最近、人との関わりに興味が持てなくなっている。
酒は止まっているけど、人と人との関わりについてはまだまだわからないことだらけだ。
私は、元からそんなに他人に興味がなかったのに、必死に興味を持とう、関わろうとしてきたように思う。
酒が止まり、本来の状態に近づいているからなのかもしれない。
伝えたいことを伝わる形で届けようとすることは、いつでもだれに対しても、とても重要だ。
その努力は惜しみたくないし、最大限力を注ぎたいと思っているし、そうしてきたつもりだ。
しかし、どう力を尽くしたとしても、相手がいることだから、うまくいくとは限らない。
相手が受け取る準備ができていなければ、私がどう苦心して形を整えたとしても、伝わらないことは多々ある。
結局、人間は誰もが自分を含む世界全体を見たいように見ている。他人はその人にとって都合がいいように映る。私も含めて皆がそうなのは、どうやら経験上確かだなと思っている。
何を必死になって、世の中にとって意義のあることをしたい、などと息巻いていたのだろう。
専門領域について詳しくなり、様々な人に正確な知識を伝えたい、なとど躍起になっていたのだろう。
お節介もいいところだ。
全部、受け取る相手がいるのだ。
どんな情報も言葉も、受け取る相手次第であり、それらはハイヤーパワーにより導かれているのだから、私が使命感を持ってどうこう影響しようとする話ではない。
そういう傲りは、私が他人に必要とされたい、という欲望だ。必要とされていなければ生きていてはいけないという恐怖の副産物だ。
私たちは皆、役に立つとか立たないとか関係なく生きていていいし、自己実現や承認欲求はプラスアルファであり、その人がそれぞれ満たしたい分だけでいいものだ。つまりサブミッションだ。
私は、私が今まで知ってきたことや感じてきたことを通じてしか世界をとらえられていない。その時点で、どれだけ多くのノウハウを詰め込んだとしても、私の見方は限りなく一元的だ。
他人が見ている世界とは、結局のところ同じではない。誰とも、同じものを見ているわけでは無いのだから。
だから、私が言えるのは「私としては、こうだと思う。」ということだけ。正しいとか間違っているなんて、そもそも存在しない。
私はこれからも「私は世の中がこうなったらいいな」と思うことを朴訥に、淡々と、実行しては検証するだけだ。
賛同する人間は賛同し、反対する人間は反対して、各々の好きなようにしたらいい。
私は私のペースで、そのとき在りたいようにあるしか無い。
本当に、それでしかない。
他人の世界観を知ることは、自分の世界を広げる可能性を秘めている。
だから、自分の話をして、他人の話を聞く価値は、いつでも誰とでも、あると思う。
他人と接することで、他人という鏡に映る自分の姿や状態を認識することができ、違う宇宙を覗くことで、神経が拡がっていくように自分の宇宙が拡がる。
ただ、この作業は、私はすごく疲れる。
もう正直うんざりしてきている。
この作業にワクワクして力をもらう人には、これ以上ない活力なんだと思うけど。
私はそういう造りはしていない感じがする。
むしろデメリットや矛盾が不快な感覚を味わせてくるので、余裕があるときに少しでいい。
年寄りで胃もたれするから脂物はちょっとでいいみたいな感じ。おじいちゃんかよ。
人に囲まれて、慕われて好かれて、みたいなことに憧れがあったけど、今はもうなくなった。
あれは私とはまた違う報酬系だったんだな、と今は思う。人は自分と違う他人に憧れるのだから。
勝手に下にみたり、崇拝したり。
くっつきすぎたり、離れてみたり。
あと何回、誰かとの似たようなケースの処理に付き合うのだ。いい加減飽き飽きしてくる。
そんな感じだ。
期待しては失望して、それは結局自分の勝手な独り相撲で、お互いに傷ついて終わるパターンを、一生のうちにあと何回やるのだろうか。
これを楽しいと感じられるのはかなりすごいことだと思う。
もう疲れたな、というただの愚痴。