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【仕事】営業は営業したら負けなんで(鷹嶺ルイ)

最近観たこの動画、おもしろかった。

とても丁寧に相談に答えていて、優秀な方なんだなと感じた。

多くに人に参考になる内容だったと感じたので、個人的にまとめてみる。

 

「鷹嶺ルイ」って誰?

ホロライブというVtuber事務所に所属している人で、もともとブラック企業に勤めていた経験がある。

通常、同業他社で30軒くらいの取引先担当数が相場の業界で、何倍ももたされてクレーム対応も任されてしまい、一時は常に胃が壊れた状態で生活していたとのこと。

始発で出勤して終電で帰り、家でも残業して2~3時間寝たらもう始発の時間・・・というような苛酷な時代を生き抜いてきただけあって、話に説得力がある。

鷹嶺ルイ先生のお話は大きく分けて3つ。

①営業・伝え方について

②人間関係について

③セルフコントロールについて

では、さっそくひとつひとつルイ先生のアドバイスを見てみよう。

①営業・伝え方について

営業は営業したら負けというのは本当にそうで、売れない人ほど売ろうとしてしまう。

売りたいのはこちらのエゴ。

顧客に寄り添い、その人にとって役立つ必要なものだと気づいてもらったからこそ、買いたいと思ってくれて、結果として売れるのである。

自分が良いと思っていて、この人にもそうなんじゃないか?と思うから勧められるわけで、自分が欲しくもないようなものを勧めることができないように、そういうものは売るのが困難で、売れているとしてもストレスがハンパではない。

そういう場合ルイ先生は、早めの転職をお勧めしている。

 

ルイ先生が好きじゃないタイプの営業、という話題のなかで出てきた重要なキーワード。

「勝手に人の気持ちを語る営業」。

これめっちゃくちゃ多い。マジで巷にあふれている。

とにかく相手のニーズを勝手に決めつけて、購入を強要しようとするのだが、それはただの迷惑である。嫌がられるに決まってる。

また、そのニーズを口に出させようとあからさまに誘導尋問しようとするのも、これと同じようなものだ。

結論ありきで質問してこちらに都合の良い回答を引き出そうとするのなら、結局他人の気持ちや願いには全く耳を貸していないのと同じ。人の話を聞いているようで聞いていない。

本心から出てくる言葉を確認するために質問するのであり、自分の質問に本心で答えてもらえるためには、その人にとって誠実で信頼してもらえるような人でなくてはならない。

信用はカネでは買えない。

 

それに通じるのだが、社内であっても相手を思いやること、それは相手の時間を大切にする意味で分かりやすい伝え方をするのが大切だ、というお話もされている。

・カテゴリに分けてあらかじめ伝える

・結論から言う

これは本当に大事な2要素で、これに気をつけるだけで、相手にとっては話を聞くとき負担が相当少なくなる。

伝わり理解してもらえるので、相手はその後の行動がしやすい。だから結果が出る。

 

②人間関係について

職場の悩み、退職の理由の第1位はいつも「職場の人間関係」である。

特に上司との人間関係に悩む人は、いつの時代もどこにいても絶えることはない。

2つ目が特に大事だ。

こちらの思い込みで、何となく伝えにくいと思っていたけど、話してみたら理解してくれた。そんなことは往々にしてある。

私は話してみて理解してもらえないようだったらスッパリ諦めて距離を取るタイプだが、わりと話を聞いてもらうと理解してくれるケースがある。

その人の表情や印象などの先入観で、こちらがつくってしまった壁が障害になっているなんてもったいない。

勇気を持つことが、誤解を解くきっかけになる。

ホウレンソウは私もとても苦労した。

新入社員の頃、何を言わないといけないのか、何を言わなくていいのか、全くわからなかった。

報連相をしろと言われて逐一報告していたら「そんなつまらないことでいちいち話しかけてくるな」と言われるし、それなら重要なことだけ…と話していないと「なんで前もって言ってくれなかったんだ」と言われる。その繰り返しだった。

その繰り返しのなかでだんだんわかってきたのは、「自分以外の人の作業・最終的な着地に影響があるかもしれないこと」が「重要なこと」であり報連相すべきことだということだ。

報連相をしろというのは、自分以外の誰か影響があるかもしれないことがあったら話してほしいということだった。そう言ってほしかった。

つまり、言いづらいこと、というのは、悪い意味で結果に影響が出るかもしれないとわかっているから、言いづらく感じている。ということは、影響が出るかもしれないと自覚している時点で報連相の対象になる。「悪いことほど早めに報告」しなくてはならないのはそのためだ。

途中にミスがあろうが予定変更があろうが組織としては「最終的に勝てばよかろうなのだァ~!」なので、帳尻が合えば問題ないし、少し違った結果になっても誤差が少ないほうがいい。

だから修正可能な初期のうちに言われたほうが組織としては助かる。

逆に言えば、問題を抱え込む人はリスクを抱え込むということなので、計算可能性が低くなる。

組織としては仕事を任せることそのものがリスクと認識されるので、社員としての信頼は失われていく。

だから、評価を下げたくなくて言いにくいことを抱えるよりも、むしろ積極的に悪いことほど報連相しておいたほうが信頼されるし評価される。

 

社内でキャリアアップするためにも好かれよう、嫌われないようにしよう、と意気込む人はどの年代にも存在する。

しかしそんなことは必要ない。

どんな人とも仲良くできるはずがない。人はそれぞれ個性を持っていて、その人らしく生きている限り合わない人は必ず存在する。

それを我慢してヘコヘコしたりキョロキョロしたりしていると、心が腐っていく。やめといたほうがいい。

基本的にはビジネスライクに対応しておけば問題ない、というのは、私もまったく同じ意見。

むしろあまり深い付き合いをしたくない。金が絡むと人付き合いはだいたい醜いものになるから、わざわざ深めたいとは思わない。

 

私も人を頼るのが苦手だ。

なぜなら不確実性が増す気がするからだ。

これはコントロール欲求の裏返しで、結果にこだわっているときにこうなる。

自分のできることというのは限られている。時間も有限だ。

同じ目的のために集まっている職場の人間は、仲間だから、頼るために存在してる。

遠慮なく頼ろう。

 

これめちゃくちゃ笑った。

休憩まで他人に気を遣っていたら、疲れちゃうよ。休もう。

③セルフコントロールについて

少し②の人間関係にも重なるが、自分の承認欲求のコントロールという意味でこちらにカテゴライズした質問である。

早く出世したいという人もいるだろう。

そんな人にはこのアドバイスを心に刻んでほしい。

焦ってもいいことはない。ひとつひとつ着実に力にしていくのが、遠回りしているようで、実は最短距離である。

その組織が健全で審美眼のある組織なら、普通にしていればおのずと輝きを見出してくる。

無理に装飾しようというのは、自分に自信がないことの現れであって、虚飾を評価されて期待されたとしても、自分のキャパを超えていて期待を裏切ったりするから、結局お互いのためにならない。

私も寝坊にはとても悩んだ。

私はアルコール依存症真っ只中のときは、毎日ワイン2本飲んで寝ていた、というか気絶していたので、どうしても起きられなかった。

上司に馬鹿にされ続けてぶちギレ「定刻起床装置 個人簡易型 (SAC-5A型)」というクソ高い(10万円)JR乗務員が使う目覚ましをつかったりしていた。

モーニングコールサービスを頼ったらよかったなぁ、と思った。

まあ結果的に睡眠障害(REM睡眠行動障害)もあったし、そもそもアルコール依存症の底付きのために必要なことだったので、どうしても起きられないときは何かが病んでいるから、病院にかかったほうがいいよ。

 

まとめ

鷹嶺ルイさんは、他にも様々なおもしろい動画を投稿していて、これ以外にもぜひ観てみてほしい。『アウトラスト』というホラゲ実況で伝説を残していることで有名。(笑)

随所に高い知性が垣間見えるし、社会人としてしっかり生きてきたからか、話し方がちゃんとしていて聞きやすい。英語もタイ語も話せるので、語学に興味がある人も知っておいたほうがいい人のひとり。

あとセクシーでかわいい。

 

【仕事】優秀なプレーヤーをマネージャーにしてはいけない理由

マネジメントって難しい仕事だよな、と思う。

現場でプレイヤーとしていくら実績をあげていたとしても、マネージャーとして優秀かどうかといえば、話は全く違ってくる。

いや、むしろプレイヤーとして優秀であればあるほど、マネージャーとしては壁にぶち当たることになる。

えてして組織ではプレーヤーとして優秀な成績を収めたことを手土産にマネージャーに昇格するが、これが部下の不幸の源泉であるといっても過言ではない。

本来は適性が全く違うので無理して優秀なプレーヤーから選出することそのものに無理があるのだが、「納得感」と引き換えに非合理的な人事がまかり通るのが、この世の中である。

 

優秀さとは「点の状況」

まず、プレーヤーとして優秀なことはすばらしいことだ。別にそれを悪く言うつもりはない。

優秀なプレーヤーは、周りのプレーヤーよりも結果的に成果を出す。

成果の要因は実は複合的だ。プレーヤー自身の能力だけではない。

周りに協力してもらったこと、運がよかったこと、それら外部要因を全てをひっくるめて、結果的に結果が出た。それが、優秀なプレーヤーの背景である。

もちろん、プレーヤー自身の能力は、単純に比較してみて平均的な他のプレーヤーの能力よりもある点において優れているだろう。

お金集めというゲームのなかで「勝ちたい」「勝利者でいたい」という競争心が強い傾向にあり、そのために身体的精神的リソースを実際に割いている。「勝つ」という目的を達成するための知恵と工夫にも秀でたものがある。

つまり「他人との競争に勝つために思考し行動できる」という点では、個体として優れており、その行動が結実する環境(外部要因:周りの協力・運など)に恵まれた結果、優秀なプレーヤーと組織から認識される状況が生まれる。

 

そんなひとが陥りがちな落とし穴が、「自分は優秀だという思い込み」である。

確かに、事実、勝ってきたのだろう。

積み重ねた努力も並大抵ではないだろう。

周りのタスク処理能力と比べて、自分のそれは高いと自負しているだろう。

私も、そうだった。

「自分一人の力でのし上がってきた、苦しんでいるとき誰も手を差し伸べてくれなかったけど、なんとかしてきたのは私だ。だから私は優秀なんだ。そのへんの運だけで勝ってきたヤツらと一緒にしてもらっては心外だ。今のこの現状は私の実力なんだ。」

そんなふうに思っていた時期が私にもあった。

しかし結論から言えば、これはひどい勘違いであり、思い込みだ。

 

物事はそんなに分かりやすく合理的にはできていない。

 

たまたま勝ちを拾ってきたにすぎない。

何か一つ違えば、私は同じ結果を出せなかったかもしれない。

全て自分の力だけ、という条件そのものが、この世では成り立たないから。

自分には変えられないものが必ず介在する。そこに私の力は及ばない。

変えられるものを変えるチャンスがあった、そしてその時点で変えることができる個体だっただけだ。

変えることができたのは、自分の努力だから、自分の力だろうか。

私が努力できたのは、努力できる個体としてたまたまそういうふうに産んでもらったからだ。遺伝子の配列が少しでも違ったら、私の特性はどういうベクトルに向いていたかわからない。

「優秀さ」というのは、自分を含めたこの世のあらゆるものが総合的に作用した結果、ある一定の側面からある一定の集団が見たときの、「点の状況」に過ぎない。

 

成功者の内なる功罪

「勝てる法則」とか「成功の方程式」とか、ちまたにはたくさんの自己啓発本やビジネス本が本棚にひしめき合っている。

これらは、社会的に成功したという近視眼的な状況に、もっともらしく後付けの因果関係らしき理由を添えただけの、個人の物語だと私は思っている。

成功を一般化することはできない。

成功を不自然に一般化して人材として評価すると、評価された人はその勘違いにより、次第に傲慢になる。

「俺のほうが正しい」「私のやり方が最も優れている」「他人は俺より下だ」

心の奥底に、そうした傲慢さがこびりつく。これは自信ではなく勘違いなのだが、本人は自信として社会的な存在としての、精神的な拠り所にする。

これがとても厄介で、コントロールに心を支配され依存が生まれる温床となる。

一時的に偽りの自信を得るかわりに、健全な心を見失う。

 

自分は「優秀」なので他人の意見は自分の意見よりも劣っている、ととらえると、根本的に許容範囲が狭くなり視野狭窄に陥る。

人はみな違うので、意見や考えはそれぞれに良さも悪さもあり多種多様だ。環境と条件は常に変化しているので、行動がもたらす可能性を一概に推定することはできない。だから、やってみないとわからない。

しかし「優秀さ」に囚われていると、そうした落ち着いた賢い理解ができなくなる。

自分が自分のやり方でやることが、最もいい結果になる、と信仰してやまない。

なので本人は良かれと思って、他人に自分のやり方を強いる。あったかもしれない無限の可能性を潰して。

そして思い通りに他人が動かないと、さらに他人を下に見る。「俺の考えが理解できない低能なやつだ」とか「使えないやつだ」とか、自分のなかで他人の立場を下げることで、うまくコントロールできない不安と恐れを見て見ない振りをする。

あるいは、強制したり監視したりして何とか他人が思い通りに動くようコントロールしようとする。いわゆるイネイブリングである。

こうして、本来コントロールすることができない他人や成果を、「コントロールできる」と偽りの自信に裏打ちされた勘違いによって、一生懸命何とかしようとする羽目になる。

そしてうまくいかない現実を、自分以外の人間の無能さのせいにしながら、永遠に報われない試行錯誤を繰り返すのである。

 

部下が苦しむメカニズム

何となく見えてきたと思う。

優秀なプレーヤーがマネージャーになったときに部下の不幸が生じる原因が。

プレーヤーとして優秀であればあるほど、マネージャーになったとき今まで書いてきたような虚しいイネイブリングを部下にとことんやってしまう。

毎日のスケジューリング、訪問時の折衝の仕方、企画立案の方向性、はてはタスクの進捗管理まで、全てを管理・監視しようとされたら、される側はどうなるだろうか。

まるで成長しない。

全てを手取り足取り教えることは、とても親身になって部下を思う上司に見えるだろう、はたから見る分には。

しかし実際は、部下を自分の操り人形のように扱っているだけで、本人の自主性や独創性や可能性の価値を、生かせないばかりか貶めているのだ。

当然部下は最終的に「上司様の言われたことをやるだけ」の歯車になっていく。自分で考え自分で実行し、自分で結果を味わうという、成長に欠かせない経験を奪われるので、仕事をしていても自己効力感はなく、虚しいばかりである。

本来あったユニークさや個性はそぎ落とされ、ただ指示に従うだけの無気力人間の出来上がりである。

それが深層心理で上司であるマネージャーが望んだ部下の姿であり、本人の成長など本当はどうでもいいという本心の現れである。

そうやって自分のおもちゃのように部下に指図してやらせるだけのマネージャーがほとんどで、チームを台無しにしてしまうことがよくある。

そしてうまくいかなかった原因を、口では「私がリーダーとして至らなかった責任」だとか何とか言いながら、心のなかでは部下にあると思い込み、謙虚に省みることがない。

「たまたまそろった面子が使えないやつばかりだったから、今回は結果が出なかっただけだ、次はもっとうまく厳しくやろう」と決意を新たに、イネイブリングを強めていくだけだ。

 

この囚われから脱するのは、現実問題としてかなり難しい。

言い訳の余地もないほど徹底的に天狗の鼻がぽっきり折れるような「底つき」が必要だからだ。

自らの「優秀さ」が偶発的であった事実を認めることは、今まで社会的な存在としての自分を成り立たせてきた精神的な支えを失うことを意味する。なので、なかなか手放せない。アルコホーリクが酒を手放せないのと同じように。

「成功を掴み家族を養うため」という大義名分で、家庭を蔑ろにしてきたとしたら、いっそう始末に負えない。偽りの自信のために今まで失ってきたものを数えれば、事実はどんどん認めがたくなる。

あれやこれやと言い訳をしながら、必死にしがみついてしまうのは、しかたがない。

しかしこの囚われを乗り越えたひとは、マネージャーとして花開くだろう。

 

じゃあマネージャーに向いているのって?

むしろ一度ボキボキに折れて「優秀さ」とはかけ離れている人ほどいい。

己の無力さに打ちひしがれて、泥水をすすって地べたを這いずりまわってきたような、そんな人ほど、事実を謙虚に理解するために必要な経験をしてきたといえる。

こういう人は「自分自身すら、自分だけではどうにもならないこと」を心から認めている。

だから、自分以外の存在を有難いと思える。

他人に個体として敵わず、劣等性をまざまざと見せつけられて、自分ひとりだけでは何事もなしえないことを体験として知っている。自分の弱さを知っている。

 

しかしそれで他人を妬んだり世の中を恨んだりしているのではまだまだで、自分だけが弱いのではないことも知っているのが重要だ。

生きとし生けるものすべてが不完全な存在であり、多かれ少なかれその恩恵なくして、命すら成り立たない。それは皆同じで、みな弱いのだ。自覚しているかしていないかの違いしかない。

そのことを知るには、心を開いて他人と交流する経験が必要である。

自分の弱さを認めてさらけ出すのは、とてつもなく勇気がいる。

しかしこちらがその勇気を持たなくては、他人もまた弱さをさらけだすことができない。

勇敢な弱者が、その行動により他人の弱さを垣間見たとき、真実を理解することができる。

この「行動」こそ「変えられるもの」だ。

 

己の無力を認め、「変えられないもの」を受け容れる落ち着きを持ち、「変えられるもの」を変えていく勇気を持ち、その二つを見極める賢さを持つ。

そんな人がマネージャーに向いているわけだが、そんなひとはほとんどいない。

 

そう在れたなら、本当の意味での権限移譲ができる。

信じて託すことができる。愛に根をはる想いから行動し、他人に施すことができる。

異なる価値観を持つ他人を受容し、互いを尊重する前提で未来を語り合うことができる。

小手先の「効率性」や「合理性」を超えたギフトを、部下は上司から手渡されることになる。そうなると部下は上司であるマネージャーに対して、敬意と感謝を抱く。

心理的安全性が保たれた共同体が形成され、チームとして真の強さを帯びはじめる。

その結果、「自分でやればうまくいく」と想定したよりもはるかに大きな結果をともなって、行動の結果がマネージャーである自分にも還ってくる。

この好循環が生まれるからこそ、チームがあり、組織がある。、

 

俯瞰的な見方をすれば、貨幣経済の社会秩序を重んじる合理性と計算可能性に支配された行政官僚制の組織そのものが、この好循環を阻害する諸悪の根源であるといえる。

この経済社会において、営利組織に属するプレーヤーが傲慢さに囚われるのも、マネージャーがイネイブリングに陥るのも、ごく自然なことではある。

誰も悪いわけじゃない。社会がそういうつまらない社会だというだけ。

私が組織を形成するとしたら、このことを忘れないようにしたいと常々思う。

【仕事】「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

上司が最近とても焦っています。

おそらく上からプレッシャーをかけられているのでしょう。中間管理職ってなりたくないなーって思います。割に合わないですよね、ストレス度合いと給料のバランスから考えて。

まあとにかくあれこれと口を出し、成果が出そうだと感じたことを片っ端から思い付きで指示を出そうとしていらっしゃいます。

成果が出ていなければ、当然焦るのはわかります。

でも、焦ってあれこれ手を付けても、物事というのは結局は結実しないものです。

なぜか?

結論から申し上げますと、「自分の都合しか考えていないから」です。

繋がるべき相手が見えていない。自分のなかの不安や恐れと、独り相撲を取っているようなものです。

今回は、そんなふうに「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」状況について考えてみたいと思います。

 

なぜ焦るのか?

他人から「あれをしなさい」「これができていない」「他の人はできているのに」などと言われると、なぜ焦るのでしょうか。

それは、他人のなかの自分の評価が下がってしまう、そのことに恐れを抱いているからです。

悪く思われてしまうのではないか。

バカにされてしまうのではないか。

嫌われて悲しい思いをしたり、不利益を被るのではないか。

恐れは、不安を呼びます。

不安になって、その悪い未来について考えます。

あたかも、今行動しなければ、その悪い未来が現実になるような気持ちになって、いてもたってもいられなくなる。

そんな感じじゃないでしょうか。

 

では、いったん落ち着いて考えてみましょう。

自分を他人がどうとらえるか、その印象って、操作可能なものだと思いますか?

私は、これはコントロールできない、自分の範疇を超えたところだと思っています。

他人がどう思うかは、他人次第です。他人に決める権利があることです。

私たちには、どうすることもできない手の届かないところにある問題。

なので、まずは、それをどうにかしようとすることはとても不確実なことだということ。

あれこれ焦って取り繕っても、コントロールできないことだ、と認識すると、それなら焦っても仕方ないよな、って思いませんか。

 

なぜ評価されたいのか?

もう一段深く考えてみましょう。

なぜ、焦って自分を追い詰めてまで、その人のなかの自分の評価を高く保ちたいのでしょうか。

特別に尊敬している大事な人だから?

評価を下げられて出世できなくなったら嫌だから?

なめられて馬鹿にされたくないから?

 

本当に付き合いを深めるべき本質を理解している人というのは、実は世の中にはそんなにいません。

本質を理解している人は、他人を見下したり、成果というひとつのものさしで他人を測ろうとしたりしません。一人の人間として、あなたの価値観を尊重し、自分の価値観も尊重する。あなたの尊厳を傷つけようとはしない人です。

だから、今たまたま成果に繋がっていなくとも、あなたが自分が可能な範囲で心を込めて丁寧な仕事をしているのなら、何も取り繕う必要もありません。ちゃんとわかってくれます。

つまり、表面的な結果や数字だけを見てあれやこれやと他人を勝手にジャッジする人は、本質を理解していない人です。道端の石と同じ、付き合いを深める必要のない、あなたの人生にそこまで関係しない人、ということになります。

道端の石に「お前はダメなやつだ」と言われたところで、あなたは気にするでしょうか。

「ああ、オレは本当にダメなやつだ」と思うでしょうか。

私はそんな人たちにどう思われるかより、愛する家族や尊敬すべき人たちとの交流に時間と頭を使いたい、と感じます。心を込めて、そういう人たちに接するために人生を費やしたいと思います。

 

目の前にいる他人のなかの評価を高く保ちたい、という欲求は、自分を他人に認めてもらいたい=他人から認められないと自分の価値が無いように感じて不安だから安心したい、という願望の現れです。

 

なぜ他人からの承認が必要なのか?

他人に認められないと自分の価値が無いように感じる、というのは、なぜでしょうか。

それは自分に自信がないからです。

では自信とは何でしょうか。

それは何かを「他人と比べて」自分のほうができる、と信じることです。

自信とは、相対的な価値観です。

他人がもし誰もいなかったとして、あなたが好きなことをやるとき、そこには比較対象が存在しないので、あなたは誰かより優れているとか劣っているとか、そんな些末なことを気にせず思うまま楽しく好きなように熱中して取り組むでしょう。

他人と比較するから、自信という価値観にとらわれる、ということです。

 

ひとは、誰もが違います。同じ人はひとりもいない。

得意なことも苦手なことも、考え方も、価値観も、やり方も違います。

もっと言ってしまえば、与えられた才能や環境など、自分にはどうにもならないことも、それぞれ全然違います。

昨今では「能力主義」が正義とされていて、そうした違いを言い訳ととらえる人が多くなりましたよね。

「やればできるのにやらないのは、お前が怠けているからだ」

「平等にチャンスを与えられているのだから、つかめないお前が悪い」

「成果が出ないのは、お前の頑張りが足りないからだ」

一度はこんなことを言われた経験があるのではないでしょうか。

でも、実際そんなに人間は万能でもないし、強くもありません。

人類は、誰もがひとりだけでは何もおぼつかないので、家族を構成し、社会を構築して、この世を生き延びてきた種族です。

やってもできないことはあるし、チャンスは平等ではないし、頑張っても報われないことだってたくさんありますよね。

それはあなたが悪いわけではない。何かのめぐりあわせでこの世にあなたとして生まれて、今できるorできないがある。それだけの話です。

 

だから、他人と比べてもしかたがないし、意味がないのです。

楽しむ分にはいいですけどね。ゲームとして。

優劣はゲームでしかない。本来自分と他人は前提が違い過ぎて比べられないからです。

そんな不確かなゲームに委ねなくてはならないほど、あなたは無価値ではない。

他人より優れていようと劣っていようと、あなたが考える、あなたがやりたいこと。それが実行に移されて、世界と繋がること。

それにこそ価値があり、それであなたが楽しい・嬉しい・好きと感じることが、もっとも意味のあることです。

「下手なら、なお結構。」とは、大阪万博の「太陽の塔」でおなじみの芸術家:岡本太郎さんの言葉です。

「ダメならダメなりに、ダメでもいいと思って、全力でその瞬間にすべてをかけろ。」

そのように岡本太郎さんはおっしゃいます。私もそう思います。

 

自分には自信がない、と他人の目を気にして、本当にやりたいことを自由にできない。

なんて悲しいことでしょう。

自分にはどうしようもない、比べる意味もない。

そんな概念でブレーキをかけ、自分が本当にしたいことをしない。

なんともったいない。

 

なぜ生きているのか?

自分が本当にしたいことを我慢して、他人の目に怯えて、やれと言われたことを焦りながらやって。

それが、あなたが生きたい人生でしょうか。

そのおかげで家があるから、お金が稼げるから、他人に嫌われないから、幸せ?

本当に?

本当にそうでしょうか?

あなたはそれで本当に幸せといえるでしょうか。

もう一度全く同じ人生をやれと言われて、喜んで生きたいと思うでしょうか。

 

私は小さい頃、自由に生きていたら、クラスメートから「異質な存在」と判断され、いじめられました。両親からは「なんで他の子と同じようにできないの?」と悲しげに叱責されて、つらかったのを覚えています。

それから他人に気に入られよう、両親に認められよう、と思って、やりたくない勉強も、やりたくない人付き合いも、一生懸命努力してやってきました。

自分が本当にしたいことがわからなくなるくらい、気持ちにふたをして。

そして、アルコール依存症になり、うつになり、自殺しようと思うまで追い詰められました。

 

私としては、そんなふうに生きるのはお勧めしません。

私はそのままもっと自由に生きていてもよかった。

両親が求める「優秀な息子」でなくてよかった。

みんなに好かれる「普通の人」でなくてよかった。

それらに囚われる人生は、私が生きたい人生ではなかった。

 

「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

それは、こんな小さい頃の私を見ているようです。

だから私は、そんな人に、小さい頃の私に語りかけるように、こう伝えたい。

 

あなたは、他人より優れていなくてもいい。

あなたは、誰からも好かれなくても全然悪くない。

あなたが心からやりたいと思うことのなかに、本当の価値がある。

他人の目なんか気にするな。ただ、やりたいことを精一杯がんばってやればいい。

そのために、あなたはこの世にいるのだから。

【仕事】製薬業界(MR)から異業種へ転職したい人への注意点

国内MR数 1年で2300人超減少 新型コロナの影響はこれから ミクス調査 

中堅企業の人事担当者からは、「今回回答したMR数に新型コロナの影響は入っていない。MRの存在意義が問われており、今後の数は読めない」との声が寄せられた。新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、デジタルによる情報活動は増加し、MRの医療機関への訪問回数は減少すると見る向きは多い。MRの役割や活動がポストコロナに再定義されたとき、業界のMRの規模もみえてきそうだ。

 

こんな記事に不安になったり、いつまでも在宅勤務で医療機関への訪問ができずに歯ぎしりしているMRは全国にたくさんいそうだ。

特に若い20~30代の世代は、「このままこの業界にいていいのだろうか?」「このままいつまでも外に出られずに気がついたら転職できない年齢になりリストラされるのでは?」と将来が不安になっているかもしれない。

国内の大手製薬企業にストレートで受かってくるような人だから、それなりの学歴で、自分自身をそれなりに優秀と思っているだろう。

しかし、人材としての市場価値があるかどうかは別問題だということと、現状の有難みを理解していないと、決断を急いで悔いを残すことになると思う。

異業種から製薬業界に転職してきた身として、業界の特殊性から転職を考える上での注意点をいくつか紹介したい。

 

①見積書や請求書を取り扱っていない異質さを自覚しよう

MRを一生懸命やってきたひとほど、「私は今まで『営業』の経験を積んできました!」という自負があるだろう。

しかし、実際はMRは営業をしているとはいいがたい。

やっていることは、情報提供。それだけだ。

見積を出し、納品し、請求書を渡しているのは卸のMSだ。私たちは医薬品卸に購入していただいて売上をあげているわけで、実際金品をやり取りしているのは卸だけだ。

特約店担当者だけが、会社の窓口として自社製品に関する生々しいお金の取引をしている。

実際、営業として異業種で働く場合、交渉がどれだけ上手で論理的で話術が巧みであっても、見積の出し方や他社との駆け引きによっていくらでも覆る。

決裁権が誰にあるか、顧客の部門予算は何月〆なのか、会社の体力を考えると何%まで値引き可能なのか。

社外だけでなく社内と常に交渉しなくてはならない。社内が動かないから、という言い訳は通用しない。結局顧客のニーズに合致する金額を社内から引き出せなければ他社に負けるし、いくら動いても売り上げが無くては利益が生まれない。

営業活動も、活動効率を考えなくては、粗利益からどんどん経費が引かれて純利益がなくなっていく。そうした経営者的な感覚で利益を生み出すべく動くことができる人間が、「営業」と名乗っている。

社用車が与えられて、ガソリン代を湯水のごとく出してもらえて、1日得意先を訪問しただけで「日当」という名目で非課税の2000円相当の経費がもらえる会社など、製薬会社以外ありはしない。そうした経費を勘案する必要のない恵まれた職場環境だったという異質さを認識しておくべきである。

 

②営業は売る方法や手段を自分で考える世界だと知ろう

製薬会社が恵まれているのは、発表用のスライドや宣伝資材がすでに完璧に用意されていることだ。

異業種から来た私としては中身をいじることができない、というのは逆に縛りがきつくて窮屈に感じてきたので、その面ではある程度営業活動に自由が利くことにMRはある程度喜びを感じるに違いない。

しかし、自由には責任がつきまとう。

どこかが責任をもってつくってくれていた資材を使うのとは違い、自分でつくり、会社に確認して、会社から了解をもらうという工程を踏まなくてはならなくなる。

実は自分が使う武器をいつも他の部署にアウトソーシングしていたということに気づくだろう。

そして、そうやって作ってもらっているものに文句を言ってばかりで、自分の責任でつくって実績を生み出したことが無いことに気づくだろう。

 

売る方法についても同様である。

マーケティングの部門がボストンコンサルティングやマッキンゼーに高いお金を払って市場分析してくれて、オピニオンリーダーにヒアリングまでして、「こうすれば売れるのではないか」という仮説を立てて、会社として推奨してくれるのは、製薬会社がリッチであることを象徴している。(だいたいその仮説が的外れなので、いつもがっかりするが。)

よくある一般的な企業には高いコンサル料を払う体力はないので、自分で売る方法を考えなくてはならない。

今まで売れなかったものを売る手法を独自に考えることは、誰も正解を知らないのでトライ&エラーの連続だ。失敗の責任はマーケティング部門のせいにはできない。売上の責任はすべて自分にかかる。

月末や年度末に薬剤部にお願いすれば買ってくれることなど無い。あんなのは粉飾決算である。返品ありきで購入してもらうなど、他の業界ではまずありえない。

本当の営業職は会社から言われたことをやっていれば給料をもらえるわけではない、ということに気づかされるだろう。

 

③福利厚生や年収は今よりダウンすることを覚悟しよう

正直、この仕事量でこんなに給料をもらえる仕事は他にはないだろう。

こんな楽な仕事はないと思う。めっちゃ楽だよMR。

接待やイベントへの参加が難しくなってきた今、ほとんどのMRは、毎日数軒の得意先を訪問するかWEB面談をしたりして、海外の論文をいくつか読み、英語の勉強でも隙間時間にしつつ、夕方になったら日報を提出して業務終了するような生活ではないだろうか。

営業は、粗利益で3人分の年収を稼ぐくらいで、一人前だと言われている。

そして粗利率は業界によって大きく異なるものの、数百万の取引では約15~20%程度。

つまり、今の年収を3倍して、その5倍の金額を年間で売り上げることができるかどうか、というイメージである。

例えば年収600万くらいだとすると、転職先の製品を約一億売ることができなくてはならない。その実力があるということを証明できる経歴だろうか。今のビジネスのノウハウで本当にそれだけの売上を達成できるだろうか。面接において、転職希望先の採用担当者を納得させられるキャリアのプレゼンができるだろうか。

考えてみてほしい。そういう視点で自身のキャリアを振り返ってみることがとても重要だ。

医薬品というのは、日常的に処方される。定期的に売れることが当たり前だ。

だから、今MRをしていて、毎日数十万売れていくのは当たり前だと思いがちだが、製薬業界の特殊性はここにもある。

一度処方を決めたらしばらくは毎日飲んだり定期的に投与したりする医薬品のような製品は、ベースの売上を構築しやすく、ビジネスモデルとしてはとても優れている。

そうした売上システムのサービスは、異業種だと携帯電話キャリアの定期契約だったり、機器のリース契約やレンタル契約に近い。いわゆる『定額制ビジネス』だが、これはとてもうまみのある、安定して収益が上がる構造なのだ。

しかし、物販だったり工事契約だったりすると、受注して支払いを確認したら、次をまた一から探さなくてはならない。商売の匂いを嗅ぎつけてあの手この手で群がる営業のなかで、コンペを勝ち抜き、高い勝率を保ち続けなくてはならない。

今日売れても明日売れる保証はないのがデフォルト。

そして、売れなければ居場所はない。

 

それに、製薬会社は、これから転職する会社より「法定外福利厚生」が充実している傾向にあると考えておいたほうがいい。

信じられないかもしれないが、企業型確定拠出年金(DC)すらない会社もある。家賃補助や交通費・家族手当などは無くなることを覚悟したほうがいい。というか、MRはかなり恵まれていて、ぬるま湯だったということを自覚すべきだと思う。

 

 

まとめ:安易にMRから異業種への転職を考えると痛い目に遭う

なんとなく、今まで積もり積もってきた愚痴というか鬱憤を吐き出しただけのような文章になってしまったが、感覚としては間違いないと感じる。

ずっと業界に違和感を感じてきた。

「世の中の仕事はMRよりもっと楽なもんだ」と思っている社員が、多いこと多いこと。

MRのほうが楽だから!こんなに給料もらえること自体がおかしいから!

と声を大にして言いたい。

 

現状に不満があるから異業種に転職したい?このコロナ禍で?

世の中を舐めるのもたいがいにしたほうがいいよ。

MRの経験だけで雇ってくれる一般企業なんて、今はほとんどないよ。

金銭感覚まずおかしいから。1個2000円とか3000円の弁当提供するのが当たり前の業種なんてありえないから。そんなふうに経費使ってサービスするときなんて、受注が確定した時だけだから!笑

そんな弁当をもらっておいて味に文句を言う取引先もあるので、たまげたが。そうした一部の医療関係者の金銭感覚に業界全体が引っ張られてきたというのもあるんだろうけど、浮世離れしていることを自覚しないと、本当に転職してから後悔すると思う。

そして、今は諸先輩方がやってきたような弁当や謝礼で釣る関わり方はもうできなくなっている。正直、やっていることは大したことがなくなってきた人が多いと思う。本当に存在意義が問われている。今、MRのままで自分のスタイルを改革するくらいの気概がないと、結局どの業種でも生きていけない、ジョブホッパーになってしまう瀬戸際にいると思ったほうがいい。

「そんなことはない、自分たちは医者と渡り歩いてきた経験があるし、薬学部を出るくらいには勉強もできたし、世の中のある程度の人間より優れているはずだ」と思うだろう。

ところがどっこい、お勉強ができてテストで点が取れて世の中に優秀な人材として求められるのは、「新卒というスペシャルカードがあるときだけ」なのだ。

勉強ができてもテストで点が取れてもたくさん暗記ができても、営業で生きていくからには今までとは違うサービスを生み出すクリエイティビティが必要不可欠だ。暗記や計算はもはやCPUのほうが早くて正確だ。そういうのは求められていない。

MRが本来強みとしていて、大切にしていたのに無くしてしまったものが、もっとも重要なものだったのだ。それは顧客のニーズととことん向き合い傾聴し、他の営業よりも早く、質の高い提案をもっていくということだ。以前は接待という名の深い付き合いのなかで信頼関係を構築し、先生方の右腕として陰ながら活躍してきたのが、MRだったんだろうと思う。

そうしたつながりは希薄になってしまったが、だからこそ今のこの難しい状況で転職に逃げずに創意工夫することにチャレンジできないMRが、他の業界に移って「優秀でデキる営業として即活躍できる」とは、私には思えないのだ。

 

現代のMRの強みとして、①論理的思考能力、②社内外で嫌われないための責任回避・危機回避能力、③英語力(海外文献を読み込み日常的に英会話を勉強しているMRのみ)④自動車運転の慣れ、が挙げられると思う。正直これだけってのはかなり心もとない。

もし今のこの強みしかない状態で転職するとしたら、同じ製薬業界内にしたほうがいいような気がする。

MR経験を活かしてオーファンドラッグベンチャーのMRに転職するとか、薬学知識と英語力を生かしてMA(メディカルアフェアーズ)やMSL(メディカル・サイエンス・リエゾン)として専門性をとがらせるほうがよっぽど現実的だと思う。地域包括ケアシステム構築のために必要不可欠なかかりつけ薬剤師として、患者さんに選ばれる地域の頼れる薬剤師を目指すのも素晴らしいことだと思う。

もしMRから異業種への転職を逃げ道に考えてフワフワしているとしたら、ちゃんと現実を見たほうがいい。

このままだと、多くの製薬会社の人間がどこにも行けない。

そうしたことは転職エージェントは商売をみすみす逃すことになるから言わないだろうし、面接でも直接教えてくれることはないだろうから、老婆心ながらちょっと書いてみた。

 

いずれにせよ、ここだけの話だが、製薬業界自体、もうかなり腐っている。

元々腐っていたが、もう回復の見込みがないほどの腐りっぷりだ。

このコロナ禍で、本当にはっきりした。絶望しかない。

今回のmRNAワクチンを世に出してしまったたことで、もはや後戻りできない一線を越えてしまった。これを理解していない人は多いが、もう決定的に道を誤った。

私は、もう製薬業界は終わったと思う。

これから就職する人は、絶対にやめておいたほうがいい業界である。

MRとして、製薬会社の人間として、生き残ろうというのはもうすでに破滅の一途をたどる道となった。未来はない。

そりゃ今の居場所に旨味はあるので、居れるだけはいるけど、絶対に長続きしないだろうから、泥船が沈む前に撤収するだろう。

そのために私は次に繋がるように働いているし、並行して勉強し他の業界で生き抜けるように工夫している。

だって、毒を売る会社が長続きするわけないじゃない。信用されるわけないじゃない。そんな会社に入りたい人が今後現れるわけないじゃない。

メガファーマのFとか、MとかTとかAとかは、遅かれ早かれ薬害訴訟だらけになると思う。

そして、誰も信用しなくなるだろう。『バイオハザード』シリーズのアンブレラ社のように。

もう、この業界からは、いつ足を洗うかというステージに来ている。時間は既に、ほとんど残されていない。

 

 

許しがたい罪は、いつの時代も、いつか贖われる運命にある。

人を殺めた大きな隠し事は、いつか白日の下にさらされ裁かれる運命にある。

オオカミ少年が、自分の嘘で己を追い詰めた。身から出た錆。

コントロールを手放せないACは、いつか底つきをする。

どうにもならなかったことを認めざるを得なくなる。

それは、必ず訪れる。

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

現代語訳:祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという物事の道理を示している。おごり高ぶっている人(の栄華)も長く続くものではなく、まるで(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう、まったく風の前の塵と同じである。

引用:平家物語『祇園精舎・冒頭』

 

 

【仕事】Gと仕事は似ている(※虫が苦手な人は見ないでください)

仕事がもうどうでもよくなってきた。

仕事のことをあれこれ愚痴ってきたけれど「もう、いいや」と思えてきた。

今も会議中だけどもう全然聞く気にならない。

それに対してイライラしてきたけど、もうイライラすらしない。

なお、Gとはゴキブリである。苦手なら速攻ブラウザバックしてほしい。

 

資本主義社会は好きじゃない

仕事は、生活するお金を得るために必要だからやっているけれど、本来したいわけがない。

お金が必要だからしぶしぶやっている。

できることなら、好きな本や映画を観て、他人に関わらずのんびり過ごしたい。

でもそんなことは不可能だ。

なぜなら、この世は資本主義社会だからだ。

何かメリットを生み出し、経済価値に還元しなくてはならない。

本当は、感謝されて、その感謝と敬意がお金として支払われるのが健康的だ。

だけど現実はそうではない。

本当は要らないものを必要そうに見せかけたり、業界を独占して提供するサービスの値段を吊り上げたりする。

なぜか?お金に対する恐れと不安から、よりたくさんのお金をより安定的に得ることを追い求めるからだ。

そのために、経済活動を突き詰めれば突き詰めるほど、本質を見失う。

要は、手段が目的になってしまうのだ。

本当に必要なものは何もしなくても売れるので、必要のないものをいかに騙して買わせるかというパワーゲーム・マネーゲームが目的になる。

本当は人と人とを繋ぐ一つの価値観でしかなかったのに、経済的価値は、人々の命と生活をお互いに縛り合う呪縛と化している。

だから楽しくないし疲れる。

人の役に立ちたいという誠実な願いを持つ人間が踏み台にされ「他人より優れていたい」「他人をコントロールしたい」という私利私欲に忠実な人間がのさばる腐りきった世の中。

それが今の世の中。

 

もうそんなもんだと思うしかない

仕事も、嫌すぎたら辞めりゃあいいし、結局どの仕事したって経済活動である以上、同じような人間の嫌らしさや醜さを見ざるを得ない。

それは、転職を経験してよくわかった。

規模の差でも、会社の差でもなかった。

この社会全体がもう醜く歪んでいるからだった。

最近そのことがよくわかった。

 

最終的には、この不快感を「人生の代謝物」として受け入れるしかないんだな、と悟った。

誰でもうんこすると思う。仕事はうんこだ。

どうしても生きていれば汚物を処理しないといけないみたいに。

仕事という呪縛も「変えられないもの」だと知った。

実際、今いる会社の規模がでかいことや、様々な組織が代々いろいろやってきたことの積み重ねで、今の私や私の家族が、社会生物として生きるうえで助けられている。

ゴキブリやハエがバクテリアと一緒に糞尿を分解してくれるから、地球の生命の循環が途切れないわけで、会社や経済的な繋がりは、まさにそんな感じだ。

「ぐえ~…気持ちわりい!」といくら嫌ったところでゴキブリやハエを絶滅させることは不可能だし、そんなことをしたら逆に困ることになる。また別の問題を抱えるだけ。

つまり私が、会社や仕事を「過度に恐れず」「過度に寄りかからず」うまく共生していけたらいいだけなんだよな。

いくら嫌っても仕方がないし、彼らは彼らの生き方を変えることはできない。

そしてもちろん、私は彼らの在り方を変えることはできない。

 

ゴキブリも仕事も 必要な世界の一部

ちなみに私はゴキブリを尊敬している。その不屈の生命力と身体能力の高さには、遭遇するたびに度肝を抜かれる。

でもゴキブリを嫌いな人は、見たくない、触りたくない、この世から抹殺されてほしい、という感じだと思う。私は仕事がそんな感じ。

でも仕事はなくならないし、生きていくためにどうしても付き合っていかなくてはならないものだ。

 

だから、もうしかたない。

嫌いでも割り切って適当に付き合っていくしかない。

そう思ったら、あまりイライラしなくなった。

 

バウンダリー(境界線)を引いて、侵略されたらしっかりアサーティブにコミュニケーションをとる。

ゴキブリに例えるなら、台所に現れてしまったら、目撃した個体をしっかり殺して、私の家の領域を守るために追い出す。

しかし、相手の在り方には干渉せず、違いがあっても、私が嫌いでも、存在を否定せずに、世界の一部として包摂する。

ゴキブリに例えるなら、世界の果てまでゴキブリを駆逐するようなことはせず、自分の家以外で目撃しても温かく見守る。

そんなふうに、お互いの価値観が違っても、境界線を守りながら存在を尊重する関係の在り方を、法人に対してもゴキブリに対しても適用していくのが、一番自然なんだよな、と思う。

私は少し大人になった。

【仕事】株主とオーナー社長のためにあなたが死ぬ必要はない

日本は大富豪たちに都合がいいように作り変えられてしまった。

このことを知ったのは最近だ。

もっと早く知っておくべきだった。

こういうことこそ、早めに教えておくべきではないだろうか。腹立つ。

真の教育・教養とは、世の中の闇を知って余計なところで力をつかわず、何を大切にすべきかに眼を開くことができるようになされるべきである。

 

私たちは奴隷であることに気づこう

まず、企業に勤めている人に聞きたい。

会社の指示や上司の言うことを真剣に聞いて、同僚よりも評価されようと必死に売り上げを追いかけ、昼夜を問わず家族も省みず働いているのではないだろうか?

YESと答えた人。即刻そんなことはやめていい。

現在、日本の大企業の売り上げは横ばいで、人的投資も横ばい(むしろ微減)である。

しかし、経常利益は何倍にも伸びていて、株主配当はその伸び率よりも高い。

これが何を意味しているか?

固定資産を売り払ったり借金をしたりして見かけ上の経常利益を上げているのは、それを株主のためにせっせと支払うためである。

従業員の給料や処遇は上げず、投資もせず、挙句は昨今などリストラの嵐にもかかわらず、である。

つまり大企業の従業員は、株主と株を保有するオーナー社長(CEO)のために働き続ける奴隷ということだ。

つまり、エリートだ大企業勤務だなどと、勝ち誇っている阿呆は、自分が目くそ鼻くそなのだということに気づいていない。

ロックフェラー系やロスチャイルド系の大富豪たちの養分になるための奴隷であることに、ホワイトカラーもブルーカラーも変わりはない。

本来仲間であるはずの日本国民同士でランク分けをして、両方奴隷なのに奴隷同士で勝ち組だ負け組だと争っているのである。笑える。腸ねん転を起こしかねない高度なギャグを展開しているのが、今の日本の現状である。

もちろん、国民同士のルサンチマン(恨み・妬み)を煽っているのは、財閥の息のかかったマスメディア。なぜか?本当の敵である自分たちに気づかれたら困るからだ。

つまり、ここまで読んでくれた懸命な読者はお分かりのとおり、現在大企業が掲げているお題目など金儲けを肯定するための建前に過ぎない。

「顧客のため」「患者さんのため」などとは、オーナー社長は露ほども思っていない。

日本人など奴隷のように働いて、外国人オーナーと株主のために苦しんで死ねばいいと思っているのだ。本当にそう思っている。でないと、日本という国家をここまで貶める行動ができるはずがない。

 

生活が苦しいのは私たちのせいじゃない

根本的に、日本政府もこの動きを助けるための政策しか進めてこなかった。

日本政府は日本の国民を守るために動くべきだが、先ほど話したお金持ちたちの傀儡と化している。

なぜか?

日本政府、特に政治家や内閣府や財務省の官僚は「国民がどうなるか」よりも「選挙や出世レースで他人に勝とうゲーム」のことしか考えていないから。

大企業の社員もそう。「出世レースで他人に勝とうゲーム」のことしか考えていない。

そうして、本当に日本を支えてくれている介護職やフリーランスや中小企業の人たちが貧困で苦しみ、死んでいくことを見て見ない振りをしている。

つまりこの国は地獄である。先進国などではない。もはや金持ちのための植民地、衰退途上国だ。

 

実際、日本の実質賃金は年々減っている。つまり給料が減っている。

婚姻率が減っているのは、とてもじゃないけどこんな年収じゃ結婚できないってひとが多くなったから。

稼げない若者が結婚できないから、当然出生率は下がる。

子どもが生まれないと、高齢化がさらに進んでいく。

高齢者ばかりになれば生産性は落ち、人口はどんどん減る。人口がいなくなれば需要が増えないので、投資も望めない。市場が拡大しないならマーケットに投資する意味がないから。

そうするとデフレから脱却できない。本当は自国通貨建てで国債を発行できる日本は国債を発行してお金を刷って市場に流通させるべきなのだが、プライマリバランス黒字化という愚かな目標に向かって出世しか考えていない財務省は、国債を刷ろうとしない。

つまり自分の出世のことを考えて、お金を世の中にまわそうとしない。

特に今は、デフレかつコロナ恐慌で多くの人が失業したり自殺したりしている。人がどんどん死んでいるにも関わらず、やれば助かる人が大勢いるのに、やらない。

そんな阿鼻叫喚を生み出している外国人CEOや海外投資家の株主や国内の財閥・政治家は、我関せず。

「市場として魅力がないから投資できないわーwもっと生産性を上げろーww」などと左うちわで好き勝手を言っている。

間接的な殺しが横行している。これに怒らないでいられようか?

私たち日本人は心底バカにされているのだ。

世界から金を生む奴隷扱いされているのだ。

それがこの国の現状だ。

世の中を民主主義的に変えられるはずの政治家は、自分の立場と利権しか考えていない。

大企業に勤めているひとも仕組みに気づかずに出世ゲームに興じて殺人に加担していることに自覚がない。

そういう人に踏みつけにされている人たちは健気にも「なんでこんなに働いているのに苦しいんだろう…わたしたちにちからがないからかな」と国が刷り込んだ「自己責任論」で萎縮する。

まんまと騙されたまま、まともに働きもしない他人に踏みつけにされていることにも気づかないで、自ら命を絶ち死んでいく。

この先にあるのは、日本の滅亡である。終わっている。そしてもはやこれはこのままいけば、ほぼ確実だ。

 

死ぬほど自分を追い詰めて仕事をしたりしないでいい

絶望してほしくてこういうことを書いているわけではなくって、要は「死ぬほど自分を追い詰めて仕事をしなくてもいい」ということを私は言いたい。

過労死をしたり仕事で失敗して自殺したりする人がいる。そういう人はこのコロナ禍でさらに増えている。

そんなことするのは馬鹿らしいから絶対にやめよう。

何かの事情で働けなくなったとして、当然の権利である生活保護を受けて働かずに生きても、何の恥でもない。そのために国家があり、福祉があるのだから。

「一度落ちてしまったら二度と這い上がれない」と心配になるかもしれない。

しかし、どこに勤めていても何で働いていても、日本国民である限りもはや今誰もが同じ奴隷状態なのだ。残念ながらみんな『負け組』だ。

這い上がる云々ではなく、社会が変わらなきゃもうどのみちみんな同じ末路だ。

 

大企業に勤めている人も目を覚ましてほしい。

同僚と争っている場合ではない。

自分の家族を含むこの国の人たちのために何ができるのか真剣に考えてやること以外は、マジで適当でいい。

仕事で多少ミスろうが何しようが、大した問題ではない。重要な社内プレゼンとか、夜テレビ見ながら鼻くそほじるのと同じくらいの価値しかない。そう思う私は最近全く力を入れてない。

適当にお茶を濁して、家族とちゃんと時間をつくったほうが何億倍も価値がある。

大企業で出世している人を「すごい」などと崇め奉る必要もない。彼らは会社にとって扱いやすい「奴隷度」が高いというだけ。より良い奴隷としての才能を認められしクズどもだ。「毎日毎日株主への奉仕活動おつかれさまです」とでも心のなかで唱えてほうっておこう。

働くうえで私たちは、自分がやっている仕事のうち「これだけは本当に社会の役に立つ」と信じられることにだけ力を注げば良い。

たとえば製薬会社のMRならば、薬剤の安全性情報の収集や副作用にどう対処するかを医師に伝える業務。そして地域医療に求められているエリア企画や橋渡しを会社の金を使って実現することだ。

薬を無理に売ろうとしたりする必要は全くない。薬の良い話を医師にしてもらう講演会を企画する必要も全くない。

そういう無駄な仕事でストレスを溜める必要など、実は全くなかったのだ。

そして、今はまだ生きていけても、自分たちが馬鹿にしている貧困層に堕ちるのは時間の問題だということに気づかなくてはいけない。

自分が生きている間は良かったとしても、子や孫は地獄を生きることになる。

 

この地獄でやるべき本当のこと

では、私たちはこのような地獄にあって何をこそすべきなのだろうか?

