社会福祉士」カテゴリーアーカイブ

【社会福祉士】スーパービジョン

相談援助における記録の意義と具体的な記述方法について、実地研修するなかで学ぶことができた。

特に居宅支援事業所と在宅支援事業所でケアマネージャーや社会福祉士がどのように記録を行っているか、実際に見せていただいた。実に詳細にクライエントの経歴・趣味趣向・職業遍歴・家族構成・病歴・服薬状況・食事と排泄の状況(口腔含む)・認知機能・ADLと実に様々な個人情報が記録されている。特に記録の方法として専門的なのは、ジェノグラムである。一目で家族構成が分かり、誰がキーパーソンかも一目でわかるため、非常に実用的であると感じた。

特別養護老人ホームなどでは、看護師と介護士がそれぞれに医療側と介護側のその日の利用者の情報を記録し、日勤と夜勤の交代時や朝礼などのミーティングを通じて「申し送り」という呼称で情報共有をしている。生活の変化や、褥瘡や転倒などの事故を防ぐために細やかな状況まで記録する。それがターミナルに入り看取りが終わった段階で「サービスに改善する余地はなかったか」という視点で再度すべて振り返りが行われるのである。

ITも積極的に導入されており、情報共有のために専用のソフトがPCにインストールされていて、やり取りされたクライエントのアセスメント票の情報や担当者会議により決定したケアプランの内容などはすぐさまデータ化してセキュリティに守られたデータベースに記録される。それにより、安全に管理できクライエントに関わる人がいつでも最新の情報にアクセスできるようになっている。今日的課題として、ITで共有される個人情報の保護、という問題がある。近年のネット犯罪は高度化しており、セキュリティソフトや対策を導入してもすべてのハッカーの攻撃を防ぎきるのは不可能とされている。そんななか、アセスメント票のように財産にかかわる情報まで記載されている情報が漏洩してしまうと、犯罪に発展しかねない。今後さらにITの面で医療レベルにまで介護の業界も情報リテラシーを高めていくわけだが、その際にはネットセキュリティについてもさらなる強化と教育が必要な時代になってきた。

デイサービスやショートステイ、特別養護老人ホームなどでは、看護師がバイタルチェックをしており、脈・血圧・酸素濃度・呼吸回数・体温を毎日測定する。酸素濃度はSPO2という機器で指先から簡単に測定することが可能になっている。高齢者においては、自身の体調の変化に鈍感になっており、本人に認知症があれば季節感なども自覚がなくなってしまうので、体調管理や水分補給には気を配らなくてはならない。そのために、バイタルを定期的に測定し変化があればすぐ医療につなぐことができる、というのは、介護において欠かせないとても重要な記録であると感じた。

スーパービジョンの目的、機能、あり方についても言及してくださった実習先の社会福祉士の先輩方には感謝してもしきれない。

誰もが最初から同じように相談援助ができ理想的なコミュニケーションをとることができるわけではない。それぞれに経験したクライエントの数だけ実体験のケーススタディが存在している。そんな経験値の乖離をできるだけ早期に埋める目的でスーパービジョンは実施される。

機能としては情報や対処方法の共有・指導と合わせてそれを超えた仕事を通じての生きる上での悩みや課題と向き合うための支援という側面がある。なかには合わない利用者やクライエントとも関係構築を行わなくてはならないなかで、いかに傾聴し、質問し、ニーズを引き出し自覚を促すのか、そのコミュニケーション方法は一朝一夕には習得しえないノウハウであり、継続的なサポートによって体得しえる援助技術である。それらの技術の伝承は、スーパービジョンにより時間をかけて実施されるべきである。また、仕事を通じて倫理的葛藤や仕事に対する姿勢について悩み苦しむ時間が人を育て仕事をより良くする。そのような悩みを抱えた成長するチャンスを逃さず、機会に変えていくことが、スーパービジョンを受けた人の人生をも豊かにする。

つまり、スーパービジョンの在り方とは、その人にただ単に必要事項を伝達し管理監督する、という単純な指導責任者ではなく、担当する新人の人生の充実を視野に入れたある意味での相談援助の一環としてとらえ、長期的視野をもって寄り添っていくということである。それを実現するためには指導する側の成長もなくてはならない要素であり、非常に難しいことだが、もしそのような在り方を実現できたなら、指導を受けた新人だけでなく、指導する先輩にとっても大きな財産になるだろう。

【社会福祉士】ひらがな が よめるようになった みんなへ

こんにちは。

いまは なつやすみ かな?

きょうは いまは まだ こどものみんなに あやまりたいことがあるから ちょっとよんでみてほしい。

 

きみは なにになりたい?

やりたいことは あるかな?

はやくおとなになりたい とおもっているかもしれないね。

それとも もしかしたら ずっとこどもでいたい とおもっているかもしれない。

 

おとなはよく

「おとなのいうことをききなさい」

「ちゃんとるーるをまもりなさい」

ってきみたちに いうよね。

 

おとなのひとは じつは そんなによくわかっていないで そんなことをきみたちにいっていることがおおい。

だから きみたちは そんなふうにえらそうにいわれたら いらいらするときも よくあるとおもう。

 

その かんかくを どうか わすれないでほしい。

 

わたしは きみたちに あやまりたい。

こんな つまらないよのなかにして ごめん。

じぶんのことしかかんがえない だめなおとなばかりで ごめん。

 

えらそうにしている おおくの おとなは だいたい なにも かんがえてない。

じぶんが ほめられたい おかねがほしい なかまはずれにされたくない そんなことしか かんがえてない。

だから なにかを いわれても しんじなくていいよ。

なにかをさせよう としても したがわなくてもいい。

こんなふうに ならなきゃいけない と おもわなくてもいい。

きみが なりたい と おもうものが いちばん ならなきゃいけないもの。

それを だめ というひとは ざんねんだけど きみを ちゃんと たいせつにしていない。

だから そんなおとなから できれば はなれたほうがいい。

 

「なんでなんだろう」

と かんじたことを 「まあいっか」で すませないようにしよう。

おとなにいわれたら きいてみよう。

なっとくできるまで きいてみよう。

きいてみて そのひとが ちゃんと きみが なっとくできるこたえを こたえられないことは しなくてもいい。

そのひとは じぶんが おこられるのが こわいから きみに ほかのひとと おなじことを させようとしているだけ。

きみのため じゃない。

じぶんのため だよ。

 

このくにの おとな は じつは ちゃんと おおきくなれなかったんだ。

だれかに いわれたことを そのまま なにもかんがえないで したがっているうちに からだだけ おおきくなった。

そして なんでも しっているつもり になっちゃった。

ほんとうは しらない ということが こわいから しっているつもり になっているだけ。

ばれないように きみたちに えらそうにしている。

 

このくには どんどん たいへんなことになる とおもう。

そんな たいへんなこと を きみたちに のこして しんでいく。

ほんとうに ごめんなさい。

そうならないように がんばっている おとなたちも いる。

わたしは そんな おとな のひとり だけど ざんねんだけど さけられない とおもっています。

 

わたしが きみたちに いいたいことは、

おとな だから しんじられる とは おもわないでほしい ということ。

おとな だから ただしい とは おもわないでほしい ということ。

 

おとな のなかには きみたちを ころそう とさえ おもっている ひとがいる。

じぶんたちが おかねがほしい ほめられたい なかまはずれにされたくない から、きみたちに しなくていいことを しろ と めいれいすることがある。

 

だから わたしたちを しんじないでほしい。

きみたちが しんじることを しんじてほしい。

きみたちが わくわくすること たのしいこと やりたいとおもうこと を やってほしい。

 

ここまで よんでくれて どうもありがとう。

きみたちが うまれてきてよかった とおもうような よのなかになるように がんばるね。

【社会福祉士】「今だけ金だけ自分だけ」の狂った現代社会

私は学校で「社会は正しい」と教えられてきた。

親からも「自立した社会人になりなさい」と教えられてきた。

みんなそうではないだろうか。

でも、それが本当に正しいかというと、どうもそうではないんじゃないか、と思う。

 

この社会が求める人物像は「考えない歯車」

この社会というのは、資本主義社会だ。

経済的な成長を、正義と考えている。

むしろ、それしか考えていないとも言える。

企業は、金が儲かるなら、顧客がどうなろうが、基本的には心の底ではどうでもいいと思っている。

健康を害するような商品を売ったり、必要のない人にまでサービスを押し売りしたりする。

だから人は仕事にストレスを感じるんだと思う。

やりたくもないことを、金のためにやっている。だから心が傷つく。

心をなくしてしまったほうが、効率よく精力的に働ける。

そして、雇う側としてもそういう心を失った歯車のほうが扱いやすいので、そういう人間を重用する。

組織の目的や命令に文句を言わず従い、金儲けのために必要な行動を何とかかんとか達成し、それでいて良心の呵責なんて感じない、そんな使える歯車だ。

それは、文字通り歯車で会って人間ではない。

人間をやめた没人格の部品。それがこの社会では最も優秀とされている。

狂っている。

 

教育の問題点

私はよく義務教育と受験社会を批判するが、先生たちは本当に真剣に、子どもたちのことを考えて頑張っているんだと思う。そして、楽しい授業をする先生もいるんだと思う。

しかし、文科省がつくったマニュアルのみに従って授業をしていて、封建的な価値観で凝り固まっていて、授業が本当につまらない先生もいる。

私の人生では、そういう先生が90%を占めていた。進学校だったせいもあるだろう。

受験とは、ただの暗記ゲームでしかない。

頭に詰め込んだ情報を制限時間内にいかにアウトプットするか、というゲームであり、賢さとは関係のない遊びだ。

その遊びで、行ける大学が決まり、就職先の幅が決まる。

その遊びが得意かどうかで生徒の価値を判断する先生がいて、大学がある。

これはこの社会の事実。

子どもは遊ぶのが仕事で、勉強は遊びのひとつだ。

しかし、学校では、遊ぶことを禁じる一方で、受験勉強という暗記ゲームをやれと子どもたちに命令する。

その命令に背くと不良であり、従順に言われたことをやると優等生である。

そう扱われる。

これは、学校がもつ「歯車をつくるための政府直轄洗脳機関」としての性格を、もろに表している。

都合のいい奴隷の才能がある生徒、というのが、優等生であって、それが社会的に正しいと教えているのが学校で、そんな奴隷のような歯車が欲しいのが資本主義社会。

実によくできている。

 

