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【神経発達症】この社会を生きることの難しさ

私は人にとても興味が薄いらしい。

ごく親しい人(家族)以外の人のことをすぐに忘れるし、知りたいともあまり思わない。

顔も名前も「そんな人いたっけなぁ」という感じで、うまく思い出せない。

別に薄情なわけではないと自負しているが、他の人々のように深く知りたいとも関わりたいとも思わないのだ。

ASD・ADHDの併存だからだろうか。

私は本当はどう考えているのだろうか。

 

仕事に関する考察

たとえば、仕事。

顧客のことを知るために、チームの他の優秀な営業は、あらゆる手を尽くす。

SNSやネットからストーカーのように調べ上げるのは当たり前で、家族構成や誰と親しいか、何に興味があって、どういう時間帯が一番余裕があるのかなど、あらゆることを知ろうとする。

正直ドン引きする。

相手に時間を割いてもらうために、自社の製品を売り込むために、一生懸命だ。

お金が欲しい、第三者からの評価を得たい、そういった利己的なモチベーションを基盤としているのかもしれないが、知ろう・把握しようというものすごい熱意を感じる。

そんな熱意は私には持てそうにない。

お金は必要最低限あればいいし、他者評価とは水物で「変えられないもの」なので、コントロールできるように思えても、それは幻想だと私は思う。

コントロール欲求と物欲の無意味さは、仏教でも古典哲学でも古くから語られている。それらは人生の最優先事項ではない。人生とは、いかに自分らしく与えられた時間を感謝して過ごすか、に尽きる。

一種のゲームであり、楽しめる人は楽しみ、楽しめない人がいてもそれは不自然ではないはずだ。

しかし、この世の中は資本主義経済社会なので、定量的かつ金銭的なメリットに基づいて人々は行動する。そういう社会構造だからで、人そのものが性悪なのではない。システムが合理主義と功利主義に立脚しているのであれば、そうなるのはしかたない。

が、この金儲けゲームを楽しめない人は、社会の輪から自然とはじかれてしまう。

 

上司がこの間言っていた言葉でとても印象的なものがある。

「自分ひとりでできることは限られている。いかに他人との繋がりをもつか、それによって成せる仕事の大きさは変わる。」

 

なるほど。

前半には同意する。

ひとりでできることは限られている。人間ができることには限界がある。個体の能力値もばらつきがあり、生まれつき平等ではない。それはそうだ。

だが、後半には首をひねった。

他人との繋がりを持つことによって、リソースが増える。だからできることの幅が広がる。そう考えるのは、少し傲慢ではないだろうか。

それは、自分が望むように他人が役立ってくれるから、意図している成果を創出できる、という発想だが、私はそれはコントロールできないものをコントロールできると妄信しているだけのように思う。

 

他人との本物の「繋がり」というのは、利害関係ではないのではないだろうか。

愛による「繋がり」が本物だと私は思う。

 

利用できて得をするから繋がりがあったほうがいいという考え方に、気持ちがとても萎える。

でもそうか、本当に人生を賭してでも成し遂げたい事があるなら、どんなものだろうと誰であろうと頼るのかもしれない。

それって、なんなんだろう?

経済活動と社会に関する考察

私は今売っている製品に愛着がほとんどない。エンドユーザーに届こうと届かなかろうと、大差はないと思っている。

実際そうだ。産業構造が根本的に腐敗しているので、本来公に資するべき収入体系の生命関連産業にもかかわらず、株式会社の形態をとっている。

そのせいで、売り上げを伸ばし続けて利益を生み出し続けないといけないという株主資本主義的な強迫に近い圧力を、ステイクホルダーに与え続けている。

そうなると、本当に必要かどうかわからない人にまでごり押しして売ることになる。そこに歪みが生じ、煩悩と苦痛が発生する。

しかも、本当に必要かどうかを判断するのは、こちらではなく顧客だ。顧客の自由意思が第一で、私たち営業ができるのはその一助になるかもしれない手を差し伸べることだけだ。

手を取るかどうかは、相手次第。意思決定は相手にゆだねるべきだ。

もしも手を取らないのなら、それはしかたのないことだし、それは営業のせいではない。

「伝える」と「伝わる」は違うというが、それは双方がアサーティブにコミュニケーションをとる意欲と準備ができているかどうかという話で、必ずしも伝える側だけの問題ではない。

受け取る側に準備ができていない、その気がない、それは相手の課題で、課題の分離でいうと影響できる範囲を超えている。

意思疎通の齟齬を自責とするのは、行き過ぎた自己責任感であり、アダルトチルドレンの概念でいうイネイブリングにつながる危険性をはらんでいる。

こちらが愛情をもって差し伸べたものを受け取らなくても、それはしかたのないことだと受け容れて、執着しないことが最も理想的な心の在り方だと私は思っている。

だとすると、会う気のない顧客に時間をもらうためにあれこれと時間を割くことは、私にとっては余剰分の愛で行うことような優先順位の低いことで、熱心にやるべきことではない。

 

物質的なあらゆるものは、必要最低限あれば本来はそれでよい。

人間はどうせ死ぬのだから、どれだけ資産を増やしどれだけたくさんのものを所有したように思えても、ゆくゆくはあらゆるすべてを手放すことになるからだ。

すべては今この世を生きている魂が借りたもの。天にほんの一時だけ預けられた貸与物。それが多いか少ないかで人間の価値は測れない。人間はだれもがどんぐりの背比べで、たまたま与えられたものが違っただけ、器が違っただけ。

だから、現在取り扱っている製品だけでなく、他のどんな製品でも、私はそこまで愛着を持たないと思う。

それが金銭と交換に提供された人にとって、物質的な豊かさを一時的に与える可能性があったとしても、それは本質的にその人に役立ったとは言えないからだ。

その人がその人らしく生きるために必要なのは、お金で買えるものではなく、その人が自然に心から感じる命への感謝。それが真の豊かさだ。内在的なものであるがゆえに、お金では買えない。

しかもその人のなかにすでに充分備わっているもので、感じる力を持っていて、きっかけは天によって用意されている。

だから他人が意図的に何かを施す必要は誰にもどこにもなく、あるがままに在れば、それが最も良い社会貢献だと言える。

 

だとすると、私は商売(あらゆる経済活動)にまったく価値を見出せない。

マネーゲームというただのゲームで、それ以上でもそれ以下でもない。暇つぶしにするためのものだ。

しかし、コントロール欲求に支配された人々が政を行うがゆえに、計算可能性が必要で、そのための支配システムとして資本主義経済を導入し、人々をゲームに強制的に組み込むようプログラムした。

今までもこれからも永続的に物質的に金銭的に豊かに過ごせるよう一部の人々の利益のために生み出されたのが、今の社会だ。そりゃあ、ゲームマスターはすべてを掌握した気分で実に愉快だろうが、使われるほうの我々プレイヤーが病むのは当然だ。

だから精神疾患があるし、ルサンチマンがあるし、自死や他殺がある。現代社会を生きる多くの人々を苦しめ死に至らしめるのは社会そのものだと思う。

 

在り方に関する考察

だから、経済システムからいかに離脱し、ゲームから降りるかが、最も建設的な選択ではないだろうか。

すでにそういった真理に気づいた人々は、自分たちで田畑を耕し、オフグリットを確立すべく動き出している。実に賢い人たちだと思う。

盲目的に現在の価値観と社会システムに振り回され、人間らしさを忘れたまま人生を浪費していく人は、一生懸命死に急いでいるようなものだ。

ビジネスに偽りの価値を見出し、それに傾注するのは、まさにそんな生き様だと思う。

私はそこから一刻も早く脱したがっているのか。

そうか。

 

それこそ一人ではできないので、他人との繋がりとやらが必要になってくるのだろう。

たしかに、私は今立ちすくんでいる。

この社会で生きるために家族を支えなくてはならない、そのためにやりたくもない仕事に一日の大半を捧げ、虚ろな目をしている。よくない。

 

しかし、勇気をもって助けを求め、自分が配分できる限りの愛を与える以外に、できることはないように思う。

それこそ、そうあれかしと願い、それが本当にあるべき姿なら、おのずと縁は紡がれていくはずだ。依存症とアダルトチルドレンを通じて、それは体感的に理解している。すべては、意図しなくともおのずとすべて与えられる。気づくか気づかないか、というだけ。

 

私は、生かされている今の状況と、その状況をつくってくれている顧客に、まずは感謝を届けたいと思う。

それは、私が届けたいものだ。選んで使ってくださっている稀有な方々に、ひとりひとりありがとうを伝えることは、私が心から望んでいてやりたいことだ。

まずはそれでいい気がしてきたぞ。

それなら、他人にも会いたいと思える。感謝を受け取り、私という存在に求めることがあって、私にできることなら、応えたいと思う。

他人とはそういうやり取りをしていきたい。

そういう繋がりでも、私は同じように顔も名前も忘れてしまうだろうか。

実の親ですら生きていても死んでいてもどうでもいいと思う私が、生きていてほしい、かけがえがない、と感じるだろうか。

 

それを実験してみようと思う。それが私が私らしく生きていく道につながっているはずだ。

遠回りに見えて、実はそれが最短距離だった、ということは、何度も経験してきただろう?信じて、もう少しやってみよう。

 

感謝

とりとめのないこんな文章を最後まで読んでくれた、そこのあなた。

あなたにも、ありがとう、と言いたい。

存在してくれて、読んでくれて、ありがとう。

【発達障害】なんであなたは他人といるだけで疲れてしまうのか?

ADHD・ASDでアダルトチルドレン(AC)の私は、そんなに嫌いでない人でも、他人といるだけでドッと疲れてしまうことに悩んできた。

今までの考察から、私が疲弊する理由は、大きく分けて3つある。

現在ではそれが軽減されてきたので、他人がひしめき合う社交場に出てもさほど疲れなくなったが、それでもやはり疲れることはある。

とりあえず今までの自己分析まとめてみる。

 

過去のトラウマからくる防衛本能

私は今までの経験から、他人とは私を攻撃する存在だと認識している。

その認知の形成には、いじめに苦しんだ暗い過去の経験が影響を与えていると思う。

 

通っていたサッカークラブ。

私は一つのことにしか集中できないので、ボールだけに集中して周りが見えなくなる。

サッカークラブの練習は途中から各自ボールを持って自主練をする時間があり、何人かでグループになってパスを回したり、思い思いに時間を過ごした。

私は他人とできるだけ絡みたくなかったので、壁に向かって蹴ったりリフティングをしたりしていた。

周りになじまずグループに入らない私は奇異に映ったのだろう。

ひとりで黙々と練習している私に、ボールを蹴って当てるゲームを始めるグループがあった。

面白半分に彼らはやっていたのだろうが、私はいきなり横っ面にサッカーボールをぶつけられてとても痛かったしそのたびに驚いた。

やめてほしいと伝えても、彼らは私が鈍いのを馬鹿にしてますます面白がった。

コーチはそういうところまで目が届かなくて、私は自主練の時には攻撃を受けないよう隅っこにいるようになった。壁で自分を守り、じっとしていた。

学校でも似たようなものだった。

私は優しい性格だったので、他人に何か嫌なことをするなんて想像もつかず、自分の好きなように遊んでいた。ひとりで色水を作ったり、木を削ったり、砂で造形を作るのが好きだった。

ずっと一人で遊んでいると、必ず邪魔者が現れた。

水をひっくり返してみたり、気を取り上げてみたり、砂で作った私の作品を破壊してみたり。

「放っておくと、他人は私に危害を加える。厄介で恐ろしい外敵だ」と他人という存在について私は認識を改めるようになった。他人なんて気にもとめていなかったが、私の邪魔しかしない。こんな迷惑なやつら一人残らず死ねばいいのに、と心から思っていた。

なので、私は他人が一定の距離以上に近づくと反撃できるよう、攻撃をかわせるよう、体を硬直させる。臨戦態勢に入るように体が自動的にプログラムされた。

そうなると厄介なことだが、他人がそばにいるだけで交感神経優位になりノルアドレナリン神経系が活発になる癖がついた。他人がいるだけで落ち着かないばかりかとてもストレスを感じるようになった。

