月別アーカイブ: 2022年7月

【雑談】ストレスだらけの現代社会に希望はあるか

いやー、口内炎が治りません。

 

明らかに仕事(というか上司)のストレスだよなって感じです。

全く思想が合わない。

儲かればいいだけなら、オレオレ詐欺と変わらないんだよなー。

まあワクチンを取り扱っている時点ですでに詐欺会社って感じですが。

言ってしまえばインテリヤクザみたいなもんです。

私はまっとうな堅気の商売がしたいので、活動方針が真っ向から対立することがほとんど。

向こうも「やりづれぇなぁ」と思ってると思いますけど、こちらもそうなんですわ。

申し訳ないけど、異動するまでの我慢だと思ってお互い乗り切りましょうか、って感じです。

 

あー、あとは退去に伴う精算費用の訂正かな。

管理会社がぼったくってきているので、その対応が4月から今まで続いております。

よく敷金と相殺して・・・とか言いますが、基本的にはふつうに住んでいれば払わなくていいんですよ。

普段何もしないのに、退去のときには張り切って騙せる奴から騙し取るんですよね、管理会社って。

そのあたりも、正式に減額できたらノウハウを全部公開しようと思ってます。

 

私、お金って嫌いなんですよね。

ていうか、どうでもいいんですよね。

なんでみんなお金好きなんだろ。なんかと交換できるから?そんなにほしいものあるのかな。欲がすごいです。逆に羨ましいくらい。そんなに欲しいものないわ。

上司の件も管理会社の件もそうですが、思考がもう100%金のために生きているって感じで、なんかそれ虚しくない?って思います。

そりゃこの資本主義社会で生きていくには、ある程度必要なのはわかります。

でも必要最小限でいいと思うんだよなー。

損得関係なしの交流をする時間・家族との時間・純粋に知りたいことを知るための時間・自分と向き合い表現する時間、そんな時間にこそ、限りある人生を費やしたほうが、私は有意義だと思うんです。

お金にならないことのほうが、実は最も重要なこと。

 

マスメディアで報道していることは、99%プロパガンダなので、あまり真面目に見聞きしなくていいですよ。

テレビは必要ないです。捨てて大丈夫。新聞もネットニュースも、見なくて大丈夫。

誰かに何かの得があるから、記事になるしニュースになるんです。

今回のワクチンの件で、とてもよくわかりました。

だから、有名人の誰それが亡くなったとか、そんなんいちいち見に行く必要ないですよ。

人間には生存戦略のうちの危機管理能力として、不安になるコンテンツほど見に行ってしまう習性があります。

だから、凄惨な事件をテレビで流すのは、見てほしいから。視聴率を稼ぎたいからです。

それに対してコメンテーターが「こんなの許せない!」みたいな感情的なコメントするじゃないですか、報道番組って。

あれは共感させて見てもらおうっていう戦略ですね。

「恐怖」と「共感」。それがメディアの釣りメソッドだと田中玲司先生も言ってます。

ホントまさにそうだと思う。

 

ぶっちゃけ、直接会ったことも話したこともないような人が死んだって、そんなに関係ないから。

そんなこと言うと「想像力がないのか」とか「冷たい」とか、感情論で正論ぶつけてくる人が必ずいるんだけど、それは言っている本人が気持ちよくなれるから言ってるだけ。

「他人の不幸に共感できる自分は人間として素晴らしい」って思えるし、正論で他人をぶん殴るのは快感ですからね。

本当は、そんな正論をのたまう人も、ショックなんて受けていなくて、1年も経ったらスッキリ忘れてます。だいたいそうです。

だから関わる必要ありません。「自分の人生空っぽだから埋めたくて必死なんだな」って思って静かに距離を取りましょう。今話しても話が通じないので。

 

お金とエゴイスティックな欲求が絡む事象は、結局はドライな結論になっていくんです。

「自分の利益」。外側の皮を一枚一枚剥いていけば、中身はそれしか入ってないから。

だから、つまらないんだよな。

 

人間は、そんなに合理的にはできていません。

非合理な存在なのに、利益を追求して合理的な社会システムにしちゃったから、なじめなくて病んでいく。どんどん自分の人生を見失っていく。そんな感じで、自殺者が後を絶たないような現代社会ができあがっています。

なんか、依存症になる人って面白くて内面が豊かな人が多いなーって思ってたんですけど、感性が死んでないからなんですよね。

感性を殺して個性を殺して社会に適応すれば、この歪んだ社会では生きていけるんだろうけど、そんなふうに器用に誤魔化せるほど鈍くないから、酒やギャンブルでごまかすしかなかった人たちなんですわ。

以前三光病院にいらっしゃった市川正浩先生のご講演を拝聴したとき、

「依存症になった皆さんこそ、未来の希望だと私は思っている」

と語っておられた理由が、何となくわかった気がします。

私たちが依存症になるほど死と隣り合わせになってまで何かを突き詰めなければいけなかったのは、生きづらさを誤魔化しきれないほど眩い感性と個性をもつからこそ。

ダメなんじゃないんです、優れているからなるんです。依存症って。

国が「ダメ、絶対」でレッテル貼りしたかったのは、コントロールできないほどの優れた感性や個性を恐れていたから、叩きたかったんじゃないかな、と思いますね。

ダメな存在ということにして片隅に追いやって、有象無象に叩かせておきたかった。だから偏見と差別をわざわざ意図的に生んだ。

私はそんな風に思います。

 

依存症になると、最終的には「自殺するか、生きるか」の二択を真剣に選ぶことになるので、ほんと人生についてちゃんと考えるんですよね。

いい加減にできない不器用さもあり、とことん考え尽くすし、そうやって紆余曲折を経て回復すると、依存症になる前の世界の見え方とはまるで変わってる。

生まれ変わるといってもいいほどに。

本質に気づいて向き合える。

そういう意味で本当に希望なんだよなー、と思います。

 

いずれもう、この社会はダメになります。終わります。

結構もう限界きてると思う。資本主義社会は、共産主義が倒れたように、遅かれ早かれ倒れるでしょう。人を本当の意味で輝かせるシステムではなかった、残念ながら。

だから、今このシステムに合わないからって、気にすることないです。いずれ終わるんで。

社会不適合者で結構。むしろそのほうがいい。

不登校で結構。むしろそのほうがいい。

自分の思うままに生きてください。

既存の価値観はクソです。気にしないように。

 

今は生きづらい世の中ですが、なんとか耐えて、生き延びましょう。

農産物も毒まみれ、ワクチンも毒まみれ、空からは化学物質まみれ。

これからどんどん死にます。合理的思考のもと殺しにきているので、それはもうある程度死ぬところまで進まない限り、気づかないし止められないでしょう。

古代ギリシャの哲学者たちが200年以上も前に答えを示してくれていたのに、私たちはどんどん愚かになっていったんですよね。

進歩なんてとんでもない。退化以外の何物でもないです。

 

そんな感じなので、外野のいうことはあまり気にしないで、のびのび楽しく生きていきましょうね。

【雑談】結婚はしてもしなくてもいい(男女それぞれの勘違い)

未婚率を年齢(5歳階級)別にみると、2015(平成27)年は、例えば、30~34歳では、男性はおよそ2人に1人(47.1%)、女性はおよそ3人に1人(34.6%)が未婚であり、35~39歳では、男性はおよそ3人に1人(35.0%)、女性はおよそ4人に1人(23.9%)が未婚となっている。長期的にみると未婚率は上昇傾向が続いているが、男性の30~34歳、35~39歳、女性の30~34歳においては、前回調査(2010(平成22)年国勢調査)からおおむね横ばいとなっている。

引用:内閣府HP 内閣府ホーム >  内閣府の政策 >  子ども・子育て本部 > 少子化対策 > 少子化社会対策白書 > 平成30年版 少子化社会対策白書(全体版<HTML形式>) > 第1部 少子化対策の現状(第1章 3)

 

結婚とは、国の洗脳でありビジネスのためのもの

結婚は幸せと直結しない。

なぜなら、国のための制度だから。

1898年に明治民法で家制度が制定された。

なぜか?天皇制の国家制度を定着させるためだ。

家長である世帯主と家族の関係を、天皇と国民の関係性になぞらえて、「天皇は国の家長」という価値観を定着させるため。

戦後の民法改正で家制度は廃止されたが、刷り込まれた価値観はそのまま国民のなかに残存する。

そのため、今なお「結婚して家庭を持つもの」という価値観をぬぐえないのだ。

 

結婚産業の力も大きい。

結婚式は大きなカネが動くので、ビジネスとして旨味がある。婚活イベントや結婚専門雑誌や結婚式場や写真家や飲食業界など様々な利害関係者が存在している。

だから「結婚するのが当然」と社会が認識しているほうが、彼らにとっても都合がいい。

あの手この手で婚期を焦らせる。「結婚適齢期」とか「婚活偏差値(結婚偏差値)」とか、数字で横並びにして劣等感を煽る。「みんなしているのに、自分だけしていないのは変に思われるでは」とこの国が大好きな同調圧力で不安を煽る。

 

こうして、なんとなく「みんながするものだから」と他人の価値観をもとに結婚を選択する。

国がかつて意図した仕組みのための洗脳と、結婚によって儲かるビジネスを終わらせたくない人々に選択させられている。

自分が「したいからする」ことは、少ないのではないだろうか。

 

 

女も男も、どっちも幻想を「待っている」

承認欲求を満たしてくれる白馬の王子様を待っている女

「誰かが見つけて迎えに来てくれる」

そう思って運命の人が自分にアプローチしてくれる日を待っている。

女性は、ルッキズムの呪いで、男性からも同性からも容姿で順位を付けられる苛酷な世界を生きている。

そんな厳しい競争社会のなかで、自分磨きによりをかけ、女としての価値を高める努力を強いられながら、「一生幸せにする」という確約をくれる契約相手が現れるのを待つ地獄。

いつか自分の輝きを見出してくれる異性が現れる、その特別な誰かと一緒になれば幸せになれるという、幻想を信じている。

実は、「幸せ」より「安心」が欲しい。

真の敵は女の目であり、自分の女としてのランキングが平均より下にならないか、知り合いの誰かより下にならないか、それを心底恐れている。

腕によりをかけて女としての自分を高めたと認識すればするほど、その努力と築いてきたプライドに報いるような収入・ルックス・甲斐性がある異性でなくては納得できなくなる。

しかしそんな異性は、この貧困にあえぐ日本において数%であり、すでに契約済みの物件ばかり。

白馬の王子様候補は他に取られてしまったと気づいて、何とか我慢できる程度の相手に妥協する。

しかし、欲しい「安心」は理想より格下の「王子もどき」では得られないので、徐々にストレスを抱えていく。

「妥協して私にふさわしくないにも関わらず結婚相手に選んでやった」という忸怩たる思いがあるので、一挙手一投足が癪に障る。

家事育児ができない、仕事ができない、配慮ができない。できないことばかりが目に付く。

 

 

自分より弱い自分だけのマリア様を待っている男

「女はどうせ相手にしてくれない」

スクールカーストのトラウマを抱えた男の子。それが多くの男性の姿。

バスケ部のキャプテンやテニス部のエースなど、スクールカーストトップの男しか男として認識されない。思春期の多感な時期に、否定され続けた心の傷を抱えて、「女は怖くてめんどくさい生き物だ」と半ばあきらめムードで引いていっている。

それでも、誰かを守って死にたいとどこかで思っている、哀れな生き物。

異性に褒められたい、認められたい。否定され続けた恐れで自分からはもうアプローチする気力はない。だが、自分より弱い、儚げな誰かを求めている。

だから、女性が強いとなると、男はもう出る幕がない。

マウントを食らって正論で論破されようモノなら、もう黙るしかなくなる。

実家のお父さんがしゃべらない静かな存在になっていくのはそのため。

女性と喧嘩するということは、男性にとっては裁判で尋問されるようなものだ。

自動的に女性は判事であり、男性は被告である。過去に遡って過失をひとつひとつ列挙され、人格否定とジャッジが始まる。

判事に1つ口答えすれば、100倍になって返ってくることを知っている。

否定され続けた思春期を経て、もう男性の心はボロボロなので、裁判を戦える心の体力はすでに皆無。

馬鹿で弱いので「とりあえず同意して聞き流しておけば収まる、言い返しても長くなるだけだ」と諦めている。だから、男性を説教して成長させようなどとは、女性は期待しないほうがいい。男は正論で論破しても決して成長しない。殻にこもるだけだ。

このように、弁舌やコミュニケーション能力もさることながら、女性のほうが基本的に生物として男性よりも強い。痛みにも強い。精神力も強い。男性が敵うわけがない。

男性が夢見ている女性像が、そもそも現実の女とはかけ離れているのが問題。

自分を褒めてくれて、優しく包んでくれる優しさを持つマリア様を望んでいる。幻想を待ち望んでいるのは男性も同じ。

そう錯覚して幻想と結婚すると、すぐに現実を突きつけられてまごつく。

生理により毎月ホルモンバランスと激しい闘いを繰り広げる妻。楽屋は戦場である。仕事で疲れて帰ってきても、家庭も戦場。終わりなき戦場めぐりを体験し、こんなはずではなかった、と後悔する。

一緒になった妻は、もうあの頃の可憐でか弱い彼女ではない。

「結婚して・子供ができて妻は変わってしまった」と嘆く男性が多いが、それは男性側が勝手に勘違いしていただけだ。変わってなどいない。元からそうだったのだ。

目の前の女性ではなく、妄想のなかの自分だけのマリア様と結婚した気になった。

だから、女性としても、夫から自分以外の誰かのような期待を持たれて当惑するし、寂しさを感じるようになる。自分を自分として愛してくれていたのではないと思うようになる。

夫は「か弱い守るべき存在」と思い込んで接してくるので、妻である自分を下に見ているように感じる。

 

お互いに「あれ?なんか違う」ということに、結婚してから気づく。

 

どちらも孤独で不安で、病んでいる

女性も、男性も、病んでいる。

どちらも「助けて」と叫んでいる。

溺れながら相手を求め、相手も溺れているので、一緒に足を引っ張りあいながら水底に沈んでいく。そして、さらに深い場所で息もできない孤独と不安にもがき苦しむ。

これが、結婚後うまくいかない夫婦の姿だと思う。

 

自分に欠けた何かを、相手に求める。

それは自然なことだし、自分に無いものを持っているから惹かれる。似た遺伝子をかけ合わせないで子孫を残すために、遺伝子配列が異なる個体を本能的に求めている。

ここで問題なのは「相手の『自分と違う部分』を含めて『人』として尊敬しているか」ということ。

自分に無い部分の補填要員として夫・あるいは妻をリクルートすると、『自分と違う部分』が鼻につく。それは結婚により自由を失う代わりに求めているサービスとは関係がない、不純物だから。