受験勉強は学問ではないので、学問の面白さに小中高で触れられることは稀だ。

受験勉強は基本的につまらない単純作業なので、嫌いになっても仕方ない。

受験のためのノウハウを習得するための「授業」なのだが、先生が学問という体で話すと、生徒が混乱する。

学問はもっと面白い。そして自由だ。点数化されたりしない。

受験ゲームのせいで、学問をつまらないと勘違いしてしまい敬遠する人が多くなるのだと思う。

先生も不憫で、学問を話していると、保護者から「そんな意味のないことはいいから受験で勝てるようなことをやれ」などとクレームを言われる。

保護者も奴隷養成機関である義務教育に洗脳されているので、もう手の施しようがない。

先生ひとりが頑張るには限界がある。

ではその上の文科省はどうかといえば、本質をとらえ改善する気もなければ、本質に到達できる頭もないように、私には見受けられる。

もうお手上げだ。

だから先生ひとりひとりを責めることはできない。責める気もない。

システムの問題であり、社会が狂っているので、仕方がないといえば仕方がない。

 

医療・福祉の問題

その奴隷養成課程を立派にこなした歯車候補だけが、医学部や薬学部に行くことができるしくみなので、当然洗脳を色濃く残した人が医療に携わることになる。

誤解のないように言うと、医師や薬剤師の先生方をディスっているわけではない。

尊敬できる先生はたくさんいるし、むしろ受験ゲームが苦手なのに苦労して進学した先生などは、辛苦を知っているだけに優しさと思いやりにあふれていたりもする。

でも、そういうタイプを除くと、基本的には自分たちは一般的な人間より優秀で上質だと思っている。ブランド意識がある。

となると、扱い方として、患者は必然的に身分が下、ということになる。

私たちがクリアできたゲームをクリアできなかった人たちが、お客さんである。

そういう意識があると、指導的・高圧的なスタンスを取ってしまいがちだ。

表立って態度には出さなくても、滲み出てしまう。

「ダメなこの人をなんとかしてやろう」

「間違っているから正してやろう」

という上から目線になる。

そうなってしまうと、もう患者さんのことは見えないし分からない。

机上の空論でしか物事をとらえられなくなって「エビデンスがエビデンスが」と頓珍漢なことをやりかねない。

 

これは福祉の分野でも同じことが言える。

病んでいて、社会になじめない人が支援の対象なので、社会に馴染めていて支援する立場の自分たちを上だと錯覚してしまいがちだ。

「可哀想なこの人たちを助けてやろう」

「社会に馴染めている私たちが、正しいことを教えて社会に戻してやろう」

こんな狂った社会に馴染めている時点で狂っているのは支援者のほうなのだが、心から善意でこんなことを思っている場合がある。

可哀想、と思うことは、侮辱である。

同情や憐れみというのは、相手を下に見ている。

そもそもこの社会に馴染めないほうが正常であり、「今だけ金だけ自分だけ」がスローガンの現代社会に馴染めている時点で何かを失っている。

だから、支援者はむしろ援助対象に学ぶべきことがあるという意識で対等に関わるのがベストだ、といち社会福祉士としては思っている。

他人として失ってはいけないエッセンスを、彼らは持っている。だから病んでいる。

 

親子の問題

家族としての在り方も、崩壊して久しい。

「子どもがゲームばかりしているので、やめさせたい」と相談を受けてよく話を聞いてみると、親のほうに子どもと一緒に遊ぶ余裕がなくて、子どもと一緒に何かをしたことがあまりないケースが散見される。

「家で遊ばせる」という状況のなかに、親の存在がいない。

ひとりで勝手に遊んでいてほしい、自分の時間を奪わないでほしい、そういう印象を受ける。

子どもは当然、一人遊びはつまらない。飽きる。限界がある。

その結果、ひとり遊びとして面白いゲームやYoutubeに行きつくのは当然だ。

なんせ、様々な技術者が腕によりをかけて「どれだけ時間を使ってもらえるか」を考え尽くして完成したコンテンツである。

どれだけ依存させられるか、どれだけ金を巻き上げられるか、そういう意図で没入するように仕組化されているコンテンツに、子どもが抗えるわけがない。

やめさせたいのなら、もっと面白い現実の遊びを提案するしかない。

それは、生身の人間同士の触れ合いだったり交流だったりするが、親は時間を取りたくない。いや、取る余裕がない。

なぜなら、歯車としての役割を演じる「仕事」で、毎日が精いっぱいだから。

生活するために必要なお金のための「仕事」で忙殺された結果、本来最も大切な子供との時間を削っている。

そしてその最も大切なことを犠牲にしている罪悪感を、子どもに押し付ける。

「あなたたちを育てるためにはお金が必要だからしかたない」

「おまえたちのために働いているんだ」

そう言って、子どもや配偶者のせいにして、自分が責任を果たせていない状況を正当化する。

 

余裕がないのは、しかたがない。この国は貧困国だから。

年収の中央値は276万円。

共働きしなければ、一般庶民は生活できない。

そして就職先の営利組織というのは、金のために奴隷のように社員を働かせる資本主義の権化なので、できるだけ時間とエネルギーを搾取してくる。

社会の仕組みとして、もうすでに破綻している。

だから家庭もシステムとして崩壊する。当たり前のこと。

 

 

もはや、この社会システムに頼らず営みを構築するしかないように思う。

経済とは切り離した生活基盤をもつしかない。

隣人同士で助け合ったり、物々交換で貨幣を通じずに価値を循環させたり、家庭菜園で自分たちの食糧を確保する。そういうふうにして貨幣経済に由来する交流を最小限に圧縮していくことが、自分たちの時間と自由を取り戻すために必要になっていると思う。

だから仕事なんてそんなに命かけてやらなくていい。

配偶者や子どもと一緒に時間を過ごし、関わる人には感謝と愛を伝え、家庭を中心とした手の届く範囲の世界の平和に力を尽くしたほうがいい。

 

「今だけ金だけ自分だけ」

経済社会の呪いと洗脳。

この歪みに境界線を引こう。望まない強制にNoと言える一歩引いた態度を心がけよう。

医療にしても、福祉にしても、学べば学ぶほどそんなことを思う。

【社会福祉士】民主主義というファンタジーを信じる日本人

みなさん、日本は民主主義国家だと思いますか?

選挙によって、我々の民意が政治に反映されると思いますか?

 

残念ながら、この国はそんな国ではありません。

 

選挙はプロレス

自民党も民主党も共産党も社民党も、みんなお友達です。

どの政治家も、ある特定の財閥に繋がる血筋です。

争っているように見えるだけで、親戚同士裏では繋がりながら、プロレスをしているだけ。

参政党とかれいわ新選組とか、それらの親戚とは違うと思われている政党ですら、残念ながらあまり大差ないと思います。

すべては結果有りきで行われている茶番。

 

そもそも選挙結果は自由に操作できます。ご存知でしたか?

株式会社ムサシという会社が投票用紙の自動集計機を納品しています。

この会社の株主はペーパーカンパニーで、そのペーパーカンパニーを調べていくと、最終的には実質の支配権はロックフェラー系列の外資です。

我々の国の選挙に使われる機械は、ユダヤ系外資がつくっているということ。

これは、彼らの都合がいいように、得票結果を自由にコントロールすることができる、ということです。

最近よく単語が出てくるようになった「統一教会」の創立者文鮮明氏は、グローバリズムでロックフェラー財閥と意気投合して資金提供を受けてきました。

つまり、お仲間です。

その「統一教会」と親交の深い自民党が与党となり、ユダヤ系資本がパックにいる選挙用の機械を使って選挙をすれば、結果がどうなるか。

想像に難くないですね。

こうして、選挙は「国民の投票により政治家を決定している」という体を取りつつ、実際は権力を持つ「財閥」の都合のいいように動かされています。

だから、自民党が勝つのは当たり前だし、ぶっちゃけどこが勝ってもいい。

なぜなら、どこかがまかり間違って勝ったとしても、金でその政党を買えばいいだけだからです。

それが、資本主義社会です。

政教分離?そんなの名ばかりです。そもそも政治を牛耳っている経済的な力を持っているのが「統一教会」であり「ユダヤ系財閥」なんですから。一心同体です。

票が取れれば、選挙で勝って政権を維持できればそれでいい。そのためならどんな手も使う。金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる。

それがこの現代社会の、この国の姿です。

民主主義なんて幻想(ファンタジー)です。

だから、公約で掲げた政策なんて一向に実現されないでしょう?

