信じられるものがない、そんなつらい世の中ですね。
哲学者ニーチェはかつて「神は死んだ」という名言を『ツァラトゥストラ』のなかで残しました。
ここでいう「神」とは、「真理」などの絶対的な価値のことです。
絶対的で普遍的な価値など無い、そうニーチェは言っていたんですね。
不安と恐れが他人を求める
たしかに、それはそうだと思います。
唯一絶対な存在とか崇拝すべき対象なんてのは、この世には無い。
もしそれがあると信じているとすれば、それは宗教という一つの依存のかたちです。
宗教を生きる拠り所にすることに、私は異を唱えません。
それは、誰もが何かに依存して生きているからで、それが人として自然なことだからです。
その価値観を自分のなかでのみ大切にしている分にはいいのですが、他人に押し付けてしまうと、それは話が違ってきます。
他人には、他人の生き方があります。
自分が信じているものを他人にも信じてもらわないといけないと思うのは、不安だからです。
本当に信じていいのかどうか心の底では自信が持てないので、他人も信じているという後ろ盾が欲しいから、仲間に引き込もうとするのでしょう。
ゆるぎない信仰であれば、同じ信仰を他人に強要する必要がないですもんね。
「いいものだから教えてあげたい、私は他人のためを思って勧めているのだ」という人もいるのですが、自分が持っている価値観が絶対だと思っている時点で、見誤っているといえます。
他人には、他人の価値観があります。
違う価値観も「そういう考え方もあるよね」と受け容れられないというのは、狭量な世界観に自分が閉じこもっているからです。
科学
科学も、絶対ではありません。
エビデンスがあるからと言って、本当にそうだとは限らない。
「どうやらそうらしい」という確率を計算しているだけで、ひとつの可能性でしかない。
マスクの是非やワクチンの是非を、SNS上でやり取りしているのをみると、とてもやるせない気持ちになります。
私はマスクには意味がないと思うし、ワクチンは打たないほうがいいものだと思います。
反対に、マスクもワクチンも必要だ、と思っている人もいると思います。
結論としては、お互いに好きにすればよろしい。
したい人はすればいいし、したくない人はしなくていい。そもそも任意なのですから。
それを「こっちのほうが正しい」「いやこっちが正解だ」と言ったところで、永遠に平行線です。それぞれに信じている宗教が違う、住んでいる精神世界が違うのだから。それぞれが信じる「正しさ」でマウントを取り合っても、溝は深まるばかり。
ネット上での不毛な争いに熱中して、自分の人生を置き去りにしている人がたくさんいるなぁ、と思います。
権威
権威というのも、本当にあてにならないものです。
私はAC(アダルトチルドレン)として、権威を恐れてきました。
過去記事【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)
過去記事【AC】「権威ある人を恐れること」を受け容れて見えてきたこと
●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる
正しさへの固執。
社会的に認められることへの執着。
その根本には、自分が不適当で、無能であるという思い込みがあります。
自分が抱えている不安と恐れが、他者評価を絶対的価値と勘違いさせます。
他人から見た自分のほうが自分が見ている自分よりも大切で正しい、という思い込みとも言えます。
客観的に、とよく言いますが、客観も主観の一つでしかなくて、結局は誰かの目を通じてしか物事をとらえることはできません。
主観からは逃れることができない。それが、私たちの限界です。
社会で認められていれば、立派で偉い人でしょうか。
社会的地位のある全ての人が、徳を備えているでしょうか。
そんなわけないですよね。
むしろ、逆なんじゃないかしら、と思う今日この頃です。
私は、この社会は狂っていると思います。
その狂っている社会に認められているということは、その人は「しっかり狂っていますね」という証明なのではないかしら。
狂っているかどうかはともかく、社会的評価というのは、集団的自意識が主観的に判断する一つの切り口でしかなく、絶対的なものではないと思います。
むしろ、ある集団のなかでエリート意識を持ってしまうことでアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)を獲得する「病巣」としての側面を、社会的評価はもっている。
だからこそ、一定の距離を置く必要があるし執着しないで過ごせるほうがいい。
一周回って、私は今そんな風に感じています。
お金
お金も、やっぱりあてにはなりません。
お金は現代の狂気の、中核を構成するアイテムです。
ただの紙であり、ただのデータに、私たちは命がかかっていると信じている。
だから命がけで奪い合います。その魔力に狂ってしまっています。
お金のために、平気で人を騙したり、嘘偽りを話したり。
そうやってお金をたくさん集めたとしても、満たされることはないでしょう。
実体のない概念をいくら集めても、心は荒むばかりだからです。
お金持ちは幸せかといえば、私はそうではないように思います。
すでに充分なのに、蓄えたものを守ることに必死で、少しでも減れば損をしたように思って、憤っていたり満たされず飢えていたりします。
羨ましいかというと、私はどうもそうは思えません。そんな人生は嫌ですね。
お金持ちは奪われる恐怖に苛まれ、貧乏な人は嫉妬と憎しみに苛まれる。
お金を人生の中心に据えると、お金に振り回されて、命を見失います。
いかに金銭欲を自分のど真ん中から遠いところに置いておけるか、それが生きる上で最も気を配るべきことかもしれません。
蟻一匹、花一輪
では、何を拠り所にして、私たちは生きていけばいいんだろうか。
そう思い悩みますよね。
私は「売り買いできないもの」だと思います。
それは、命であり、愛であり、この世の中のありとあらゆるものすべてが、本来はそうだといえます。
誰かが認めなくても、権威で装飾しなくても、私たち一人ひとりに価値があり、蟻一匹、花一輪にも、同等の価値がある。
この世のあらゆる全ては、美しくて元々。
値段などつけられません。順位もありません。
それぞれが、それぞれの生を、ただただ全うしているだけにすぎません。
価値は、何かに限局する必要がなく、常にそこかしこにある。
だからニーチェは「神は死んだ」と言ったのではないかしら、と思うのです。
みんな、そういう世界の在り様を忘れているんじゃないかしら、と思います。
終わりがあるから尊く、弱いから美しく愛らしいのです。
永遠の命、繁栄を求めたり、偽りの強さを纏おうと躍起になるから、「生きることそのもの」からいつしか外れていく。外れて戻ってこれなくては、人生苦しむばかりです。
それもまた、我々の弱さゆえの定めなのかもしれません。
この凍てつく冬の時代にも必ず意味がある。そう思います。
生き抜きましょう。
禍福は糾える縄の如し。
焦らず怯えず、躊躇わず、一日一日を大切にしましょう。
それしか、私たちにできる事などないのですから。
明日はどんな日になるでしょうか。
今日一日、悔いのない一日を生きられましたか?
一切は過ぎていきます。
過去は過去。
我々が今いる場所を見失わないようにしましょう。