【仕事】尊敬できる上司?そんなのいなくない?

あなたの職場に魅力的な上司はいるだろうか?

あこがれる、こんな人になりたい、そんな人はいるだろうか?

私は今はいない。逆に「こんな風にはなりたくないな」と思う。

私の職場で出世している人のほとんどは家庭が崩壊している。

妻からも子供からも相手にされていない、さびしい中年男性。

あるいはモラハラ・パワハラで家族を支配している、人としての器が小さい中年男性。

そんなのばっかり。

職場の会話では、よくこんなことを言っている。

「もう嫁さんが相手をしてくれない」

「基本自分の部屋にいるけど、子供と話したくなった時だけリビングに行く。そうすると『調子いい時だけ来ないでくれる?』って言われる」

「仕事をやめようか相談したら、事情なんてお構いなしに断固反対される」

「定年退職後は働きたくないから趣味でもやろうと思っているが、妻からは『家に居られても困るから働きに出れば?』と言われている」

「子供とどう話したらいいかわからないから、1時間くらいが限界。どうやって過ごしてる?」

それさ、もうATMとしてしか、家庭内で居場所がないからだよ。

さびしいね。

ずっと、妻と子供をないがしろにして生きてきたからだよ。

自分の好き勝手に、一番手のかかるときに何もせず、妻に押し付けてきたからだよ。

と、思うけど言わない。言ってももう手遅れだし、どうせ理解できないから。

わが子が小さくて手がかかるときに、何もしてこなかった男性は思いのほか多い。

夜泣きがある時期はまとまって寝る時間もないことや、お風呂に入れたり食事の準備をしたりその合間に家事をしたりすることが実は仕事なんかより何倍もしんどいことを、彼らは知らない。

うまく妻に押し付けて乗り切れたと思っている。当時「力を貸してほしい」「責任感を持ってほしい」と訴えた妻の気持ちをただのヒステリーと思い込み、まともに耳を貸さなかったのだろう。「仕事が忙しいアピールをすれば、そのうちだんだん言われなくなるから大丈夫」と攻略法を教えるかのようにドヤ顔で言ってくるぐらいだ。まったく真剣に聞いていない。

妻は絶望しただろう。だから言わなくなったのだ。

やられたほうは一生忘れない。虎視眈々と熟年離婚の準備をしているだろう。

もう終わっている。

私はそんな人間になりたくない。

家族から「金を稼ぐしか取り柄のない存在」として認識されたくない。

それこそ、いくらでも代えがきく存在に成り下がってしまうではないか。

会社の雇われなどいくらでも代えがきくが、家族という共同体においては、私たちはそれぞれ代えがきかない存在になれるチャンスがある。

損得ではない絆で結ばれる関係こそが豊かな人間関係であり、その中核を担うのが家族ではないか。

その中核をないがしろにして、仕事でいくら成果っぽいものが出せてたまたま出世したとて、私にとっては優先順位を間違えた愚かな人間にしか見えない。

おそらく、鈍感ながらになんとなく家庭内で居場所がないことに気づいているからこそ、さらに仕事に依存を深めるのだと思う。寂しさや不安の裏返し。

家庭で求められない分、会社に求められようとして、組織の言うことをなんでも聞く奴隷に近づいていく。

実は深層心理ではそうやってこき使われるのが苦しいので、他人にも同じように苦しむことを強要する。つまり、仕事に邁進するよう同調圧力をかけたり行動をコントロールしようとしたりする。

思い通りにコントロールできないとわかると「私のほうが優れている」とマウントをとって精神安定を図ろうとする。相手を小さくして心の平安を保とうとする。

自分のほうが優れていて、相手のほうが未熟だから、自分と同じ考えに至らないのだ、という上から目線で、理解が及ばない存在を馬鹿にして矮小化するということだ。

なんというか、そんな感じで寂しさを仕事で埋め合わせるために傷をなめあっている中年男性の巣窟が、現在の職場という感じである。

傷のなめあいができないとわかると、否定して排除する。排除できないとわかると馬鹿にする。

そうやって、自分の見たい世界しか見ないように必死で奴隷をやっている。

私から見るとかなり殺伐としている。地獄絵図。

そんな職場に順応しようと思って、身を粉にして働いてみたこともあった。

しかし、他人のいい加減な評価軸に沿って、報われるかもわからないのに、やりたくもないことを毎日やって、お陰様で成り立っている現実を自分の成果っぽく虚飾することは、私にとって禿げるほどストレスが強かった。

よくできるなと思う、そういう面では尊敬する。私にはできないことができる人たちだと思う。

私は私が価値があると思えることにしか力を注げない。

私が生きたいと思うようにしか生きられない。

私は私がやりたいようにやりたい。誰かに指図されるなんてまっぴらごめんだ。

賃金をもらって働くなら労働契約以上のことはしないし、契約内容も必要最小限の労力で行う。だって金のためにやっていることで、金以上の価値を感じていないこと=仕事だから。私はそのような優先順位が低い行動にリソースを割きたくない。

仕事についても、いろいろと考え、いろいろな本を読み、いろいろな人の話を聞いて、ひとつわかったことがある。

現代において、仕事に価値などない、求めることがナンセンスだということ。

昔は違っただろう、人々が生きるために必要なことが『仕事』だった。命をつなぐために各々ができる能力を持ち寄って、コミュニティを形成し、維持・拡大するために、力を尽くした。貨幣価値に換算できようができまいが、その役割は確かに必要だから存在した。

現代の「仕事」は、このころとは全く違う。

株主資本主義の現代社会において仕事とは、株主の奴隷として人間をこき使うスキームだ。稼ぐ金額と社会的意義は相関しない。むしろ逆相関する。

合理主義に基づいた投資可能性・計算可能性を実現するために、何でも言うことを聞く都合の良い部品が評価され出世し、自分の仕事には価値があると声高に叫ぶ。

実際はマネーゲームの駒のひとつにすぎず、プレイヤー(株主)が飽きたら捨てられる。

虚しすぎる。

どうせ使い捨てされるとわかっているなら、そんなに入れ込まず、ある程度の成果を出しつつ適度にサボるくらいでよい。体よく必要な分だけ金銭を調達できればよく、仕事の内容にも社会的意義にも思いをはせる必要はない。どうせどれでも大差ないのだから。

金稼ぎという意味での「仕事」はそんな扱いでいい。

本来の『仕事』はそんな扱いではダメだ。

本来の『仕事』とは、お金に変えられない、あるいは変えなくても価値を生み出していること。

たとえば、子育て、損得なしに助け合うこと、物々交換を前提とした一次産業的活動などである。こちらにこそ価値がある。

私はそう思っている。

だから、上司を魅力的に感じないんだと思う。

私が価値があると思うことに力を注がず、どうでもいいことに右往左往しているように見えるから。

それはそれで、その人の生き方だからいいと思う。私には関係ない。私とは違う生き方だとは思うけど、私の人生ではないからどうでもいい。

私のことを下に見たり上から目線で干渉してくるのは、とても鬱陶しいので、できるだけ近づかない。彼らの安心材料にされる謂れはない。勝手に他人を都合よく使おうとするな。

彼らは便利に他人を使おうとする。実父母のような姑息な側面があるのも、いけ好かないと感じる所以なのだろうなぁ。

他人と比べて上だとか下だとか、どうでもいいんだよそんなことは。暇人がやることだ、そういうどんぐりの背比べは。勝手に一生やってろ。

そのうち、全部がひっくり返る。

今、成功者としてのさばっている人々がないがしろにしてきたことが、最も重要なことだったと、皆が気づかされるようになる。

一日も早くそういうふうになって、今上司になっているような人間たちが洗いざらい駆逐されればいいなと思う。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする