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【社会福祉士】「今だけ金だけ自分だけ」の狂った現代社会

私は学校で「社会は正しい」と教えられてきた。

親からも「自立した社会人になりなさい」と教えられてきた。

みんなそうではないだろうか。

でも、それが本当に正しいかというと、どうもそうではないんじゃないか、と思う。

 

この社会が求める人物像は「考えない歯車」

この社会というのは、資本主義社会だ。

経済的な成長を、正義と考えている。

むしろ、それしか考えていないとも言える。

企業は、金が儲かるなら、顧客がどうなろうが、基本的には心の底ではどうでもいいと思っている。

健康を害するような商品を売ったり、必要のない人にまでサービスを押し売りしたりする。

だから人は仕事にストレスを感じるんだと思う。

やりたくもないことを、金のためにやっている。だから心が傷つく。

心をなくしてしまったほうが、効率よく精力的に働ける。

そして、雇う側としてもそういう心を失った歯車のほうが扱いやすいので、そういう人間を重用する。

組織の目的や命令に文句を言わず従い、金儲けのために必要な行動を何とかかんとか達成し、それでいて良心の呵責なんて感じない、そんな使える歯車だ。

それは、文字通り歯車で会って人間ではない。

人間をやめた没人格の部品。それがこの社会では最も優秀とされている。

狂っている。

 

教育の問題点

私はよく義務教育と受験社会を批判するが、先生たちは本当に真剣に、子どもたちのことを考えて頑張っているんだと思う。そして、楽しい授業をする先生もいるんだと思う。

しかし、文科省がつくったマニュアルのみに従って授業をしていて、封建的な価値観で凝り固まっていて、授業が本当につまらない先生もいる。

私の人生では、そういう先生が90%を占めていた。進学校だったせいもあるだろう。

受験とは、ただの暗記ゲームでしかない。

頭に詰め込んだ情報を制限時間内にいかにアウトプットするか、というゲームであり、賢さとは関係のない遊びだ。

その遊びで、行ける大学が決まり、就職先の幅が決まる。

その遊びが得意かどうかで生徒の価値を判断する先生がいて、大学がある。

これはこの社会の事実。

子どもは遊ぶのが仕事で、勉強は遊びのひとつだ。

しかし、学校では、遊ぶことを禁じる一方で、受験勉強という暗記ゲームをやれと子どもたちに命令する。

その命令に背くと不良であり、従順に言われたことをやると優等生である。

そう扱われる。

これは、学校がもつ「歯車をつくるための政府直轄洗脳機関」としての性格を、もろに表している。

都合のいい奴隷の才能がある生徒、というのが、優等生であって、それが社会的に正しいと教えているのが学校で、そんな奴隷のような歯車が欲しいのが資本主義社会。

実によくできている。

 

受験勉強は学問ではないので、学問の面白さに小中高で触れられることは稀だ。

受験勉強は基本的につまらない単純作業なので、嫌いになっても仕方ない。

受験のためのノウハウを習得するための「授業」なのだが、先生が学問という体で話すと、生徒が混乱する。

学問はもっと面白い。そして自由だ。点数化されたりしない。

受験ゲームのせいで、学問をつまらないと勘違いしてしまい敬遠する人が多くなるのだと思う。

先生も不憫で、学問を話していると、保護者から「そんな意味のないことはいいから受験で勝てるようなことをやれ」などとクレームを言われる。

保護者も奴隷養成機関である義務教育に洗脳されているので、もう手の施しようがない。

先生ひとりが頑張るには限界がある。

ではその上の文科省はどうかといえば、本質をとらえ改善する気もなければ、本質に到達できる頭もないように、私には見受けられる。

もうお手上げだ。

だから先生ひとりひとりを責めることはできない。責める気もない。

システムの問題であり、社会が狂っているので、仕方がないといえば仕方がない。

 

医療・福祉の問題

その奴隷養成課程を立派にこなした歯車候補だけが、医学部や薬学部に行くことができるしくみなので、当然洗脳を色濃く残した人が医療に携わることになる。

誤解のないように言うと、医師や薬剤師の先生方をディスっているわけではない。

尊敬できる先生はたくさんいるし、むしろ受験ゲームが苦手なのに苦労して進学した先生などは、辛苦を知っているだけに優しさと思いやりにあふれていたりもする。

でも、そういうタイプを除くと、基本的には自分たちは一般的な人間より優秀で上質だと思っている。ブランド意識がある。

となると、扱い方として、患者は必然的に身分が下、ということになる。

私たちがクリアできたゲームをクリアできなかった人たちが、お客さんである。

そういう意識があると、指導的・高圧的なスタンスを取ってしまいがちだ。

表立って態度には出さなくても、滲み出てしまう。

「ダメなこの人をなんとかしてやろう」

「間違っているから正してやろう」

という上から目線になる。

そうなってしまうと、もう患者さんのことは見えないし分からない。

机上の空論でしか物事をとらえられなくなって「エビデンスがエビデンスが」と頓珍漢なことをやりかねない。

 

これは福祉の分野でも同じことが言える。

病んでいて、社会になじめない人が支援の対象なので、社会に馴染めていて支援する立場の自分たちを上だと錯覚してしまいがちだ。

「可哀想なこの人たちを助けてやろう」

「社会に馴染めている私たちが、正しいことを教えて社会に戻してやろう」

こんな狂った社会に馴染めている時点で狂っているのは支援者のほうなのだが、心から善意でこんなことを思っている場合がある。

可哀想、と思うことは、侮辱である。

同情や憐れみというのは、相手を下に見ている。

そもそもこの社会に馴染めないほうが正常であり、「今だけ金だけ自分だけ」がスローガンの現代社会に馴染めている時点で何かを失っている。

だから、支援者はむしろ援助対象に学ぶべきことがあるという意識で対等に関わるのがベストだ、といち社会福祉士としては思っている。

他人として失ってはいけないエッセンスを、彼らは持っている。だから病んでいる。

 

親子の問題

家族としての在り方も、崩壊して久しい。

「子どもがゲームばかりしているので、やめさせたい」と相談を受けてよく話を聞いてみると、親のほうに子どもと一緒に遊ぶ余裕がなくて、子どもと一緒に何かをしたことがあまりないケースが散見される。

「家で遊ばせる」という状況のなかに、親の存在がいない。

ひとりで勝手に遊んでいてほしい、自分の時間を奪わないでほしい、そういう印象を受ける。

子どもは当然、一人遊びはつまらない。飽きる。限界がある。

その結果、ひとり遊びとして面白いゲームやYoutubeに行きつくのは当然だ。

なんせ、様々な技術者が腕によりをかけて「どれだけ時間を使ってもらえるか」を考え尽くして完成したコンテンツである。

どれだけ依存させられるか、どれだけ金を巻き上げられるか、そういう意図で没入するように仕組化されているコンテンツに、子どもが抗えるわけがない。

やめさせたいのなら、もっと面白い現実の遊びを提案するしかない。

それは、生身の人間同士の触れ合いだったり交流だったりするが、親は時間を取りたくない。いや、取る余裕がない。

なぜなら、歯車としての役割を演じる「仕事」で、毎日が精いっぱいだから。

生活するために必要なお金のための「仕事」で忙殺された結果、本来最も大切な子供との時間を削っている。

そしてその最も大切なことを犠牲にしている罪悪感を、子どもに押し付ける。

「あなたたちを育てるためにはお金が必要だからしかたない」

「おまえたちのために働いているんだ」

そう言って、子どもや配偶者のせいにして、自分が責任を果たせていない状況を正当化する。

 

余裕がないのは、しかたがない。この国は貧困国だから。

年収の中央値は276万円。

共働きしなければ、一般庶民は生活できない。

そして就職先の営利組織というのは、金のために奴隷のように社員を働かせる資本主義の権化なので、できるだけ時間とエネルギーを搾取してくる。

社会の仕組みとして、もうすでに破綻している。

だから家庭もシステムとして崩壊する。当たり前のこと。

 

 

もはや、この社会システムに頼らず営みを構築するしかないように思う。

経済とは切り離した生活基盤をもつしかない。

隣人同士で助け合ったり、物々交換で貨幣を通じずに価値を循環させたり、家庭菜園で自分たちの食糧を確保する。そういうふうにして貨幣経済に由来する交流を最小限に圧縮していくことが、自分たちの時間と自由を取り戻すために必要になっていると思う。

だから仕事なんてそんなに命かけてやらなくていい。

配偶者や子どもと一緒に時間を過ごし、関わる人には感謝と愛を伝え、家庭を中心とした手の届く範囲の世界の平和に力を尽くしたほうがいい。

 

「今だけ金だけ自分だけ」

経済社会の呪いと洗脳。

この歪みに境界線を引こう。望まない強制にNoと言える一歩引いた態度を心がけよう。

医療にしても、福祉にしても、学べば学ぶほどそんなことを思う。

【哲学】自分の死とはなにか

解剖学者の養老孟司先生は、「自分の死」は「論理的に意味がない」と言いました。

 

「死」とは、自分のものではない、ということです。

「死」という概念は、その人の親しい人の死で構成されています。

親の死。子どもの死。恋人の死。友人の死。会って話したことのある人の、直接の死。

知らない他人の死は、どこか遠くで起きている出来事のようで、つまりみんなどうでもいいと思っているんですね。死のうが生きようが知ったこっちゃない。

客観的に、自分の死体というのは知覚することができません。

死んだら、自意識は存在しないから。

つまり、自分の死というのは、想像の産物です。

想像の産物をいくら考えても、仕方がないし意味がない。

それでもなぜ考えてしまうのか。

「終わり」ということへの、恐れと不安があるからです。

つまり、自分の「死」というのは、「恐れと不安」に因数分解されます。

何に対する恐れと不安なのか。

それは、自分の生に価値があったのか、結論を出すことへの恐れと不安です。

「自分は人生において価値を残せないまま終わるのではないか?」という恐れです。あるいは「感じるべき喜び・本来やるべき責務を残したまま終わりを迎えるのではないか?」という不安です。

 

漫画『バガボンド』で、槍の名手である宝蔵院胤舜は、武蔵と闘った末に生と死のはざまをさまよいます。その際、自分の人生を走馬灯のように振り返ります。

そして、己が強さと勘違いしていたものは、弱さを覆い隠すための「偽りの強さ」であり、自分の弱さを隠すことに必死で精いっぱいだったために、自らを孤独にしていたことに気づきます。

 

俺は強くなったはずだった

 

強くなろうと思って

懸命に砂をかけていたのか

 

罪を 弱さを 覆い隠す為に完全無欠の強さを求めたのか

 

俺はここから一歩も動いちゃいなかった

俺自身も覆い隠し 誰に何も与えもせず

 

孤独

 

孤独のまま

もう誰にも手の届かない場所に

 

生きたい

 

引用:『バガボンド』第8巻 砂遊びより

 

死への恐れと不安、未練ともいうべきか。

死に直面してはじめて彼は、深くカギをかけて向き合ってこなかった現実に気づきます。

友がいたこと、愛に包まれていたこと、孤独ではなかったこと、自分の弱さ。

真の「孤独」とは、それらの周りの愛に気づかないまま、己の弱さを直視しないまま、誰とも繋がらないままに生きてしまうことで生まれるのではないでしょうか。

己の弱さを認めて受け容れることができない限り、本当の強さには到達しえない。

本当の強さとは、「自分が弱い」という事実を知り受け容れていることです。

だから、強い人は優しい。

 

武蔵……

優しくなった

強くなっているんだな

強い人は皆優しい

引用:『バガボンド』第25巻 より

 

命が終われば、一切は関係がなくなります。

どれだけ賞賛され財産を蓄えようとも、それはこの世界からの借り物。

我々は受託者であって、所有者にはなりえない。

なぜなら、いつかその人生には、終わりが来るからです。誰にも等しく、借りていたものを手放すときが来るからです。

大好きなあの人も、憎くてたまらないあの人も、認めてくれたあの人も、認めてくれないあの人も、誰もかれもが、いつか必ずこの世界から姿を消します。

死後のどんな名声も悪評も、死んでしまったら、自分自身には何の損得もありません。自分の肉体は既に朽ち、知覚する意識も身体的機能も土に還っているから。

だから、誰かに認められようとか、誰かに気に入られようとか、誰かに復讐してやろうとか、そういう感情も対象も、いずれは何もかもが消えてなくなるということです。

もっと巨万の富を得ようとか、もっと社会的権威を得ようとか、そんな行動には意味がないということです。

そんな意味のないことに費やす時間。とてももったいないと思いませんか。

 

今そこにある現実だけがすべて。

ということは、与えられるべきものはいつでも、全て揃っているといえるでしょう。

終わり(死)というのは、いつも傍にある、ということです。

常に誰の隣にもひっそりと確実に寄り添っていて、当人がそれを身近に感じるか、遠く感じるかの違いでしかない。等しく終わりはある。

それが救いでもあり、恐れと不安の源でもあるんだなぁ、と思います。

 

限られているからこそ、その一瞬一瞬には価値がある。

桜を美しいと思う心があるように、その輝きが有限であるからこそ、人は美しいと感じるのです。

限りがあるからこそ与えられたものを有難いと感じ、生命感があるからこそ、深い歓喜を味わうこともできるのだと思います。

 

今与えられているものに不満がある、というのは、不自然な欲望に目が眩んでいるから。

哲学者エビクロスが分類した欲望には、自然な欲望と無益な欲望の二種類があります。

無益な欲望は、富・名声・権力などです。

自然な欲望には2種類あります。

必須ではないものは、豪華な食事・性愛など。

必須なものは、衣食住・友人・健康など、です。

 

日本の三大随筆『徒然草』で兼好法師も次のように言っています。

人間にとって必要なものは、衣食住に薬。

その四つが満たされていない状態を、貧しいというべきであって、これらが満たされているのなら、その人は充分に豊かな生活をしているといえるだろう。

そして、この四つ以上のことを追求することを、贅沢と考えることだ。

引用:『徒然草』兼好法師

 

結局、名誉や欲望に囚われて心静かに過ごす暇もなく死んでいくというのは、とても苦しい不幸なことだということです。

財産や名声を失うことを恐れ、満たされない欲望に不安を感じながら、業火に焼かれるように生きる。そんな苦しみに満ちた人生は、豊かな人生と言えるでしょうか。

「足るを知る者は富む」という言葉がありますが、あるものに感謝できて平穏な心で「今」を生きることができる、それが真に豊かなことだと思うのです。

 

そんなふうに穏やかに強く優しく生きている人は、他人に施すことができます。

見返りを求めず、自分が大切に想うものを差し出すことができます。

それを、愛といいます。

愛を譲りうけると、その人と繋がることができます。愛によって、ひとは他人と繋がります。

そしてその繋がりは、死してなお、生きている人を勇気づけます。

肉体が滅びようとも、今を生きる人のなかに、あたたかな支えとして在り続けることができます。

その支えで生きた人が、また愛をこめて他人に関わると、それは次世代に引き継がれていきます。

「いつまでも生きていたい」という欲望のために、他人を使おうとしたり操作しようとしたりする人がいますが、それは永遠とは最も遠いところにある行いだといえるでしょう。

唯一、私たちが死を越えて残せるとすれば、それは愛しかない。

逆に言えば、大切な人に無償の愛を捧げた人は、死なない。

 

存在しない「自分の死」。

その妄想に目を眩まされることなく、今を生き、愛を行う。

それしか、私たちにできる事はなく、それこそが、死を乗り越える唯一の方法だといえるでしょう。

 

愛するということについては、フロムの技術体系をこちらにまとめています。

【メンタル】失われた「愛する」という技術(エーリッヒ・フロム)

 

 

【メンタル】勝利主義がもたらした「呪い」からの脱出方法

勝てば官軍負ければ賊軍。

この世は不幸な人しか生まない勝利主義社会です。

99%の負け犬と、1%の傲慢な勝者で構成されています。

 

昭和の時代、高度経済成長期にあった時代は、まだ立身出世主義の神話が成立していました。

頑張れば頑張るだけ裕福になれる。努力は必ず報われる。

そういう宗教を信じることができる、幸運な時代。

しかし今は違います。

小泉政権による派遣法改正により、圧倒的に非正規雇用が増えました。

安い労働力として人材を派遣会社からとっかえひっかえできるようになってしまったことで終身雇用は崩壊。「いい会社に一生勤めれば安泰」という神話は過去の遺物となりました。

いつ首を切られてもおかしくない。正社員もそんな不安と緊張にさらされ、大企業にいてもいくら出世しても、将来の道筋は判然としません。

「いくら頑張っても報われないじゃないか」

「こんな希望のない社会で、生きている意味なんてないんじゃないか」

抱える絶望は、人々を「ニヒリズム(自分が何のために生きるのか見失い、絶対的な価値や希望など無いと気づいて絶望すること)」に陥らせます。

 

99%の負け犬は、負けを背負って妬み嫉みに身を焼かれます。

本来その人に与えられたものは決して卑下するものではないとしても、恵まれた他者と比較すると、相対的な価値観に囚われ、あったはずの満足は霧散していきます。

この世には、とてもたくさんの人がいます。

常に自分より優れている人がいるものだし、常に自分より社会的に成功している人がいるものです。

だから、他人と比較するのをやめられない限り、嫉妬の炎に身を焦がす苦しみからは逃れられません。

 

負け犬はもちろんのこと、1%の傲慢な勝者ですら、不幸です。

国内で成功者といえばプロ野球選手の「イチロー」を思い浮かべる人もいるでしょう。

彼は「もう一度生まれ変わったら野球をやりますか?」と聞かれたとき「やりたくない」と言ったといいます。「野球はやめたかった、つまらなかった」と言ったそうです。

なぜか?

勝ち続けなくてはならない「成果出そうゲーム」は、降りたら終わりだからです。勝者で在り続けるためには、降りられないからです。

ずっと競争して、ずっと評価にさらされて、あんなに小さい頃好きだった野球が、嫌いになったといいます。

 

世界に目を向けてみると、古代ギリシャで大帝国を築いたとされる「アレクサンドロス大王」がいますね。

彼は歴史に残る大勝利をおさめた英雄ですが、その功績が自分を神と称するほどの傲慢さをもたらしました。

大酒飲みで、猛烈な癇癪持ちで、他人に関心を持たず自分のことばかりだったといいます。そしてもっともっとと領土を欲し戦いに明け暮れていたところ、あっけなく病に倒れ32歳という若さでこの世を去ります。

人間らしさを極限まで削り取り、何か一つの要素(アレクサンドロス大王の場合は「戦争に勝利する能力」)で秀でたとして、本当の意味で彼は幸せだったのでしょうか。

 

会社員もそうですよね。

入社したら問答無用で出世レースに乗せられます。失敗したら終わり。辞めたり休職したりしてレースを降りたら終わり。

優れた営業成績を出したり、プロジェクトを成功させたり、結果を出せば会社が褒めてくれる。同僚や部下に馬鹿にされずに済む。

私も今までそうでした。そのためのノウハウを詰め込んで、いっぱいいっぱいになりながら働きました。

こうすれば売れる。こうすればできる。

有能な社員としての在り方はわかるし、ある程度できるようになりました。

でも、ある日ふと思うのです。

「これが本当にありたい自分だろうか?」

うではない。だから、つまらないし苦しい。そのことに気づくのです。

そのことに気づくこともできない鈍感な人間だけが、評価主義・功利主義・勝利主義のレースのなかで「偽りの幸せ」に騙されて、平気な顔で生きていられる。

この社会でのエリートや勝ち組というのは、実はそういう滑稽で哀れな人種です。

 

「ホリエモン(堀江貴文)」さんや「ひろゆき」さんはまさにこの人種で、ニーチェのいうところの「末人」ではないかしら、と思うのです。

 

 

「勝てばあとは何でもいい、勝つこと以外に価値はない」。ある種のニヒリズムをこじらせて結果主義の先を誰よりも突き進んだ結果、その人は「今だけ金だけ自分だけ」に堕ちていきます。

彼らをもてはやし崇め奉る人は、現代社会において驚くほど多いですよね。

彼らの裏にあるのは、「勝ち組の側でいたい・負け犬の側になりたくない心理」、つまり恐れと不安と憎悪です。

今まで美辞麗句を並べながら何も変えられなかった親世代を、論理でバッサリ「バカ」だと切り捨てる話口は、親世代に不満を抱えている彼らにとって実に痛快です。しかも経済的に成功した功績があり、数字のうえでの「見た目上勝っている側」だという後ろ盾(信用)がある。

「俺たちが言いたかったことをよくぞ言ってくれた」と拍手喝采して彼らを肯定することで、彼らの側、勝ち組側に「同化」したいのです。

なぜか?

負け犬である自分たちの現実を忘れたいから。

「本当は俺たちはこっち側なんだ、勝っているんだ」と錯覚したいからです。

だから盲目的に崇拝する。自分の心を守るために。

しかし、それって承認欲求の満たされなさからきている痛切な願いなんですよね。

「他人から愛されたい」「なんとしても気に入られたい」

それが満たされない現実が苦しいし辛いし悲しい。

何としてでもよく思われようとして、他人に同化しようとするとき、人は「奴隷」に成り下がります。

 

つまり、生きる意味を見失っているのです。

ホリエモンさんやひろゆきさんを崇拝する彼らも、末人ということになります。

ニーチェはニヒリズムが世界を覆いつくし、末人だらけの世の中になり、人々は生きる意味を見失うだろうと予見していました。その通りになりましたね。

 

自分の行動を、自分以外の誰かに握られ、支配されるということは、

「他人からどう思われるか」

「他人から気に入られるか」

を気にして生きるということです。

「自ら自由な生き方を放棄している」ということと同じ。

自らの意思を放棄して、長いものに巻かれて、自分の満たされない承認欲求を誤魔化している人は、とても多いので、それが当たり前になって久しいと思いませんか。

「いい大学に進学する」

「いい大企業に就職する」

「有名人とお近づきになる」

「インフルエンサーになる」

「上司に卑屈なほど遜りゴマをする」

そんな自由な生き方を放棄した大人たちに失望した子どもたちが、生きることに価値を見出せないのは当たり前です。

子どもたちは、内心そんな大人たちを蔑み憐れんでいるので、だからこそ大人になんてなりたくないし、社会になんて出たくないと思うのでしょう。

男の子の将来の夢の第1位が「Youtuber」で第2位が「Eスポーツプロプレーヤー」になるのも、納得です。

子どもたちがダメになったんじゃない。不真面目で夢見がちなんて、とんでもない。大人たちと大人たちがつくったこの社会に全く魅力がないからですよ。

 

本来、夢にはいろんな形があります。

しかし「夢がかなったイメージ」を想像すると、皆から認められ称賛を浴びているシーンを思い浮かべてしまいがちです。

この社会に生きる多くの人にとって、分かりやすい成功イメージとは「他者が自分の価値を決めているシーン」に固定されてしまっています。

この社会はランキング主義であり、評価主義です。

他人が自分の価値を決めるのが成功なら、裏を返せば「結果が出ていて他人がそれを認めてくれなければダメ=夢はかなわない」という図式だと言うことです。

評価の軸が自分では無くて、他者に委ねられている。

フォロワー数、動画再生数、年収、偏差値。

数字になってわかりやすい評価軸には、実は実体がなく、空虚な蜃気楼にすぎません。

なぜなら、他人の評価とは、うつろいやすい水物で、雰囲気のようで、自分とは切り離された「他人のなかの勝手な思い込み」だからです。

年収が高いからいい仕事をしているとは限らないし、そもそもお金はただの紙です。偏差値が高いから賢いわけでもないのは、コロナ騒動で皆さんもよく知るところでしょう。動画視聴やフォローも気分でクリックたまたましただけです。実際は鼻で笑ってみているだけかもしれないし、動画は1秒くらいしか観ていないかもしれません。

ひとつの切り口としてのデータで在り、本人そのものの価値とは全くリンクしない。本人そのものに関するするものではないから。データが付加価値を自分に付与してくれると信仰しているだけ。

 

私はこの評価主義・ランキング主義という宗教に、まんまと騙されて生きてきました。とても恥ずかしいですが。

大学受験は偏差値だけで大学を選びました。そこで何を学びたいとか、考えもしていませんでした。そのくせ、自分より偏差値の低い大学を出た人間、大学すら言っていないような人間は、自分より下等な生き物だと思っていました。恐ろしいアホですよね。(笑)

最初に入社した中小零細企業から超大企業に憧れて転職したのも、内心自分の社会的価値が上がると思ったからでした。

ふたを開けてみれば、何のことはない、同じような詐欺を大規模に展開しているか、小規模展開しているかの違いしかなかった。

私のやることはほとんど変わらず、自分の価値などもちろん上がることはなかった。

確かに、肩書が変わったことで、婚活市場では「優良物件」とそれなりに競争力を得て、銀行は給与口座をすぐに開設してくれました。

しかし私という人間は良質なものに成ったかと言えばそうではなく、本質は何も変わっていません。むしろさらに病んでアルコール依存症がひどくなっただけでした。(笑)

 

哲学者エピクテトスは、次のような趣旨の言葉を残しています。

自由な人生を望むなら、なぜ他人の評価にとらわれて生きるのか。

それは、ほんとうに自由な生き方と言えるだろうか?

