私はADHD・ASDとして一定の特性を持っている。
そんな私は社会で生きているだけで、強いストレスを感じる。イライラする。
それはなぜなのか?
最近考えているところをまとめてみる。
①「待つ」が超苦痛
ADHDには、多動性・衝動性という特性がある。
画像引用元:日本イーライリリー株式会社 成人期ADHD診断上の重要ポイント
多動性(成人期の特徴)
□過剰におしゃべりをする、相手の話を遮る。
□内的な落ち着きのなさ(そわそわしていて忙しそう)。
□感情の起伏が激しい。
□仕事を過剰に引き受けてしまう。
□貧乏ゆすりなど、目的のない動きがある。衝動性(成人期の特徴)
□易刺激性・短気。
□転職が頻繁である。
□思いつきの旅行。
□危険な運転(信号無視、スピード違反)・交通事故
□喫煙・カフェインの過剰な摂取。
□衝動的・無計画な買い物(待てない)
ただし全員がこのようなダメな行動をするわけでは無い。
個人的にはダメ出ししているかのような表現に違和感があるが、おおむねこの通り。
さて、上記の引用のうち、太字にしたようなところが「待つ」ということへの苦手さを表している。
「内的な落ち着きのなさ」とあるが、そうなるのは、単に多動だからだけではない。
多動性・衝動性を理性で抑え込むだけで精いっぱいだからだ。
本当は動きたいのに、動けない。社会的に動いてはいけないタイミングだということは、学習して知っている。知ってはいるし理解もしているが、体と心は止まってはくれない、そういう特性だから。
「相手の都合に合わせて待つ」
「ちょうどいいタイミングを計る」
「空気を読む」
これらの動作は、神経発達症の当事者にとって、とんでもないストレスを生む。
理性で全力でブレーキをかけながら同時にアクセルをふかしまくって、なんとか運転しているような感じだ。内蔵されているエンジン(脳)は常に過剰な負荷を強いられる。
そのストレスからくる疲労で、「不注意」の特性がより顕著になる。
つまり、作業中のミスにつながる。
②「思考の多動性」・「興味関心の偏り」でいつも脳がヘトヘト
神経発達症の脳は常に活発に動いている。
眼に入る全ての映像や、耳から聞こえてくる全ての会話を情報としてひろってしまうので、情報過多で脳の前頭前野が疲労しやすい。
たとえば、ショッピングモールを歩いているとする。
目に入った商品を見て「あ、そういえばアレって」と頭の片隅で考え事①が始まったと思ったら、「○○ってさー」という通りすがりの人の声を聞いて「あ、○○ってなんで人気なんだろう?」と考え事②がはじまり、ふと目に入った時計塔の時刻をみて「そういえば午後からWEB講演会だったな、演者は誰だっけ」と考え事③が始まり、頭がいっぱいになってきてイライラし始めたところで「ガランガランガラン!!大当たり!!!二等おめでとうございます!!!」と福引の抽選に当たったであろう鐘の音が大音量で響き渡ったせいで今まで考えていたことが吹っ飛び、「ああああああああああ!何考えてたんだっけ!!!!!もおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」と発狂しかける。こんな感じ。
だからおちおち情報が多すぎる場所には行きたくない。行くだけで疲れる。
だから都会の人混み・テーマパーク・パチンコ店・会社の集合会議など、光・音・人が多いところが苦手。行くだけで翌日は全く使い物にならなくなる。
加えて、ASD傾向もある私は、興味関心の範囲が狭い。
つまらないこと、意味のないこと(みんながやっているからやるとか意味不明)をやるのがとんでもなく嫌。
例えば、意味のない会議。「これ集まってやる意味ないやん」と思ったが最後、その瞬間に興味が1ミリも無くなる。無くなるので聞いていても内容が耳に入らない。が、たまに「ちあきさんは、どうお考えですか?」とか質問されたりするので、全無視もできないから、聞いておかなくてはならない。音声がだんだん雑音にしか聞こえなくなり、シンプルにうるさいので癪に障るようになってくる。次第に他のやるべきことがいくつも頭をチラつきはじめ、そちらに手を出したくてたまらない(多動性・衝動性)が、意味のない話を聞かないといけないので、行動を制限されるストレス、多動性・衝動性を抑え込んでいるストレスで、どんどんイライラしてくる。
会議ばかりの日の後も、回復に一日を要する。
あとは、効率的でない、楽しくないこともダメだ。
掃除とかかな。
片づけても片づけても散らかる。散らからないように気を付けていても、他人が散らかす。ハゲ散らかすんじゃないかと思うくらい、労力をかけて清潔にした空間が汚れてしまった事実にイライラする。
そもそも他人の行動はコントロールできないし、片づけてもいずれ散らかるのだから、もういっそのこと片づけないでも変わらないのではないか?と思ってしまうと、片づけなくなる。片付けが苦手なのはそういうわけ。
謎に毎日できるだけリアルタイムで入れろと言われる、営業日報・勤怠報告・経費精算なども苦手だ。「各々が入れられるときにガッと入れればいいじゃん」と思う。
一日二日遅れただけで特に結果が変わるわけでもない。決算で数字が変わるとマズいとかならわかるけど、それ以外のときになぜ強制されなくてはならないのか。
