こんにちは、ちあき です。
否認には、7つの種類があると言われています。
それぞれについて、自分自身の認知の歪みを認識すべく振り返ってみました。
否認はわたしたちの病気の中核的要素であって、わたしたち全員に多かれ少なかれ見受けられます。
否認はわたしたちの病気の破壊的な面です。
なぜなら、それはどんどん悪化していく行動パターンにわたしたちを封じ込めるからです。
否認は、わたしたちが現実に直面することを避けるために無意識に使う、多くの複雑な防衛や策略から成り立っています。
否認の見分けられる形として次のようなものがあります。
出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 45Pより引用
■単純な否認
:ある物事が本当はあるのに無い振りをする
(例:問題があることを示しているかもしれない身体症状を、割り引いて軽く見る)
私は自分の体や心の不具合を軽く見る傾向があります。
最近は朝起きれなくなるほど気持ちの落ち込みが激しいのですが、「まだ出社できているし」「ご飯も食べられなくなったわけじゃないし」と重症度として適切に評価せず、軽視しています。「私はつらい」「私は会社に行きたくない」ということを感じてはいけない、感じたらもう動けなくなってしまうから。そう、自分にとって「私はつらい」と認めることは、都合が悪いと思っているから、抑圧しているんですね。
■矮小化
:問題を認めるがその重大さは見ようとしない
(例:人間関係で、本当は明白な裏切りがあるのに、よそよそしくなっていることだけ認める)
私は、酒(エチルアルコール)を飲んでいるとき、特に自分の酒害を軽く見ていたと思います。前歯が折れたり、財布を無くしたり、携帯をなくしたり、カバンをなくしたり、頻繁に遅刻したり。明らかに社会人生活に悪影響を及ぼし、具体的な損失があるにもかかわらず、それを「みんなもよくあること」「もっとひどい人もいる」などと目を背けていました。問題を認めていても、その重さやどれだけ迷惑をかけているかについて、考えを及ぼさないようにしました。今、自分のダメさや起こしてしまったことの重大さを理解してしまったら、ギリギリで立っている当時受け止められないと思って恐ろしかったからでした。だからより、依存物質に逃げました。脳をエチルアルコールで麻痺させて、考えないように逃避しました。
その結果、どうにも逃れようのない、死ぬ手前まで追い詰められなくては、問題の重大さを見ることができず、様々なものを失いました。
■非難
:問題の原因として誰か他の人を非難する-その振る舞いは否定しないが、その原因は誰か他の人にある
(例:あなたの現在の不適切な振る舞いについて親を責める)
Twitterでよく見かける、政治や事件や芸能界のひとたちが起こした不祥事への怒りに代表されるように、何か他のことに怒りをぶつけることで、私たちは本当の問題を見ないようにすることができるので、自分とは関係のない、直接的な原因ではない人たちに怒りをぶつけるほうが楽で、しばしばそちらに流れがちです。
わたしも、凄惨な事件や不倫報道に対して、自分が自分に対して抱えている怒りに目を背けてきました。本当は、非難している対象の人がどうなろうとしったことではなかったのに「世の中のために」「この人は間違っているから正しく更生するために」などと体の良い『言い訳』を並べ立て、自分の怒りのはけ口に使いました。
本当は、自分が思うとおりに生きられない悔しさや哀しさ、弱さを認めたくない心、正しくない感情を持つことへの葛藤などを、抱えきれないで、目を逸らすために、他の人を非難したのでした。
■弁解
:自分や他人の振る舞いについて弁解したり、アリバイを言い立てたり、正当化したり、その他の説明をつけて言い訳する
(例:パートナーが仕事に行けないことの本当の原因は酔っぱらっているからなのに、病気だからと電話する)
わたしは、自分が欲しいものがわかりません。何を望んでいるのか、わからなくなることがあります。それは異常なことなのですが、しばしば見ないふりをしています。
「大切な家族が最優先だから」とか「アルコール依存症の私には欲しがる権利がない」とか「今ぱっと思い浮かばないということは本当にほしいものがないからだ」とか「そんなものより仕事が忙しく大事だから」とか。
本当はずっと、自分の自由にしたいし、好きなように時間を過ごしたかったはずなのに。願望があったはずです。それを「正しいこと」を目の前に置いて、見て見ぬふりをしているうちにわからなくなった、というのが今の状況だと思います。
■一般化
:問題を一般的に取り扱うが、状況や状態について個人的にまた情緒的に見ることは避ける
(例:化学物質への依存がそこにある問題であることを知っているのに、友達のインフルエンザの症状にだけ同情する)
