月別アーカイブ: 2021年1月

【AC】「思考停止に陥る『自称』エリート」を社会心理学から考える

自称エリートだらけの職場で働いている。

確かに、一流大学を出て一流企業に勤めている。年収だって平均に比べてもらっているほうだろう。

しかし、その実態や現状認識は、実に shabby だ。気が狂ってしまったんじゃないかと思うくらい短絡的だったりする。

それでも自信満々を装っている。むしろ逆に見ていて面白い。こちらが赤面するほどショボい内容を誇らしげにプレゼンしてくれるのだから鑑賞しごたえがあるというものだ。

社内会議が昔からものすごく退屈で嫌いだったのだが、最近は一周回ってエンターテイメントだなと感じるようになってきた。全員がアホみたいな指示に振り回される姿は実にシニカルで情趣を感じる。

 

何も私もただただ傍観者を決め込んでいるわけではない。

営業戦略的にも社会貢献的にも意味がないことについては「意味がないからやらないほうがいい」と提案し、合わせて理由と代替案を論理的に説明する。それらは我ながらだいたいいつも正しい。しかし「大企業」の「エリート」と自称する彼らにとって、それは受け入れがたい内容のようだ。

一歩引いて彼らの言動を観察していると、だいたい社会心理学の用語でこの3つに該当する行動をよく選択している。

・認知的不協和

自分が信じてきた認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感のこと。この不快感を解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。イソップ童話で、キツネが届かなくて手に入らないブドウを「酸っぱいに決まっている」と思い込んで諦めようとしたときの思考方法と同じ。

 

商売というのは、古今東西 信頼関係を丁寧に築くことが必要不可欠である。

営業を「自分の利益のために顧客にゴミを高値で売りつけて金をできるだけ多く巻き上げる仕事」と勘違いしているビジネスマンが多いが、実はそういう詐欺とは違う。

営業が、商材を「きっかけ」とした有形無形のサービスを顧客に価値を提供する、それがその先にある社会を豊かにする。

先にあるものが見えていないと、小銭をあさましく漁るハイエナと同じに見える。残念ながら同僚はほぼハイエナだ。全然信頼も尊敬もしていないくせにゴマをすり煽てて褒めそやして、金くれ金くれと群がっている。

今まで自分がそういう中身のある仕事をしてこなかったので、ハイエナのような振る舞いをしなくては売上は上がらないと思い込んでいるのだ。

だから私が社会貢献を前提とした提案を落ち着いて推奨しても、

「それは時間がかかりすぎるから今は無理だ」(じゃあいつならできんの?)

「我々営業(のような下賤のもの)をそんな風に顧客は見てくれないに決まっている」(そんなに情けない仕事しかやってないの?)

「そもそも社会貢献自体、机上の空論、ただの自己満足だ」(それを言うなら、あなたはむしろ詐欺のほうが儲かるし向いてるんじゃない?)

という風に認識を歪めたり自分や私を過小評価して、できるだけ見たくないものを見ないようにする。

大きい組織の末端の人間はだいたいそんなもん。

 

・認識共同体

同じような考え・現状認識・心の反射を持った集団。「朱に交われば赤くなる」「郷に入っては郷に従う」に示される通り共同体という組織内での『常識』を生成する。共通認識により集団生活が送りやすくなるというメリットの反面、自分たちと異なる考え方を受け容れられず、無視しよう、排除しようとする。すなわち思考が硬直化し無意識に偏るデメリットがある。

 

そういうハイエナ根性で生きてきた人ばかりが集まっているので、会社のなかでそれが当たり前になる。

 

本当はそんな卑屈なことはしたくない。

仕事に誇りを持ち理想を高く持ち実行する人でありたい。

もっと認められたい。

自分だって納得していないのに我慢してやっているんだから、他の人間も我慢すべき。

 

そんな鬱憤を抱えているけれど、自分の在り方を変えることができない。

なぜなら、自分の決断に責任を持つのが不安だから。他の社員と違うことをやって失敗して笑われるのが怖いから。

変えることができない自分を恥じている。

そんななか、完全に価値観をオーダーメイドに転換して楽しそうにしている私が横にいると、内心我慢ならなくなってくる。

 

「あいつの考えていることは取るに足らない」

「私のほうが実績が上がってるからあいつなんかより俺のほうがすごい」

「あいつは仲間じゃないから距離を置こう」

 

そんな風になるべく涼しい顔をして「おまえなんか相手にしてないよ」というポーズを取り出す。

 

・センメルヴェイス反射

「Semmelweis reflex」。通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。人は自分が信じてきたことと違う説を聞くと、今までの常識が崩れ去る不安と恐れから反射的に拒絶し、反対意見を持つ人・集団を攻撃する反射をもっている。

 

しかし、それでも相手がダメージを受けないとなると、だんだんイライラしてくる。

そして攻撃し始める。

例えば会議中に重箱の隅を楊枝でほじくるような質問をしてみたり。あえて情報をまわさないようにしてみたり。

子どもっぽい嫌がらせをして自分の心を落ち着かせようとする。

どんだけおじさんおばさんになっても、この子供らしさは失われない。人とは本当にいつまでもたいして変わらず幼稚なものなんだなと感じる。

反射しまくり。

 

 

なぜ彼らは社会心理学的反応の一歩先に進めずにいるのか

「私はエリートだ」

他の人より優れてるから今があるんだ」

「私のいる場所は素晴らしい場所なんだ」

そう思いたい。思い込んでいたい。

そうでないとわかってしまったら、怒りと不安で自分が大きく揺さぶられ掻き乱される。

なぜか?

それまでにやりたくもないことをやらされ、競争にさらされ、重圧に押しつぶされそうになりながら生きてきた人生が間違いだったと思い知るから。

だから、ちゃんと見るのが怖い。

人間はみんなそうだが、善悪は主観で決めている。

優劣も主観で決めている。正しいか間違いかも主観で決めている。

確実に保障された、善くて優れていて正しいことなんてない。

何か絶対的に正しい法則やルールがあるのだと思ってずっと探してきた私がいうんだから間違いない。

そんなもんはない。

 

「自分が」何を大切にし、どう行動するか。これしか我々に拠り所はない。

つまり自分の美学。信念を拠り所にするしかない。

それが人生の背骨だ。最も信頼できる主軸だ。

 

自分の背骨を育てるという重要な仕事を、

他人に預けてきたのだ。他人に奪われてきたのだ、私もお前たちも。

誰に?

親や学校や社会に、だ。

親が過干渉してきたりこの日本社会がゴミだったりと環境要因があり、決して私たちの内的要因だけのせいでこうなったわけではない。

寄ってたかって「好きに生きてはいけない」と思い込まされてきたから。

自分が好きに生きていないから、他人が自分らしく生きていることに反応して、苛立ち無視し軽く扱い、よりにもよってその人の邪魔までしようする。ご苦労なことだ。

そういう幼い頃の私たちが最も憎んできた社会をつくる存在に、今まさになっている人たち。

それが『自称』エリートのみなさんの本当の姿だ。

拍手!!

 

まとめ:社員のみんなは ACの12ステップやればいいと思う

これが喜劇と言わずしてなんだというのだろう。

私たちを苦しめたものに知らず知らずのうちになり、地獄を再生産している。

それは私たちが「不安」と「恐れ」にコントロールされているからだ。

 

具体的には『ACのための12のステップ』のSTEP4にある「権威ある人たちを恐れること」という課題だ。

■権威ある人たちを恐れること■

権威ある立場の人たちを恐れることは、親たちの非現実的な期待ーわたしたちがそうできた以上のことを求めたことーの結果であるかもしれません。

彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。

私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。

他の人たちが単に何かを主張しただけなのに、私たちはしばしばそれを怒り、またはコントロールと誤解してしまいます。

このことで威嚇されたように感じるかもしれないし、さらにそれに対して、わたしたちの過剰に敏感で脆弱なやり方で反応するかもしれません。直面や批判を避けるために、私たちは自分の統合や価値を犠牲にして、力を持つ人のそれに合わせていくのです。

自分がどれくらい有能であるか正当に評価できなくて、他の人と比べ、自分は不十分で不適当であると結論するのです。

権威あるひとたちを恐れることは、わたしたちに次のような問題を引き起こしているかもしれません:

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
67Pより引用

 

もうまさに、って感じじゃない?

本当は自分に確固たる自信も指針もない。だからパワーゲームの勝者に引き寄せられていく。そして権威ある人の言うことを聞いているほうが楽だから、次第に自分の魂の隷属を正当化しだすのだ。

「恐れ」と「不安」で、現状を変えることができない。いや違うな。

「できない」という体裁をとりながら積極的に心の奥底では「変えない」ほうを選択している。

変えられないのではなく、変えないから変わらないのだ。それが事実だ。

なぜなら、そのほうが勇気がいらなくて楽だから。

私はずっと、ずっと楽をしてきた。人のことは言えない。

だから最近まで何が楽しいか何が好きかもわからないまま、言われるままに人生を生きてきた。

結果がこのざまだ。

自分にふたをし続け、他人を見ようともせず、自分を見ようともせず、自分を信じようとせず生きてきた結果、病気になった。

アルコール依存症になり、REM睡眠行動障害や強迫性障害に悩まされ、今でもうつ病を併発している。

 

だから私は、『自称』エリートを気取る社員を見ると、いつも自分を思い出す。

断酒会やAAで同じアルコホリックを見て当時の自分を思い出すように。

彼らは私そのものだ。

だから自分と区別して優越感に浸りたいわけでもないし、攻撃したいわけでもない。

 

ひとつ願うとすれば、彼らもまたアダルトチルドレン(AC)という概念に出会い、自分の「不安」と「恐れ」の正体に出会えますように、そのようなハイヤーパワーの導きがありますように、ということくらいだ。

 

 

【メンタル】「自分さえよければいい」エリートたちの魂が貧しくなった理由

本当におぞましいな、と思う。

最近人々のなかに共通して見出されるもの、それが「自分さえよければいい」という文化的経済的貧困からくる「魂の貧しさ」だ。

本当におぞましいな、と思う。

誰が悪いとか、どのカテゴリが悪いとか、そういう話ではない。

この日本社会に生きる人々の魂がどんどん貧しくなっているんじゃないかと思う。

私はとても哀しい。

 

自分良ければすべてよし(エリートサラリーマン編)

同期で出世街道まっしぐらのエリートサラリーマンはこういった。

「家族さえ幸せならそれでいい」と。

その単語だけなら別に「そうだよね」なんだけど、彼は、患者さんには必要のない薬を医師を騙して病院のクリニカルパスに組み込ませ使わせているのだ。はっきり言って無益だ。

具体的に言ってしまえば胃薬なんだけど、ある血液をサラサラにする薬と一緒に使えば胃からの出血を抑えられると言われている。でもそれは特定の種類の薬剤の出血傾向に対してエビデンスをもっているのであって、それ以外の種類と一緒に飲んでも厳密には効果があるとは言えない。

つまり、患者さんは本当に必要かどうかわからない高い胃薬を買わされることになる。医師が騙されているせいで。製薬会社がちゃんと事実に基づいた説明を意図的にしないせいで。

なぜ本当に必要とはいえないような使用方法に誘導するのか?

それは他の社員より売り上げをあげて社内で目立ち出世するためである。自分のために患者さんを食い物にする。それは我々の存在意義から完全に逸脱している。

そのことに言及したとき、彼は冒頭の言葉を吐いたのだ。

世の中の為より家族の為。自分たちさえ豊かで得をしていれば、他の人が余計な金を払おうが、苦しもうが知ったコトではない。

そういったのだ。

 

あるチームリーダーはこういった。

「我々は利益を求める株式会社だよ。慈善事業でやっているのではないから、患者さんの為っていうのは建前でしかない。社会的に良いことなんてのは、NPOやなんかの慈善事業団体に任せておけばいいのさ。そういう『意味ないもの』は自分のなかで折り合いをつけてちょっと脇に置いといてよ。私たちはとにかく計画を達成しなきゃダメなんだよ。そうしないと私たちの所得が下がって生活できなくなるから。」

私たちの事業の目的は、医薬品を通じて人々の健康に貢献することではなかったか。それが本質ではなかったか。「手段を選ばず売りを上げて自分たちの社会的地位と所得を守ること」ではない。

それなのに本当の事業の目的を、どこか経済的利益を求めないところにアウトソーシングしとけばいいや、と軽く考えている現実。

子どもの頃、遠足のおやつにと手に取った「ラムネが本体でおもちゃがおまけ」なのに、実際にあけてみれば「ラムネがおまけでおもちゃが本体」の、お菓子のガッカリ感を思い出す。

価値観が逆転している。

患者さんの為なんて理念は無価値だから、そんな「オプション」は塵取りで集めて端っこに寄せて見ないようにしよう、といったのだ。

 

信じられるだろうか。

私はこういう人たちと話すと背筋が凍る。

この人たちはもはや人をやめてしまったのではないか。真剣にそう思う。

サラリーマンというのは、部品化されたホモ・サピエンス、すなわち人から劣化した人型をした魂の抜け殻である。基本的に利益を追求する機能だけに特化した企業。企業の口車に乗せられて、すっかり「目標達成マシーン」に調教されている。

部品としての優秀さは、他人を踏み台にすることを何とも思わないこと。そういう「優秀な」社員は、経営者にとって操作するのに都合がいいから。

部品として「優秀」であればあるほど使いやすい。調教されて目標達成してよしよしヾ(・ω・`)されるために動くから、実にコントロールしやすい。いうことを聞かせられる犬がたくさんいたほうが経営者は金儲けをスムーズに行うことができる。

無駄に「社会の為」「患者さんの為」「国民の為」とか考える人は、組織にとって使いづらい。

だから私は出世しないわけだが、出世しないほうが人間性を残しているという意味で、むしろ今は本当に出世したくない。

人としての魂を失う代わりに諭吉をもらうなんて、悪魔の取引だと思わないか?私はまっぴらごめんだ。

 

自分良ければすべてよし(政財界編)

同じことが政財界にも言える。

財務省の官僚は「出世しようゲーム」に参加して遊ぶことを彼らの人生のメインに据えている。だから、MMT理論ですでに無意味だと証明されている「プライマリバランス黒字化」を今も掲げている。

「プライマリバランス黒字化」とは、簡単に言うと、国の借金をなくしましょう、ということ。

国の借金とはつまり国債。誰かの負債は誰かの資産。国債を刷るということは、世の中の資産が増えるということ。ということはつまり、私たちの 使える資産が増えない=お金がない のは、国債を刷るのを渋っているから。つまり国がプライマリバランス黒字化を掲げる限り必然なのだ。

実は国の借金(国債)は返さなくてもいい。現に世界では借金がどんどん膨らんでいる国ほど景気を上手にコントロールして経済成長している。

日本も昔から考えれば何百倍もの借金になっているけど、私たちは別に返してきたわけじゃない。

返さなくても経済が回る、むしろ国が借金しなきゃ成長できないことを証明したのがMMT理論だから、当然なんだけど。

返さなくてもいい借金を「返さなきゃいけない」と思い込んで国が出し渋るから国内経済がどんどん縮小する。そうすると物が売れないからみんなお金を使わない。そうするとデフレだから景気が悪くて苦しい。景気が悪いから税収が減る。税収が減るから…という「間違った思い込みの悪循環」のなかにいる。

つまり、国債を発行してお金を刷り、みんなに分配しても本当は何の問題もない。だけどやらない。なぜなら財務省の人たちにとっては「出世できなくなる」行動だから。

国民がいくら貧しくなり経営難で自殺しても、そんなことはどうでもいい。出世できなくなるよりはいい。そう思っている。

では閣僚なぜ財務省に「お金刷れよ」と言わないのか?その権限を持っているにもかかわらず。なぜ命令できないのか?