それは、入力された仕事を管理する仕事をやっている人の最適化のためだ。
それはそうだが、仕事のための仕事は、優先順位が低くて当たり前だ。なのに、それが最も重要な仕事かのようにいう会社が私には分からない。意味がわからない。
自分のルーティーンは大事だが、他人が勝手に決めたルーティーンは、自分にとって重要性が低い場合、たいてい取り入れることができない。
しかし、やらないととんでもなく怒られるし、評価が下がって立場がマズくなるのは、経験上よく知っている。「いかに良い子にして他人の指図に従うか」というのが、この世界で学生時代から変わらない評価の物差し。
だから、ある程度、怒られない程度には、そちらの都合にも合わせなくてはならない。生きていくために、妥協しなくてはならない。とてつもなく嫌だが、やるしかない。
「ああ、こんなん入れようが入れまいが特に何も困らない、意味ないことなのにな」
と思いながら、しぶしぶアフリカゾウより重い腰を上げて取り掛かる毎日。嫌がる自分をなだめて奮い立たせて何とか鼓舞してそれらをやりきると、泥のように疲れ切っている。
なので、私のなかでは重要でクリエイティブな、時間をかけて完成させたい仕事が全くできずに、一日が終わる。
これは会社にとって最もやってほしい仕事だろうし、これが後回しになることそのものが損なんじゃないかと思うが、あちらは意味のない作業をチマチマすること(会社の指図に従うこと)を求めていて「会社とは、働くとはそういうものなの!」とプンプン怒るので、彼らのなかではそうなんだろう。
お金をもらうってそんな感じ。ただただ不毛で意味がないことだ。
③マルチタスクが困難
仕事・社会は、同時多発テロのようにいろいろなことが起こり、決めた通りの順番で対応することなど不可能な世界だ。往々にして、日常というのは、並行して何かをしなければならない。イレギュラーはつきものであり、それに柔軟に対応しながら、通過しないといけないチェックポイントをもれなく回る必要がある。
とんでもない世界だ。とても困る。でもここで生きていくしかない。
それが、ASDの私にとってはとんでもなくストレスで、パニックを起こすほど苦痛なのである。
3つ以上同時並行でやらないといけないと、私はストレスで発狂しそうになる。
例えば、夕方の子育て。
チェックしたいWEB講演会があるのに、下の子はミルクを求めて泣き叫び、その相手をしていると焼きもちを焼いた上の子が「パパ一緒に遊ぼうよ」と半べそで腕を引っ張る。
結果的に、WEB講演会は集中して聞けないし、ミルクをあげていると上の子がへそを曲げるので、あげながら相手をすることにあるが、おざなりな相手の仕方では結局ご機嫌を損ねる。すべてが中途半端、うまくいかない。求めている結果に到達しない。でも、これ以上どうしようもない。
そういう「達成したい状態に届かないとわかっているのに、同時に3つ以上のことを実行しなくてはならない」という環境にいると、ものすごい勢いでライフが削られていくのを体感する。文字通り命を削って状況に相対しているような心地である。
基本的に同時に何かをすることは苦手、何か一つにしか集中できない。
逆に言うと、集中力はずばぬけていて、自分の好きなように一つに絞らせてもらえさえすれば、定型発達よりすごい成果を短期間で出せる。
集中しさえすれば短期間で良い成果が出せると分かっているので、集中させてほしいが、自分の優先順位通りに時間と順番を割り振りさせてもらえないと「あーもういいや、どうでも」とすべてを投げ出す。だってどうせ完璧にできないし満足にできないのだから、頑張る気がしないのだ。出来上がる状況や成果物は出来損ないなのがすでに確定しているのに、頑張る価値が無い。そう感じる。
「まあまあ、そうはすべてはうまくいかないなかで、みんな頑張っているんだからさ」
などとよく言われる。
たしかに、みなこの条件でよくやっていると思う。発狂しそうな心を抑えながら私も日々奮闘しているが、よく挫けそうになる。
脳の特性上、マルチタスクがそんなにストレスではないなら、この条件だろうと、1個に集中できる環境であろうと、成果はそんなに変わらないだろう。それなら、そこまで凹むこともないので、受け容れられもするだろう。
しかし、私たちは環境と裁量さえ与えてくれれば、もっともっと役に立てるのに、強みをつぶされているので、それはとても残念だし、凹む。
神経発達症当事者にとっては、この社会は不利な条件で力を発揮しなくてはならない環境だ。社会がそうなっているのは、神経発達症非当事者にとって快適な社会に設計されているからだ。そりゃー、「みんなそうなんだから」って言うあんたがたは快適だろうさ、もともとそういう設計だもの。だけど私たちマイノリティにとっては、そうじゃないんだよ。
この違いを「少数だから」と配慮しないまま、各々のベストのパフォーマンスを発揮させずに使いつぶそうというのは大変効率が悪く、せっかくの高いパフォーマンスで得られるメリットが低下する。実にもったいないことをしていると思う。
まとめ:では、どうすれば私たちはもっと力を発揮できるのか?