選挙のときに耳障りの良いことを言っているだけで実行する気なんてさらさらないですから、そりゃ実現するわけないですよね。

国民の意見なんて死ぬほどどうでもいいと思っていて、お金を出してくれる海外の権力者の言うことを聞くために存在している。それが今存在する政党であり政治家たちです。

そんな人たちが、税金から何千万も給料をもらっているんです。仕事中には腕組みをして居眠りしているんです。

だから、私は政治には何も期待していません。

この腐りきった国の政府を最大限利用して、仲間を集め自分たちの手で人生を切り開いていくしかない、と思っています。

 

日本のエリートたちはみんなゴマすり

日本では、大企業も、政治家も、官僚も、大手マスコミも、みんなそれらの権力にゴマをすって生きています。

よく名前が出る大企業のCEOをはじめ、経済界・政界・マスメディアの重要ポストにいる人間は、だいたい世界経済フォーラムに参加しています。

ヤンググローバルリーダーに選ばれている人は、特に傀儡として利用しやすいので持ち上げられている人たちですね。

大手製薬会社もだいたい世界経済フォーラムの系譜です。

新自由主義とは、金持ちがより金持ちになり、彼らにとって都合がいいように世の中を作り変えるための社会の在り方です。

自由競争?これは強いものが弱いものを食い散らかす「自由」を与える競争社会です。

誰もにチャンスがある、なんてとんでもない。むしろチャンスなんて根こそぎ金で刈り取るための、肥大化したコントロール欲求が支配するディストピアです。

共産主義がいいとは言いません。でも、資本主義は共産主義同様、システムとして破綻しています。

その証拠に、自殺者は増加しているし、貧困は拡大しています。一部のエリートたちがもっとお金を集めるために、それに類さない大半の人々の命と人生は、これからもますます奪われていきます。

平等を装った超格差社会。それが日本の社会です。

 

そりゃあ依存症にもなりますよ

この日本は、まさに地獄です。

先進国どころか、後退国です。

雇用は不安定で賃金は一向に上がらないのに、税金と物価はどんどん上がります。

他人を裏切り蹴落としてでも権力者に媚びへつらえる人間が、扱いやすい奴隷として認められ、おこぼれをもらって「成功者」として台頭し、マシな生活を手にします。

人間性を削ぎ落した操り人形になることが「昇進」「出世」であり、人間をやめられない人間が「負け組」として辛酸をなめる。

そんな世の中で、まともな精神を保てるほうがイカレていると思いませんか?

そりゃあ、依存症にもなりますよ。真面な人こそ、依存症になりますよ。何かに依存でもしなければ、とても命を繋いでいられない世の中です。

それなのに、依存症者は偏見に苦しみ、社会の隅っこに追いやられている。

こんな社会のほうこそ狂っているんじゃないでしょうか。

私はそう思います。

資本主義によって、世の中は物質的には豊かになったかもしれませんが、精神的にはどんどん貧相になっていると思います。

心にはどんどん空白ができて、巨大な穴がぽっかりと空いている。

そんな大きすぎる心の穴を埋めるために、何かに依存するのは、おかしなことではありません。

対人関係に依存したり、物質に依存したり、行為に依存したり、その表出の仕方は人によって様々ですが、根っこは同じです。

依存症の真の課題は、この国、社会のあり方にあると思っています。個人的な問題ではない。

対人関係に依存して、共依存になり、過干渉・イネイブリングなどが多くの人のベースにある。だから、親子関係を含めた人間関係は、当然不健全な形にならざるをえない。

その不健全で歪んだ関係性が、アダルトチルドレンの問題や虐待や家庭内暴力などに繋がっているのではないでしょうか。

医療や福祉では、問題を抱えている「個人」に焦点を当てがちですが、実際は「環境」の問題で、その人はむしろ健全だからこそ病んでいるのではないか、と私は思います。

だから、その人をどうこうしようとしても、意味がない。根本的な解決にはならない。そう思ってしまいます。

なので、これからも社会福祉士として私ができる事を、できる範囲でやっていきます。

 

この地獄を生き抜いていくための処方箋

ここまで読んで「夢も希望もないじゃないか、元気なくなるでしょうが、どうしてくれるんだよ、どうしたらいいんだよ!」とお思いのあなた。

 

たとえ国が腐っていて社会はゴミでも、私たちにはできる事があります。

それは、

①損得勘定抜きで付き合える人間関係を大切にすること

②お金になるかどうかではなく、優しさと思いやりを基準に行動を選択すること

ということです。

 

①損得勘定抜きで付き合える人間関係を大切にすること

ビジネスにおいての損得とか、権威やブランドへの憧れだとか、そういう自分の利益や世間の評価ではなく、あなた自身が「人として純粋に好き、尊敬できる」と思う他人と付き合うことです。

損得なしに助けあえる人との繋がりだけが、残っていくでしょう。

なぜなら、いずれこの社会は終わるからです。

資本主義・合理主義のもと損得で繋がる関係ではなく、愛と共感によって繋がっている関係だけが残る。そんな時代が来ると思います。

そうなったとき、損得で人間関係を選択していた人は、終わります。誰も助けてくれない「孤独」という地獄が待っています。

「人脈」という言葉が好きなビジネスマンは多いですが、ビジネスで繋がっている「人脈」をいくら広げても意味がありません。結局は金回りが悪くなれば離れていく。

見返りを求めない愛情を他人に与えることができる人は、それだけで豊かです。

愛情を受け取った人は、どんな大金をもらうよりも、それが生きていく力になることを、いずれ知るでしょう。

他人に分け与えた愛情は、巡り巡って自分のもとに還ってきます。だから損などするはずがない。他人を含めた世界は、自分と同一であり、世界を愛することは、自分自身を愛することだから。

それに気づいて愛を実践できる人同士は、深く共鳴するでしょう。

損得ではなく愛によって繋がった人間関係を大切にすることです。それが最も価値がある宝です。

この宝が、これから本当に豊かな人生を送ることができる鍵だと思います。

 

②お金になるかどうかではなく、優しさと思いやりを基準に行動を選択すること

①につながりますが、愛というのは行動です。

言葉ではいくら耳障りのよいことを言っていても、行動が伴わない。そんな人はすぐに化けの皮が剥がれるというもの。公約ではいいことを言っていても、当選したら手の平を返す、現代の政治家のようなものですね。

その人が信じるに足る人物かを見極めるときは、その人が何をしているかをよく見るとよいです。

行動が、その人を創り、人となりを表します。

決して、偽善をして気に入られようなどとはしないことです。それは損得です。気に入られることで何かを得よう、というのは、下賤な考えです。今すぐ捨てましょう。

愛とは、何かを与えるかわりに何かを得ようとすることではない。

何も見返りがなくても、与えずにはいられない。そういう行動のことです。

目の前で苦しんでいる人がいたら、自分に何ができるか定かでなくても、駆け寄って手を差し伸べずにはいられない。

目の前で悲しみに暮れる人がいたら、そっと寄り添って肩を抱かずにはいられない。

そういう行動のことです。

それを、日ごろの行動で実践すること。

「変に思われるんじゃないか」

「結局頑張ったって、1円にもならないんじゃないか」

そんな邪念に惑わされないでください。

あなたから生まれた優しさと思いやりを、殺さないでください。

迷うことなく、その人に惜しみなく与えてください。

その行動が、あなたの心を豊かにし、あなたそのものを形づくる。

毎日をそうやって生きていくと、自然とあなたの周りには愛があふれるようになる。

あなたを形づくる行動基準に見合った人々に囲まれて生きていけるようになる。

信頼は、お金では買えません。

信頼関係は、損得では成り立ちません。

その関係性こそ、資本主義の原理原則の外側にある、最も重要な宝です。

それを私たちは、目に見えるわかりやすいお金や権威よりも価値が低いと思っている。ひどい勘違いです。

 

いくら選挙に行っても、政治は良くならないでしょう。

いくら真面目に働いても、私たちは貧しいままでしょう。

人間をやめた人々が構築するこの社会は、崩壊するまで地獄のままでしょう。

 

現代社会の枠の外に、繋がりを求めましょう。

マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻」の外側に、経済とは全く関係のない繋がりと仲間を持つことです。

そのかたちのひとつが「自助グループ」。

だから私は自助グループに属し、利益にならなくても運営に携わっているのかもしれません。

【社会福祉士】社会不信論

社会が信じているのは金である。

なぜならこの社会が資本主義経済社会だからだ。

金が社会の血液なので、金は命よりも重い。そういうふうにできている。

なので、いくら多様性とか平等とか福利厚生とか人権とか訴えても、根本的に無理なのだと思う。

最近そんな風に社会に対して絶望している。

 

この論考の始まりは、会社に対する不信だった。

会社という組織はとても不可解だ。

どうせ金が目当てなのに、大義名分を欲しがる。

いかにも社会に貢献しています、という「建前」を欲しがる。

欲しがるだけでそんなに大切にはしていない。

結局本音がにじみ出る。

 

だから、たとえば製薬会社でいうと、

「新規処方を〇〇例『獲得』する」とか

「恐怖をあおって病気を『つくる』」とか

「医師の『意識に刷り込む』」とか

常軌を逸したとんでもない表現をしがちである。

結局、患者を金づるとしか思っていないので、そういう言葉がでる。

 

何も製薬会社だけではない。

以前勤めていた会社も、同じようなもんだった。

中国から仕入れた粗悪な製品でシステムを組んで、とにかく納品しさえすればあとはトラブルが起きようが何しようが知ったこっちゃないというスタンス。

実際に取引先で損害が出たとき「そんなのうまくごまかして逃げろ」と遠回しに言われて愕然としたのを、昨日のことのように覚えている。全身の力が抜けて徹夜で現場に一人で張り付きまとめた検証報告書を取り落とした。

他の製品もなんだか技術的に心もとない製品で、案の定技術的なトラブルに見舞われたが、誰もケツを拭こうとしなかった。私は担当として必死に最後まで改善提案をし続け、問題は解消されたが、会社は嬉しそうではなかった。

 

つまり、金さえ儲けられれば、他人が困ろうが人が死のうが、心の底ではどうでもいいと思っている。

会社とはそういう組織だ。営利企業という存在のペルソナは偽れない。

業種・規模・業態に関わらず、全てがそうだ。

あんまり表立って困り過ぎたり死に過ぎたりすると、金儲けができなくなるリスクがあるから、最低限のラインを守っているに過ぎない。すべて自分たちの為だ。顧客の為ではない。

 

なので、会社が偽善で耳障りの良いことを口走ると、私は身の毛がよだつような気持ちがする。思ってもないことを言うな、気持ちが悪い、と思う。

でも、社員の大半は、そのおべんちゃらを信じて、あるいは分かっていて放っておくことができる。

それはとても奇妙で理解しがたい。でもそれが普通らしい。本当に意味が分からん。

 

会社は、どれもこれもそんなふうに腐っている。

なので、その会社で回っている社会は、腐らないはずがない。

結局のところ、社会というのは金である。

テレビばかり観ている人にはわからないかもしれないが、政治もすべて金次第で動いていて、自分の権力の座を奪われないための政治家による政治家の為の椅子取りゲームなのだ。そういう茶番だ、あれは。

官僚というやつも、公僕ではなくて、金の下僕だ。

損得勘定ばかり得意な人間がはびこるようにできている。この社会では誰もかれもがマウントを取り合い陣取りゲームをしている。他人を蹴落としても心が痛まないような、人間性に乏しい人間が昇進できるようにできている。

だから、会社の上司がクソなのは当たり前だ。

なぜなら役職が上に行くほどクズになるのだから、当然の帰結だ。何も不思議ではない。

社会的地位があるということは、より賢いクズだという証明でしかない。残念ながら、私は長いことこの社会的地位を求めて命を削るように頑張ってきたわけだが、骨折り損のくたびれ儲けというわけだ。痛恨の極みである。

そんな社会的地位と名声と権力というクソみたいなコレクションを求めて、政治の世界を志すような上昇志向の強い人が、この世の弱者に寄り添えるはずがない。

だから、社会が社会的弱者のことを考えるのは、土台無理な話なのだ。そんな高度な感性が必要な仕事ができるような人種ではないから。

「どうしようもないダメなやつを賢くて偉い俺様たちが救い出してやるか」みたいな考えで制度を考えるから、使えない制度ばかりつくる。

まともに考えているのは、自分たちにご褒美をくれる「スゴイ人たち」に融通を利かして褒めてもらうことだけ。そのためなら社会的弱者など必要な犠牲その1くらいにしか思ってない。だから永遠に社会は良くはならない。

 

こうすればいいとか、ああすればいいとか、そんな希望的観測はこの記事にはない。

このような資本主義経済社会はいずれ崩壊する。もう無理。諦めよう。こんな欠陥システムでは人はどんどん自殺したり餓死したりするだけなので、どこかの時点で転換期がくる。

まあそれで新しい原理の社会ができたとしても、あまり私は手放しに喜ぶ気にはなれない。

今よりはマシだろう。今は地獄だ。マシになるならそれには価値がある。

だけど、仕組みになった時点で効率と合理性に支配されるので、絶対にノイズが発生する。次第に人間側をノイズと考えて、システムが主役になる。だからシステムをつくった時点で、システムはもうすでに終わりに向かって進んでいる。

持続可能なシステムなどない。この完璧に調和しているかのように見える自然界ですら、いずれ太陽とマントルが原因で生き物が住めなくなるのだから。生と死は隣り合わせ、コインの裏表で在り、栄枯盛衰、永遠に続くものなど何一つないのがこの世の常だ。

 

唯一不幸にならない信仰といえば、愛だろうか。

愛と聞くと拒絶反応が起きるというか、むず痒いというか、それこそ建前でおべんちゃらのように聞こえるかもしれない。

しかし、今まで私が出会ってきたなかでは、「愛」これがベストな世界の「通貨」だと思う。

自助グループというのは、非営利で運営されていて、徹底して何の利害関係ももたないように団体の理念が構成されている。

同じような心の穴をもつ人が寄り添い、共感と慈しみによって繋がる。

そこには打算も駆け引きもない。ただただ、弱さという共通点が互いの存在に感謝する心を育み、交流の「通貨」として愛を込める。

まあ、共依存的に歪んだやり取りもぶっちゃけあるにはあるが、それもまた必要だから与えられたものだと理解することができる。謙虚に素直に生きていれば、そんなことを理解できる日がきっとくる。

見返りを求めない、ただただあげっぱなしの愛。

これほど尊いものはなく、価値のあるものはない。

経済的に価値のあるものなど、かすんでしまうほどに、それは光り輝いている。

その生きるために必要不可欠な光が見えなくなってしまったので、人々は病んでいるのだと思う。

陽が陰って澱んだままの部屋の片隅に放置されている、観葉植物のように。

金銭欲や所有欲を貪るのは、水をジャブジャブに植木鉢に注ぐようなもの。

そんなことをすれば草木は根が腐ってしまう。それと同じように、人も性根が腐ってしまう。

 

まあ、もうあーだこーだ言っても、この社会も所属している営利組織も、もう底が知れている。もうダメだ。いっさいは無駄である。

もう、期待するのはやめにしよう。

もっと、大切な目の前にあるリアルな繋がりに愛を注ごう。

損得が無くても関わってくれる人との会話や繋いだ手に、愛をこめよう。

 

【社会福祉士】現代社会が病んだ理由は「理性」

「理性的」というと、一般的には、とても聞こえがよい。

なんだかとてもスラッとしてスマートで無駄が無くてクールな感じがするだろう。

他人を尊重できて、礼儀正しくて、リッチな感じがするだろう。

理性で動くということは、この現代社会において肯定的にとらえられている。

 

「理性」=前頭前野

では、理性とは何か。

理性とは、脳の前頭前野(前頭葉)のことである。

 

引用元:http://www.matsusen.jp/ondoku/ondoku2-3.html

 

大雑把に言えば、感情をコントロールして、脳というチームの中間管理職的な働きをする。

人間は、他の動物に比べて前頭前野がとくに発達している生物である。

それゆえ、言語を持ち、道具を使い、文明を発展させてきたともいえる。人が「人らしさ」を体現しているのが、まさに前頭前野だと言える。

 

引用元:https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku1/kioku1_3.html

 

たとえば、アルコールを飲むと、人は「理性」を失う。

それは、アルコールという物質が脳の前頭前野を鎮静(麻痺)させてしまうからだ。

セクハラをしたり普段言わないことを言ったり、いつもより泣いたり笑ったりするのは、脳が麻痺しているから。その人の本性がダメなわけでも、意志が弱いのでもない。鎮静系の薬物(というか毒物)を体内に入れて「理性」という機能を停止させれば、誰でもいつでもそうなる。それだけだ。

感情をコントロールしたり、記憶に基づいて損得勘定したりすることができなくなってしまうので、その場の欲望に素直になるし、感情的になる。飲み過ぎると記憶もなくなる。

そういう薬物が、アルコールという薬物である。

私は文字通り死ぬ一歩手前で飲んだので、よく知っている(笑)。詳しくは、私のアルコール依存症の過去記事を参照されたし。

 

 

とまあそんなわけで、前頭前野こそ人間様の象徴、理性の源。

まさに前頭前野バンザイ、というわけだが、私はあまりこの理性万能主義とでもいうような現代の流れというか文化的風潮を、よく思っていない。

たしかに人間らしさは突き詰めると前頭前野であり、人間のなかでも前頭前野がより発達しているとすれば「より人間のなかでも人間らしい」個体ということで、他人に比べて優越性を感じるだろう。他者評価というのは常に不公平な相対評価である。

それはわかる。理屈は通っている。

 

引用元:http://www.matsusen.jp/ondoku/ondoku2-3.html

 

しかし一方で、とてもバランスが悪い。

前頭前野だけで考えて「正しい」「優れている」などと考えて決めるのは、早計すぎやしないか、と思うことが、現実には多々あると思っている。

何を言っているかというと、実際に五感をつかってその物質に触れてみて匂いをかいで…経験を経て持つ「実感」と、理屈だけ覚えて分かった気になっている「想像」とでは、大きな乖離がある。

だから前頭前野でばかり物を考えたり決めたりしていると「ズレて」くるということだ。答えが偏るし、ベストだと思った選択が必ずしもベストではない、ということが頻発する。

そういうわけで、その境界線を「肌で感じる」ことをしないで、脳内の仮想空間で分かったつもりになり、経験したつもりになり、とても狭い情報に基づいて可能性や魅力を計算してしまうことは、とても危険だ。

生身の感覚をともなって触れる世界こそが、本当に実在する世界であり、自分との境界線である。、

頭でっかちで自ら不幸になっていく種族、人間。

思えば、自然のなかで遊ぶことが本当に少なくなった。

コンクリートジャングルは、前頭前野の産物である。脳の世界を体現した、まさに「脳の檻」。

その檻の中に己の肉体を閉じ込めて、温度と湿度が管理された空間で季節を感じることもなく、朝から晩までPCやLEDの強い光に煌々と照らされて、私たちは毎日を過ごしている。

そのおかげで、自律神経はおかしくなり、うつになったり不眠になったり。その不調を治すためにはお金がいるので、さらに「脳の檻」のなかでほしくもないお金を求めて働かざるを得ない。

そんなの、生き物として不健康に決まっている。

 

人と人との繋がりは、どんどん希薄になったと思う。

実際に出会って手と手で触れて、同じものを見たり同じものを食べたりすることが、とても少なくなった。そういったことは「コスパが悪い」と言って切り捨てられた。

感情を表出することは「損をすること」で「未熟な人がすること」という『理性教』の偉大なる教えのもと、金銭的な不利益をこうむりたくないという損得もあいまって、人は気持ちに向き合うのをやめた。

自分の気持ちも他人の気持ちも、恐ろしいので目を逸らしている。

だから皆、さびしくてたまらないのである。

だから、怖くなったら簡単に終わらせることができるインスタントな繋がりにその寂しさの埋め合わせを求めて、お金で買える関係性(キャバクラ・ホスト・パパ活など)やSNS・Vtuberなどの仮想空間での関係性に群がる。

しかし、抱えた心の穴によってお互いを傷つけあい摩擦を起こしている。とても哀れだ。

喉が渇いていて水を求めているのに、水を飲む映像をいくら見ても渇きは癒えない。実際に水を飲むしか解決策はない。そんな感じだ。しかし、水を飲み込むのが怖いので、水を飲む映像を四六時中みながら涙を流して「喉が渇いた」と嘆いている人々。

 

