私は、昔から人生を早く終わりにしたかった。
自分の楽しいことが、いまいち何かよくわからなかった。いつもイライラしていた。
かたや「人生を終わりたくない。楽しいからいきていたい。」そういう妻。
いったい妻と私では何が違うのだろうか?
楽しさの追求
妻は基本的に「どうせ生きてるんだから楽しもう」とするタイプだ。
彼女は、親が好きなように生きる姿を見て、好きなように楽しめる方に、他人がどうあろうと行動するしかないことを学んだのかもしれない。
彼女の父は、兄と姉と妻の学資保険を全て溶かして起業した挙句失敗し、母はその身勝手な行動に失望して失踪した。
電気のついていない、崩壊した暗い家に一人で帰る小学生時代だったという。
バイトをしなくては学費が払えない中学時代は、遊びたくても遊べなかったそうだ。
私は長く疑問だった。
親さえしっかりしていれば、背負う必要がなかった悲しみや苦労を、彼女はなぜ許せるのだろうか?
私は憎い人々を忘れられない。負けた相手をいつか打ち負かして「オレがお前より上だ」と叩きつけない限り夜も安らかに眠れないような人間だ。
なぜ、負けたり理不尽な仕打ちをされたときに、恨みや憎しみに支配されないのか?
思い至ったのは、彼女は真の意味で、己の無力さや弱さを知っていて、心から受け容れているからかもしれない、と思った。
確かに私が依存症になったときも、そうだった。
私自身、依存症になるなんて夢にも思ってなかった。
でも、これ以上ないくらい完璧に、アルコール依存症になった。
自分では予想もつかないことが起きるし、自分というのは、想像よりするより、あまりにも弱く脆い。私自身、病気を通じて己の無力さを思い知った。
妻は私が依存症であるという事実を聞いたとき「ちあきにあるのだから、誰にでもあるものなのかもしれない。」と思ったという。
「私もなっていたらやめられないかもしれない。」
「たとえば骨折しているのに松葉づえを取り上げられたらそれはつらいだろう。それと同じように酒に頼ってきたのに、酒を取り上げられたら苦しいだろう。私なら辞められないかもしれない。」
そう考えたという。
誰に、何が起きても、どう期待や予想を裏切っても、不思議じゃない。
今の自分には理解できないような果てしなく愚かな行いに見えても、自分ももしかしたら、万が一…いや億が一、同じ立場になったとして、そういう行動をしてしまうかもしれない。
全く同じ立場じゃない限りわからないから、自分もそうなるかもしれない。
だから、責めないのか。仕方ないのかもしれない、と思えるのか。
たとえば、仮に責めても結果は変わらない。
だから、確かに、理解できない失敗や行為を責めても、結論としては仕方がないのだ。
結局は、自分でしかない。
あらゆる事象は、「自分がより良く生きる材料」として活用するしかない。
つまり、感じてきた痛みは、学ぶ姿勢がある限り人生の「+要素」に昇華できる好ましい事象だと言える。つまり、苦しみも痛みも含めて、何もかもが無駄ではない。
人は誰しも欠陥だらけ
悪いところなど、見つけようと思えばいくらでも見つかる。
正直自分も他人も、悪いところなら挙げればキリがない。
いいところを見つけて学ぶほうが、よっぽど実りがある。
建設的だし、自分にとっても他人にとってもハッピーな方向性。
だから、間違い探しにエネルギーを使わない。
どうせ使うなら、受け容れて学び、楽しむ方にエネルギーを使う。
この「楽しむことに全力全開」というのが、私が妻を見ていて尊敬するところだ。
今のところ、何一ついいところが見当たらなければ、そっと距離を取ればいいだけのこと。
また時期が来たら見つかるかもしれない。
今はまだ私にはわからないだけかもしれない。
今は相手に余裕がなくて、本来ある良さがマスクされているのかもしれない。
自分のことが他人にはなかなか理解してもらえないように、私も他人を簡単に見切れるほど優れているわけでもないし、眼が効くわけではないのだから。
そういう、息の長い向き合い方をしていきたい。
簡単にカテゴライズしない。ジャッジしない。諦めて切り捨てない。
それは、自分が反対の立場ならそうしてほしいし、他人がそうあるほうが幸せだからだ。
『いいとこあるかもしれない』で終わらせておけるのは、他人は他人と割り切っているからである。
つまり、自他の境界線(バウンダリー)が完全に区切れていることに他ならない。
自分を脅かす脅威に思えて、早く理解したことにして自分のなかの落ち着けどころを決めてしまおうと不安に焦りたくない。
その人の必ずあるであろう良いところが、私にとって面白いか面白くないか、を感じとろうとする感性と関わる姿勢を大事にしたい。
不安や恐れがあるのは、今までパワーゲームでコントロールされたり条件付きの愛情を受けてきたりしたせいで、ランキングが存在価値に直結すると思っているから。
存在価値を脅かされることはとても怖い。
社会的な死、精神的な死を意味するから。
怖くて当たり前。怖いのはあなたのせいじゃない。あなたが弱いのではない。
怖さを隠さなくていい。それは弱さじゃなく、原因と結果の産物であり、昔必要だった愛すべきライフスキルである。
そして、今もう役目を終えて、手放していいスキルでもある。
新しく、相手を見るときには、マネできるいいところを探そうと思う。
人との出会いや関わりは、その面白みを見つけられる楽しいことだと位置づけていきたい。
そうすれば、私は人との関わりを、唯一安寧に近い一人の時間を邪魔する煩わしいイベントとして忌避しなくてよくなる。
世界がもっと生きやすくなる。
そうなってくれれば、もはや嗜癖に頼る必要がなくなる。
自分の世界の見方を変える。これが、依存症者にとって、ACにとってのパラダイムシフトなのだと思う。