【依存症】私がブログを書く理由は

私は今日、なぜこのブログを続けているのかな、とふと思ったので書いてみる。

変化の記録

特に誰に依頼されたわけでもない。特別読者が多いわけでもない。私などあまたいる浅学菲才な凡人だ。

そんな人間が書くものが、読者にとってどれほどの価値があるかわからない。そんなにたいしたことを書いてないなと思う。文章も無茶苦茶だしね。

でも、私が「依存症者」として至らない思考の数々を記録に残し、その恥を全世界に晒す意味は、私にとってけっこうあるんじゃないかと思う。

私の考えは常に変化している。

だから、ブログを始めた当初の記事は、書いていることがなんとなしにイキっていて過激でしつこくて、なんか相当イタイ内容だったりする。やめて、ブラウザバックして確認しないで。

だけど、それも確実に私だし、そういう一貫性のなさみたいなものが私そのものだなぁと思う。

正しいことばっかり書いてあっても、つまんないじゃない?

みんな日々変わる。それが当たり前なんだから、一貫性がなくったっていいじゃない。

そんなふうにもともと超頭固い人間だった私が、悩みながら自己受容ができるようになっていく過程。それが生々しく開示されているのがこのブログ。

すなわち、毎日毎日せっせと恥の上塗りをしているのだ。とんでもないドMだ。

でも案外、私と同じような悩みを持つ人に最高に寄り添えるんじゃないかなぁ。恥を晒しっぱなしにしているのはそういうわけ。

え?恥ずかしすぎて読み返せないからそのままにしてるんじゃないよ、ほんとだよ。ほんとほんと。

灰色を振り返る

私は物心ついたときから、とにかくめっちゃ生きているのがつまんなかった。

マジかよ、これあと何十年もあんの?地獄じゃん、と思っていた。

他の子達はとても楽しそうだけど、私が混じると微妙な空気が生まれてみんな楽しそうじゃなくなる。とても不思議だった。

私は一人の方がとても楽だったから、幼稚園にはじまり酒を飲めない時代の教育機関において楽しいと思った記憶はあまりない。大学は酒が飲めたから楽しかった。そのあと地獄が待ってたけど。

学校に行くとみんな楽しそうにしていて、毎日飽きもせず他人と遊んでいた。本当に不思議だった。

「なぜこんなに挨拶だけで疲れるのに遊べる体力があるのか?私に体力がないのか?いや、水泳では一番泳げるし、走るのも速い。どうやら身体能力の違いではない。」

「なぜこんなクソつまらない授業を聞いて御山の大将を決めるような小規模でダサいお遊びの部活をやって『毎日楽しくてたまんないぜ』みたいなフリができるのだろう?演技力半端なくない?なぜこんなにつまらないのに生きていけるんだろう?楽しいフリじゃないとしたら、一体全体何が面白いのだろう?彼らが感じている面白みは、何のどこにあるのだろう?」

そんなことを思いながら灰色の気分で周りを観察する日々だったなぁと思う。小中高とそんな感じだった。

スポーツや勉強で他人に勝てることは最初は楽しかったけど、上には上がいるわけで、いつも勝てるわけじゃない。

勝ち負けにとらわれても結局苦しいだけなんだなと思ってから、競うことにあまり興味がなくなった。

相手に馬鹿にされない程度に強くて勝てていれば、生存戦略としては必要十分。それ以上の意味はないなと思った。

親が喜ぶし、周りも「すごい」と言って賞賛するから、これが「良きこと」なのだと信じたいと思った。

社会に認められることこそが正しいこと。

そういう既製品の価値観をじわりじわりと深層心理に塗り込んでいった。

心の中で疑わないわけではなかった。

「本当にこれがやりたいことなのか?」「本当にこれが意味のあることなのか?」「皆が良いと言うから良いと信じるのは危険なんじゃないか?」

そう思ったけど、その方が楽だったし、親から見てもらえる効果的な方法を手放せなかった。安心できた。その偽りの安心を維持できるならと目を瞑った。

私は私の気持ちをみるのをやめて、周りの物差しを信じようと努力してしまった。

成長すればするほど違和感はどんどん膨らんでいく。

社会的にもてはやされる事柄に興味が持てないのだ。結構焦った。

女性と何人関係を持てたかを自慢したりする同性たち。価値観が合わない。自分の娘が「一発やれたらいい」みたいな腐った男に好きにされたら、親として一体どう思うのか?そんなことも想像できないのだろうか?大切な家に侵入してくるゴキブリのような存在になっているとは思わないのだろうか?

