽くしていたはずの他人すら忌避して離れていく。

なにも無くなる。

 

共依存という偽愛は呪いになる

呪いのように自他を縛る鎖になるのが、共依存。

「あなたのためを思って」という前置きから始まる精神の束縛。

愛を騙り、呪いをかける。

 

たとえば親子。

「あなたのためを思って」と親は子に言う。

○○をしなさい。○○を頑張りなさい。○○になりなさい。

転ばぬ先の杖を両脇に抱えて、口うるさく指示する。

人生は、本人が決めて、本人が行動の責任を経験する権利がある。

その権利を取り上げて、自分の所有物のように扱う。

モノとして扱われた子供は、嫌だという気持ちを殺す。

私は愛されていると信じたい。この苦しい過干渉が愛だと信じたい。

だから、親になったとき、あんなに嫌だったはずなのに、我が子に繰り返す。

世代間連鎖が巡り巡る。呪い以外の何物でもない。

 

たとえばカップル。

「あの人は私が居ないとだめだから」と男の世話を焼く女。

相手が立ち直ろうとすると、ダメなところを必死に探す。

相手がダメでなくては「ダメな人間を支える私」という存在理由を失うから。

相手が自分より下でなくてはならない。ダメでなくてはならない。

だからいつまでも変わらない。

「あの人はいつまでも、どれだけ言っても変わらない」

心の底では変わらないことを望んでいるんだから当然のこと。

自分が相手をダメなままでいるように縛り付けている。呪っている。

相手は相手で「よくならなくていい」という甘さに溺れ依存している。

用意された「ダメなひと」という飼育スペースのなかにいれば、尊厳を失う代わりに、わかりやすい痛みを感じなくて済む。

しかし偽りの甘さで心の渇きは癒えない。閉塞感は静かに精神を押しつぶしていく。

いつか殺し続けてきた本当の思いは、鬱積し腐敗して恨みとなり爆発する。

ぶつけられて狼狽し「私はこんなにあなたに尽くしてきたのになんで」「あなたのためを思ってやってきたのにひどい」と嘆く。

全ては、身から出た錆。

 

まとめ:あなたの中の最良のものを

共依存は一見すると、愛と見紛う。

愛とは、そんなに粘着質ではない。取引関係ではない。見返りを求めない。

ベクトルは、双方向というより循環であり、潜在的である。

損得とは切り離された、爽やかな贈り物のようなものだ。

受け取るか受け取らないかは、相手に委ねる。

あなたのなかの最良のものを、ただ手渡すだけ。

 

『あなたの中の最良のものを』

人は不合理、非論理、利己的です

気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

気にすることなく、善を行いなさい

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう

気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう

気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう

気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう

気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう

気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい

たとえそれが十分でなくても

気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。

 

マザー・テレサ

 

実は、愛の対象は「他人」という特定の相手ではない。

「全てあなたと内なる神との間のこと」というのは、そういうこと。

内なる神とは、人によっては「良心」であり、自分のなかにある、自分より大きな「流れ」を意味している。

諸行無常。

全ては移ろい、川の流れのよう。

その流れに身を任せる、水の一滴に過ぎない。

私たち一人一人は。

自分・他人と区別するのは自分の心。

水の一滴同士で「あっちが優れている」「こっちが正しい」とマウントを取り合い喧々囂々としているのが、世の中。

本来はもともとひとつ。

水を型にはめることができないように、大河のすべてを意のままにコントロールすることなどできないように、私たちには変えられないもののほうが多い。

他人だけでなく私たち自身もまた、本来コントロールできるものではない、ということ。

 

川の水が、太陽に光り輝くように、そのなかに命を育むように、愛とは、すでにそこにある。

どこにでも宿る美しい輝き。

だから、他人という水滴が、自分の行いを認めるか認めないかなど、気にする必要もない。

川全体に届くか届かないかも、気にするようなことではない。

今この瞬間に、最良だと信じられることをする。

他人に非難されようと、世間に認められなかろうと、自分が最良だと思うものを、無理のない範囲でただただこの世界に与え続ける。

それだけでよい。それしかできない。

それが愛である。

 

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阿波踊りを非難する人がいる。

新型コロナの感染拡大がどうのと言っている。

 

その背景は2通りある。

ひとつは、損得。

もうカラクリがバレてすでに一部の人には飽きられているものの、感染症に怯えて政府が推奨する感染対策を続けてもらわないと困る人間が、さらなる利益拡大のため、頑張って煽っている。ご苦労様。

こっちは正直どうでもいい。

 

もうひとつは、病。

こちらについて、今日はまとめていきたい。

 

「他人の幸せは自分の不幸」という洗脳

日本は戦争に負け、植民地となった。

多くの人は独立国家だと思っているが、実際は違う。

欧米諸国の言いなりで、彼らの利益のために飼われている。

近代化の名のもとに戦後教育が布かれた。洗脳するために。

西洋が先進的で正しく東洋は未熟で発展途上だと刷り込み、上書きしていった。

その結果、見事に思考停止の愚民国家に仕上がった。

彼らにとっては、いい仕事をしたというところか。

日本人を、アメリカ・ヨーロッパに憧れ猿真似をする立派なイエローモンキーに変容させたのだから。

 

義務教育は、都合よく動く奴隷が頭に入れておくべき予備知識を詰め込む洗脳教育として普及して久しい。

私たちは彼らに都合の良い情報を暗記させられ、ちゃんと覚えたか確認される。

定期考査という名の奴隷テストである。

「どれだけ物覚えがよく従順な奴隷か」を測定するテスト。これで横並びに比較される。

そして、この奴隷テストで偏差値が決まり、将来の平均年収が決まる、と脅される。

奴隷テストで良い点を取らなくては、限られた恩恵にあずかれない。

そうなれば、クラスメイトは仲間や友人ではない。敵である。

他の人間が良い点を取ることは、自分の奴隷としての順位を下げることであり、喜ばしいことではない。

 

こんな経験はないだろうか。

クラスで成績のランキングが発表される。

自分より成績の悪いクラスメイトを心の中で嘲笑いながら、何となく安心する。

自分より成績の良いクラスメイトを心の中で恐れながら、何となく「失敗すればいいのに」と妬む。

でも「友達とは仲良くするもの」と先生から教えられているので、そんなことは感じてはいけないと蓋をする。そして、表面上は仲良しこよしのフリをして、ひとりぼっちにならないように愛想笑いを振りまく。

集団から孤立したら皆のストレスのはけ口になってしまう。「生贄」にされないために、多数派に属そうとする。

自分がクラスのヒエラルキーのなかでどの位置にいるかを、内心怯えながら推し量って行動する。

そして卒業したら、特に何の関係も無くなる。

 

これは、一般的な学生時代の心理状態である。

ここで刷り込まれているのは「他人の幸せは自分の不幸」という前提だ。

ルサンチマンに駆られて奴隷同士でいがみあうように、奴隷同士で真の心の結束を持たせないように、自分の立場をわきまえて自制し権力者に逆らうことなど思いつきすらしないように、躾けるシステムが正常に働いている。

そのシステムにより。奴隷は他の奴隷の幸せを憎み、足を引っぱるようになる。

そうすることが、自分が幸せになるために必要だと、無意識に刷り込まれている。

だから私たちは、他人の不幸を蜜の味だと感じる。

他人の幸せな姿をみると、むかっ腹が立つ。

そういう風に教育されている、というか飼育されているので、それが自然。

 

他人を下げることで相対的に自分を上げたい

失敗した人、間違えた人を、執拗に叩くのも、よく見る光景だ。

なぜそんなにも攻撃的になるのか。

それは、自分が上がるには他人が下がらなくてはいけない、という相対的な価値観に囚われているから。

これも、丁寧に施された奴隷教育により、そう認知の歪みを起こすよう幼少の頃より丁寧に躾けられた成果だ。

 

自分の失敗は隠す、あるいは認めない。

失敗を隠しきれなかった人間に制裁を加え、地に落とす。

エリートほど無謬性の神話に囚われて、謝り方をまるで知らない。

失敗しないように生きてきて、失敗をどう謝罪すればよいかを知らない。

そんなことは学校で習わないから。

それゆえ、謝罪会見などは炎上する。

形ばかりの似非謝罪が書かれた紙を読み上げることしかできないので、謝意が被害者の心に届くことはない。そもそも、謝意そのものがない。自分がこれ以上責められないために、自己保身と自己弁護の言い訳を謝罪っぽく聞こえるように発声しているだけ。

謝罪する人間を叩く側も、受け取る気がない。

謝罪を要求するとき、基本的にその人間を貶めることを目的としている。

だから、言い回しや言葉尻を捕らえて挑発することでさらに失言を引きだそうとする。

社会的制裁を確定させ、対象が明らかな不利益を被る姿を見るまでは、執拗に攻撃する。

奴隷教育で培った「いじめ」のテンプレートに沿って、奴隷同士足を引っ張り合っているのが、ネット炎上の正体。

実に下らない。

 

本来、他人がどう生きようが、自分の人生の価値には影響しない。

その人にはその人の、私には私の与えられた人生があり、それぞれがオーダーメイドなので、比較することは難しい。というかできない。

そもそも比較できないものを比較しても、意味がない。

他人が何か嬉しいことがあってハッピーになったのなら、それは私にとっても良いことだ。

なぜなら、他人に良いことがあれば、その人は機嫌よく生きていられる。私は機嫌よく生きている人間といるほうが、不機嫌な人間といるより好きだ。ストレスがない。

一緒になって喜んでいれば、お互いにストレスなく生きることができる。

ひとつのパイを奪い合っているように錯覚させられているが、実際はそれぞれにパイは配られている。

生まれや運でそのパイの大きさは多少誤差はあるかもしれないが、他人のパイを小さくしても、自分の手元のパイは大きくならない。

それぞれのオーダーメイドのパイ生地に、どんなフルーツを乗せようか、どんな風に食べようか、ご機嫌に話していればよい。

それなのに、必死で他人が大切に抱えているパイを足で蹴落とし土をつけようとする。

自分には本来、何の関わりもないのに。無益なことだ。

そんなことをして他人のパイばかりに注目しているので、自分の手元のパイはいつまでも完成しないし、魅力的なものにならない。

そして目を離しているスキに、別の他人に蹴落とされる。

 