お互いにある種のビジネスで一緒になってしまうと、相手を人として見ていない。所有物として、購入済みの商品として見ている。

それが問題の根本。

自分の生きづらさを他人で埋めようとしない。埋める手段にしない。

自分の生きづらさは自分の課題として引き受けたうえで、相手を人として尊敬するから一緒に生きていきたいと思う。

そういう前提で結婚して一緒に生活するなら、独りでいるよりも人生は実り多いものになると思う。

夫婦間の愚痴、諍い、内に秘めた恨みを感じるたびに、結婚するにあたって前提を間違えて選択している男女がとても多いのではないか、と想像する。

 

結婚はしてもしなくてもいい

結婚は、してもしなくてもいい、そんなに気にする必要のないものだと思う。

他人の目を気にしてするものでは、決してない。

男女とも、同性間でランキングをつけられることに恐怖している。

その恐れから逃れるための「逃げ道」として結婚を手段として使うと、自分の幸せから余計に遠ざかる。

誰かの一番でなくても、私もあなたもそれぞれの世界のなかで一番であることに変わりはない。主人公は自分自身。

私は永らく、同性の親友がいないことにコンプレックスを抱えていた。

他人との関係を深められない、つまらない人間だから、親友ができないのだと思っていた。

それは、相手に特別視されることで、自分が価値ある人間だと思いたかったからだった。

自分自身が自分に価値があると信じられないから、他人の物差しを頼る。それは、他人の目を気にして結婚を急ぐ人と全く同じ思考回路だった。

自分が「こいつは俺にとっての親友だ」と思っていれば、もう親友でよかった。

相手がどれだけ自分を慕っているかは、あまり関係なかった。そのことに気づいた。

つまり、自分が「いない」と思っていただけで、実はそこかしこに居たのだった。

あえて形にしなくても、または相手が証言してくれなくても、自分が信じるならそれは真実であり、他人には否定できない。

だから、親友がいるかいないか、と同じように、伴侶がいるかいないか、はそんなに大きな問題ではない。真の幸せに必要な条件ではない。

そう考えると、結婚しても離婚しても、それは自然なことでもあり、必要かどうかは人それぞれであり、結婚していなくてもしていても、自分の価値には大して影響を与えないという価値観は、素直に受け入れられるようになるだろう。

素直に自由に選択することが、結果的に後悔しない選択をすることに繋がると思う。

【メンタル】生きるのが楽になる!コミュニケーションの2つの大原則(山田玲司)

この内容がすごく大事だったので、文章にまとめてみる。

 

コミュニケーションからは逃げられない

私はASDの特性からか、他人と話すのを苦痛に感じることが多い。

というか、他人に関わるのが結構しんどい。

そういうタイプなので、できればコミュニケーションを避けて生きていきたかった。

それこそ幼稚園の頃などは、とにかく幼稚園が好きではなかった。

なんでこんなよくわからない他人と一緒の空間にいないといけないんだろう…そう思って行きたくないと親に言い、着せられた服を脱いだりしたが、無駄な抵抗だった。

無慈悲にもバスは毎朝きて、暗澹たる気持ちでゆられていた白黒の世界を思い出す。

帰るときは嬉しかった。

何故かヤクルトを飲んでから帰るという風習がある幼稚園で、ヤクルトが配られるときは希望に満ち溢れていた。

やっと帰れる!このくそみたいな空間から、自分の居場所である自宅に帰れる!

そう思って幼稚園にいる時間のなかで、唯一ウキウキした。

小学校も嫌だった。

次第に、この変な集まりには絶対に参加しなくてはならない社会のルールなのだと理解した。

深く絶望した。

他人は必ず存在して、うまく付き合っていかなくてはいけない。

そういうことなのだと悟った。諦めた。

 

そこから私の戦いははじまった。

とにかく他人を模倣して、馴染むように徹底的に努力した。

偽りの関係しか結べない、偽りの人間関係だったが、徐々にコツがつかめてきて、周りから迫害されることはなくなった。

しかし、相変わらず空虚で、接すれば接するほど病んでいった。

もっとうまくやらないといけない。

そうしないと社会で生きていけない。

その危機感はあった。

 

だから、向いていない営業を仕事に選んだのだろう。

ほぼ無意識に、この欠点を補修工事しないことには、人間らしく生きていくことが不可能だと思っていたようだ。

そして地獄のような社会人生活がはじまった。

「空気を読め」「ちょっと想像すればわかるだろ」「相手の立場に立て」

意味不明だった。

今までは勉強とスポーツができていれば、ある程度の処世術になったが、社会人はそうはいかなかった。

より高度なコミュニケーションを要する社会人生活で、私は完全に挫折した。

アルコールで何とか不安をかき消し、頑張り続けた結果、うつになりアルコール依存症になり、ボロボロになった。

 

そんな私は今、ある程度人との関わりを前向きにとらえることができるようになった。

それは、私の病巣の根本に欠けていた「自己受容」を成し得たからだと思う。

ASD・ADHDである自分。アダルトチルドレンである自分。

生きづらさを生む根本的な他人との違いを、問題として認識し、受け容れ、それでも自分には価値があると思えたこと。

それにより「他人に合わせなくてはならない」「うまくやらないといけない」という呪いを祓った。

自分を認めることは、他人を認めることに繋がった。

違ってもいい、間違ってもいい、だから自分も他人も許せる。

そういう到達点にあって、山田玲司先生のおっしゃることは真理だと思った。

 

コミュニケーションの大原則①

「人は変えられない」

相手のためを思ってって言いながら

相手を自分の意のままにコントロールしようとするというのは

近代の病です。

そして人間の傲慢なんですよ。

とんでもない傲慢で 己を知らない

無知の知ってやつですよ。

自分が無知であることが分かってないから

自分が言ってることが正しいと信じて

相手をその考えのもとで変えようとしている。

 

私の親は、私を変えようとしたがった。

私が一人で居ようとすると、無理にでも友達と遊ばせようと外に追い出した。

私が他の子と違うと、悲しげな表情で「なんで他の子と同じようにできないの?」と聞いた。

違うんだからしかたないじゃないか。

そう思っても、そう言っても、違和感があってはダメだと言われた。

これはとてつもなく強い呪いとして、私の幼い心に冷たい楔を打ち込んだ。

「ちあきのためを思って、言っているのよ」

と何度言われたことか。

私のためを思うなら、私のありのままを受け容れてくれさえすればよかった。

最も私を肯定してくれるはずの両親が、私が私のままでいたらダメだと言われたら、立つ瀬がない。もうどこにも居場所がない。

親は、親自身の考えが正しいと信じ込んでいるとき、子どもを否定する。

自分たちのほうが正しいと思い込んで、それを刷り込もうとする。

何と傲慢なことだろう。

子どもだって一人の尊厳ある人間であり、その瞬間に感じることは、その子にとってのゆるぎない真実だ。それを否定してはいけない。そんな権利は、親にも、世界中の誰にもありはしない。

結局、私は私のままだった。全力で偽装と模倣はしたが、本質は変わらない。

人は他人が変えるものではなく、自ら変わろうとするときに変わるものだ。他人が変えようとすることは、そもそも不可能なのだ。

なのに、親は自分の子どもを「教育できる」「育てられる」と思っている。

自分の分身のように勘違いしているので、そういう発想になるのだと思う。

そうやって子供を自分の持ち物のように扱っていると、私のように病んだ子供になる。

 

まずは、自分が正しい、という思い込みを捨てること。

正しいことなんて、この世にありはしない。正しいように見えるだけで、本人が信じる世界が、そのすべてだ。それを書き換えようとするのは、人権侵害であり越権行為だ。

そして、影響を及ぼせるのは自分だけで、自分すらままならない、という事実を受け容れること。

まして、他人をや、である。

自分で自分をコントロールできる、ということすら、傲慢な思い込みで、そんなことはできはしない。

人間というのは、ありとあらゆるこの世のすべてから影響を受けていて、その一部でしかない。

木の葉が木の幹に逆らうことができないように、木の葉の栄養なしに木の幹が太くなることができないように、全は一、一は全である。

 

 

コミュニケーションの大原則②

「デスノート禁止」

自分内憲法によって相手を裁くのが、デスノート理論です。

(自分のなかの)「許せない」が多い人ほど不幸な人生になる。

自分憲法をやめて、自分美学にしなよ。

 

小さい頃から思い知ってきた。自分と他人とは違う、ということを。

価値観も違う。背丈や見た目も違う。育ってきた環境も、目指している場所も違う。

譲れないことも、許せることも違う。

他人とは、別の宇宙で生きているようなものだ。

同じ空間、同じ世界で生きているようで、心が通うように錯覚することはあれど、それぞれの精神世界は完全にシンクロすることはない。

違って元々。そしてそれぞれが美しくて元々。

私は自分の世界を否定されて育ったので、自分の世界を憎み、他人の世界をもっと憎んでいた。

「そんなにお前らが正しいって言うんなら、どんなに素晴らしいもんか見せてみろや」

と思っていた。

否定する気満々なので、見るものすべてが不快で、欠点ばかりに思えた。

それを心のなかで否定するにとどまらず、対外的に攻撃性として内包し続けた。

それを他人に直接ぶつけられないので、反転して自分に殺意が向いた。アルコールを過剰摂取していたようなもの。自傷したり、過食や拒食に陥る人も、同じような感覚なのかな、と思う。

私は私のなかで、他人を決して許しはしなかった。

虐めた人間はフルネームで覚えていて、どこかで会ったらいつか復讐してやろうと思っていたし、何か気に入らないことを言った人間のことを繰り返し思い出していた。

心のなかのデスノートは、たくさんの名前でいっぱいだった。

恨みを抱えて、誰も許せない。「許せない」が飽和状態になり、心を埋め尽くす。

それはそれは生きるのが辛かった。なんてしんどいんだろうと思った。

こんなに嫌な世の中、早く寿命がきて終わりにならないかな、いっそのこと終わらせてしまおうか。

そんな風に思って生きていた。

外への攻撃性を自分に向けた結果、自暴自棄になる。

そのまま外に攻撃性を向けた場合は、わかりやすく逮捕される。

それだけの違いだと思う。

 

つまり、自分の世界を認めさえすれば、他人の世界も許容できる。お互い様だから。

自分の世界を他人に否定され続けて、自分自身も否定するようになると、苦しくなる。

他人は、親も含めて、否定して当たり前だった。違う宇宙だから。

それを私に押し付けたことは、彼らの罪だが、それは彼らもそうされて育ってきた呪いを継承したに過ぎないのだろう。

だから私は親を許すことができた。彼らもまた被害者だから。

ただ、同じ呪いを受け継ぐつもりはないので、私は私をありのまま受け容れる決心をした。

そして私の世界を、他人に押し付けることをしないと誓った。

とはいえ、なかなか難しいもので、他人が私の世界を否定して変えてやろうと干渉してきたとき、境界線を越えてきたことへの怒りでついつい反撃したくなる。

そういうときは「この人は今なお、受け継いだ呪いに苦しんでいるんだな」と思うことだ。

ガンディーは狂信的なヒンズー教原理主義者の凶弾に倒れ暗殺されるとき、薄れゆく意識のなか、自らの額に手を当てた。

これはイスラム教で「あなたを許す」というジェスチャーだった。

つまり、彼は自分の命を奪いにきた相手にすら「それでもあなたを許そう」と思える偉大な人だった。

私はまだまだそんな域には達することはできないが、これが一つの解答だと思う。

 

 

まとめ

①変えられない自分を含めて、人は変わらないということを、それでいいんだと受け容れる。

②心のなかのデスノートを抱えて生きるより、自分も他人も許して生きていくほうが、楽しいし幸せだと理解する。

このふたつで、人生は、今までよりはるかに生きやすくなると思う。

私は遙かに楽になった。生きやすいし、毎日が楽しい。

心の大部分を占めていた怒りや恨みを手放すと、心のなかにゆとりができる。

それではじめて、世界の美しさや自分の心の声が視えてくる。それなしには、自分の世界を愛することなどできはしない。「他人」という負の意識に埋め尽くされているうちは、己を理解しようと耳を澄ます余裕すらないのだから。

仕事においては、呪いを背負いまくっている自称エリートの病人たちが同僚なので、度重なる過干渉に辟易とすることはある。

というか、この世の中はそんな病人ばかりだ。社会そのものの病み方がもはや末期的。そりゃしかたない、この人たち一人一人のせいじゃないよな、と同情する。

しかしまあ、それも含めて変えることはできないし、私の仕事ではない。私は私をご機嫌にすることが唯一他人ができる事なので、「御気の毒様」と思ってあまり触らず流している。流せるようになったのは、成長の証だ。

彼らからしたら「なんでいうことを聞かないんだ」「私が正しい、あんなのはダメだ」と心底受け入れがたいかもしれないが、申し訳ないけど私のなかで違うものは違う。違っていいと思うし、他人が違う世界の理で生きていてもいいと思う。私に押し付けさえしなければ。まあ押し付けてしまう気持ちも分かるので、それも含めて、彼らが思うように生きたらいいと思うよ。

私の世界を受け容れられないのは彼らの心の問題であって、私は私で生きていくほかない。それでベストだから、もうどうしようもない。あきらめてほしい。(笑)

なんだか、そういう最近よく感じることに重なる動画だったので、とても感慨深かった。

 

参考:冒頭にご紹介したまとめ動画の元動画はこちら↓

 

【AC】他人の目が気になってやりたいことができない人へ

ACは特に「他人の目」を気にしやすい。

具体的には、問題でいうところの、以下の太字部分に、悩みを抱えている。

 

機能不全のある家庭で育ったことにより、わたしたちが共通して持っていると思われる特徴

  1. わたしたちは孤立し、人や権威を恐れるようになっていた。
  2. わたしたちは承認を追い求めるようになり、そうしているうちに自分が何であるか分からなくなっていた。
  3. わたしたちは人が怒っていたり、何であれ個人的な批判を耳にしたりすると怯えてしまう。
  4. わたしたちはアルコホーリクになったり、アルコホーリクと結婚したり(両方の場合もある)、あるいはワーカホリックなどの他の強迫的な問題を持つ人を見つけたりして、病んだ「見捨てられ欲求」をみたそうとする。
  5. わたしたちは人生を犠牲者の視点から生きていて、そういう弱さによって恋愛関係や友情関係で人にひきつけられる。
  6. わたしたちは行きすぎた責任感を持っていて、自分のことに気をつかうより他人の心配をする方が簡単にできる。そうすることで例えば、自分の欠点をよく見ないですむ。
  7. わたしたちは人のいいなりにならずに自分の意見を述べると罪悪感を感じる。
  8. わたしたちは刺激に嗜癖するようになっていた。
  9. わたしたちは愛を哀れみと取り違え、自分が “哀れみ” “救える” 人を “愛する” 傾向がある。
  10. わたしたちは悪夢のようだった子ども時代から感情を抑え込んできて、そうするとひどく傷つくので、自分の感情を感じることや表現することが出来なくなっていた(否認)。
  11. わたしたちは自分のことを厳しく裁き、自己評価が非常に低い。
  12. わたしたちはとても依存的になっていて、見捨てられることを怖れ、見捨てられる痛みの感情を経験しないですむように、人との関係が切れないようにするためになら、どんなことでもしようとするほどだ。その痛みの感情は、わたしたちにとって情緒的に不在だった病んだ人たちと、一緒に生きてきたことから受け取ったものだった。
  13. わたしたちは、自ら行動する人ではなく反応する人である。

これは特徴を述べたものであって、非難ではない。

引用:ACA(アダルトチルドレン・アノニマス)>問題

 

結論から言えば、これらの悩みを手放すには、ACの自助グループに参加し、12ステップ・プログラムに取り組む必要がある。

今回は、取り組んだ結果、どんなマインドで生きることができるようになるかについて話していきたい。

 

「自信がないこと」に自信を持つようになる

プライドや自信というのは、自分らしい挑戦の邪魔になる。

そういった余計なものを抱えていると、何かをやろうとするとき、あるいはやりたいとき、「うまくできるかどうか」を気にしてしまう。

うまくできなければ、他人と比べて下手だったら、バカにされるのではないか。

傷つくのではないか。

生まれた恐れが、踏み出そうとする足を止める。

 

たとえばこの世に、自分以外誰もいなければ、どうだろうか。

比較する対象がないので、優劣をつけられる心配はない。

上とか下とか、そんなランキングもない。

そんな状況なら、好きなようにのびのびと、やりたいようにやれるのではないだろうか。

評価されなければ、評価されるために何かをしなくて済む。

 

他人の目がある状況と、無い状況。

いずれも、自分がやりたいようにやったとして、うまくいくかどうかわからないのは、同じだ。

うまくいったか否かすら、見る角度によっては異なる。

つまり、周りがどうであれ、結果はやってみなくてはわからない。

そして、結果は、やってみて初めて得られる。

他人がいるか、いないか、は関係ない。

 

私も、やる前から、あれやこれやと思案して躊躇してしまうことがある。

結果が不安だからだ。

失敗して他人と比べられ、下に見られる痛みを経験したくない。誰もがそうだ。

自信がない。

 

しかし、今まで述べてきたように、自信なんてものは、実はどうでもいい。

そんなもんは必要ない。

 

私と他の人は、同じじゃない。

あらゆる面で、同じではない。

だからそもそも比較することができない。

生まれた環境も、与えられたポテンシャルも、個性も、全てが違う。

世の中でいう上下や優劣というのは、ひとつの角度から無理やり比べてひねり出したものであって、絶対ではない。

私がやったことの結果、というのは、私が行動することで初めて得られる果実であり、それは私以外誰も獲得できない、唯一無二のものだ。

「私」という人間が、行動を起こさなければ、私の現実に影響を及ぼすことはできない。

私の行動ひとつひとつが、私にしかできないこと。

 

それなら、自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。

そんなものを持っているから、やりたいときに、やりたいようにできない。

そもそも私は、そんなになんでもうまくできるわけじゃない。

やってみないと分からないことばかりだったし、すぐにうまくできることなんて、ほとんどなかった。

ポンコツで結構。下手で結構。むしろ下手こそ、なお素晴らしい。

下手だと分かることは喜びだ。

今の自分にできないことがわかるということは、未来の自分にはもっとできる事が増えるかもしれないということだ。自分のなかに可能性を見つけたという、喜び。

 

他人と比較するかどうかは、私が決められる。

他人がどう思うかは、他人の仕事であって、私が気にすることじゃない。他人が他人のために、私のイメージを他人の心のなかでポジショニングしているにすぎない。どうでもいいうえに、私にはどうしようもない。

であれば、そんな自分には関係のない「他人の評価」を気にして、やりたいことを我慢することは、馬鹿馬鹿しい。

実にもったいない。

まだ自分も見たことがない色の絵の具を試したいのに「他の人が変な色と言わないだろうか」とブツブツ言いながらパレットに出す前にためらっているようなものだ。

変か変じゃないかは、私がパレットに出して実際に画用紙に描いてみて、私が決めるのだ。

他人には変な色でも、私にとって綺麗ならそれは綺麗な色だ。

描いてみないと、どんな色かわからない。気に入らない色かどうかもわからない。

わからないことをずっと考えていても、ずっとわからないままだ。

 

新しい色を試すとき、失敗はたくさんある。初めてだからしょうがない。

試したことがたくさんあるから、私は失敗が珍しくないことを知っている。

失敗する自信がある。つまり、自信はない。

自信がないことに、自信を持っている。

 

 

「分かりやすい成功」にあまり価値はない

お金がある。

社会的地位がある。

賞をもらう。世間から認められる。

 

目に見える、他人が与えてくれるもの。

それらは、確かなもののようで、確かじゃない。

だからいくら集めても、いつまでも渇きが癒えない。

 

この地球は、今までもこれからも、ずっと続くだろうか。

残念ながら、地球にも寿命がある。

地球のプレート運動は、地熱をエネルギー源としている。

この地熱は有限であり、地球がある程度冷えてしまうとプレートの運動も止まる。

プレートの運動が止まると、太陽からのフレアで、いずれ地球の大気がはぎとられていき、海水は蒸発し、数10年程度で火星の様な不毛の地と化す。

いずれ地球上のすべての生命は消えてなくなる。

私にいずれ寿命が来るのと同じに、万物にはすべて終わりがある。

そのことを考えると、お金をどれだけため込もうと、どれだけ他人が賞賛しようと、それが永久に残るわけでは無い、ということがわかる。

だから、分かりやすい価値に、そこまで価値はない。

いずれ消えるからだ。

 

では、何が価値あるものなのか。

それは、今存在している「私」という役割を果たすこと。

今という時間を生きる一個の存在として、全力で自分らしく生きることが、自分であることを全うする、ということ。

豆粒のような小さな存在。誰もがそう。だから尊いしかけがえがない。

小さな存在こそが世界を覆い、だからこそ世界が成り立っている。

「今」という時間を構成するために、私もあなたも必要不可欠な存在だということ。

それが最も重要な価値あること。

つまり、存在し、自分らしく生きていることそのものが、真の価値だ。

分かりやすく、褒められる必要もない。認められる必要もない。たくさん稼ぐ必要もない。

それは「価値がある」と自分自身を肯定することができないから必要だと錯覚するだけで、まるっと自分そのものを肯定してしまうと、きれいさっぱり要らなくなる。

つまり、他人がつくった「確からしい証明」は、無くていい。

 

生き死にを越えて追い求めるべきもの

親が子どもに莫大な財産を残したとして、果たしてその子は幸せだろうか。

往々にして、2代目・3代目はその財産を食いつぶしたり、要らぬ贅沢をして、一生を終えていく。その歴史を鑑みるに、金銭的な遺産を引き継ぐことは、およそ幸せとは程遠いのではないかと感じる。

何か金銭的・物質的に価値があるとされるものを残さなければ、我が子は幸せに生きられないだろうか?