これが、みんなが目を背けている、現実である。

 

前頭前野=理性を神と崇め奉り、人として最も優れた重要な特性なのだと信じて突っ走ってきた人類史のどん詰まりである。

幸せってなんだっけ?と思わないか。

もっと何もなかった時代のほうが幸せだったのではないか。

草木を愛で、山河に感謝し、朝日や月に祈り、ともに暮らす人を愛して生きていた時代と比べて、人は進化したのだろうか。退化したのではないだろうか。

その元凶が、理性至上主義・論理的思考ではないだろうか。

 

理性とは、世界のとらえ方の一つに過ぎない。

「はい論破」

論理で相手を言い負かしマウントを取るこのセリフが、子供たちの間では流行ってるという。

そんな児戯で天狗になりニヤニヤしているような人間は本当に「安い」。

人としての有り様がチープだとしか言いようがない。薄っぺらい。

「論理的思考というのはレゴのようなもの」だと岡田斗司夫さんが語っているのを聞いたことがある。まさしくそうだと私も思う。

しかし、こういう幼い人が、社会においては「優秀な人」「デキる人」「勝ち組」である。

私はこんなクズどもを結婚相手に選ぶとか趣味が悪いにもほどがあると思うけど、みんなこういう人がいいらしい(笑)。

 

理性とは、ものの考え方であり、捉え方の一つでしかない。

実際に体験して掴み取った実感が、あなたにとってのこの世界の真実であり、あなたの世界のカタチをつくっていく。

礎となる体験がないまま頭でわかった気になっても、実際は少しの拡がりもない。

成果や結果は運である。自分の能力で影響して予想した通りに動かしたように見えたとしても、それは思い込みである。

世界には世界の大きな理があり、それは人類なんかには到底コントロールできないものである。それを知らずに「コントロールできる」と得意になっているのは、お釈迦様の手の上の孫悟空そのものだ。

しかし、この前頭前野が発達していると自称する全てのエリートたちは、そろってみんな思い違いをしている。

「世界を持続可能にするため」

「もっと良い社会をつくるため」

「みんなを幸せにするため」

という共通のうわ言を言いながら、本当にこの理性だけで世界を改変しようとするから驚きである。

その改変は、総じて改悪にしかならない。

なぜなら、原理原則である「実感」が伴わない限り、頭のなかでの思考は「ゲーム」の域を出ないからである。

今人々がやっているのは、生きることではない。ゲームなのである。

世界のどこかで遊び半分でお金をもっともっと集めようとするプレイヤーが、世界のどこかで負けたプレイヤーを現実に餓死させたり自殺させたりしている。それがこの資本主義経済社会。新自由主義、グローバリズムを加速させて「進化した現代社会」である。控えめに言って地獄である。退化の間違いでは?

このゲームが好きなプレーヤーたちは、もっと効率的に、もっと自分たちがゲームしやすいように、ゲーム設定までいじろうとしている。

ゲームはゲームであって、他人の命を取る権利は、誰にもない。

前頭前野が他人より大きく発達しているから人殺しをしてもいいというのであれば、それは動物以下の行動原理ではないか。

 

最も持続可能な世界の原理原則は、愛。

なんでこんなにもこのゲームはつまらないのだろうか。

それは、最も重要な生命の行動原理、生命の象徴である「愛」がゴッソリ抜けているからだ。

 

愛情のホルモンであるオキシトシンは、脳下垂体後葉から分泌される。

 

引用元:https://www.chugai-pharm.co.jp/ptn/medicine/karada/karada021.html

 

引用元:http://dogwan.jp/information/index.php?%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%96%BE%E6%82%A3%2F%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E6%A9%9F%E8%83%BD

 

脳下垂体(下垂体)は、前頭前野を含む大脳皮質よりもずっと古くから生物に存在してきた、ベースの脳部位である。

つまり、新参者の前頭前野よりも、よっぽど長く生命を支えてきた脳の根幹だ。

そこから分泌されるオキシトシンは、幸せや安心を感じるホルモンである。

オキシトシンは、長期的なこの内因性オピオイド(エンドルフィンなど)の分泌を促し報酬効果を増強する作用があるといわれています。また、オキシトシンはストレスホルモン(コルチコステロイド)を抑制する作用もあります。

つまり、ずっと幸せに生きるための脳内麻薬の効きを良くしてくれてストレスを感じにくくしてくれる、安心と幸せのホルモンなのです。

引用元:【メンタル】知ってるつもりでよく知らない「ホルモン」のトリセツ③(セロトニン・オキシトシン・エストロゲン)

 

この愛を失ってしまって、人は代替的に様々なことを試してみたけれども、全然うまくいきませんでした、というのが、今の現状なんだと思う。

それを理性を基にひねり出したテックやらでなんとか誤魔化そうとまだ否認を続けているのが、現代の人間たちだ。

アルコール依存症の当事者が「オレはまだアル中じゃねー!減酒でイケる!」とか言ってなんとかしようとしているのと同じだ。そういう人は否認していることを認めるまで、何回でもズタボロになって入院しにくる。否認の病、とはよく言ったものだ。

そんなふうに「まだ理性でなんとかイケる!他の人間はバカだから無理だけど俺なら優秀だから理性で世界を変えられる!アホどもと一緒にすんじゃねー!!」とか言って世界をこねくり回して何とかしようとしている人たち。

「愛なしにはすべて無理だったんだ」と悟るまで、あと何回人を殺して、あと何回失敗するのだろう。

アルコール依存症では「底つき」と言って、仕事も家族も生きる希望を何もかもすべて失ってはじめて「自分ではどうにもならなかったこと」を認める。

無力を認める、ということは、本当に難しい。

勇気と謙虚さを持つものにしかできないことだからだ。簡単ではない。

自分の無力を認めて、世界のあるがままに委ねる。

そういう真の賢さを持つ人が、理性の信者に代わって、この世に残るだろう。

それはごく少数かもしれない。それまでにとてもたくさんの命とかけがえのないものが失われるかもしれない。

もはやすでに残された時間は、ほんのわずかになってから立ち返るのかもしれない。

でも、それも人類という種族の宿命だったのだろうと思う。

「恐竜がでかくなりすぎて氷河期に絶滅したように、次は愚かな人間という生き物が一世を風靡したんだけど、前頭前野をアホみたいに信じまくって突っ走った結果、もっと生きられただろうに早期に自滅したんよ( ̄∇ ̄;)ハッハッハウケる」というような歴史を、のちに現れた知的生命体がシェアしている。

そんな未来も近いのかもしれない。

【社会福祉士】この世の虚しさについて

なんかめっちゃ疲れた。

最近とても疲れることがある。

何にかというと、世の中や人との関わりにまつわる虚しさに。

 

会社(仕事)の虚しさ

会社での仕事なんてまさにそうで、虚しさの塊みたいなところだ。

昨日社内テストがあって、取り扱っている製品について何時間も解かされて疲れた。

しかも、「○○○○試験において、試験の背景はどうだったか?」みたいなクソどうでもいい内容のテストだ。

なんでクソどうでもいいかというと、そんなのパンフレット読めば書いてあるからだ。覚えなくていい。暗記する必要が無いので、問題にする意味がない。

問題を作っている人の意図は「営業の人たちの理解が深まるように」ではない。

「デキない人だという理由を積み重ねてしかるべきときに楽にリストラできるように」というのが目的だ。

それが見え透いているから、心底くだらねぇなぁと思う。

私はそういう実質的に私にとっても世の中にとっても意味がないものにはやる気がしない人だ。

よくこんな無意味な問題をつくっていて、自分は仕事してる、給料をもらう価値がある、と思えるよな、と思う。

私が問題作成者側だったら嫌になって会社やめるレベル。子どもに胸を張って言える内容ではない。

役員も株主の顔色をうかがいながら、既成事実の捏造のために下に当たり散らして、権力者にはこびへつらう。やっているのはそれだけだ。

美辞麗句を並べ見た目ばかり取り繕って中身がスッカスカ。まるで私の実家のような吐き気を催す邪悪そのものじゃないか。

こんなオママゴトみたいな仕事で、人間本来のライフサイクルから外れたゲスくてつまらない仕事もどきのほうが、実際に食べ物を作ったりお世話が必要な人を助けている人々の仕事より実入りがいいなんて、世の中ってお金って何なんだろうな、と思わざるを得ない。

 

善行 でもそう

他人のためにどうのこうのというのも、同じようにくだらない。

結局、全部自分のためなんよ。

耳障りの良いこと言っているけど、結局は他人の役に立つ自分なら少しは好きになれたり、マシに思えたりするから人助けをしているだけ。

つまり自分を好きになりたいから他人を助けている。

それを見失っている人は感謝や尊敬という見返りが得られないと分かると途端に、「せっかくやってあげたのに」とか「恩知らずだ」とか急に被害者ぶって手助けしていたはずがいつの間にか加害者側に180度反転している。おそろしいことだ。

重要な決定は誰もがしたくない。責任を取りたい人なんていない。

だけどいつか誰かが決めなくてはいけない。

その役割をやってもらっておきながら、文句言いや責任追及だけはいっちょまえにする人がいる。ホント、どんだけ都合がいいんだよ、と思う。

私は何かを決めるときには、良い面も悪い面も責任を持つつもりで決定する。

だから後でなんだかんだと後付けで言われることも引き受ける前提で考えをまとめて、それを私の意見として話す。

いろんな場面でそんなことがあり、結果的に私が提唱した案が採用されて状況が動くこともよくある。

経験しているからわかるんだけど、ほとんどの場合、思うように感謝されたりしない。

全方位的にうまくいくような解決策を制限時間内に定めることはほぼ不可能なので、どこかで負荷がかかるし何かを満たせないことはある意味しょうがない。

だけど代替案も出さないような無責任なやつが往々にして「これが問題だった」「あれが想定できていないからストレスがかかった」などと騒ぎだして、ちあきのやった方法は間違いだったんじゃないか?などと最終的には救おうとした人にまで後ろ指を指される。

知ってる。

そうなるって知ってた。

だから静観することもできた。

だけど、それは嫌だからやった。

だから納得してる。

だけど、虚しいわ。正直。

頑張ったよ、俺だって。いろんな方法を考えて、最も最適だとその時判断したことに、誰も異議を唱えなかったじゃん。でも、結局何か言われるのは決断を下した人なんだよな。

頭のなかのもう一人が「そんなに苦しむだけなんだったら、関わらなきゃいいじゃん」という。

そうだよなぁ。その通りだと思う。

でも俺は、見て見ぬふりしてだんまりを決め込むほうがもっと夢見が悪いんだよ。

だから致し方ない。

私はそれ以外を選べなかったし、無責任に途中で放り出すこともできない人間なんだ。

 

社会支援 でもそう

何かしらの啓発だってそうだ。

私は好きでやっているし、やれる範囲でやっている。

これ以上もこれ以下もない。

使命感とやらで無理をしてやっても、最終的には押し付けにしかならない。

自分がやらないと居ても立っても居られない気持ちになり、落ち着かないからやっているだけ。

こうなったらいいな、と思うことは勝手だけれど、その通りになることが必ずしも正しいわけでは無いんだよ。

それぞれがそれぞれに在るように在るだけで、クズはクズでいるのが自然だし、良心がある人は良心に従って生きていくだけ。脅威や侵略をする哀れな生き物(他人の権利を侵害するタイプのホモサピエンス)からは、知恵ある我々が逃れるしかない。必要なら本人が必要な手段で必要な対策を講じるサポートをすればいいだけ。

結局は、本人がどう生きたいか決める。

私たちは、自分が、どう人生を生きるかに責任があるだけであって、それ以外は結局どこまで行っても他人事なんだよ。

あーだこーだ言ったところで、私たちは私たち自身が幸せに生きること以上にできる事など、実は何もない。

正直、私は他人の人生は結構どうでもいいし、割と信頼している。信頼しているというのは、勝手にがんばるし、勝手に幸せになる力を持っている。

助けるというのは本来おこがましくて、その人に手を貸した結果、その人の力で勝手に助かるだけだ。私はただ手を貸すということを、したいからしただけ、余裕があるからしただけ。

余裕がないのに他人の手を掴もうとするのは、逆に奈落に引きずり込んでいる。

まずは自分の足場をしっかり固めないと、一緒に落ちていくだけだ。

そのあたりを自覚しないで、他人とより多くよりしっかりと手を繋いでいることを誇るような支援者や啓発者は、自分が助けているのではなくて、自分がその人たちが困っていることで助けられているだけだ。自らの存在意義を確認するために、その人たちを遠回しに利用しているだけ。

その辺の薄気味が悪い偽善が垣間見えて、なんだか萎える。

 

 

まあ、今日は唯々愚痴を言うだけのブログになってしまったけど、何とか生きている。

こんな感じに落ち込むことはよくあること。というか、酒を飲んでいたころはいつもそういう不快感があったから酒に逃げていただけで、酒が無い今表面化するのは当たり前。

この虚しさを受け容れてもなおできるだけ楽しく生きようとしているだけでも、というかそういう姿勢こそが、回復した証拠だよな、と思う。

前なら死んじゃいたかったからな。つまんなすぎて。

動物も娘もかわいいし、捨てたもんじゃないよな、と思う瞬間があるから、私はまだ虚しくてもやっていけるし、楽しみを見つけるセンサーの感度を取り戻しつつある。

マザーテレサが言うように、他人がどう反応しようとも実は関係なくて、私のなかの最良のものを手渡すことが、自分の為なのだ。他人との間のことは一つもなく、私と私のなかの魂とのやり取りなのだ。

だから、反応が返ってこなくとも、逆恨みされようとも、動揺せずにできることをするだけなのだ。人生はそれだけだ。

そしてそれが一番遠回りのように見えるが、最終的に私がたどり着きたい場所への一番の近道になる。

他人に後ろ盾を求めたり、責任を押し付けたりすることは、もう卒業したからこそ、世の中に蔓延るそれらが浮き彫りになってきただけだ。

そう信じて、休み休み生きていきたいと思う。

【仕事】働きながら専門学校に行きたい人が押さえるべき4つのポイント

このたび、私は2年間かけて社会福祉士という国家資格に挑みました。

働きながら国家資格(社会福祉士)を取るってどんな感じなの?

特に何を押さえればいいの?

という疑問にこたえようと、まとめてみました。

 

「社会福祉士」とは?

社会福祉士は、いわゆる「ソーシャルワーカー」と呼ばれる社会福祉専門職の国家資格です。

身体的・精神的・経済的なハンディキャップのある人から相談を受け、日常生活がスムーズに営めるように支援を行ったり、困っていることを解決できるように支えたりすることが主な仕事となります。

また、他分野の専門職などと連携して包括的に支援を進めたり、社会資源などを開発したりする役割も求められます。地域を基盤として、さまざまな場所で活躍しています。

1987年の「社会福祉士及び介護福祉士法」制定と同時に誕生し、少子高齢社会がすすみ、さまざまな福祉的課題が注目される現在、社会福祉士への期待はますます高まってきています。

 

※国家資格には「名称独占」と「業務独占」の2種類の資格がありますが、社会福祉士の資格は「名称独占」です。資格を持っている人だけが「社会福祉士」と名乗れますが、業務に関しては資格を持っていない人も行うことが可能です。医師や看護師などの資格は「業務独占」となります。

 

仕事の内容は?

社会福祉士の仕事の範囲や対象は多岐にわたります。

お年寄りや身体・知的障害者、ひとり親家庭などの相談にのり、それぞれの状況に応じた支援を行います。また、行政や医療機関など各関連施設をつなぐ役割も担います。

社会福祉士資格取得者が働く職場としては社会福祉施設等が多く、その他社会福祉協議会、医療機関、行政機関、独立型社会福祉士事務所等が代表的なものです。

 

資格を取るまでの道のりは?

社会福祉士の資格を得るためには、「社会福祉士国家試験」に合格しなければなりません。

国家試験を受けるまでにはさまざまな道のりがありますが、大きくは大学等で指定科目を履修する、短大等で指定科目を履修して実務1~2年を経験する、養成施設を経る、指定施設で実務を5年以上経験するという4つのルートに分けられます。

※受験資格の詳細は、公益財団法人社会福祉振興・試験センターを参照ください。

 

つまり、現在働いている人で全く福祉にかかわりがなかった人で、4年制大学を卒業している人は、社会福祉士一般養成施設(実習込みの福祉系専門学校)に1年以上行けば国家試験を受ける権利を得ることができる、ということです。

 

社会福祉士国家試験について

国家試験は、年1回2月初旬に行われます。

筆記試験のみで、5つの選択肢から原則、正しいもの(適切なもの)を選ぶ形式です。

だいたい毎年4万人くらいが受験して、1万人くらいが合格(合格率25~30%)の試験です。

 

■第31回(2018年度)受験データ(厚生労働省発表)

受験者数/41,639名(43,937名)
合格者数/12,456名(13,288名)
合格率/29.9%(30.2%)
*( )内は前年データ。

 

参考:社会福祉士とは?(中央法規)

 

働きながら通える通信制専門学校

1年8ヶ月、私は専門学校生となり、無事卒業しました。

肝心な学費は、トータル 36~40万円前後でした。(教科書・実習費用込み)

「スクーリング」という学校へ実際に行き、講義を受ける日が11日間あります。いずれも、土日や大型連休に合わせて、仕事に支障があまりないようにスケジューリングされています。

「レポート」の提出が通学の証明となります。2か月に1回4通、40回ほど、約2000字のレポートを提出しました。これは仕事をしながら、空いた時間を見つけて書きます。テキストを読み、設問に対応する小論文を作成するようなイメージです。これで、100点満点中60点以上を毎回とれば、無事卒業となります。

「相談援助実習」が、働いている人には一番厄介です。

入学時に実務経験が1年未満の方(2020年3月31日時点で実務経験が1年以上ない方)は「相談援助実習」の履修が必要です。社会福祉の現場で実習を行い、相談援助に関する専門知識や専門援助技術、関連知識を学びます。

実習は、学校が指定する施設において、180時間以上(23日間)実施します。

時期は、スクーリング「相談援助実習指導(実習前)」受講後、だいたい1月~8月となります。

参考:日本福祉教育専門学校HP 四国中央医療福祉総合学院HP

 

押さえるべきポイント1:あらかじめ上司に了解を取る

事前に許可を取らなくてはならないのは、「相談援助実習」の実習期間、休みをいただくことです。

180時間以上(23日間)というと、ほぼ1ヶ月まるまる職場を離れることになります。なぜなら、実習は可能な限り連続して経験しなくてはいけないからです。

なので、どうしても出席しなくてはいけない会議以外はすべて有給休暇や代休を繋げて休ませてもらうことに、上司に了解をもらわなくてはなりません。

有給休暇は労働者の義務なので、本来であれば自由に取る権利があります。なので、上司が「困る」と言ったとしても、権利を行使して強行することは可能です。

しかし、現実的には一応了解をとるのが一般常識とされているので、事前に相談しておきましょう。あとあと「聞いていなかった!」などと騒がれて実習中に連絡されても迷惑ですし。

ちなみに、私は事前に直属の上司とその上長とその上にも了解を取り入学手続きをしたにもかかわらず、夏が来て休むことを改めて確認したとき「聞いてない!」と言われ、呆れ返りました。聞いていないわけないだろ、アホか。

 

押さえるべきポイント2:あえて仕事を詰めこみ過ぎない

実は、レポートが結構大変です。

学校によっては、手書きを強要されたりします。(コピペ防止のため)