 

他人にも同化を強いるのは無理して我慢しているから

本当は、自由に生きたいと誰もが思っている。

しかし権力者の言うことをしっかり守るように躾けられてきた私たちは、ルールに自ら縛られる。

「法の奴隷」としての性質を合理主義・功利主義の観点から補強されるので、もはやそのルールの檻から抜け出せない。

 

教育もそうだが、島国として培ってきた陰湿な性質もある。

島では、物資も人も限られた環境であり、頻繁に争っては生活ができないので、できるだけ争わないようになる。

争わないようにはするが、人間同士なので不満は溜まる。

不満が溜まっても、生活のために我慢して合わせる。

そうなると、我慢するのが当たり前だと信じなくてはやっていられなくなる。

なので、我慢せずに思ったことを素直に言っている人をみると「自分だって我慢しているのにズルい」と怒りを感じる。

表立っては争えないので、怒りの矛先を向ける場所がなくなる。

 

この場合奴隷がとる対処方法は二つ。外に発散するか、内でわからないように攻撃するか。

 

外に発散するケースの説明として、沖縄がわかりやすい。

沖縄県民は「うちなんちゅ(沖縄の人)」と「やまとんちゅ・ないちゃー(内地人・沖縄の人ではない人)」を明確に区別する。そして心理的に距離をおく。

自分たちの結束を高めるために、外の人間である「ないちゃー」を仮想敵として活用する。その仮想敵に怒りの矛先を集中させることで、内部分裂を避ける。

 

内で分からないように攻撃する方法として、集団から孤立させる、というのがある。

よくない噂を流す、嫌がらせをする、などその集団からはじかれるように手練手管を尽くす。

うまくいって集団から排除できれば儲けもの。

排除できなくても、従順な奴隷同士で手を組んで、チクチク痛めつけて溜飲を下げる。

 

残念ながら、洗脳される前からそういう同調圧力の強さ、陰湿な性格を持った民族が、日本人である。

 

本質的な問題点は、納得して「我慢すること」を選択できていないことにある。

自分の判断が他人から与えられる損得か恐怖で誘導されているので、自己効力感がなく、納得感もない。

それが不満を感じる根源。

みんなで暮らしていくためにある程度の調和が必要であったとしても、アサーティブに話し合ってお互いに納得できる着地点を探すのが、本来の姿だ。

しかしそうした真の民主主義を実践する自我も勇気も持たない奴隷の我々は、こぶしを握り締めながら卑屈に引き下がる。

 

自分の意見を表明するのを恐れる。

他人と違ってはいけない、と周囲を窺う。

主張するに足る「正しさ」という保険を他人から持たせてもらえないと、何も言えない。

真の意味で、自分で何かを決定することができない。

だから生きていても空虚に感じる。他人の言いなりで今までずっと生きているから。

できないことをしている人を見ると、劣等感を感じる。劣等感を認めることもできない。

だから自由で素直な人を余計に攻撃せずにはいられない。

みんなで誰も自由にできなくすることで、各々の不自由を肯定する。

惨めな民族である。

不毛な社会である。

 

まとめ:全ての答えは自分のなかにある

義務教育のせいだ、欧米諸国のせいだ、民族性のせいだ、というつもりはない。

おそらく因果関係としてはそうだろう、という仮説にすぎない。

状況はどうあれ、その人の意思はその人のモノだ。何人たりとも奪うことはできない。

 

奴隷の哲学者エピクテトスはこう言っている。

自由意志は 盗人の手のとどかざる 財宝なり。

 

 

つまり、どれだけ不自由であっても、たとえ手足を拘束されていたとして、意思だけは誰にも奪うことができない、ということ。

五賢帝時代の繁栄を奴隷という立場で見せつけられ続けたばかりか、足を悪くして思うように歩くことすらできなかったエピクテトス。

その彼が言うのだから、説得力がある。

 

たとえ、年端も行かない子があなたを馬鹿にして傷つけようとしてきたとしても、「その指摘は事実ではない」と思うのであれば、真面目に受け取らないし腹も立たない。

馬鹿にされて傷ついた思うのは、相手が言ったことを「その指摘は事実だ」と思うから。

相手が言ったことを自分が「そうかもしれない」と認めていると腹が立つ。

他人がどれだけ口汚く侮辱してきたとしても、それが事実でないなら気にしなくてもいい。腹を立てる必要もない。幼子が言っているデマカセと同じなのだから。

相手が言っていることを気にしなくていいとしたら、どう行動したいだろうか。

その意思だけは、エピクテトス大先生も奪えないとおっしゃっている。

 

その意思は、いったいどこへ行ったのだろうか。

もしやとは思うが、自ら、譲り渡してはいないだろうか。

損をしないために?これ以上痛い目に遭わないように?あるいは、無意識に?

 

己の唯一の所有物を、他人に献上しているから、奴隷なのだ。

人生がいつまでも不安と恐れに支配されるのだ。

 

この世に生と邪があるならばこれは正ぞ。

たとえ死んだとてあの世で父祖にこう言える。

戦って死んだと。家族を守ろうと死んだと。

女房を取り返せ。

子を取り返せ。

国を取り返せ。

己を取り返せ。

 

全ての答えは、自分のなかにある。意思を取り戻すことで、奴隷から人間に戻ることができる。「生きている」と言えるのはそれからだ。生きるというのは、そういうことだ。

【仕事】「善き大人」の見本がいない問題

もうこの国はダメだ。

 

今回の感染症の騒動でようやく私は気づいた。

それまでは、起きたら新聞を2紙(全国紙と地方紙)目を通し、テレビで朝の報道番組を見ながら支度をし、出社するのが「善き大人」の姿だと信じていた。

父もそうだったし、最初の会社の上司もそうだったし、今いる会社もそんな感じだ。

テレビや新聞は正しい情報を報道していると信じていた。

しかしそれは間違いだった。洗脳されるためのルーティーンでしかなかった。

最初の会社の社長は「記事を読むときは『この記事が出たら誰が得をするのか』を考えて読む」と言っていたが、これは今思えばとてもいいアドバイスだった。彼はある程度分かっていたのかも、と思う。

その人は、環境ビジネスをやっていて、大〇研一のビジネススクール出身。

やっているビジネスと経歴を考えると「ビジネスの世界での成功」という己の損得のために世の中の流れを看破しようと勉強した結果、そこまではたどり着いたのだろう。

世の中の動きを先読みして、投資可能性を計算し、利益を最大化するために。

しかし結局はそこまで。アストンマーティンやマセラティに乗りたいだけの、どこにでもいる強欲な経営者止まりだったように思う。

「善き大人」には、ほど遠い。

 

私は最近、テレビや新聞はさっぱり見なくなった。

ネットのニュースも全く関心がなくなった。

どうせ、何もかも誰かが金儲けのために投資してできているコンテンツ。

わざわざ貴重な時間を消費して触れる価値などない。

ここは信頼できるかも、と思っても、結局権威的な何かと繋がっていて、誰かへの忖度が垣間見える。

偽物しかないということがわかった。

 

金儲けは、もう飽きた。

だから困ったことに、仕事にも全く興味がなくなってしまった。

今、私は営業職をやっている。

営業職は、本来、売上推移・新規納入先などを毎日チェックするのが当たり前と教えられてきた。

与えられた計画とどの程度進捗にギャップがあり、どうやってギャップを埋めるかを考え行動計画を策定・適宜修正する。そして必要な行動をいかに早く質高く実行するかを考えるものだと教えられてきた。

今までは結果を求めて意欲的に取り組めたそれらの作業が、とんでもなく、つまらなく感じるんだよ最近。

そもそもこの作業には何の意味があるのか、と深く掘り下げると、底には何もないことに気づいてしまった。

 

仕事は、ゲームと何も変わらない。

ゲーム内で「こうやればうまくいくんじゃないか」と仮説を立てて実行して検証する。得られるのはゴールドだったりルピーだったりギルだったりした。

ゲーム内の通貨を貯めれば、新しい武器や防具が手に入れることができて、強くなれる。戦闘を積み重ねるほど、経験値が手に入り、レベルが上がる。

仕事というゲームでは、通貨が「円」、強さは経済力、レベルは社会的地位、と呼び方が変わるだけ。物語のシナリオがあらかじめ決まっていない、不確実性があるだけ。ギャンブル性が高い。だからハマるんだろうな。

残念ながら、いくら経済力をつけても、人として強くなっているわけではない。社会的地位がランクアップしても、魂のレベルはアップしない。

むしろ劣化していく。

横並びのプレーヤーと、経済的価値という点で比較して「勝ち組」「負け組」などと互いを罵り合いながら、一喜一憂している「大きなお友達」。それが「現代の大人」の姿。

つまり、ガキのまま図体だけデカくなり、どんどん人としてつまらなくなったのが、今の大人たちの平均的な姿だ。

 

高度経済成長期には、「ビジネス」は大流行りのゲームだったのだろう。

物質的な豊かさを求めて、それが手に入れば幸せが手に入ると信じた。

ある程度やればやるほど報われる幸運な時代だったので、どっぷり依存した。

それを国も社会も奨励した。24時間働けますか?と。

そうやって、国を挙げてゲームに狂乱している間に、人として生きるということを忘れてしまった。

「善き大人」になろうと己の哲学を深めることもなく、心のど真ん中を空っぽにしたまま、ゲームの攻略法ばかりあーだこーだ言っていて、ふと気がついたら寿命がきている。

実に空虚だ。

なんとなく空虚な人生を過ごしていることは、本人も本能的に自覚している。

しかし深く考えてしまうと、今まで生きてきた人生の背骨をボキリと折られて足元から瓦解するから、否認して無意識のうちに考えないようにしている。

自分と同じように生きることを他人や子孫にも強要する。自分は間違っていなかったと思い込んだまま死にたいから。

本当に大切なことを置き去りにしたまま「これが正しい人生なんだ」とひたすら逃げてるだけ。

依存症者が、自身の心の中にある不安と恐れを否認して問題行動を続けている状態と同じ。

その世代と国境を超えた依存のツケが今、ここにある。

 

なぜ子供たちがYoutuberやプロEスポーツプレーヤーになりたがるのか?