サウナ後の外気浴でリラックスしていても、足のあたりを他人が通り過ぎるだけで「足を踏まれるのではないか」と神経がピリつく。まったくリラックスできない。

会議で他人が近くにいると、ソワソワしイライラしてくる。ストレッサーが近くにいるので精神的に摩耗していく。だから話の内容はほとんど頭に入らない。リモート会議になって本当によかった。ここだけはコロナ茶番に感謝している。

他人には近づかないか、近づいてきたら威嚇する。

そういう処世術が身についたのは、成育歴に由来する。

 

会話という行為に対する疲労感

警戒心MAXなのも疲れの主たる要因だが、会話という行為そのものも非常にストレスフルである。

音がうるさい

まず、声がうるさい。

キンキンと高い女性の声は、脳がキリでつつかれるような感じがする。不快極まりない。

興奮すると音量が大きくなるので、とてもめんどうくさい。

伝えたい内容を、できるだけ穏やかな声音で、的確かつ簡略化して話せばいいのに、どうでもいいことばかり大声で喚き散らす。

私はおそらくASDによくある感覚過敏だ。音は特に快不快を感じやすい。

視覚優位なので、聴覚情報が視覚情報の処理を邪魔してとてもストレスになる。

集団で会話していると、同時に複数の人が話始めたりするけど、イライラして口を開いているやつ全員をぶん殴りたくなる。

一度にしゃべったら処理できないだろ、お前ら全員聖徳太子かよ、と。

情報入力ソースとして、音声は私にあまりそぐわないんだろうな、と思う。

人に会うとうるさい音声を出す、だから他人に絡みたくない、という感じだ。

 

会話の作法(マナー)がめんどうくさい

会話がいざ始まると、いつも私を悩ませるのが、社交辞令などの「定型発達の間で交わされているの暗黙の了解」=常識・マナーである。

腹の底では行く気もないパーティーに「ぜひ行きたいですねー」と言ったり。

何かを見せられたとき条件反射的に「かわいい~」「すてき~」と言ったり。

本題に入る前にまったく中身のない世間話をしたり。(=アイスブレイクのこと)

そんなもん誰も決まりとして明文化していないのに、なんで守らなきゃいけないんだ、と思う。そもそもそんなマナーや常識を提唱していながら、内容の精査が甘い。形式ばってアイスブレイクとか言っている暇があったら、もっと内容を詰めるべきだと思う。

だけど、定型発達はみなそうとは思わないらしい。謎は深まるばかりである。

相手の利益のために伝えるべきことを伝える。

聞いてほしいと前置きして悩みを相談する。

相談されたことに対してクリティカルに求めている情報を提供する。

人と人とがわざわざ時間を使って会話をするのは、そういう目的在りきだと思うんだけど。

今まで人と関わってきて、なんだかダラダラグダグダととりとめのない話を聞かされ長時間拘束されることがあった。その経験から学び、私は他人と好んで会話しなくなったのだと思う。

 

ありのままでいられないストレス

会話の形式もさることながら、内容も非常に気を遣う。

幼少期に思ったことをそのまま言葉にしていたら、なぜか相手が泣いたり怒ったりすることがあった。

私としては自分の本心なので、噓をつくよりよっぽど誠実に他人と向き合っていると胸を張って言葉をかけていた。

それが仇となり、私は盛大に集団いじめにあった。

私が私らしくしていると、他人は不愉快そうに攻撃を仕掛けてきた。

まったく迷惑な話である。しかし脅威ではあった。降りかかる火の粉は払わなくてはならない。自分らしくいるより、この不可解な集団に同調して擬態しておいたほうが、デメリットが少ない。

そう思った私は、自分の思いをそのまま話すのをやめ、周りを観察した。

こういうときはこう反応する。

この話にはこう切り返せば笑いをとれる。

こういうときにはあまり言葉を挟まないほうがいい。

定型発達者同士の会話のやり取りを分析し、因数分解して応用する。

意図した反応が得られれば成功、反応が芳しくなければ失敗。

私が自己防衛のために構築してきた会話方法は、地味な科学実験の賜物だ。

はたしてストラテジーの構築が完了し。最もリスクが低い(=定型発達に違和感を持たれない)応酬話法が可能になった。

しかし、困ったことが起こった。とても疲れるのである。

まったく楽しくない。ただの作業。工場のライン作業のようなものである。自動迎撃システムのようでもある。つまらなすぎて対応を間違えることも増えた。

自分の言いたいことを言えない。なんの面白みもない繰り返し。

それはとてつもなくストレスフルな行動だった。だから、結果的に会話をできるだけ避けるようになった。必要最低限の場面で最低限しかできなくなった。

 

まとめ:経験不足を補うための自助グループ

そうなると、当然会話の経験が少なくなる。

本来人と人との会話というのは、実はこうではなくて、みんなちょっとずつ本心をさらけ出しながら、その摩擦により距離感を学んでいたと、つい最近になって気づいた。

圧倒的に真心でぶつかり合って研磨するという経験が不足していた。気づいた時にはもう大人になっていた。しかし大人になってからではもう得難かった。

それが孤独を深め、孤立を深めた。

依存症になる人も、こうした他人との関係の不健全さと経験のなさが大いに関係している。

他者との関係構築が下手くそなので、交流によって癒されることを知らない。だからその癒しを物質や行為に求めて、泥沼にはまる。

糖質と脂質とたんぱく質をバランスよく摂取しなくては体調が崩れるのと同じに、他者との適度なコミュニケーションは心に必要な栄養であり、それが欠乏すれば心が病むのは当たり前。

私は自助グループでこの経験不足を補う機会を得た。

断酒会やAAやACAは、人間関係のへたっぴ同士の集まりだ。心理的安全性が担保された環境でみんなで言いっぱなし聞きっぱなしをして、失われた経験を取り返していく。その経験は心が子供から大人になっていくのに必要な試練である。

その過程で摩擦や衝突はつきものだが、霊的な道具である12ステッププログラムがセットであることを忘れてはならない。

私がそうであったように、不健全な関係で身に着けた歪んだやり方が、問題として顕在化されてくる。認知の歪みを自覚すること、それを取り除こうと棚卸しをすること。それによって、他者との健全な関係構築の精度は高まっていく。

逆に言えば、ただ自助グループに行っていても変わっていかない。自らを省みて変化するためには霊的な道具とそれに沿った謙虚な行動が必要だから。

それでも反応してしまう場合、私でいうトラウマが根強くある場合は、トラウマセラピーによって心理的に自動化された反応プログラムを解除する必要がある。PTSDなど過去に経験した強いストレスでどうしようもなく拒否反応が出る人は少なからずいる。

このように、今まで形成された歪んだ認知、つまり自分を守るために刷り込んだ思い込みを、絡まった糸を一本一本解きほぐすように、丁寧にひとつひとつやっていく。

そうすれば、少しずつストレスは軽減されていき、人との交流を楽しむという新たな感覚に出会える。

私はまだ途中だが、当初から考えるとかなりストレスは軽減できていると思う。無理せず、しかしあきらめず、自分がありたい姿を思い描いて、行動を積み重ねていくと、変化は訪れる。

希望を持ってほしい。

【発達障害】あんまりイライラしなくなった話

今までわけもなくイライラしていることがあった。

どうしようもない些細なことで、機嫌が悪くなることがあった。

最近はそれがない。なぜなのか。

おそらく3つの要因がある。

 

発達障害を受け入れたから

私は成人するまで発達障害(ASD・ADHD)と診断されずに人生を生きてきた。

生きづらさはたくさんあった。でもそれは「甘え」だと言われて叱責された。

・時間通りに目的地につけない

・忘れ物をする

・興味のないことに集中できない

・他人とのコミュニケーションをどうしてよいかわからない

・素直に本音を言ってしまって嫌われる

・好きなことを丸一日ぶっ通しでやってしまい怒られる

・過集中状態で話しかけられても気づかず怒られる、無視したと勘違いされる

こんなことが日常茶飯事だったので、クラスメートからいじめられ、家でも怒られ、本当に死にたかった。

「普通」であれと言われた。

必死に矯正した。

他人を観察し、反応を模倣し、とにかく周りから異質だと思われないための努力を積み重ねた。

他人から好感を持たれる所作、他人に攻撃されないためのキャラクターづくり、そんなことばかりしていた私の青春時代。

幼少期から青年期にかけて、私は私を偽るために、人生のほとんどのリソースを割いてきた。

それによって今、社会生活を何とか営めるまでに己を訓練でき、合わせようと思えば合わせられるようになった。

無駄ではなかった。

でも必要なかった。

私は、私を偽って外的脅威から身を守る生存戦略を確立する裏で、巨大なストレスを抱えるようになった。

私の生き方そのものが「私は私らしく生きていてはいけない」という呪いになった。

それは外的脅威よりも己を蝕んだ。自己否定は自信を奪う。より周囲に迎合するようになっていく。悪循環だった。

 

唯一の正解は、私が私らしく生きることだった。

他人の評価や好き嫌いは、実は全く関係なかった。彼らの問題にすぎず、私が気にすることではなかった。

そんなことのために貴重な10~20代を費やす必要はなかったのだ、と今ならわかる。

しかし、わかるために私の無駄な努力は必要だった。無駄ではない無駄だった。

 

そうやって、過去の自分が必死にやってきたこともひっくるめて、「自分が思うとおりに素直に生きていいんだ」と他ならぬ私が私にOKを出せてから、他人にイライラしなくなった。

なぜか?

「私だって我慢しているのに」と、自由に楽しく自分の人生を生きている人を妬ましく感じたから。

本当はそれが最もやりたかったことで、でもそんなふうに生きてはいけないと思っていたから。

全部、自分が禁止していただけだった。私も自由に生きてよかった。

そう思ってから、他人の人生に口を出さなくなった。

私は私の人生を一生懸命生きることに集中できるようになった。

 

仕事と距離を置いたから

雇われている人にとって、職場とは、自分らしく生きられない最低の場所だと思う。

私はサラリーマンに向いていない。20年近く勤めてみてやっとわかった。

組織の一員として、没個性的であることは、前段で述べた私の若い頃の生き方にそっくりだ。

周りと違うことをしない、ルールを守って良い子ちゃんでいる、言うことを聞いて褒められるのを期待する。

全部、間違いである。それは人間の人生ではない。奴隷の人生である。

私はそのことに気づいて、組織に肩入れするのを一切やめた。

結局は生活費をねん出するために会社という仕組みを利用しているにすぎない。

あちらも、利益を生み出すために労働力として人間を利用しているにすぎない。

そんな損得勘定に基づいたドライで価値のない関係性に入れ込む必要はないのである。

 

そして、驚くべきことに、多くの企業は社会のことなどまるで考えていない。

自分たちの利益を追求すること。それが会社という組織の目的で、それが資本主義社会では正義。

だから、そんなにまじめにやる必要はない。

誰かのためになる、なんて幻想でしかない。金のためである。

そんなもんなんだ、と理解したので、組織内での評価はどうでもよくなった。所詮は、もっと熱心に奴隷をしてくれるように仕組化された評価制度であり、仕事が評価されたから人間としてレベルアップするわけでもないし、何かを得られるわけでもない。

むしろ、現代社会で認められるというのは、人間として下劣であることの証明だと思っている。

損得しか考えない、心が死んでいる素晴らしい奴隷。そのなかでもトップクラスのクズです。

そう言われていると思って差し支えない。

 

 

薬をやめたから

「学校の成績が良くなり進学ができる」

児童精神を診ている発達障害専門の医師が、これをゴールに掲げていると言ったら、みなさんはどう思うだろうか。

私は、ゴールを間違えている、と思う。

義務教育学校は、国がこしらえた奴隷養成施設である。

そこで成績が良くて、何が回復なのだろうか。

学歴社会に置いていかれないようにするなんて、どうでもいい。

そもそも学歴社会が破綻しているのだから。

このような「専門家」が、訳知り顔で医療行為と称して子供のユニークな個性を殺し、奴隷に貶めているとさえ思う。

 

たしかに学歴は新卒採用時に有利なカードとして使える時代があった。

私が就職活動をしていた時代などは、学歴で足切りがあった。

しかし今の時代、グローバルで考えると、東大を出ようがFラン大学を出ようが、あまり学校の価値に差はない。

エントリーシートに学歴を記載する欄を設けない企業が増えてきた。

学歴より経験。何をしてきたか、何を感じたか、が重要になっている。

「学校の成績が良く難関大学に合格できた」

これは、先生の言うことを聞くことで内申点を稼ぎ、親の言うことを聞くことで自分で考えず準備されたレールに乗り、嫌だと思うことをやれと言われたから一生懸命やった、という意味である。