私の通っていた学校も途中まで手書きでした。私は課題をため込む典型的なサボりタイプなので、2か月ごとに2000字×4通=8000字のレポートを一晩で書いたりする羽目になり、泣きそうになりながら腱鞘炎一歩手前の手を引きずり、なんとか卒業した感があります。

真面目な皆さんにおかれましては、こんなことはないかもしれませんが、日ごろの仕事を詰め込み過ぎると、こんなことになってしまうかもしれません。

私は仕事で手を抜くことが当時、とても下手っぴだったので、全力でやって夜は泥のように眠り、土日は疲れて何もできない、ということになっていました。

なので、学校に通いだしたら、少し仕事のスケジュールは楽をするようなイメージでスケジューリングして、レポートを書く時間を少し開けるくらいの余裕があったほうが、いいなと思います。

土日にやろうと思っても、結構やれません。家庭の用事が入ったり、スクーリングが入ったり、結構時間ないです。平日にやれるように、調整したほうが無難です。

 

押さえるべきポイント3:試験対策は3ヶ月前からはじめると楽

せっかく2年近く学校に通っても、国家試験に合格できなくては当初目的としていた「社会福祉士」は取れません。

なので、国家試験の試験勉強はしっかりやる時間を必ず確保しましょう。

19科目あり、そのどれかで0点科目があると無条件で落ちます。

合計で60%が合格ラインとされていますが、その年の難易度により合格ラインは上下します。

だいたい100点以上取れていれば確実ですが、そうすると67%、約70%点数を取れなくてはなりません。この点数は過去問を見ていただいたら分かると思うのですが、結構勉強しないと取れません。

少なくとも3ヶ月は真面目に勉強する時間を設けたほうが無難です。

私の参考にならない試験対策レポートを、以前ブログにあげたので、もしよかったらご覧ください。勉強方法だけは参考になるかもしれません。

【社会福祉士】私はこうして5日間で合格率30%の国家試験に合格した(2020年最新版)

 

押さえるべきポイント4:学費サポートを活用する

失敗したのがこれです。
「専門実践教育訓練給付金」というのがあります。

「学費クッソ高いやん…」と思った方。ちゃんと卒業したら、お金50%戻ってきます。

教育訓練経費(学費)の50%に相当する額(最大40万円)が支給されます。さらに、資格取得をし、かつ修了した日の翌日から1年以内に一般被保険者として雇用された場合、教育訓練経費(学費)の20%(上限16万円)が追加で支給されます。

私はこれの申請時期をうっかり逃してしまいました。妻にめっちゃ怒られました。学費が40万円だったら、20万円返ってくるからです。

これはマジで本当に後悔しているので、専門学校の人によく話を聞き、ハローワークで現職の勤務状況と照らし合わせて支給対象になるか確認に行きましょう。ハローワークで所定の手続きが必要だからです。

※制度に関する詳細は最寄のハローワークへお問い合わせください。

 

まとめ:仕事をしながら資格取得するのは楽しい

「仕事をしながら学校なんて通えるかな」

「私はそんな余裕ないから」

と思って、興味がある資格取得を諦めかけている、そこのあなた。

やる前から諦めてしまったら、もったいないですよ。

あなたなら、できます。大丈夫。

 

資格取得のために通学する学校では、同じように働きながら資格取得を目指す仲間に会えます。本当にみんないろいろな仕事をしていて、異なる人生経験を積んでいます。全く知らなかった世界が開けます。それだけでも、学費を出して知らない世界に飛び込む価値があります。
トライすることに意味があります。応援しています。

【社会福祉士】私はこうして5日間で合格率30%の国家試験に合格した(2020年最新版)

働きながら社会福祉士を目指してきました。

先日の国家試験で無事合格点を取ることができました。

☆第32回社会福祉士国家試験 合格基準情報:更新しました(3/13)☆

ボーダー:88/150点(58.6%)
共通免除:37/67点(55.2%)
合格率:11,612人/39,629人 29.3%

 

 

実は今回、私は仕事の都合で、試験1週間前まで全く準備ができませんでした。

 

育児・家事・仕事…毎日忙殺されており、「直前にやったってもうダメかな…」とも思いましたが、何十万円もかけて有給も代休もつぎ込んで専門学校を卒業したのに、最後まであきらめるわけにはいかない、ということで、5日間徹底して対策しました

その結果が上記の結果というわけです。

 

もしかしたら誰かの参考になるかもしれないので、一度振り返ってみたいと思います。

 

社会福祉士国家試験って?

今回私が挑んだ試験の概要について、まずは整理して皆さんと共有したいと思います。

 

そもそも「社会福祉士」とは?

社会福祉士は厚生労働省の主管する国家資格であり、国家試験に合格することで資格を取得できます。

資格の種類は「名称独占資格」と呼ばれるものであり、社会福祉士と名乗って働くためには資格が必須であるものの、「業務独占資格」とは異なり、相談対応業務などは資格がなくても行えます。

しかし、さまざまな相談に応じるためには、福祉、行政、医学、心理学など、複数の分野にわたる深い専門知識が不可欠です。

このため、相談対応業務を担うソーシャルワーカーになる場合、社会福祉士の資格取得を目指すことが一般的となっています。

就職する際にも、国家資格がないとそもそも採用対象とならないケースも数多くありますので、ぜひ資格を取得しておくべきです。

 

社会福祉士国家試験の難易度は?

社会福祉士国家試験の合格率は、近年25%~30%前後という低い水準で推移しています。

社会福祉士国家試験では、全18科目に及ぶ幅広い内容の問題が出題されますので、覚えなければならない知識量は膨大です。

合格するために必要な勉強時間はおよそ300時間がひとつの目安とされており、1年ほどの期間を設けて受験対策を行うケースが一般的です。

社会福祉士国家試験の合格基準は2つあり、1つは全科目合計で約60%以上得点すること、2つめは全科目で1点以上得点することです。

つまり、8割も9割も得点できる実力は必要ない一方、ひとつでも0点の科目があると、全体でいくら高得点を取っても不合格となってしまいます。

このため、社会福祉士国家試験においては、得意科目を伸ばすことよりも、苦手科目をなくすことのほうがはるかに重要です。

 

社会福祉士国家試験合格率は?

社会福祉士国家試験の合格率は30%弱を推移しています。

平成30年度の合格率は29.9%となりました。

結構厳しいです。

 

参考;社会福祉士の仕事 キャリアガーデン より

 

 

前提:狂っていると思うほど「勉強一色」に生活を振り切る

さて、私はASD(自閉症スペクトラム)なので、複数のことは同時にできません。

何かが気にかかると、気もそぞろで、いくら勉強しても記憶にも残らないし、簡単なミスをしてしまいます。

だから、勉強すると決めたなら、24時間勉強の為だけに時間を使うことを覚悟します。

そのためには、子どもと妻には実家に帰ってもらい、家事と育児に煩わされないように協力してもらい、仕事は一切せず、勉強だけに集中できる環境を創ること。

 

誰に何を思われるとか、何を言われるとか、一切気にする必要はありません。

今すべきは、試験勉強。

今考えるべきは、試験に合格すること。

それ以外は、何もかも試験が終わってから考えればいい。

 

そう覚悟することが大事です。

 

そうすると、1本の芯が自分のなかにスッと通り、シンプルな覚悟ができます。

食事と睡眠と、適度な運動。

それ以外のありとあらゆるリソースは、全て今この時は勉強だけに向ける覚悟。

それを持ち鉄の意志で実行する、強固な狂気を持ちましょう。

 

勉強方法:覚悟は決まった。では、何をするか?

私がやったことは3つ。使ったツールも3つです。シンプルです。

 

〇やったこと:

①過去問題集を解く ②全く知らない人に説明を聞いてもらう ③動画で単語を覚える

 

●使ったツール

①過去問題集 ②LINE電話 ③Youtube

 

順に説明していきます。

 

勉強法①:過去問題集を4年分、2回やる

過去問題集は4年分のものを購入しましょう。

 

 

本当は6年分(3年分を2冊買う)やると完璧ですが、最低限4年やっておく必要があります。

なぜか?

あらゆる試験はだいたい3~4年周期で同じ問題が出題されることが多いからです。

なぜなら、重要な点や問題に出しやすいポイントはだいたい決まっているからです。

試験の出題者は、手を変え品を変え、毎年試験問題をつくってくださるわけですが、同じ内容の試験である以上、バリエーションは限られ、どうしても一定の傾向が生まれます。

私たちは試験に受かることを目的としています。

つまり、主眼に置くべきは、内容を理解することではなく、得点を取ることです。

なので、最悪問題の内容が理解できていなくてもいい。

「この選択肢は間違い」「この選択肢はあっている」ということが判別できるかどうか、これだけが重要と言っても過言ではありません。

 

そう考えると、過去問は過去に出題されたことのある問題の結晶です。

過去問を解くことが、最も合格に必要な内容を把握し、出題傾向を見るのに最適な勉強法なのです。

 

1週目:解くのではなく、解答を書き込む

勉強していないし、テキストも見ていない私のような人が1回目に問題を解いてわかるでしょうか。

いいえ、全くわかりません。

ウンウンうなっていても正解はほぼ出てきません。時間の無駄です。

なので、以下の流れでどんどん問題に書き込んでいきます。

①問題を読む

②少し考える

③解答を見る

④正解の選択肢にアンダーラインを引く

⑤不正解の選択肢の間違っている個所を、正しい内容に修正する

問題解いてないじゃん、と思う人もいるでしょう。

でも、これで何がいいかというと、とにかくこれを繰り返すことにより、正しい選択肢の文章だけが頭に入っていき、間違った選択肢を見ると「得も言われぬ違和感」が生まれるようになります。

たとえば、社会福祉士国家試験では、こんな選択肢が来ると「怪しい」という感覚をもつようになりました。

1、末尾が否定形で終わる「~してはいけない」「~ではない」

2、「全て」や「全く」という極端な表現

3、「都道府県」と「市町村」(入れ替えられているパターン)

4、根拠法(内容はあっているが根拠法が違うパターン)

このように、入れ替えやすいポイントや、出題のパターンはだいたい決まっています。

4年分解くことにより、だいたいこういうのは合っていて、こういうのは違う、という傾向を学びます。

 

2週目:科目ごとに正解の選択肢を読み込む

社会福祉士は合計18科目あります。

1週目は、通しでそれらすべてを出題の流れのままに現在から過去の時系列で解いていきました。

2週目は、科目ごとに4年分、書き込んでいった正解文を読んでいきます。

なぜか?