地位や名誉や財力に囚われ、それを基準に生きるとは、何かに囚われる不自由な人生である。

我々次第ではないものを、もっと軽く見なさい。

そんなものは、人生にとって重要なものだと真剣にとらえなくていい。軽んじていい。

自分が変えられる範囲のものに、重きをおきなさい。

 

また、依存症の自助グループでよく唱和される『平安の祈り』ではこんな言葉がつづられています。

神よ、私にお与え下さい。

自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを。

変えられるものは 変えていく勇気を。

そして 二つのものを見分ける賢さを。

原典『ラインホールド・二ーバーの祈り』

 

他人の評価というのは「我々次第ではないもの」であり「変えられないもの」です。

そんなものを人生の軸に据えてはいけないのです。

自分には力の及ばないものとして謙虚に受け容れ、囚われない落ち着きをもつ者こそ、真の賢者といえます。

ずっと、負けないように他人と比較しながら、蹴落とし蹴落とされてボロボロになりながら生きる人生。

それをまた生きたいと思いますか?

また生きたいと思えない人生が、あなたの本当の人生でしょうか?

きっと違いますよね。

 

ニーチェのいう「永遠回帰」とは、この人生が永遠に繰り返されるという仮説です。

永遠に繰り返されるとして、あなたは今、あなたの行動をどう選択するでしょうか。

変えられないものに固執して「自分は幸せなんだ」と自分を騙しながら生きる努力を続けますか?

その無駄な努力を捨てて、自分が変えられる範囲のものに重きをおく。

変えられるものを変えていく勇気を持つ。

それがニヒリズムの克服です。

 

三大幸福論のひとつの著者、バートランド・ラッセルは、次のように言っています。

「私たちの生き方というのは、私たち自身の深い衝動によって生きる道が切り開かれていく。」

 

他の誰かの価値観ではなく、自分の価値観と内なる声にしたがって人生の一つ一つを選択したのなら、その結果がどうであっても、あなたは納得することができるでしょう。そしてあなた自身を誇り、運命を引き受けることができます。

不幸も失敗も、どんなに苦しい瞬間や深い絶望も、自分が選んだものとして向き合い受け容れる勇気をもつことができます。

そうすれば未来にも失敗にも、怯えることなく生きていけるのではないでしょうか。

だって、結果がどうなっても、あなたが決めてあなたが行動したことに価値があり、常にそれだけが最善なのだから。

であるならば、あなたは不幸も失敗も含めて人生そのものを肯定して生きていくことができるのではないですか?それ以上のそれ以下もないのだから。

そんな人生ならば、もう一度繰り返すことになったとしても、それを受け容れることができるのではないでしょうか。

これが本当の「自己肯定」だと、私は考えています。

何かができるとか、誰かより何かで優れているとか、社会に役に立っているとか、そんなことで存在価値を補強する必要なんてないのです。

自分には限界がある。それでも常に最善を尽くす。その行動が目に見える結果に結びつかなくても、大丈夫。きっと経験が糧となり、どこかの何かと繋がっている。だから絶望する必要はなく、落胆する必要もない。

このラッセルがいうところの「いい諦め=希望に根差した諦め」は、実に清々しいと思いませんか。

 

ホモ・ルーデンスは「遊びは文化よりも古い」という言葉を残しています。

「文化」の上位概念として「遊び」がある、というんですね。

競技性がある以上、法律というルールで競う裁判も、弁論を戦わせて真実を求める哲学も、全て遊びであると。

そして「遊び」の本質は、自分の内なる純粋な感覚の発露であり、他人には決して侵害できないし、決められないものです。

だって利害もなく制約もなく、あなたが「面白いから」という晴れやかな感激のための行動なのですから、他人には定義しようがないのです。あなたのなかにしか基準が存在しない。

子どもの頃、今思えばくだらない遊びに没頭した経験はないでしょうか。

朝露が光るだけで、なぜこんなに美しいのかと心を躍らせたことはないでしょうか。

私たちは、そのやり方をすでに知っています。

私たちのなかの子ども(インナーチャイルド)が、すべて経験してきたことです。

 

現代社会は、遊びが失われた世界です。

功利主義・合理主義・経済的な競争社会が遊びの要素を根こそぎ剥ぎ取ってしまった。

金儲けのために、皆真面目になり過ぎたのです。

そのため、遊びの要素を失った「文化」は崩壊が進みつつあります。

資本主義経済社会における「マネーゲーム(商業競争)」は、闘争本能に従うだけの偽りの遊びです。

過度に競争心を煽り消耗しあうだけで、得られるのは晴れやかな感激とはほど遠い、行き過ぎた興奮に狂っています。まるでジャンキーです。

「仕事だから」とマネーゲームいう偽りの遊びに重きをおきすぎていませんか?

そんなことに存在価値や人生を賭けていると、人は疲弊して病んでいくものです。

だから、こんなにもこの国は自殺者が増加し、精神疾患患者が増え、SNSは怨嗟の声にあふれかえっているのではないか、と思うのです。

 

もっと、心のままに遊びましょう。

私心のない興味を、最も大切にしましょう。

この世は不思議なことだらけです。「もっと知りたい」と思う純粋なその興味に素直になりましょう。

人間はいつ死ぬか、わかりません。それは誰だってそう。

望んでか望まずか、偶然にもこの世に生を受けたのですから、やっているだけで楽しいような何かに、全神経を集中させましょう。

変えられないものではなく変えられる範囲のものに、自分を楽しませることに、集中しましょう。

 

そんな風に思う今日この頃。

【哲学】自省録(マルクス・アウレリウス)

哲人皇帝。マルクス・アウレリウス。

私は彼を尊敬している。

古典の最高峰の一つ、『自省録』。

この名著は一度読んでおいて損はない。

 

 一つ一つの行為に際して自らに問うてみよ。

「これは自分といかなる関係があるか。これを後悔するようなことはないだろうか」と。

瞬く間に私は死んでしまい、それまでの間のこともすべて過ぎ去ってしまう。

現在私の為すことが、叡智を持つ、社会的な、神と同じ法律の下にある人間の仕事であるならば、それ以上何を求めようか。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P142

 

私の一生。

それは永い時の流れのごく一部、ごくわずかな一点に過ぎない。

誰もがそうだ。どんな偉い人も、どんな賢い人も、どんな金持ちでもそうだ。

他人に軽んじられるとか、病で死ぬかもしれないとか、豆粒のようなちっぽけな存在が団栗の背比べをやっている。

なんてくだらないんだ。

私は与えられた今を全力で生きる。それ以外に無い。シンプルだ。

今までもそうだった。これからもそうだ。そして肉体がいつか朽ち果てる。

精神はどうだろうか。

精神は、愛によって繋がった者のなかで生き続ける。

それが『叡智を持つ、社会的な、神と同じ法律の下にある人間の仕事であるならば』。

それをいつも点検せよ、とアウレリウスは言っている。

きちんと「それができている」という自信があるならば、他に何を求めようか。

おっしゃるとおりである。

「これは自分といかなる関係があるか。これを後悔するようなことはないだろうか」

自分の私利私欲のために他人を傷つけるものではないか?

私が子々孫々に誇れるようなことだろうか?子供の前で包み隠さず言えるだろうか?

私が関われる範囲だろうか?他人の境界線を越えて侵害するようなことはないだろうか?

そうではないなら、誰に恥じる必要もなく、臆する必要もない。

 

 

自分の内をみよ。内にこそ善の泉があり、この泉は君が絶えず掘り下げさえすれば、絶えず湧き出るであろう。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P134

 

内が濁っていると、目を逸らしたくなって人は外を見る。

そのほうが楽だから。

誰それが不正をしただの、何かに違反しただの、そういう挙げ足を取って正義を振りかざす側に回ろうとする。

そういうとき、私の心は病んでいる。

そういうときこそ、自分の内をみよ。

自分の内にある、良心・インナーチャイルド・善なる魂の声に耳を傾けよ。

その声に素直に応じればいい。

外に向いているうちは、内に眠る善の泉は渇いたままだ。だから満たされない。

何をすべきか見失う。

焦りと恐れと不安にさいなまれる。

だからこそ、苦しい時こそ、内に目を向ける。

自分は何を求めているのか、何を恐れているのか、何が不安なのか。

その奥にある善なる己の言うことを聞き、徹底的に信じること。

アウレリウスの師である、奴隷の哲学者:エピクテトスは「人が何を思い、何を考えるか、この「意思」だけは何人たりとも、たとえ神でも奪えない自由なものだ。(中略)人間にとって「意思」以上に優れたものはないのだ。」と言った。

唯一誰にも侵害されない、尊い「意思」。

それを他人に譲り渡してはいけない。損得で見失ってはいけない。

「気に入られたい」「よく思われたい」

他人にどう思われるかを気にするということは、他人に「意思」を差し出しているのと一緒だ。

心の底から自分の人生を楽しみたいのなら、「意思」を手放してはならない。

「意思」の出発点は、常に自分の内なる善に根を張っていること。

それが、人生を生きるということだ。

 

 

人に善くしてやったとき、それ以上の何を君は望むのか。

君が自己の自然に従って何事かおこなったということで充分ではないのか。

その報酬を求めるのか。

それは目が見えるからといって報いを要求したり、足が歩くからといってこれを要求するのと少しも変りない。

なぜならば、あたかもこれらのものが各々その特別の任務のために創られ、その固有の構成に従ってこれを果たし、そのことによって自己の本分を全うするように、人間も親切をするように生まれついているのであるから、なにか親切なことをしたときや、その他公益のために人と協力した場合には、彼の創られた目的を果たしたのであり、自己の本分を全うしたのである。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P186

 

他人に何かを施す代わりに何かを盗もうとする人で、この世は溢れかえっている。

give-and-take。損得で行動する人たち。

こうした人々が「デキる人」と、もてはやされるこの世は、狂っている。

我々があるべき本来の在り方とは、遠く離れた生き方だ。

我々はひとつであり全部。世界を構成するごく一部であり、世界そのものでもある。

何もかもが、ひとつであり、別々なのだ。

ということは、この世に敵などいない。競争相手もない。

敵とは、受け入れがたい自分自身のことである。

自分に与えられるものが、必要な全てのものだ。すでにすべてはそろっている。

勝ち取るとか、つかみ取るとか、ビジネスの分かりやすいサクセスストーリーやハウツー本ではよく目にするが、それは錯覚に過ぎない。

富も名声も、誰のものでもない。

ある時代の一点において手に入れているようにみえても、全ては世界のものであり、誰のものでもない。

だから、周りにいる人よりたくさんのお金を集めようと執着したり、時の権威に認められようとゴマをすったりすることは、何の意味もない。

手に入るものは、虚構だからだ。

自然界にあるものは、それぞれがそれぞれを全うすることで、成り立っている。

己の良心に従ってすべきことをしていれば、金が無かろうが、誰にも認められなかろうが、それで完璧だ。

なぜなら、人生とは誰かに見返りを求めて生きるものではないからだ。

 

 