つまり「私は己を殺して命令を遂行できる、優秀な奴隷です」と自己アピールしている。

そんな歯車はもうこの世に腐るほどいる。そしてそのような鉄の檻から出られない没人格化した人間が、社会をダメにしている。

だから、発達障害にかかわるうえで本来重視すべきは、その子の「好き」を奪わないこと、義務教育という型にはめないこと、その子らしさを受け容れてどう生きていくか一緒に考えること、だ。

そう考えると、特性をあえて打ち消すようデザインされた医療用医薬品を投与すべきではない。

二次障害としての気分障害や不安障害は、一時的に介入する必要があるかもしれないが、それも早期に減薬・断薬して、本来の自分で生きていくことを大切にすべきだと思う。

本人ではなく社会が変わらなくてはいけないが、そうそうこの腐った社会は変わることはないので、ある程度の落としどころをつけつつ、その人らしい人生を応援する。

医療用医薬品はそのためにつかうドーピングであり、それが必要ないほど人生観が確立してくれば、必要ない。

なので、私は抗うつ剤もやめ、ADHD治療薬もやめた。

それで今一番調子がいい。薬を飲んでいた時は、イライラしていた。

 

私がイライラしなくなった背景は、こんな感じ。

【発達障害】話し方がムカつくと言われる話

私の話し方はムカつくらしい。

妻からそう言われることがある。あの妻に言われるくらいだ。相当ムカつくんだろう。

思い出してみたら、私が話していると、なぜかムキになってくってかかられることがある。

 

私としては、できるだけわかりやすく論理的に、単純明快になるように話しているつもりなのだが、それが癪に障るらしい。

正直、それだったらもうどうしようもない。黙るよりほかに手段はない。

 

思えばいつも、コミュニケーションは難解で面倒な行為だった。

「雑談」というのも習得するのに時間がかかった。

どうでもいいことを話す、というのは、私にとってとても難しかった。

何とか他人の「雑談」に聞き耳を立てたりしながら分析と検証を繰り返し、編み出したのが「相手が関心がありそうなトピックスをいくつか頭に入れておいて、その話題を振る」だった。

相手のことを全く知らない場合は、季節のこと、食べ物のこと、なんでもいいから共通点が見出せそうなトピックを選んで、相手に質問する。そして答えてきた解答について、同じような見解や趣味趣向がある場合は、同意する。「私はあなたと似た者同士で、敵ではないですよ」と警戒心を解くのが目的の「雑談」。

「雑談」はとても疲れる。

楽しくなんかない。

どこに地雷があるかわからないベトナムの荒野を裸足で一歩一歩踏みしめるような作業だ。

相手がどう思っているかなんて、その時々で変わるし、趣味趣向だって年代を経ると変化したりする。

そんなあやふやなことをいくら話し合っても、身になることは何もない。

 

「相談」なのか、「ただ聞いてほしいだけの愚痴」なのかも、判別するのが難しかった。

「相談」だと勘違いしてアドバイスなんてしようものなら、逆鱗に触れる。

「ただ聞いてほしいだけの愚痴」なのかと思って相槌だけ適当にしていたら、聞いていないと怒られる。

「相談」だったとしても、まずは相手の気持ちを受け止める工程を挟み、共感してから、隣に寄り添うように自分の意見を言わなくてはならないのだ、とわかったのは、つい最近のことだ。

こういうことを国語の授業でやるべきだと思う。古文や漢文をやってる場合じゃない。こういう大事なことを義務教育で教えといてくれよ。えらい苦労したよ。

 

この「相談なのか愚痴なのか問題」は、私も逆の立場で不愉快になったことがある。

妻に仕事の愚痴を言っていたら「あなたって○○だからそうなるんじゃない?」と言われて、落ち込んだことがある。

つまり、俺が悪いってことね、と思うと、もう話す気も失せる。

聞き飽きているから終わらせたい、というニーズが妻にはあったのかもしれない。「私だって家事育児で疲れているし、そんなつまんない話聞く元気がない」というメッセージだったんだな、と後になって理解した。

もう仕事の話なんてしないようにしよう。

話して思い出してもいいことなんてないし、他人はどうにもならないし、ウザがられるくらいなら話すほうがストレスだ。

記憶の闇に葬り去るしかない。

 

会話して元気になる、という人の気が知れない。

疲れるだけではないだろうか。

私はとても疲れる。人に会うだけでもうヘトヘトだ。わざわざ疲れているときに会おうなんて、狂気の沙汰だ。

話すのが好き、という人をとても真似できないな、と思う。

私にとっては、話すというのはリスクだし、聞くというのはストレスだ。

 

私の話し方。

ブラック企業時代、上司に「日本語の話し方がなってねぇから、お前話し方講座にでも行ってこいよw」とバカにされて、真面目に受け取って自腹で学びに行った。

思い起こせば、あいつは私より話し方が下手だったと思う。身の程をわきまえず偉そうにのたまいやがって。いつか不幸になってほしい。

私は社会人になり、会話の構成に関する書籍を読み、分かりやすいプレゼン方法のHOWTO本を読み、要点をまとめてわかりやすく伝えられるように頑張ってきた。

しかし、肝心の何かが欠落している。

だから私が話すと、他人はムカつくのだろう。

その肝心の何かとは、概念化することができない共感覚というか、いわゆる『阿吽の呼吸』的なマナーなのかもしれない。

そして、私の「会話という行為に対する認識」に決定的に欠落しているのは「楽しい」という感覚だと思う。

会話が好きな人は、楽しんでいるからスムーズであり、共感覚が働くように、はたから見ていると思うことがある。

繋がることを喜び、楽しむという基本姿勢が、円滑なやり取りを可能にしている。

 

私にとっての「繋がる」は、見えない鎖で拘束されるようだと感じることが多い。

他人の欲、他人の思惑、他人の都合。

そういうものがべっとりと纏わりついた、忌まわしい呪いの鎖。

それでお互いの身体をぐるぐる巻きにされるみたいで、不快極まりない。

仕事では特にそうで、損得しか考えていないクズ野郎たちの欲と都合に振り回されるので、あまり他人と関わって仕事したくない。

しかし、人間は社会的な生物なので、その鎖の拘束がなくては、生きていくのは難しい。

自分だけで生きていければ平和でストレスフリーだが、そうはいかないので、生きていくために呪いとストレスを背負う。

生きるって、しんどいなって思う。

私の話し方がムカつくって、俺からしたら全員の話し方がムカつく。話そのものがムカつくよ。それでも我慢してんだから、そっちだって我慢しろよ、と言いたい。

こっちだって関わりは最小限にしたいよ。

できるだけしゃべりたくもないし、そうそう他人に伝えたいことも無くなってきた感すらある。

だって、他人は結局好きなように生きるんだもん。俺がいようが居まいが。

俺だってそうだし。他人がなんて言ってようが、自分が思うように生きるし、そういう風にしか生きられない。

寂しさや焦りがあったのは「陽キャであるべき」というべき論に囚われていたからだ。

陽キャだろうが陰キャだろうが、自分らしく生きていればそれで100点満点だと知った今、他人はさらにどうでもいい存在になった。

そんなどうでもいい存在に、とやかく言われたくない。話し方が気にくわないなら、話を振ってくるな。俺も話さないから。

なんかもう、人口1/10くらいになって、たまにしか人間に出会わない世の中になればいいのに、と思う。

多すぎるよ、有象無象が。嫌でも視界に入ってくるし、有難みが感じられない。

しかも口を開けば似たようなことしか言わなくて、内容がつまんないんだよな。

それで楽しめなんて無理がある。内容をもう少し煮詰めてから雑談に興じてほしい。

まあ、他人の問題なので、私がどう思おうが他人にしか変えられない。

 

別に私は悪くないのに、とかくこの世は生きづらい。

疲れたなぁ。

 

【発達障害】立ち話も電話も出社も嫌で仕方がないという話(神経発達症)

私は他人と話すと神経が削られる。

これはACを自覚して、回復プログラムに取り組んでからも変わらない。

ADHD・ASDと診断されてインチュニブを飲んでも変わらない。

おそらくは発達傾向として「コミュニケーション」にとても疲れを感じる性質なのだと思う。

 

かたや、他人と話すと元気になる、という人もいる。

本当に不思議だ。

どういう理屈で元気になるんだろう。

同じ発達傾向でも、ADHDの傾向が強い人は、割とこのタイプがいたりする。

 

私はどちらかといえばASD寄りなので、自閉傾向が強い。

昔の言い方でいう「高機能自閉症」というのに該当している。

コミュニケーションは取れるものの、得意ではなく、自分の世界に没頭しているほうが好き。

没頭しているときに何か邪魔が入ると、パニック障害に近いような癇癪を起こす。

小さい頃は、それでよく狂おしいほどの混乱に、ただただ泣き叫んで暴れていた。

そのたびに叱責され周囲に疎まれ、次第にこの状態をそのまま出すと他人に悪く思われると理解するようになる。

身体が成長するにつれて前頭前野が発達し、癇癪が起こっていても、何とか理性を働かせてブレーキをかけることができるようになる。

しかし、それは周囲に悟られないように耐えることであり、癇癪が起こらなくなったわけでは無い。

私の内部では、感情の嵐が吹き荒れていて、いまにも叫びだしたいほどの苦痛を内側に抱えていることに変わりはない。

じっと耐えているから、周りにはわからないだけ。

しかしそれも一日に何回も強いられると、さすがに疲弊してくる。機嫌は悪くなるし、頑健痙攣は起こるし、腹が痛くなる。

 

パッと出会ってしまった他人と立ち話するとか、かかってきた電話に取るとか、相手の都合がよくなるまで待機するとか、おそらく定型発達には些細なことなのだろう。

私にとっては、とてもキツい。

 

とっさに他人と立ち話するのは、基本的に全然楽しくない。話題に面白味があり楽しいときもあるが、どっと疲れる。

予定にない「立ち話」というイベントがはさまれることで、私がやろうとしていたスケジュールにズレが生じる。それがとてもきつい。急いで目的地に向かわないといけなくなったり、立ち話したことで新たに考え事のネタが浮かんでしまったりして、とにかく邪魔された感が強い。

 

かかってきた電話を取るなども、そのように邪魔になる。

何か作業をしているときに限ってかかってくる。

かかってきて不在着信が残る。それが気になる。

その時点で、今やっていた作業への集中力・没頭していた精神は、現実に引き戻されてしまう。せっかく1つの作業を完遂するためだけに研ぎ澄まされてのに、コールひとつで台無しだ。

そしてかけてみれば、大した用事でもなかったりする。はらわたが煮えくり返る。

こちらからかけるときもそうだ。

私は電話をかけるぞ、と思って決意をしてからでないと、話し出せない。

しかし、かけたときに相手が出るとは限らない。

折り返しが来たときには、私はまた決意を新たにし直さなくてはいけない。

電話ひとつでとても振り回される。だから電話は嫌いだ。

 

「1~2分で済むことじゃん」と思うだろう。

「そんなに気を張らなくても自然に話せばいいだけじゃん」と思うだろう。

そうできたら、どんなにいいだろう。

 

私は、一度にひとつのことしかできない。

そして自分が決めた順番にやることしかできない。

自分の順序・自分の作業への集中を乱されると、もう一度一からやり直しになるように感じる。

河原で石積をしていて、やっと半分積み終わったときに、横から蹴っ飛ばされて「あのさぁ」と話しかけられたら、どんな気持ちになるか、想像してみてほしい。きっと多くの人がキレるだろう。

あるいは、川のせせらぎを聞きながらただただ「石を積むこと」に集中したいのに、隣でデカい音楽をかけながらバーベキューし始めたら、イライラするだろう。

自分の時間に横やりを入れられる感覚は、これらに近い。

 

基本的に深い集中に入りきってしまえば、大したことでは引き戻されない。腹が減っても気づかないし、眠気も感じない。全神経を一つのことに集中していて、話しかけられても気づかないほどだ。

しかし入る途中や普段の状態は、ADHDの傾向が前に出ていて、頭のなかでは常に考え事をしている。五感は周りの会話や音や色や光をすべて拾おうとする。

世界は、やかましくてしかたがない。

音が聞こえにくく光の刺激が少ない水のなかが好きだった。だから習い事のなかで水泳は長続きした。今も海が好きだ。人が少ないビーチによく浮かびに行く。まるで水死体のようにずっと波に揺られてぷかぷか浮かぶのが好きだ。

ライブやクラブは大嫌いだ。まず音が五月蠅すぎる。光も不快。人が多すぎる。人の熱気で湿度が高く肌がべたつく。声を張らないと何も会話できなくて喉が疲れる。一つもいいことがない。

他人がいる空間にずっといなくてはならない、というのがもうダメだ。

オフィスに寄りたくない。他人に会うから。

会って話をしなくても、同じ空間に他人がいるのが嫌だ。気になって集中しにくい。

だから、どうしても大量にコピーしないといけない日や、提出物を出しに行かなくてはいけない日以外は寄らないし、寄ったとしても深夜か早朝の人がいないときに行きたい。

そうしたいのに、社用車の使用制限がかかって、出発前に上司にFacetimeで顔を突き合わせて連絡を取らなくてはならなくなった。

まるで地獄のような制度だ。

それだけで朝からもう疲れる。

朝晩にテレビ電話をしなくてはならない。それがどれほど苦痛なことか、定型発達にはわからないのだろう。

事務的に「今日も一日よろしく」「はい」で終われば1秒でよいのだが、「今日はどこ行くんですか?」だの「今日の○○クリニックどうでした?」だの聞いてくる。本当に止めてほしい。

業務連絡が必要なことなら、こちらから簡潔に話す。いちいち聞き出そうとしないでほしい。話さないということは、話す必要がないということだと、理解してほしい。ほっといてほしい。

同じような連絡を複数の人がやり取りするのも理解できない。

ひとつの内容の連絡は、1回でいい。

なぜ複数人から同じ内容を聞かせられないといけないのか、意味が分からない。

「ああ、それ〇〇さんから聞いたよ」と言われたときの私の脱力感たるや。

「ならわざわざ電話する必要なかったじゃん」とすごく気力を無駄にした気持ちになる。

 

おそらく、仕事においてこういう非効率的なコミュニケーションができる人は、仕事をしている自分が好きだったり、「仕事」という世界に浸っていたい・漬かっていたいんだろうと思う。

それはある種の逃避であり、依存でもある。

今の上司はまさにそうで、「ミスなし、モレなし、ダブりあり」がモットーらしい。

だからとにかく話したがるし、話させたがる。

本当に合わない。

MBAを取得しているんだから、ロジカルシンキングでいうところのMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)でいいじゃないか。なんで最も重要なダブりをありにするのか。

このモットーが無駄な仕事時間を生み、皆を疲弊させている。それをわかってない。仕事だけが好きな人なら、もっと浸っていられるからいいだろう。

しかし私は仕事なんて大嫌いだから、できるだけ脳のキャパを割きたくない。

割きたくないのに、無意味なことでメモリの使用率を圧迫するから、プレーヤー個人としての処理速度が落ちるし、アウトカムの質が落ちる。

つまり、仕事の遂行においても、マネージャーの存在は邪魔でしかない。

 

仕事というのは、人生のほんのごく一部だ。

そして、この世の仕事のほとんどは詐欺のようなものだ。

価値が低いものに価値らしきものを付与して騙しだまし高く売る。その差で儲ける。

詐欺に該当しないのは、自分たちが食べるものを必要な分だけ自分たちで作ることや、子どもを守り育てることや、人々の辛さや苦しみに寄り添い居場所をつくることだ。

つまり、自給自足のための家庭菜園・保育士や保護司・特定の居場所を運営する非営利団体などである。

お金は、全てが汚れている。

汚れをいくら集めても清くなることはない。

そればかりか、嫉妬や憎悪などの呪いを孕んだ呪物に近いので、それをたくさん手元においておけばおくだけ、人間が腐り、本当の幸せから遠ざかる。

だから、仕事など、生きていくために最低限でよい。

稲盛和夫や本田宗一郎を尊敬するビジネスパーソンは多いが、あれは「仕事」がバブル経済の崩壊前で「やればやるだけ承認欲求を満たすことができ努力が報われるゲーム」だったがゆえの理論であり、今の時代にはそぐわない。

仕事というゲームを「居場所」に見立てて、精神的な拠り所とした男性社会の宗教的幻想。

その背後には、仕事にかまける父親からネグレクトされ続けた母子が生むアダルトチルドレンという呪いを産んでいる。世代を超えて苦しめる呪いを産んでおいて、勝手に仕事を美化されてはたまらない。

仕事はただの労働だ。生きるために金が必要な社会だから金をつくるための作業だ。それ以上でもそれ以下でもない。それより重要なことは人生において星の数ほどある。

 

しかし、それが理解できる人は、金で殺し合いをしているこの新自由主義・資本主義社会では、珍しい。

「金は命よりも重い」。みんなカイジの世界で生きている。話が通じるはずもない。

命より重いわけなかろうが。紙幣は紙きれだし、硬貨は金属の板だよ。皆が洗脳されて価値があると思い込んでいるだけ。

 

話が随分とわき道にそれてしまったけど、結局、仕事なんぞにいつまでも漬かって現実から逃避したいとっつあん坊やには付き合いきれない、ということだ。

勝手にやっといてくれ。そして余計な意味のないことで私の貴重な時間を奪わないでくれ。

そんなことを本当に言うと相手が顔を真っ赤にして怒り狂うことは、今までの経験で心得ている。だから口には出さないのだけれど。

妻には「勤め人は向かないからやめたほうがいい」と言われる。

本当にそう思う。

人間が向いていない、ともいえる。

社会不適合者というのは、こういう人をいうのだ。やれやれ。

【発達障害】「あらゆる集団に馴染めない問題」について

私は本当に、集団で社会生活を営むのに向いてない。

コミュニティに属するのに向いてない。

なんていうか、人間そのものが向いてない気がする。

 

なんでか知らないけど、どこに行っても衝突する。

私としては、まっとうなことを言っているのに、煙たがられる。

 

たとえば、マスクなんて意味ないから外してるんだけど「つけてください」とか「お子さんにつけさせてください」とか言われて、「え、なんでつけないといけないんですか?」って言う。

「そういうルールなので」とか「感染対策なので」と返ってくるんだけど、実際今まで真面目につけてた日本で感染はまた拡大してる。ということはリアルワールドでも効果なかったし、研究結果で「感染対策として意味がなかった」って報告もある。

だから、絶対つけないといけないとは言えないし、そもそも任意だし、「つけてください」と言われても「嫌です」が本心。

本心を話すと困った顔をされる。

私よりコミュ力が高い妻は「そんなん、そのときだけ合わしといてすぐ外せばいいじゃん」という。

わからない。

なんで本当は嫌なのに、気を遣って意味がないと思っていることに付き合わないといけないのか。

私は、他人がマスクをつけることは止めない。

マスクですっぴんが隠せるというメリットがあるからつけている人もいるだろうし、そもそもマスクというアイテムが好きな人もいるだろうし。

感染対策になると本気で信仰している人もいると思う。それは、宗教の自由だから、別に信じているならそれはそれでいいんじゃないかと思う。

つまり、好きにしたらいいと思っている。

だから、私にも好きにさせてよ。(笑)

マスク着けるかつけないかなんて、私が決めることでしょ。なんで明らかな正しさも納得もないのに他人の命令きかないといけないの。

おかしいよね?俺がおかしいのか?

 

会社でも浮いている。

患者さんのためになることをするのが、製薬会社のレゾンデートル(存在理由)であり、真の仕事だと思う。金儲けじゃない。

だって、薬の売り上げの7~9割は税金なんだよ?ほぼ公務員じゃん。成り立ちとしては民間企業だし、株式会社だから営利団体かもしれないけど、税金で成り立ってるビジネスなの忘れてない?

しかも生命関連産業が金儲けだけに走っちゃ倫理的にダメでしょ。

地域医療に役立つ仕事をして、その結果会社のスタンスを評価してもらって信頼されて、だから話す内容を真剣に聞いてもらえる。

結局今まで逆だったから、MRはゴミみたいに扱われてるんじゃないの?

ただ売りたいだけ、下心で近づいてきて、都合のいいことしか言わないから、信頼を失って今があるんじゃないの?

コロナのせいじゃないよ、もともと会いたくなかったんだよ。そんな損得野郎と話すの嫌だもん、俺が先生だったら。忙しいのに近寄ってくんなよハイエナども、って思うよそりゃ。

もともとはたくさんお金を支払えたから、まだウザくても利用価値があったかもしれないけど、今はせいぜい弁当くらいでしょ。もう用なしだよね。(笑)

会えないから会うために、講演会の役割とかこしらえてさ、アポイントアポイントって、それさらにウザがられるだけじゃない?

だって先生たちは毎日命を守るために忙しく働いてるのに、スライドつくったりするのに何時間も取られて、そんなのやりたくないよ。よっぽど目立ちたがりの先生じゃない限りは。

謝礼支払えるったって数万ぽっちでしょ?そんなはした金のためにスライドつくろうと思うほど、先生たちの財布はさびしくないよ。大したメリットじゃない。

なんかそんなことを依頼してこいと上司に言われるわけさ。

そりゃバトルになるよね。

「その行動が本当に医師の信頼につながるのか」

答えはNoで、医師の処方に繋がればそれでいいと思って行動を考えている。

処方に繋がるわけないじゃん、ウザがられることしてるのに。

結局私が今担当しているところでは、面会アポイントを定期的にいただくことができない。それは、前任者が今の上司の口車に乗ってウザい依頼をかけまくったから。

建前上は医師会や薬剤師会からの依頼だと断りづらいから、しぶしぶ会ってくれたけど、そのあとは「めんどくさいことお願いされるかもしれないから逃げとこ」ってなったんだと思うよ。

全く、余計なことしてくれたもんだ。おかげで俺が会ってもいないのに嫌われて会ってもらえない。

とまあ、こんなことを言うのはさすがの俺も気を遣うので、とても言葉を選んでやんわりと伝えるんだけど、根本的にお金しか見ていないからか、全くわかり合えない。

厄介なことに、自分たちが正しい、と思っている。

お金儲けそのものは、ゲームとしてこの社会で成立しているので、ハマるぶんには個人の自由だと思う。お金が欲しい、地位が欲しい、名声が欲しい、いいんじゃない?それで人生が輝くなら、突き進んだらいいと思う。

それを、私に押し付けないでほしいんだよね。

勝手にゲームにハマるのは良いけど、なんでこっちにもプレイさせようと強要するのか、意味が分からない。

私は本来の仕事だと思っている、副作用情報の収集とか本当に喜んでもらえる講演会イベントの企画とか、そっちのほうが楽しいし結果的に会社にとっても最も利益があると思ってやってるわけよ。

ほっといてくれよ。

金儲けには俺は興味ないんだ。出世とかもう心底どうでもいいんだ。

どうか勝手にやっててくれんかな。

なんか、そんな感じで職場でも浮いている。

 

不動産でも毎回もめる。

退去時にバトルにならなかったことがない。

私が問題あるのかな、と思った時期もあったけど、あきらかにボッタくろうとしてくるのが問題の根源だと思う。

こっちだって、国交省のガイドラインに沿って適切に請求されたものなら、喜んでできるだけ早く支払うさ。

やたら単価が高かったり、汚損破損以外のところを全部ついでに修理しようとしたり、減価償却の原則無視したり、そもそも契約書にあきらかに賃借人に不利な特約書いたりするから、トラブるわけよ。もともと自分たちが蒔いた種だよね、って話。

そんな細かいことわからなくてホイホイ支払う人には支払ってもらえばいいと思うよ。本人がそれで納得してるんだし。

でも、俺はちゃんとした請求内容じゃないと納得できないから支払えないのよ。

それって間違ってる?何も問題ない、むしろ起こっている状況に対して真面目で誠実な態度じゃない?おかしいなぁ( ^ω^)・・・。

確かに見積で「諸経費」を意味もなく載せたり、足元みて高めに単価設定したり、それは営業ならよくあることだって知ってる。

でも、それってバレたらもう通じないわけよ。ちゃんと見積を読む担当者の前ではすぐ化けの皮剥がれる。

不動産業界、特に管理会社会界隈では、普段は家賃の5%前後しかもらえないから、退去時にぼったくらないと利益が出せないって必死なんだってね。

そんなん、知らんし。そっちの都合じゃん。

しかも、大した管理もやってないじゃん。5%妥当な仕事っぷりじゃん。(今まで住んだ物件の管理会社に限る。多分いい管理会社さんも、めぐりあってないだけでたくさんあるはず。)

健全な企業努力で成果出しなよ。弱者からむしり取ろうとしないでさ。そんなお金で食べるご飯は美味しいのか。その神経、私には信じられない。

だけど、周りを見てみると、そんなにもめている様子もない。

不思議すぎる。みんな請求内容を見て疑問に思わないのだろうか。

 

研修会とか、同じ資格の集まりに参加しても、どこか馴染めない。

質問したら質問が多すぎるとウザがられる。

なんで?質問が生まれるようなプレゼンだから質問されるんじゃん。内容をブラッシュアップすればいいし、それができるチャンスじゃん。なんでうざがるのか。

時間がないって思うなら、あんまり意味のないディスカッションパートもっと圧縮すればいいじゃん。何となくやってる感、理解してもらえた感のために、ロールプレイとかするから時間無くなるんでしょうよ。

その運営の下手さはそっちのマターでしょ、こっちにイライラで八つ当たりされても困るんよ。

参加させてもらって有難いと思ってるし、真剣に受けてるから質問が生まれるわけで、ただ置かれた人形みたいにしてたほうがよかった?そんな感じで聞いてるときは、俺の頭には何一つ入ってないけど。それが目指してたゴールなら、すいませんでしたって感じだけど。(笑)

結局本心は、やれたことそのものに満足しちゃってて、自分たちのイベントを否定されたくなくて、守りに入ってるだけでしょうよ。

そりゃ、一から新しく組織立ち上げたりは大変だっただろうさ、それはすごいと思う。

でも、イベントの質の高低と経歴は別の問題じゃない?

