私は、「結果主義」的で「完璧主義」的な傾向があります。
私はなぜそのような傾向をもったのでしょうか?
そこには、コントロールというACの課題が見え隠れしています。
負けるのも中途半端も大嫌い
私は硬式テニスをやっていましたが、シングルスが大好きでした。
ダブルスが大嫌いでした。
なぜか?私以外の人間(ペア)がミスをすると、とんでもなくイライラするからです。私に落ち度がないのに、失点するのが、我慢できませんでした。シングルスは楽です。勝っても負けてもすべてが自分のせいだから。
そんな私とペアを組まされた運の悪いプレーヤーはみんなテニスが嫌いになりコートを去りました。
仕事も、チームでやるのがとても嫌いです。
議論が前に進まないとイライラしますし、合理的でない理由で足を引っ張られると、本気で会社からいなくなればいいのにと思ったりします。
私は、真剣勝負だと認識していることになると、絶対勝ちたいし結果を出したいので、自分のミスも他人のミスも許せないのです。
任せた自分を責めるから、任せたくない
結果負けてしまったり、結果が理想通りではなかったりした場合、私は自分をひどく責めぬきます。
数十年の人生のなかで、相手を責めたとしても何も変わらないことはようやく理解しました。
だから、なぜこんな未熟な人間に私は大事なことを任せてしまったのか、己の見る目の無さを責めるようになりました。
「自分ならこんなイージーミスはしなかったのに」
「自分ができるキャパシティを持っていれば、任せる必要がなかったのに」
「お前が能なしで仕事量が少ないから、こんな出来損ないに任せる羽目になったのだ」
と。
なんと窮屈でイヤな人間なんでしょう。笑
私はこんな人と仕事でタッグを組みたくない。文字通りミスを許されない環境では、人は委縮します。そしてミスをしやすくなる。まさに、自分で自分を締め上げているようなものです。
これでは、結果や完璧はどんどん遠ざかっていきます。本末転倒です。
結果って、コントロールできるものなのか?
やると決めたことを止めるのも嫌いなんです。
やるならとことん最後までやりたい。
途中で邪魔されるとキレそうになるというかキレます。
とにかく他人の都合で予定や結果を変えたくないのです。
私はASD(自閉症スペクトラム)の傾向から、変更や中断が恐ろしく嫌いです。
でもちょっと立ち止まって考えることには、
それだけじゃないんじゃないだろうか?
これは、「私には結果がコントロールできる」という、私の過信からきているんじゃないか?
ということです。
確かに今まで私はそれなりにやってきてきて、そこそこ良い結果を出していたのでしょう。
しかし、他人に任せざるをえなかった時点で、今この時にはキャパオーバーだったというのが事実です。
自分だけの予定で世界が動いていない以上、完全に自分のイメージ通りにタイムテーブルを動かすことは不可能に近いのも、事実です。
ひとりではできない、ひとりでは完結しない事柄のほうが、残念ながらこの世の中には多いのです。
12ステップ・プログラムをしていて最近思うことには、「私は、実はコントロール出来ないものをコントロールしようとしていたのではないか?」ということです。
実は、「誰にも結果はコントロールできない」のだとしたら、どうでしょう。
できるのは、最高の準備の努力。自分ができる範囲内の慎ましやかなことだけ。
当初は80%は自分の能力が招く結果で、20%ほどが運の要素なんじゃないかと考えていた私ですが、20%ではなく、実は80%以上が、コントロールできないことなんじゃないか、と思うようになってきました。
本当は割合が逆なんじゃないか、ということです。
そう考えると、なんだか初めて手放せる気がするのです。
そもそも、何もどうにもならない
なんだ、どうにもならないじゃないか!
だって、20%しか関与できないんです。結果はすべて私のあずかり知らないところで決まると言っても過言ではない。
そう、生き死にと同じように。
結果は、世の中ではさも個人の力量であるかのように讃えられ持て囃されているけれども、実は80%の様々なものに助けられて実現しているのではないか、と思うのです。
この時代にこの国に生まれたこと。
発達障害を持ったこと。
アルコホーリクになったこと。
苦い経験をさせやがった憎い人たち。
簡単には一位になれなかったこと。
人を愛すること。人に裏切られること。
全部に感謝、なんで綺麗事は言いません。
だって、今でも殺したいほど憎い人たちがいます。
許されるのなら同じ苦しみを味わわせてから惨殺したいし、全員を許す必要などないと思っています。
許すかどうかは、わたしたち各々、当事者にのみ主導権があります。誰に何を言われようとも、それは変わらない。それだけわかっていれば、私たちは安心して気持ちを見つめ直し、処理することができるのです。
まとめ:良い意味で、潔くあきらめよう。そして信じよう。
もはや、私たちに出来ることは、生まれた時点で限られていて、与えられた20%を精一杯「楽しむ」ことこそ、全力でやるべきことなのだと思うのです。
結果を出すことではなかったのだ、私たちがやるべきことは。
結果を出すことではなかったのだ、私たちがやりたいことは。
大好きな漫画の『バガボンド』。
この沢庵和尚の言葉が好きです。
「お前の生きる道はこれまでも、これから先も天によって完璧に決まっていて、それが故に完全に自由だ。根っこのところを天に預けている限りは…。」(『バガボンド』第29巻より)
ようやく、この言葉の意味がわかった気がします。腹落ちしたという感じがします。
ハイヤー・パワーを信じるということ。
己の無力さを認めるということ。
私たちは完全にあらゆることをコントロールできないが、だからこそそれを受け入れさえすれば、本質的にありようは完全に自由で、だから楽しむことが最も重要なのです。
では何を信じるのか?
結果ではないなら、私たちは何に達成感や信頼感を持てばいいのか?
世の中には、すぐにわかりやすく顕れる幸せと、すぐにはわからない後になって顕われる幸せがあると考えています。
私の人生は、たしかにそのことを証明してきたように思います。
私の親はクソみたいな毒親だし、なりたくて発達障害になったわけではない。アルコール依存症にだってならなくていいならなりたくなかった。
毎日毎日苦しかった。それが事実です。
しかし、私たちはその苦しみの中、今日いま、なんとかここまで生きてきました。
そのなかで、苦しみがあったからわかることが増え、与えられなかったから有り難みに気づいているのではないでしょうか。
すぐにはわからなくても、後になって、今もしわかりやすい結果に結びつかなくとも、いつか、自分の人生の中で光り輝く時がくると信じることができそうです。
真の信頼とは、そのような各々が持つ『幸福への引力』(ハイヤーパワー)を信じ頼ることなのだろうと思います。
他人に命運を預けることは、恐ろしいです。
とてつもない痛みを味わう結果になることを恐れてしまうものですが、それは自然なことで、恐れながらもなお、味わうすべてのことが、いつか良い方向につながる、ということを信じることなのだろうと思うのです。