と、いくら文句を言っても、社会はそう簡単には変容しない。
社会をいくら批判したところで、煙たがられるだけである。基本的人権や権利について蹂躙しようとしてくるような輩には毅然としてNOを突き付ける必要がある(戦う必要がある)が、この箱モノをどうにかしようというのは生産的ではない。
なぜなら社会とはすでに生まれた瞬間から崩壊に向けてスタートしていて、社会になった瞬間に、社会は悪い方向に傾いていくようプログラムされている。ウェーバー予想というやつだ。
だから「社会」そのものに期待するのはやめたほうがよい。あまり精神衛生上、よくない。社会システムのなかの一部の繋がりに期待するのはよいが、システムそのものはシステムでしかない。カスである。いずれ破綻する。
なので、ここからは、個人として今の社会システムになんとか合わせて擬態し生きていくためのHOWを考えていきたい。
どうすれば、今の箱モノのなかで力を発揮しやすいか、ということに集中してみよう。
①専門職に就く
興味があって何時間でも没頭できるものがあれば、それだけができる仕事をなんとか見つける。
専門職は、専門性という尖った個性が価値になる。
研究職(大学など)・職人・図書館・博物館・水族館・動物園などで興味があることにずっと触れ合える居場所が見つかれば、天職といっても過言ではない。
②お互いの特性を話して、凸凹をチームで補い合う
それぞれ凸凹があって当然。すべてを一人でできないからチームがある。
「こういうタイプでこれが苦手だけどこれができる。だから、こういう時は助けてほしい。こういうときは役に立ちたいから声をかけてね。」
と、チームのマネージャーとメンバーに謙虚に素直に自己開示しよう。
マネージャー(管理職)とは本来、こうした特性を加味して業務を割り振り、適材適所で仕事の種類や量を管理することが仕事だから、そのリソースとしての自分を理解してもらう必要がある。
そして、その情報を与えて謙虚にお願いしたにもかかわらず、よくわからん人員配置をしたり、十把一絡げな指示しか出せないようなら、マネージャーが能力不足なのであって、あなたのせいではない。割り切ろう。あなたは悪くない。マネージャーが代わるしかない。
この方法は、まだうまくはいかないことはもちろんある。というか結構うまくはいかない。
理由は2つ。
この社会には、そんなに優秀なマネージャーがそんなに存在していないから。
損得で出世してきたようなつまらん人間がゴマすりで管理職まで上がってきているから。
もうひとつは、神経発達症の理解がまだまだだから。
まだ本音では「全部ひとりでやれよ」というオールマイティを評価しがちな日本において、スペシャリストは生きにくい。それはこれから社会の側が改善していかなくてはならないこと。
つまり、理由は2つとも外部要因なので、私たちが直接どうしようもない。だから気にしても仕方ない。
自己開示して、運を天に任せよう。「あ、ダメだココ」と心底思ったら、転職しよう。そんなに違いはないが、よりマシな組織を探そう。
③「こんなクソみたいな社会に適応なんてできなくてもいい」と大きく構える
「ちゃんと普通に一般就職で一人前に働かなきゃ」
「ちゃんと社会人として自立して生きていかなきゃ」
そんなふうに思わなくていい。
社会は、教えられたような、正しい世界ではない。そんなにいいものではない。
自殺率は高い。政府はダメダメ。金のことばかり考えていて、実に浅い。
ぶっちゃけ、私たちより社会のほうが間違っている。
そんな社会に適応できていないからといって、自分を卑下する必要はない。
そもそも適応する価値のない社会なんだ、と思ってもよい。
「しかたないからこっちが合わせてやってる」くらいの気持ちでいこう。
あなたが感じる世界観・価値観・人生観は、あなただけのものだ。そして一番大切なものだ。
あなたが信じるようにあなたの人生をイキイキと生きていくことが、世界が求めているベストな状態だ。
お金があろうがなかろうが、有名だろうが無名だろうが、なにかをなそうがそうでなかろうが、それは大した問題ではない。
「人生 どげんかなる。どげんでんなる。」
沢山悩んで苦しんだ1年でしたが、後悔はひとつもありません。無事にここまで来れてよかった!
引っ越し物語㊶【母ひとり、子3人生活】#コミックエッセイ #エッセイ漫画 #絵日記 #漫画 #シングルマザー #引っ越しhttps://t.co/ZJvs0uJgzi
— 龍たまこ@「母親だから当たり前?」発売中! (@ryutamako) December 14, 2021
とても好きな「龍たまこ」さんのブログに示されていた、この言葉。
そう、どうにかなる。だいたい、どうにでもなる。
だから、あまり「○○するべき」とか思わないで、試してみよう。
試してみてダメでも、私たちには仲間がいる。同じ痛みを知る者同士、助け合っていける。
私たちは、少数だけれども、独りじゃない。一人だけど、独りじゃない。