 

 

とにかくそんな感じで、他人とはそりが合わない。

それが他の人と比べて頻度が多い気がする。

なんとなく、適当に、やってればいいのかな。

でもそれは全く私らしくない。

 

なんていうか、厳しいんだろうな。

自分に対してそうだから。それが当たり前と思うんだろう。

それは、自分の当たり前を他人に押し付けてるわけだから、よくないよな。

 

たぶん想像するに、友達ができる人は、

「まあ、そういうこともあるよな」

「彼らなりの事情があるんだろうな」

とこだわらないで流せる心が広い人なんだと思う。

そういう解釈では、私はとても心が狭い人なのだろう。

あとは、基本的に尊敬しているんだと思う。他人を。

歩んできた人生とか、作り上げてきた成果とか、とにかく背景にある歴史にリスペクトを持つこと。それを前提にして会話をしている気がする。妻を見てるとそう思う。

だから、今ココでパフォーマンスがどうか、というより、ぶっちゃけ提供されたサービスがショボくても、その背景エフェクトで不平・不満が相殺されてる感じがする。

私は今までどれだけスゴイかとかはあんまり興味が無くて、今しか見てない。

「自分がその人を目の前にしてどう思ったか」が基準なので、偉い人だろうがなんだろうが、あまり背景を勘案しない。言っていることが違うなと思ったら「違う」という。

だから「なまいきだ」とか「失礼だ」とか言われる。

 

ああ、それで思い出した!

部活!部活でも蛇蝎のごとく嫌われてた。

先輩とか後輩とか意味が分からなかった。

だって、1歳か2歳歳くってるだけで、大して変わりないガキ同士なのに、偉そうにされる意味が分からんかった。そうじゃないの、みんな?

「そんなに偉いんなら、タイマンで勝ってみろよ」って、先輩たちランキング戦でボコボコにしたら、ロッカーに落書きされたりした。(笑)

俺に負けた先輩が悔しすぎて陰で泣いてたのを何回も見た。

だって、スポーツの上下って実力じゃないの?

負かされたら、もちろん尊敬するよ。年下でも年上でも。俺はそう。

 

ああ、でも教師ともそりが合わなかったな。

クソつまんない話しかできないうえに社会に出たことのない、学生の延長にいるおじさんおばさんだと思ってたから。それはちょっと認知歪みすぎだったなと思う。親が教師だったから、余計に偏見が入ったんよな。

でも、偉そうにするのはどうかな、と今でも思う。

同じ人間で、軍隊でもないのに、なんで命令すれば生徒が従うと思っているのか、意味が分からない。命令が正当じゃなければ従わないっしょ。

たとえば「シャツをちゃんと入れなさい」とか。それに納得いかない俺のせいで授業が1限分潰れたことがあった。

夏にシャツを入れたら、入れないときに比べて通気性悪くなるじゃん。先生たちはクーラーがんがんにきいた職員室にいるからわからんかもしれんが、クーラーのない教室で個々人が工夫して可能な限り快適な服装をすることの何が悪い。みたいなことを言った気がする。

だって勉強しにきてるんだよ?勉強に集中できたほうがいいじゃん。快適じゃないと頭に入らないよ。ただでさえ眠りの呪文みたいなわかりにくい授業なのに。

規律が、とか、校則が、とか言ってた気がするけど、なぜそもそもその規則ができたのか背景を説明できない時点で、やっぱり根拠に乏しい聞く価値がない命令なんよ。

みたいなこと言ったらぶちギレられて職員室に呼ばれた。とても涼しかったので快適だった。

 

なんかもう、無理っぽいなぁ。

私は私らしく生きていると、集団を破壊するのかな、とだんだん思ってきた。

それ自体は負い目を感じる必要もなくて、私は結局私らしくいないとまたアルコール飲んだり共依存したりするだけだから、もうどうしようもない。

受け容れてもらえないなら、それはそれ。

私そのものが悪いワケじゃない。ただ合わなかっただけ。

受け容れてもらえる場所を見つけるか、受け容れてくれる自然と生きるか。

それしかないんだろうな、と思う。

 

いろいろね、コミュニケーションがどうとか、気に入られる技術とか、さんざん漁ったよ。

でもそれは結局問題の本質では無くて、どんな特性であっても堂々と生きることが最も健康的で最も自然で、本当の友達に出会える近道なんだよな。

本当の友達は、人ではないのかもしれないし。

人間の友達でなくてもいいのかもしれない。

【発達障害】「社会不適合者」と呼ばれて

私は自分の疲れを認識するのがとても苦手だ。

「あれ、今日布団から起き上がれないな」

「なんかネクタイ締めようとすると、嘔吐くんだけどなんでだろ」

「立とうと思ったら膝に力が入らなくてこけちゃった」

みたいなことがある。

そこまできてはじめて、「あれ?俺ってもしかして疲れてる?」ってなる。

その不思議について今日は書いてみる。

 

やりたいこと・やるべきことに集中しすぎる

私は、とにかく目の前にやりたいことややるべきことがあると、それに一点集中してしまう。

意識が全部もっていかれるというか、勝手に突っ走っていて、止まらない。

以前は、やりたいことなんてなかったので、とにかく仕事にまい進していた。

「もっと良くするには」「もっと早くするには」

そんなことが常に頭を占めていて、思いついたアイデアを形にするために具体的なアクションを描き、実行する。

ゲームをしているときの感覚に似ている。

この武器をつくるには素材は○○が〇個が足りないから、このモンスターを〇匹倒して、次は成長させるのにこれが足りないから・・・と、次々どんどん進めようとする。

ゲームの場合も、睡眠も食事も忘れて没頭してしまう。

なんかイライラするな、体の調子悪いな、とゲームの目的達成の進捗が悪くなり始めると気づく。

その感覚は「強迫的」というのが語感としてとてもしっくりくる。

「やろう」が「やらなきゃ」になり「なんでもっと早くできないんだ」になる。

具体的なアクションに意識が集中しすぎるあまり「楽しむ」から意識がどんどん離れていく。

こんなに疲れてイライラしてまで、なんでやってたんだっけ?とふと我に返るときがある。

 

諸刃の剣

これは「過集中」という発達障害の傾向のひとつである。

良い面も悪い面もある、いわば諸刃の剣だ。

良い面としては、並外れた集中力と意欲で、常人には困難なことを実現する突破力を持つという側面がある。

たとえば、社会福祉士の国家試験を7日で合格したりすることができる。

妻からもよく「その集中力うらやましい」と言われる。

ふつうは、そんなに一つのことだけに長時間没頭することはできないらしい。私には感覚がわからないけど、楽しい・好きと思っていても、途中で飽きたりして、中断しても全然嫌じゃないそうだ。

私は中断されるとパニックに陥り心が引きちぎられるような気持ちになる。そしてしばらくその不快感を引きずって生活することになる。

たとえば、今こんなふうにブログを書いているけど、書き切るまでに邪魔が入ってしまうと、尋常じゃない怒りとストレスに苛まれる。叫びたいくらいイライラする。頭のなかでは続きを書いているのに、今この瞬間にそれを文字にできないと、のちのち内容を忘れてしまったりして、それがものすごくキツい。

気持ちがノっているときに一気に書いてしまわないと、気持ちが削がれてもう続きが書けなくなってしまう。「続きを今更書いたって、どうせ気持ちの入らない、価値のない文章になる」ともう一人の私が呟くので、あとで続きをやっていてもどうも楽しくない。結局お蔵入りすることになる。

なので、マルチタスクで一つ一つの作業が途切れ途切れになる社会人の仕事は、私にとってとても高度な作業になる。

特に営業は突然電話が入って作業中断を余儀なくされる。急な連絡で予定が変わることが日常茶飯事だ。会社の方針ですらコロコロと朝令暮改を繰り返したりする。狂気の沙汰だ。よくみんな普通の顔をして働けるよな、といつも感心する。私はとても無理だ、向いていないと自覚している。

気持ちがせっかくノっているときに限って、クソつまらない会議で時間を拘束されたり、PCを開いてはいけない時間帯に差し掛かったりしてしまう。

やりたいけどやれない。その不快感に堪え神経をすり減らす。

時が経ち「さあ、もうやってもいいですよ」と言われても、もうその頃には心も体もエナジーはゼロだ。もはややる気はない。でもやらないといけない。締め切りがある。とてもつらい。

 

理解されない私の感覚

宿題をやろうとしていて母親に「早くやりなさい」と言われてしまい、やる気をなくす。

そんな経験が一度はあるのではないだろうか?

やろうとしていたことは、他人が指図した瞬間に「やらされ仕事」になる。言葉では言い表せない何か大切なものが台無しにされてしまった。そんなふうに感じるだろう。

それに近い。その台無し感をより強く感じ、かつ尾を引くタイプ、と思ってもらえるととてもイメージしやすいかもしれない。

しかし、なかなかこれは社会人としては受け入れられにくい。

「なに甘えたコトいってんだよ、気分がどうこう言ってないでやれよ」

「そんなの気分転換すればいいじゃん、上手にできないのが悪いんだよ」

「みんなそのルールでやってるんだから、わがまま言うなよ」

幾度言われたことだろう。正直に話せばそんなふうに「わがまま」な「怠け者」で、扱いにくい「社会不適合者」とレッテルを貼られてきた。

ちょっとお菓子を食べたりコーヒーを飲んだりして気分が変われば、どれだけいいか。それで変わるならいくらでも食べるしいくらでも飲む。

まあそんなふうにしてアルコールの鎮静作用を利用し、いや乱用した結果、アルコール依存症になるまで頼りに頼ったわけだが。

 

ルールなんてクソくらえ

勝手にお前ら定型発達が設定した謎のルールになんで従わねばならんのだ。

ルールは変えられる。私は私の特性を変えられないんだ。

やりやすいようにルールを変えるほうが合理的じゃないか。

それで雇用主が望むパフォーマンスに近づき、より早く目的が達成できるなら、そのほうがWin-Winじゃないか。なんでルールのほうを重要視するんだ、意味が分からん。

今までも、今も、そう思っている。

 

要は楽に管理したい、リスクを最小限にコントロールしたいから、行動を縛っているだけだ。

管理する側が責任をとらされないために、楽してリスクを回避したいだけだ。

でも責任者は、責任を取るためにいるわけで、全体の最適化を考えるならリスクを背負ってでも多様な働き方を認めるのがリーダーがすべき仕事であり責任である。

自分が楽をするために仕事をするんじゃないよ、と思う。

 

この世は多数決が好きだ。

過半数の人間が賛成するなら、それが正義になる。

残りの半分以下に苦しみを押し付ける。生贄にするために悪のレッテルを貼る。

そりゃ、みんなで生きているんだから、守らないといけない最低限のルールはあるだろうさ。

でも、そのルールをできるだけ最小化して誰にでもわかりやすく実行可能性が高いシステムにするのが、本当に管理する側の人間のやるべきことなんじゃないの?

ルールを無駄にたくさんつくって「私はルールつくったんで、守らないやつが悪いってことで、あとよろしくね」って、そりゃあんたお粗末すぎるでしょうよ。

一方でルールを逸脱した場合に罰則をつけることには本当に熱心で、薬物依存の悪名高い標語「ダメ、絶対」のように、権威と恐怖と不安で押さえつけるような力技を多用する。

それ意味ないんだってば。逸脱した人を追い詰め排斥することで、問題をなかったことにするだけなんよ。問題を隠ぺいして真の課題に向き合わない、典型的な失敗例である。

そういうふうに、とがった個性を持つ個体を世間から爪はじきにして、仮初めの平和を維持しているのが、この現代社会だと思う。

だから、どんどん世の中がつまらなくなるのは当たり前だ。ルールでガチガチの檻の中は、金太郎あめみたいにどこを切っても同じような人間ばかりになるからだ。

お互いに監視し合って、ババ抜きでJOKERを押し付け合うように生きている。

本当にくだらない。

 

むしろ社会不適合者で結構

そんなつまらん社会に適合していることや、その社会で褒めそやされることに、いったいどれだけの価値があるだろうか。

私は言いたい。そんなものこそ無価値であると。

「こんなことをしたら、世間に笑われるんじゃないか」

「失敗したら、下手を打ったら、もう成功できないんじゃないか」

そんなことを思って、本当にやりたいことを我慢している人は、少なくないのではないだろうか。

はっきり言おう。

社会で成功することなど、大して価値はない。

他人が笑おうが気にするな。そんなのは金太郎あめの独り言だ。無視していい。

社会不適合者で構わない。

生きるのが下手でいい。むしろ、下手こそ良い。

こんなくそみたいな社会に馴染まないぐらいで、あなたの価値をあなた自身が勝手に下げてはいけない。

たとえば、私は誰も読まないようなこのブログを結構な熱量で書いているけれども、この文章がそんなに読まれなくても、それはそれで構わない。

この社会だ。まだ理解できる人が少ないということもあるだろう。今教科書に名前が載っているような偉人も、生前は全く評価されなかった、ということが往々にしてあるくらいだ。

私は私を通してこの世界を知るために、文章を書いている。そして、それは私がやりたいから始めたことで、楽しいから続けていることだ。

それにこそ、最も尊い価値がある。

実益があるとか、社会的に意義があるとか、それらはいずれも後付けだ。

人間の行動の本当の理由は、だたひとつで、「それをやらずにはいられないほどやりたい」から。

素直に生きよう。それが命を授かって、私たちが人として最もすべき重要なことだ。

【発達障害】なぜ社会で生きているだけなのにストレスがたまるのか?(神経発達症)

私はADHD・ASDとして一定の特性を持っている。

そんな私は社会で生きているだけで、強いストレスを感じる。イライラする。

それはなぜなのか?

最近考えているところをまとめてみる。

 

①「待つ」が超苦痛

ADHDには、多動性・衝動性という特性がある。

 

画像引用元:日本イーライリリー株式会社 成人期ADHD診断上の重要ポイント

 

多動性(成人期の特徴)

□過剰におしゃべりをする、相手の話を遮る。
□内的な落ち着きのなさ(そわそわしていて忙しそう)。
□感情の起伏が激しい。
□仕事を過剰に引き受けてしまう。
貧乏ゆすりなど、目的のない動きがある。

衝動性(成人期の特徴)

□易刺激性・短気
□転職が頻繁である。
□思いつきの旅行。
□危険な運転(信号無視、スピード違反)・交通事故
□喫煙・カフェインの過剰な摂取。
□衝動的・無計画な買い物(待てない)

 

引用元:医療法人ウェルライフ アイさくらクリニック > ADHD(注意欠如・多動性障害)とは

ただし全員がこのようなダメな行動をするわけでは無い。

個人的にはダメ出ししているかのような表現に違和感があるが、おおむねこの通り。

 

さて、上記の引用のうち、太字にしたようなところが「待つ」ということへの苦手さを表している。

 

「内的な落ち着きのなさ」とあるが、そうなるのは、単に多動だからだけではない。

多動性・衝動性を理性で抑え込むだけで精いっぱいだからだ。

本当は動きたいのに、動けない。社会的に動いてはいけないタイミングだということは、学習して知っている。知ってはいるし理解もしているが、体と心は止まってはくれない、そういう特性だから。

「相手の都合に合わせて待つ」

「ちょうどいいタイミングを計る」

「空気を読む」

これらの動作は、神経発達症の当事者にとって、とんでもないストレスを生む。

理性で全力でブレーキをかけながら同時にアクセルをふかしまくって、なんとか運転しているような感じだ。内蔵されているエンジン(脳)は常に過剰な負荷を強いられる。

そのストレスからくる疲労で、「不注意」の特性がより顕著になる

つまり、作業中のミスにつながる。

 

②「思考の多動性」・「興味関心の偏り」でいつも脳がヘトヘト

神経発達症の脳は常に活発に動いている。

眼に入る全ての映像や、耳から聞こえてくる全ての会話を情報としてひろってしまうので、情報過多で脳の前頭前野が疲労しやすい。

たとえば、ショッピングモールを歩いているとする。

目に入った商品を見て「あ、そういえばアレって」と頭の片隅で考え事①が始まったと思ったら、「○○ってさー」という通りすがりの人の声を聞いて「あ、○○ってなんで人気なんだろう?」と考え事②がはじまり、ふと目に入った時計塔の時刻をみて「そういえば午後からWEB講演会だったな、演者は誰だっけ」と考え事③が始まり、頭がいっぱいになってきてイライラし始めたところで「ガランガランガラン!!大当たり!!!二等おめでとうございます!!!」と福引の抽選に当たったであろう鐘の音が大音量で響き渡ったせいで今まで考えていたことが吹っ飛び、「ああああああああああ!何考えてたんだっけ!!!!!もおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」と発狂しかける。こんな感じ。

だからおちおち情報が多すぎる場所には行きたくない。行くだけで疲れる。

だから都会の人混み・テーマパーク・パチンコ店・会社の集合会議など、光・音・人が多いところが苦手。行くだけで翌日は全く使い物にならなくなる。

 

加えて、ASD傾向もある私は、興味関心の範囲が狭い

つまらないこと、意味のないこと(みんながやっているからやるとか意味不明)をやるのがとんでもなく嫌。

例えば、意味のない会議。「これ集まってやる意味ないやん」と思ったが最後、その瞬間に興味が1ミリも無くなる。無くなるので聞いていても内容が耳に入らない。が、たまに「ちあきさんは、どうお考えですか?」とか質問されたりするので、全無視もできないから、聞いておかなくてはならない。音声がだんだん雑音にしか聞こえなくなり、シンプルにうるさいので癪に障るようになってくる。次第に他のやるべきことがいくつも頭をチラつきはじめ、そちらに手を出したくてたまらない(多動性・衝動性)が、意味のない話を聞かないといけないので、行動を制限されるストレス、多動性・衝動性を抑え込んでいるストレスで、どんどんイライラしてくる。

会議ばかりの日の後も、回復に一日を要する。

 

あとは、効率的でない、楽しくないこともダメだ。

掃除とかかな。

片づけても片づけても散らかる。散らからないように気を付けていても、他人が散らかす。ハゲ散らかすんじゃないかと思うくらい、労力をかけて清潔にした空間が汚れてしまった事実にイライラする。

そもそも他人の行動はコントロールできないし、片づけてもいずれ散らかるのだから、もういっそのこと片づけないでも変わらないのではないか?と思ってしまうと、片づけなくなる。片付けが苦手なのはそういうわけ。

 

謎に毎日できるだけリアルタイムで入れろと言われる、営業日報・勤怠報告・経費精算なども苦手だ。「各々が入れられるときにガッと入れればいいじゃん」と思う。

一日二日遅れただけで特に結果が変わるわけでもない。決算で数字が変わるとマズいとかならわかるけど、それ以外のときになぜ強制されなくてはならないのか。

それは、入力された仕事を管理する仕事をやっている人の最適化のためだ。

それはそうだが、仕事のための仕事は、優先順位が低くて当たり前だ。なのに、それが最も重要な仕事かのようにいう会社が私には分からない。意味がわからない。

自分のルーティーンは大事だが、他人が勝手に決めたルーティーンは、自分にとって重要性が低い場合、たいてい取り入れることができない。

しかし、やらないととんでもなく怒られるし、評価が下がって立場がマズくなるのは、経験上よく知っている。「いかに良い子にして他人の指図に従うか」というのが、この世界で学生時代から変わらない評価の物差し。

だから、ある程度、怒られない程度には、そちらの都合にも合わせなくてはならない。生きていくために、妥協しなくてはならない。とてつもなく嫌だが、やるしかない。

「ああ、こんなん入れようが入れまいが特に何も困らない、意味ないことなのにな」

と思いながら、しぶしぶアフリカゾウより重い腰を上げて取り掛かる毎日。嫌がる自分をなだめて奮い立たせて何とか鼓舞してそれらをやりきると、泥のように疲れ切っている。

なので、私のなかでは重要でクリエイティブな、時間をかけて完成させたい仕事が全くできずに、一日が終わる。

これは会社にとって最もやってほしい仕事だろうし、これが後回しになることそのものが損なんじゃないかと思うが、あちらは意味のない作業をチマチマすること(会社の指図に従うこと)を求めていて「会社とは、働くとはそういうものなの!」とプンプン怒るので、彼らのなかではそうなんだろう。

お金をもらうってそんな感じ。ただただ不毛で意味がないことだ。

 

③マルチタスクが困難

仕事・社会は、同時多発テロのようにいろいろなことが起こり、決めた通りの順番で対応することなど不可能な世界だ。往々にして、日常というのは、並行して何かをしなければならない。イレギュラーはつきものであり、それに柔軟に対応しながら、通過しないといけないチェックポイントをもれなく回る必要がある。

とんでもない世界だ。とても困る。でもここで生きていくしかない。

それが、ASDの私にとってはとんでもなくストレスで、パニックを起こすほど苦痛なのである。

3つ以上同時並行でやらないといけないと、私はストレスで発狂しそうになる。

例えば、夕方の子育て。

チェックしたいWEB講演会があるのに、下の子はミルクを求めて泣き叫び、その相手をしていると焼きもちを焼いた上の子が「パパ一緒に遊ぼうよ」と半べそで腕を引っ張る。

結果的に、WEB講演会は集中して聞けないし、ミルクをあげていると上の子がへそを曲げるので、あげながら相手をすることにあるが、おざなりな相手の仕方では結局ご機嫌を損ねる。すべてが中途半端、うまくいかない。求めている結果に到達しない。でも、これ以上どうしようもない。

そういう「達成したい状態に届かないとわかっているのに、同時に3つ以上のことを実行しなくてはならない」という環境にいると、ものすごい勢いでライフが削られていくのを体感する。文字通り命を削って状況に相対しているような心地である。

基本的に同時に何かをすることは苦手、何か一つにしか集中できない。

逆に言うと、集中力はずばぬけていて、自分の好きなように一つに絞らせてもらえさえすれば、定型発達よりすごい成果を短期間で出せる。

集中しさえすれば短期間で良い成果が出せると分かっているので、集中させてほしいが、自分の優先順位通りに時間と順番を割り振りさせてもらえないと「あーもういいや、どうでも」とすべてを投げ出す。だってどうせ完璧にできないし満足にできないのだから、頑張る気がしないのだ。出来上がる状況や成果物は出来損ないなのがすでに確定しているのに、頑張る価値が無い。そう感じる。

「まあまあ、そうはすべてはうまくいかないなかで、みんな頑張っているんだからさ」

などとよく言われる。

たしかに、みなこの条件でよくやっていると思う。発狂しそうな心を抑えながら私も日々奮闘しているが、よく挫けそうになる。

脳の特性上、マルチタスクがそんなにストレスではないなら、この条件だろうと、1個に集中できる環境であろうと、成果はそんなに変わらないだろう。それなら、そこまで凹むこともないので、受け容れられもするだろう。

しかし、私たちは環境と裁量さえ与えてくれれば、もっともっと役に立てるのに、強みをつぶされているので、それはとても残念だし、凹む。

神経発達症当事者にとっては、この社会は不利な条件で力を発揮しなくてはならない環境だ。社会がそうなっているのは、神経発達症非当事者にとって快適な社会に設計されているからだ。そりゃー、「みんなそうなんだから」って言うあんたがたは快適だろうさ、もともとそういう設計だもの。だけど私たちマイノリティにとっては、そうじゃないんだよ。

この違いを「少数だから」と配慮しないまま、各々のベストのパフォーマンスを発揮させずに使いつぶそうというのは大変効率が悪く、せっかくの高いパフォーマンスで得られるメリットが低下する。実にもったいないことをしていると思う。

 

まとめ:では、どうすれば私たちはもっと力を発揮できるのか?

と、いくら文句を言っても、社会はそう簡単には変容しない。

社会をいくら批判したところで、煙たがられるだけである。基本的人権や権利について蹂躙しようとしてくるような輩には毅然としてNOを突き付ける必要がある(戦う必要がある)が、この箱モノをどうにかしようというのは生産的ではない。

なぜなら社会とはすでに生まれた瞬間から崩壊に向けてスタートしていて、社会になった瞬間に、社会は悪い方向に傾いていくようプログラムされている。ウェーバー予想というやつだ。

だから「社会」そのものに期待するのはやめたほうがよい。あまり精神衛生上、よくない。社会システムのなかの一部の繋がりに期待するのはよいが、システムそのものはシステムでしかない。カスである。いずれ破綻する。

なので、ここからは、個人として今の社会システムになんとか合わせて擬態し生きていくためのHOWを考えていきたい。

どうすれば、今の箱モノのなかで力を発揮しやすいか、ということに集中してみよう。

①専門職に就く

興味があって何時間でも没頭できるものがあれば、それだけができる仕事をなんとか見つける。

専門職は、専門性という尖った個性が価値になる。

研究職(大学など)・職人・図書館・博物館・水族館・動物園などで興味があることにずっと触れ合える居場所が見つかれば、天職といっても過言ではない。

 

②お互いの特性を話して、凸凹をチームで補い合う

それぞれ凸凹があって当然。すべてを一人でできないからチームがある。

「こういうタイプでこれが苦手だけどこれができる。だから、こういう時は助けてほしい。こういうときは役に立ちたいから声をかけてね。」

と、チームのマネージャーとメンバーに謙虚に素直に自己開示しよう。

マネージャー(管理職)とは本来、こうした特性を加味して業務を割り振り、適材適所で仕事の種類や量を管理することが仕事だから、そのリソースとしての自分を理解してもらう必要がある。

そして、その情報を与えて謙虚にお願いしたにもかかわらず、よくわからん人員配置をしたり、十把一絡げな指示しか出せないようなら、マネージャーが能力不足なのであって、あなたのせいではない。割り切ろう。あなたは悪くない。マネージャーが代わるしかない。

この方法は、まだうまくはいかないことはもちろんある。というか結構うまくはいかない。

理由は2つ。

この社会には、そんなに優秀なマネージャーがそんなに存在していないから。

損得で出世してきたようなつまらん人間がゴマすりで管理職まで上がってきているから。

もうひとつは、神経発達症の理解がまだまだだから。

まだ本音では「全部ひとりでやれよ」というオールマイティを評価しがちな日本において、スペシャリストは生きにくい。それはこれから社会の側が改善していかなくてはならないこと。

つまり、理由は2つとも外部要因なので、私たちが直接どうしようもない。だから気にしても仕方ない。

自己開示して、運を天に任せよう。「あ、ダメだココ」と心底思ったら、転職しよう。そんなに違いはないが、よりマシな組織を探そう。

 

③「こんなクソみたいな社会に適応なんてできなくてもいい」と大きく構える

「ちゃんと普通に一般就職で一人前に働かなきゃ」

「ちゃんと社会人として自立して生きていかなきゃ」

そんなふうに思わなくていい。

社会は、教えられたような、正しい世界ではない。そんなにいいものではない。

自殺率は高い。政府はダメダメ。金のことばかり考えていて、実に浅い。

ぶっちゃけ、私たちより社会のほうが間違っている。

そんな社会に適応できていないからといって、自分を卑下する必要はない。

そもそも適応する価値のない社会なんだ、と思ってもよい。

「しかたないからこっちが合わせてやってる」くらいの気持ちでいこう。

あなたが感じる世界観・価値観・人生観は、あなただけのものだ。そして一番大切なものだ。

あなたが信じるようにあなたの人生をイキイキと生きていくことが、世界が求めているベストな状態だ。

お金があろうがなかろうが、有名だろうが無名だろうが、なにかをなそうがそうでなかろうが、それは大した問題ではない。

 

「人生 どげんかなる。どげんでんなる。」

 

 

とても好きな「龍たまこ」さんのブログに示されていた、この言葉。

そう、どうにかなる。だいたい、どうにでもなる。

だから、あまり「○○するべき」とか思わないで、試してみよう。

試してみてダメでも、私たちには仲間がいる。同じ痛みを知る者同士、助け合っていける。

私たちは、少数だけれども、独りじゃない。一人だけど、独りじゃない。

【発達障害】発達傾向のある子供たちは希望の光(神経発達症)

私は、世の中のほうが、基本的に狂っていると思う。

だから、発達傾向にある人や、精神疾患、ことに依存症になるような人を「普通」とは違う、異質な人間だとみなす。

しかし、本来は逆で、正常だからこの異常な世の中には馴染めなくて生きづらさを抱えるのだと思う。

 

正常か異常かの境界線は、実はとてもあいまいだ。

 

Is it just me, or is it getting crazier out there?

こんなの僕だけか? それとも世間が狂っているのか?

 

Comedy is sub, subjective, isn’t that what they say?
All of you, the system that knows so much, you decide what’s right or wrong.
What’s real or what’s made up.
The same way you decide what’s funny or not.

お笑いなんて主観さ、そうだろ?
みんなだって、この社会だってそうだ、よく知ってるだろ、みんなは善悪を主観で決めてるん
だ。
何が本当で何がでっち上げかは、笑えるか笑えないかと同じように、自分で決めればいいってことさ。

 

引用元:映画『JOKER』JOKERのセリフ

正常と異常の境界線など誰に引ける?ふとしたきっかけで入れ替わらないと、誰に言える?もうすぐ分かる。狂ってるのはきっとこの世界の方さ。
引用元:映画『COWBOY BEBOP 天国の扉』ヴィンセントのセリフ

 

結局は「なんとなく」そう思っている人が多いことが、正義や正常として「なんとなく」

多数決で決まっている。

ということは、その数のバランスが逆に傾いたら、正誤は真逆になりえる。

正しいことなど存在しない。

あるのは、事実に対する解釈と損得である。

 

マスクを外せないことにしてもそう。

考えなしにサンタクロースを踏襲することにしてもそう。

なんとなく、特に自分の意見もなく、流されるままに物事を取り扱っている。その結果、どこかの誰かが苦しんで最悪命を落としたとしても。「普通の人たち」は意に介さない。その犠牲者が自分のすぐ隣で寝息を立てている愛する我が子だったとしても。「なんでこんなことに」と悲劇のヒロインのように嘆く。誰かの何かのせいにして被害者ヅラをするのだ。

これが喜劇でなくてなんなんだ、と思わないか?

鈍感さを持つ人にとって何の違和感もないこの世界を一つ一つちゃんとひも解いてみると、いかに歪かがよくわかるだろう。

 

と思うんだけど、大人たちにはなかなか同志が見つからない。

同じ神経発達症の子たちの世界観はとても近くて、同じ世界線を生きている感がある。

 

彼らは不当に「困った子」のように扱われている。

なぜなら、学校や社会など、今の「常識」に合致しない立ち居振る舞いを「普通の人」が受け容れられないので、現在の集団のなかでは浮いてしまいがちだからだ。

今の「正しい」にそぐわない。だから「異常」とみなされ、「欠陥」があると思い込まれる。

間違っていると断定される。

それはとんでもなく一方的な勘違いである。

 

むしろ、彼らは希望だ。

「そんなの納得できない、だから従わない」

と堂々と言えるのは、ちゃんと自分の感覚を信じているからだし、自分の頭で考えて結論を出しているから。それは最も重要な人生の姿勢である。

空気を読んで、周りの様子をオドオドビクビク怯えながら窺って、嫌われないように生きるよりはるかに健康的だ。

自分の好きがはっきりしているから、過集中するし、多動衝動で動ける。

むしろ今の「普通の人」はブレーキをかけて余計なことを考えるので、何をしたいのかよくわからなくなっているだけだ。

つまり、今の大多数を占めている人類の欠点を補う凸凹が、発達障害の特性であり、神経発達症の強みなのだ。

社会的な能力が足りていないのではない。逆だ。

複雑になった世界を生き抜くために特化された新しい姿であり、むしろ他人にない強みを搭載した進化系なのだと思う。

それをまだ社会が未熟だから受け容れられていないだけ。多数派が困るから長所と認めていないだけだと思う。

 

これからは貨幣経済社会ではなく、岡田斗司夫氏の提唱する評価経済社会に移行していくだろうと想像している。

貨幣経済社会はもう限界だ。

新自由主義とグローバリズムが人類に何をもたらすか、もうすでにこの「コロナ禍」という悲劇的な喜劇が明らかにしている。

損得による殺人と分断と混乱と腐敗である。

昨今のメガファーマにみられるような利益至上主義により、多くの犠牲を厭わない非人道的行為が実現してしまった。遠くないうちに、大企業の社会的信頼は失墜するだろう。残念ながら富豪たちの目論見通りにこの世は動かせない。現在のこの茶番は、彼らが「他人はコントロールできない」という無力を知り認めるための道程に過ぎない。

もう先が無い。お金の時代は終わる。多くの犠牲を払って。

 

◎評価経済社会

「評価」が通貨のような意味合いで社会に流通する状態のことを言います。

貨幣経済以前は、不動産を借りる時に知り合いだから貸してもらえるような縁故社会でした。その後、貨幣経済になりお金を出せばそれなりの部屋に住めるようになった。お金を持っていれば、オールマイティに強かったんです。

ですが、これから評価経済が浸透してくると、部屋を汚したりゴミをちゃんと出さなかったりする人には誰も部屋を貸してくれなくなります。すると家賃はスライドして、いやな家主の賃貸物件は家賃が下がるし、ルーズな住人の家賃は上がっていきます。これらの評価が透明化されてオープンに流通しているのが、評価経済の第一段階です。

縁故社会が貨幣経済においても残ったのと同じように、評価経済社会になっても貨幣経済はそのまま残ります。評価経済が貨幣経済の上に乗っかるだけです。

お金で評価は買えないけれども、評価があればお金はいらなくなるという優越関係ははっきりします。

貨幣経済社会でもお金さえもっていればいいというわけではないように、評価経済でも紙幣が淘汰されるわけではありません。

引用元:https://canary.lounge.dmm.com/17241/

岡田斗司夫氏は、上のように述べている。

 

私自身は、評価が貨幣のように流通可能な一定の基準を持つとは思っていない。

なぜなら、評価は「人による」からだ。

 

共通言語となるのは、評価というより繋がり。お金・損得によらない繋がり。真の信頼関係とでもいうべきか。

結局は「こいつになら弱っているとき背中を預けてもいい」と思えるかどうか。そういう個人としての人と人との繋がりの原点に、この社会も回帰していくと思っている。

お金や評価に振り回されてボロボロになりがちな依存症当事者が、回復するにしたがって「仲間」や「繋がり」のありがたさに気づく。そのお金では買えない価値に目覚めて豊さを取り戻していく光景を見てきた。