それは、財務省の管轄庁である国税庁が怖いから。つつかれると困る不祥事を国税庁につつかれるのが怖いから。つつかれて暴かれて政治家として失脚するのが怖いからだ。

国税は警察をしのぐほどの強力な権力を持っていて、税金に関することなら国民のありとあらゆることを調査する権限を持っていて、我々には拒否権が無い。

いろいろ黒いことをやってのし上がってきたのに、国税庁にばらされたら政治家をできなくなる。今の生活を維持できなくなる。

だから、今の立場を守るために国民がどんなに困っていても、とりあえずはぐらかして騙しておこうと思っている。見殺しにしてもいいと思っている。

 

エリートたちは 寂しい「黒死牟」

ここまでの事例で、サラリーマンから行政機関まで、全部のエリートに共通するのは「自分さえよければいい」という浅ましさ、「魂の貧しさ」だ。

だから、本当におぞましいな、と私は思うのだ。

 

今のこの社会に認められる人というのは「魂が貧しい人」なのだ。

人としての浅ましさを認められ、その代わりに金や権力が与えられるのだ。だから、お金を必要以上にたくさん集めていることはむしろ恥。社会的地位があることもむしろ恥。そうとも言える。

 

ではなぜ、この恥ずかしい人たちは、こんなにも魂が貧しくなってしまったのだろうか?

それは彼らの人間性が劣悪だからではない。

誰もが持っている寂しさ・苦しさ。それを誰かに認めてほしい、受け容れてほしい、そういう切なる願いが出発点だと思う。

努力が結果的に社会的に報われないと、それらの切望は嫉妬、すなわりルサンチマンになる。

努力が結果的に社会的に報われると、傲慢な自己顕示欲となる。

 

「どうだ、俺はすごいんだぞ」

「こんなに苦労して頑張ったから成功したんだ」

「成功できないやつは俺みたいに努力してないからだ」

「俺には人よりも優れた能力がある」

「俺はほかの出来損ないとは違う」

 

この言葉の真意は以下のような「切なる願い」から来ている。

 

「私はとても苦しかった、つらかった、それを分かってほしい、がんばったねって言ってほしい」

「私は自信がない、優秀なんだと信じたい、自分に生きていけるパワーがあると信じたい、だからみんなに認めてほしい」

「負けるのが怖い、人と比べて優れていなくては自分の価値がわからなくなるから、だから何としてでも勝ちたい」

 

つまり寂しいのだ。

めそめそ泣いているインナーチャイルドを抱えて、表では傲慢で横柄な人を無意識に演じている。ふんぞり返っているように見えるが、実に弱々しい。

そしてチャンスがなく結果が残せなかった弱者に「自己責任論」を振りかざして悦に入るのが好き。なぜなら弱い自分を克服したように錯覚できるから。まだ弱いんだけどね。

『鬼滅の刃』でいうところの、上弦の壱「黒死牟」そのものではないだろうか。

 

自己肯定感をメリットと相関させなくていい

これら社会の真の病巣は、本当の自己肯定感を育んでこられなかったことにあると思う。

本当の自己肯定感とは何かというと、「あるがままで生きている価値がある。自分の人生は自分で決めて歩んで行って何の問題もない。私の意思や願いは誰にも否定できない。」ということだ。

よく「5分で高まる自己肯定感!」みたいな怪しい自己啓発セミナーで「自分のいいところを探そう!」とか「みんなでお互いに相手のいいところを褒めまくろう」とか言っているのを見かける。

それもいいんだけど、本質的にはちょっと違う。

何か社会的なメリット、特に他の個体と比べたメリットを支えにしてしまったのでは、不健全だ。先の空虚な黒死牟たちと同じになってしまう。

「メリットがあるからそこにいていい」というのは寂しい。なぜならメリットがなくなればそこにいてはいけなくなるということだから。

私たちは何かメリットが無くてはここにいてはいけないのだろうか?生きていてはいけないのだろうか?そんなに命そのものだけでは足りないだろうか?価値が無いものなのだろうか?

 

そんなわけがない。

そんなわけがあるはずがない。

 

人は、生きているということそのものが、とてつもない意義を持っている。実体があり命がある。それが事実。メリットもデメリットもない。絶対的に肯定される尊厳がある。

だって、子供を持っている人は分かると思うけど、我が子が生まれてきたとき、そのか弱い姿がどれほどの希望になった?

彼らはメリットを提供したか?むしろ仕事が増えてデメリットしかなかったのではないか?我が子に対してメリットが無いから「こいつココにいてはいけないな」と思ったか?

赤ちゃんは、自分では何一つできず、言葉も話せず、放っておいたら死んでしまう、か弱い存在。それでも日々進化し懸命に生きようとする命の輝きは眩い。その輝きは親である私たちにとてつもないパワーを与え続けてくれたことを、今も覚えているだろう。静かで温かくずしりと質量をもつ覚悟を私たちに与えてくれただろう。

だから、人が懸命に生きる姿というのは、それだけで意味がある。

どんなに病んでいて、どんなに至らなくて、どんなに汚くても、己の信念のために命を燃やしているその姿には、貨幣という紙切れには変えられない強烈な美しさがある。だから世の中の人々の多くが、煉獄杏寿郎をはじめとする鬼殺隊の面々の必死に生き抜く姿に心を動かされたのではないだろうか。

自己肯定感というのは、そういうものだ。

生まれた時点で「私たちは外界にすらとても大きな力を与える存在なのだ」という健全な自覚を持つこと。

それが「自己肯定感」だ。

つまり、もうすでに生まれた時から持っているのだから、探し求める必要が無い。だってもうすでに誰もが持っているのだから。

だから、好きなことをやっていいし、己の信念に従って生きている限り何を選んでもどう生きても間違いではない。お金が無かろうが、人望が無かろうが、誰に認められなくても、何の保証もなくても、人はヒトをやめない限り絶対的に価値がある。

 

まとめ:理想の平和な世の中を願って

このことに全人類が気づきさえすれば、だれもが、誰かに対峙した時に心を不安で揺らさなくてもよくなる。

なぜなら、比べなくていいから。優れていなくていいから。

違いを認め、おもしろがり、対話することでさらに心が豊かになっていく。社会がどんどんおもしろくなっていく。

どうか、そうなってほしい。

そのために、私は私ができる事をしたい。

【AC】全く自信がなかった私が「世間」に全く動じなくなったのはなぜ?

最近私は本当に、世の中の価値観に左右されなくなってきた。

なんていうか、仕事していてすごく楽になった。

抗うつ薬を飲んでいるからというだけでは説明がつかない。それほど今までの思考の転換が起こり、ある種脳内では革命が起きているともいえる。

それを思い出しながらつらつらと書いてみたい。

 

それまでの私

思い出してみると。

私はとにかく「他人の評価が怖かった」。

どう見られているんだろう?嫌われていないだろうか?何か間違いをしていないだろうか?そのせいで仲間外れにされないだろうか?

そんなことばかり考えながら他人と言葉を交わしていた。

楽しいはずがないよね。

あとは、すごくすごく他人に認めてほしかった。

例えばの話、多少無理が祟ってそのあと数日寝込んだりすることになったとしても、他人に認められるためなら、多少の無理は通して頑張る我慢強いやつだった。

そうやって自分の時間とか健康とか、いろいろなものを犠牲にして頑張ったのに、他人が思うように認めてくれないとき、私は怒り狂った。

我慢したくないものを我慢して、それでもほしいと思った承認が得られなかったときの苦しさはとんでもなかった。

だから、毎日毎日何かに追い立てられるように仕事をしていた。そしていつも苦しかった。

 

何が私をそうさせたのか?