そりゃ、私たちがしている仕事が、つまんなそうだからだ。

仕事というゲームより、他のゲームのほうがおもしろそうに映るだからだ。

子どもたちはまだ人間らしさを失っていないので、楽しく生きることが本質だと感じていて、純粋に求めている。

私たち大人は、景気が低迷してもう面白くなくなった仕事ゲームを「これは一番大事で価値があるゲームなんだ」と自分が本心から楽しめてもいないのに、「やるのが当然」だと次世代に有無を言わせず押し付けようとする。

当然反発される。

そんなの、つまんなそうで辛そうにしている大人の表情をみれば、一発でわかる。クソゲーだってことがバレバレ。死んだ魚のような目で日々を過ごす大半の大人みたら、絶対地雷だろって思うよね(笑)。こんなふうになりたくないと思うのは、自然な思考。

「真面目に勉強して良い大学に行って良い会社に入って社会で評価される。」

この王道シナリオは、とっくの昔に崩壊している。

なぜ崩壊しているのか?

このシナリオは、根本的に「やっても意味がない」からだ。

シナリオを追っても幸せを感じられない。他人の目によく映るという「変えられないもの」を変えようとするから、基本的にうまくいかないし、うまくいっても満たされない。

他人のためと口ではきれいごとを言いながら、ビジネスは最終的には自分のためでしかない。本質的には誰かの何かの役に立っているわけでもない。

自分のためにやっているはずが、他人はおろか自分すら幸せになれない。そんなのやる意味がない。

 

そもそも大人は「この社会は素晴らしい」という嘘をついている。

この社会は素晴らしくもなんともない。腐りきっている。

社会的な規範など正しくもなんともない。コントロールのための楔だ。

子どもたちには「嘘をついてはいけません」と教えるのに、嘘しか言わない。まるで説得力がない。

私たちの生き様から、素直で純粋な子どもたちは見抜いている。

だから、言葉を尽くしても信用してもらえない。

なので、圧をかけて従わせようとする。それが「しつけ」。

 

嘘つきばかりで「善き大人」の見本がいない。

子どもたちにとって「この人みたいに生きてみたい」と憧れられる本物がいない。

成功者など、金集めがうまいだけ。尊敬とは程遠い。

金や物では本質的に満たされないことを、私たちを通して子どもたちはすでに気づいている。

でも、寄る辺がない。

道しるべがない暗闇を歩いているようなものだ。

そりゃ、精神を病むし、自殺もするだろう。すべては大人が不甲斐なくてダサいから。年とってもこんなもんかよ、と絶望して人生を降りる。その気持ちはよくわかる。

狂ったシステムになじめない正常な子は、不登校にもなるだろう。

現代社会を「ここは私が居たい世界じゃない」と思えば、オンラインゲームやSNSに逃避するのも当たり前だろう。

学校に通えない子どもたちに問題があるんじゃない。社会が狂っているから、拒否反応が起こっているだけ。私たちが築き上げた虚構の社会に問題がある。

それをこども個人の問題だと思ったり、教育機関の問題だと思ったり、保護者の問題だと思ったりしている。

笑えないほどズレている。

そりゃ生きづらさ抱えるよ。

結局全部金儲けでしかないんだもん。

つまらんよ、そんな社会は。

次世代はもう、株主資本主義社会・資本主義経済社会は、つまらないということに気づいている。

 

ここまで読んで「じゃあ何が面白いんだ?他にどんな意義深いことが、仕事以外にあるんだよ、言ってみろ」と思う大人がいるだろう。

 

お答えしよう。

「自分が心からやりたいとわくわくすること」だ。

 

それが金になるのか、そんなことで生活できるのか、だって?

生きるために金稼ぐのか、金稼ぐために生きるのか、どっちなんだよ。

前者だろうよ。

生きるのが先なの。生きるってことは、自分のしたいことを素直に自由にすることなの。

それが先なの。それが人生なの。仕事なんてのは必要最低限のゴールド稼ぐためのサブクエストなの。

食べるものはつくればいい。買わなくても、金かけなくても、生きていける。家庭菜園でも何でも、やれば何とかなる。タンパク質は豆からも魚からも摂れる。わざわざ畜産やらなくても。

着るものはつくればいい。どんなに着飾ったって、中身がスカスカじゃ意味無いんだから。寒さをしのげれば充分。

住む場所くらいだろう。金がないと手に入らないのは。職人技だから。

本当に必要なのはこの3つだけだ。

三大随筆の『徒然草』で兼好法師はこの3つ以上を望むことを「贅沢」といった。

これ以上の物質的豊かさや地位や名声を私利私欲に任せて求めることは、不幸の種。

来世にキャリーオーバーできないのだから、必要以上のものをいくら集めても意味がない。

この「贅沢」に踊り狂っているのが、今の成功者であり「勝ち組」と言われる者たち。

つまり、可哀想な人たち。

 

可哀想な人たちを「あれが目指すべき姿」って言われても、( ゚Д゚)ハァ?ってなるでしょ。

そういう感覚を無意識に感じてるんだよ、子どもたちは。

最低限のもので満足して心穏やかに過ごせる成熟した存在こそ、本物の「善き大人」。

結局人生の喜びというのは、限りある時間をつかって全力で自分と世界に向き合うことのなかにある。

それ、本当に本気でやってる大人がどれほどいる?

金と欲に翻弄されて、未来の不安に怯えて、そんなふうに生きるのは人生じゃない。本当の意味で人生を生きていない。

だから失望されるんだよ。

「こいつら生きてるふりしてるだけだ」って。

 

学歴のための教育の金は必要ない。あれは教育ではない。学歴はただの奴隷通行証。「私はとっても従順な奴隷です、使ってください」という名札を首から下げているだけ。

この現代に良い仕事などない。どれも詐欺ばかりだ。手が込んでいるか、込んでないかの違いだけ。本来必要のない余剰を、いかに必要っぽく見せるか、いかに欲望を煽るか、やっているのはそれだけ。

第1次産業が最も尊い。

最も尊い仕事の評価(経済的価値)が最も低い社会など、まともな社会ではない。

いずれ潰れる。

そんな終わりが見えている社会なんて、従わなくていいし、順応しなくていい。

 

私たちがやることは、社会に迎合することではない。

私たちがやるべきことは「やりたいこと」それだけだ。

それをやるために、命がある。

それをやるために、衣食住が要る。

それを得るために、最低限の金を稼ぐ。

「やりたいこと」に集中するために、人生を最適化すべきだ。

ということは、できるだけ金に依存しない生き方が最も良い。

要らぬ「贅沢」を極力削ぎ落していく。

答えは自分自身のなかにしかない。本心に向き合う時間こそ最も重要。

貴重な時間を「仕事」というつまらん遊びに費やし、言い訳しながら虚勢を張って尊大にふるまっている大きい子供のいうことなど、誰が聞くだろう。

そういうところなんだよ。

そういうのが見えてないから、見えていないことすら認識できていないから、あきれられる。

言うこと聞かないのは当たり前なの。

聞く価値ないと思われてるんだから、しかたないの。

 

できるだけ経済社会から脱出して生きていきたい。

本当にやりたいことをやって、イキイキと過ごしたい。

本当に世の為人のためになることは、もうビジネスには求めない。

自分の道を進むしかない。

その背中が、希望そのものであり、次の世を創る。

私は兼好法師のような光になりたい。

 

 

【哲学】あした死ぬかもよ?(ひすいこうたろう)

尊敬するマルクス・アウレリウスも『自省録』のなかでこう言っている。

今日まで君は、どんな態度で過ごしてきただろうか。

神々に対しても、両親・兄弟・配偶者そして教師や友人に対しても、誰に対しても、君はひどい扱いをしたり、ひどいことを言わなかっただろうか。

そして、君がこれまで経験してきたこと、耐えてきた困難を思い返してみるのだ。

君の人生の物語は、今ここで、終わった。

世のため、人の為にやれることはもうない。任務は、終了したのだ。

今こそ思い出すがいい。

これまで君が見てきた、美しいものを。

そして、どれだけ多くの苦痛や快楽に負けず、どれだけ多くの名誉に囚われず、どれだけ不親切な者たちに親切な態度を示したかを。

さあ、思い出してみるのだ。

 

 

彼は毎日ナイトルーティーンとして自らを振り返り、記録を続けた。

死すべき存在である自分を常に忘れず、一日一日を人生最後の日のように過ごす。

その生々しい人生の記録の集積が、この『自省録』である。

だからこそ手に取るたびに温かく清々しい気持ちを取り戻せる。

 

君も私も必ず、いつか死ぬ

これだけは失いたくない。

そういうものが、あなたにはいくつあるだろうか。

家族?友人?ペット?家や貯金などの財産?今の仕事のポジション?

