きっと皆さんはお盆明け、仕事に戻るとこう言われるだろう。
「お盆休みはゆっくり休めましたか?」
休 め る わ け ね ー だ ろ 。
仕事よりしんどいよお盆は。
「お盆休み」という激務
お盆・お盆休みとは、そもそも何なのだろうか。
お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。
かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。
期間
お盆休みは江戸時代には既に定着していた連休で、明治以降も1872年(明治5年)までは旧暦7月14日から7月16日まで3連休となっていた。
全国的には以下のいずれかにお盆を行うことが多い。
- 旧暦7月15日(旧盆)
- 沖縄・奄美地方など。旧暦によるとお盆の日程は毎年変わり、時には9月にずれ込む[注釈 1]。
- 新暦7月15日(もしくは前後の土日)
- 東京などの大都市部や東北・北陸地方の一部の都市など農繁期と重ならない地域では新暦7月15日となっている[1]。東京盆と呼ぶこともある[1]。
- 函館[注釈 2]、東北地方の一部[1]、東京下町・横浜中心部・静岡旧市街地、栃木市旧市街地、山形県鶴岡市街地区(鶴岡市鶴岡駅前、白山、赤川堤防西岸、文下田南、外道地区以北)、石川県の一部(金沢市旧市街地、白山市旧美川町地区、かほく市旧高松町高松地区)、佐賀県有田町 など[1][3][4]
- 新暦8月15日(月遅れ盆)
- ほぼ全国的に多くの地域。
由来
仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。
お盆休みの帰省は、故郷を離れて暮らすことが一般化した昭和の後半から全国的に見られるようになったが、悼むべき故人に大戦で亡くなった親類縁者を共に加えて行うことも少なくない。
引用:Wikipediaより一部抜粋
つまり要約すると、夏に先祖の神霊を慰める儀式の総称がお盆で、そのための期間がお盆休み、ということになる。
家という共同体の恒例行事である儀式をするために、仕事をしないだけだ。
昭和後半以降は核家族化がすすみ、地方の実家を離れて都市部に住む働く世代が、その期間に帰省するという風習が定着したにすぎない。
帰省する側・迎える側が実際にやっていることは「先祖の神霊を慰める儀式」ではないので、本来の宗教的な観点で言えばほぼ意味を失っている。
では、儀式をやめて何をしているか。
親から子への、過干渉とイネイブリングである。
今夏は皆さんに、ちょっと奉仕をしてもらいます
古来の風習を口実に実家という自分の土俵で手ぐすね引いて待っている実父母・義父母。
彼ら彼女らが何を企んでいるか。
若者から自分に対する奉仕を引き出すことだ。
期待する奉仕は、精神的なものの場合もあるし、肉体的なものの場合もある。
精神的な奉仕の代表的な例としては「自分たちの存在を肯定してもらう」という奉仕である。
孫たちに「お盆玉を渡す」「何かを買ってやる」「遊びたいだけ遊ばせる」という甘やかしの切り札を切る。
求めているのは、「おじいちゃん、おばあちゃん、大好き」であり「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう」である。
実子とその配偶者にその姿を見せつけて恩を売る。
「本当によくしていただいて。来年もまた帰ってきますね。」と言質を取る。
空っぽでつまらない己の老後の生活に潤いを与えるために。
「自分の人生はこれで本当に良かったのか」という漠然とした不安を一時的に忘却するために。
自己肯定感を求めている。
あるいは、未婚の娘や息子に対して「いつ結婚するんだ」「いい相手はいるのか」「結婚して早く孫の顔を見せてほしい」などとプライバシーの侵害をする。
孫の結婚や就職や子育てに口を出すのも、同様にプライバシーの侵害だ。
これによって引き出したい奉仕は、勝利させてもらうことだ。
未熟者というレッテルを張って、自分が勝ち確のマウンティング合戦を子供や孫に仕掛けて勝利を味わう。
この対戦において、自分たちはもう結果を持っているので有利だ。
結婚ができた、妊娠出産ができた、子育てができた、だから今がある。
こうした自分の人生の結果・人生の選択を、善いことで間違っていなかったのだと他人に肯定させたい。
当然、話を振られた未婚の娘や息子は不利な立場を強いられる。
なぜならまだ選択を決定していないので結果を経験していないから。
経験している立場と経験していない立場の、埋めがたいギャップが彼らの勝算だ。
もし「結婚や出産は求めていない」という自分の価値観を主張しても、彼らは必死で言いくるめようとする。
いかに結婚が素晴らしいことか、子供を持つことがいかに素晴らしいことかを、自分に言い聞かせるように延々としつこく悦に浸りながらプレゼンする。
他人の自慢話ほど聞くに堪えないものはない。
ひたすらめんどうくさいので「ハイそうですね頑張ります」と言っておいて、その場を終わらせるのが最も手っ取り早い。
その諦観と絶望からくる表面的な返答を聞いて、彼らは安堵する。
議論に勝った、自分たちの思い通りに説得できた、と思い込む。
そして、結果が伴わない限り、心配しているふりをしながら舌なめずりして同じマウンティングを繰り返す。次の夏も、その次の夏も対戦を仕掛けてくる。