自分の子どもの可能性をそんなに軽んじてはいけない。

本人の幸せは、本人にしか決められない。

失敗する経験こそが糧となる。試行錯誤のなかで自らを考え行動し成長していく。生命はいずれの個体もその力を充分に持っている。

自分たちの子どもが、自分で自分の生きる道を探せないわけがない。

「きっとできる」

そう信じて任せることこそ、本当に愛するということではないだろうか。

 

自分で自分の命そのものを肯定できさえすれば、生きること自体を楽しむことができる。

逆にそれが親自身にぽっかり抜けているから、何かを残さないと安心できないし、何か結果にならないと子どもを褒められない。

自分を肯定できないから、子どもを信じられない。

子どもを信じられないから、過干渉して世話を焼き、「あなたの幸せのため」と言って「経験」と「失敗」という果実を横取りして、AC(アダルトチルドレン)という呪いを残す。

自分の人生を楽しめない親が、子どもの人生を楽しくないものにする。

他人へ与えられる唯一のギフトは、自分がご機嫌で、希望に満ちて人生を生きていること。

私たちはそんな姿を、子どもたちに見せられているだろうか。

 

「My life is my message.」

「私の人生が、私のメッセージ」というガンディーの言葉。

親が子供に残せるのは、人生の先輩として楽しんで命を生きている姿。生き様。

だから、お金を稼ぐため、家族のため、と自分に言い聞かせて、やりたくもないことをやらないほうがいい。それは逆に家族のためにならない。

他人に認められるために、人の目にビクビクしながら我慢したり遠慮したりしないほうがいい。

ため息をつきながら嫌々生きる必要はない。

自分の気持ちに素直にのびのびと生きればいい。

他人の目など気にする必要はない。

好きなことを言わせて、好きに評価させておけばいい。それはあなたの価値に1ミリも傷をつけたりしない。

自分のご機嫌をとろう。

それが最も大切にするべきことだ。

「自分のことばかりでいいのか」と他人のことを気にかけるヒマがあるなら、自分自身が人生を最高に楽しくご機嫌で過ごすことだ。

それだけが、他人に与えられる唯一の贈り物だ。

 

こう思えるようになると「他人の目を気にしてやりたいことができない」という悩みは、消えてなくなる。

【仕事】「底辺の仕事ランキング」問題からわかる現代社会の病

このニュースが話題になっていたので、ちょっと書いてみる。

就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

 

「就活の教科書」というサイトに掲載された『【底辺職とは?】底辺の仕事ランキング一覧』という記事が炎上したという話。

引用:「就活の教科書」HP

 

問題のランキング表はこちら。

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

 

なぜこのランキングが生まれ、なぜ人々が反応したのか。

そこから現代社会の病が見えてくる。

 

①資本主義・新自由主義が生む「損得マシーン」の世界

②自己肯定感を失った寄る辺ない心

③共感性・想像力を失う「言葉の自動機械」化

④正義という暴力 現実逃避のための憂さ晴らし

 

この4つに分けて、抱える病について話していきたい。

 

①資本主義・新自由主義が生む「損得マシーン」の世界

経済で社会を構成しよう、というのが資本主義。

できるだけ公的介入を少なくして、自由に競争させることで資本主義経済を最適化しよう、というのが新自由主義。

現代社会は資本主義社会であり、新自由主義社会である。

儲かるか、儲からないか。つまり、損か得か。

そういった合理的な判断をもとに、計算可能性・投資可能性で人がやることを決めるのが、今の社会のルールとなった。

そのルールのもと、人間は「損得マシーン」になっていく。

そうなると、就職活動も結局は「楽して稼げるか」という観点で就職先を選ぶのが、最も合理的という判断にならざるを得ない。

底辺職の特徴について、

(1)肉体労働である

(2)誰でもできる仕事である

(3)同じことの繰り返しであることが多い

—- と解説しており、

デメリットについては、

(1)平均年収が低い

(2)結婚の時に苦労する

(3)体力を消耗する

—- を挙げた。

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

だから、デメリットの箇所のような思考になる。

投資する労力に対して、金銭的なメリットが大きいかどうか、婚活において市場競争力があるか、という「効率」でしか仕事を評価していない。

つまり何もかも「コスパ」で考えてしまうそもそものこの社会における価値判断が、大きく歪んでいるのである。

画一的な価値観を刷り込まれている。その歪んだ思考回路に気づいていないのが、病。

 

②自己肯定感を失った寄る辺ない心

なんで「ランキング」をつくるのか。

なぜそれを人々は嬉々として、あるいは戦々恐々として見に行ってしまうのか。

それは、順位をつけて上か下かを見て、安心したいからだ。

裏を返せば「相対的に他人と比べて上か下か」しか自分を肯定する材料がない、ということだ。

しかも、収入というごく一部の側面での、優劣でしか、自分を測れなくなっているということだ。

元々狩猟採集民族であった人類は、「目標」というものに弱い。

命を繋ぐために100万年以上「目標」を達成してきた私たちの遺伝子には、「目標」を達成しようとする精神神経回路が強烈に組まれている。

なので、競争の勝ち負けに人間の脳は引かれやすくできている。

ゲーム開発者はハマりやすいこの回路に働きかけて、よりゲームにハマってたくさん時間を使ってもらえるように、ゲーム内のランキングという「目標」をあえてつくっている。

本来、自分に合った仕事を誠実に行っていれば、それだけで有意義だと感じられるはずだ。仕事を通じて感謝され、自己実現が叶うのなら、それはその人にとって最良の仕事だといえる。

しかし、そういった自分の内面から湧き上がるような意思を持っていないと、与えられた「目標」に引っ張られる。それが、「お金=収入」という社会が与えた「目標」だ。

他人が考える他人が良しとする他人の為の目標。それに引っ張られて、自分が本当に成し遂げたい目標が無い。

つまり自分がない。空っぽだ。

自分の心から出発するものではないから、いくら他人から賞賛されても、いくら稼げても、その胸のうちは空虚で飢えている。

自己肯定感は、自分が自分として生きる過程でしか育まれない。そして、成功ではなく失敗からしか、実は自分のありのままを肯定するエッセンスは得られない。

失敗しないように、他人に認められるように、と生きていればいるほど、自己肯定感は養われない。

そうやって、空っぽになり穴を抱えた寄る辺ない寂しい心を「ランキング」で慰めるのは、実に空虚な行いだ。

 

③共感性・想像力を失う「言葉の自動機械」化

再びこの引用箇所を読んでみてほしい。

底辺職の特徴について、

(1)肉体労働である

(2)誰でもできる仕事である

(3)同じことの繰り返しであることが多い

—- と解説しており、

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

決定的に、想像力が足りないことに気づくだろう。

たとえば11番目に挙げられた、保育士。

この仕事は、肉体労働という側面だけではない。神経発達症や学習障害をもつ子の療育について専門書を読んで学ぶ必要もあるし、子どもだけでなく親についても学ぶ必要がある、実に専門性を問われる性質を持っている。

誰でもできるわけではない。子どもを複数人同時に見守る、ということは、そう簡単にできる事ではない。子育てをした経験がある人なら、容易に想像できるはずだ。

毎日が同じことの繰り返しであるはずがない。子どもたちは日々成長するし、その子ごとに日によって遊びたい内容も気分も違う。喧嘩が起こる日もあれば、急な体調変化で対応に迫られる日もある。

