3、今までの生き方を支えてきた意志の力への信仰をやめ、他人の評価を恐れることなく、あるがままの自分の心と体を受け容れようと決心した。
あるがままの自分でいたら、どんどん自分を甘やかして、どんどんナマケモノになって、誰にも相手にされなくなるのではないか、という恐怖が襲ってくるかもしれません。しかし、だまされたと思って、とりあえず「今のままの自分でいい」とすべてを認めてみてください。
出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P210より引用
「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ /大和書房/斎藤学
前回の振り返りと今回のステップの位置づけ
前回のステップで、私は2つのことを認めた。
①小さい頃から感じてきた寂しさを埋めるために、他人の評価を気にし過ぎたことがきっかけだった。
②今まで自分の意志の力を信じ過ぎ努力してきたことが、私の人生を不健康にしてきた。
意志の力を信じてひたすら自分に鞭打って生きてきた生き方は、それはもう見事に破綻して、実際にアルコール依存症という形で表面化した。不健康そのものだ。
なまじ中途半端に他人よりできたことが災いして、間違った「意志の力への信仰」を強化するという皮肉。他人の評価はコントロールできる、今評価が低いのはコントロールが甘いからだ、という驕り。それが自分にも他人にも厳しい態度を生んだ。世界をどんどん他ならぬ私が狭くしていった。
だから、このやり方はもうやめなくてはならない。やめざるを得ない。
というか、やめる以外の選択肢はない。そうだろう?だって失敗したんだから。
「それをもういい加減認めようぜ」というのがステップ3だ。
時はきた
「でもだってほかにどうすりゃいいんだよ?!」って不安になると思う。
なんというか、今まで必死に拝んできたお地蔵さんが砂でできていてバッサリ崩れ去った感じだ。私はこれから何を道しるべに生きていけばいいんだろう?的な。
今までの人生に対する後悔も半端ではない。
何という無駄。なんという徒労。意味のない、間違ったことを一生懸命してきたなんて…。その事実をとてもじゃないけど受け止められない。後悔が重すぎる。
そう思ってもしかたないし、むしろ当然だと思う。
だって、もう本当に、私たちは健気に一生懸命にやってきたんだから。
認められよう、褒められよう、ここにいていいって言ってもらいたい。
そんな悲痛な叫びをぐっとこらえながらただひたすらに努力してきた。その切実さ、内に秘めた怒りはとてもよくわかる。私も同じだったから。
でももう、それは失敗に終わってしまった。いよいよ「失敗だった」「間違いだった」という事実を受け容れるときが来た。
実は、薄々わかっていただろう?
こんな事いつまで続けるのだろう。報われない努力をいつまで。
本当に私はそんなにダメなのか?結果が伴わなくちゃ生きていることすら許されないのか?
愛するってそんなギブアンドテイクか?そんなに渇いたやり取りなのか?それで私は本当に癒されるのか?
そんな思いが心のどこかにあったのではないか。
努力不足なんかじゃない
なぜそんなに自分をダメだと思うのかといえば、親に愛されていない事実を誤魔化すために自分に矛先を向けているからだ。
「親はもちろん自分をありのまま愛している」ということを肯定するには、親の望む「いい子」になって認められ褒められる必要があった、というのがすでに矛盾していて歪んでいる。
本当は、親がどんな私でも他との比較を抜きにして、ちゃんと見てちゃんと話を聞いてちゃんと正直に話をしてくれれば、何の問題もなかった。
そういう心の交流をしてもらえないということは、つまり愛されていないわけだが、幼い私はそれを認めてしまったら壊れるので、他に理由を探したのだ。つまり自分の能力に責任転嫁したのだ。なぜなら親を愛しているから。健気すぎて泣けてくる。
「私は親を愛している。だから親が私を愛していないはずがない。親が私を愛していないように見えるのは、私が至らないから。両親が私を愛していないわけがない、だとしたら私に原因があるに決まっている」
そんな哀しいことってある?と思う。
親には正直人を愛する余裕がなかったと思う。自分を愛していなかったから。
自分を愛していない親は、自分の寂しさや憎しみ、つまり抱えているパーソナルな問題を見ない振りをするために、子供に関わる(過干渉だったりネグレクトだったりする)。
そのとき親は自分しか見えていない。もちろん子供そのものは全然見えていない。
そういう両親のもとで、子供はとてつもない孤独を感じる。見てもらえない、愛されていない事実が肌身に染みる。
だから親が求める模範的な「いい子」になろうとする。あるいは、問題を起こしてそれでも見捨てないかどうか試す。
しかし、今思えば、無理な要求だったのだ。
彼らはまだ人間として未熟なのに子を授かってしまった。そもそも彼らができないことを、私たちアダルトチルドレンは期待していたと言える。