 

残念ながら、私たちはそれらを、いつか必ず全て、失う。

死んだら、今持っている何もかも失う。

そして、それは誰にでも必ず訪れる終焉。

いつその時が来るかは、誰にもわからない。

明日かもしれないし、明後日かもしれないし、もっと先かもしれない。

でも、100%間違いなく、あなたは全てを失う。私も失う。

 

あなたは今日死ぬとして、このまま寝たらもう二度と目覚めないとして、どう思うだろうか。

 

決して誤解してほしくないのは、私はあなたに「だから頑張れ」などというつもりはないということだ。

今日が最後の日だと思って一生懸命やろうとか、そんな安っぽい自己啓発本みたいなことを言うつもりは毛頭ない。

人生最後の日だったとしても、頑張れない日は頑張れないだろうし。

 

「楽しかった、悔いはない」と思うだろうか。

私は人生山あり谷ありでエキサイティングだったので、今日死んだとしても別にかまわない。

結構満足だ。充分楽しかったし苦しかった。

美しいものもたくさん見ることができた。もうすでに、必要なものは与えられるだけ与えられたと思っている。

 

いろいろ失った。

出世の道は、懲戒処分によって失った。

もっと貯められたであろう給料のほとんどは、酒に消えた。

酒を飲んできた結果、アルコール依存症という病名を背負い社会的信頼を失った。

酒の飲み過ぎとタバコの吸い過ぎで、健康な体も失った。

コンクリに頭からダイブして前歯も失ったなぁ。

失ったものは数えきれない。

でも、本当にそれが必要だったかというと、そんなに必要じゃないと失って気づく。

肉体は、生まれた瞬間から失われ始める。そして、いつか必ず土に還る。

だからいずれなくなるものなので、失ったところで遅いか早いかの違いだ。

出世や社会的信頼も、死んだらもう関係ない。

給料や財産も、黄泉の国へは持っていけない。いくら貯め込んでも意味がない。

 

失うことは不幸ではない

不幸とは、失うことではない。

不幸とは、今際の際に「もっと○○しておけばよかった」と後悔することだ。

いくら分かりやすい価値に恵まれていても、死ぬ間際に嘆きながら亡くなるなら、その人の人生は不幸せだろう。

なぜ後悔するのか。

それは、心のままに自由に生きられなかったからだ。

 

あなたを縛る制限は、あなたの心の中にある。

「やりたいけど、やってはいけないことだから」

「今はもっと重要なやらなければならない(と言われている)ことがあるから」

「失敗しないようにしないといけないから」

「嫌われないようにしないといけないから」

「みんなと仲良くしないといけないから」

たくさんの「○○でなければならない」「○○しないといけない」で自分を縛り上げてはいないだろうか。

そうやって自分で自分を雁字搦めにして、思うように生きられなかったとき、人は死ぬときにこうつぶやく。

「そんなこと気にしないで、もっと楽しめばよかった」と。

あれもしたかった、これもしたかった、会ってみたい人にも会えていない、見たい景色も見れていない、本当はしたかったことが走馬灯のように浮かぶ。

そして、絶望のなか、目を閉じる。

そして二度と目覚めない。意識も肉体も、消えてなくなる。

 

どうせ死ぬのだ。

どうせ死ぬなら、好きなように思い切り生きよう。

 

私はお酒で大失態をして、懲戒解雇を検討されたことがある。

誰とも連絡を取るなと会社から厳命を受け、自宅待機を命じられた。

部屋に座り込んで茫然としていると、一日が終わる。そんな毎日を過ごした。

もう、社会的な死は免れない。私は終わった。そう思った。

よろよろとホームセンターに行って自殺用のロープを買い、どの山で首を吊るかをスマホで調べた。

妻に懲戒処分の検討中で、最悪解雇になるかもしれないと告げた。

「仕事なくなったって、また別の仕事探せばいいんだし。あなたが一生懸命に頑張ってたこと、私は知ってる。だからまあ、大丈夫なんじゃない?なんとかなるっしょ。人生なるようにしかならないし。」と笑いながら返された。

そっかぁ。じゃあ一回死んだと思って、生きてみようか。

そう思って今がある。

アルコール依存症の治療に向き合い、アダルトチルドレンの課題に向き合い、発達障害としての自分に向き合い、今がある。

私の死ぬ意志は本物だった。だから、もうどうせ一回死んでるんだし、ダメでもともと。

思いつく限り何もかも試してみて、それでもダメなら、そのときに終わりにすればいい。

何もかもやってみたけどダメでしたってわかってからでも、自殺するのに遅くはない。

そう思い直してふっ切れた結果、今がある。

 

己の声に耳を傾け、全身全霊で生きてみた結果、私が大事だと教えられてきたことは大して大事でもなかったことがわかった。

守らなくてはならない、と教えられてきたルールは、守らなくてもいいことがわかった。

失ったら大変なことになる、と教えられてきたが、失ってもピンピンして生きている。

教えた誰かが悪いのではない。彼らも自分を縛り上げていただけ。

自分を縛っていたのは、自分自身だった。自分自身の恐れと不安だった。

 

あなたは今日が人生最後の日だとして、何を思い、何をするだろうか。

今抱えている悩みは、人生最後の日にも悩むことだろうか。

人生とは、限られている。

偉大な何かから限られた時間を与えられていて、私たちはその「時間」という与えられた無形資産を消費しながら生きている。

あなたが今やっていることは、何もかもすべて、命を懸けてやっていることだ。

そう、命がかかっている。

Twitterをみるのもそう。Youtubeをみるのもそう。仕事の愚痴をいっているのもそう。仮想通貨の相場に一喜一憂するのもそう。子どもと昼寝するのもそう。愛する人に「愛している」と言葉を贈るのもそう。虫を捕まえようと必死に走り回るのもそう。ランニングをするのもそう。食事を食べるのもそう。顔を洗うのもそう。歯磨きをするのもそう。コーヒーを飲みながらテレビを見るのもそう。出世を気にして意味がないと思いながら無駄な仕事をするのもそう。嫌われないように愛想笑いを浮かべるのもそう。

あなたが今やっていること、今日やろうとしていることは、命を懸けてでもやりたいと心から思えることだろうか。

そうじゃないなら、やらなくてもいい。私が保証しよう。失ったってたかがしれている。

 

やりたいと思うなら、やればいい。

やりたいと思えることをやればいい。

あなたはいくら楽しんでもいい。

あなたはいくら失敗してもいい。

あなたはいくら嫌われてもいい。

 

あなたは、幸せになってもいい。

 

さあ、楽しい一日の始まりだ。

人生最後の今日を、はじめよう。

 

 

【AC】お盆は休みではない

きっと皆さんはお盆明け、仕事に戻るとこう言われるだろう。

「お盆休みはゆっくり休めましたか?」

休 め る わ け ね ー だ ろ 。

仕事よりしんどいよお盆は。

 

「お盆休み」という激務

お盆・お盆休みとは、そもそも何なのだろうか。

 

お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。

かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。

期間

お盆休みは江戸時代には既に定着していた連休で、明治以降も1872年(明治5年)までは旧暦7月14日から7月16日まで3連休となっていた。

全国的には以下のいずれかにお盆を行うことが多い。

旧暦7月15日(旧盆)
沖縄・奄美地方など。旧暦によるとお盆の日程は毎年変わり、時には9月にずれ込む[注釈 1]
新暦7月15日(もしくは前後の土日)
東京などの大都市部や東北・北陸地方の一部の都市など農繁期と重ならない地域では新暦7月15日となっている[1]。東京盆と呼ぶこともある[1]
函館[注釈 2]、東北地方の一部[1]、東京下町・横浜中心部・静岡旧市街地、栃木市旧市街地、山形県鶴岡市街地区(鶴岡市鶴岡駅前、白山、赤川堤防西岸、文下田南、外道地区以北)、石川県の一部(金沢市旧市街地、白山市旧美川町地区、かほく市旧高松町高松地区)、佐賀県有田町 など[1][3][4]
新暦8月15日(月遅れ盆)
ほぼ全国的に多くの地域。

由来

仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。

お盆休みの帰省は、故郷を離れて暮らすことが一般化した昭和の後半から全国的に見られるようになったが、悼むべき故人に大戦で亡くなった親類縁者を共に加えて行うことも少なくない。

 

引用:Wikipediaより一部抜粋

 

つまり要約すると、夏に先祖の神霊を慰める儀式の総称がお盆で、そのための期間がお盆休み、ということになる。

家という共同体の恒例行事である儀式をするために、仕事をしないだけだ。

昭和後半以降は核家族化がすすみ、地方の実家を離れて都市部に住む働く世代が、その期間に帰省するという風習が定着したにすぎない。

帰省する側・迎える側が実際にやっていることは「先祖の神霊を慰める儀式」ではないので、本来の宗教的な観点で言えばほぼ意味を失っている。

では、儀式をやめて何をしているか。

親から子への、過干渉とイネイブリングである。

 

今夏は皆さんに、ちょっと奉仕をしてもらいます

古来の風習を口実に実家という自分の土俵で手ぐすね引いて待っている実父母・義父母。

彼ら彼女らが何を企んでいるか。

若者から自分に対する奉仕を引き出すことだ。

期待する奉仕は、精神的なものの場合もあるし、肉体的なものの場合もある。

 

精神的な奉仕の代表的な例としては「自分たちの存在を肯定してもらう」という奉仕である。

孫たちに「お盆玉を渡す」「何かを買ってやる」「遊びたいだけ遊ばせる」という甘やかしの切り札を切る。

求めているのは、「おじいちゃん、おばあちゃん、大好き」であり「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう」である。

実子とその配偶者にその姿を見せつけて恩を売る。

「本当によくしていただいて。来年もまた帰ってきますね。」と言質を取る。

空っぽでつまらない己の老後の生活に潤いを与えるために。

「自分の人生はこれで本当に良かったのか」という漠然とした不安を一時的に忘却するために。

自己肯定感を求めている。

 