おそらく失望で底付きした社会にも、同じことが起こるに違いない。人は、損得で生きていけないからだ。独りでは生きていけない生き物だからだ。

というわけで。お金さえあれば、学歴さえあれば、社会的地位さえあれば、勝ち組として幸せに生きていけると思われてきたこの社会は、残念ながら近い将来終わる。

大学を出ても、いい会社に就職しても、いくら資産を持っていても、明日どうなるかわからない世の中になる。

そうなったとき、自分の頭で考えて、独自の世界観で突き進んでいける神経発達症の子たちは、実に頼もしく力強い。

今は不遇な扱いをされているが、私はこのような希望にあふれた子どもたちを支援していきたい。この社会の構造とくだらなさとやり過ごし方は、いろいろ経験してわかっている。それを教えて、社会に潰されないように守りたい。彼らはもっと他の圧力に曲げられたりしないで、その特性をいかんなく発揮して自由に生きるべきだ。それを応援したい。

社会福祉士になって、依存症啓発で児童福祉施設で活動して、そんな夢を抱くようになった。

人生とは、わからないものだ。

ついこの間まで、早く死にたかった。それがこうなるんだから、みんなまだまだどうなってもおかしくない。いい意味で。

まだまだ世界は希望にあふれている。

【発達障害】「友達」をつくるって、具体的にはどうすればいいの?(神経発達症)

私は友達をつくるのがとんでもなく下手だ。

よくわからない。

どこからが友達で、どこまでが知り合いなのか。

何をきっかけに人々は友達になり、どうなったら親友と呼び合えるのか。

今日はそんな不器用な私の「友達」にまつわる話。

 

後輩にもタメ口で話せない

私は後輩にも基本的に敬語だ。

年下だろうが、経験が浅かろうが、関係が希薄なのにいきなりタメ口で話されるのが、私は好きではない。

だから、自分がされて嫌なことはしない。

しかし、違和感があるらしく、ずっと敬語を使っていたら後輩から「後輩なんでタメ口でいいっすよ」「そんなに気を遣わないでくださいよ」と言われる。

そう言われたら、たどたどしくはあるがタメ口でしゃべるようにしている。

でも、気を抜くとすぐに敬語に戻るので、個人的にはずっと敬語のほうが楽なのにな、と思っている。

 

なぜわざわざ、年下だから・後輩だから、と語尾を変えるのだろうか。

微妙な距離感がつかめない。

どのような通過儀礼を経て「タメ口でもよい」という認可が下りるのだろうか。

私にとって、それは中学高校時代からずっと謎に満ちた不可思議なことだった。

全く法則がわからず、とてもまごついた。今もまごついている。

 

親しくなったつもりが相手にギョッとされる

かといって、私のほうが親しくなった・理解しあえたと思い突っ込んだ話をすると、相手にギョッとされる。

私にとって話題が合うと感じたり、思考回路が似ていると感じたりする人は少ない。

だから、そういう「合う人」に出会うととても期待してしまう。

今まで話せなかった理解されない人生観や、世の中の不条理、人生の悲哀など、どんどん話したくなってしまって、相手がどうなのかも知りたくなってしまう。

そうやって『がっついて』しまうため、相手はいきなり大人しかった中年のおじさんが鼻息を荒くして近寄ってくるので恐れおののいてしまう。確かに怖い。

私はそのたびに「あ、また間違えた」と思って一気にトーンダウンする。

恥ずかしいし、哀しい気持ちになり、落ち込む。

もうしばらく人と話すのはいいかな、と思ったりする。実際1週間くらいはできるだけ誰にも会わないようにして、ひとりでぼんやりしている。

 

私は、いわゆる『コミュ障』と呼ばれる人だろうな、と思っている。自覚はある。

人との距離感は、とてもはかるのが難しく、毎回「違和感が無いように接する」というミッションを達成することがつらく、とてつもなく疲れる。一つ一つの会話が『魔界村』みたいな難易度である。何回も死ぬ。

だから私は人に会うのがあまり好きではない。無駄に疲れるから頻繁にはしたくない。

そう思って生きてきた。

こんな調子で、よく今まで生きてこられたと思う。

 

共有できる範囲が多いほど「仲良し」=「友達」

最近になってわかってきたことがある。

友達や仲良しに、明確なラインなどないのである。

神経発達症がスペクトラム状であるように、友人関係もグラデーションのようで一様に定義できるようなものではないらしい。

 

たとえば、ノウハウとして「仲良くなりたければ、共通の話題を探しなさい」というものがある。

具体的には、営業マンが取引先の人と仲良くなりたいときの方法としてビジネス書に書いてある。なるほど…世の人間は私利私欲のためにこうやって他人に近づいていくのか、と嫌悪感をにじませながらその手のハウツー本を三桁は不承不承眺めてきた。

この法則はある意味当たっている。

なぜなら、仲良くなるという現象は、『二人の間に共有できる「共通言語」をできるだけ広く深い範囲でシェアすること』により発生する。

例えば、出身地、出身校、好きな人物、好きな食べ物、好きな映画、好きな音楽、好きな場所、好きな休日の過ごし方、などなど「同じ」を探す。探して好きな気持ちに共感する。

自分と相手に「好ましい重なる興味の範囲」があるという認識が共有される。

つまり、相手と自分はシンクロして、一部分を共有する間柄となる。

このようにして「共通言語」としての「好き」が増えていけばいくほど、相手は自分とシンクロし、自分自身に近しい存在になっていく。

人間は、自分自身のことが一番好きで嫌い、つまり関心が高いので、自分の分身であるその人のことを気にするようになる。関心が向いていく。何をするのか気になり、一緒に時間を過ごしたくなる。

そうやって境界線があいまいになり、融合していくことを「仲良くなる」と人は表現する。

シェアしている「共有範囲」が大きければ大きいほど「親密度」は高くなる。

相手を一定の親密度を満たすと感じるようになったとき、その人にとって相手は友達になる。その一定の親密度の閾値はひとそれぞれである。そして要する期間もひとそれぞれ。

そうだと思えばそう、という世界だ。

 

特別な相手には期待しすぎてしまう

その親密度が相互にほぼ極限まで高まると、人は恋人になったり夫婦になったり親友になったり、他の人とは一線を画した関係を結ぼうとする。

シェアされた「共有範囲」は広く深く、お互いをよく知っているように思う。

しかし、それはあくまで共有されている部分が他人と比べて相対的に広く深いというだけにすぎない。

他人のすべてを把握することはできない。

自分の内面すら常に変化するし、把握していない部分があるのに、どうして他人のすべてを掌握することができようか。

できるわけがない。

つまり、全てを認識して理解するなど、お互いに人間である以上不可能なのである。

 

しかし不都合なことに、「共有範囲」つまり似ている部分が多いと、自分と相手は通じ合っていて言わなくても「同じ」なのだからわかるだろうと思い込んでしまうことがある。

期待しすぎてしまう。同じことを共有して認知を強化してきたから、自分の延長線上に相手もいると期待してしまう。

しかし、他人とは別の宇宙。似ているようで違う。同じようで同じではない。

基本的に分かったような気がしているだけ。勘違いである。

完全に分かり合うことは部分的であっても本来不可能。

それを親しくなればなるほど忘れてしまうし期待してしまう。それはしかたのないことだ。

 

多様性の尊重と受容って 実際は意外にドライ

実は優しい人ほど、他人に期待しすぎない。

それは、相手も自分も異なる人間だということを大前提として認めて受け容れているから。

相手が、自分の予測とは違う動きをしたり、思いもしない側面をみたりすることは必ずある。このすれ違いは、100%いつか訪れる。

そのときにひどく失望するか、「ああそういうこともあるか」とすんなり受け容れるか。

私は今まで結構、失望してきたタイプだ。

自分と同じはずの相手が予想外の反応や動きをしたことにひどく動揺して、相手を怒ったり自分の思考が至らなかったことを責めたりした。

自分の一部になったはずの相手に裏切られた気がしたし、すでに自分の一部に取り込んだはずの部分がゴッソリ欠けるような喪失感。地面が抜けるような恐怖を感じた。

相手との境界線があいまいになり、相手の領域を侵食しているのだ。

自他の境界線(バウンダリー)を適切に引けていない、お互いに領域を侵略しあっている状態を「共依存」という。

まさに「相手を理解しているつもり」「自分を分かってくれているはず」という思い込みは、共依存状態に感じる感覚だ。

「他人に期待する」という行為は、もしかすると相手の領域を勝手に想像して、「自分と同じなんだからこうに違いない」と勘違いして侵略することかもしれない。そう思って一歩引いて自分を眺めてみると、相手がどれだけ想像の斜め上を行っていても、意外と腹も立たないし、悲しみも感じない。今までのように不安や焦りに突き動かされることもない。

なぜなら、それらは元々コントロールできない、自分には触れることができない問題だったのだと心から納得できるからである。

私は相手に対して無力だったのだ、そもそも相手の行動をとやかくいうような、そんな権利はなかったのだということを認識し、執着を手放せる。相手のするように任せることを自然なこととして受け入れる心が宿る。

そうなれば、無理に相手と「合わせない」「強要しない」。自分が無理に従うこともないし、相手を無理に従わせることもない。

それぞれが生きたいように生きる人生を尊重し、離れることがあったとしてもそれを静かに受け容れることができる。

それは、相手を最大限に信頼しているし、尊重している姿だと私は思う。

はたから見ると、その人がどうなっていようがどうでもよい、というような投げやりでドライな態度に見えるかもしれない。

しかし私は、この在り方こそが、最もその人のことを愛していて優しい接し方だと、最近は思うようになった。

 

相手の自由意志を尊重しながら「共有範囲」を増やす=友達をつくる

ここで話題はタイトルに還ってくる。

今までの話を経て、私は友達をつくるという作業がどういうことなのか、だいたいわかってきた。

つまり、相手の自由意志を尊重しながら「共有範囲」を増やすことが、友達をつくることだ。

相手のすべては分からない。また、自分をすべてわかってもらうことも不可能だ。

1対1の関係で、全てを満たそうとするから、依存的になるし限界がある。

「友達」というのは、特定のひとりでなくてもよいのだ。

つまみ食いのようなものだ。

ある分野ではA君と、ある分野ではBさんと。「共有範囲」は1対Nの関係性のなかでその質量(クオリアに近い)を増やしていけば、それだけ「友人関係」というリソースは増大する。

だから、友達をつくるというのは、私と相手の間に固有の関係性があるかないか、ということでは本質的には語れないということだ。

私からみて「友達をつくる」という行為は、固有の関係性に閉じて限定されてはいけない。「共有範囲」をいかに1体Nの関係で多く多様なクオリアを保持するか、が重要。

分かりやすく言うと、様々な人と率直に会話を重ねて、お互いにシェアできる「好き」を多くの質と量、見つけ育てていくのが、「友達をつくる」という一連の作業の具体的な方法なのだということ。

友人に恵まれ豊かな人生を送っている人は、このトライ&エラーをとんでもない回数行ってきたことに気づく。

最初から好かれる正確だったわけでもないし、生まれた時から友達を一定数契約して確保しているのでもない。

潜在的な能力でもないし、性格が悪いから友達が少ないのでもない。

ただ単に、まだ「好き」の「共有範囲」を見つけられていないのだ。その相手に巡り合っていないだけだ。

だからどんどん新しくあった人と会話をして、相手の好きなものを聞こう。自分の好きなものを話そう。そうすれば、共通の好きなことが見つかる。その瞬間から、もうすでに私たちの「友達」は増えているのだ。

好きが重ならないこともある。その場合は、もっと他の人がその人の好きとめぐりあって、「共有範囲」を構成する。だから心配はいらない。その人と合わないのにいつまでも話を合わせる必要はないんだ。

最もよくない恥ずべきことは、相手を「かわいそう」だと勘違いして「共有範囲」をもっているふりをすることだ。それは相手にとって最も屈辱的で、相手を不幸せにする。

相手を尊重しているからこそ、小賢しく合わせたり従ったりしない。

自分を尊重しているからこそ、自分の好きを強制したり、逆に恥じたり隠したりしない。

そうでありさえすれば。

その基本姿勢さえ常に崩さず、爽やかに生きていさえすれば。

そして会話の母数を増やしていきさえすれば、確率論的に誰でも必ず友達はつくれる。そして増えていく。

今、合意できる範囲が他人の平均からずれていて【友達】がいなくても。

それは私が悪いせいじゃない。

私はダメなわけじゃない。

私は少し他の人とは違うだけだ。少数派であるだけ。

分母を増やせば確実に【友達】が形成される確率は増えていく。

出会えば出会うほど、共有できる価値観のクオリアは増える。

 

これはここ最近で一番うれしい希望。清々しい発見だな、と思っている。