step8.傷つけた人の棚卸しです。
頭の中の厳しい自分の声
私は自分に厳しい。
強迫性障害の診断が下ったこともある。強迫的に自分を追い詰める性質がある。
たとえば、仕事。
私は何かやるべきことが生まれると、頭のなかでもう1人の自分が私を罵倒し始める。
「さあ早くやれ!まだ終わらないのか?本気でやる気あるなら徹夜でもなんでも仕上げられるだろ?やる気ないだけじゃん、口だけならやめちまえよ」
「お前に能力がないから、時間がかかって、救える人も救えなくなるんだよ。代わって貰えば?役立たず」
などという言葉が頭の中をグルグル回る。
焦り、苛立ち、半ば狂気に駆られるように仕事を終わらせる。
私はとにかく仕事を、早く質が高い状態でやらなければならない、と思い込んでいたし、今もその思考の歪みからパニック状態に陥りやすい。
なぜ追い詰められるのか?
なぜ、そのように強迫的に自分を追い詰めるのだろうか?
誰にも何も急かされていないのに、どうして焦るのか?
それは、私の新人時代を振り返ると少し紐解ける。
私はベンチャー企業に就職した。
当時新人の私は手探りで仕事をしていた。
上司は厳しい人だった。
頭のなかで響いている自分の声の発言は、ほぼそのときに上司から言われたセリフそのままだ。
見積の作りが甘いとクシャクシャにして投げつけられた。報告が要領を得ないときは「何語喋ってんだよ?日本語勉強してきたら?」と半笑いで馬鹿にされた。
仕事がうまくできない。やり方がわからない。自分より学歴が低い、よくわからない中年のおじさんに馬鹿にされる。「偏差値もスポーツも他人より優秀でなくてはならない」と両親によって洗脳されてきた私にとって、社会人になりたての頃は砂を噛むような毎日だった。
こんな自分でいたくない。屈辱で噛んだ唇から血が滲む。しかしこんな自分をなんとかしなくてはならない。
ルールだ。社会人には社会人のルールがある。それを守ればまたちゃんとできるはずだ。
私は社会人としての基本動作を徹底的に上司から学ぶことに専念した。どれだけ馬鹿にされても黙って行動で示し続けた。
ダメな自分から生まれ変わるにはそれしかないと思った。
こうして、私は社会人とはちゃんと仕事のルールに沿って動けない奴はゴミどころか寄生虫であり、いてはいけない人間だと思い込んでいった。
同時に、飲んだ煮え湯を胃に蓄え、内腑にグツグツと燃え滾る憎しみを溜め込んでいった。
歪んだ憎悪に支配される
そんな上司を見返したくて、仕事は即日やれるところまで何があろうとやった。
疲れたとかやる気がないなんて全てできない言い訳と自分の気持ちを切り捨てた。
やれるかどうかじゃない、やるか、やらないかだ。
そうやって、私は自分にどんどん厳しくなった。
やれることを最速でやるので成果がみるみる上がるようになり、当時いたベンチャー企業に見切りをつけて異業種の企業に転職した。
転職した異業種では、今までとはやり方が全然違い、一からやらなくてはならなかった。
しかし、即戦力として期待され入社した私は、分からないというのがすごく怖かった。
また、新人時代みたいにコケにされたくない。
そんな思いをしたくなくて頑張ってきたのに。
そうやって殻にこもり、気がついたら取り返しのつかない失敗をして、アルコール依存症とうつを併発していた。
再び叩きのめされ、地に落ちた。新人以下に降格され、また煮え湯を飲む日々が始まった。這いつくばって耐えた。
再び這い上がってきたとき、「会社」や「上司」や「仕事」に対する憎しみは深く重く私の精神にのしかかり、私を支配していた。
正しさに囚われた怒り
「私を2度も精神的に殺したのだ。
お前たちは正しくなければ嘘だ。
なぜなら、正しくないのに私をコケにしたり寄生虫扱いするのは、道理が通らないからだ。
打っていいのは、打たれる覚悟のある奴だけだ。
つまり、お前らは覚悟しているはずだ。私に打たれて死んで、同じ煮え湯を飲むことになっても、それを覚悟の上で私を打ったのだから、よもや恨むまい。
さあ、力の限り復讐してやる。
私をコケにしてきたことを泣いて詫びるがいい。私はミスしない。お前にもミスさせない。今までと同じ煮え湯を浴びるほど飲ませてやる。」
こんな気持ちで仕事をしていた。
当然、上層部の理屈に合わない話は全て理論武装して叩き潰しにかかった。
会議で意気揚々と発表しようものなら、質問という名の糾弾で、二の句を告げなくさせようと躍起になった。
上司も上層部も、私が攻撃していない同僚すら、私を警戒する様になっていった。
私が参加する会議はいつも嫌な緊張がはしり、私が口を開くと皆が黙った。
私はこんなことがしたかったのだろうか。
今まで正しさを押し付けてきた階層の人たちを正しさで黙らせるのは、何とも言えない快感があった。私は怒りに耽溺していた。怒ることを嗜癖にしていた。
それは、私がなりたかった姿だろうか。
違う。
それは、やられて嫌だったことを、やり返しているだけだ。やられて嫌だったことをやりたいわけじゃない。
だって私はあのとき怒りで覆い隠して見ないようにしていたけれど、本当はすごく悲しかったのだ。
一生懸命やろうとしていることを馬鹿にされて、辛かった。
相手が自分だったら、その気持ちを味わせたいだろうか?
そうではない。私はそんな非道い人間でいたくない。
彼らを私だとして罪を振り返る(謝罪の言葉)
私は、自分の悲しみや怒りを抱えきれなくなっていたことを認める。
悲しい、つらい、腹が立つ、と言えなかった環境で、吐き出せなかった思いを溜め込んだ。当事者ではない、新たに出逢った罪のない人たちを、その人そのものを見ずに、上司や会社という立場に反応して、私は自発的に彼らを傷つけることをたくさん言った。
彼らもまた完璧ではなく、精一杯やっている人間のひとりであり、新人だった当時の私のように純粋にやっていたかもしれないのに、うがった見方をして彼らのやることや語る夢を馬鹿にした。
その行為により、どれだけ傷つくか痛いほど分かっていたはずなのに、自分の憎悪を八つ当たりで吐き出す道具のように扱い、尊厳を傷つけた。
私がやったことは、彼らにとって不当な暴力だった。
大変、申し訳なかった。
私がどんな人生を歩んでいたとしても、彼らには関係がないし、彼らを傷つけていい理由にはならない。
私が相手なら、そう思う。自分が傷ついた事実は変わらないから、謝ってほしいと感じる。私が彼らに怒りを与えた事実に私の過去は関係ないから、謝罪するべきだと考えるだろう。
私は渋々ではなく、謙虚に、正直に、そして心から自分の過ちを認める。
私は後悔している。行いを悔いている。
同じ痛みを味わせたいと嗜虐心に駆られて彼らを傷つける振る舞いをしたことを恥じている。
本当に、申し訳なかった。
まとめ:繰り返さないために
私は彼らを傷つけた罪を心から認め、再び同じ過ちを繰り返さぬよう、自分自身を点検し続け、自分の認知の歪みに常に素直に向き合い、ライフスキルを得て誠実に生きていきたい。
私は、自分自身の至らなさ・無力さを認め、私を「回復に向かう力」が導いてくれるのに任せよう。
そのためにできること(棚卸しを通じて自分自身に向き合うこと)を、無理なく弛みなく限りなく謙虚に続けていく。
全ての源は、私のなかにある。
他人のなかには、もう探さない。
憎しみや悲しみに塗れることに固執せず、手離して、この歌のように、爽やかで鮮やかな生を全うしたい。
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こうかなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっと歌おう閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映されるはじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充(み)たされてゆけ海の彼方(かなた)には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから「いつも何度でも」──『千と千尋の神隠し』より──
覚和歌子作詞・木村弓作曲