科目ごとに、毎年だいたい出題されている問題や傾向が似通っていることに気づけるからです。

「この問題、さっきの年の過去問にもなかったっけ?」という選択肢の設問が必ず出てきますし、この科目はだいたいこういうことを質問してくるな、というのがわかります。

それに合わせて、1週目に書き込んだ正解になっている選択肢を読み、正解だけを頭に叩き込みます。

 

つまり、「解かない。正解を書き込み、読み込む。」

これが私にとって最も効率の良い試験勉強方法です。

 

勉強法②:この試験について知らない人に説明する

しかし、150問あるこの試験を4年分、600問を2回もやるのは、人間、飽きます。

しかも5日で終わらせなくてはならないので、1日当たり240問やる計算になります。

簡単に、メンタルが死にます。

 

そこで、人に教えるつもりで聞いてもらう、というのがあります。

私はLINE電話で聞いてもらいました。

「それ知ってるよ!前こんなので出てたよ」とか

「へー。じゃあこういう場合はどうなの?」とか

読んでいる正解の問題文について声に出して読み、ときには質問してもらいましょう。

 

そうすることで、「この問題はあのときこう話したやつだな」というふうにエピソード記憶になりやすくなります。

短期記憶はすぐに失われますが、一度人と話した経験としてエピソード記憶にして海馬に記憶させてしまえば、そう簡単に忘れないで済みます。

「あ!またシーボーム報告出てきたわー、何回やんねん」などと突っ込みを入れたりしながら、楽しく親しい人と話しましょう。

相手に反応させるのは負担をかけてしまうと気が咎めるなら、電話だけ繋げてもらって、相手には聞き流してもらっているだけでもいいでしょう。

電話の向こうに誰かいる。

それだけで人はなかなかどうして、張り切ってしゃべるものです。

言葉に出したり、線を引いたり、考えながら手や口を動かすことで、聴覚や視覚でも情報を脳に入れることができるので、脳の機能から考えても、格段に覚えやすくなります。

 

勉強法③:解くのにも読むのにも飽きたら、観る(Youtubeを活用)

私は、Youtubeで「ほいくん」さんの動画を観て聴いて、頻出単語を覚えていきました。

非常にテンポが良く、絵心あふれる絵を描いてくださったり、笑えて最高でした。

最後に振り返りをしてくれるのがとてもよく、おすすめです。

これを聞きながら寝たり、なんとなく問題をやる気がしないときや話すのが疲れたときには、諦めてこの動画をみながら休憩しました。

 

人名、制度名、年号など、歴史系の問題と知識系の問題は、覚えていなくてはどうしても解けない、逆に言えば、覚えていさえすれば選択肢を絞り正解を導き出すことができる要素が必ず存在します。

そういう意味では、暗記は避けて通れません。せめて楽しくやりましょう。

 

まとめ:

いかがでしたか?

私は5日間、6時に起きて20時に寝る生活の中で、1時間のランニングと1回15分の食事以外は、生活のすべてを、勉強につぎ込みました。

 

それだけ突き詰めて狂ったようにやれば、嫌でも頭は試験問題だけでいっぱいになります。

もうこの5日間は、これ以上できなかった、とふっ切れます。

腱鞘炎になりそうな手でたくさん書き込んだ過去問題集は、会場に持っていきましょう。

「私はこれだけたくさんの問題をやった」という確固たる事実。

それが手元にあると、自信になります。努力の証は、お守りになります。

 

私のやった勉強は、こんな感じです。

参考になれば幸いです。

【社会福祉】社会的スティグマとジェンダーロールに関する個人的見解

なんだか、生きづらい世の中ですね。

しんどすぎて、たまにくじけそうになりますね。

生きづらさについて、社会的スティグマとジェンダーロールについて考えてみました。

世間に誤解されて孤立する依存症

近年、覚せい剤取締法違反で芸能人や官庁職員が逮捕されるニュースが相次いで報道されている。

ワイドショーなどで面白おかしく取り上げられ、刑務所から出てくる前に完治させよ、というような暴力的な議論が笑いを交えながら展開されていることに戦慄を感じざるを得ない。

サイモン・フレーザー大学のブルース・アレクサンダー博士による有名な「ラットパーク」の試験で明らかになっているように、ネズミをモルヒネに耽溺させるのは、モルヒネという依存性薬物の存在ではなく、孤独で、自由のきかない窮屈な環境、すなわち「孤立」である、ということである。

このことはそのまま人間にも当てはまる。

薬物を使ったことがある人が必ず薬物依存症になるのかといえば、実は必ずしもそうではない。

たとえば酒などは、日本において宗教的にも深く文化に関わっているため成人したらほぼ全員が口にする機会がある。その後習慣飲酒になるか機会飲酒になるかは個人により様々だが、少なくとも依存性のあるアルコールを摂取することによりすぐに依存症が発症するわけではない。

では何が依存症にさせるのか?といえば、先に挙げた社会的な疎外感や孤独感ではないだろうか。

「社会的スティグマ」という社会的に望ましくないレッテルは、依存症という課題に直結していると考えている。

 

 

社会的スティグマが依存症からの回復を妨げている

社会的スティグマの観点からこの日本社会の不自由さに目を向けてみたい。

薬物を使用して警察に逮捕されると、犯罪者という耐えがたいレッテルを貼られて刑務所に収容される。一度踏み外してしまえば、「受刑者」「前科者」のいうスティグマを抱えて生きる人生から逃れることはできない。

なぜなら、学校や社会で間違った依存症教育が行われ、「1回でも薬物を経験すると、薬物の快感が脳に刻印付けられ、脳がハイジャックされてしまい、もう正常な判断はできなくなる」と『ダメ絶対』な教え込まれてきたからである。

実際はそうではなく、社会的孤立感や生きづらさから依存性薬物に頼り、依存から抜けられなくなったのであって、根本原因は人と人との繋がりの病であるにも関わらず、社会的スティグマを抱えさせられた薬物依存症者は社会的にさらに孤立した立場に追い込まれるのである。

このため、専門家のなかでは、薬物依存症の患者数が減っているのに再犯率は増えている現状を、「社会的スティグマに対する恐れから重症にならなくては捕まらないほど使用状況が悪化しており、逮捕後の社会復帰が困難な状況から再び孤立し薬物に手を出してしまうからだ」とする見方もある。

すなわち、社会的スティグマを背負わせるような現在のマスコミの誤った報道や学校での間違った依存症の理解と教育、社会における一般市民の無理解・無関心が依存症の問題をより根深くしているのではないか、と私は考えているのである。

 

社会が作り出したもうひとつの苦しみ「ジェンダーロール」

次に、DVやハラスメントに代表されるジェンダーの問題、性別によって社会から期待されたり自ら表現する役割や行動様式、すなわちジェンダーロールの問題がある。現代社会においてSNSで多くの怨嗟の声が聞かれ、男性からも女性からも憎しみと苦しみが表出してきている。

性差における議論は生物学的見地からアイデンティティとしての見地まで様々な切り口がある。

「わからないから遠ざける」という自己防衛的無理解が互いの耳をふさいでいることが最も大きな原因のひとつである。

我々は女も男も違うからこそそれぞれに魅力的であり、等しく尊厳があると思う。そのことを忘れて、バイアスを通してその人を判断しようと焦り、互いの尊厳を傷つけることに繋がっている不幸な状況だと私は感じている。

たとえば女性側には、今まで議論ではなく暴力や圧力で男性側にそうした尊い見解の相違を検討されず踏みにじられてきた悲しい歴史がある。私たちはその歴史に学び、違う価値観や生態をもつ相手を敬い、相手の立場を想像する力を身につけなくてはならない。

逆も然りで、「日本男児」に代表されるような男性像に縛られて社会的に自由さを失っている男性の苦しみや歪みに対して男性は自身の歪みや見えない苦しみを自覚する必要があるし、女性ももっと理解を深めることができる。

互いを異質なものとして非難するばかりでは歩み寄りなど成立しない。生きづらさを取り払っていけば、互いに自分らしく幸せに生きていけるのではないだろうか。

 

孤独感と無理解に満ちた世の中だからこその社会福祉

人は誰でも間違いを犯す。

そして孤独感は耐えがたいものである。

何らかの生きづらさを抱えていても、正しさを押し付けられ、他人には相談できないような社会的閉塞感が充満している現代では、そのような窒息しそうな社会背景が、さらに依存症やジェンダーロールの問題が深刻化しているように感じる。

依存症において違反者を厳罰化しても根本的な解決にはならない。

むしろ、厳罰化することでますます重症者を増やし、回復しにくくすることに繋がる。それは、社会的な恨みとなり犯罪の温床にもなりかねない。

ポルトガルでは依存性薬物について合法ではないが、罰を与えないようにしている。薬物依存症に苦しむ人に社会のなかで居場所をつくったら、治療に繋がる人が増え、10代の子供達の薬物使用が減り、全体についても、薬物に関連する問題が減った。

日本がこれから、平和で多様性を尊重するダイバーシティとインクルージョンを実現する、立派な人権国家を目指すなら、まずは社会的スティグマを背負わせる前に正義を叩きつけるのではなく傾聴しともに生きる術を模索する社会福祉的関わりが重要であると考えている。

そうした意味で、社会福祉士の役割は依存症やジェンダーロールという「孤独」に起因した社会問題の解決に寄与できる可能性が小さくないと考えて、期待している。