私は、とてもしんどい・きついと感じているときほど、冷静に状況を分析して、原因と結果、課題と解決策にフォーカスし、一般的な分析指標を用いて問題をとらえようとします。
それはビジネスにおいて奨励されるスキルであり、資本主義経済では正しいと言われてきた方法でした。
しかし、こと私の問題の状況や状態について同じ捉え方をすることは、ひとつ欠落するものがあります。それは私の感情や素直な気持ちです。
分析手法により正しい解決方法や問題点の整理は可能です。その手前にある自分が感じた感情を、わたしは余計で邪魔な、とるに足らないものだと思い込むことで、軽視し、封じ込めようとしました。
しかし、それは抑圧され深い怒りとなり、認知を歪めてきたのです。本当の問題は、私自身の論理の前にある心を軽視したことだったのでした。
それは、親に与えられた唯一の物差しは、正しいかどうか、だけだったからです。
■ごまかし
:脅威を感じるような話題を避けるために主題を変える
(例:「世間話」に巧みになる)
わたしは「世間話」は苦手です。ASDだから、意味のない話はあまり頭に入らないし、いつ終わるかもわからない話は精神的に大変苦痛です。
しかし、あえて話があまり話したくないと思うような話題になりそうなとき、わたしはしばしば、相手が話したいであろう話を聞くことに専念する傾向があります。
わたしがしゃべらなくてもいいからです。そして、相手は自分の話したいことを話して満足する。聞かれる心配がなくなる。自分が認めたくない、傷に触れられる機会をつぶすことができるから、わたしは「相手が話したい話を聞く」という先手を打つことで相対します。
しかし、私は本当は自分がどう感じたか、なぜそうなのか、を話したい人です。
だから、相手が話したい話は実はどうでもいいのです。だから、人と話すと疲れるのです。聞きたくないことをずっと聞くことが、自分の核心に触れさせず、自分自身に対しても本心を誤魔化す最も有効な方法のひとつだから。
それをやめない限り、人と居心地の良い関係を構築することはできないのでしょう。
■攻撃
:今現在の状況に話が及んだとき怒り、いらいらする。そのことによってその問題を避ける
(例:あなたの今感じていることを分かち合おうとしない)
わたしは、今現在の辛いと感じたくないこと、認めたくないことを他人に言及されたとき、黙りこんでしまいます。分かち合おうとしません。
また、本当は言いたいことがあるのに、それを表に出すことがためらわれて、しかし我慢ができないとき、私はその「本当は言いたいこと」を認めたくないくせに、他人にわかってほしいという願望を抑えきれず、あえて不機嫌になったり、イライラしたりします。
それは、遠回しで卑怯なやり方です。自分が感じていることは、話さなければわからないし、そもそも感じていることを認めなくてはいけません。
その勇気が持てないでいることを、相手が理解をしてくれないことにすり替え、責任転嫁してイライラいていることがあります。
まとめ:自分を素直に理解するために
12のステップを踏むことは、わたしたちが現実に直面することに対する防壁になっていた、否認に気づくことを手助けしてくれます。
ある意味では否認は、私たちがかろうじて保っていた、わずかばかりの価値や尊厳の意識を持ち続けさせてくれたのです。
ステップ4によってわたしたちは、現在にいたるまで生き残りのための主要なテクニックの一つであった、自分の否認システムをよく見ることができるようになります。
また否認はわたしたちの知覚を歪め、判断を大きく狂わせ、自分を騙し、正確な自己理解を妨げていました。
出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 46~47Pより引用
そう、わたしは、今まで否認してきました。ありとあらゆる手段を講じて、見るべきものを見ないようにしてきました。
それは、私が悪いからではなかった。親が「正しさ」しか教えてくれなかったこと、本当の気持ちを大切にしてくれなかったこと、親からの影響に対して私が無力だったことは、私のせいではなかった。
この否認のシステムは、今までの私を守ってきてくれました。なんとか今まで命をつないでいくために、必要なものでした。しかし、歪んだものでした。
私はもう親の機嫌をうかがいながら生きなくても、自分で稼いで自分で生活できるようになった。もうこの期に及んで、否認システムに頼らなくても、私はわたしらしく生きていていい。たとえ誰に何を言われようとも。
否認システムを卒業して、私は私をそのまま生きられるようになりたい。
今度こそ、親が望む自分ではない、自分が望む「成りたい自分」になるために。
✨出典の本の購入はこちらからできます✨
https://aca-japan.org/docs/books.html
ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします。