何者かを一般化すればするほど、真実そのものから遠ざかる。
しかし、人は法則を見つけたがる。グループに共通点を見出して、他者を自分の理解の範疇に押しとどめたいと願う。だから、他人を観察し分析することに熱中する。
それは「恐れ」と「不安」から突き動かされている衝動。
しかし、その指摘は当事者から否認される。
なぜなら、それをやめてしまうと自分を見つめなくてはならなくなるから。
「共依存症の当事者はなぜ他人を一般化したがるのか?」ということについて考えてみる。
「共依存症の当事者はなぜ他人を一般化したがるのか?」
すでにこのテーマ自体が、一般化しているから反感買うよな、と思う。(笑)
共依存症になるのは、人それぞれで、抱えている寂しさのエピソードはそれこそオーダーメイドだ。環境は一つとして同じではない。当事者たちに限りなく共通点があるとしても。
まずはその土台に立たなくてはならない。
同じようで違う。違うようで似ている。
そして、それぞれが独立した貴重なストーリーだということ。
それを共通認識できて初めて対話ができる。
「アルコール依存症者はこうだから」
「ギャンブル依存症者はこうだから」
「医療機関はこうだから」
「福祉はこうだから」
こういうレッテルを貼るのは、当事者が見えていないからだ。
私がまさにいい例で、そういう偏見にまみれていたと思う。
信頼して打ち明けた心療内科で自分がアルコール依存症であるという事実を「隠したほうがいい」と言われた悲しみと怒り。それが医療者に対する疑心を生んた。結果として私はしばらくの間「『医療機関の多く』はまだ依存症に対して無知である。」という偏見を持った。
特にデータを取ったわけでもないのに、数十名の医師と面会しただけで、そう決めつけるのは明らかに早計だった。それに、一生懸命依存症に関わっているメンタルの先生方にしたら、私の不遜な態度や決めつけはとてつもなく心外だったことだろう。この場を借りて当時の自分の思い込みで傷つけなくてもいいひとを傷つける発言や態度をとってきた未熟さをお詫びしたい。
そもそも私たちは、このようなレッテル貼りに深く傷ついてきたではないか。
依存症という病への無理解や偏見、つまりスティグマを植え付ける社会を憎んできたはずではないか。
それなのに、レッテルを貼る側になってどうするんだよ、という話である。
大きな主語で語ると、その主語の大きさに比例して他人を傷つけるリスクを高くする。
気を付けなくてはならない。
ではなぜ大きな主語で語る(一般化する)のか?
では、なんでそんなリスクの高いことをしてしまうのだろうか。
自分が傷ついてきたはずの行動を無意識にしているのだろうか。
その答えは簡単で、「恐れ」ていて「不安」だからだ。
何が? 「わからないこと」が。
私にとって、分からないものと対峙することが、居ても立っても居られないほど脅威だから。
私が人間をカテゴライズする「性格診断」「タイプ診断」などを毛嫌いするのは、人間の心の弱さをまざまざと見せつけ、心にこすりつけられるようで、どうも苦手だからだ。
分からないものを分からないまま脇に置いておくことができない「弱さ」を誤魔化すためだったり、何かの基準にすがりたい弱さに付け込んでコントロールしようとするパワーゲーム的な戦略性(つまり別の種類の「弱さ」)を垣間見るからだ。
何故、他人が「わからない」ことがこれほどまでに怖いのか?
コントロールしたり予測したりできないことに、ここまで不安を覚えるのか?
それは、私たちが今までコントロールされたり誘導されたりしてきたからだ。
他人に意図を知らないままに操られてきたからだ。
他人に心理的安全性を脅かされてきたからだ。
つまり他人を警戒し心を閉ざしているのが私たちだ。なぜか?そうせざるを得ない経験をしてきているから。
自分の弱さを認識しようとしないで、他人を分かった気になることで覆い隠そうとする。
そうなった瞬間、弱さは気高さを失い、醜悪さになる。強くありたいという本来の願いから遠ざかっていく。
以上が「一般化する側」の弱さ・醜さ。
「一般化された側」も、弱さが共鳴する。反応する。それが炎上である。
一般化された言葉を読む。
それはおおむね当事者の真実と異なっている。なぜか?弱さゆえに分かった気になろうとした人が無理やりこじつけた虚像だからだ。安心するための張りぼてに過ぎない。
その張りぼてをさも自分であるかのように、他人が勝手に喧伝していたら、当事者はどう思うか。
「ちゃんと理解してもらえていない」
「誤解されている。本当の自分を受け容れてもらえていない」
当事者の聞き手は、不安と恐れが生まれる。
そして、その不安と恐れに突き動かされて、発言者を非難する。
どうやって非難するか?これまた一般化するのである。
「これだから○○は理解していない」
「こんなことを言うのは○○なやつだ」
それが連鎖反応して、どんどん人を傷つけていく。
ネットで炎上している状態というのは、だいたいこんなもんだと思う。
要は、「一般化する側」も「一般化される側」もそれぞれの弱さが反応して、無差別に傷つけあい燃え上っているだけ。
人が群がる空間に迸る「人間の醜悪さ」というのは、「弱さの否認の共鳴現象」の産物だと思う。
強くあるにはどうすればいいのか?
弱さそのものは悪くない。むしろ必要だ。
しかし、それを認めず目を背けるとき、人は醜くなる。
否認すればするほど、みすぼらしい存在になっていく。
弱さを認めること。脇においておけること。それが、強くあるということ。
強かで美しい人間であるために必要な勇気だ。
まず、傷ついたときには素直に「私はあなたが○○だと決めつけて話すことに傷ついている。可能なら、次回から決めつけないでほしい。○○という風に理解してもらえたらうれしい」と言葉にして相手に伝えよう。
攻撃する必要はない。自分がどう感じたのかをありのまま、私を主語にして伝えよう。
それを受け取りどうするかは、相手次第。気持ちを渡した瞬間、それをどう処理するのかは相手の仕事だ。相手のなかでどう加工されようと、あなたに責任はない。伝わるように伝えるところまでが自発的に果たしたい役割。
とても勇気がいる。自分の気持ちをそのまま伝えて受け取ってもらえなかったら辛い。誤解されたら口を出して理解させたくなる。でもそこは境界線を越えてはいけない。私に「気持ちを伝えて渡す権利」があるように、相手には「受け取り方を決める権利」があるのだから。
そして、他人の言葉を聞いたり、自分が発言するときに、「主語が大きくなっている」と感じたとき。
それは誰かが誰かに「恐れ」や「不安」を抱いているときだと覚えておこう。
覆い隠したい「自分のなかにある恐れや不安」が別の形で表出していることを知覚しよう。
わかったようなふりをして安心したいのはなぜか?
そこにはどんな「不安」がある?
「この相手を理解した」と周囲に示すことで気持ちよくなりたいのはなぜか?
そこにはどんな「恐れ」がある?
そういうとき世界は「自分を見つめ直そう」というメッセージをくれている。