それは、目先の仕事ではなくちゃんとこの世の役に立つことを見定め実行することである。

具体的に言えば、先ほどお伝えしたように、自分が携わる仕事のなかで社会的意義のある仕事にのみ力を尽くし、真摯に取り組むことがベースになる。

 

そのうえでやらないといけないことは、ちゃんとこの国のことを考えている人の話を聞き、そういう人の話をちゃんと理解し信じて活動をしてくれる政治家に投票することである。

民主主義国家の国民として当然の権利と義務を果たす。それが最もこの世で有益な活動である。

「ちゃんと考えている人がわかんないんだよ」

「どの政治家が何を考えているのかよくわからないんだよ」

わかる。私もそうだった。政治家はどいつもこいつもハゲたクソだと思って「どれに投票してもどうせ腐ってんだから一緒だろ」と思っていたし、この国のことをちゃんと考えている人のことを「なんか胡散臭い」「批判ばっかりして、なんとなくかっこ悪い」と思っていた。

本当に恥ずかしい。私はそうだった。

そこで、私が思う「ちゃんと世の中のことを考えていて話が分かりやすい人」と、「ちゃんとこの国のことを考えて活動してくれている政治家」を挙げていきたい。

 

〇ちゃんと世の中のことを考えていて話が分かりやすい人

藤井聡 京都大学大学院教授(レジリエンス実践ユニット長)& 表現者クライテリオン編集長

三橋貴明 経世論研究所 所長

室伏謙一 政策コンサルタント、室伏政策研究室 代表

せやろがいおじさん おもしろくて頭いい芸人のおじさん

亀石倫子 弁護士

風間暁 児童保護司

松本俊彦 国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長(兼任) 薬物依存症センター センター長

(敬称略)

〇ちゃんとこの国のことを考えて活動してくれている政治家

あんどう裕(ひろし)衆議院議員(自民党 京都6区 ) =自民党なのにちゃんとMMT理論を理解して消費税減税と反緊縮を掲げている超珍しいまともな政治家。

 

私が応援したい人たちなので、別にこれらの人が誰にとっても素晴らしいと言い切るつもりはない。

しかしこのような「反骨」の精神を持つ人がいなくなってしまえば国は間違いなく滅びるし、私はそんな日本を娘や次世代を生きる子供たちに渡したくない。そんなことになったら死んでも死にきれない。強力な地縛霊になりそう。

今サラリーマンとしてやっている仕事は、そんなに真面目にしなくていい。どうせめっちゃ金持ちのどっかの誰かに働いた分だけチューチュー吸われるだけだ。

やめよう、そんな不毛なことは。命のほうが大事だし、大切な人と過ごす時間のほうが大事だ。

世の中の価値観が一部の人のために創られたクソのようなものさしだというのは、ここまで読めば明々白々。

こんな世の中で認められることなんて逆に不名誉だ。「世間」に認められるために生きるのがいかに愚かかわかるだろう。

それよりも確かなのはあなたの感覚であり、あなたの大切にしたいものだ。それこそが本当に大切なものだ。

社会的地位や名誉や年収はほんのこれっぽっちもものさしとして信用ならない。

それを心にとめておくだけで、精神疾患や依存症で苦しむ人はずいぶん減る気がする。

【仕事】「仕事」というゲームに殺されそうな人へ

皆が強制的に参加させられているゲームがある。

それは「仕事」だ。

「仕事」というゲームに今まさに殺されそうな人に、読んでほしくて書いた。

 

 

例えば、サラリーマン。

ゲームホストは経営者。ゲームプレイヤーは社員。

ホストがまずどれだけの利益を出すかを決める。

その利益を得られるように、ホストが「売上目標」を立てる。

「売上目標を達成する」というゴールをホストがプレイヤーに提示する。

プレイヤーに「時間」と「労力」をベットして、「承認」と「収入」を賭けて勝負する。

 

手元にある戦略・戦術のカードを切っていく。

お互いにババを押し付け合い、それでいて早くアガれるようにと画策する。

このゲーム、戦っているのは常に「社内」である。

他のプレイヤーは社員だからだ。

「競合他社ではないのか」って?

いやいや、競合他社はただの環境要因に過ぎない。

プレイヤーにとって重要なのは「自分が会社に他プレイヤーと比較されたとき、いかにより優れた評価をされるか」ということだけだ。

 

営利団体である限り、私益のために働く。公益に資する存在であるはずの政治家もそうだし、官庁もそうだ。

この国の組織はほとんどそんなふうだ。

 

人から褒められたい。人から尊敬されたい。お金が今よりももっとたくさんほしい。

考えているのはそんなことだけだ。

 

承認欲求を満たすため、己の懐を温めるため、時間と労力をベットする。

ゲームに勝てば、欲が満たされ、金が他人より多く手に入る。

 

世の中の、あんまり何も考えていない人や、このゲームが得意で勝てる自信がある人は、「世の為人の為」などということは頭にない。いわゆる社会的利益のことは、本当に考えない。

世間でいうところの『社会人』というのは、そういうペルソナのことを言う。

私益をめぐって人生を賭け続ける、ギャンブル型リアルシミュレーションゲーム。

このゲームに何の疑いもなく己のすべてをベットできる人たち。ある意味幸せである。

 

矜持など無い。

他の卓(競合他社・異業種など別の利益団体)でこっそり交換したカードを切って自社のライバルを出し抜いたりすることを「関係構築力」「人脈の有効活用」などとビジネスでは綺麗にな言葉でもてはやす。

配られるカードはホスト次第だし、そもそも卓がクソだったりする。

 

ではホスト(経営者)になればいいのではないか?と言えば、そうでもない。

「国」というカジノの総元締めが、メンバーを集められずゲームを大規模にできない卓を、つぶしにかかるからだ。

ホスト同士も、他人を遊ばせながら、他のホストより多くの「時間」と「労力」をベットさせて目的を予定通り達成するというゲームに興じている。

勝てばホスト続行。負ければホストから、観客(無職)か、プレイヤー(雇われ社員)に転落だ。

 

品のないクソゲー

このように、この世で「仕事」と一般的に呼ばれているものは、ただのゲームでしかない。

そして、このクソゲーは命を賭してやるほど面白いものではない。

いや、語弊があるな。このゲームのとらえ方は人それぞれだろう。

だって、大切な人を養うためにと過労死するほど命をベットする人もいるし、ゲームの進捗さえ順風満帆なら家族など省みない人もいる。

金を稼ぐという「業」。業とはカルマ。報いのもととなるすべての行い。

稼業というゲームでの行いは、全て己に還ってくる。報いを受ける。

 

このゲームは品がない。

人間の醜い面を、これでもかと表にえぐりだしてくる。

自分だけが得をしようという利己心の醜さで、世界中で殺し合いを始めるほど荒れている。

ビジネスとはある種の殺し合いだ。略奪合戦に他ならない。

プレイヤーにとっても、ホストにとっても、常に他人を自分と比較し、他人を蹴落として自分が一番になることを目指すゲームだから。

だから「勝ち組」「負け組」などという概念が生まれる。

 

結局このゲームの業とは、参加する人の魂を貧相にする、ということのようだ。

だって一つのゲームしか認めないなんて、そんなゲームセンターおもしろいか?

価値観が硬直化している。画一的すぎる。だから、箱としておもしろみに欠ける。

しかし今の世の中は、一種類のゲームしか推奨していないゲームセンターみたいなものだ。

一生「仕事」というババ抜きをやっているしかない、と親や教師やどっかの知らない偉い人に言われて、言われるがままわけもわからずぶち込まれるのだ。

もう本当に最悪だ。

一生懸命やってもゲームで得られるものは、金という紙切れと他人から与えられた偽りの承認欲求だけ。

そんなもん、徳が高くて品がある人からやりたくなくなるに決まっている。

 

だから、徳のある人ほど、ビジネスから遠ざかるように思う。

ビジネスという品のないギャンブルに溺れて腐ってしまった社会には、とても適合することができないから。

「社会人」というのが優れていて「社会不適合者」は劣っている。

そんな風に世間では勘違いをしているけれど、実は逆だ。

こんな社会に適合できるようなギャンブラーのほうが狂っていて、社会不適合で悩んでいる人のほうが正常なのだ。

良心と道徳心があるからこそ、こんなギャンブルにはとてもじゃないけどずっと「時間」や「労力」を使っていられないのだ。

 

まとめ:夢破れた君へ

「ありがとう」

「あなたがいてくれてよかった」

そんな温かい言葉が形を変えてお金となり手元に届く。

感謝と感動がお金に変換され、労働の対価として受け渡される。

だから、仕事は素晴らしいものなんだ。

 

そんな風に考えていた時期が私にもあった。

 

稲盛和夫の本なんかを読んで仕事に青い夢を抱いていた当時の自分をグーで殴りたい。

「目を覚ませ」と、肩を激しく揺さぶりたい。

 

仕事にそんなことを期待してはいけない。

これはただのつまらないゲームだ。ただのつまらないギャンブルだ。

人生を賭けていいような代物じゃない。

 

そんなことのために私たち一人一人の命があるわけじゃない。時間があるわけじゃない。

もっともっと貴重なものだ。つまらないゲームなんかで浪費してはならない、とても大切なもので、かけがえのないものだ。

 

だから、仕事がうまくいかないからと言って、ダメな人間だと思ったりするんじゃあない。

だかが一つのゲームにすぎない。

このゲームが苦手なら、それでも全然かまわない。

何にどれだけ「時間」と「労力」をベットするかは、私たち一人一人に選ぶ権利がある。

そう、どのゲームに力を入れるかは、君も私も自由に選べる。

私もそうだが、他のゲームを楽しむために、君もこの世にログインしてきたんだと思う。

この仕事というクソゲーはそこそこにしておいて、一緒に他のゲームで遊ぼうよ。

もっと楽しい、もっと素敵なプレーヤーと遊べるゲームがきっとある。

それをやらずにログアウトするのは、もったいなさすぎる。

 

「仕事」なんて人生のほんの一部なんだ、という、よくあるありきたりな話を長々と喩え話を交えながら文字にしてみると、こんなふうだろうか。

「仕事」というゲームに今まさに殺されそうだったいつかの私に向けて、今の私が書いてみた。

【仕事】仕事で他人にマウントを取るの、もうやめました。

今日、私が今まで担当していた仕事を引き継いだ同僚Aさんから電話があったんですよね。

 

Aさん「B(私が担当していた取引先)って、訪問してました?」

私「あー、手紙を出したり訪問したりはしていましたが、ついぞ会えませんでしたね。」

Aさん「あー(笑)私、運がよかったのか、アポイントもらえたんですよ」

私「おおおおー!!マジですか!!よかったですねー!!(*^-^*)」

Aさん「・・・」

私「すごいですねー!!私は会えなかったから何もお伝え出来ることがなくて申し訳ないですが、アポイントぜひがんばってくださいね!」

Aさん「ええ、まあ、・・・はい」

 

「?…なんか歯切れ悪いな」と思いながら電話を切りました。

なんか私が一緒に喜んでいることが意に反しているというか、若干不服そうだったような…なんなんだろう…この違和感。

 