他人を間接的に殺してでも金をたくさん稼いでいる人間が上等だと言う先輩の社会人。冗談だろう?なんで人の命より金が重いんだ。カイジの利根川かよ。世の中を良くするための仕事じゃないのか?武力以外で効率的にたくさん人殺しするために(高級取りになるために)私は我慢に我慢を重ねて大学までクソつまらない勉強をしてきたと言うのか?ひょっとして今までの高等教育というやつは、みなインテリヤ◯ザになるための英才教育だったのか?

一生懸命合わせようとしてきたけど、瓦解した。

もうだめだ、私は社会不適合者なんだ、と思った。

結婚も仕事も何も魅力的じゃない。だけど、どうせ今までと同じようにやらなきゃいけない。だってそれが正しいことだから。そうでない人間は生きていてはいけないような言われ方をする。恥さらしだとゴミのように扱われる。

それは嫌だけど、この世界もいい加減うんざりしてきた。

どうしよう?

このクソつまらない世界に付き合うのと、もういっその事終わりにするのと、どっちが楽なんだろう。

そんなとき酒に出会った。

簡単に私を現実ではないところに連れて行ってくれる酒。

このゴミ溜めのような世界を輝かせてくれる酒。

酒によって私は解決の鍵を手にしたと思った。

酒に酔っていれば、この灰色の世界も色を取り戻す。

なるほどな、世の中の人は、この桃源郷にありつくために楽しくないのに楽しいフリをし、土の中で夏を待つ蝉のように、成人になるのを待っていたのか!

なるほど納得だ。これで私は安心だ。よっしゃ時代が来た。酒さえあればこの地獄をなんとかあと数十年しのぐことができる。

そう思っていた当時の阿呆すぎる自分を殴りたい。

尾崎放哉と父の思い出

そのあとは他の記事で語っている通りの凋落ぶりで、尾崎放哉のような急転直下の崖のふちでなんとか踏みとどまった。

そして今もまだかろうじて生きている。

あのまま酒で全てを失って孤独死していたら、放哉とはあの世でめっちゃ仲良しになったことだろう。同郷だし話も弾む気がする。鳥取をボロクソに言って盛り上がれそう。

「咳をしても一人」「肉がやせてくる太い骨である」「こんなよい月を一人で見て寝る」

私が思春期の頃、父が尾崎放哉で個展をやった。

父の筆で書かれたこれらの句をみたときのなんとも言えない郷愁。このときの記憶はいつまでも色あせない。

汗がにじむ夏の日に、蝉の声がうるさい。父の書斎に行ってみる。父は休憩中で不在。床には展覧会に出す前、苦しみ抜いている父のたくさんの練習書きが散乱している。

命の最後のひと絞りを渾身の力で絞り出す。放哉の魂の叫びが聞こえる。定型に縛られず、決まりにとらわれず、自由律俳句を叫ぶ放哉が見える。こんなに弱々しい言葉なのに、圧倒されるようなエネルギーがある。

慣れ親しんだ何もなさ。何もないことへの静かな怒り。その郷愁に震えた。

全てを失って孤独になり今際の際になった瞬間でこそ、このような言葉が生まれるのなら、その瞬間のために何十年も生きるのかもしれない。とても美しい。

そういうようなことを、幼いながらに感じ取った。生きることの最後の希望として胸の奥深くに刻み込まれた。

輝くものを見つけたい。自分の中に見つけたい。

尾崎放哉に、それを書く父に感じたような輝きを私も生み出せる人でありたい。

私は、芸術家としての父を尊敬していたし、今でも大きい存在だと思っているんだな、と思う。

色も輝きもなかった私の幼年期〜青年期。

その何もなさがあったから、眼を凝らしてよく見るようになった。他人と違ったから、より深く意味を考えるようになった。簡単には納得しない厄介で可愛げのある人格が育った。

自分に正直に生きるようにして、灰色の時代は寂寥感ばかりではなくなった。「信じなくては」「正しいのだから合わせなくては」と思っていたルールや社会というものの脆弱性を知ったから。実は虚構だし正しいわけでもなかった。私の心が発した警告は間違ってなかった。

今灰色を生きている人へ。そういう世界が音を立てて崩れながら色を取り戻す。あなたにもそういう感動的な瞬間がきっとくる。私なんぞに来たんだから、きっとくる。

でもその事実は、今の私から語るものではなくて、未熟でもがいていて、イキっているけど怯えていて、もうどうしようもなくだめで恥ずかしい、当時の私しか語り得ない。

当時の私の青さが奥行きとなる。私が変化しても、別の段階にいる悩める人の仲間として「かつての私」「未来の私」つまり「あなた」と今の私を、繋いでくれる。

あの日にみた放哉は、かっこ悪くてみっともないからこそ、そのままだからこそ、美しかった。

だから私はこんな恥ずかしいブログを書いているのだと思う。

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