月別アーカイブ: 2022年8月

【メンタル】今を生きる

信じられるものがない、そんなつらい世の中ですね。

哲学者ニーチェはかつて「神は死んだ」という名言を『ツァラトゥストラ』のなかで残しました。

ここでいう「神」とは、「真理」などの絶対的な価値のことです。

絶対的で普遍的な価値など無い、そうニーチェは言っていたんですね。

 

不安と恐れが他人を求める

たしかに、それはそうだと思います。

唯一絶対な存在とか崇拝すべき対象なんてのは、この世には無い。

もしそれがあると信じているとすれば、それは宗教という一つの依存のかたちです。

宗教を生きる拠り所にすることに、私は異を唱えません。

それは、誰もが何かに依存して生きているからで、それが人として自然なことだからです。

 

その価値観を自分のなかでのみ大切にしている分にはいいのですが、他人に押し付けてしまうと、それは話が違ってきます。

他人には、他人の生き方があります。

自分が信じているものを他人にも信じてもらわないといけないと思うのは、不安だからです。

本当に信じていいのかどうか心の底では自信が持てないので、他人も信じているという後ろ盾が欲しいから、仲間に引き込もうとするのでしょう。

ゆるぎない信仰であれば、同じ信仰を他人に強要する必要がないですもんね。

「いいものだから教えてあげたい、私は他人のためを思って勧めているのだ」という人もいるのですが、自分が持っている価値観が絶対だと思っている時点で、見誤っているといえます。

他人には、他人の価値観があります。

違う価値観も「そういう考え方もあるよね」と受け容れられないというのは、狭量な世界観に自分が閉じこもっているからです。

 

科学

科学も、絶対ではありません。

エビデンスがあるからと言って、本当にそうだとは限らない。

「どうやらそうらしい」という確率を計算しているだけで、ひとつの可能性でしかない。

マスクの是非やワクチンの是非を、SNS上でやり取りしているのをみると、とてもやるせない気持ちになります。

私はマスクには意味がないと思うし、ワクチンは打たないほうがいいものだと思います。

反対に、マスクもワクチンも必要だ、と思っている人もいると思います。

結論としては、お互いに好きにすればよろしい。

したい人はすればいいし、したくない人はしなくていい。そもそも任意なのですから。

それを「こっちのほうが正しい」「いやこっちが正解だ」と言ったところで、永遠に平行線です。それぞれに信じている宗教が違う、住んでいる精神世界が違うのだから。それぞれが信じる「正しさ」でマウントを取り合っても、溝は深まるばかり。

ネット上での不毛な争いに熱中して、自分の人生を置き去りにしている人がたくさんいるなぁ、と思います。

 

権威

権威というのも、本当にあてにならないものです。

私はAC(アダルトチルドレン)として、権威を恐れてきました。

 

過去記事【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)

過去記事【AC】「権威ある人を恐れること」を受け容れて見えてきたこと

 

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

 

正しさへの固執。

社会的に認められることへの執着。

その根本には、自分が不適当で、無能であるという思い込みがあります。

自分が抱えている不安と恐れが、他者評価を絶対的価値と勘違いさせます。

他人から見た自分のほうが自分が見ている自分よりも大切で正しい、という思い込みとも言えます。

客観的に、とよく言いますが、客観も主観の一つでしかなくて、結局は誰かの目を通じてしか物事をとらえることはできません。

主観からは逃れることができない。それが、私たちの限界です。

 

社会で認められていれば、立派で偉い人でしょうか。

社会的地位のある全ての人が、徳を備えているでしょうか。

そんなわけないですよね。

むしろ、逆なんじゃないかしら、と思う今日この頃です。

私は、この社会は狂っていると思います。

その狂っている社会に認められているということは、その人は「しっかり狂っていますね」という証明なのではないかしら。

狂っているかどうかはともかく、社会的評価というのは、集団的自意識が主観的に判断する一つの切り口でしかなく、絶対的なものではないと思います。

むしろ、ある集団のなかでエリート意識を持ってしまうことでアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)を獲得する「病巣」としての側面を、社会的評価はもっている。

だからこそ、一定の距離を置く必要があるし執着しないで過ごせるほうがいい。

一周回って、私は今そんな風に感じています。

 

お金

お金も、やっぱりあてにはなりません。

お金は現代の狂気の、中核を構成するアイテムです。

ただの紙であり、ただのデータに、私たちは命がかかっていると信じている。

だから命がけで奪い合います。その魔力に狂ってしまっています。

お金のために、平気で人を騙したり、嘘偽りを話したり。

そうやってお金をたくさん集めたとしても、満たされることはないでしょう。

実体のない概念をいくら集めても、心は荒むばかりだからです。

お金持ちは幸せかといえば、私はそうではないように思います。

すでに充分なのに、蓄えたものを守ることに必死で、少しでも減れば損をしたように思って、憤っていたり満たされず飢えていたりします。

羨ましいかというと、私はどうもそうは思えません。そんな人生は嫌ですね。

お金持ちは奪われる恐怖に苛まれ、貧乏な人は嫉妬と憎しみに苛まれる。

お金を人生の中心に据えると、お金に振り回されて、命を見失います。

いかに金銭欲を自分のど真ん中から遠いところに置いておけるか、それが生きる上で最も気を配るべきことかもしれません。

 

蟻一匹、花一輪

では、何を拠り所にして、私たちは生きていけばいいんだろうか。

そう思い悩みますよね。

 

私は「売り買いできないもの」だと思います。

それは、命であり、愛であり、この世の中のありとあらゆるものすべてが、本来はそうだといえます。

誰かが認めなくても、権威で装飾しなくても、私たち一人ひとりに価値があり、蟻一匹、花一輪にも、同等の価値がある。

この世のあらゆる全ては、美しくて元々。

値段などつけられません。順位もありません。

それぞれが、それぞれの生を、ただただ全うしているだけにすぎません。

価値は、何かに限局する必要がなく、常にそこかしこにある。

だからニーチェは「神は死んだ」と言ったのではないかしら、と思うのです。

 

みんな、そういう世界の在り様を忘れているんじゃないかしら、と思います。

終わりがあるから尊く、弱いから美しく愛らしいのです。

永遠の命、繁栄を求めたり、偽りの強さを纏おうと躍起になるから、「生きることそのもの」からいつしか外れていく。外れて戻ってこれなくては、人生苦しむばかりです。

それもまた、我々の弱さゆえの定めなのかもしれません。

この凍てつく冬の時代にも必ず意味がある。そう思います。

生き抜きましょう。

禍福は糾える縄の如し。

焦らず怯えず、躊躇わず、一日一日を大切にしましょう。

それしか、私たちにできる事などないのですから。

明日はどんな日になるでしょうか。

今日一日、悔いのない一日を生きられましたか?

一切は過ぎていきます。

過去は過去。

我々が今いる場所を見失わないようにしましょう。

【依存症】ゲームを取り上げる親と心を殺された子ども(ゲーム依存)

依存症の問題は、背後にある「生きづらさ」が本質だと思う。

その問題を直視せず、問題行動だけを抑え込もうとしても、失敗するし意味がない。

 

ゲームを取り上げる親の心理

たとえば、ゲーム依存の傾向がある子どもから、無理やりゲームを取り上げようとする親がいるとする。

「やめろ」と言っても効かないので、ルールが守れないので、ゲームを取り上げる。

でも結局はルールを守る必要がなくなった(親の目が届かなくなった)ときに、問題のある使用をしてしまう。背後にある生きづらさが解決していない限り、根本的には変わらない。

私がそうだった。小学校から禁止されて、大学で今までため込んだフラストレーションが爆発して思いっきりのめり込んだ。

ネットやスマホを解約する、等のもその類い。意味がない。一時的にできなくはなるかもしれないが、やる方法はいくらでもある。

お小遣いをためて、あるいは親の財布から金を盗んで中古端末を入手したり、無料Wifiを求めて深夜徘徊をしたり、「ゲームやる?」と声をかける知らない人についていってしまったり。

むしろそういうより子どもを危険な場面に遭遇させかねない行動に繋げる。

 

そういった逆効果を生む可能性があるにもかかわらず、なぜ強権的に子どもの行動をコントロールしようとしてしまうのだろうか。

それは親が抱える、「不安」と「恐れ」が根底にあるように思う。

 

「我が子がまともな社会人になれなかったらどうしよう」

一見、我が子の未来を案じている台詞のように見える。そして、思っている親本人も「子どもの為」だと信じて疑わない。

しかし、裏の裏までよく覗き込んでみると、実際は「自分の為」であることがわかる。

世間の目を気にしている、自分の為に、迷惑な行動をしてほしくない。

我が子がまともな社会人になれないことで、

「親として子育てが間違っていると言われたら」どうしよう。

「ひきこもりや不登校になって、世間から色眼鏡で見られたら」どうしよう。

私の世間的な評価が傷つくではないか、という「どうしよう」。

自分が困るから、自分の体裁のために、やめてほしいと思い、取り上げようとしてはいないだろうか。

子どもをコントロールすることに依存している。自分の自己肯定感を支えるために、子どもに依存し、子どもの人生に過干渉してしまってはいないだろうか。

 

親に過干渉された子供の末路

我が子であったとしてもコントロールすることは本来できないし、本人のことは本人に責任と権限がある。その権限を冒してはいけない。

なぜなら、選択した行動の結果を経験することで、子どもは大人になっていくからだ。

親が転ばぬ先の杖ばかり用意して、その過程をゴッソリ盗んでしまうと、「グライダー型人間」になる。

 

「グライダー型人間」とは、『思考の整理学』において外山先生が定義した、自分で考えられない人間のこと。

親が全部おぜん立てをして、正しさを押し付けて言うことを聞かせて、親が思う正しいレールの上を歩かせたとしよう。

その子は、こう思うだろう。

「自分の意思なんて持っても疲れるだけだ。結局は、親や先生の言いなりにするしかない。ならば、感情など持たないほうがいい。自分の意見も、持たないほうがいい。言われることに従っていさえすれば、叱られもしないし、問題は起こらないんだから。」

自分の感情と意思をもつことを放棄するようになる。

そうなると、自分が好きなもの、自分がやりたいこと、自分がほしいもの、が何なのかわからなくなる。

自分の意思がわからないので、他の人が好きなもの、やりたいこと、ほしいものが、自分が欲しいものなのだと思って追いかける。でも、手に入れても、満たされない。本当に望んでいるものではないからだ。でも自分ではもう望んでいるものがわからない。

いくら頑張って何かを手に入れても、どれだけ他人より相対的に恵まれていると言われても、心は一向に満たされないので、日に日にストレスが溜まる。

そして、ネット上で気に入らない人を正論で殴ったり、誰かを虐めたりして、憂さを晴らすようになる。進学校ほど陰湿ないじめが横行する理由は、こういうストレスが強い子どもたちの「生きづらさ」のはけ口として、特定の誰かが生贄になることでなんとか日々を生き抜いているからではないだろうか。

私をいじめてきた「いじめっ子」たちも、そういう目に見えない苦しみを背負っていたのかもしれない。そう思うとやるせない。虐められるほうは、たまったものではない。

 

はたして、親の正しさによる圧政は、本当に子供のためになっているだろうか?という話。

「まともな社会人」とはなんだろう?

立派な「思考停止のグライダー型人間」に仕立て上げることだろうか。

おそらく、親のほとんどがそんなことを我が子に望んではいないと思う。

自分の頭で考え自分で決めた、自分なりの人生を堂々と歩んでいってほしい。

そう思っているのではないだろうか。

それが「まともな社会人」ではないだろうか。

そうなるための行動だろうか。ゲームを無理やり取り上げる、ということは。

 

受験を控えているのに、受験勉強をしない我が子をみて、自分が不安なだけ。

自分の不安を取り除きたいだけ。

だから「ゲームばっかりしていないで勉強しなさい」という。

私たち親の世代までは、勉強して良い大学にいて良い就職先に新卒入社する、というのが人生においての成功モデルだったかもしれない。

そのレールに乗せないといけない、という親に育てられてきた世代だ。

しかし、自分の人生を振り返ってみてほしい。今の現状を見てほしい。

それは本当に成功モデルだっただろうか。

 

今や終身雇用制度は崩壊した。

良い会社に入っても、安泰ではない。

良い大学に行っても、就職先がない。

受験勉強という「暗記ゲーム」だけに特化して強制的にやらされた結果、グライダー型人間として心と感性は死に、体だけ立派に成長していく。

面白味のかけらもない無個性な大人になって、指示待ち・ゴマすり・忖度で自分を偽りながら生き抜こうとするが、自分で考え自分で行動を選択する訓練をしてこなかったので、苦境に立たされてまごつく。

 

これが、誰もが望む成功モデルといえるだろうか。

本当に、大人たちが提唱してきた「まともな社会人になる」ためのメソッドは、現実に役に立つものだっただろうか。

私はそうではないと思う。

 

親ができることは見守ることだけ

その子の人生は、その子のものだ。

親のおもちゃではない。親が変えられるものでもない。

失敗も成功も、その子が味わう権利と義務がある。

 

この子がゲームにそこまで入れ込むのは、なぜだろうか。

この子が好きなゲームの世界とは、どんなものだろうか。

その世界の何が好きで、何が現実より魅力的なのだろうか。

この子は、何を求めているのだろうか。

 

それを知らないで、その子にとって正しい道など、誰が主張できるだろうか。

正しい道など無い。

正しいことなど、この世にはないからだ。

その人にとっては正しい、というだけ。

それは親も同じ。親である我々が正しいと思い込んでいることと、その子にとっての正しいことは違うかもしれない。

それを同一化して強制的に同じにしようとするのは、ある種人権侵害であり、虐待だと私は思う。

 

我々親にできることは、その子の声を聞き、その子の価値観を認め、そっと背中を支えることだけ。

きっと自分の足で歩いていけると信頼して、後ろから見守ることだけ。

そもそも、我が子であろうと別個の独立した他人。

他人をコントロールすることはできない。「変えられないもの」だ。

きっと自分の失敗から何かを学び、人生に活かして生きていく力を持っている。自分の命を分け与えた存在なら、きっとそれができる。

そう信じられないとしたら、病んでいるのは親のほう。

自分を信じられないから、我が子も信じられない。

自分の生きる力を信じられないから、同じように我が子の生きる力を信じてあげられない。

その「不信の呪い」を引き継がないことが、最良の子育てだといえるのではないだろうか。

【メンタル】「自分には価値がない」と嘆いている人へ(ひきこもり・不登校・貧困)

資本主義の世の中では、身の回りにある全てのものは商品になっている。

資本主義社会は本当に良い社会か?

カール・マルクスは『資本論』において、商品は「使用価値」と「交換価値」によって成立するといいました。

そして、スライムが集まってキングスライムになるように、商品が寄せ集まって富が形成されている、として、商品の価値は労働の量だとする「労働価値説」を提唱しました。

交換に便利なものとして、貨幣が生まれました。

商品に付加価値をつけて売ることで利益(剰余価値)を生みます。

価値をどんどん増殖させていくと、資本がどんどん膨らんでいき、資本家が生まれます。

マルクスは「資本家」を「人格化された資本」=お金が人の形を取ったものと定義しました。つまりお金さえ稼ぐことができれば使用価値なんてどうでもいい人たち。とにかくカネのため。

とにかく稼げればなんでもいい資本家は「労働力」を商品化しました。

労働力を仕入れる行為は「雇用」であり、資本家(企業)にとって就職活動・転職活動は、この「労働力」の仕入れです。そして、研修や社員教育で付加価値をつけて、利益を生むために「商品」である私たちを働かせて、仕入れ以上の価値を生ませます。そしてさらに「労働力」を仕入れて得られる利益を増やそうとします。

「労働力」を仮想通貨の運用に例えましょう。

仮想通貨を仕入れて、仕入れより仮想通貨の価値が上がれば儲けが出て、余剰資金が生まれますよね。その余剰資金で、さらに仮想通貨を買う。そうすると、価値が上がり続ける限り、このサイクルで余剰資金はどんどん増えます。

これを人間でやっている、というのが、営利企業です。

つまり、営利企業に雇われているサラリーマンは「労働力」という商品として資本家(企業)に買われているので、私たちの労働力は私たちから切り離されています。

だからサラリーマンはイエスマンが出世するし、結果を出すことと同時に従順であることが求められるのです。「労働力」という商品としての価値を評価されているのが、人事評価です。

人事評価はその人そのものの価値とは関係ありません。その人の一部分「労働力」を商品として切り取ったときの、商品としての評価です。だから、収入が上がろうと人としての価値が上がるわけではありません。

法律的には雇用契約は対等ですが、実質イーブンではありません。

給料とは、再生産費です。

つまり、雇われている我々は「再生産費」分だけ働けばいいのですが、それ以上に働かせれば、資本家(企業)にとっては働かせた分だけ利益になります。

だから、やりがいや目標を示して、勝手に設定して、「再生産費」分より余分に頑張らせようとするんですね。

そしてチームを組ませるのは、協業させることで生産性が上がるからです。

あくまでも、労働力としての運用を最適化しているのであって、社員が快適に働けるとか、充実した人生を送れるとか、そんなことには企業は一切興味がない、というのが本音です。

私たち労働者にもメリットがないわけではなく、企業で働くことで「経験」という付加価値を得ているので、悪い側面ばかりではありません。

しかし基本的に人間は「モノ」として扱われています。それが企業であり、資本家であり、資本主義の世界です。それは人を惨めな気持ちにさせます。

その、人をモノのように扱う資本主義が蔓延し、世界中に広げようと際限なく膨張したのが、今のグローバリズムです。

富める人はさらに富み、際限ない欲望で人間性を失い、人々の健康を害してでも富を拡大しようとする世界。

貧しいものはより貧しくなり、最終的に過労死や自殺をするか、無敵の人になり殺戮事件起こすほど追い詰められる世界。

資本主義社会である以上、この世界観・貧富の格差はどんどん広がります。

共産主義国家は計画経済を導入してしまったのでソ連は崩壊したけど、マルクスの社会主義は、資本主義が限界まで行きついた先にあるものと考えられていました。

つまり資本主義が限界を迎えているまさに今、ようやく条件がそろったといえるでしょう。

 

経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、このような資本主義の限界に問題提起した本です。

 

 

このままさらに格差が拡大するとどうなるでしょうか。

さらなる地獄と化すのではないか、と思います。

 

r(資本収益率=資本家の不労所得の割合)>g(経済成長率=労働による価値創造の割合)

 

このrとgが逆転するのは、戦争により既存の資本が破壊され価値が暴落したとき。そのあとは資本を再形成する必要があるため、労働力の価値が相対的に高まるからです。

そういう異常な状態以外は、この資本主義社会はr>gであるといえます。

そしてその状態が加速すると、世襲資本主義社会になるといいます。

世襲資本主義社会とは、相続による経済格差が努力やチャンスでは裏返らない無理ゲー社会のことです。

つまり、貧乏人は頑張っても報われない世界です。生まれた家が資本家であれば勝ち続けられる、何もしなくてもお金が増える、生まれが全てを決める不平等な世界です。

実際、そうなりましたよね。

シェルバーン伯爵家に連なるロックフェラー・ロスチャイルド。財閥が世界経済を動かし、政治を含めた社会全体を実質的に支配しています。

世界の富の大部分を上位1%の金持ちが占有し、残りの99%の貧乏人は奴隷のような生活で、体を壊すような商品を食べさせられ、マスメディアの洗脳で考える力を弱らせられ、毒に等しい注射で人体実験に使われています。

日本も例外ではなく、政治は政教分離を謳いながらも完全に癒着しており、その政治をハンドリングしている宗教団体は、世界的な財閥の下部組織です。

冒頭に人は「労働力」というモノとして扱われているといいましたが、最終的に人は「奴隷」と等しい扱いをされているといえます。存在そのものをモノとして扱われているということです。

 

「自分たちさえよければいい」社会で人は愛に飢えていく

歴史を振り返ると、戦争が起こると、戦争中の税金は圧倒的に高くなり、個人の財産は凍結されます。

それによって、とくに高所得者からお金を搾り取ることができます。

ウクライナで戦争が起こり、これから台湾・日本で戦争が起こると思いますが、これは軍需産業を握っている1%の財閥が、さらに中途半端な高所得者から金を吸い上げるためです。

実際、軍需産業の株価はどんどん上がっていますよね。

総本山はアメリカでもなくイギリスでも中国でもありません。

財閥とは、地縁主義ではないからです。

「契約の民」と呼ばれるユダヤの血縁です。

血縁により繋がっているので、国はただの枠組みです。商売の道具です。貨幣は価値変換のためのおもちゃです。

だから最近は新しく「仮想通貨というおもちゃ」を使って儲けを生もうと画策しています。

通貨をつくる側・ルールを決める側が、儲かるようにできています。ルールを作る側ではない一般の投資家が損をするのはそのためです。

STEPNなどのM2E(Move to Earn)で大損した人がたくさんいますよね。それは、もともとそういうメカニズムになっている、ということです。多少庶民に利益が渡るケースが生まれてしまうのも、ユダヤにとっては想定済みの必要経費。いずれ回収しようと考えています。

 

ユダヤ人は歴史的に「美味しいものを心ゆくまで食べること」を人生の第一に掲げています。

そのための金銭であり資本なわけです。つまりお金を手段として割り切っている。

思考は、教育で子どもの頃から徹底される能力主義・実力主義に基づいています。迫害されてきた防衛本能から、他民族に対する警戒心が強い。その警戒心から納得するまで他者を調べ尽くす知的好奇心をもちます。

一言でよければ「自分たちさえよければいい」

世界経済を動かしている人たちがその原理で動いているので、現代社会がそうなるのは、考えてみると当たり前ですよね。

 

 

ここまで読んでみて、どうでしょうか。

お金や資本主義に「愛」という要素が全くないことに気づきますよね。

モノとして扱われる世界で愛を感じられるはずがありません。

「自分たちさえよければいい」という民族の思想が蔓延している状態で、他人に無償の愛を注ぐ人が現れるはずがありません。

でも「愛」がなくては人は生きていけません。

その、生きていくために最も重要なエッセンスが欠落している。

それが資本主義社会であり、現代社会です。

だから、みんな精神を病んでいくのだと思います。

精神疾患も依存症もACも差別も、何もかもの本質はここにあります。

私が最近、精神疾患も依存症もACも個人の課題ではなく、社会そのものの課題だと考えているのは、そういう背景です。

 

お金から距離を取ること、資本主義であるこの社会から距離を取ること。

この「離脱」こそが、これから人間らしく生きていくために必要なことになってきたなぁ、と実感しています。

これからは、できるだけそれらの要素を削ぎ落していく「離脱」の生き方を実践していきたいと思っています。

まさにそれを人生を賭して体現したのが、マハトマ・ガンディーだと思っています。本当にすごい人です。

彼は「欲望を削減する」ということを説いています。

経済社会そのものは否定しないけれども、人は本来必要なものを必要な分だけ得ればそれでよく、欲望を最小化することによって真に幸福な人生が送れると考えました。

ユダヤ民族の人生観とは、真逆ですよね。

私はガンディーの教えにこそ人としての「生の実感」、人としての本質があると考えています。真に感じるべき感覚は生死と欲望を越えた「存在の絶対感」だと思います。

お金を集めても、仕事を頑張っても、いくら物質的に豊かになっても、幸せではありませんでしたよね。それを経験的に証明するためにユダヤに連なる資本主義全盛時代を人類は経験する必要があったのではないかと思っています。

もう、お金や社会に踊らされるのは、やめましょう。

目の前にある花や木や草や、触れ合える世界が全てです。自分自身を含めた現実世界を愛で、好意を伝えること・肯定することに、全力で集中しましょう。

貨幣が創り出す仮想の世界に生き、命を消耗するのは、もう終わりにしましょう。

バーチャルの世界に幸せはありません。ネットは使うモノです。大切な自己を道具に没入させてはいけません。

最も価値あるものすべては、もうすでに全員の、現実の肉体と精神にある。他に求めなくてもいいし、客観的に証明する必要もない。あると思えばある。ないと思うからない。

これ以上、安心のために「形ある何か」を求めるのはやめにしましょう。それらは全て虚構であり虚空です。

楽しいと思えること、美しいと思えるもの、それを感じる時間と感性を大切にしましょう。

生きることは、それだけで100点満点だといえるでしょう。そのほかはオマケです。

 

そう考えると、とても気楽になりませんか?

経済社会に参加できるかどうか、なんて、人間本来の価値には微塵も影響しないのです。

引きこもりだろうが、不登校だろうが、社会不適合者だろうが、障害が有ろうがなかろうが、ただ存在するだけで、存在価値があります。お金に変換しようとするから、無いように錯覚するだけです。

みんながそのことに気づけば、世の中はもっとまともになるんだろうなぁ、と思います。

【依存症】「Move to Earn(M2E)」の闇(仮想通貨・NFT・M2E・ブロックチェーンゲーム)

Move to Earn について

Move to Earn (M2E) とは、文字通り「動いて稼ぐ」というコンセプトの、仮想通貨を用いたビジネスモデルのこと。

Move to Earnのやり方
  1. 仮想通貨取引所で口座を開設します。
  2. 各ゲームのウォレットにトークンのソラナやイーサリアム送金します。
  3. アプリをダウンロードして登録します。
  4. 毎日歩いたり、走ったり、ゲームをプレイして稼ぎます。
  5. 稼いだトークンを換金したり、そのまま保有して増えるのをまったりします。

引用:https://maru7.jp/move-to-earn/

「ブロックチェーンゲーム」に分類されています。

Youtubeで動画検索すると、こんなふうにたくさんのスマホアプリがあって紹介されており、結構流行ってきました。

 

「STEPN」というアプリがパイオニアで、2022年1~2月くらいから流行り始めました。

簡単にいうと、仮想通貨を買って、その仮想通貨で仮想の靴を買って、スマホを持って歩くとポイントが貯まり、そのポイントが仮想通貨に変換できるので、歩くだけでお金が生まれる、という仕組みです。

いかにも怪しいですよね。

でも実際に儲かった人が特に初期にたくさん現れたのです。

それで大変話題になり「俺も俺も」と新規参入者がどんどん増えました。

仮想の靴は最低10万円くらい(2022年8月2日現在)、高い靴は100万円ちかくするものもあります。

10~100万円の先行投資をして、原資回収から収益化を目指して仮想通貨をもらうために毎日毎日歩く、という人が急増したんですね。

最初「Solana」という仮想通貨で成立する「S国」という仮想のフィールドでやり取りして儲かった人が出ましたが、だんだん通貨の単価が下がっていきました。

そこで、次に出てきた「さらに儲かるらしいぞ!」という「BNB」という仮想通貨で成立する「B国」というフィールドがリリースされました。

最初はプラスが出ていた人も大損して、損を取り返したいプレイヤーは次々参入しました。

どんどん上がるBNBの単価。

しかし、100万円以上の追加投資がかかります。

意を決して借金してまで突っ込んで行ってみると、BNBも大暴落。

今、BNBが上がっている最中に参入したプレイヤーは、阿鼻叫喚の地獄絵図です…。

 