結局これって「アダルトチルドレン」として獲得してきたライフスキルがそうさせているんだよね。

社会(親や地域社会)に与えられた「正しい」をちゃんといい子に守らないといけなかった。そうでなくては世界に居場所がなかった。

それって相当世界を歪ませるし、自分の「楽しい」を「正しい」で叩き潰されると、心が壊れちゃうから、痛くないと思い込もうとして蓋をする。心はそういう防衛本能を持っている。

だから自分の本当の気持ちにふたをするようになる。「自分が何を考えているのか、何が楽しいのか、どうしたいのか」が次第にわからなくなる。

そして頼れるのは「正しい」だけになる。社会に押し付けられてあれだけ嫌だったものさしだけが、自分を支える価値であり生きる基準になる。

こんな屈辱的なことはないよね。

喩えるなら、めっちゃ親が憎くて殺したいくらい嫌いだけど、学生だから親に学費出してもらってご飯恵んでもらわなきゃ生きていけないみたいな惨めさ。みんなが学生の頃味わったあの苦さに似ている。

だから心のどこかでは納得していないし、怒っているし、自分の「楽しい」を叩き潰されたことを哀しくつらく思っている。そしてそれらのことを心の奥底では憎み続けている。

だから、「正しい」から外れている人をみると、ものすごく攻撃したくなる。

従いたくなかったものしか頼れるものが無い自分の惨めさを見たくないから。

自分が我慢して我慢して「これでいいんだ」と思い込もうとしている「正しい」を否定されてしまったら、自分が今まで我慢してきたことがいかに愚かなことか、気づいてしまうから。

気づいてしまったら、その大きすぎる後悔と怒りに圧倒されて自分がぐちゃぐちゃになってしまうから。自分で抱えられる自信がないから。

そんな理由で、必死で見て見ない振りをする。

そういうひとが、ほとんどと言ってもいいかもしれない。びっくりするほどたくさんいる。自覚している人もいない人も、大体そんなことが苦しみの根幹。

 

12ステップに出会って

私はありがたいことに、12ステップ・プログラムに出会った。

最初は胡散臭いなと思っていた。「神」とか言われたら誰だって引くよね。

でも、考え方や物事のとらえ方は、確実に私の真の病巣にリーチしてきた。

本当に思っていたことを思い出すために、私は今までの様々な心の澱みを、このステップの力を借りて見つめ直さなくてはならないということが、取り組んで初めて自覚できるようになっていった。

本当に少しずつ、少しずつだった。

アルコール依存症という病を患ったことを、恥ずかしいと思っている自分にも出会った。

どうしても他人に認められて社会的地位を得たいけど、己の失敗がもとで得られない現実を受け容れられなくて、「んなもんいらねーや」と突っ張っている寂しさにも出会えた。

「自分だけなんでうまくできないんだろう・・・」と思って世界がとにかくおそろしくて、周りの人間がみんな自分をバカにして責めているように感じてきたけど、貶めて責め続けていたのは、本当は自分自身だった。

そのままで受け容れてもらえなかったから、何者かにならないといけないと思い込む。

だから、様々な「応急処置」をしながら、自分以外の何かになろうと一生懸命に努力していたのだ。

でも、人を繋ぎとめるための欺瞞を塗り固めれば塗り固めるほど、覆われて心の呼吸は苦しくなる。本当の自分で世界に接することができていないから、いつまでたっても「ここにいてもいい」という本当にほしい実感を得られない。だって、ここにいるのはいつまでも「自分」じゃないから。受け容れられているのは「自分」じゃないと思うから。

そういう様々なことが点で理解できるようになり、あるときバーッと線になる。

「ああ、そういうことか」「全部あったのに私は何を足りない足りないと今まで嘆いていたのだろう」と。

 

何も着飾る必要はなかった。

ただ、自分の心の赴くままに在ればいいだけだった。

小賢しく策を弄して他人にちょっかいを出さなくても、私は私のままでよかったんだ、生きていてよかったんだ、ということに気づく。

そうすると、不思議なことに、未完成である自分と同じように、未完成の他人もまた、受け容れられるようになる。

私が完璧でない自分を受け容れないでイライラしているから、他人も受け入れられなかったのだ、という単純な状況を俯瞰的にとらえることができるようになる。

自分が感じたことや思うことを堂々と丁寧に正直に伝えることこそ、「最も優しいこと」だったんだとわかる。「相手のことを思って・・・」と自分の本心でないことを言うのは、関わりの責任を相手になすりつけているだけ。要は傷つかないための責任逃れ。だから私は他人と友達と呼べる関係になれなかったのか。

相手ではなくて、自分のあり方の問題だったことを理解する。自分を大切にできる人だから、相手を大切にできる。

相手をどうこうするんではなく、自分がどうあるか。それだけだったことを知る。

世の中の矛盾に気づいて

そうして自分のなかの霧が晴れていくと、やっと世の中が見えてくる。

以前は恐ろしいほどに立派で正しくて、私を全否定してくるんじゃないかと思っていた「勝ち組」と呼ばれる「権威ある存在」は、実はただの狂人だったのだとわかってくる。

この世の大多数が適応しているこの社会が正しい、と多数派である「世間」を信仰してきたけれども、信仰に足るほど立派でもないことが見えてくる。

自分の利益のことばかり考えて、他人が傷ついたり踏みにじられたりすることに鈍感で、都合の悪いことは見て見ない振りをし、考えたら辛くなることは考えない。

本当にみんなそういう弱さを持っていて、それだからこそ人間で、その人間がつくった社会は、実は全然いいものじゃない。

今の日本を見ていてもわかるけれども、一部のお金持ちや比較的余裕があるひとが今までの暮らしを守ろうと強い存在に取り入って、他の人を間接的にどんどん殺している。

自分のために他人を殺すことを平気でできる、あるいはそういう情景にも関心を持たないでいられる。それが「社会人」であり「常識人」の姿だった。

社会が狂っているから、その社会に適合できる人間もまた、人間でなくなっていっている。

これが生まれてからずっと感じてきた違和感だったということに気づく。

私が苦しいのは、社会システムが狂っているからだった。

そっちに近づかなければと30年以上苦労してモデリングしてきた対象は、ただのクズだった。

だから違和感があったし、納得いかなかったのだ。

 

「世間」や「常識」なんてたいした価値も力もない

そういう真理に気づいて、私は視界が拓けた。

「ああ、なんだそういうことか、私が劣っているとかじゃない、狂ってるんだ」

そう思うと、世の中のあらゆる社会的権威や社会的地位や資本主義経済を主軸とする価値観に、何の執着もなくなる。

 

たとえば「エリートサラリーマン」だと自分の社会的地位や収入を誇り他人を見下す同僚Aがいるとする。

いやいやw

Aさん、あんたなんもわかってないじゃん。結局グローバリズムっていうシステムの奴隷になってるだけだよ?

出世するってのは企業という金儲けマシーンの奴隷としての素質を認められたってことだよ。やったね!プロの奴隷として会社から認定されて嬉しい?よかったね!

一生懸命他人に言われたどうでもいいこと毎日やって、自分さえよければいい、という品性が下劣な生き物に成り下がって、「人間」からどんどん離れた歯車になってるじゃん。人をやめてモノになる。そんな人生が誇れる人生なの?お金集めがうまいことが人間の価値だと思ってるなんてかわいそう。それはシステムの部品としての利用価値だよ。

あるいは、バナナを求める猿と変わんない。承認欲求と自己顕示欲を満たすために出世・昇進という社会的価値を求め、物欲や性欲や所有欲を満たすために貨幣を求める。それって虚しくない?やってることは、くだらないゲームだよ?命において大切なことには、何ひとつ気づいていないまま、人生を終える。ああ、そういう鈍感力を誇ってるってこと?なら納得。

自分のほうが稼いでる?あのね、金ってのは今の社会じゃ人間性を削って換金してんの。鰹節みたいに。あんたの人間性あとどんだけ残ってんの?

 

たとえば社会から「お前は発達障害だから」「お前は依存症者だから」とレッテルを貼って社会に無理やり合わせるよう強要されたり、侮蔑的な態度をとられたとする。

いやいやw

依存症になるほど追い詰められたのは、半分は自分の無力さだったけど、半分はこの社会が狂ってるからだよ。

無力なのはお前らも同じ。それなのにこんな狂った社会に適合できている(と勘違いしたまま生きられる)お前らのほうがよっぽどだろ、どっちかっていうと。

発達障害が「劣ってる」って誰が決めたよ?

そりゃお前らだろ?狂ったお前らの狂った基準だろうが。勝手にひとをそんなクソしょぼい型で語ってんじゃねー。

今の資本主義社会に適合できているから自分たちのほうが有用だなんて勘違いしてんなら、そっちこそおつむが弱い。

誰も動けないときに動ける突破力、多くの思考を巡らせて独自の世界観を構築できる多角的同時思考能力。そんな力を生かせずに病気にしちゃうような未成熟な社会を変えてやるために俺たちが生まれてきたんだよ。

 

とまあ、こんなふうにドーンと跳ね返すことができる。

誰のどんな特性だって、個性だと受け容れる度量をもつことができる。

倫理に反し他人を簒奪しない限り、人はどんなふうでも生きていっていいと、本気で確信する。

むしろ間接的に人殺しをしまくって他人から奪いまくっている今の常識人というサイコパスたちに、何も言われる筋合いもない。

 

しかたなく、今はバナナ(金欲・性欲・名誉欲)が欲しいだけのお猿さん(世間のひと)たちと共存していかなきゃいけないから、お猿さんが頑張って考えた「資本主義経済社会」というクソ詰んでる下らないワンダーランドにもたまに顔出して適当にお茶を濁しつつ(必要最低限の収入を稼ぎつつ)、バナナなんかは猿にくれてやって、もっと自分が面白いと思うものを追いかけていけばいいのだ。

一度しかないんだから、猿に合わせて終わってちゃもったいない。

この社会がクソなら、少しでもマシになるようにがんばってみよう。それは、これからを生きていく多くの人のなかにも自分が生きていくことになる。

私は、それが最も高尚で面白い生き方だと思っている。

だったらそう生きればいいだけなんだよな。

まだまだやれることはあるし、私はこれからどうあっても、何も悪いことなど無い。

良いか悪いかは、私が決める。それは誰にも奪われないことなのだ。

私は無力で自分以外の大きな力の流れに全く逆らえないけれども、その力を信じ委ねる限りにおいて、私は完璧に自由で、足りないものは何もない。

【仕事】株主とオーナー社長のためにあなたが死ぬ必要はない

日本は大富豪たちに都合がいいように作り変えられてしまった。

このことを知ったのは最近だ。

もっと早く知っておくべきだった。

こういうことこそ、早めに教えておくべきではないだろうか。腹立つ。

真の教育・教養とは、世の中の闇を知って余計なところで力をつかわず、何を大切にすべきかに眼を開くことができるようになされるべきである。

 

私たちは奴隷であることに気づこう

まず、企業に勤めている人に聞きたい。

会社の指示や上司の言うことを真剣に聞いて、同僚よりも評価されようと必死に売り上げを追いかけ、昼夜を問わず家族も省みず働いているのではないだろうか?

YESと答えた人。即刻そんなことはやめていい。

現在、日本の大企業の売り上げは横ばいで、人的投資も横ばい(むしろ微減)である。

しかし、経常利益は何倍にも伸びていて、株主配当はその伸び率よりも高い。

これが何を意味しているか?

固定資産を売り払ったり借金をしたりして見かけ上の経常利益を上げているのは、それを株主のためにせっせと支払うためである。

従業員の給料や処遇は上げず、投資もせず、挙句は昨今などリストラの嵐にもかかわらず、である。

つまり大企業の従業員は、株主と株を保有するオーナー社長(CEO)のために働き続ける奴隷ということだ。

つまり、エリートだ大企業勤務だなどと、勝ち誇っている阿呆は、自分が目くそ鼻くそなのだということに気づいていない。

ロックフェラー系やロスチャイルド系の大富豪たちの養分になるための奴隷であることに、ホワイトカラーもブルーカラーも変わりはない。

本来仲間であるはずの日本国民同士でランク分けをして、両方奴隷なのに奴隷同士で勝ち組だ負け組だと争っているのである。笑える。腸ねん転を起こしかねない高度なギャグを展開しているのが、今の日本の現状である。

もちろん、国民同士のルサンチマン(恨み・妬み)を煽っているのは、財閥の息のかかったマスメディア。なぜか?本当の敵である自分たちに気づかれたら困るからだ。

つまり、ここまで読んでくれた懸命な読者はお分かりのとおり、現在大企業が掲げているお題目など金儲けを肯定するための建前に過ぎない。

「顧客のため」「患者さんのため」などとは、オーナー社長は露ほども思っていない。

日本人など奴隷のように働いて、外国人オーナーと株主のために苦しんで死ねばいいと思っているのだ。本当にそう思っている。でないと、日本という国家をここまで貶める行動ができるはずがない。

 

生活が苦しいのは私たちのせいじゃない

根本的に、日本政府もこの動きを助けるための政策しか進めてこなかった。

日本政府は日本の国民を守るために動くべきだが、先ほど話したお金持ちたちの傀儡と化している。

なぜか?

日本政府、特に政治家や内閣府や財務省の官僚は「国民がどうなるか」よりも「選挙や出世レースで他人に勝とうゲーム」のことしか考えていないから。

大企業の社員もそう。「出世レースで他人に勝とうゲーム」のことしか考えていない。

そうして、本当に日本を支えてくれている介護職やフリーランスや中小企業の人たちが貧困で苦しみ、死んでいくことを見て見ない振りをしている。

つまりこの国は地獄である。先進国などではない。もはや金持ちのための植民地、衰退途上国だ。

 

実際、日本の実質賃金は年々減っている。つまり給料が減っている。

婚姻率が減っているのは、とてもじゃないけどこんな年収じゃ結婚できないってひとが多くなったから。

稼げない若者が結婚できないから、当然出生率は下がる。

子どもが生まれないと、高齢化がさらに進んでいく。

高齢者ばかりになれば生産性は落ち、人口はどんどん減る。人口がいなくなれば需要が増えないので、投資も望めない。市場が拡大しないならマーケットに投資する意味がないから。

そうするとデフレから脱却できない。本当は自国通貨建てで国債を発行できる日本は国債を発行してお金を刷って市場に流通させるべきなのだが、プライマリバランス黒字化という愚かな目標に向かって出世しか考えていない財務省は、国債を刷ろうとしない。

つまり自分の出世のことを考えて、お金を世の中にまわそうとしない。

特に今は、デフレかつコロナ恐慌で多くの人が失業したり自殺したりしている。人がどんどん死んでいるにも関わらず、やれば助かる人が大勢いるのに、やらない。

そんな阿鼻叫喚を生み出している外国人CEOや海外投資家の株主や国内の財閥・政治家は、我関せず。

「市場として魅力がないから投資できないわーwもっと生産性を上げろーww」などと左うちわで好き勝手を言っている。

間接的な殺しが横行している。これに怒らないでいられようか?

私たち日本人は心底バカにされているのだ。

世界から金を生む奴隷扱いされているのだ。

それがこの国の現状だ。

世の中を民主主義的に変えられるはずの政治家は、自分の立場と利権しか考えていない。

大企業に勤めているひとも仕組みに気づかずに出世ゲームに興じて殺人に加担していることに自覚がない。

そういう人に踏みつけにされている人たちは健気にも「なんでこんなに働いているのに苦しいんだろう…わたしたちにちからがないからかな」と国が刷り込んだ「自己責任論」で萎縮する。

まんまと騙されたまま、まともに働きもしない他人に踏みつけにされていることにも気づかないで、自ら命を絶ち死んでいく。

この先にあるのは、日本の滅亡である。終わっている。そしてもはやこれはこのままいけば、ほぼ確実だ。

 

死ぬほど自分を追い詰めて仕事をしたりしないでいい

絶望してほしくてこういうことを書いているわけではなくって、要は「死ぬほど自分を追い詰めて仕事をしなくてもいい」ということを私は言いたい。

過労死をしたり仕事で失敗して自殺したりする人がいる。そういう人はこのコロナ禍でさらに増えている。

そんなことするのは馬鹿らしいから絶対にやめよう。

何かの事情で働けなくなったとして、当然の権利である生活保護を受けて働かずに生きても、何の恥でもない。そのために国家があり、福祉があるのだから。

「一度落ちてしまったら二度と這い上がれない」と心配になるかもしれない。

しかし、どこに勤めていても何で働いていても、日本国民である限りもはや今誰もが同じ奴隷状態なのだ。残念ながらみんな『負け組』だ。

這い上がる云々ではなく、社会が変わらなきゃもうどのみちみんな同じ末路だ。

 

大企業に勤めている人も目を覚ましてほしい。

同僚と争っている場合ではない。

自分の家族を含むこの国の人たちのために何ができるのか真剣に考えてやること以外は、マジで適当でいい。

仕事で多少ミスろうが何しようが、大した問題ではない。重要な社内プレゼンとか、夜テレビ見ながら鼻くそほじるのと同じくらいの価値しかない。そう思う私は最近全く力を入れてない。

適当にお茶を濁して、家族とちゃんと時間をつくったほうが何億倍も価値がある。

大企業で出世している人を「すごい」などと崇め奉る必要もない。彼らは会社にとって扱いやすい「奴隷度」が高いというだけ。より良い奴隷としての才能を認められしクズどもだ。「毎日毎日株主への奉仕活動おつかれさまです」とでも心のなかで唱えてほうっておこう。

働くうえで私たちは、自分がやっている仕事のうち「これだけは本当に社会の役に立つ」と信じられることにだけ力を注げば良い。

たとえば製薬会社のMRならば、薬剤の安全性情報の収集や副作用にどう対処するかを医師に伝える業務。そして地域医療に求められているエリア企画や橋渡しを会社の金を使って実現することだ。

薬を無理に売ろうとしたりする必要は全くない。薬の良い話を医師にしてもらう講演会を企画する必要も全くない。

そういう無駄な仕事でストレスを溜める必要など、実は全くなかったのだ。

そして、今はまだ生きていけても、自分たちが馬鹿にしている貧困層に堕ちるのは時間の問題だということに気づかなくてはいけない。

自分が生きている間は良かったとしても、子や孫は地獄を生きることになる。

 

この地獄でやるべき本当のこと

では、私たちはこのような地獄にあって何をこそすべきなのだろうか?

それは、目先の仕事ではなくちゃんとこの世の役に立つことを見定め実行することである。

具体的に言えば、先ほどお伝えしたように、自分が携わる仕事のなかで社会的意義のある仕事にのみ力を尽くし、真摯に取り組むことがベースになる。

 

そのうえでやらないといけないことは、ちゃんとこの国のことを考えている人の話を聞き、そういう人の話をちゃんと理解し信じて活動をしてくれる政治家に投票することである。

民主主義国家の国民として当然の権利と義務を果たす。それが最もこの世で有益な活動である。

「ちゃんと考えている人がわかんないんだよ」

「どの政治家が何を考えているのかよくわからないんだよ」

わかる。私もそうだった。政治家はどいつもこいつもハゲたクソだと思って「どれに投票してもどうせ腐ってんだから一緒だろ」と思っていたし、この国のことをちゃんと考えている人のことを「なんか胡散臭い」「批判ばっかりして、なんとなくかっこ悪い」と思っていた。

本当に恥ずかしい。私はそうだった。

そこで、私が思う「ちゃんと世の中のことを考えていて話が分かりやすい人」と、「ちゃんとこの国のことを考えて活動してくれている政治家」を挙げていきたい。

 

〇ちゃんと世の中のことを考えていて話が分かりやすい人

藤井聡 京都大学大学院教授(レジリエンス実践ユニット長)& 表現者クライテリオン編集長

三橋貴明 経世論研究所 所長

室伏謙一 政策コンサルタント、室伏政策研究室 代表

せやろがいおじさん おもしろくて頭いい芸人のおじさん

亀石倫子 弁護士

風間暁 児童保護司

松本俊彦 国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長(兼任) 薬物依存症センター センター長

(敬称略)

〇ちゃんとこの国のことを考えて活動してくれている政治家

あんどう裕(ひろし)衆議院議員(自民党 京都6区 ) =自民党なのにちゃんとMMT理論を理解して消費税減税と反緊縮を掲げている超珍しいまともな政治家。

 

私が応援したい人たちなので、別にこれらの人が誰にとっても素晴らしいと言い切るつもりはない。

しかしこのような「反骨」の精神を持つ人がいなくなってしまえば国は間違いなく滅びるし、私はそんな日本を娘や次世代を生きる子供たちに渡したくない。そんなことになったら死んでも死にきれない。強力な地縛霊になりそう。

今サラリーマンとしてやっている仕事は、そんなに真面目にしなくていい。どうせめっちゃ金持ちのどっかの誰かに働いた分だけチューチュー吸われるだけだ。

やめよう、そんな不毛なことは。命のほうが大事だし、大切な人と過ごす時間のほうが大事だ。

世の中の価値観が一部の人のために創られたクソのようなものさしだというのは、ここまで読めば明々白々。

こんな世の中で認められることなんて逆に不名誉だ。「世間」に認められるために生きるのがいかに愚かかわかるだろう。

それよりも確かなのはあなたの感覚であり、あなたの大切にしたいものだ。それこそが本当に大切なものだ。

社会的地位や名誉や年収はほんのこれっぽっちもものさしとして信用ならない。

それを心にとめておくだけで、精神疾患や依存症で苦しむ人はずいぶん減る気がする。

【仕事】「仕事」というゲームに殺されそうな人へ

皆が強制的に参加させられているゲームがある。

それは「仕事」だ。

「仕事」というゲームに今まさに殺されそうな人に、読んでほしくて書いた。

 

 

例えば、サラリーマン。

ゲームホストは経営者。ゲームプレイヤーは社員。

ホストがまずどれだけの利益を出すかを決める。

その利益を得られるように、ホストが「売上目標」を立てる。

「売上目標を達成する」というゴールをホストがプレイヤーに提示する。

プレイヤーに「時間」と「労力」をベットして、「承認」と「収入」を賭けて勝負する。

 

手元にある戦略・戦術のカードを切っていく。

お互いにババを押し付け合い、それでいて早くアガれるようにと画策する。

このゲーム、戦っているのは常に「社内」である。

他のプレイヤーは社員だからだ。

「競合他社ではないのか」って?

いやいや、競合他社はただの環境要因に過ぎない。

プレイヤーにとって重要なのは「自分が会社に他プレイヤーと比較されたとき、いかにより優れた評価をされるか」ということだけだ。

 

営利団体である限り、私益のために働く。公益に資する存在であるはずの政治家もそうだし、官庁もそうだ。

この国の組織はほとんどそんなふうだ。

 

人から褒められたい。人から尊敬されたい。お金が今よりももっとたくさんほしい。

考えているのはそんなことだけだ。

 

承認欲求を満たすため、己の懐を温めるため、時間と労力をベットする。

ゲームに勝てば、欲が満たされ、金が他人より多く手に入る。

 

世の中の、あんまり何も考えていない人や、このゲームが得意で勝てる自信がある人は、「世の為人の為」などということは頭にない。いわゆる社会的利益のことは、本当に考えない。

世間でいうところの『社会人』というのは、そういうペルソナのことを言う。

私益をめぐって人生を賭け続ける、ギャンブル型リアルシミュレーションゲーム。

このゲームに何の疑いもなく己のすべてをベットできる人たち。ある意味幸せである。

 

矜持など無い。

他の卓(競合他社・異業種など別の利益団体)でこっそり交換したカードを切って自社のライバルを出し抜いたりすることを「関係構築力」「人脈の有効活用」などとビジネスでは綺麗にな言葉でもてはやす。

配られるカードはホスト次第だし、そもそも卓がクソだったりする。

 

ではホスト(経営者)になればいいのではないか?と言えば、そうでもない。

「国」というカジノの総元締めが、メンバーを集められずゲームを大規模にできない卓を、つぶしにかかるからだ。

ホスト同士も、他人を遊ばせながら、他のホストより多くの「時間」と「労力」をベットさせて目的を予定通り達成するというゲームに興じている。

勝てばホスト続行。負ければホストから、観客(無職)か、プレイヤー(雇われ社員)に転落だ。

 

品のないクソゲー

このように、この世で「仕事」と一般的に呼ばれているものは、ただのゲームでしかない。

そして、このクソゲーは命を賭してやるほど面白いものではない。

いや、語弊があるな。このゲームのとらえ方は人それぞれだろう。

だって、大切な人を養うためにと過労死するほど命をベットする人もいるし、ゲームの進捗さえ順風満帆なら家族など省みない人もいる。

金を稼ぐという「業」。業とはカルマ。報いのもととなるすべての行い。

稼業というゲームでの行いは、全て己に還ってくる。報いを受ける。

 

このゲームは品がない。

人間の醜い面を、これでもかと表にえぐりだしてくる。

自分だけが得をしようという利己心の醜さで、世界中で殺し合いを始めるほど荒れている。

ビジネスとはある種の殺し合いだ。略奪合戦に他ならない。

プレイヤーにとっても、ホストにとっても、常に他人を自分と比較し、他人を蹴落として自分が一番になることを目指すゲームだから。

だから「勝ち組」「負け組」などという概念が生まれる。

 

結局このゲームの業とは、参加する人の魂を貧相にする、ということのようだ。

だって一つのゲームしか認めないなんて、そんなゲームセンターおもしろいか?

価値観が硬直化している。画一的すぎる。だから、箱としておもしろみに欠ける。

しかし今の世の中は、一種類のゲームしか推奨していないゲームセンターみたいなものだ。

一生「仕事」というババ抜きをやっているしかない、と親や教師やどっかの知らない偉い人に言われて、言われるがままわけもわからずぶち込まれるのだ。

もう本当に最悪だ。

一生懸命やってもゲームで得られるものは、金という紙切れと他人から与えられた偽りの承認欲求だけ。

そんなもん、徳が高くて品がある人からやりたくなくなるに決まっている。

 

だから、徳のある人ほど、ビジネスから遠ざかるように思う。

ビジネスという品のないギャンブルに溺れて腐ってしまった社会には、とても適合することができないから。

「社会人」というのが優れていて「社会不適合者」は劣っている。

そんな風に世間では勘違いをしているけれど、実は逆だ。

こんな社会に適合できるようなギャンブラーのほうが狂っていて、社会不適合で悩んでいる人のほうが正常なのだ。

良心と道徳心があるからこそ、こんなギャンブルにはとてもじゃないけどずっと「時間」や「労力」を使っていられないのだ。

 

まとめ:夢破れた君へ

「ありがとう」

「あなたがいてくれてよかった」

そんな温かい言葉が形を変えてお金となり手元に届く。

感謝と感動がお金に変換され、労働の対価として受け渡される。

だから、仕事は素晴らしいものなんだ。

 

そんな風に考えていた時期が私にもあった。

 

稲盛和夫の本なんかを読んで仕事に青い夢を抱いていた当時の自分をグーで殴りたい。

「目を覚ませ」と、肩を激しく揺さぶりたい。

 

仕事にそんなことを期待してはいけない。

これはただのつまらないゲームだ。ただのつまらないギャンブルだ。

人生を賭けていいような代物じゃない。

 

そんなことのために私たち一人一人の命があるわけじゃない。時間があるわけじゃない。

もっともっと貴重なものだ。つまらないゲームなんかで浪費してはならない、とても大切なもので、かけがえのないものだ。

 

だから、仕事がうまくいかないからと言って、ダメな人間だと思ったりするんじゃあない。

だかが一つのゲームにすぎない。

このゲームが苦手なら、それでも全然かまわない。

何にどれだけ「時間」と「労力」をベットするかは、私たち一人一人に選ぶ権利がある。

そう、どのゲームに力を入れるかは、君も私も自由に選べる。

私もそうだが、他のゲームを楽しむために、君もこの世にログインしてきたんだと思う。

この仕事というクソゲーはそこそこにしておいて、一緒に他のゲームで遊ぼうよ。

もっと楽しい、もっと素敵なプレーヤーと遊べるゲームがきっとある。

それをやらずにログアウトするのは、もったいなさすぎる。

 

「仕事」なんて人生のほんの一部なんだ、という、よくあるありきたりな話を長々と喩え話を交えながら文字にしてみると、こんなふうだろうか。

「仕事」というゲームに今まさに殺されそうだったいつかの私に向けて、今の私が書いてみた。

【AC】言語ゲーム論の視点から生きづらさの原因を考える

『言語ゲーム』という概念をご存じだろうか?

オーストリア・ウィーン出身の哲学者、ヴィトゲンシュタインという人が考えた。

この人は最初は「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」と言っていた。

つまり「この世のあらゆる問題は、言葉を完璧に定義していて記述が論理的に正確であれば、簡単に解決できる。」っていう主張をした。

だけども、言葉は実は「完璧に定義すること」ができないことに気づいた。

たとえば同じ青を見てても、「全く同じように見えていて、それを『青』と呼んでいるかどうか」すなわち、『青』は全く同じことを指す言葉なのかは、確かめようがない。

なので後になって、冒頭の『言語ゲーム』という概念が生まれた。

人は、「言語を使ってルールに基づいて意味を伝える」ことをしているのではなくて、「ルールはその都度(各々が勝手に)変更しながら、言語を使って遊んでいる(ゲームをしている)」と捉えた。

言葉は、それぞれが受け取りたいように受け取っていて、そこに明確なルールなど実はないのである。

 

ルールを作っているのは自分自身

ここで私が興味深いなと思ったのが、「各々が勝手にルールを変えて言語を用いたゲームとしている」というのは、まさに人が生きる上で世界をどうとらえるか?という世界の見え方を定義しているところだ。

一言でいえば、人は見たいものを見る。

 

みんな、これに似た覚えはないだろうか?ルールを自分で作っていることを例えるなら・・・そう、雨。

「雨が降れば憂鬱な気持ちになる」と思い込んでいるとする。

その人は雨が降ると憂鬱になる。

しかし実際は、雨の日でもいいことはある。

でも、その人のなかでは、「雨が降る=憂鬱な気持ちになる」がルール化されているので、そのルールに基づいて世界が見えていく。

憂鬱な気持ちになるような出来事を選んで拾ってきて、「ああ、やっぱり雨の日は憂鬱だな」というルールに基づいた思考のゴールにたどり着く。

 

言語に限らず、人はその定義を自分のなかに創っている。

意味を、意義を、価値を、生み出すのはいつも自分の心だ。

 

言語ゲームとしての「仕事」

その視点で「仕事」を見てみよう。

 

ある人は「誰から見ても良い妻でいること」を「価値ある仕事」だと定義して、自分の趣味も楽しみも置いてけぼりにしながら、毎日やりたくもない炊事洗濯に追われて、寝る前になって毎日「今日も良い妻だと思ってもらえたかどうか」を点検して憂鬱になっている。

「良妻賢母ゲーム」とでも言おうか。

 

ある人は「社会から認められること」を「価値ある仕事」だと定義して、家庭も時間も犠牲にして、毎日やりたくもない仕事に明け暮れる。人に評価されるために結果を求め、結果を出すために何をすればいいか。それに特化してHOWTOを撫でて本質に触れることなく、「やるべきこと」をしたためたTODOリストに溺れていく。

「出世しましょうゲーム」とでも名付けよう。

 

そんな人は、この世の中にあふれているように思う。

みな、やりたいように何かしらのゲームをしているのである。

そして、それらのゲームが死ぬほどつまらないから、自分のやっているゲームが嫌になっている。

嫌になっているのに、嫌になっていることすら自覚できなくて、続けるうちに実際に自ら命を絶ってしまったりする。

あるいは、出所のわからない苛立ちを抱えてネットで他人の粗探しをして、正義の名のもとに無差別に叩いては、己の溜飲を下げようと必死だったりする。

あるいは、他人の人生に肩入れをして「あなたがいてくれてよかった」「あなたがいないと生きていけない」と言ってもらったり、そう錯覚したりするために、他人の人生のお世話ばかりをして自分のゲームのつまらなさを忘れようとしたりする。

あるいは、酒やたばこ、その他もろもろの薬物で脳を化学的に直接誤魔化して、ゲームから逃避してしまおうとする。

 

そんなに嫌ならやめりゃーいいのに、いつまでもプリプリ怒りながら、シクシク泣きながら、ゲームをしている。

 

ゲームは選べる。

なぜならプレイヤーは自分だからだ。

「良妻賢母ゲーム」がもう嫌になったなら、「私の人生どれだけ楽しめるかゲーム」にすればいい。

「出世しましょうゲーム」がもう嫌になったなら、「自分がやりたいことをしましょうゲーム」にすればいい。

 

なんでずれてしまったのか?

なんでしたくもないゲームを始めたのか?

それは「価値ある仕事」という言語が、自分で定めた言語ではないからだ。

どっかの誰かが「価値ある仕事」だと言っていたから。

そうじゃないだろうか。

どっかの誰かの言語でしゃべっている、ゲームをしている。

だからいつまでもやらされ感があるんじゃないだろうか。

 

 

あなたがやりたいゲームは?

「良妻賢母」がいいのか?

「出世しましょう」がいいのか?

本当に?

私が、あなたが、そう思っているのか?

 

そう思い返してみたことはあるだろうか。

私はなかった。言語ゲームの主導権はいつだって他人だった。

他人の言葉で、他人が望むイメージを具現化しようとしてきた。実に受動的でつまらない生き方だ。

そうして、私は自分の言葉を失った。つまり、自分の心を失ったのだ。

ルールは自分ででっち上げられる自由度の高いこの世のなかで、私は私の言葉で生きてこなかった!!なんともったいない。

例えるなら、自由度の高いフィールドが広大に広がるゲーム内で、一歩も動かずに「これが一番今流行っているらしい」と周りを見ながらビクビクして同じような作業をしているだけで、プレイ時間が終わるようなもんだ。

もったいない、もったいないぞ、そんな遊び方!!