君がまわり道しいしい到達しようとねがっていることは、これを自ら自分に拒みさえしなければ、どれでも今すぐに手に入れられるのだよ。

それには全過去を打ち捨て、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向に向ければよいのだ。

敬虔というのは、君が自己に与えられた分を愛するようになるためで、これは自然が君に定めたものであり、また君をこれに定めたのでもある。

また正義というのは、君が自由に、そしてまわりくどいことは抜きに真理を語り、法律に従い、ものの価値相応の行為をなすようになるためだ。

他人の邪悪や意見や言い草や、また君の周りに蓄積している肉の感覚に縛られるな。それはその感覚を覚える部分の知ったことだ。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P229

 

自分を受け容れるということ。

「全過去を打ち捨て、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向に向ければよい」

これほど心強い言葉があるだろうか。

『いくらまわされても針は天極をさす』とは高村光太郎の言葉だが、まさに良心、存在そのものとはそういうものだ。

心が過去という過ぎ去ったことに、いくら振り回されようとも、未来を憂い不安に思う心に、いくら翻弄されようとも、針は天極をさす。現在という天極に集約される。

「己に与えられた分を愛し」「自由に正直に良心に従う」という、天極に向かう。

それを含めた、自分を超えた大きな流れの摂理を受け容れ、素直に生きること。

それが、私が目指す生き方であり、たどり着いた天極である。

 

この『自省録』には、悟ったようなことばかりが書いてあるわけではない。

生々しい苦しみを吐露する、等身大のアウレリウスに会うことができる。

私には常に連絡を取り合うような生きている友は少ないかもしれないが、本を開けばいつでも同志に会える。

だから、私は孤独ではない。いつでも親友がすぐそばにある。それがはるか昔の会ったこともない哲学者だとしても、回り道しいしい到達しようとねがっている限り、同じ世界を生きている。

良心に基づいて生きる限り、そうやって生きてきた今までの人々と繋がる。

真に孤独を癒すのは、この繋がりであり、繋がりを感じるには、自分を偽らないことだ。

そしてこの繋がりは、善行と愛によって綯われている。

何よりも誰よりも、強く美しくつながる。

【発達障害】立ち話も電話も出社も嫌で仕方がないという話(神経発達症)

私は他人と話すと神経が削られる。

これはACを自覚して、回復プログラムに取り組んでからも変わらない。

ADHD・ASDと診断されてインチュニブを飲んでも変わらない。

おそらくは発達傾向として「コミュニケーション」にとても疲れを感じる性質なのだと思う。

 

かたや、他人と話すと元気になる、という人もいる。

本当に不思議だ。

どういう理屈で元気になるんだろう。

同じ発達傾向でも、ADHDの傾向が強い人は、割とこのタイプがいたりする。

 

私はどちらかといえばASD寄りなので、自閉傾向が強い。

昔の言い方でいう「高機能自閉症」というのに該当している。

コミュニケーションは取れるものの、得意ではなく、自分の世界に没頭しているほうが好き。

没頭しているときに何か邪魔が入ると、パニック障害に近いような癇癪を起こす。

小さい頃は、それでよく狂おしいほどの混乱に、ただただ泣き叫んで暴れていた。

そのたびに叱責され周囲に疎まれ、次第にこの状態をそのまま出すと他人に悪く思われると理解するようになる。

身体が成長するにつれて前頭前野が発達し、癇癪が起こっていても、何とか理性を働かせてブレーキをかけることができるようになる。

しかし、それは周囲に悟られないように耐えることであり、癇癪が起こらなくなったわけでは無い。

私の内部では、感情の嵐が吹き荒れていて、いまにも叫びだしたいほどの苦痛を内側に抱えていることに変わりはない。

じっと耐えているから、周りにはわからないだけ。

しかしそれも一日に何回も強いられると、さすがに疲弊してくる。機嫌は悪くなるし、頑健痙攣は起こるし、腹が痛くなる。

 

パッと出会ってしまった他人と立ち話するとか、かかってきた電話に取るとか、相手の都合がよくなるまで待機するとか、おそらく定型発達には些細なことなのだろう。

私にとっては、とてもキツい。

 

とっさに他人と立ち話するのは、基本的に全然楽しくない。話題に面白味があり楽しいときもあるが、どっと疲れる。

予定にない「立ち話」というイベントがはさまれることで、私がやろうとしていたスケジュールにズレが生じる。それがとてもきつい。急いで目的地に向かわないといけなくなったり、立ち話したことで新たに考え事のネタが浮かんでしまったりして、とにかく邪魔された感が強い。

 

かかってきた電話を取るなども、そのように邪魔になる。

何か作業をしているときに限ってかかってくる。

かかってきて不在着信が残る。それが気になる。

その時点で、今やっていた作業への集中力・没頭していた精神は、現実に引き戻されてしまう。せっかく1つの作業を完遂するためだけに研ぎ澄まされてのに、コールひとつで台無しだ。

そしてかけてみれば、大した用事でもなかったりする。はらわたが煮えくり返る。

こちらからかけるときもそうだ。

私は電話をかけるぞ、と思って決意をしてからでないと、話し出せない。

しかし、かけたときに相手が出るとは限らない。

折り返しが来たときには、私はまた決意を新たにし直さなくてはいけない。

電話ひとつでとても振り回される。だから電話は嫌いだ。

 

「1~2分で済むことじゃん」と思うだろう。

「そんなに気を張らなくても自然に話せばいいだけじゃん」と思うだろう。

そうできたら、どんなにいいだろう。

 

私は、一度にひとつのことしかできない。

そして自分が決めた順番にやることしかできない。

自分の順序・自分の作業への集中を乱されると、もう一度一からやり直しになるように感じる。

河原で石積をしていて、やっと半分積み終わったときに、横から蹴っ飛ばされて「あのさぁ」と話しかけられたら、どんな気持ちになるか、想像してみてほしい。きっと多くの人がキレるだろう。

あるいは、川のせせらぎを聞きながらただただ「石を積むこと」に集中したいのに、隣でデカい音楽をかけながらバーベキューし始めたら、イライラするだろう。

自分の時間に横やりを入れられる感覚は、これらに近い。

 

基本的に深い集中に入りきってしまえば、大したことでは引き戻されない。腹が減っても気づかないし、眠気も感じない。全神経を一つのことに集中していて、話しかけられても気づかないほどだ。

しかし入る途中や普段の状態は、ADHDの傾向が前に出ていて、頭のなかでは常に考え事をしている。五感は周りの会話や音や色や光をすべて拾おうとする。

世界は、やかましくてしかたがない。

音が聞こえにくく光の刺激が少ない水のなかが好きだった。だから習い事のなかで水泳は長続きした。今も海が好きだ。人が少ないビーチによく浮かびに行く。まるで水死体のようにずっと波に揺られてぷかぷか浮かぶのが好きだ。

ライブやクラブは大嫌いだ。まず音が五月蠅すぎる。光も不快。人が多すぎる。人の熱気で湿度が高く肌がべたつく。声を張らないと何も会話できなくて喉が疲れる。一つもいいことがない。

他人がいる空間にずっといなくてはならない、というのがもうダメだ。

オフィスに寄りたくない。他人に会うから。

会って話をしなくても、同じ空間に他人がいるのが嫌だ。気になって集中しにくい。

だから、どうしても大量にコピーしないといけない日や、提出物を出しに行かなくてはいけない日以外は寄らないし、寄ったとしても深夜か早朝の人がいないときに行きたい。

そうしたいのに、社用車の使用制限がかかって、出発前に上司にFacetimeで顔を突き合わせて連絡を取らなくてはならなくなった。

まるで地獄のような制度だ。

それだけで朝からもう疲れる。

朝晩にテレビ電話をしなくてはならない。それがどれほど苦痛なことか、定型発達にはわからないのだろう。

事務的に「今日も一日よろしく」「はい」で終われば1秒でよいのだが、「今日はどこ行くんですか?」だの「今日の○○クリニックどうでした?」だの聞いてくる。本当に止めてほしい。

業務連絡が必要なことなら、こちらから簡潔に話す。いちいち聞き出そうとしないでほしい。話さないということは、話す必要がないということだと、理解してほしい。ほっといてほしい。

同じような連絡を複数の人がやり取りするのも理解できない。

ひとつの内容の連絡は、1回でいい。

なぜ複数人から同じ内容を聞かせられないといけないのか、意味が分からない。

「ああ、それ〇〇さんから聞いたよ」と言われたときの私の脱力感たるや。

「ならわざわざ電話する必要なかったじゃん」とすごく気力を無駄にした気持ちになる。

 

おそらく、仕事においてこういう非効率的なコミュニケーションができる人は、仕事をしている自分が好きだったり、「仕事」という世界に浸っていたい・漬かっていたいんだろうと思う。

それはある種の逃避であり、依存でもある。

今の上司はまさにそうで、「ミスなし、モレなし、ダブりあり」がモットーらしい。

だからとにかく話したがるし、話させたがる。

本当に合わない。

MBAを取得しているんだから、ロジカルシンキングでいうところのMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)でいいじゃないか。なんで最も重要なダブりをありにするのか。

このモットーが無駄な仕事時間を生み、皆を疲弊させている。それをわかってない。仕事だけが好きな人なら、もっと浸っていられるからいいだろう。

しかし私は仕事なんて大嫌いだから、できるだけ脳のキャパを割きたくない。

割きたくないのに、無意味なことでメモリの使用率を圧迫するから、プレーヤー個人としての処理速度が落ちるし、アウトカムの質が落ちる。

つまり、仕事の遂行においても、マネージャーの存在は邪魔でしかない。

 

仕事というのは、人生のほんのごく一部だ。

そして、この世の仕事のほとんどは詐欺のようなものだ。

価値が低いものに価値らしきものを付与して騙しだまし高く売る。その差で儲ける。

詐欺に該当しないのは、自分たちが食べるものを必要な分だけ自分たちで作ることや、子どもを守り育てることや、人々の辛さや苦しみに寄り添い居場所をつくることだ。

つまり、自給自足のための家庭菜園・保育士や保護司・特定の居場所を運営する非営利団体などである。

お金は、全てが汚れている。

汚れをいくら集めても清くなることはない。

そればかりか、嫉妬や憎悪などの呪いを孕んだ呪物に近いので、それをたくさん手元においておけばおくだけ、人間が腐り、本当の幸せから遠ざかる。

だから、仕事など、生きていくために最低限でよい。

稲盛和夫や本田宗一郎を尊敬するビジネスパーソンは多いが、あれは「仕事」がバブル経済の崩壊前で「やればやるだけ承認欲求を満たすことができ努力が報われるゲーム」だったがゆえの理論であり、今の時代にはそぐわない。

仕事というゲームを「居場所」に見立てて、精神的な拠り所とした男性社会の宗教的幻想。

その背後には、仕事にかまける父親からネグレクトされ続けた母子が生むアダルトチルドレンという呪いを産んでいる。世代を超えて苦しめる呪いを産んでおいて、勝手に仕事を美化されてはたまらない。

仕事はただの労働だ。生きるために金が必要な社会だから金をつくるための作業だ。それ以上でもそれ以下でもない。それより重要なことは人生において星の数ほどある。

 

しかし、それが理解できる人は、金で殺し合いをしているこの新自由主義・資本主義社会では、珍しい。

「金は命よりも重い」。みんなカイジの世界で生きている。話が通じるはずもない。

命より重いわけなかろうが。紙幣は紙きれだし、硬貨は金属の板だよ。皆が洗脳されて価値があると思い込んでいるだけ。

 

話が随分とわき道にそれてしまったけど、結局、仕事なんぞにいつまでも漬かって現実から逃避したいとっつあん坊やには付き合いきれない、ということだ。

勝手にやっといてくれ。そして余計な意味のないことで私の貴重な時間を奪わないでくれ。

そんなことを本当に言うと相手が顔を真っ赤にして怒り狂うことは、今までの経験で心得ている。だから口には出さないのだけれど。

妻には「勤め人は向かないからやめたほうがいい」と言われる。

本当にそう思う。

人間が向いていない、ともいえる。

社会不適合者というのは、こういう人をいうのだ。やれやれ。

【依存症】7月18日

いつの間にか、断酒して5年が経過していた。

 

2017年7月18日

後の「アサイージュース事件」である。

 

私は妻が結婚式で地元に帰っているスキに、盛大にスリップした。

そして酔って頭を打ち、ベッドを血まみれにした。

何を飲んだかもよく覚えていない。

赤ワインの瓶を数本買い、それらをすべて飲んでしまったので、飲酒運転でウイスキーを買いにいった気がする。

ウイスキーの瓶は駐車場で粉々に割れていたから、飲めなかったんだと思う。

ストロングゼロは無事だったようで、買った記憶はないが、リビングに空き缶が散らばっていた。

 

その日は、とてつもない気持ち悪さで目が覚めた。

頭がべっとりと何かに濡れているような感じで、とても不快だった。

何だろうと思って触ったら、赤黒い血がべっとりと手についた。

一瞬何だかわからなかった。

「血だ」と思って起き上がろうとしたら、身体に力が入らない。

左半身が麻痺したように、全然力が入らなくて、しばらく起き上がれなかった。

ようやく起き上がってあたりを見渡してみた。

マンホール大の血だまりがベッドのそばにあり、マットレスは黒い血で染まっていた。

枕も真っ黒。

血の気が引いてふらついた。

 

頭を触る。

痛みが走る。

数センチの裂傷が後頭部にあるのが、指の感触でわかった。

いつ、どこで?なぜ?

