私はよくひとから「上から目線だね」と言われることがある
私は、よく顔に出る。態度にも出る。
そういう意味ではとても素直な性格をしていると思うけれど、他人からは「性格がねじ曲がっている」と言われる。
確かに言われるままを信じないという意味では、人々の言う「素直さ」はないのかもしれない。でも、私にとっては「他人の言うことは信用ならない」という信念に真っすぐなのであって、そういう意味ではある種の一途さがあるとは思わないか。
まあ思わないから「ありえないくらいにひん曲がっている」とまで表現されるんだろう。
ごく最近になって、そんな私が他人に対して「上から目線だな」と思うことがあった。
それは、あるイベントで私が開催しているものに参加してくれた人のこんな一言に対しておもったことだった。
「まあ、私としてはこのイベントに参加する意味があるとは思えなくなってきたんですけれど、みなさんの成長をここで見守っていきたいと考えているのです」
なかなかの高みから我々を見下ろしているご意見を頂戴した。
「そうですか」としか言いようがなかった。
私は「上から目線だな」と思う側の立場になって、ある法則を発見した。
上からだと思う=「君は下から見上げるのが当然」と思ってるから
それは、発言者に対して、聞き手が「お前は私より下だ」という前提の認識を持っているということだ。
「上から目線だ」と感じるのは、本来下にいるはずの人に下からではなく上から目線を送られたことに対して、自分の認識とは異なる相手の予想外の態度に対する違和感・怒りの感情が発生しているからである。
分かりやすく喩えるなら、自分は上司で相手は部下だと思っていたり、自分は先輩で相手は後輩だと認識している状態なのに、いきなりため口で説教を垂れてこられたような感覚である。
つまり「上から目線だな」と思うということは、言ってきた相手を自分より下に見ているということを意味している。
それこそ、上から目線ではないだろうか。
私は当該の発言をしてきた人を、今まで自分が悩んできたけれど解決に近づいている問題に今もなお悩んでいて、問題の本質に気づいていないのに、分かったつもりになっている、と思って下に見ていたように思う。
それが事実だったとしても、私はその人よりも問題の認識レベルが上にあるという傲慢な思い込みを自分のなかに発見して、少しショックだった。
本来人には上も下もないのに、上下関係をつくるのは、常に自分の「思い込み」だ。
そしてその思い込みは、己のなかの不安や恐れから生成されている。
「私は分かっている」「私は成長している」
そう思いたい。自信がないから他人と比べて安心したくなる。本当にそうであればそれは全く気にする必要が無いのだが。
不安や恐れは必要な感情である。
ネガティブな気持ちがあるおかげで、私たちは己を省みたり来るべきリスクを予想して備えることができる。それが行き過ぎると、強迫性障害や全般性不安障害になるが、全くなくても双極性障害の躁状態のようなもので、バランスを欠く。
大切なのは、誤魔化さないことである。
不安や恐れがある、ということを認める。認めて、傍らに置いておくことができる。
それが最も自然な状態だということ。
感情に反応する人ではなく、感情を認めて自ら行動する人であるということ。
不安や恐れが自分のなかに「ある」と謙虚に認識しているか否か、だが、この違いはとても大きい。そしてとても難しい。
Timing is everything; don’t jump the gun
とらわれないようにするには「この人との間に上下関係はなく、対等な関係なのだ」と自分の認識を正すことだ。
先の私の思い込みを例にとって言えば。
その人が「このイベントには意味がない」と思うことは、その人の権利であり自由だ。好きなようにそう思っていればよく、今後参加するかしないかも、私がどうこう言うものではない。必要だと思えば参加するのだろうし、不必要だと思えば離れていくのだろうし、意味がないと言いながらも足しげく通ってくるかもしれない。それは私にとってはどうでもよいことだ。
その人の人生は、その人が決めるからだ。そうでしかありえない。
私は私で、意味があるイベントにしたいという願いを形にするためにできる事をするだろうし、意味がある時間と空間を作り上げるためだったら、意見を求めたりもするだろう。
そうやってできたものをどう評価するかは、一切合切他人の領分なのであって、私は私が提供できる最良のものを準備するところまでしか、できることはないのである。
チャンスをどう受け取るかは他人の準備ができているかどうかにもかかっている。
啐啄同時というのか、わかるべきときはわたしにもあなたにも「与えられる」ものであって、遅いも早いもないのである。その人にとってベストなタイミングがある。
私が未だに知らないことは星の数ほどあり、私より頭がよく詳しい人は数えきれない。
そういう無数の英知から、私は日々学んで少しずつ「なりたい自分」になっていく。
そのような牛歩の歩みは人間であればだれでもそうで、特別なことは何もない、こと人生という営みにおいては。
だから、上から目線だと言われたときには「ああ、この人にとっては、私には至らない点があるんだな、それはどういう部分なのだろう」と思って耳を傾けてみる。
それが私にとってもそう思える内容なら改善のチャンスだし、的外れな思い込みなら「不安だから私を下に置いておきたいだけの人なんだな」と思ってスルーしておけばいい。
上から目線だな、と思って怒りの炎が心のなかでチリリとしたときには「ああ、今自分のなかには相手を下に見ている気持ちと、それを生む不安や恐れがあるんだな」と思って心に耳を澄ませてみる。
不安や恐れが見つかったなら、それを信頼できる人に打ち明けて聞いてもらえばいい。楽になるだろう。そして客観的にその思いが真実か思い込みかどうか、落ち着いて眺めてみることだ。冷静になれたあなたは、たいていが杞憂だと気づくはずだ。
こうやって書いているけれど、言うは易く行うは難し。実に難しい。
まだまだだな。