「やらなくてはならないこと」に随分と忙殺されてしまって、ここになかなか辿り着けなかった。
ものすごく久しぶりに文章を書いている。
自分のために、何の生産性もないことをするのは久しぶりだ。
段落とか構成とか、物書きから随分離れてしまってすっかりわからなくなってしまった。
少し恥ずかしさがあるが、近況をアウトプットしていきたい。
新たな出会いと別れ
愛犬が亡くなった。
愛娘が生まれた。
言葉にすればただそれだけだが、私の情緒は荒波に揺られる小舟のようだった。
愛犬の最期は、実に唐突で、小学校にあがる長女の入学式前日だった。
これからみんなで、しばらく離れ離れだったけれども、落ち着いて暮らせると思った矢先の出来事だった。
私は後悔した。
とてもとても後悔して、愛犬に申し訳なくて、しばらく1人になるとよく泣いた。
もっとやってあげられることがたくさんあったはずなのに、私は何もかも足りなかった、と思った。
忙しない日々のなか、やっと触れ合える散歩中も考えごとをしていたことが多かった。なんなら、早く次の予定を消化させなければと、ゆっくり歩こうとする彼女を急かしてすらいた。なんともったいないことをしたんだろう、私は愛犬との貴重な時間を反故にした、と自分を責めた。
妻の出産が近づき、私の転職も重なり、クタクタだった。そんな私に撫でてほしいとよってきた彼女を、適当にあしらった私がいた。なんであのときもっと撫でてやらなかったのか。生きているうちに、何でもっと大好きだよと言って触れ合ってやらなかったのか。
彼女は寂しかったんじゃないか。失意のもとに息を引き取ったのではないか。
身を裂くような後悔と自分に対する怒りで悶え苦しんだ。
しかし、残ったのは感謝だった。
私のところにきてくれてありがとう。出逢ってくれてありがとう。同じ時を過ごさせてくれてありがとう。たくさんの思い出をありがとう。
公開と自責の先に、最後の最後、こうした感謝が残った。
まるでパンドラの箱に残った「希望」そのものだった。
そして同じ時期に愛娘が生まれた。
か弱く、しかし確かに生きている生まれたての生命。
かたや、失われていく命。
私は、今このとき、触れ合える生命に、ちゃんと向き合おうと、固く心に刻んだ。
全力で向き合う日々とバーンアウト
妻、子どもたち、愛犬。
大切な全ての存在に、明日会えなくなるかもしれないと思い今日を生きた。
新しい仕事もはじまり、今までの後悔を繰り返すことがないよう、脳みそに汗をかいて日々働き続けた。
全力で毎日、今しかない一日を無駄にせぬよう、全てに誠実に。
そうやって走り続けた結果、疲れ果てて何もしたいと思えなくなった。
抱えきれない、もう無理だ、明日が怖い。そんなふうに思うようになった。
理由は明らかだった。
誰よりも大切な、私自身を大切にしなかったから。
私は私を酷使しすぎた。全て他に注ごうとした。だから、空っぽになったのだった。
余裕がなく、自然な笑みを浮かべられない私では、大切な人たちは嬉しくない。
無理をして築き上げた砂上の楼閣は、簡単に崩れ去る。土台の私がカラカラに乾いていたのでは、何も積み上がらない。
私は無理をするのをやめた。
結論:日々を大切に生きる前提に私自身の安寧を据える
私が私を一番に大切にしていないと、真の意味で家族を大切にはできない。
私が健やかであってはじめて、家族との充実した時間がある。
キャリアは、辞めれば何も残らない。仕事とは命を削ってまですべき作業ではない。
まず私が朝を朗らかに迎えられるように、心の平穏をいつでもどこでも携えている必要があるんだ。
そのための時間と行動が最優先だ。
その先に施せる何かがあり、健康で幸せな関わりがある。
断酒で一度邂逅したはずの真理を、忙しい日々ですっかり忘れていた。
恥ずかしい。
しかし、それが私だ。
そんな私を、優しく温かく受けとめて、また明日を迎えたい。
やっと書けた。今日はいい日だ。