【共依存】シリーズ「わたしの共依存」③同僚

私は今でこそ必要最低限の仕事だけできたら後は明日にして帰ることができるのだが、昔は体力が尽きるまでやってしまうタイプだった。

以前勤めていた会社はブラックで、いくらでも仕事ができた。

私は寝袋を持ち込んで会社に泊まりこんでは、とにかく仕事か飲酒か睡眠か、というような不健全な生活をしていた。

そんななか、同じブラック企業に勤めていた同僚のなかに、毎日定時に帰る人がいた。

私はいつもその人を見ると何故かイライラした。

トラック運転手であるその人(Sさん)は、営業兼現場監督をしている私とは就業体系が違うので、定時で帰るのは当たり前と言えば当たり前だった。

それを差し引いても、「仕事より家族」と言い切って仕事も満足に終わっていないのに(と私からは見えた)早々に切り上げる背中がなぜか苦々しく見える日々だった。
とにかくSさんのことが面白くなかった。

私は夜となく昼となく働いているのに、評価されない。給料は同じか、私が低い状態だった。

もっとも、それは私がアルコール依存症真っ只中で、定期的に遅刻や体調不良を繰り返していて評価できない人材だったからだが。

結果に貪欲でないSさんに、仕事中心の私はイライラした。

「年上で先輩で俺より給料もらってんだからもっと働けよ、もっと苦しめよ」

「俺のほうがやっているのに俺がキレられて、何でのらりくらりとやっているようなあんなのが許されるんだ」

「俺はこんなに苦しんでいるのに、なんであんなに楽そうなやつが生きていけるんだ。不公平だ」

「ダッサ。何が家族だよ、仕事やらない理由にならねーよ。できない言い訳すんなよ」

そんなことばかり思って、奥歯をギリギリ言わせていた。

今なら思う。

これは、私が「苦しい」「つらい」と言えなかっただけ。

Sさんに対する思いとして、彼を鏡にして、「私自身の歪み」が、感情となって表出していただけのこと。

昨夜のお前が見てたのは俺じゃない

会わない数年の間にお前の頭の中にこしらえた「俺」

お前の頭ん中の「俺」 お前の頭ん中の物語

その物語こそがお前自身を映してる

今のお前を映しているよ

出典:『バガボンド』第25巻 樹上ニテ想フ より

人はそれぞれ違うのだから、生き方の違いはあっていい。

大切にするものの違いもあるだろうし、限られた人生だから時間の使い方も、違いはあって当然だろう。

最近、自分の判断で仕事に割く時間のウエイトを決めて人生をドライブし始めた。会社の指示だったとしても、筋が通らなければ論理的に反駁して是正を依頼する。

同僚や上司の反感を買うこともある。

「ちあきはオトナじゃない、物分かりが良くない」と下に見られることも多々ある。

それは、まるで前職にいたときの「かつての私」そのものである。

仕事をしたくないのに、しなければならない。

それが本当は嫌だったのに、嫌だと思うことすら自分に許せなかった。

だから私は望んで「人生において仕事に最も傾注することが正しい」という信仰を頼った。

「私は正しいことをしている」という束の間の安心感を得るために。

本当はやりたくないことを我慢してやっているから、やらない人を受け入れられない。

自分の力で変えたくなるし、従わせたくなる。

なぜなら、自分が本当はやりたくないことに気づいてしまうからだ。

気づいてしまったら、もうそれ以上がんばることができなくなってしまうからだ。

それはまずい、と感じているからだ。

なぜか?

頑張れなければ、認められなければ、生きていけないと思い込んでいるから。

その生存を脅かされるのではという恐怖が、不安と怒りになって、私自身に向かっているだけ。

全ては、その人の内なる神とのやりとりなのだ。結局は、自分の問題でしかない。

他の人が影響しているようで、実は自分の中に真実があり、それを否認するときに心は泡立ち、気持ちは揺れる。波が立つ。

ただそれだけのことだった。

自分がこれでいいのか。

不安になることも、他人と比べてしまうことも、しかたがない。

そして、それらは全て己の心という水面に映る問題に過ぎないのだから、結局は気にして精神をすり減らしても、しょうがないこと。

今、私を下にみて安心したい現同僚の彼ら。

彼らにも、いつか彼らの本心が見つかるといいな、と祈らずにはいられない。

この歌を泣きながら聴いていた日々の痛みが、今、私に爽やかな優しさをくれる。

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