あるいは、未婚の娘や息子に対して「いつ結婚するんだ」「いい相手はいるのか」「結婚して早く孫の顔を見せてほしい」などとプライバシーの侵害をする。

孫の結婚や就職や子育てに口を出すのも、同様にプライバシーの侵害だ。

これによって引き出したい奉仕は、勝利させてもらうことだ。

未熟者というレッテルを張って、自分が勝ち確のマウンティング合戦を子供や孫に仕掛けて勝利を味わう。

この対戦において、自分たちはもう結果を持っているので有利だ。

結婚ができた、妊娠出産ができた、子育てができた、だから今がある。

こうした自分の人生の結果・人生の選択を、善いことで間違っていなかったのだと他人に肯定させたい。

当然、話を振られた未婚の娘や息子は不利な立場を強いられる。

なぜならまだ選択を決定していないので結果を経験していないから。

経験している立場と経験していない立場の、埋めがたいギャップが彼らの勝算だ。

もし「結婚や出産は求めていない」という自分の価値観を主張しても、彼らは必死で言いくるめようとする。

いかに結婚が素晴らしいことか、子供を持つことがいかに素晴らしいことかを、自分に言い聞かせるように延々としつこく悦に浸りながらプレゼンする。

他人の自慢話ほど聞くに堪えないものはない。

ひたすらめんどうくさいので「ハイそうですね頑張ります」と言っておいて、その場を終わらせるのが最も手っ取り早い。

その諦観と絶望からくる表面的な返答を聞いて、彼らは安堵する。

議論に勝った、自分たちの思い通りに説得できた、と思い込む。

そして、結果が伴わない限り、心配しているふりをしながら舌なめずりして同じマウンティングを繰り返す。次の夏も、その次の夏も対戦を仕掛けてくる。

自分の人生の選択について他者からの肯定を得たい。そのために、わが子やわが子の家族を生贄に捧げる。

これが、精神的な奉仕の例。

 

肉体的な奉仕の代表例は、食事の支度や義父・親戚一同の世話係である。

これは、特に女性に集中的しがち。

休みなんてとんでもない。他人のジジババや知らない大きなお友達の分まで働かされるのだから、いつもより仕事が多くなる。休まるわけがない。

黙って出されたものを静々と口にして「おいしいね、ありがとうね」と言っていれば、まだかわいげがある。

たいていはそんな風ではない。

「味付けがおかしい」だの「もっと健康なものを食べさせてあげないと」だのと作業の途中で謎のマウントを取り始める。挙句の果てに息子の嫁の調理の途中で「もう見ていられない」と手を出し始めるような義母の話を聞くことがある。

ただの邪魔である。やばい。

最終的な目的は、息子から「やっぱりお母さんの味が一番だな」というマザコン言葉を言わせることだ。義母が作った品と息子の嫁の品を比較するために、あえて嫁にも作らせたのだ。

醜悪さに怖気が走る。

そんな気持ち悪い出来レースを見せられたら、妻は激怒する。

「いや、そんなら、最初から自分だけで作れよ。お前の料理出したいなら準備しとけよ。こちとら毎日家事育児に追われて疲れ果ててんだから無駄に手伝わすなクソババア。」と思っても無理はない。怒り心頭だろう。当たり前だ。

義母のほうはいい気なもので、自分が今までやってきた家事育児を肯定されるようで気分が高揚し機嫌がよくなる。ますます息子の嫁からすればストレス以外の何物でもない。

息子の嫁は面目丸つぶれの状況をつくられて、ますます義母が嫌いになるだろう。夫のマザコンっぷりに辟易として愛想をつかす。夫婦の人間関係に亀裂を生むだけだ。

「他人の家」の人間関係を荒らして、後々まで続く呪いのような家庭不和を植え付けるだけなのだが、自分が認められることしか頭にないため、想像が及ばないのだろう。

また、自分に育児の責任がないが血の繋がりのある赤ちゃんや幼子と触れ合おうとするのも、幼い彼ら彼女らに身体的な奉仕を強いているといえるだろう。

老いさらばえてカッサカサの肌の自分とは違う瑞々しい肌を撫でまわして、かわいいかわいいと言って孫から生気を吸い取る。その姿はまるで妖怪である。

これが肉体的な奉仕の例。

 

休みではない。奉仕をしに行くということは仕事だ。仕事よりしんどい激務。奉仕という激務だ。

せっかく与えられた休みをつぶし、わざわざ住み慣れた家を離れ、安くない移動費を自己負担し、田舎に住む妖怪たちに己が身を貢物としてお供えするようなものだ。

だから、コロナだろうがそうでなかろうが、帰省したくない人が多いのは当たり前だ。

 

 

まとめ:里帰りではなくお祓いが必要

結構極端に書いたが、おおむね中らずと雖も遠からずといったところではないだろうか。

「ご先祖様あっての自分、だから感謝しろ」

「先祖の墓参りにもいかないでいると、バチが当たるわよ」

なとどいう人がいるが、そんなわけがない。

ご先祖はご先祖なりに人生を生き、そして死んだんただろう。たぶん死後の感謝など求めてはいない。自分が今を生きるためにやったことだ。自分のためだ。

私を生かしてくれているのはご先祖だけの力ではない。この世界のすべてが、私を生かす私の一部だ。だから毎日感謝している。なので、わざわざ夏に交通費をかけてまで特定の一部にだけ感謝を表明する必要はない。

バチなど当たるはずがない。自分の血族を呪うなんて、どうかしている。

そんなことするなら「あんたどうかしてるぜご先祖さんよ」と言いたい。

もしそんなご先祖の霊がいるとしても、私たちがありのままの自分で生きることを望み、温かく見守っているはずである。

「貴重な休みにわざわざ墓になんて来なくていいから、楽しく過ごしなさいな」と思っているはずだ。

私の先祖なのだ、そうに違いない。だから呪われるわけがない。

 

結局、前述のような奉仕を獲得するための、父母側の口実の一つでしかない。

あれやこれやと脅して子供の行動を支配しようとしている。いわゆるイネイブリングのための論法である。

だから無視していい。

実父母、義父母の精神的な問題である。というととは私たちにできることはない。どうか勝手にがんばってほしい。私たちは休みたい。そして限りある今を自由に過ごしたい。

 

ていうかなぁ、なんていうか。

正直に「毎日つまらなくてさびしくてたまらないので、どうかウチに遊びに来てください」と言えばいいのに。

断られるのが恐ろしいから、屁理屈をこねてコントロールしようとするんだよね。

ちゃんと今まで、年少者に対してアサーティブに対等に接していて、対等な関係を築いているならば、愛情は伝わっている。無駄に策を弄さなくても、勝手に会いに来るさ。

求めなければ会いに来ない時点で、お察しなんだよね。

成人した子供たちの貴重な時間を自分の寂しさを埋めるために定期的に奪うなど、厚かましいことだとは思わんかね。

「自分たちのことなんて心配しなくていいし様子なんて見に来なくていいから、好きなように過ごしてほしい」と、なぜ言えない。

本当は愛していないのか。いまだに子供を自分たちの所有物だと思っているからか。

確かにそんな利己的な人間が死んだら、その地で地縛霊になりかねない。

だから墓参りをしないとバチが当たるのかもしれない。

だとすれば、毎年手配しなくてはならないのは、里帰りの交通チケットではなく、悪霊のお祓いであろう。

【依存症】何かの「薬理作用」を信仰する危うさについて

私は「アルコール依存症」である。

酒はアルコールの一種、エチルアルコール(エタノール)を含有する液体をさす。

エチルアルコールの薬理作用として、脳(特に前頭前野)の鎮静作用がある。

私はこの鎮静作用を乱用すべく、酒を飲んでいたということになる。

 

そのほかの薬物に依存する人は、いずれにせよ薬物が持つ薬理作用を期待して、乱用に至る。

各薬剤の薬理作用のうち、中枢神経作用の分類は以下の通り。

引用:北海道飲酒運転防止研究会HP:【知っておこう】アルコール依存症の正しい知識と対応について(Part-1)より

自分を興奮させたいからコカインや覚せい剤を使うし、鎮静させたいからアルコールやヘロインやBZP(ベンゾジアゼピン系睡眠薬など)を使う。

 

医学的な病名としては、DSM-5において「物質使用障害」に分類される。

 

引用:厚生労働省 樋口委員配布資料「用語及び研究の推進について」-2 より

 

使用障害とは簡単に言えば「あなたの使い方まずいよね」ということである。

期待した薬理作用を「もっと強く」「もっと長く」と追及していった結果、本来せめて人間らしく生きていくために使用していたのが、本末転倒になる。

つまり、本来人間らしくあり続けるために必要不可欠だと思って自己治療的に取り入れたはずの薬物だが、その薬理作用に頼るあまり、客観的には「逆にもっと人として生きていくことが困難な人生になっちゃってますよね」という状態に陥っている精神的な病だ。

 

結局、病巣というのは、自分の「生きづらさ」である。

何かしら「歪み」を抱えて無理やり環境に適応しようとするから、薬物の薬理作用が必要になる。

その「歪み」を見つめてアプローチしないと、たとえばアルコールをやめたとしても、他の何かに頼る。生き方が変わらない限り、同じように依存する。無理やり環境に適応しようとする限り、埋めなければならない心の穴はそのままだからだ。

 

同じく精神疾患ととらえられている「うつ病・うつ状態」などについても、同じことが言える。

ご覧のようにたくさんの薬剤が製薬会社から発売されている。

主に薬理作用をザックリ簡潔に言えば、心身を安定させ満足感を感じさせる「セロトニン」というホルモンを増やすことだ。

(セロトニンについては過去にまとめているので、詳しくはこちらを後ほど参照いただきたい。)