後で考えてみて「ああそうか」と分かり少し寂しくなりました。

彼は、私と一緒に喜びたかったのではなかったのです。

彼は、「ちあきが今までできなかったことをできた俺はすごい」と私に思ってほしくてマウントを取ろうと考えた。

不安に揺れるろうそくの灯のような自尊心を少しでも守りたかったのでしょう。

私は、私の力には限界があること、他人には私にない可能性があることを知っています。いや、理解しようとしています。

だから、当然私には出来ることと出来ないことがあり、私が出来ないことを彼が出来たとして何の不思議もない。

そして、それは喜ばしいことなのです。

得意先に良い影響がもたらされればいいわけだから、私に出来ないことをかれがやってくれたなら、それは私にとって嬉しい報告でしかない。

彼は、私が悔しがり、彼を「すごい」と仰ぎ見ることを期待したのだろうけど、あるがままであれば、私に対してはただそれだけで「尊重されるという目的」はすでに達成されている。わざわざマウントを取る意味はないのです。

 

・権力がほしい

・お金がほしい

・ほめてほしい

・居場所がほしい

 

そういう切なる願いで、一生懸命仕事で認めてもらおうとする事も、また人の営みなんですよね。

最近は「私にもそういうときがあったんだもんな」と、そういうマウント合戦を仕掛ける人を、一歩引いて温かい目で眺めていられるようになってきました。

私をみくびり「俺の方が優秀だ」という気持ちをチらつかせずにはいられないのです。

自分だけで何かを成し遂げることなどほとんどない。

それなのに、他人にやってもらったことの有難みに気付けずにいるのです。

それは、己のなかの不安と焦りを見ないようにしているからです。

それは、かつての私そのものです。

 

「相手に勝ってやろう」

「己の力を、強さを、存在を誇示したい」

「俺を見ろ」と。

そんなことのために剣は、武はあるのかね?

我々が命と見立てた剣は、そんな小さなものかね?

 

出典:『バガボンド』第7巻

 

誰かより上か下か。

そんなことは、どうでもいいことです。

 

私が目指している状態=真理に近い状態 に近づけるかどうか。

それだけが重要なことです。

 

真理に近い状態とは、もともとのありのままの姿に戻ること。

それでいいと思えるようになること。

これこそが、最も重要で難しいこと。

この世のすべて事象は、私の肉体や精神すらもその到達のための道具です。

そう捉えると、道具に良し悪しなど無く、較べることなどできない。

だから、他人と比較する必要が全くないことに気づけるのです。

 

「体を使えと……もらったこの体を使って知れと……何を? その前のもともとの俺をーー体がそういうものだとしたら 俺だけじゃなくてこの世のもんすべてが それを知るためにあって いやものだけじゃなくて人も 出会う人も 父も母も すべてそのために出会うのなら……ほんとは誰も恨まなくていいーーそういうことなのか……?」

出典:『バガボンド』第32巻

 

「誰かを恨まず、誰かのせいにもせず、あるがままを生きる」

 

どうやれば売上が上がるか、そのためにやればいい事は何か、は限られていて、もう大体分かりました。

だけど、それよりも大事な事があります。

だから、私は残りの限られた人生をそっちに割きたい。

たとえば、家族と過ごす時間とか、売上に直接インパクトはなくても、自分が世の中にとっていいと思う活動とか。

 

それは、私が全身全霊で私であることの裡に在るということ。

それが最も自然で、最も価値があり、最も生産性が高いのです。

今のど真ん中にいるために、己であることを徹底する。

それが、最も良いことだと悟りました。

 

だから、会社の人たちと話が合わなくて今まで悩んできましたが、唐突に「もう合わなくていいんだ」と思えるようになりました。

忙しなく己の立ち位置を気にして戦々恐々とする同僚たち。

彼らにマウントを取ろうとされても取り合わず「焦らずとも大丈夫ですよ」というくらいで、心を揺らすことなく終えることができるようになった自分に、確かな手ごたえを感じます。

 

彼らもまた、彼らが好きなようにやればいいのです。

その過程で、大事なことに気づける人は気付くだろうし、気づかない人は気づかないのだから。その人にとっての最適なタイミングが、きっとくる。

それは私には変えられないし、関わる必要もないことです。

「がんばって。お互い、いいことあるといいね。」と思っています。

それしかもうかける言葉がない。

 

親が子供の独り立ちを見守る気持ちは、こんな感じなのかもしれません。

己が己を見失わない限り、与えられるすべてのことは、必要なことにたどり着くために用意されたものです。

だから、もう自然に任せていい。いや、むしろ任せるしかないのです。

コントロールすることなどできない。

やりたいようにやってみて、その結果を受け容れる。

私たちがやれることは、ただただ、それだけなのです。

【仕事】製薬会社のMRがオワコンと蔑まれるようになった本当の理由

MRとは「Medical Representative」の略で、日本語では「医療情報担当者」つまり製薬会社の現場担当者である。

日本のMRは、海外に比べてその存在を尊重されていない。

海外旅行で出会ったチェコ人やアメリカ人に「何の仕事をしているのか?」と聞かれて「私は日本でMRをしている」というと、握手を求めてくれたりする。

日本以外では握手を求められるほど素晴らしい職業だと認識されているということだ。

日本と海外では、なぜこれほどまでにMRという職業に対する認識に違いがあるのだろうか?

 

売れればなんでもいいという医療従事者としての意識の低さ

海外のMRは接待が違法だ。法律で禁止されている。

だから絶対に個人的な癒着などで処方をお願いしようなどとはしない。

あくまでも、MRとしての技術や能力で医師に貢献するため、深い知識を身に着けて対等にはっきりと医師に対して提案し主張するべきを主張する。

そういう誇り高い働き方をしている。

 

一方、日本のMRはといえば、勝てば官軍負ければ賊軍、と言わんばかりで、とにかく自社の製品が売れさえすればいいと思っている人間が大半を占めている。

ルール内でありとあらゆる手を尽くす。ときにはルールを逸脱してでも倫理観や医療従事者としての規範を放り捨てて売り上げのほうをとる。

そういう下品さが、日本におけるMRの特徴だ。

 

なぜそんなに下品になってしまったかと言えば、どれだけ医療に貢献していようといまいと、結局は売上で評価されるからだ。

そりゃあ、現場感覚も歪むだろう。

副作用情報を一回も聴取したことがないMRがマネージャーに昇進したりするのだから、(真剣に症例に向き合い、医師と薬剤の話をしていたら確率的にはあり得ない)部下はとにかく売上さえあげておけばいいと思って当然だ。

副作用(AE)情報の収集などは、売上に関係のない『余分な仕事』だと本気で思っているMRが今もまだいることに、私は驚きを隠せない。MRにとってAE情報収集は最も重要な仕事のひとつであり、むしろそれさえちゃんとしていれば本邦においてもまだ存在意義があるんじゃないかと思うが、AEの収集や薬剤の適切な処方方法についてフラットな話ができないようでは、本当に居る意味がない。本当に要らない。

患者さんを大事にしようがしまいが、とにかく薬が売れればいい、それが今まで現場を跋扈していた「デキるMR」という痛い生き物である。

 

MRに対する医師の不信

だから医師は、MRが話すことなど信じなくなってしまった。

「結局こいつらは売れさえすればいいのだ。いいことしか言わない。」

「売り上げに影響しそうなマズい情報は、本当に大事な情報だったとしても隠すやつらだ。信用ならない。」

そうやって諦められてしまった。

だから、訪問を断られる。

なぜなら、話す価値がないからだ。

そりゃそうだ。自社に都合のいいことばかり言って、本当に伝えてほしいリスクの部分をちゃんと伝えないような人間に会う時間は、唯々もったいない。私だって断るだろう。

医師はMRに会うよりも、ネットで情報を集めるようになり、何か困ったら製薬会社の問い合わせ窓口に電話するようになった。そのほうが正確だし早いから。

本来MRが充足するはずだったソフト面のサービスを、他で代替せざるを得ない状況をつくってしまったのは、製薬会社自身である。

売上で評価して、数字として表れないMRとしての働きを評価しなかった。そういう人事面での評価を簡略化した怠慢が、信頼の喪失という最悪の形で表出しているに過ぎない。

MRの技量不足ではない。会社のそもそもの体質と経営方針が、問題なのだ。

 

迷走する哀れなMRたち

信じてもらえないから、より屈折したアプローチに傾倒していくMRたちを何人も見てきた。

会社が信じてもらえないから、自分という人間を信じてもらえるように頑張る。それはすなわち個人的な癒着に他ならない。

そんなMRを取り巻く環境は、コロナ流行以前に比べて、以降は特に厳しい。

「会わなくてもあまり医療に関係ないんだ」ということが、医師にも会社にもわかられてしまったと言ってもいいだろう。

それは製薬会社そのものが、本来あったMRの役割や良さをどんどんこそげ落としてきたからだ。しかし現場のMRたちは、少しずつ会社に洗脳され、じわじわと翼を毟られていたとは、今まで自覚してこなかったので、自力では飛べなくなっていることに今更気づいて青ざめている。

そういう意味では、そもそも医療者として思慮が浅すぎることこそMRの罪だったのだが、いまさら言っても詮無き事。

会社が言うとおりに訪問して、製品をコールしてコールして、売上が上がれば褒めてくれる会社のためにシャカリキになって頑張った。そんな共依存的で忠実な奴隷社員が、今マネージャーとして現場を統括しているのだから、もう目も当てられない。

もう会社に褒めてもらうというくだらない承認欲求のために、一度しかない貴重な人生を犠牲にするべきではない。

早期退職制度が各製薬会社で推奨されはじめて久しいが、ついに先日武田薬品でも開始されたとニュースになっている。「フューチャー・キャリア・プログラム」などと呼称し、「キャリア支援の一環」と称してはいるが、とどのつまりはリストラである。

今までのような会社の奴隷ではなく、地頭で考えて社内評価などという些末な価値観に左右されない医療従事者としての矜持と信念を持った者でなければ、もう務まらない職業になってきた。

そして、それはあるべき姿に戻ろうとしている過渡期の姿でもある。

 

これからあるべきMRの姿

正直、訪問や情報伝達は、2〜3ヵ月に1回でいい。

①取り扱っている製品知識と②製品の対象疾患知識、③対象疾患に関連する併存疾患知識。これを医師とディスカッションできるレベルにすることが前提条件である。

今までのMRは勉強しなさすぎ。せめて上記の3つは会社の教育制度に頼らず、毎日勉強してしかるべきだと思う。

勉強と称して日々受けさせられていた製品の社内教育は、聞き流しておこう。

売るためだけの指導プログラムはもう要らない。そういう社内教育は全部無視していい。会社都合の洗脳プログラムであり、聞くだけ無駄。

また、これは本社マターになるが、マネージャー登用はマネジメントの能力を評価する独自のジョブポスティング制度を設けて、実績にかかわらずマネジメントの能力でポジショニングするのが良い。

