尊敬するマルクス・アウレリウスも『自省録』のなかでこう言っている。
今日まで君は、どんな態度で過ごしてきただろうか。
神々に対しても、両親・兄弟・配偶者そして教師や友人に対しても、誰に対しても、君はひどい扱いをしたり、ひどいことを言わなかっただろうか。
そして、君がこれまで経験してきたこと、耐えてきた困難を思い返してみるのだ。
君の人生の物語は、今ここで、終わった。
世のため、人の為にやれることはもうない。任務は、終了したのだ。
今こそ思い出すがいい。
これまで君が見てきた、美しいものを。
そして、どれだけ多くの苦痛や快楽に負けず、どれだけ多くの名誉に囚われず、どれだけ不親切な者たちに親切な態度を示したかを。
さあ、思い出してみるのだ。
彼は毎日ナイトルーティーンとして自らを振り返り、記録を続けた。
死すべき存在である自分を常に忘れず、一日一日を人生最後の日のように過ごす。
その生々しい人生の記録の集積が、この『自省録』である。
だからこそ手に取るたびに温かく清々しい気持ちを取り戻せる。
君も私も必ず、いつか死ぬ
これだけは失いたくない。
そういうものが、あなたにはいくつあるだろうか。
家族?友人?ペット?家や貯金などの財産?今の仕事のポジション?
残念ながら、私たちはそれらを、いつか必ず全て、失う。
死んだら、今持っている何もかも失う。
そして、それは誰にでも必ず訪れる終焉。
いつその時が来るかは、誰にもわからない。
明日かもしれないし、明後日かもしれないし、もっと先かもしれない。
でも、100%間違いなく、あなたは全てを失う。私も失う。
あなたは今日死ぬとして、このまま寝たらもう二度と目覚めないとして、どう思うだろうか。
決して誤解してほしくないのは、私はあなたに「だから頑張れ」などというつもりはないということだ。
今日が最後の日だと思って一生懸命やろうとか、そんな安っぽい自己啓発本みたいなことを言うつもりは毛頭ない。
人生最後の日だったとしても、頑張れない日は頑張れないだろうし。
「楽しかった、悔いはない」と思うだろうか。
私は人生山あり谷ありでエキサイティングだったので、今日死んだとしても別にかまわない。
結構満足だ。充分楽しかったし苦しかった。
美しいものもたくさん見ることができた。もうすでに、必要なものは与えられるだけ与えられたと思っている。
いろいろ失った。
出世の道は、懲戒処分によって失った。
もっと貯められたであろう給料のほとんどは、酒に消えた。
酒を飲んできた結果、アルコール依存症という病名を背負い社会的信頼を失った。
酒の飲み過ぎとタバコの吸い過ぎで、健康な体も失った。
コンクリに頭からダイブして前歯も失ったなぁ。
失ったものは数えきれない。
でも、本当にそれが必要だったかというと、そんなに必要じゃないと失って気づく。
肉体は、生まれた瞬間から失われ始める。そして、いつか必ず土に還る。
だからいずれなくなるものなので、失ったところで遅いか早いかの違いだ。
出世や社会的信頼も、死んだらもう関係ない。
給料や財産も、黄泉の国へは持っていけない。いくら貯め込んでも意味がない。
失うことは不幸ではない
不幸とは、失うことではない。
不幸とは、今際の際に「もっと○○しておけばよかった」と後悔することだ。
いくら分かりやすい価値に恵まれていても、死ぬ間際に嘆きながら亡くなるなら、その人の人生は不幸せだろう。
なぜ後悔するのか。
それは、心のままに自由に生きられなかったからだ。
あなたを縛る制限は、あなたの心の中にある。
「やりたいけど、やってはいけないことだから」
「今はもっと重要なやらなければならない(と言われている)ことがあるから」
「失敗しないようにしないといけないから」
「嫌われないようにしないといけないから」
「みんなと仲良くしないといけないから」
たくさんの「○○でなければならない」「○○しないといけない」で自分を縛り上げてはいないだろうか。