つまり、この記事を書いた人は、保育士という仕事のリアルを知らない。

なぜリアルを知らないのに底辺の仕事と位置づけたかというと、給与水準・平均的な学歴といった、データでしか仕事を見ていないからだ。

実際に体験したことのない、あるいは体験した人の話を聞いたことすらない、共同身体性を伴わない平坦な言葉や数字だけの情報を鵜吞みにしてしまう思慮の浅さ。これこそが「言葉の自動機械」化であり、問題の本質だ。

 

④正義という暴力 現実逃避のための憂さ晴らし

「職業に貴賎なし」

この正義の名のもとに、問題の記事を書いた人、掲載した会社を断罪するツイートをよく見かけた。

ごもっともだし、正論だ。正論には力がある。

その力を借りて、自らの残虐な嗜虐心を正当化してはいないだろうか。

人間が最も残虐になるのは、悪に染まったときではなく、真偽どうあれ「正義の側に立った」と思ったときだ。

「自分は正しい」という免罪符を手に入れて、正義という名のこん棒で悪とみなしたものの頭を打ちのめす快感に溺れる。

何かの漫画の一コマで有名な一節である。なんだったっけ・・・。

 

言いたいのは、この記事を書いた人と同じ、加害者になっているということ。

正義で他人を叩き殺す快感で、何を忘れたいのか。

それは「うまくいかない自分の現実(リアル)」だ。

自分の仕事の報われなさ、虐げられた記憶で同調し、その憎しみをぶつけることで、憂さを晴らす。そのために、このネタを使っているに過ぎない。

 

「自分はそうはならない」と心のなかで思っている。

それはわからない。私たちは誰もが、何もかも知っているわけではない以上、見えない差別(アンコンシャス・バイアス)で誰を傷つけてもおかしくない。

自分も叩かれる側になる日がくるかもしれない。その想像力にかけている。それは誰もが同じなのかもしれない。

その共感性と想像力の欠如こそ、この社会が抱える問題であり、議論すべきことではないだろうか。

そして、こうした「尊い仕事の給料が低いこと」が解決すべき課題であり、本来目を向けて皆で解決していかなくてはならない問題の本質ではないか。すなわち新自由主義的な社会が構造的に間違っている、それをどうするか、という問題だ。

暴力を暴力で解決しようとするのでは、同じになってしまう。いつまでも形を変えて同じ悲しみが繰り返されるだけ。

 

私が就活生に声をかけるとしたら

この社会は、いずれ崩壊する。

行き過ぎた資本主義が行きつく先は、ごく一部の富裕層による全体主義化だからだ。

99%の人間が不幸になる。そしてその不満が頂点に達したとき、カタストロフが起こる。歴史は繰り返されてきた。

潰える運命のこの社会の常識。それにどれほど価値があるだろうか。

常識はいずれ非常識に裏返る。そのとき私たちは何を寄る辺として立つのだろうか。

 

本当に価値あるものは、自分のなかにしか見いだすことができない。

ランキングなど、ただの低俗な遊び。気にする価値もない。

自分に問いかけよう。

本当に価値があると心から思えることをしよう。それが天職だ。

そして志を同じくする、損得ではなく心で通じ合える仲間を持とう。

金の切れ目が縁の切れ目。金で繋がる縁など、本当の繋がりではない。本当に困ったとき、手を差し伸べられる、手を差し伸べてくれる友人こそ、最も大切にすべきものだ。

経済も社会も崩壊したとき、本当に頼りになるのはそれだけだ。逆に言えば、その繋がりさえあれば、愛で繋がるコミュニティーに属していさえすれば、助け合って生きていける。

 

私が就職活動をしている学生にアドバイスをするとしたら。

 

何度失敗してもいい。まずはやってみること。そうでなくては見えない世界がある。

自分でつかんだ経験と哲学に照らし合わせ、自分の内なる声を聞き、望む道を見出すこと。

その道で出会えた心から尊敬できる仲間を大切にすること。

 

そんなところだろうか。

【雑談】迷走する製薬会社と自殺するMRたち

どことは言わないが、とある大手製薬会社は勘違いをしている。

正直、もうダメだな、と思う。

 

製薬会社が患う病

企業名という看板(ブランド)が、まだ通用すると信じている。

おそらく信じたいのだと思う。

自分たちはすごいんだ、有名企業なんだ、そのブランドでまだ売れるんだ、と。

残念ながらそれは悲しい妄想だ。

今まで主流だった生活習慣病領域や消化器疾患領域で築き上げてきたブランドイメージが、他の疾患領域で通用するかというと、そうではない。

というか、そんなわけがない。

しかも、そのかつては栄華を極めていた(らしいがその当時も二番煎じばかりではなはだ疑問の)時代は、ほぼ金でつくりあげたものだ。

接待OK、派手な講演会OK、ゴルフや懇親会などのイベント参加OK、学会共催や医師会共催なんでも肩代わりOK、東京や大阪や福岡でバンバン研究講演会を開いて飛行機代とホテル代を負担して先生たちに旅行がてら話を聞いてもらって、予算を使いまくれた。

だから、それなりに先生たちも製薬会社と付き合うことに価値(メリット)を見出していた。

MRは「飲み友達」「遊び相手」というポジションで「こいつのためだったら話を聞くか」と思わせるような愛されキャラが売れて、そういう寝技的な営業手法がもてはやされた。すなわち、とことん付き合うこと、できるだけ会うこと、とにかく頑張りを見せること。実に体育会系というか、努力・根性・やる気という私が大嫌いな成分で構成されたエリート意識である。

だから、昔は与えられた予算を使い切らないと仕事してないとまで言われた。期末はみな何とか残予算を0にしたいから「飲みに行きませんか?」と先生を誘いまくった。結果、9月と3月は連日飲み会で二日酔いになりながらヘロヘロで仕事をしていた社員がたくさんいたらしい。完全に飲酒運転じゃん。

そんな時代に一番に評価してもらえたからといって、今、この環境で同じように評価されるわけがない。

なぜなら、金も使えない、飲み友達にもなれない、自分たちの団体に出資すらできない、そんな存在は利用価値(メリット)がないから。

むしろ今までそんな泥臭い部分でしかメリットを提供できていなかったことが問題。

社員たちはみなその問題を薄々分かっていながら、腫れ物に触るように口にしない。

昔の先輩を悪く言って睨まれたくないので、忖度している。過去の人々を否定することは、上司やその上の世代を否定すること。そんなことをする社員は出世できなくなる。

現役社員は、本質的な問題には目を逸らしつつ「自分たちはブランドがある」という幻想を捨てられない旧世代にゴマを擦ってご機嫌取りしている。

現実問題として、今この会社が参入している新しい疾患領域は発足当時ひどかった。MRは素人に毛が生えた程度で、私も含め本当に役に立たなかった。周辺疾患の知識がまるでなく、現場感覚も分かっていない人間の提案を、医師が聞くはずがない。

賢いMRは、その現実を謙虚に受け容れていたので「わからないのでどうか教えてください」のスタンスで最初は製品の紹介などせず、先生方の話をきちんと傾聴した。だから生の知識を得て、提案すべきポイントを踏まえることができたので、売上の立ち上がりは遅かったかもしれないが今後を支える人材として成長した。