期待することはもちろん悪くない、というか当然のことで、親はそれに全力で応えるのが役割なので、全ては親が親として必要最低限の能力を欠いていたせいだ。
悪くない
そう。ここまで読んでもらえたらわかると思う。
私たちが必要以上に承認欲求に振り回される、諸悪の根源は、親の能力不足だ。
あなたが悪いんじゃない。
そう、あなたが悪いんじゃないんだ。
だから、あなたは「今のままの自分」でいいんだ。
他人との対比は関係ない。する必要がない。
比べたとして、そもそも他人は私たちが思うより、大したことない。恐るるに足らない。
他人のほうが自分よりめっちゃすごいと思ってきた。特に先生と呼ばれる偉い人やお金持ちや社会的ステータスがある人は、人間として上質なのだ、と。
それは、思い込みだ。
どんぐりの背比べ。似たり寄ったりだ。人間ひとりの力なんて大差ない。
自信満々そうに見える人も、実は内心怯えていることを悟られないように虚勢を張っているだけだったりする。他人にやたらとマウントを取ろうとする人も私たちと同族である。病んでいる。
本当に自信がある人は、親が成績や実績なんかじゃなくちゃんとありのままの姿を認めてきてくれるまともな親で、健全な家庭育ちだからだったりする。
つまり、親ガチャでちょっとその人たちのほうがラッキーだっただけだ。私たちは親ガチャが残念だっただけ。彼らとの人間的な質の差は特にない。
人が創りあげるものは何でも、完璧ではない。だいたい何か足りないところがある。
自分一人の貧弱な能力では足りない何かを埋め合わせるために、どこか足りない者同士の私たちは、身を寄せ合い力を合わせて何とかかんとか今を生きている。世の中ってのはだいたいそんなもんだ。
しかし段々と社会が高度化しシステム化して、人が人でなくても良い社会になってきた。言い換えると、私たちはいくらでも替えがきくような冷たいシステムの歯車として生きているから、どんどんさみしくなっている。
人が創った不完全な社会だから当たり前なんだけど、物質的な豊かさと引き換えに、自ら不安で不幸になるような仕組みに乗っかって、今まさに情緒不安定になっている。
コーヒー飲んだら仕事がはかどるからっていってガボガボ毎日飲んで、カフェイン依存の症状として不眠やイライラに苦しんでいる、みたいなもんだ。
「勘違い」から一歩抜け出そう
今、いわゆる「勝ち組」として社会で華やかに活躍しているふうな人を羨む必要はない。
彼らはまだ騙されている。私たちが騙されてきたのと同じトリックに騙されているけれど、気づいていない。
そもそも社会に認められることって実は価値が無い。だって社会がクソだから。
自殺者をこんだけ増加させて、金儲けと出世のために仲間が苦しんでても「知らねーよ」って顔ですっとぼける人間が、国を動かす立場に立てるんだぜ?
それが今の社会のヒエラルキーの正体。
最も権力のある立場に立つ条件は、徹底的にクズになるということだ。
私利私欲を追求して他人が死ぬのを何とも思わないような、KING OF クズになること、それがこの今の社会で最も認められるということ。
嫌でしょ?
私は嫌だね。お金もらえても願い下げ。だってそれはもはや、人間じゃないもの。
だから、勝ち組って言われている人たちは、クズの優等生ってこと。自分たちのクズっぷりが認められて「私はとても幸せで他人よりすごいんだわ!」って言ってる感じ。やばいよね、それってもう悪趣味すぎじゃない?
まあでも「蓼食う虫も好き好き」ということわざがある通り、人間やめちゃってもいいからお金や権力がほしい、と人もいる。そういうのは、悪魔か獣か人外の類だと思って、放っておこう。
まさに冒頭から申し上げている、意志の力への信仰の狂信者もいる。私たちと同じだけど、コントロールに取りつかれていることにまだ気づかないまま狂信者。ガチャ的なラッキーも積み重なってしまったがゆえに、狂った宗教から抜け出せなくなっちゃった人たち。かわいそうに。同情せざるを得ない。
社会的に認められる、競争社会で勝つ、というのは「価値観の一つ」であって、場合によっては「大いなる勘違い」でもある。
価値観が一つではないように、社会で認められるというのは「認められているなら優れている」と錯覚しているだけであって、実際は何の指標にもならない。
なぜなら、人は不完全で、不完全な人間がつくった物差しなど正しいわけがないから。
では何を道しるべに生きるのか?
「良心」だ。
自分は、こんな善い自分でありたい。
この人を尊敬しているから、こんなことをしてあげたい。
そういう自分の心の奥深くから湧き上がる尊い気持ちに従って行動すれば、それだけでいい。
それが最も私が私らしく生きる法則であり、この世の誰にも否定する権利が無い人生になる。
そもそも正しい人生なんてない。間違っている人生もない。それを他人が決めるなんておこがましい。
法律も、ただ人間が勝手に決めただけだ。ルールを設けてみんなが生きやすくしようね、という取り決めで、絶対的に正しいわけじゃない。
自分の心に問いかけよう。
それこそが真実だ。それしか真実はない。誰も教えてくれない。
人生の答えは、あなたのなかにしか、存在しない。