自分の人生の選択について他者からの肯定を得たい。そのために、わが子やわが子の家族を生贄に捧げる。
これが、精神的な奉仕の例。
肉体的な奉仕の代表例は、食事の支度や義父・親戚一同の世話係である。
これは、特に女性に集中的しがち。
休みなんてとんでもない。他人のジジババや知らない大きなお友達の分まで働かされるのだから、いつもより仕事が多くなる。休まるわけがない。
黙って出されたものを静々と口にして「おいしいね、ありがとうね」と言っていれば、まだかわいげがある。
たいていはそんな風ではない。
「味付けがおかしい」だの「もっと健康なものを食べさせてあげないと」だのと作業の途中で謎のマウントを取り始める。挙句の果てに息子の嫁の調理の途中で「もう見ていられない」と手を出し始めるような義母の話を聞くことがある。
ただの邪魔である。やばい。
最終的な目的は、息子から「やっぱりお母さんの味が一番だな」というマザコン言葉を言わせることだ。義母が作った品と息子の嫁の品を比較するために、あえて嫁にも作らせたのだ。
醜悪さに怖気が走る。
そんな気持ち悪い出来レースを見せられたら、妻は激怒する。
「いや、そんなら、最初から自分だけで作れよ。お前の料理出したいなら準備しとけよ。こちとら毎日家事育児に追われて疲れ果ててんだから無駄に手伝わすなクソババア。」と思っても無理はない。怒り心頭だろう。当たり前だ。
義母のほうはいい気なもので、自分が今までやってきた家事育児を肯定されるようで気分が高揚し機嫌がよくなる。ますます息子の嫁からすればストレス以外の何物でもない。
息子の嫁は面目丸つぶれの状況をつくられて、ますます義母が嫌いになるだろう。夫のマザコンっぷりに辟易として愛想をつかす。夫婦の人間関係に亀裂を生むだけだ。
「他人の家」の人間関係を荒らして、後々まで続く呪いのような家庭不和を植え付けるだけなのだが、自分が認められることしか頭にないため、想像が及ばないのだろう。
また、自分に育児の責任がないが血の繋がりのある赤ちゃんや幼子と触れ合おうとするのも、幼い彼ら彼女らに身体的な奉仕を強いているといえるだろう。
老いさらばえてカッサカサの肌の自分とは違う瑞々しい肌を撫でまわして、かわいいかわいいと言って孫から生気を吸い取る。その姿はまるで妖怪である。
これが肉体的な奉仕の例。
休みではない。奉仕をしに行くということは仕事だ。仕事よりしんどい激務。奉仕という激務だ。
せっかく与えられた休みをつぶし、わざわざ住み慣れた家を離れ、安くない移動費を自己負担し、田舎に住む妖怪たちに己が身を貢物としてお供えするようなものだ。
だから、コロナだろうがそうでなかろうが、帰省したくない人が多いのは当たり前だ。
まとめ:里帰りではなくお祓いが必要
結構極端に書いたが、おおむね中らずと雖も遠からずといったところではないだろうか。
「ご先祖様あっての自分、だから感謝しろ」
「先祖の墓参りにもいかないでいると、バチが当たるわよ」
なとどいう人がいるが、そんなわけがない。
ご先祖はご先祖なりに人生を生き、そして死んだんただろう。たぶん死後の感謝など求めてはいない。自分が今を生きるためにやったことだ。自分のためだ。
私を生かしてくれているのはご先祖だけの力ではない。この世界のすべてが、私を生かす私の一部だ。だから毎日感謝している。なので、わざわざ夏に交通費をかけてまで特定の一部にだけ感謝を表明する必要はない。
バチなど当たるはずがない。自分の血族を呪うなんて、どうかしている。
そんなことするなら「あんたどうかしてるぜご先祖さんよ」と言いたい。
もしそんなご先祖の霊がいるとしても、私たちがありのままの自分で生きることを望み、温かく見守っているはずである。
「貴重な休みにわざわざ墓になんて来なくていいから、楽しく過ごしなさいな」と思っているはずだ。
私の先祖なのだ、そうに違いない。だから呪われるわけがない。
結局、前述のような奉仕を獲得するための、父母側の口実の一つでしかない。
あれやこれやと脅して子供の行動を支配しようとしている。いわゆるイネイブリングのための論法である。
だから無視していい。
実父母、義父母の精神的な問題である。というととは私たちにできることはない。どうか勝手にがんばってほしい。私たちは休みたい。そして限りある今を自由に過ごしたい。
ていうかなぁ、なんていうか。
正直に「毎日つまらなくてさびしくてたまらないので、どうかウチに遊びに来てください」と言えばいいのに。
断られるのが恐ろしいから、屁理屈をこねてコントロールしようとするんだよね。
ちゃんと今まで、年少者に対してアサーティブに対等に接していて、対等な関係を築いているならば、愛情は伝わっている。無駄に策を弄さなくても、勝手に会いに来るさ。
求めなければ会いに来ない時点で、お察しなんだよね。
成人した子供たちの貴重な時間を自分の寂しさを埋めるために定期的に奪うなど、厚かましいことだとは思わんかね。
「自分たちのことなんて心配しなくていいし様子なんて見に来なくていいから、好きなように過ごしてほしい」と、なぜ言えない。
本当は愛していないのか。いまだに子供を自分たちの所有物だと思っているからか。
確かにそんな利己的な人間が死んだら、その地で地縛霊になりかねない。
だから墓参りをしないとバチが当たるのかもしれない。
だとすれば、毎年手配しなくてはならないのは、里帰りの交通チケットではなく、悪霊のお祓いであろう。