とにかく何もわからず鈍くて働かない頭。

真っ先に思い浮かんだのが、

 

「隠さなきゃ」

 

だった。

血に汚れたままトボトボヨロヨロしながら歩いてドラッグストアに向かった。

生理用品用の洗剤を買う。

暑さと貧血、二日酔いで吐きそうになりながら自宅に帰り、枕とマットレスとシーツを洗う。

取れない。

力が入らなくてしんどい。風呂でへたり込む。

自分は、何をしているんだろう。

惨めな気持ちで風呂に漬けている枕を虚ろな目で眺めていたら、数時間経っていた。

 

なんとか薄いピンク色くらいになった。

アサイージュースみたいだな、そうだ、ジュースをこぼしたことにしよう。

そう考えた。それしか思いつかなかった。

電話で「ベッドにアサイージュースをこぼしちゃった」と妻に伝える。

妻は「・・・・ふーん。まあしかたないよね。」と言った。

私は普段アサイージュースなんて健康によさそうなものを飲まない。

妻はこの時点で、なにかおかしいと思っていたそうだ。

 

数日後。

 

妻が、帰ってきた。

妻は家に着くなり鼻をスンスンと鳴らして、いぶかしげな顔で家の匂いを嗅いだ。

顔がどんどん険しくなる。

それを眺めながら、私の心臓は破裂しそうだった。

血の匂いが濃いほうへ目線を向ける妻。

妻は、ベッドルームに一目散に向かって足早に歩く。

ピンク色になったベッドをみる。

力が入らず取り切れなかった血の塊がフローリングの溝にこびりついているのを見たとき、妻は何があったか、理解したという。

 

「ねえ」

 

「なんか言うことあるよね?」

 

そう言いながら妻の見開かれた目を見て、私は

 

「ごめんなさい、飲みました」

 

といった。

 

頭の傷を見せる。

「こんなに切れてるの?!病院は??」

「行ってない」

「アホか!!!今すぐ行くよ!!!!」

さいわい外傷以外何もなく、脳に異常もなかった。

 

帰りの車で。

「一緒に断酒会、いこうよ」

「うん」

 

これが、アサイージュース事件。

 

2022年7月18日

頭の裂傷は、縫いもせず放置していたために傷口はふさがったが、痕が残った。

2017年7月18日の「アサイージュース事件」は、頭の傷跡にも、心にも、深く刻まれた。

私には、生きていくのに必要な大失敗だったと、今では思う。

 

私は、飲んだことを、必死に隠そうとした。

自分の身体の傷を手当てしようなんて発想はなかった。

妻に今度こそ見限られる、という恐怖しか頭になかった。

嘘をついて欺こうとすることのほうが、よっぽど彼女を失望させるというのに。

 

依存症は、何度もスリップすることがある。

私は、4回スリップして、今に至る。

 

気合と根性では、2年ともたなかった。

3回目のスリップで病院に繋がり、自助グループに繋がってもなお、スリップした。

自分の生きづらさに目を向けることはできないままの私にとって、断酒は「我慢」だった。

我慢は続かない。

4回目のスリップでそれを理解した。

 

「自分は、どうしようもない人間だ。自分で酒をやめることもできない。でも、生きたい。死にたくない。死ねない。」

「ならば、もう自分のやり方は捨てる。何でもやってみよう。やってみるしかない。誰にでも頭を下げて、何にすがってでもいいから、とにかく回復している人がやっていることを、やってみるしかない。それでもだめなら、もう死ぬしかない。」

そう思って、私は今までのやり方と在り方のすべてを手放し、完全に降伏した。

 

それから、様々な場所でいろいろな人のいろいろな話を聞いた。

ときに頭にきて眠れなかったり、悔し涙を流したり、感動の涙を流したり、共感したり嫉妬したりした。

見たくもない自分のなかの恐れと不安を、ドブのような濁った心の底から掘り起こしては、目を凝らす毎日だった。

心のドブさらい。それが棚卸しだった。

少しずつ水底が見えるようになってくる。

『白河の清きに魚の棲みかねて』というべきか、清くあればあろうとするほど、水底は余計にみえなくなった。

『もとの濁りの田沼恋しき』。濁った部分も自分なのだ、間違ったことのある自分も大切な自分なのだ、と受け容れてから、ようやく窒息しそうな水の中から顔をあげる。

そうやって初めて。

私のような人間の心からも、蓮の花が咲いていることに気づく。

 

阿頼耶識は綺麗ごとだけではできていない。

自分がそうであるように。世界がそうであるように。

それに気づくために、私には断酒して過ごすこの5年間が、必要だった。

 

私は、酒を飲めない。

ようやく諦めたとき、見える世界は白い闇だった。寂寥感でいっぱいだった。

存在することそのものが、全て哀しかった。

この唄のような心の有り様だった。

 

 

「もしもピアノが弾けたなら」

私の人生には、酒がなくなった。

「もしも酒が飲めたなら」

私をなんとか支えていた酒。それが無くなったことを受け容れられない気持ち。

それがこの唄に近い。

 

こんな心で、蜘蛛の糸のように細い道を歩く。

これが死ぬまで続くのか。

絶望した。

 

 

それが今、私は、心に咲くたくさんの蓮の花で満たされている。

元々それらは咲いていた。

咲いていたのに、気づかなかった。

 

私は、回復した、変わった、と言われる。

私は、本質的には変わっていない。脳の壊れた回路はもう元には戻らない。

 

変わったのは何なのか。

回復とは何なのか。

 

それらは、知るのでもなく掴むのでもない。

人生から、出会う人々から、

いや。「生きることそのもの」から、与えられるのかもしれない。

 

私は確かに頑張った。もうこれ以上できないほど。

だけど、私のおかげではない、とも思う。

ただ一つ言えることは、私がアルコール依存症になることは、必要だから与えられたことだった、ということだ。

【雑談】ちょっとガス抜きさせてください

最近、いつの間にか一日が終わっている。

いろいろなやりたいことがなかなかできないまま、日々が飛ぶように過ぎていく。

もう7月も後半とかウソでしょ?ウソって言ってほしい( ^ω^)・・・

 

やりたいことを書きだしてみる。

〇会社設立(正確には妻を個人事業主としての、共同事業の立ち上げ)

・事業デザインの精査

・場所探し(居抜き物件で放課後等デイサービスができるような建物)

・仲間探し(保育士さん)

〇現在の勤務先での従業員ネットワークのイベント準備

〇動画編集の勉強(Youtubeで啓発活動を始めたい)

〇社会福祉士としての活動

・リワーク施設への訪問

・児童発達支援事業所への訪問

・地域医療連携室の精神保健福祉士のみなさんへの訪問

〇発達支援の勉強(ASD・ADHD・LDなどの発達障害の子どもたちへの支援資格取得)

〇代表理事をやっている任意団体の活動内容更新(ブログ整理)

〇農業

・畑を借りる

・家族が食べていけるだけの食べ物を自給自足できる準備する

〇資産を金に換える

 

いっぱいできていない。

つらい。

正直、もう仕事はどうでもよくなってきている。

もう全然興味がなくなってしまった。

とてもやばい。けど、それが本心なのでしょうがない。

 

薬って、そもそも飲まなくて済むのであれば一番いいものだと思う。

異物だから。

どうしても必要な人に届けばいいのであって、全体のマーケットは小さくなるのが最も世の中にとっては良いこと。

ましてや西洋医学の理論で開発された化合物など、なおさら使わなくて済むならそのほうがいい。

そもそも、今回のmRNAワクチンの件に端を発して、私は西洋医学に基づく薬理学的な理論に懐疑的になってきている。本当にこれは人のためになるのだろうか?と疑っている。

今回はあからさまにバレバレなやばい代物だったから明るみになった。

でも、よくよく振り返ってみると、子宮頸がんワクチンやインフルエンザワクチンも、似たような物だと私は思う。

ということは、私がよかれと思って科学を信じて宣伝してきた高血圧症治療薬や糖尿病治療薬や睡眠薬や脂質異常症治療薬は、もしかすると全然必要のない、むしろ毒でしかなかったのではないだろうか。そういう恐ろしい予感に背筋が寒くなる。

私は、また人を不幸せにするような仕事に加担してしまったのではないかしら。

 

一番最初に携わった太陽光発電システムの営業、マテリアルリサイクルの営業。

これらの世界を環境問題に取り組むという「良いこと」だと思って飛び込んだ。

しかし蓋を開けてみれば、仕事の内容は詐欺に近かった。

中国から取り寄せた安い太陽光パネルを利用して、国産メーカーに競合したことは、国内の電機産業を衰退させる手助けをしたに過ぎないし、太陽光発電システムそのものがそもそも環境に良い製品ではなかった。

いや、環境問題そのものが、でっち上げられた架空の課題であり、そもそも解決する必要などないものだった。

私は大学で何を学んだのだろう。

環境経済学という学問は、世の中の本質にリンクする学問ではなかった。

倫理の教科書に強く惹かれた高校時代の自分の感性を信じて、哲学を専攻すべきだったと思う。今古典哲学にのめり込んでいるのは、本当はそれが知りたかったことで、深めたかったことだったからだ。

「社会で成功しなくてはならない」

「高収入を得られる仕事をしなくてはならない」

そういう世俗的な価値観・親の期待に惑わされて、やりたくもないことを嫌々やってきた結果が、今の仕事だ。

正直、全然面白くない。

 

元々お金に無頓着で、あれば使うだらしない人間だった。

無ければ無いで、道草を油で揚げて食べたりして糊口をしのいでいた。

そんな大学生活だった。

わりと金が無くても人ひとりで生きる分には何とかなるものだ。

お金に全然興味を持てない。

ACとしての恐れと不安から高収入を条件に仕事を選んできたけれど、実際はそこまで私の価値観のなかでは大事なものじゃなかったんだと思う。

つくづく失敗した、と思う。

 

会社の皆はお金が大好きだ。

どこどこでいくら売れたとか、売り上げが伸びているとか、嬉々として語る。

「〇人の新規処方が確認できました!」とかSMSで毎日飛び交っている。

それは、病んでいる人がたくさんいるということで、薬が必要なほど苦しんでいる人が見つかった、というだけではないだろうか。

喜ぶことじゃないんじゃないだろうか。

そりゃたくさん売れれば会社で褒めてもらえて、あわよくば昇進・昇給、ボーナスが何百万ももらえるかもしれない、という期待に胸が膨らむんだろうと想像はできる。

でも、会社が褒めてくれることって、そんなに喜ぶほど価値のあることだろうか。

会社は、命令を着実に遂行してくれる「人間をやめた歯車」がほしくて、日夜洗脳に余念がない組織である。自分たちの洗脳が功を奏して無事に生まれた「優秀な歯車」に対して、賞賛を送るようにできている。

ということは、会社に褒められる、というのは、「お前は使い勝手のいい歯車だな!いい感じに人間やめれてて素晴らしいぞ!」と言われているのとイコールだ。

それ、うれしいの?

私は嬉しくない。馬鹿にすんなと思う。

そんな人をコケにした真意を知ってか知らずか、私以外の人々は組織内での地位と名声と権力を求める。

私も、自分が自分としてありのままで充分に価値のあるいっこの存在だと認めきるまでは、それらの外部からの承認を喉から手が出るほど欲しがった時期があった。

だから気持ちは分かる。

不安な心の穴を埋めるための、対症療法。

依存症と一緒だ。

社内で上昇志向をもつ人間は一見パワフルで健康的にみえるし、いわゆる「レベルの高い」人間と錯覚されやすいが、実際は病んでいる依存症者と同じだ。

つまり私たちと同じ。アディクトの仲間だ。

だから、彼らを侮蔑することも、下に見ることもない。

私がそうだったように苦しんでいるんだな、と思うだけだ。

特に干渉することもないし、否定することもない。

 

しかし、彼らとしては、私のような思想と行動は容認しかねるようだ。

売上のためにもっと人格を削ぎ落してでも、あくせく働いてほしいそうだ。

自分たちと同じように。

だから、私が数字に無頓着だと「意識が低い」とか「やる気がない」とか言って心のなかで馬鹿にしだす。

心のなかでどう思おうが、その人の自由なので、それはよいのだが、「自分たちと同じ歯車になれ」と集団同調圧力とコントロールを働かせてくるところは、看過しがたい。

私は私で、私のやり方でこの仕事のなかで実現したいことがある。

それは、結果的に会社が社会的信頼を取り戻し、提案を受け入れてもらえる手助けになると思う。

会社にとってメリットがあることをやっているつもりだ。

私は不必要なところに提案することはないが、必要だと感じるところには薬剤の使用を一つの手段として提案することはある。

その提案を採用して実際に使うかどうかは、先生方の判断だし、患者さんの意向もあるだろう。その領域は、私たちにとって「変えられないもの」なので、絶対に侵害してはいけない。

しかし信頼関係があれば、勘案してくれる可能性は高い。

役に立てるかどうか、その観点で誠実に可能な範囲で接することが私たちがやるべきコトであり、唯一できることでもある。

私はそう考えているので、「MRには会いたくない」という先生の所に無理して会いに行ったりしない。

会わないことで薬剤の最新情報や私という社会資源と出会えないリスクを踏まえてその判断をしているわけだから、その責任はその先生がとればいい。私は関係がないし、その生き方を変える権利も義務もない。その判断を尊重する。

ただ手は差し伸べ続けるし、必要とあらば時間を取る。可能な限り丁寧に対応する。

 

このコロナ騒動で先生方としては「コロナだから」という黄門様の印籠を手に入れた。

MRを締め出すには絶好のチャンス。今までうっとおしい夏の夜に蚊帳の中に入ってきたやぶ蚊のようなMRを、やっと院内から追い出すことができた。

今まで「使ってください」というお願いとそれを成就させるためにありとあらゆる詭弁を弄してきた今までのMR活動の成果のひとつだ。本来は、その残念な結果を、真摯に受け容れ反省するべきだ。

が、無謬性の神話に雁字搦めになっている製薬会社の上層部が、今まで自分たちがやってきたことが元凶だとは認めるはずもなく、数字とにらめっこしながら、頓珍漢な結論を導き出して、とにかく会えるように努力しろと現場にげきを飛ばす。

追い詰められた現場は、なんとか理由をつけて無理やり自分のアポイントをねじ込もうとする。

成功例として社内で報告されている事例も、一見うまくいっているように見えて、実は長期的に見てより関係を悪化させる一手にしかなっていないことがある。

しかし組織内では、自分たちの仮説と戦略が正しいと裏付けられそうな成功事例を欲しているので、飛びついて賞賛する。自分たちがみたいものしか見えなくなっている。

なぜかといえば、自分たちが正しいという裏付けが欲しいからだ。それをアピールしたいからだ。もしも間違っているという方向に結論が導かれてしまったら、方針を決定した責任を取って役職を降りなくてはならないリスクと恐怖にさらされるからだ。

管理職に、自身の判断が間違いだった可能性を模索する覚悟がない。自分の進退を含めての戦略的な決断ができていない。リーダーを務めるに価しない人間が配置されているからだ。

わが身が一番かわいい人たちだ。

本当は、患者さんのことなんてどうでもよくて、自分たちが組織内の椅子取りゲームで居場所を奪われないかどうかだけが、関心事だ。

そんな人たちの指示に従いたくなる人がいるだろうか?

私は従いたくない。だから理由を言って拒否している。当然煙たがられる。

 

なんとかして言うことを聞かせようとしつこく接触してくる。

それをあしらう時間がもったいない。

そういう雑事に追われて、上記に示しているような本当にやりたいことができない。

 

信頼していないからだと思う。

雇っている人たちを信頼していない。

性悪説で、人は権力者が管理しなくてはならないと思っている。そうでなくてはサボるし悪いこともする、と思っている。

会社はリヴァイアサンでいなくてはならないと思っている。ホッブズである。

信頼されていないから、従業員もまた会社を信頼しない。

不信感で繋がった希薄な雇用関係。実に空虚で暗い繋がりだ。

 

信頼して任せる。真の意味で権限移譲ができれば、もっと自由にもっと多様な価値が生まれることだろう。

それが、最終的には企業価値の最大化に最も近い道のりだと思う。

だけどそれは、恐れと不安でコントロールしたい欲望に負けてしまってできない。

まるで、ACの生きづらさそのものだ。

ハイヤーパワーに委ねられない、南無阿弥陀仏に委ねられない。阿頼耶識の声を聞けない。

だから苦しみを背負い、幸せから遠ざかることになる。

 

投資可能性は、計算可能性。

計算可能性が無ければ、事業は立ち行かない。投資できないから。

結局、資本主義の原理原則が、あらゆる人をコントロール欲求の奴隷に貶めている。

だから資本主義はシステムとして破綻していて、誰も幸せにならない。

それを証明したのが、ここ最近の1世紀の人類の取り組みの成果だと思う。

だけど、自分を守るために精一杯の人類は、この成果に気づけない。

だから行くとこまで行って自滅して、多くの価値あるものを失いつくして初めて、真の底付きを体験するんだと思う。

そこに至るまでのディストピアを生きるのは、今からとても暗澹たる気持ちになるけれど、それが私にとっても、私たちにとっても、必要な禊であり、ハイヤーパワーの導きなんだろうと思う。粛々と受け容れて今を生きていくしかない。

 

私は私で、ブレずにやりたいこと・やるべきことをやっていくよりほかはない。

やりたくないことをやれと言われると疲れてしまうので、休み休みにはなるが。

よく頑張っていると思う。

自分の心と身体に折り合いをつけながら、いくつか実現して形になってきたものもある。

今できる100%は常にできているんだ。今できる100%は、いつもの日常なのだから。

焦る気持ちやイライラする気持ちは、ある。

「仕事をやめてしまいたい。もっとやりたいことだけに集中できれば、違う未来があるのに…」と思わない日はない。

しかし、そのタラレバは、起こりえないからタラレバなのであって、私ができる事は、無理なく自然に今ココを全力で生きることだけだ。

こうしてブログに想いを書き出すことだって、一見ただの愚痴吐きのように見えるが、自分を見つめ直しやりたいことを整理することで、マインドをリブートするきっかけになった。

何もかもには意味があって、それを認識できるかできないかの違いしかない。

明日も、一生懸命楽しんで生きていこう。

【依存症】自分を「赦す」ことからはじめよう

私はたくさん間違えてきた。いけないこともたくさんしてきた。

 

私という人間

小さい頃から、他人より上手にできないことのほうが多かった。

馬鹿にされたし、軽く見られた。

他人に受け入れてもらえない、そんな自分を自分自身が好きになれずに、苦しんだ。

自分の欲に負け、ずるい考えで他人を騙そうとしたこともある。

嘘をついて、罪から逃れようとしたことも、他人に何とかして気に入られようとしたこともある。

いじめられて他人に馬鹿にされる痛みを知っているのに、自分が標的にならないために、いじめる側に立ったこともある。

他人のためと言いながら、自分のために、自分がここにいていいと思うために、他人に過干渉したこともある。

自分に自信がないことを隠すために、社会的な評価・組織内での評価・収入や地位に固執したこともある。

自分だってよく間違えるくせに、他人の失敗をあげつらってこっぴどく責めたこともある。

何もかも知っているわけでは無いのに、自分が知っていることを他人が知らないと、無知だ馬鹿だと心のなかで侮蔑したこともある。

自分より収入が低い人は、自分よりも能力が低い価値のない人間だと下に見たこともある。

自分がただ環境に恵まれていただけなのに、今自分が得られている恩恵は自分が努力したからだと信じたくて、成果主義・能力主義を肯定的にとらえていた時期もある。

かわいそうなひとや恵まれない人の話を、どこか自分とは関係がない世界の話として他人事で無関心で、手を差し伸べなかったこともある。

他人の物を盗んだこともある。それを隠そうとしたことも。

自分の都合で他人の命を粗末に扱ったこともある。それによって、他人の心も体も、ひどく傷つけた。

正しさで他人を打ちのめして憂さを晴らしていた事実がある。

 

私は人間として、よくできているとは言えない。

聖人君子でも紳士でもない。

それが、ありのままの私だ。

 

私もそうだったじゃないか

ありのままの私を、そのまま見ると、つらい気持ちになる。

「なんで私はこんななんだろうか」と思うような汚い部分・嫌な部分は、そこかしこにある。

つらいから、見ない振りをする。

そうやって見ない振りをしていると、汚い嫌な部分は自分の背後でどんどん膨れ上がっていく。

だから、逃げるように何かにすがりたくなる。

何かは、人によっては宗教だったり、他人だったり、モノだったり、行為だったりする。

私の場合は、たまたま酒だった。だからアルコール依存症になった。

 

自分を許せないから、他人を許せない。他人に厳しいとはそういうことだ。

自分が抱える後ろ暗さを打ち消すために正しさを求める。

強迫的な正しさへの固執が、他人の不正への敵意に変換されて表面化する。

他人を責めているとき、自分は正しさの側に立てる。だから、安心する。

それは偽りの安心で、いくら他人を責めても自分の本質は変わらない。抱えている不誠実は消えない。

自分の罪を自分自身が許してあげないと、誰の何の罪も許せない人間になっていく。そして一人きりになる。

 

「俺だって、間違えることもあるよな」

「そのまま受け容れるのって、難しいよな」

「嘘をついたり騙したりすることだって、珍しくない」

 

そう思う。

私はそんなにできた人間ではないから、他人がそうであってもおかしくないと思う。

直接人を殺したことはなくても、この社会システムのなかで誰かを殺して生きているかもしれない。人を殺してしまった人も、いつかどこかにいたかもしれない、私かもしれない。

お金や権力に眼がくらんで自分の都合がいいように他人を操ろうとする人たちも、私と同じように自分自身を受け容れられない苦しみにもがいているのだと思う。

罰を与えて罪を背負わせても、痛めつけて解決したつもりになっているだけ。

「絶対に間違えてはならない」という呪いを、他でもない自分自身に上掛けするだけ。

 

私を許すことは、他人を許すこと

自分が犯してきた罪を、まず自分自身が認めよう。

誠実に実直に、その償いをしよう。

直接謝ることはもうかなわないとしても、いつでも謝れる心で生きていく。

なにもかも全部、包み隠さず認めよう。

その罪の裏にあるのは、悲しみや怒りや寂しさだったことも、認めよう。

その苦しみを誰にも言えなかった弱さを認めよう。

人間はそんなに強くない。一人で生きていけるほど、個人は力を持っているわけではない。

世界の一部だから生きていける。

一部で在り全部。それは、あの人も、この人も、全てのひとがそうだ。

ごくわずかな片隅の一欠けらであることを認めよう。

だからこそ無くてはならない価値があることも、同じように認めよう。

何かの役に立つとか立たないとか、そんな功利的な観点によらず、必要不可欠な存在なのだ。

君も私も。誰もが。

誰もが弱くて寂しくて悲しくて、怒っても仕方がない。

私がそうであるように。

 

そう思いいたると、他人が許せる。

私がそうであったように、何かを抱えて苦しんでいて、それがたまたま外部への攻撃性としてあらわれ、たまたま私が被害に遭っているだけ。

彼ら彼女らは、私だ。だから「そんな気持ちになることも、そんなことしちゃう日だって、あるよね」と思う。

だからと言って何もかも無抵抗で受けるわけではなく、私は私が大事で、彼ら彼女らも同じように大事なので、共存していくために必要な「私の気持ち」は伝える。

「私の気持ち」をどう受け取るか、どう行動するかは、彼ら彼女ら次第だ。私にもその権利があるように。

受け取れるように、伝わるように、できる限りの手心を加えて。その方法が「アサーティブ」であったり「アイメッセージ」であったりする。

 

 

心の根っこのところで自分も他人も許すことで、私は本来の優しさと思いやりを取り戻せる。

それできてはじめて、求め続けて手に入らないと嘆いてきた「安心」が、いつもいつでもすぐそばにあったことに気づける。

救われるのは、自分自身。

自分を「赦す」ことから始めよう。そこからすべてを始めよう。

それではじめて、あなたも私も、優しくなれる。

【社会福祉士】民主主義というファンタジーを信じる日本人

みなさん、日本は民主主義国家だと思いますか?

選挙によって、我々の民意が政治に反映されると思いますか?

 

残念ながら、この国はそんな国ではありません。

 

選挙はプロレス

自民党も民主党も共産党も社民党も、みんなお友達です。

どの政治家も、ある特定の財閥に繋がる血筋です。

争っているように見えるだけで、親戚同士裏では繋がりながら、プロレスをしているだけ。

参政党とかれいわ新選組とか、それらの親戚とは違うと思われている政党ですら、残念ながらあまり大差ないと思います。

すべては結果有りきで行われている茶番。

 

そもそも選挙結果は自由に操作できます。ご存知でしたか?

株式会社ムサシという会社が投票用紙の自動集計機を納品しています。

この会社の株主はペーパーカンパニーで、そのペーパーカンパニーを調べていくと、最終的には実質の支配権はロックフェラー系列の外資です。

我々の国の選挙に使われる機械は、ユダヤ系外資がつくっているということ。

これは、彼らの都合がいいように、得票結果を自由にコントロールすることができる、ということです。

最近よく単語が出てくるようになった「統一教会」の創立者文鮮明氏は、グローバリズムでロックフェラー財閥と意気投合して資金提供を受けてきました。

つまり、お仲間です。

その「統一教会」と親交の深い自民党が与党となり、ユダヤ系資本がパックにいる選挙用の機械を使って選挙をすれば、結果がどうなるか。

想像に難くないですね。

こうして、選挙は「国民の投票により政治家を決定している」という体を取りつつ、実際は権力を持つ「財閥」の都合のいいように動かされています。

だから、自民党が勝つのは当たり前だし、ぶっちゃけどこが勝ってもいい。

なぜなら、どこかがまかり間違って勝ったとしても、金でその政党を買えばいいだけだからです。

それが、資本主義社会です。

政教分離?そんなの名ばかりです。そもそも政治を牛耳っている経済的な力を持っているのが「統一教会」であり「ユダヤ系財閥」なんですから。一心同体です。

票が取れれば、選挙で勝って政権を維持できればそれでいい。そのためならどんな手も使う。金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる。

それがこの現代社会の、この国の姿です。

民主主義なんて幻想(ファンタジー)です。

だから、公約で掲げた政策なんて一向に実現されないでしょう?

選挙のときに耳障りの良いことを言っているだけで実行する気なんてさらさらないですから、そりゃ実現するわけないですよね。

国民の意見なんて死ぬほどどうでもいいと思っていて、お金を出してくれる海外の権力者の言うことを聞くために存在している。それが今存在する政党であり政治家たちです。

そんな人たちが、税金から何千万も給料をもらっているんです。仕事中には腕組みをして居眠りしているんです。

だから、私は政治には何も期待していません。

この腐りきった国の政府を最大限利用して、仲間を集め自分たちの手で人生を切り開いていくしかない、と思っています。

 

日本のエリートたちはみんなゴマすり

日本では、大企業も、政治家も、官僚も、大手マスコミも、みんなそれらの権力にゴマをすって生きています。

よく名前が出る大企業のCEOをはじめ、経済界・政界・マスメディアの重要ポストにいる人間は、だいたい世界経済フォーラムに参加しています。

ヤンググローバルリーダーに選ばれている人は、特に傀儡として利用しやすいので持ち上げられている人たちですね。

大手製薬会社もだいたい世界経済フォーラムの系譜です。

新自由主義とは、金持ちがより金持ちになり、彼らにとって都合がいいように世の中を作り変えるための社会の在り方です。

自由競争?これは強いものが弱いものを食い散らかす「自由」を与える競争社会です。

誰もにチャンスがある、なんてとんでもない。むしろチャンスなんて根こそぎ金で刈り取るための、肥大化したコントロール欲求が支配するディストピアです。

共産主義がいいとは言いません。でも、資本主義は共産主義同様、システムとして破綻しています。

その証拠に、自殺者は増加しているし、貧困は拡大しています。一部のエリートたちがもっとお金を集めるために、それに類さない大半の人々の命と人生は、これからもますます奪われていきます。

平等を装った超格差社会。それが日本の社会です。

 

そりゃあ依存症にもなりますよ

この日本は、まさに地獄です。

先進国どころか、後退国です。

雇用は不安定で賃金は一向に上がらないのに、税金と物価はどんどん上がります。

他人を裏切り蹴落としてでも権力者に媚びへつらえる人間が、扱いやすい奴隷として認められ、おこぼれをもらって「成功者」として台頭し、マシな生活を手にします。

人間性を削ぎ落した操り人形になることが「昇進」「出世」であり、人間をやめられない人間が「負け組」として辛酸をなめる。

そんな世の中で、まともな精神を保てるほうがイカレていると思いませんか?

そりゃあ、依存症にもなりますよ。真面な人こそ、依存症になりますよ。何かに依存でもしなければ、とても命を繋いでいられない世の中です。

それなのに、依存症者は偏見に苦しみ、社会の隅っこに追いやられている。

こんな社会のほうこそ狂っているんじゃないでしょうか。

私はそう思います。

資本主義によって、世の中は物質的には豊かになったかもしれませんが、精神的にはどんどん貧相になっていると思います。

心にはどんどん空白ができて、巨大な穴がぽっかりと空いている。

そんな大きすぎる心の穴を埋めるために、何かに依存するのは、おかしなことではありません。

対人関係に依存したり、物質に依存したり、行為に依存したり、その表出の仕方は人によって様々ですが、根っこは同じです。

依存症の真の課題は、この国、社会のあり方にあると思っています。個人的な問題ではない。

対人関係に依存して、共依存になり、過干渉・イネイブリングなどが多くの人のベースにある。だから、親子関係を含めた人間関係は、当然不健全な形にならざるをえない。

その不健全で歪んだ関係性が、アダルトチルドレンの問題や虐待や家庭内暴力などに繋がっているのではないでしょうか。

医療や福祉では、問題を抱えている「個人」に焦点を当てがちですが、実際は「環境」の問題で、その人はむしろ健全だからこそ病んでいるのではないか、と私は思います。

だから、その人をどうこうしようとしても、意味がない。根本的な解決にはならない。そう思ってしまいます。

なので、これからも社会福祉士として私ができる事を、できる範囲でやっていきます。

 

この地獄を生き抜いていくための処方箋

ここまで読んで「夢も希望もないじゃないか、元気なくなるでしょうが、どうしてくれるんだよ、どうしたらいいんだよ!」とお思いのあなた。

 

たとえ国が腐っていて社会はゴミでも、私たちにはできる事があります。

それは、

①損得勘定抜きで付き合える人間関係を大切にすること

②お金になるかどうかではなく、優しさと思いやりを基準に行動を選択すること

ということです。

 

①損得勘定抜きで付き合える人間関係を大切にすること

ビジネスにおいての損得とか、権威やブランドへの憧れだとか、そういう自分の利益や世間の評価ではなく、あなた自身が「人として純粋に好き、尊敬できる」と思う他人と付き合うことです。

損得なしに助けあえる人との繋がりだけが、残っていくでしょう。

なぜなら、いずれこの社会は終わるからです。

資本主義・合理主義のもと損得で繋がる関係ではなく、愛と共感によって繋がっている関係だけが残る。そんな時代が来ると思います。

そうなったとき、損得で人間関係を選択していた人は、終わります。誰も助けてくれない「孤独」という地獄が待っています。

「人脈」という言葉が好きなビジネスマンは多いですが、ビジネスで繋がっている「人脈」をいくら広げても意味がありません。結局は金回りが悪くなれば離れていく。

見返りを求めない愛情を他人に与えることができる人は、それだけで豊かです。

愛情を受け取った人は、どんな大金をもらうよりも、それが生きていく力になることを、いずれ知るでしょう。

他人に分け与えた愛情は、巡り巡って自分のもとに還ってきます。だから損などするはずがない。他人を含めた世界は、自分と同一であり、世界を愛することは、自分自身を愛することだから。

それに気づいて愛を実践できる人同士は、深く共鳴するでしょう。

損得ではなく愛によって繋がった人間関係を大切にすることです。それが最も価値がある宝です。

この宝が、これから本当に豊かな人生を送ることができる鍵だと思います。

 

②お金になるかどうかではなく、優しさと思いやりを基準に行動を選択すること

①につながりますが、愛というのは行動です。

言葉ではいくら耳障りのよいことを言っていても、行動が伴わない。そんな人はすぐに化けの皮が剥がれるというもの。公約ではいいことを言っていても、当選したら手の平を返す、現代の政治家のようなものですね。

その人が信じるに足る人物かを見極めるときは、その人が何をしているかをよく見るとよいです。

行動が、その人を創り、人となりを表します。

決して、偽善をして気に入られようなどとはしないことです。それは損得です。気に入られることで何かを得よう、というのは、下賤な考えです。今すぐ捨てましょう。

愛とは、何かを与えるかわりに何かを得ようとすることではない。

何も見返りがなくても、与えずにはいられない。そういう行動のことです。

目の前で苦しんでいる人がいたら、自分に何ができるか定かでなくても、駆け寄って手を差し伸べずにはいられない。

目の前で悲しみに暮れる人がいたら、そっと寄り添って肩を抱かずにはいられない。

そういう行動のことです。

それを、日ごろの行動で実践すること。

「変に思われるんじゃないか」

「結局頑張ったって、1円にもならないんじゃないか」

そんな邪念に惑わされないでください。

あなたから生まれた優しさと思いやりを、殺さないでください。

迷うことなく、その人に惜しみなく与えてください。

その行動が、あなたの心を豊かにし、あなたそのものを形づくる。

毎日をそうやって生きていくと、自然とあなたの周りには愛があふれるようになる。

あなたを形づくる行動基準に見合った人々に囲まれて生きていけるようになる。

信頼は、お金では買えません。

信頼関係は、損得では成り立ちません。

その関係性こそ、資本主義の原理原則の外側にある、最も重要な宝です。

それを私たちは、目に見えるわかりやすいお金や権威よりも価値が低いと思っている。ひどい勘違いです。

 

いくら選挙に行っても、政治は良くならないでしょう。

いくら真面目に働いても、私たちは貧しいままでしょう。

人間をやめた人々が構築するこの社会は、崩壊するまで地獄のままでしょう。

 

現代社会の枠の外に、繋がりを求めましょう。

マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻」の外側に、経済とは全く関係のない繋がりと仲間を持つことです。

そのかたちのひとつが「自助グループ」。

だから私は自助グループに属し、利益にならなくても運営に携わっているのかもしれません。

【発達障害】「あらゆる集団に馴染めない問題」について

私は本当に、集団で社会生活を営むのに向いてない。

コミュニティに属するのに向いてない。

なんていうか、人間そのものが向いてない気がする。

 

なんでか知らないけど、どこに行っても衝突する。

私としては、まっとうなことを言っているのに、煙たがられる。

 

たとえば、マスクなんて意味ないから外してるんだけど「つけてください」とか「お子さんにつけさせてください」とか言われて、「え、なんでつけないといけないんですか?」って言う。

「そういうルールなので」とか「感染対策なので」と返ってくるんだけど、実際今まで真面目につけてた日本で感染はまた拡大してる。ということはリアルワールドでも効果なかったし、研究結果で「感染対策として意味がなかった」って報告もある。

だから、絶対つけないといけないとは言えないし、そもそも任意だし、「つけてください」と言われても「嫌です」が本心。

本心を話すと困った顔をされる。

私よりコミュ力が高い妻は「そんなん、そのときだけ合わしといてすぐ外せばいいじゃん」という。

わからない。

なんで本当は嫌なのに、気を遣って意味がないと思っていることに付き合わないといけないのか。

私は、他人がマスクをつけることは止めない。

マスクですっぴんが隠せるというメリットがあるからつけている人もいるだろうし、そもそもマスクというアイテムが好きな人もいるだろうし。

感染対策になると本気で信仰している人もいると思う。それは、宗教の自由だから、別に信じているならそれはそれでいいんじゃないかと思う。

つまり、好きにしたらいいと思っている。

だから、私にも好きにさせてよ。(笑)

マスク着けるかつけないかなんて、私が決めることでしょ。なんで明らかな正しさも納得もないのに他人の命令きかないといけないの。

おかしいよね?俺がおかしいのか?

 

会社でも浮いている。

患者さんのためになることをするのが、製薬会社のレゾンデートル(存在理由)であり、真の仕事だと思う。金儲けじゃない。

だって、薬の売り上げの7~9割は税金なんだよ?ほぼ公務員じゃん。成り立ちとしては民間企業だし、株式会社だから営利団体かもしれないけど、税金で成り立ってるビジネスなの忘れてない?

しかも生命関連産業が金儲けだけに走っちゃ倫理的にダメでしょ。

地域医療に役立つ仕事をして、その結果会社のスタンスを評価してもらって信頼されて、だから話す内容を真剣に聞いてもらえる。

結局今まで逆だったから、MRはゴミみたいに扱われてるんじゃないの?

ただ売りたいだけ、下心で近づいてきて、都合のいいことしか言わないから、信頼を失って今があるんじゃないの?

コロナのせいじゃないよ、もともと会いたくなかったんだよ。そんな損得野郎と話すの嫌だもん、俺が先生だったら。忙しいのに近寄ってくんなよハイエナども、って思うよそりゃ。

もともとはたくさんお金を支払えたから、まだウザくても利用価値があったかもしれないけど、今はせいぜい弁当くらいでしょ。もう用なしだよね。(笑)

会えないから会うために、講演会の役割とかこしらえてさ、アポイントアポイントって、それさらにウザがられるだけじゃない?

だって先生たちは毎日命を守るために忙しく働いてるのに、スライドつくったりするのに何時間も取られて、そんなのやりたくないよ。よっぽど目立ちたがりの先生じゃない限りは。

謝礼支払えるったって数万ぽっちでしょ?そんなはした金のためにスライドつくろうと思うほど、先生たちの財布はさびしくないよ。大したメリットじゃない。

なんかそんなことを依頼してこいと上司に言われるわけさ。

そりゃバトルになるよね。

「その行動が本当に医師の信頼につながるのか」

答えはNoで、医師の処方に繋がればそれでいいと思って行動を考えている。

処方に繋がるわけないじゃん、ウザがられることしてるのに。

結局私が今担当しているところでは、面会アポイントを定期的にいただくことができない。それは、前任者が今の上司の口車に乗ってウザい依頼をかけまくったから。

建前上は医師会や薬剤師会からの依頼だと断りづらいから、しぶしぶ会ってくれたけど、そのあとは「めんどくさいことお願いされるかもしれないから逃げとこ」ってなったんだと思うよ。

全く、余計なことしてくれたもんだ。おかげで俺が会ってもいないのに嫌われて会ってもらえない。

とまあ、こんなことを言うのはさすがの俺も気を遣うので、とても言葉を選んでやんわりと伝えるんだけど、根本的にお金しか見ていないからか、全くわかり合えない。

厄介なことに、自分たちが正しい、と思っている。

お金儲けそのものは、ゲームとしてこの社会で成立しているので、ハマるぶんには個人の自由だと思う。お金が欲しい、地位が欲しい、名声が欲しい、いいんじゃない?それで人生が輝くなら、突き進んだらいいと思う。

それを、私に押し付けないでほしいんだよね。

勝手にゲームにハマるのは良いけど、なんでこっちにもプレイさせようと強要するのか、意味が分からない。

私は本来の仕事だと思っている、副作用情報の収集とか本当に喜んでもらえる講演会イベントの企画とか、そっちのほうが楽しいし結果的に会社にとっても最も利益があると思ってやってるわけよ。

ほっといてくれよ。

金儲けには俺は興味ないんだ。出世とかもう心底どうでもいいんだ。

どうか勝手にやっててくれんかな。

なんか、そんな感じで職場でも浮いている。

 

不動産でも毎回もめる。

退去時にバトルにならなかったことがない。

私が問題あるのかな、と思った時期もあったけど、あきらかにボッタくろうとしてくるのが問題の根源だと思う。

こっちだって、国交省のガイドラインに沿って適切に請求されたものなら、喜んでできるだけ早く支払うさ。

やたら単価が高かったり、汚損破損以外のところを全部ついでに修理しようとしたり、減価償却の原則無視したり、そもそも契約書にあきらかに賃借人に不利な特約書いたりするから、トラブるわけよ。もともと自分たちが蒔いた種だよね、って話。

そんな細かいことわからなくてホイホイ支払う人には支払ってもらえばいいと思うよ。本人がそれで納得してるんだし。

でも、俺はちゃんとした請求内容じゃないと納得できないから支払えないのよ。

それって間違ってる?何も問題ない、むしろ起こっている状況に対して真面目で誠実な態度じゃない?おかしいなぁ( ^ω^)・・・。

確かに見積で「諸経費」を意味もなく載せたり、足元みて高めに単価設定したり、それは営業ならよくあることだって知ってる。

でも、それってバレたらもう通じないわけよ。ちゃんと見積を読む担当者の前ではすぐ化けの皮剥がれる。

不動産業界、特に管理会社会界隈では、普段は家賃の5%前後しかもらえないから、退去時にぼったくらないと利益が出せないって必死なんだってね。

そんなん、知らんし。そっちの都合じゃん。

しかも、大した管理もやってないじゃん。5%妥当な仕事っぷりじゃん。(今まで住んだ物件の管理会社に限る。多分いい管理会社さんも、めぐりあってないだけでたくさんあるはず。)

健全な企業努力で成果出しなよ。弱者からむしり取ろうとしないでさ。そんなお金で食べるご飯は美味しいのか。その神経、私には信じられない。

だけど、周りを見てみると、そんなにもめている様子もない。

不思議すぎる。みんな請求内容を見て疑問に思わないのだろうか。

 

研修会とか、同じ資格の集まりに参加しても、どこか馴染めない。

質問したら質問が多すぎるとウザがられる。

なんで?質問が生まれるようなプレゼンだから質問されるんじゃん。内容をブラッシュアップすればいいし、それができるチャンスじゃん。なんでうざがるのか。

時間がないって思うなら、あんまり意味のないディスカッションパートもっと圧縮すればいいじゃん。何となくやってる感、理解してもらえた感のために、ロールプレイとかするから時間無くなるんでしょうよ。

その運営の下手さはそっちのマターでしょ、こっちにイライラで八つ当たりされても困るんよ。

参加させてもらって有難いと思ってるし、真剣に受けてるから質問が生まれるわけで、ただ置かれた人形みたいにしてたほうがよかった?そんな感じで聞いてるときは、俺の頭には何一つ入ってないけど。それが目指してたゴールなら、すいませんでしたって感じだけど。(笑)

結局本心は、やれたことそのものに満足しちゃってて、自分たちのイベントを否定されたくなくて、守りに入ってるだけでしょうよ。

そりゃ、一から新しく組織立ち上げたりは大変だっただろうさ、それはすごいと思う。

でも、イベントの質の高低と経歴は別の問題じゃない?

 

 

とにかくそんな感じで、他人とはそりが合わない。

それが他の人と比べて頻度が多い気がする。

なんとなく、適当に、やってればいいのかな。

でもそれは全く私らしくない。

 

なんていうか、厳しいんだろうな。

自分に対してそうだから。それが当たり前と思うんだろう。

それは、自分の当たり前を他人に押し付けてるわけだから、よくないよな。

 

たぶん想像するに、友達ができる人は、

「まあ、そういうこともあるよな」

「彼らなりの事情があるんだろうな」

とこだわらないで流せる心が広い人なんだと思う。

そういう解釈では、私はとても心が狭い人なのだろう。

あとは、基本的に尊敬しているんだと思う。他人を。

歩んできた人生とか、作り上げてきた成果とか、とにかく背景にある歴史にリスペクトを持つこと。それを前提にして会話をしている気がする。妻を見てるとそう思う。

だから、今ココでパフォーマンスがどうか、というより、ぶっちゃけ提供されたサービスがショボくても、その背景エフェクトで不平・不満が相殺されてる感じがする。

私は今までどれだけスゴイかとかはあんまり興味が無くて、今しか見てない。

「自分がその人を目の前にしてどう思ったか」が基準なので、偉い人だろうがなんだろうが、あまり背景を勘案しない。言っていることが違うなと思ったら「違う」という。

だから「なまいきだ」とか「失礼だ」とか言われる。

 

ああ、それで思い出した!

部活!部活でも蛇蝎のごとく嫌われてた。

先輩とか後輩とか意味が分からなかった。

だって、1歳か2歳歳くってるだけで、大して変わりないガキ同士なのに、偉そうにされる意味が分からんかった。そうじゃないの、みんな?

「そんなに偉いんなら、タイマンで勝ってみろよ」って、先輩たちランキング戦でボコボコにしたら、ロッカーに落書きされたりした。(笑)

俺に負けた先輩が悔しすぎて陰で泣いてたのを何回も見た。

だって、スポーツの上下って実力じゃないの?

負かされたら、もちろん尊敬するよ。年下でも年上でも。俺はそう。

 

ああ、でも教師ともそりが合わなかったな。

クソつまんない話しかできないうえに社会に出たことのない、学生の延長にいるおじさんおばさんだと思ってたから。それはちょっと認知歪みすぎだったなと思う。親が教師だったから、余計に偏見が入ったんよな。

でも、偉そうにするのはどうかな、と今でも思う。

同じ人間で、軍隊でもないのに、なんで命令すれば生徒が従うと思っているのか、意味が分からない。命令が正当じゃなければ従わないっしょ。

たとえば「シャツをちゃんと入れなさい」とか。それに納得いかない俺のせいで授業が1限分潰れたことがあった。

夏にシャツを入れたら、入れないときに比べて通気性悪くなるじゃん。先生たちはクーラーがんがんにきいた職員室にいるからわからんかもしれんが、クーラーのない教室で個々人が工夫して可能な限り快適な服装をすることの何が悪い。みたいなことを言った気がする。

だって勉強しにきてるんだよ?勉強に集中できたほうがいいじゃん。快適じゃないと頭に入らないよ。ただでさえ眠りの呪文みたいなわかりにくい授業なのに。

規律が、とか、校則が、とか言ってた気がするけど、なぜそもそもその規則ができたのか背景を説明できない時点で、やっぱり根拠に乏しい聞く価値がない命令なんよ。

みたいなこと言ったらぶちギレられて職員室に呼ばれた。とても涼しかったので快適だった。

 

なんかもう、無理っぽいなぁ。

私は私らしく生きていると、集団を破壊するのかな、とだんだん思ってきた。

それ自体は負い目を感じる必要もなくて、私は結局私らしくいないとまたアルコール飲んだり共依存したりするだけだから、もうどうしようもない。

受け容れてもらえないなら、それはそれ。

私そのものが悪いワケじゃない。ただ合わなかっただけ。

受け容れてもらえる場所を見つけるか、受け容れてくれる自然と生きるか。

それしかないんだろうな、と思う。

 

いろいろね、コミュニケーションがどうとか、気に入られる技術とか、さんざん漁ったよ。

でもそれは結局問題の本質では無くて、どんな特性であっても堂々と生きることが最も健康的で最も自然で、本当の友達に出会える近道なんだよな。

本当の友達は、人ではないのかもしれないし。

人間の友達でなくてもいいのかもしれない。