M2Eアプリがプレイヤーを依存させる巧妙な仕組み

なぜここまで多くの人をハイリスクな世界に引き込み、アプリにハマらせることができたのでしょうか。

ここにはGAFAMなどのビックテックが開発してきた「依存症ビジネス」のセオリーがあります。

 

ネットスマホゲーム・SNSには「6つの罠」があります。

①人間を操る「目標」という魔法

②予測不能なフィードバック

③段階的に進歩・向上していく感覚がある

④徐々に難易度を増していくタスクがある

⑤解消したいが解消されない緊張感がある

⑥社会的な結びつきがある

ひとつひとつ、みていきましょう。

 

①人間を操る「目標」という魔法

人間は目標を与えられると、無意識にそれを達成しようとしてしまいます。

自分に何も目指すべきものがない人ほど、他人が決めた目標に引っ張られます。

アプリ内で「1日10,000歩達成すると○○」とか「1ヶ月で20万歩達成すると○○」というキャンペーンがあるのはそのためです。

何かインセンティブがある目標を与えることで、意図する行動(STEPNの場合は「歩く」)に誘導します。

 

さらにM2Eには「歩くことは健康に良い」「健康にいいことは素晴らしいこと」という大義名分があります。

非難される行動ではないことが、参入に対する精神的抵抗をなくすとともに、仮想通貨をよく知らなかった人々やゲームに興味がなかった健康志向の人々も、カm…じゃなくてプレイヤーとして市場に引き込むことに成功しました。

なかなか悪魔的で上手いやり方だなと思います。

 

②予測不能なフィードバック

人間は元々狩猟民族です。

狩猟民族は、獲物が取れて食事にありつける日もあれば、何も取れずに飢える日もあります。

だから「獲物が取れた!」という予測不能な出来事に対して、喜びを爆発させ、取れなくても「あの喜びがまた来るはず」と期待することで生きる希望をもち、命を繋いできました。

その習性は今も脈々と引き継がれています。

ギャンブル依存症の場合、当事者は、ギャンブルにつぎ込んでつぎ込んで、借金までして、明らかに損しているし生活が破綻しているのに、数回当たったときの喜びと興奮が忘れられず「明日はくるはず」「いつかまた当たりがきて大金持ちになる」と損切りすることができません。

ドーパミンという快楽を感じる神経伝達物質の神経回路が強烈に当たったときのことを記憶していて、対象行動を取ることをやめられなくなってしまいます。

これをプロセス依存といいます。

まさにこのプロセス依存を引き起こさせるための仕組みとして「ランダムで宝箱が見つけられる」「広告動画を観るとランダムでポイントが入る」「持っているアイテムをお金をかけて配合するとランダムでレアなアイテムになる」といったものをゲームシステムに仕込みます。

また、不定期に「お祭り」をします。

今だけ期間限定で、あのほしかったアイテムが50%OFF!とか、アイテムを強化する要素をプレゼント!とか。

そうすると、人間は本能的に期待を寄せアプリのことが忘れられなくなります。

 

③段階的に進歩・向上していく感覚がある

同じようなことの繰り返しだと人は飽きてしまいます。

自分が頑張った分だけ自分がレベルアップしていくようなシステムだと、行動が報われるので、もっとやろう・もっと頑張ろうという気にさせられます。

「次のレベルになればもっと稼げるようになる」

「もっといいアイテムに進化させよう」

「アイテムをさらに強化しよう」

「課金してさらにアイテムを買おう」

そうすればもっと効率よくポイントが稼げるよ、というふうにシステムを設定します。

STEPNでは実際にレベルアップ制度があります。

段階的にレベルアップすることで、プレイヤー間にはレベルの上下関係が発生します。

人間は群れのなかで序列をつける動物的側面があるので、人より上に立ちたいと願い、下だと不安になるようにできているので、プレイヤーのランキング内で上位に君臨するためにも、頑張ります。

上位であることが自分のアイデンティティとなるので、ゲームをやり続けなくてはならなくなり、抜けられなくなります。

 

④徐々に難易度を増していくタスクがある

運営側はギリギリ達成できるくらいの難易度を提示します。

たとえば、新しいアイテムが1億とかだと、もう一般庶民に手は出せません。難易度が高すぎて敬遠します。

でも100万円くらいなら、借金すれば何とかひねり出せます。ギリギリ達成できるかもしれないところにぶら下げるのが重要で、リスクを背負って飛びつくように煽ります。

「新しいフィールドでは1日で数十万円の利益も夢じゃないよ」

「もう利益を出している人は勇気を出して飛び込んだひとだよ」

「それができない人とできる人が、成功できるかどうかの分岐点」

等と言って、巧みにプライドを刺激します。

 

また、どんどんバージョンアップして、制限を追加したりします。

たとえば、1日に歩ける時間を制限して課金しないと制限が解けないようにしたり、アイテムが消耗して修理が必要な仕様に変更したり、確率が低いがよりレアなアイテムが得られるガチャ機能を追加するなどです。

そうやって最初は無料で単純だったものを、複雑でお金がかかるシステムに改悪していくわけですが、ずっとやっているプレイヤーはどんどん厳しくなるシステムに逆にハマって抜けられなくなる、というわけです。

 

⑤解消したいが解消されない緊張感がある

これは仮想通貨を使ったことがもろに効いてくるんですが、「激しい相場変動という緊張感」が実現している罠です。

前の日には1円だったものが、次の日には数千円になっていたり、逆に暴落したり。

常に安心することができません。

自分が投資した数百万が数百円になるかもしれない…そんな強い緊張感は、仮想通貨を用いた貨幣システムである限り絶対に解消できません。

強い緊張があればあるほど、投資した金額が化けたときの興奮や快感も並大抵ではありません。

毎日が刺激的。そういう異常な精神状態に陥らせることで、四六時中M2Eのことだけをプレイヤーに考えさせることができます。

 

⑥社会的な結びつきがある

知る人ぞ知るM2E。

広いようで狭いその世界は、選民意識を刺激します。

周りが知らない状態でM2Eを始めたプレーヤーは「世界では流行っているけど日本ではまだ限られた人しか知らない最先端のこのゲーム。やっている俺は他人より賢くてスゴイ( *´艸`)」と内心思っています。

そして、同じようにM2Eをやっている人を見つけると、仲間意識を持ちます。

SNSが発達している現代社会ならではですが、そういう仲間をネット上で見つけて繋がることができるので、コミュニティーというか一種のコロニーが出来上がります。

同じように借金してまで参入した人、最近始めた人、儲かった人、大損した人、そんな人たちが入り混じり、WEB上で社会的な繋がりを形成しています。

歩くという行為は孤独です。

稼ごうと焦れば焦るほど、1日1~2万歩という過酷な目標をかかげ、そのつらくて孤独な作業に挫けそうになるのですが、そんなときに心の支えになるのが社会的な繋がりです。

M2Eをやっていて同じ夢を追いかける仲間のコミュニティーがあることで、限界まで頑張る(実際には意図的に頑張らされている)し、現実のM2Eを知らない人との繋がりよりもオンラインという仮想空間での繋がりを重視するようになります。

居場所がそのコミュニティーになると、ますますそこから抜けられなくなります。

コミュニティーを離れた結果、待っているのは、現実には存在しない概念に振り回されて単に歩きまくり足腰を痛めかけている、疲れ果てた孤独な自分のリアルだからです。

 

まとめ

「歩くだけで年収数百万儲けられる」

そんな美味しい話は、残念ながらありません。

一時的に儲けが出たとしても、ずっと続く営みではありません。

仮想の世界の仮想のお金で、仮想のアイテムを買って、仮想の空間の顔も分からない人との繋がりに居場所を求める。

それは、空虚な現実逃避です。

「自分の将来がどうなるかわからない」

「今の仕事をやめて楽して稼ぎたい」

そんな不満や不安を忘れるために、それらしいサービスにハマってしまう人に、私はとても共感します。

仕事はクソつまんないし、ウクライナで戦争してて日本も滅びそうだし、何の意味もないワクチンやマスクをするのが当たり前の狂った世論が主流だし、そりゃあもう嫌になっちゃうでしょうよ、生きていくのが。

 

わかる。わかるよ。

 

だからハマってしまう人というのは、ダメでもアホでもないし、悪くないと思います。

巧みに本能的な部分を煽って依存させるようなコンテンツをつくっている側が悪いに決まってます。

 

本当に大切なものは、実際に自分の身体で触れられる、この現実世界にあります。

一時の欲望や快楽で、本来大切にすべきものを見失わないようにしましょう。

 

しかし、一度味わった「稼げる」という感覚は脳に強烈に記憶されているので、新しいM2Eがローンチされるというニュースを聞けば気になり「またあのときのように稼げるんじゃないか」「今度こそ出資者リストが豪華だし大丈夫なんじゃないか」「今度こそ初期から参入して先行者利益を狙えるんじゃないか」と思ってしまうことでしょう。

それが依存です。そして、依存だということを当事者は否認するでしょう。

今後、この分野の依存症に苦しむ人は増えてくると確信しています。

借金問題・横領着服・訴訟・経済苦による自殺、などで表面化してくることでしょう。

【子育て】褒められると喜ぶ子・褒められると緊張する子

褒められると喜ぶ子もいれば、褒められると緊張する子もいる。

いったい、この2つのタイプは何が違うのだろうか。

 

褒められると喜ぶ子の心理

言葉をそのまま受け取る子。裏を勘繰らない。

「自分は認められた」と感じて、パワーがみなぎる。

褒めてもらうことを心から喜び、欲する。

他人の賞賛が自己肯定感を下支えしてくれる。

そしてそれは「私ならできる」という自信に変わり、挑戦する原動力になる。

もし数回失敗しても、今まで褒められた経験をもとに、自分の挑戦はいずれ成功につながるという再現性を信じる。

信じて何度も挑戦するので、結果的に成果がでる確率が高まる。

そして「やはり私ならできる」という自分という存在への信頼を強固にしていく。

自分自身への信頼が確固たるものであれば、自分がやったことを他人が褒めてくれなくても、「今はまだ認めてもらえないだけ」と、自分の方向性を信じることができる。

自分の意思で物事を決め、光が見えない暗いトンネルのなかも前に進むことができる。

折れない、くじけない。そんな未来を切り開く。

 

褒められると緊張する子の心理

言葉の裏を読む子。言葉の裏にある「相手の期待」のほうに意識が行ってしまう子。

私はまさにこっちだった。

褒められると「もうこれと同じことで失敗できない」と思った。

なぜなら「できる」という状態を褒められているので「できない」状態にはもう戻れないから。

「できない」状態の自分は認めてもらえない。

できるから肯定してもらえるということは、できない場合は否定されるということだ。

なので、褒められると緊張する。

だから、できるだけ褒められたくなかった。認めてほしいけれど、褒められると逃げ場がなくなるから。

だから、褒められると異常なほど謙遜する。

でも、心のなかでは認めてほしいので、自分以外の他人が褒められていると嫉妬する。

心がザワザワして、他人の成功を目の当たりにすると焦りや不安を感じる。

そのため、客観的にみると謙遜するわりにはプライドが高く見える。

他人の成功は、何かしら理由をつけてケチをつけがち。

成功しなければ認めてもらえない、というプレッシャーのなか、自分にできそうなことにしか挑戦できなくなる。失敗を過度に恐れる。

褒められることを選ぶが、それが自分のやりたいことではないことも多い。

しかし、自分の希望なんかより、他人の期待に応えて結果を出すことが、褒められるためには必要なので、自分の気持ちを無視して物事を決定してしまう。

最終的に、本当はやりたいことではないことを一生懸命やり、ヘトヘトになって他人に認められるために生きる。

そして、認められればられるほど、プレッシャーは大きくなっていく。

大きくなり過ぎたプレッシャーに押しつぶされると、二度と立ち上がれないほど深く傷つく。

自己効力感がない毎日で、やれどもやれども自分の心は満たされない。

結果として、潰れることが多くなる。

 

結果ではなく行動を褒める

この2つのタイプの何が違うかというと、実は褒める人の「褒め方」が違う。

喜ぶ子の親は、行動を褒める。

緊張する子の親は、結果を褒める。

 

子どもというのは、まだまだ人生を歩み始めたばかり。

圧倒的に失敗することのほうが多い。

むしろ成功することより失敗することが大切で、失敗により重要なことを学んでいく。

 

何かに挑戦しているとき、子ども自身はとても不安で、ドキドキしている。

同時に「どうなるんだろう」「できるかな」とワクワクもしている。

 

その過程を経験しようとアクションを取れたことこそ、その子にとって最も重要なことで、ぶっちゃけ結果はどうでもいい。後からついてくるから。

そのことを知っている親は、まず挑戦したことを褒める。

「よくがんばってやってみたね」

「あなたが挑戦したことを誇らしく思うわ」

そう褒められると、行動したことそのものを全肯定されることになるので、結果がどうであれ、子どもは自分の行いを恥じる必要がない。

失敗して悔しかったり悲しかったりして泣いたとしても、行動したことそのものに恐怖することはない。

なぜなら親は、また褒めてくれる。行動を起こした自分を。

だから、またやってみよう、と思う。

 

反対に、結果を褒めると、「結果を出した自分」を褒められていると認識する。

前者の褒め方に比べて部分的である。

「行動→成功」となってはじめて親に褒めてもらえると思う。

そして、親は「成功している自分」を期待しているのであって、失敗している姿を望まれてはいないことを読み取る。

親にとって望まれない子どもになる。

それほど怖いものはない。それほど深い絶望はない。

だから、失敗を恐怖するようになる。存在の否定と同じだから。

成功している姿しか見せられない。だから失敗は隠すようになる。

失敗こそ、最も重要なのに。

親という、心の安全基地、ありのままの自分を認めてくれる唯一の居場所が、なくなる。

そうなると、もうその子はどこにいても休憩することができなくなる。

そして、褒められることを誰よりも求めているのに、褒められるほど苦しくなる負のループに迷い込んでしまうというわけだ。

 

最後に

私は子どもから大人になり、親になってみて、このことはとても大切だと思う。

私は褒められると緊張する子だった。

人生はとても苦しかった。成功してもホッとするだけで、満足感や喜びはなかった。

褒められたいと思って、親が望むことを選択し、ひたすら頑張って得られたのは、他人の期待にそって生きる人生に対する絶望だった。

その子がやりたいことが、最もすべきことだ。

親が「これをやったほうがいいんじゃないか」「あれが向いているんじゃないか」と先回りして提示しないほうがいい。

子どもはその期待を敏感に感じ取って、それを選んでしまうだろう。

でもその先にあるのは絶望である。

期待するなというのは難しいかもしれない。いや、無理だろう。

それだけ可能性は輝いてみえるし、我が子だからこそできるんじゃないかと思うのは当然だ。

しかし、その裏には、親自身が自分に絶望してしまったことの闇がある。

自分ができなかったこと、やって正解だったと思いたいこと、それを子供に背負わせてはいないだろうか。自分の人生のやり直しを子供にさせようとしてはいないだろうか。

我が子と言えど他人である。別の人格を持ち、意思を持つ、権利と尊厳のあるひとりの人間。親と子は本来対等だ。

その対等さを忘れ、自分の所有物のように思い違いをしてはいないだろうか。

幼い我が子の判断はまだ未熟で、自分たちの判断のほうが正しいと、驕ってはいないだろうか。

私が持っている正しさへの認識とは、私の思い込みであって、我が子にとってそれは押し付けられたら迷惑でしかない。

彼には彼なりの、彼女には彼女なりの価値観があり、それは幼かろうが年寄りだろうが、関係なく尊重すべきものなのだ。

それを忘れている親は、この国にはとても多いのではないかしら、と思う。

そんな親も、私と同じように褒められると緊張するようなつらい子どもで、その子どもがそのまま年齢を重ねているからかもしれない。

誰も悪くはない。

でも、自分が味わった辛さを我が子に背負わせないために、同じ呪いをかけないように、親が子どもを卒業することが、必要なんだと思う。