 

せっかく奇跡のような確率でログインできたんだよ、この世界に。

あと少しのところでログインできなくて惜しまれながら流れていくアカウントだって、星の数ほどあるのに。

私たちはこの世界で何をしたっていいのに。

どんなゲームでも自分のルール設定次第で目指せるし、やってみることができる。

 

お金が稼げない?

社会的に認められない?

人から愛されない?

知るか、そんなもんは全部クソだ。

既婚者が未婚者より上だなんて誰かどっかのやつが決めたルールだ。

高学歴エリートが中卒より上だなんてどっかの誰かの妄想だ。

モテる人がモテない人より人間的に魅力的かどうかなんて、だれも定義できないし結論は出せない。

つまり、この世で価値があると思われていることなんてタカが知れている。

「なんとなく価値があるっぽい」だけで、それを多くの人が信仰しているだけ。

それが正体だ。

それをあなたが「いやー、それはそんなに興味ないんすよね」と言ってしまえばそれまでのシロモノばかりだ。何を恐れているのか、自分次第で価値を決められる、あなたがこのゲームのプレーヤーだというのに。

 

楽しいかどうか

この世で最も重要なことは。

私にとっても、あなたにとっても、最も重要なことは。

心の底から「楽しいかどうか」だ。

正しいとか間違っているとか、上とか下とか、そんなもんはゴミだ。

 

全然関係ない。あなたの人生には本当に関係がない。

それはどっかの誰かが言っている言語で、あなたが言っている言語じゃない。

言語を定義するのはどこまでも、あなた であり 私 だ。

ルールをでっちあげるのは、いつだってプレイヤー自身だ。

 

楽しもう。2021年は始まったばかりだ。

それぞれがプレイヤーでいる限り、今年は楽しい年にしかならないのだから。

【AC】AC・共依存・依存症を抱えながら親になるということ

私は、いわゆる陰キャにばかり感情移入してきた。

祭りに行けば、他の出店がにぎわいのなかで、全然売れなくて途方に暮れている屋台のオヤジの哀しげな背中ばかり目に入って、すぐに疲れて帰りたくなる子どもだった。

「楽しさ」や「幸せ」は、どれもどこか作り物じみていて、歓迎できないものだった。良いものとされているそれらを、好きにはなれなかった。

 

私は、人が集まる空間に対して拭えない嫌悪感がある。

楽しそうに騒いでいるのを見ると、ぶち壊しにしたくなる。

煩くて癪に触るおどけた連中を一発殴って静かにさせたくなる。

楽しい気持ちに冷や水がかかって、一転鎮痛な顔になる瞬間を見たくなる。

「楽しそうにしてずるい」「私はこんなにも毎日楽しくないのに」

私はそう思って人々を見てきた。

あるいは、楽しそうにしている人々が必死に「楽しさ」を取り繕うのを見てると、ひどく疲れると感じてきた。

「楽しさ」に置いていかれた者たちが、うつろな瞳の色を、暗く拡がっていく己のうちの闇を悟られないよう必死に目を細めている。無理して笑うから表情筋の引き攣る、その痛みがこちらにも伝播してきそうで、眉をひそめる。やめろ、胸がズキズキする。

そもそもこんなふうに集まって楽しげにしようと無理をするから、光と影ができるんじゃないか。

皆真っ黒さを認めてただ静まり返っていれば、影は生まれない。

みんな本当は世の中真っ暗だって思っているくせに、なんでこんな無理をしようとするのだろう?

人は、楽しくないのになぜ楽しい振りをし続けなくてはならないのだろうか?

生きるのが楽しいことだなんて馬鹿げた妄想を、まだ捨てられないからだろうか?

 

そんなふうに世の中をいぶかしんで、陽キャたちを「物事の道理に暗い、哀れな生き物」と下に見て生きてきた。

 

何もかも偽物だったのは、私だった。

影だと思ってみてきたものは、私そのものだった。

私が世の中に「私」を見つけていただけだった。

 

 

本当は楽しく生きたかったのに、そうできなかった。

私が与えられた環境は「幸せ」なはずで「恵まれている」はず。

それなのに、このような暗澹たる気持ちで過ごさざるを得ない、つまらない時間の連続が、私の人生の認識だった。

 

それはなぜか?

 

本当の私で生きていないからだ。

本当の私で、受け容れてもらっていないからだ。

そこで私はようやく「寂しかった」のだと気づく。

 

楽しくないのに楽しい振りをしてきたのは、自分だ。

屋台のオヤジはそんなに暗い気持ちではなかったかもしれない。売れなくても、祭りに参加できるだけで楽しかったかもしれない。

もう、うんざりしていた。

それを誰にも言えなかった。親にも兄弟にも。

それは当時の私にはさらけ出す勇気が持てなかった。

だから誰とも仲間になれなかった。心が分かち合えなかった。

だからいつも誰といても私は能動的に「仲間外れ」だった。

 

「仲間に入れないことが悲しかった」。

このことに蓋をしてきて、悲しいことを忘れていた。

この悲しみが形を変えて、怒りや憎しみとして表出していた。

だから、人が楽しそうに集まるのを、苦々しく感じてきたのだ。

 

 

これを書きながら、そんなことを思っていた。

私は圧倒的にサボってきたと言わざるを得ない。

他の人がそのままの自分で他人と真剣な鍔迫り合いをしているのに、試合には参加せず遠巻きに見ていただけだった。

それもそれとして仕方がないとも思える。

 

彼らにはホームがあった。

打ちのめされて帰ってきても、存在を全肯定してくれる心の安全基地があった。

心の安全基地が確かにある安心感があるならば、真剣の立ち合いを挑む気力も生まれよう。

 

一方私は、刀傷を負って帰っても誰も手当てしてくれない。

彼らのようにそのままの自分を受け容れてくれるお手本の「家族」がいない。

それはまるでピットインせずに走り続けるF1のようだ。焼け焦げていくタイヤよろしく、日々摩耗する己の心との闘いだった。日々セルフサービスでタイヤ交換するだけで、精一杯だった。

機能不全家族をベースに持つということはそういうことだ。

共依存・依存症・AC(アダルトチルドレン)に向き合わずに子供をもつというのは、そういうことだ。タールのように黒くこびりついてなかなか取れない「呪い」を、赤ん坊の綺麗な体に、穢れのない心に、べっとりと塗りたくる行為だ。

 

だから、私の性根が腐っているわけではない。私は悪くない。私は私なりに頑張って生きた。

努力次第でどうにかなるなら、私は結構日々努力してきたほうだと思うから、どうにかなっているはずだ。なんせ小さい頃からずっと死にたい気持ちを引きずりながらも、なんとかかんとかおじさんと呼ばれる歳になるまで懸命に生きてきたのだ。結構しぶといよな、と我ながら思っている。

 

そして今は、このタールまみれの体と心も結構気に入っていて、人とは違うから好きになってきた。長年慣れ親しんだこの臭いのおかげで、同類をすぐに見分けることができる。

そして、私の体臭として悪くない落ち着きを与えてくれる。

塗りたくってきた両親に対する憎しみもだんだんと薄れてきて、やっと自分の一部に馴染んできたような心地がする。とはいえ苦しみの記憶は色あせず、到底許せるわけでは無いのも事実だが。

 

私はm我が子に意図せずタールを塗りたくって自覚がなく謝罪すらできないような両親のような親にはなりたくないし、そもそもそんな汚いものを塗りたくりたくはない。

そのままで、のびのびと失敗と成功を繰り返し経験し、すくすくと己の世界を拡げてほしい。その神聖な営みの邪魔だけはしたくない。

それに死にたい気持ちを抱えながら生きるのはしんどい。私には必要な痛みだったのかもしれないが、同じ思いをさせたいとは思わない。

 

私は人を憎み人をうらやみ、自分の陰ばかりを追いかけてきたのは、今、親としてそういう風に思えるように、与えられたものなのかもしれない。