そうでないと、またしょうもないマネージャーが量産されてしまう。現場で実績を残せる人と、素晴らしいマネジメントができる人は、イコールではない。そもそも特性が違うし、役割が違う。

マネージャーを昇進と位置付けるからおかしなことになる。「かつて売る技術に長けていた者が売りつけるノウハウを部下に教える役割」と勘違いしているマネージャーが多いようだが、そんな役割はもう要らないし、そもそも売ることが目的ではない仕事でこれ自体おかしい。

マネージャーは、MRに適切な情報活動ができるようサポートするJOBのひとつ。

そうなりたいひとが現場を経験しながらマネジメントを学び、ジョブポスティング制度でテストしてから配置して、現場で適性が確認された者のみを採用しつづければよい。

今後、そうした在り方が正しかったということを、自分の身をもって証明していけたらいいな、と思う。

【仕事】製薬会社の限界について考える

私は製薬会社で働いているのだが、どうにもこれはもうやばいな…と思っている。

先日会議に出てストレスがたまったので、割といろいろぶっちゃけてみようと思う。

 

自社の医薬品をいかにたくさん売るか?しか考えていない

大義名分としては「患者さんを第一に」とか言っているけれど、結局は売れればいいのである。

そういう下心をもっている人が多い。だからこそ人を見るプロである医師にも見抜かれていて、あまり信用されていないのがMR(製薬会社の営業みたいなもの)という職業である。

海外ではMRといえば医薬品のプロとして重宝され医師と並ぶほど社会的地位も高いのだが、この日本においては「医者のご機嫌取りをする金魚の糞」みたいな感じである。そして結局そういう前時代的な在り方が良しとされ、医療スタッフのみなさんからは「弁当屋さん」などと侮蔑の意味を込めて呼ばれてきた仕事だ。

なぜ弁当屋?と思うかもしれないが、製薬会社は勉強会のときなどに医師や看護師さんたちにいい気持ちで説明を聞いてもらおうと、せっせと弁当を運んでくるからだ。むしろ先生方からすれば「弁当をタダで食べたいからしつこいMRのために勉強会をやらせてやっている」という感じだ。

 

MRとはそもそも、営業というよりは、医薬情報を扱う担当者である。

MRの仕事は医療機関を訪問することにより、自社の医療用医薬品を中心とした医薬情報(医薬品およびその関連情報)を医療関係者(医師、歯科医師、薬剤師、看護師など)に提供し、医薬品の適正な使用と普及を図ること、使用された医薬品の有効性情報(効き目や効果的な使い方)や安全性情報(副作用など)を医療の現場から収集して報告すること、そして医療現場から得られた情報を正しい形で医療関係者にフィードバック(伝達)することなどを主な業務としています。

引用:公益社団法人MR認定センターHP

医薬品を適切に使ってもらうために、使い方や有効性・安全性などを伝達する人で、医療現場で副作用が起こった場合はその対応方法をすばやく伝達し、会社に報告して医薬品のリスクについて情報収集することを主としている。

売ることが目的とはどこにも書いていない。

だから、そもそも、優秀なMRでありたいのならば、きちんとそうした医療機関のニーズに対応できさえすれば、自社の医薬品が売れる必要はないのである。ボーナスが下がり、昇進できないだけで。

しかし、会社はせっかく開発したんだから高い薬価でたくさん売りたいし、それを元手に開発を進めて新しい薬を生み出さないと生きていけない。なぜなら薬を創っても、特許が切れたらやっすいジェネリック医薬品にとってかわられるからだ。常にいい薬を生み出し続けなくては生きていけない。

だから、会社はできるだけ売れるようにマーケティング部門や製品教育部門を動かす。

マーケティング部門は、できるだけたくさんの患者さんに投与してもらえるような患者さん像をイメージして、そのような患者さんに投与すると効果があると信じてもらえるようなデータを収集する。

そのような自社に都合がいいデータをうまく紹介できるようにMRを洗脳するべく、製品教育部門が社内研修を頑張る。それはしばしば偏っていて少々強引である。

洗脳されて「自社製品はこういう患者さんに投与されるべきなんだ」と信じ込んだMRが会社に教えられたとおりに先生に伝えに行く。

医師は内心『ああ、こいつは会社に洗脳されているんだな…でも会社からこれを言ってこいって言われてんだろうな…可哀想だからちょっとだけ聞いてやるか』という憐みの気持ちで話を聞き、あまりにもしつこいので「わかった、使ってみるよ」とMRが上司に報告するために言ってほしいであろう言葉をしぶしぶ伝えて早く帰ってもらおうとする。

こんなのが製薬会社の実情である。

新卒で入社する会社を選んでいるなら、製薬会社はやめておいたほうがいいと思う。

社内会議は売り上げで横並びに営業所やMRごとに比較される。なぜうまくいっていないのかをプレゼンさせられたり、うまくいっているように見えるMRが自慢げに、自分がいかに優秀かを、社内にアピールする。他人のオナニーを見せられるのは苦痛以外の何物でもない。

社内教育の時間も、無駄で長い。重箱の隅を楊枝でほじくるような質問を上から目線で製品教育部門の社員からされて嫌な気持ちになる。みんなの前で当てられて、答えられなければ「こんなこともわからないなんて」と高圧的な態度でさらし者にしてバカにしてくる。そういうプライドがエッフェル塔のように高い人たちがひしめいてマウントを取り合っている業界なのだ。

たまに「いやー…もうこれ可能性のレベルで絶対先生に話しても鼻で笑われるだけだよ」っていうデータを紹介してこいということがある。「なぜこのエビデンスレベルの低いデータをもとに処方提案をしなくてはならないのかわからない」と疑問を訴えても、「全社でそういう方針だから…」という謎の答えが返ってくる。だからなんなのだろう?答えになっていない。全く意味が分からない。

 

 

MR不要論はこのような製薬会社の傲慢さに起因する

そもそも、製薬会社が「よりたくさん売りたい」という欲を出すからこういうことになっているのだと思う。

私は正直、会社が提示する製品の価値やその裏付けのデータをあまり信じていない。それよりも、先生方の実臨床での経験や否定的な話をしっかり聞くようにしている。

 

 

学問的なエビデンスレベルのピラミッドはこのようになっていて、最強のデータはメタアナリシスやネットワークメタ解析だ。

その下に前向きのランダム化比較実験・二重盲検比較試験・コホート研究などがある。

学ぶべきは、この順番にどのような科学的根拠があるのか?そのなかで自社の医薬品はどのような位置づけなのか?という事実である。

ガイドラインや標準治療は常に新しいエビデンスにより改訂されていくので、今あるガイドラインが全てではないことは重々考慮すべきことだが、今推奨されている治療と照らし合わせて、自社の新薬を使った治療がどのような期待でどういう患者さんに投与されるかは、先生が決めることだ。

製薬会社が欲張ってたくさんの患者さんに投与されるようにコントロールするものではない。

創ったものをどう活かすかを相談しながら、安全性について教えていただきつつ慎重に一緒に治療のカスタマイズを進めていくべきであって、そのパートナーになるためにはフラットで実直で科学的な態度で臨まなくては信頼されない。

まさにこの、医師の製薬会社に対する不信。不振を招く不誠実な企業姿勢が、MR不要論を招いているように思う。

どの製薬会社も誠実に自社のデータやエビデンスを欲に目を眩まされずに紹介していて、伝えるべきリスクを的確に伝え、有効性・安全性の実臨床情報の収集を主とした活動をMRにお願いしていれば、話を聞いてもらうために弁当を用意する必要もないし、何百万もかけて講演会を企画する必要もない。

そもそも、私が患者なら「MRが頑張っているから」等という理由で処方薬を変える医師なんて主治医に選びたくない。

EBM(Evidence-Based Medicine)=科学的根拠に基づいた治療を真摯に実行している医師に診てほしいし、薬剤選択してほしい。どっかの製薬MRと癒着していて製品を贔屓にするような医師が選ぶ薬は飲みたくない。

だから結局マーケティング部門や製品教育部門がいくら社内を頑張って洗脳しようとも、それは社会的に見れば全く善い行いではないということだ。

良い部分はもちろん知らなくてはならない。いい薬なのに世の中で生かされないのは社会的損失だからだ。しかし、他社の薬のほうが優れている面があるのにそれを見て見ない振りをしたり、まるで遜色ないかのように印象操作しようとするのは間違っている。

そういうことをしない体で会社や社内では議論が行われているが、実態としては今も昔も変わっていない。その証拠に、まだ売上計画達成率でMRを評価している。MRの本分を求めるならば、副作用収集業務のコンスタントな実施報告や市販直後調査の伝達遂行率などが評価されているはずだ。そういう評価は全くない。副作用報告をしたことがないMRが昇進してマネージャーになるくらいだ。もはや終わっている。

 

まとめ:私はとにかく誠実に活動したいだけ

先生方を信頼し、コントロールを手放そうよ、と思う。

医師というのは、あんなにつまらない勉強を机にかじりついてやってまで、人の命に関わろうという高尚な精神の持ち主なのだから、きっとデータを見ればちゃんと理解してくれる。

そりゃあいろんな医者がいる。お金持ちになりたかったから。親が医者だからなりたくなかったけどなった。そんな先生もいて当たり前だろう。

だけど、もともと頭の回転が速いひとたちだ。プライドは多少高いかもしれないし、生育歴的にAC気質で共依存しやすい人もいるけど、誠実に真摯に話せば基本的にはちゃんとわかってくれる人たちである。患者さんの話を熱心に一日中聞いているだけあると思う。

だから、「こういう薬なんですけど、どういう人に効果を期待できそうですか?」「懸念に思われている点はどのような特性ですか?」というふうに、常に学ばせていただく姿勢で、先生の実臨床経験をもとに少しずつ無理のない範囲で役立ててもらうのが最も世の中にとって望ましいやり方だと思う。

だって私たちは患者さんに直接話ができるわけではないのだ。

患者さんと向き合っているのは先生なんだから。

その先生の経験を尊重しないで、何を尊重するというのか。

先生に「こう刷り込んでやろう」「こういう印象を持たせよう」などとコントロール欲求丸出しで接するから、信頼されないし要らないと言われるのだ。

おこがましい。こざかしいよ。

薬剤師と医師どちらが上とか下とかとかそんな小さい話をしているんではなくて、そもそも治療のサポートなんだよね、私たち製薬会社は。

治療って薬物治療だけではないし、むしろ薬物治療ってサポートで、本人が努力するものだ。本人が、治すものだ、病気というものは。治してやろうと思っている医師がいたとしたらそれは少し傲慢な考えだと思う。

みんな傲慢すぎるのです。

私は誠実に、ただ実直に、世の中に最もよいと私が思うことがしたい。