それにより、不安状態や抑うつ状態を軽減して、服薬した人が生活できるようにしよう、というのが薬の開発意図である。

しかし、エチルアルコールと同じように、頼り過ぎれば毒になる。

本来、化学的に精製された化合物というのは、自然界に存在しないので、遺物である。

私はこういう化合物を提案する仕事をしてはいるが、基本的に飲まなくていいなら飲まないほうがいいに決まっている、と考えている。

化合物に依存せず、ナチュラルな状態で生活できること。

それが、治療的な真のゴールであり、薬が要らなくなることが最も良い状態だ。

だから、精神疾患の薬剤の存在意義は、補助にある。

にっちもさっちもいかない膠着状態を軽減して、当事者が己の病巣である「生きづらさ」に取り組めるようになるための補助的な役割が、抗精神病薬の本質である。

薬物で安定した仮初めの状態をつくり出し、そのドーピング期間を有効に利用して、CBT(認知行動療法)や運動療法や自己分析を行う。それにより、今までの生きづらい生き方を変え、自分なりの人生の歩み方を見つける。

その探索的アプローチがない限り、生きづらさは解消されない。

極論、薬は何も解決してくれない。あくまでも補助だから。薬が無くても生きていけるようにしようと思うのもするのも、本人にしかできない。

私は抗精神病薬を服薬することで、なんとかその目的を少しだけ達成できた状態と言える。

今までの生きづらさとは、アダルトチルドレンとしての認知の歪みであり、発達障害(神経発達症)に対する無知と否認であり、現代社会に対する過剰適応だった。

それが明らかになったので、薬に頼る必要がなくなった。

不思議なもので、抗うつ薬とADHD治療薬を服薬してきたが、人生の問題点が明るみになり、どう生きればいいのか自分なりの結論がはっきりした時期から、身体が薬という異物を受けつけなくなってきた。

どうも、逆に調子が悪くなるのである。

今まで病んでいた時期にそんなことはなく、むしろ服薬していたほうがすこぶる快適だったのに。

 

なので私は「この薬をいつまでも飲み続けてください」などとは決して言わない。というか言えない。そんなことを言う医療従事者は信用してはいけないと思う。

ずっとドーピングした状態で何とか生きられていたとしても、それは本人が「本当に生きていきたい人生」ではない。

それなのに「この薬を飲んでいれば大丈夫」だとか「これさえあれば仕事を続けられる」だとか、そういう安易な思考に陥る患者は危うい。

アルコール依存症の当事者と同じ匂いがする。

自分の課題に取り組まなくて済むので、依存しているだけだと思う。

そうやって誤魔化していたとしても、飲んでいるものは異物なので、ずっと飲んでいれば身体と心はまた別の支障をきたすだろう。

そうなればまた別の薬で症状を抑えようとするのだろうか。

そんな対処は対症療法であって、根治療法ではない。

だからずっと何かでつらいままの人生になる。

 

当事者が薬理作用に頼り切るのではなく、自分の心の本当の声を聞き、自分の意思と人生を取り戻す。

我々に頼らずともその人らしく生きていける。そのために薬学と医学がある。その根本的な立ち位置を見失った医療行為は、ただのイネイブリングだと思う。

 

薬に限らずとも、この世は対症療法的な情報であふれかえっている。

情報・エビデンス・権威。そういう一種の麻薬の「薬理作用」に依存している。

わかりやすいノウハウを求めるビジネス書。

有名な誰かが言っているから、権力を持つ何かが認めているから、という権威的なお墨付き。

心を軽くしてくれるような、顧客が言ってほしいことを言うだけの偽カウンセリング。

非現実で現実を忘れさせるための麻薬的なメディアコンテンツ。

手っ取り早く稼ぐ、社会的地位を得る、逃避願望をかなえる、そのための具体的な方法や技術(テック)はいくらでもあるかもしれないが、それらは何も解決しない。

自分の人生の舵取りをできるのは自分しかいない。

本質的な答えを持っているのは、自分だけだ。

誰かの成功例や何かの技術をいくら駆使して、権威を利用して外見だけ取り繕いうまく立ち回ったとしても、根本は偽れない。

それを知ってか知らずか、虚構に翻弄されている。そんな社会だよなぁ、と思う。

 

正直、自分に向き合うのは、とてもつらい作業だ。

誰もが嫌だ。誰もがやりたくないし、後回しにするのも無理はない。

でもそこにこそ歓喜があるし、人生における人としての輝きがある。

逃げたくなる時もあるだろう。それは構わない、ゆっくりでいい。

でも、私は自分の経験から、人生を誤魔化して無意識にあきらめないために、その作業の手伝いはしていきたい。

あくまでも本人が主役。それは私が私の人生においてそうであるように。

私の人生に対して払うのと同じように、他人の人生に敬意を払う。

きっといつか向き合うことができると信じる。

「薬理作用」ではなく「人」を信頼する。

そういう存在でありたいと思う。

【AC】お盆に考える「親の愛とは何なのか」問題

お盆である。

実父母とひさびさに三日間過ごしてみて改めて感じたことについて、書いてみる。

 

実母の生い立ち

実母は、AC(アダルトチルドレン)でありACoA(アダルトチルドレン オブ アルコホーリックス)の当事者だが、否認しており回復に繋がっていない。

アルコール依存症の父(私から見た母方の祖父)の壊れた機能不全家庭に育った。

祖父もまたACで、母親の共依存から逃れられないままの人生を生きた。

脈々と引き継がれてきたACの系譜。

その先に私がいる。

 

実母の人生を振り返ってみよう。

実母は祖父から「食うのに困らないのは教師だから、教師になれ」と人生のレールを敷かれた。そして、それに従って生きてきた。

なぜかといえば、祖父は成功者のレールから外れてコンプレックスを抱えており、権威主義と満たされなかった承認欲求に支配されていたからだ。

祖父は、次男でありながら彼の母親に共依存的に頼られて、当時勤めていた総合商社をやめて地元にUターンした。海軍の軍役を終えて、幸運にも総合商社という経済的に裕福な生活が送れる職業に就いた祖父は、おそらく優秀だったのだろう。そしてその自負もあったはずだ。

その経済力を魅力に感じて、そして次男というポジションから介護とは無縁であると期待して、祖母は祖父と結婚した。結婚後突如として表れたUターンするという話は彼女にとって青天の霹靂であり、ひどく狼狽して激しく反対したそうだ。

その反対を押し切って、総合商社を退職したのは、祖父の兄(長男)が「地元に帰ってくるなら仕事を世話してやる」と約束していたからだ。

しかし、その約束は結果的に反故にされた。祖父は兼業農家として貧しい暮らしを強いられることになった。

貧しいばかりか年老いた母親の介護まで祖父母に押し付けられ、祖母は祖父に対する好意を急速に失っていったという。思い描いていた人生設計がものの見事に粉砕されて、祖父に対しては憎しみさえ抱いていたことだろう。その話を娘である実母にするくらいなので、そうとう腹に据えかねていた様子がうかがえる。

祖父は、自分の選択ミスにより針の筵と化した家庭の居心地の悪さと自分のACとしての生きづらさを紛らわすために、アルコールに依存することになる。

いつもREDウイスキーの瓶を枕にして寝ていたというエピソードから、私と同じようなアルコホーリクだったと容易に想像できる。

祖父は、愛した女性は自分そのものではなく自分のステータスや経済力と結婚したのだとわかって、絶望と自暴自棄に埋没した。

口を開けば母親に世の中に対する恨み言ばかり言っていたそうだ。完全なるマルトリートメントである。

実母は、そんな祖父に過干渉され、祖父を憎む祖母の苛立ちを八つ当たり的に日常的に浴びせられた。そしてその地獄のような家庭環境は、実母をしっかり伝統的なACとして育んでいった。

 

実母の現在

そして今も彼女は、ACとしての生きづらさを抱えたままだ。

息子や娘の就職先は有名企業や社会的に地位が高いと認識されている専門職(医師・薬剤師・弁護士・裁判官など)でなくては満足できない。

なぜなら、祖父から刷り込まれた権威主義を今も引きずっているから。

人生を、父親に言われた職業に就くため・母親から小言を言われない「いい子」であり続けるために費やし、自分のインナーチャイルドを窒息死させたまま生きてきたため、自己肯定感が低い。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第一章:インナーチャイルドを知る」

 

そのため、他者からの承認を求め、正しさに固執し、嫌われないために行動する。

しかし、それこそが他人との健全な関係構築を遠ざける。

その証拠に、彼女にはいつも親しい「友人」がいない。損得や共通点で繋がっている他人はいるが、胸の内を打ち明けられるような、心から信頼している他人が一人もいない。

だから常に孤独。その孤独を埋めるために、子どもに共依存する。

祖父の母親がそうであったように、祖父がそうであったように、子どもの人生に過干渉しイネイブリングする。歴史的にその方法しか子どもに対する関わり方を知らないので、不可抗力ともいえるが、子どもである私からすれば、たまったものではない。

実父はそんな実母にかける言葉も提示できる解決策もなく、居づらさや後ろめたさを隠すように、仕事に依存して家庭になかなか帰らなくなる。

マンツーマンで相手をさせられるのは、長男である私だ。

実父の代わりに、実母の愚痴を聞き、実母がかけてほしいであろう言葉をかけ、彼女の孤独を埋めるための「道具」に使われる。

子どもは生活力がないうちは家庭を離れることができない、私は母親から逃げられない。

逃げ場を失った私を人ではなくモノとして使っている自覚が彼女にはない。彼女のなかでは「愛情を注いでいる母親」であり、その愛情の見返りとして、子どもが自分に対して「お母さん大好き」と言うなど「承認欲求を満たしてくれる対価」を差し出すのは当然のことだと勘違いしている。

だから、自分を慕ってくれないとひどく気分を害して不貞腐れた結果「構ってちゃん」になる。「私はこんなに尽くしているのに」と罪悪感を煽って自分がしてほしい行動を引き出そうとする。

これは、ACがよくやりがちな「コントロール」であり、子どもを自分に都合がいいように「道具化」して支配しようとしている状況だ。

なので、私が成人した今も、私がきちんと満足できる優良企業()で働けているかどうかを真っ先に探ってくるし、何かしら世話焼きができる欠点がないかどうか「心配する」というふりをして詮索する。そして欠点らしきポイントを見つけると、舌なめずりをしてあれやこれやとアドバイスという名の過干渉をし始める。

本人としては、本当に本人の未来を案じていて「善き母親として子どもを気にかけている」と思っているのだろう。

本当に子どもを愛していて善き母親であるならば、成人した既婚者の息子に対して余計なことは言わず、ただ信頼して見守るものだ。

相手にはもう責任能力があると信じていて、そのように親として関わってきたという自信があり、対等に尊重している関係性なら、過干渉や詮索行動は起こりえない。

相手が我が子だという関係性を笠に着て、成人した尊厳ある人間との適切な境界線を見失っている。

自分の生きづらさと向き合う工程がゴッソリと抜け落ちて、精神は満たされない子供のまま、大人になり親になってしまったから、自分の人生以外のところ、すなわち息子の人生にいつまでも関わろうとする。

 

回復する私と取り残される実母

私がACを受け容れ回復のために歩み始めたことで、離れようとする私の挑戦に、幾度となく実母は抵抗運動をした。

さめざめと泣いてみたり、怒り狂ってみたり、息子が一生添い遂げようと決心してプロポーズした妻のことを低学歴だ気にくわないなどと侮辱してみたり。

全てが、私の目を覚まさせるには十分すぎるほど、毒親のそれだった。

そして今も、私が幼少期に惨めなACとして貢いできた労働の歴史を、息子から愛されている証明と勘違いして、過去の話を持ち出して反芻しては、息子側の認識の違い・現実と妄想との乖離に心を痛め、あからさまに落ち込んだりしている。

過去の思い出話しかすることがなく、現在の自分・未来の自分に関する話がひとつもないのは、そういう現実逃避の仮想世界にいるから。

今回接してみて、未だにその世界にいるんだな、と実感した。

とても残念だ。しかし私にはどうしようもない。

彼女の問題は、彼女にしか取り組むことができない。

 

親孝行とは、いったいなんだろうか。

私は親になってみて思う。

親孝行とは、すでに完了した過去である。

子どもは我が子として存在してくれただけで、もう十分すぎるほど様々なギフトをくれたと思っている。

自分の人生を、素直に真っすぐに生きてほしい。

私や妻などに関わっていないで、想いのままに生きてほしい。

その邪魔になるくらいなら、早々に退場したい。

私から与えてあげられる、彼ら彼女らが自分らしく生きるために必要なものなら、見返りが無くともいくらでも差し上げる。

代わりに私を愛さなくてもいい、憎んでも構わない。

褒められもせず、苦にもされず、そんな存在であればいい。

もう、親孝行は、生まれた時点ですでに済んでいる。

 

まとめ:親の愛

親の愛とは、そういうものではないだろうか。

フロムは『愛すると言うこと』で「精神的に成熟した人間でなくては、愛することを実践するのは難しい」と説いている。

 

いい子でなくてもいい。

私のことが大嫌いでもいい。

障害があってもいいし、うまく社会に馴染めなくてもいい。

他人と比べて優秀でなくてもいいし、誰かに認められる何者かでなくてもいい。

その子が、その子らしくあってくれさえすれば、それだけでいい。

 

成熟したインナーアダルトを持つ親とは、子どもに対してこんな想いを抱いているものではないだろうか。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第二章:インナーアダルトと共に」

 

なぜなら、その子は「自分の延長」ではないから。

所有物や「道具」ではないから。

思い通りになんて、ならなくて元々。

彼ら彼女らの人生は、本人のものだ。

親であろうと、他人である私がコントロールすべきものではない。

 

悪夢のようなACの世代間連鎖を断ち切る。

そのためにはまず、私は私らしく生きることに、全力でなくてはならない。

私は、私として精一杯生きて、しっかり己の宿命を生きたと胸を張って死にたい。

自分の人生の課題を、子どもに背負わせることだけはしたくない。

実母のような「愛を嘯く呪い」ではなく、「どこにでも宿る愛」でありますように。

切れ切れの愛として彼ら彼女らの世界の一部となり、爽やかに忘れ去られますように。

偽らざる愛情とは、そういうものではないだろうか。

 

 

 

【哲学】クズがこの世に蔓延る理由(『ゴルギアス』:プラトン)

 

 

 

弁論術などの「技術」を使って「他人を支配すること」。

それは果たして本当に賢い優れた人間がすることだろうか?

この主題について書いた『ゴルギアス』に、今の社会の絶望が凝縮されている。

現代と同じく、古代ギリシャでも、人間は「コントロール欲求」と「権威主義」と「能力主義」に精神を支配されていたといえる。

人間って、本当に同じようなところでぐるぐると悩んでは彷徨っているんだな、と思う。

 

結局、弁論術にしろビジネススキルにしろ、私利私欲のための「技術」には、何の価値もない。

「自分が正しいと相手に信じ込ませよう」とか「相手を思い通りに操ろう」というのは、古代ギリシャの弁論家が駆使した弁論術の真の目的だが、これはまさに現代社会において「成功者」と世間的に評価されている人々が執着している思考と同じである。

一見すると「他人をコントロールする能力」というのは魔法のようで、得をする優秀な人間や勝ち組になる賢い人間であるための必要条件のように見える。

実際、現代社会のなかには、そのような魔法を使えるようになりたい、どんな手を使ってでも成功することが正義だ、と心の中で思っている人は多い。

そう思うので、自分を「成功者」として認識してもらえるように着飾る。

自分を大きく見せようとして権威を笠に着たり、結果にこだわり他人と比較して能力的に優れていると主張したりする。

しかし、お金や権力や名誉さえ一時的に手に入ってしまえば、何でも望み通りだと心から思えるだろうか、幸福になれるだろうか。

「いつか自分が大したことないとバレるのではないか」

「不正を暴かれるのではないか」

「認識をコントロールできなくなり、低く見られてバカにされるのではないか」

「成功者」を演じることで得た何かは、そんな不安と恐れを抱えることとセットではないだろうか。

抱えた不安や恐れをかき消すために、さらに欲望を満たそうとする。

そうすると、さらに不安と恐れを抱えることになる。

「欲望」と「業」の無限増殖を引き起こし、そのサイクルから逃れられなくなる。

「業」とは、罪と悪のこと。

「業」をたくさん背負うような人生は、罪と悪に塗れて生きる人生。

重すぎる罪と悪を背負って追いかけるほど、お金や権力や名誉は、人々にとって本当に生きるために必要だろうか。

 

一時的に他人よりも得することができた「成功者」がいたとして、損得で世界を考え自分の欲望を満たすことしか考えずに限りある一生を生き、その事実を認識していながら意に介さず死ぬなら、私はその人生を「虚しい人生」だと思う。

少なくとも、賢くもなければ、優れているわけでもないんじゃないかな、と思う。

なぜなら、社会的な評価(地位・名誉)や社会的な価値(お金)に翻弄されている時点で、その人は他人の価値観に支配されているからだ。

支配しているつもりで、支配されている。

「自分という人間は、他人が存在しなければ、他人が評価してくれなければ、自分の存在を確立できない、自分の不安をぬぐうこともできない。私はそういう軸のない人間です。」

そう証明しているに過ぎない。

自分そのものに向き合うことができなかったから逃げただけ。

死ぬまで他人の目ばかり気にして、自分と向き合うことから逃げ続けただけの人生。

その事実が内心恐ろしくて情けなくて、目を背けるために他人を「使う」という発想しかできなかった、哀れで可哀想な人だと思う。

同情はするが、尊敬とは程遠い。

 

本当に賢く優れている人というのは、自分そのものに向き合い、謙虚にあるがままを受け容れられる器の大きさを持っていると、私は思う。

最も恐ろしい人生の課題から逃げないで生きることこそ、最も難しいと思う。

その課題を生涯考え続けた人、たとえば哲学者などは、真の尊敬に値する。

 

現代においては、社会的に迫害されたり差別されたりして苦しんだ経験がある人ほど、そうした哲学的な真理に到達していることがある。

そういう賢者は、人々にわかりやすい煌びやかさや華やかさを持たない代わりに、穏やかで謙虚で、優しい。

損得で物事を考える人間からはバカにされていて、一見損をしているように見えるが、はるかに高い視座で世界をとらえていて、そんな世俗的な損得は意に介していない。

マウントを取るようなことをしないので、リラックスした状態でその人と関わることができる。

成功や失敗で他人をジャッジしたりしないので、その人には素直に想いを打ち明けることができる。

 

現代は、損得マシーンであふれている。

人間らしい生を生きることを、否定されて育つからだと思う。

 

私は、教師の先生方をはじめ教育現場に関わる人々は、本当に心から頑張っていると思う。

子どもたちが社会に適応できるように、社会で生きていくのに困らないように、必死で自分の時間を捧げていると思う。

その人たちを否定する気持ちは全くない。

 

個人の問題ではなく、社会システムの問題だと思う。

社会は、資本主義と権威主義に基づいて構成されている。

合理性と効率化という新しい神の信仰に基づいて行動するうちに、人としての本質を忘れ去った、空っぽの社会。

その空虚な社会に適応するという教育は、子どもから「善く生きる意思」を剥ぎ取ってしまう。

純粋な生命として生まれた子どもたちは、教育という拷問を受けて「今だけ金だけ自分だけ」の損得マシーンになる。

資本主義と権威主義の洗脳という拷問を何とも思わないような感受性の低い個体が、いわゆる「成功者」の才能を持っているといえる。

つまり、既存の価値観の型にはめられ雁字搦めにされても苦しさを感じず、他人の命令をただ遂行する学校生活に疑問を持たず、「成功者」という正解の裏にある罪と悪に呵責する良心を失うことができた個体である。

そういうのを、人々は一般的に「クズ」とよぶ。

クズこそ成功できるのが、この社会で、クズになるように教え込むのが、現代社会の教育ということだ。

だから、世の中がクズだらけになるのは当たり前だし、トップがクズのなかでも選りすぐりのクズなのだから、まともな世界にならないのが道理である。

古代ギリシャの時代から「本当にそれでいいの?」と疑問を呈してきた先人たちの取り組みもむなしく、今まさに世は大海賊時代…じゃなくて「クズの全盛期」を迎えている。

 

私はそのお仲間にはなりたくないので、これからも哲学から「善く生きる」という美しい信仰のほうを学んで、実践していきたいと思う。

【哲学】「しあはせの手紙」に立ち返る(この世界の片隅に)

しあはせの手紙(『この世界の片隅に』著:こうの史代)

突然失礼致します
此れは不幸の手紙ではありません。
だつてほら眞冬と云ふのに
なまあたたかい風が吹いてゐる
時折海の匂ひも運んで来る
道では何かの破片がきらきら笑ふ
貴方の背を撫づる太陽のてのひら
貴方を抱く海苔の宵闇
留まつては飛び去る正義
どこにでも宿る愛
そして
いつでも用意さるる貴方の居場所
ごめんなさい
いま此れを讀んだ貴方は死にます
すずめのおしゃべりを聞きそびれ
たんぽぽの綿毛を浴びそびれ
雲間の陽だまりに入りそびれ
隣に眠る人の夢の中すら知りそびれ
家の前の道すら
すべては踏みそびれ乍ら(ながら)
ものすごい速さで
次々に記憶となってゆく
きらめく日々を
貴方はどうする事も出来ないで
少しづつ
少しづつ
小さくなり
だんだんに動かなくなり
歯は欠け
目はうすく
耳は遠く
なのに
其れをしあはせだと
微笑まれ乍ら(ながら)
皆がそう云フのだから
さうなのかも知れない
或ひは單にヒト事だからかも知れないな
貴方など この世界の
ほんの切れっ端に
すぎないのだから
しかも
その貴方すら
懐かしい切れ切れの誰かや何かの
寄せ集めにすぎないのだから
どこにでも宿る愛
変はりゆくこの世界の
あちこちに宿る
切れ切れの私の愛
今わたしに出来るのはこのくらゐだ
もうこんな時に爪を立てて
誰かの背中も掻いてやれないが
時々はかうして
思ひ出してお呉れ
草々
引用:『この世界の片隅に』下巻

一欠けら

貴方など この世界の
ほんの切れっ端に
すぎないのだから
しかも
その貴方すら
懐かしい切れ切れの誰かや何かの
寄せ集めにすぎないのだから
この一節の心をいつも忘れる。
私という存在は、この世界の片隅のほんの一部で、豆粒のようなもの。いやそれよりも小さい小さい、一欠けら。
しかも、オリジナルでありながら、誰かや何かの寄せ集めにすぎない。
そんな一欠けらたちが、どちらが偉いとか、どちらが優れているとか、あるいは劣っているとか、正しいとか間違っているとか、喧々囂々と言い争って、瞬きをするほどの短い一生を終えていく。
それが、この世の中である。
一欠けらであることを忘れ、あるいは受け入れられずにいると、小さい自分の世界のなかで苦しんで苦しんで、不安と恐れにさらに弱弱しく小さくなって終わっていく。
一欠けらであるということは、どんな存在もなくてはならず、一欠けらの我々が世界を覆っている全部でもある。
だから、居場所は探し求めなくとも、今ここにある。
『いつでも用意さるる貴方の居場所』。自分がそう認識できずとも、居場所は常にある。
自分の心が受け付けないだけ。
あなたは、ここにいて良い。
何かを成さずとも、何かの役に立たずとも。

どこにでも宿る愛

変はりゆくこの世界の
あちこちに宿る
切れ切れの私の愛
今わたしに出来るのはこのくらゐだ
やれることは、特にない。
自分が思っているほど、私に力はない。
愛は宿る。
真剣に生きていれば、いや。そんな条件などなく、私が生きた今日、その端々に。
私だけでは完結しない。切れ端のほんの一部のような愛。
しかし、それが最も尊く、最も気高く、輝く私の命の証。

揺蕩う柳のように

無理をしない。

飾らない。

心に逆らわない。

 

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

引用:宮沢賢治『雨ニモマケズ』より一部抜粋

 

日照りのときは涙を流すこともある。

冷夏にはオロオロするばかりで何もできないことだろう。

何かや誰かのために一生懸命やっても報われないことのほうが多い。

役に立たないと馬鹿にされるだろう。苦にもされないで、静かに一生を終えるだろう。

 

それでこそ、自然な生を全うするということではないだろうか。

 

効率だとか、合理性だとか、生産性だとか。

そんな損得に気持ちを雁字搦めにしては、貴重な時間をただ見送るようなもの。

そんなことで、私は本当に生きているといえるだろうか。

そういう風に生きていたから、酒に依存し、権威に恐怖し、心の弱さを覆い隠すために強さを求め、まともでいられなかったのではないかしら。

 

「なんだか、不安でたまらないの。生き神だった頃は陽が暮れて、衰え始めて眠りにつくとき、いつも、とても満たされた気持ちで目を閉じられたのに、いまは恐ろしいの。目が覚めても、ただ昨日までの現実の続きが待ってる。目の前に広がるあてどない膨大な時間に足が竦む」
「一日一日、一刻一刻が息をのむほど新しくて、何かを考えようとしても、追いつかないくらい、いつも、心の中が一杯だったの。」
「今日も陽が昇り、また沈む。朝咲く花が首から落ちる。
 今日も陽が沈み、また昇る。あたり一面花が咲く。
 けれど、昨日とは別の花。
 されど、今日も綺麗な花。」
引用:テレビアニメ『蟲師』 第6話「露を吸う群」
私は、まだ時間がたくさん残されている、と思い込んでいる。
しかし、いつ終わるか誰も知らない。それは誰にもわからない。
一日、この一瞬は、見ようと思えば、息をのむほど常に新しく美しい。
過去に囚われ、未来に怯えて、ありもしない頭の中の世界を生きるのはやめよう。
その世界にいる限り、不安は常に膨らんでいく。膨大なありもしない時間への恐怖で足がすくむ。
切れ切れの愛が、いつも誰かと繋がっている。それだけで十分だ。

【社会福祉士】ひらがな が よめるようになった みんなへ

こんにちは。

いまは なつやすみ かな?

きょうは いまは まだ こどものみんなに あやまりたいことがあるから ちょっとよんでみてほしい。

 

きみは なにになりたい?

やりたいことは あるかな?

はやくおとなになりたい とおもっているかもしれないね。

それとも もしかしたら ずっとこどもでいたい とおもっているかもしれない。

 

おとなはよく

「おとなのいうことをききなさい」

「ちゃんとるーるをまもりなさい」

ってきみたちに いうよね。

 

おとなのひとは じつは そんなによくわかっていないで そんなことをきみたちにいっていることがおおい。

だから きみたちは そんなふうにえらそうにいわれたら いらいらするときも よくあるとおもう。

 

その かんかくを どうか わすれないでほしい。

 

わたしは きみたちに あやまりたい。

こんな つまらないよのなかにして ごめん。

じぶんのことしかかんがえない だめなおとなばかりで ごめん。

 

えらそうにしている おおくの おとなは だいたい なにも かんがえてない。

じぶんが ほめられたい おかねがほしい なかまはずれにされたくない そんなことしか かんがえてない。

だから なにかを いわれても しんじなくていいよ。

なにかをさせよう としても したがわなくてもいい。

こんなふうに ならなきゃいけない と おもわなくてもいい。

きみが なりたい と おもうものが いちばん ならなきゃいけないもの。

それを だめ というひとは ざんねんだけど きみを ちゃんと たいせつにしていない。

だから そんなおとなから できれば はなれたほうがいい。

 

「なんでなんだろう」

と かんじたことを 「まあいっか」で すませないようにしよう。

おとなにいわれたら きいてみよう。

なっとくできるまで きいてみよう。

きいてみて そのひとが ちゃんと きみが なっとくできるこたえを こたえられないことは しなくてもいい。

そのひとは じぶんが おこられるのが こわいから きみに ほかのひとと おなじことを させようとしているだけ。

きみのため じゃない。

じぶんのため だよ。

 

このくにの おとな は じつは ちゃんと おおきくなれなかったんだ。

だれかに いわれたことを そのまま なにもかんがえないで したがっているうちに からだだけ おおきくなった。

そして なんでも しっているつもり になっちゃった。

ほんとうは しらない ということが こわいから しっているつもり になっているだけ。

ばれないように きみたちに えらそうにしている。

 

このくには どんどん たいへんなことになる とおもう。

そんな たいへんなこと を きみたちに のこして しんでいく。

ほんとうに ごめんなさい。

そうならないように がんばっている おとなたちも いる。

わたしは そんな おとな のひとり だけど ざんねんだけど さけられない とおもっています。

 

わたしが きみたちに いいたいことは、

おとな だから しんじられる とは おもわないでほしい ということ。

おとな だから ただしい とは おもわないでほしい ということ。

 

おとな のなかには きみたちを ころそう とさえ おもっている ひとがいる。

じぶんたちが おかねがほしい ほめられたい なかまはずれにされたくない から、きみたちに しなくていいことを しろ と めいれいすることがある。

 

だから わたしたちを しんじないでほしい。

きみたちが しんじることを しんじてほしい。

きみたちが わくわくすること たのしいこと やりたいとおもうこと を やってほしい。

 

ここまで よんでくれて どうもありがとう。

きみたちが うまれてきてよかった とおもうような よのなかになるように がんばるね。