そうやって自分で自分を雁字搦めにして、思うように生きられなかったとき、人は死ぬときにこうつぶやく。
「そんなこと気にしないで、もっと楽しめばよかった」と。
あれもしたかった、これもしたかった、会ってみたい人にも会えていない、見たい景色も見れていない、本当はしたかったことが走馬灯のように浮かぶ。
そして、絶望のなか、目を閉じる。
そして二度と目覚めない。意識も肉体も、消えてなくなる。
どうせ死ぬのだ。
どうせ死ぬなら、好きなように思い切り生きよう。
私はお酒で大失態をして、懲戒解雇を検討されたことがある。
誰とも連絡を取るなと会社から厳命を受け、自宅待機を命じられた。
部屋に座り込んで茫然としていると、一日が終わる。そんな毎日を過ごした。
もう、社会的な死は免れない。私は終わった。そう思った。
よろよろとホームセンターに行って自殺用のロープを買い、どの山で首を吊るかをスマホで調べた。
妻に懲戒処分の検討中で、最悪解雇になるかもしれないと告げた。
「仕事なくなったって、また別の仕事探せばいいんだし。あなたが一生懸命に頑張ってたこと、私は知ってる。だからまあ、大丈夫なんじゃない?なんとかなるっしょ。人生なるようにしかならないし。」と笑いながら返された。
そっかぁ。じゃあ一回死んだと思って、生きてみようか。
そう思って今がある。
アルコール依存症の治療に向き合い、アダルトチルドレンの課題に向き合い、発達障害としての自分に向き合い、今がある。
私の死ぬ意志は本物だった。だから、もうどうせ一回死んでるんだし、ダメでもともと。
思いつく限り何もかも試してみて、それでもダメなら、そのときに終わりにすればいい。
何もかもやってみたけどダメでしたってわかってからでも、自殺するのに遅くはない。
そう思い直してふっ切れた結果、今がある。
己の声に耳を傾け、全身全霊で生きてみた結果、私が大事だと教えられてきたことは大して大事でもなかったことがわかった。
守らなくてはならない、と教えられてきたルールは、守らなくてもいいことがわかった。
失ったら大変なことになる、と教えられてきたが、失ってもピンピンして生きている。
教えた誰かが悪いのではない。彼らも自分を縛り上げていただけ。
自分を縛っていたのは、自分自身だった。自分自身の恐れと不安だった。
あなたは今日が人生最後の日だとして、何を思い、何をするだろうか。
今抱えている悩みは、人生最後の日にも悩むことだろうか。
人生とは、限られている。
偉大な何かから限られた時間を与えられていて、私たちはその「時間」という与えられた無形資産を消費しながら生きている。
あなたが今やっていることは、何もかもすべて、命を懸けてやっていることだ。
そう、命がかかっている。
Twitterをみるのもそう。Youtubeをみるのもそう。仕事の愚痴をいっているのもそう。仮想通貨の相場に一喜一憂するのもそう。子どもと昼寝するのもそう。愛する人に「愛している」と言葉を贈るのもそう。虫を捕まえようと必死に走り回るのもそう。ランニングをするのもそう。食事を食べるのもそう。顔を洗うのもそう。歯磨きをするのもそう。コーヒーを飲みながらテレビを見るのもそう。出世を気にして意味がないと思いながら無駄な仕事をするのもそう。嫌われないように愛想笑いを浮かべるのもそう。
あなたが今やっていること、今日やろうとしていることは、命を懸けてでもやりたいと心から思えることだろうか。
そうじゃないなら、やらなくてもいい。私が保証しよう。失ったってたかがしれている。
やりたいと思うなら、やればいい。
やりたいと思えることをやればいい。
あなたはいくら楽しんでもいい。
あなたはいくら失敗してもいい。
あなたはいくら嫌われてもいい。
あなたは、幸せになってもいい。
さあ、楽しい一日の始まりだ。
人生最後の今日を、はじめよう。