でも、残念ながら、現在前者の賢いMRは結構他社に流れてしまったと思う。会社に失望するのも無理はない。当初コントラクトMRとして配属されていた賢いMRも派遣切りのようにして切ってしまった。せっかくの財産を自らみすみす手放すという愚を犯した。

アホなMRは、会社の洗脳をそのまま信じて一生懸命追いかけまわして話しかけた。今まで貢献してこなかった素人がえらそうにデータがデータがと毎日駆け寄ってきたら、そりゃあもうウザくてたまらなかっただろう。先生方は本当にお気の毒様である。

賢いMRが去り、アホなMRばかりが蔓延って幅を利かせているのが今だ。

「あんまりにもしつこすぎるから、ちょっとだけ使ってしばらく黙らせとこう」と少し処方したのを「ほら!やっぱり諦めずにしつこく宣伝するのが大事なんだ!」と小躍りして喜んでいる。真性のアホである。しかしそんなエピソードが成功例として社内プレゼンされる。そしてそれを他のアホがマネする。そうやって「やってます感」をうまく社内で形に残せたMRが社内でポイントを獲得して出世する。つまりアホが出世する。

そして会社の上層部はどんどんアホばかりになっていく。実際そうなっている。

だから、過去の栄光、ブランドイメージが今も通用するなどとおめでたい発想を「偉い人が言うんだから本当なんだ」とかあまり自分の頭で考えず継承してしまうのである。

 

私が社会的意義や医療貢献を主眼に置いて発言したり企画をあげたりすると、マネジメント層は決まってこの言葉を返してくる。

「私たちはNPO法人ではなく、営利企業なので、利益が見込めなくては投資できない」

 

はいはい。株式会社ですもんね。わかるわかる。

なんていうと思っとるんですか。何を寝ぼけているんだ。

 

私たちの製品は公的医療保険で7割~9割を負担してもらっている。つまり税金である。

私たちの医薬品が売れて入るお金は、70~90%が税金ということだ。

それって、ほぼ公務員じゃないの?

ボランティアじゃやれないとかいうけど、そもそもが公益事業でしょうよ。

税金から金もらっといて、自分たちにメリットがなければ何もやりませんって、それはおかしくない?

むしろ公に奉ずるものであって、個人の利益に走っていい財務体系をしていないじゃないの。

売上至上主義を正当化したい理由は、結局、株主である投資家様にもっと稼いでこいって言われてるからでしょ。

株式会社は「もっと金をよこせ」という支配的な株主に逆らえない。でもそれが真の理由だとは言えないので「研究開発に投資するためには売り上げを上げて利益を出さないといけない」とか「営利企業として成長し続けないとみんなを雇用し続けられない」とか言って誤魔化す。

残念ながら、このとある大手製薬会社の配当性向は100%を超えている。これは何を意味するかというと、実力以上に株主配当に回しているということ。その株主配当と高額すぎる役員報酬を含めると、研究開発費と同じくらいの額になる年もあるほど高額になる。

結局、会社をおもちゃにして金を稼ぎたい株主と経営者のために、売上を割いているんじゃない。研究開発費に使ってないじゃない。つまり売上達成の目的は研究開発に投資するためじゃないじゃん。

真実をていよく誤魔化して、建前で塗り固めた大義名分を述べているだけ。

 

木を見て森を見ず

活動方針や行動そのものも、功利主義的というか、自分たちのことしか考えていないようなも戦略がほとんどだ。

「とにかくたくさん処方してもらおう」

考えているのはこれだけだ。

患者さんの為とか社会の為とか、本当は全く考えていない。

建前として毎回口にする「患者さんのため」が、聞くに堪えない。

行動計画の端々から本音がだだ漏れしているのに、いけしゃあしゃあと「患者さんのため」とかいうのを見ているこっちが恥ずかしくなる。

 

世の中にとって必要なサービスと存在であるからこそ組織は存続できるわけで、自分たちの損得しか考えない組織はいずれ滅びる。

まさに滅びの道を全速力で突っ走っているのが、製薬業界じゃないかなと思う。

 

MRは、上司を通じて会社から毎日毎日プレッシャーをかけられ「とにかく計画を達成しないといけない」「そうじゃないとバカにされるし降格されるしクビにされる」と精神的に追い込まれる。

追い込まれた人間は、とにかくその苦しみから逃れようとあの手この手で説得しようと焦る。結果をコントロールしようとする。本来はコントロールできないのに。

当然ながら、処方というのは、医師が決めることだ。

私たちはその判断をサポートをする存在だ。私たちが医師の治療方針をこちらに都合のいいように誘導して変えさせよう、というのは根本的に越権行為であり、過干渉である。アプローチが間違っている。

私たちはあくまで医師と患者さんの困りごとを解決するお手伝いをするために存在していて、そのための一つの方法として自分たちが扱っている医薬品がある。

困りごとに寄り添い、その解決を一緒に考える過程で、医師と患者さんが「これは役に立つ」とご本人が判断して利用する。

その結果、医薬品が役立ち、その副産物として売上が生まれ利益が生まれる。

その間にある最も重要な活動をすっ飛ばして、いきなり自分たちに都合のいい結果を求めるなんて、お粗末すぎる。

例えるなら、とにかく女の子とヤりたいからって会って速攻ホテルに連行しようとする、モテないイモ男みたいな感じ。

 

自分たちに都合のいいデータしか紹介しないのも、話を聞く価値がないと思われる原因。

「自分たちの製品を使ってもらう」という結果有りきなので、必然的に良かったデータしか会社は取り上げないし、自分で調べない社員は会社が教えてくれるデータしか知らない。

そうなると、MRが持っている情報は実に偏った、ご都合主義の代物になる。

そんな情報を、医師が聞きたいと思うだろうか。当然、思うはずがない。

面会してくれている医師でさえ、「はいはい、売りたいから都合のいいデータ持ってきたんでしょ」と思いながら、会社に洗脳されたかわいそうなMRを見るに見かねて、聞いているふりをしているだけだと思う。

コロナを理由に会ってもらえないのは「MRなんてわざわざ会う価値がない」と思われているからだ。コロナのせいではない。ていのいい断り文句として使っているだけ。

医師が信頼するとしたら、同じ目線で現状をとらえ、純粋に力になろうとしてくれる味方だ。

医師は科学者だが人間でもある。自分たちと同じ目線で、より良い未来をつくろうと本気で考え話をする人だから、その人の話を信頼して時間を取ってでも聞きたいと思うんじゃないだろうか。それが人間だと思う。

MRが話を聞いてもらおうと思ったら、まずは目的を根本から見直さなくてはならない。

会う目的はどこにあるのか。売りたいだけなのか、それとも役に立ちたいのか。

医師はたくさんの患者さんを診ているので、人を見るプロでもある。下心で建前だけ並べているような人間は簡単に見抜かれる。

「英語論文なら信じてもらえるかも」などと小手先で説得しようとしてくるようなMRなど、ただただ小賢しい。

しかし、たいていのMRや製薬会社はそんなことはわからない。

あろうことか「医師はプライドが高いからMRを下に見ているので、MRの話を信用しないのだろう」と自分の無能を医師のせいにしている。

何を言っているんだろうか。

自分たちが学歴コンプレックスを抱えているだけじゃないか。

医学部に合格する偏差値がなかった自分たちの歪んだ劣等感を乗り越えられていないので、医師をプライドが高い偏屈で世間知らずの人種だと蔑視してプライドを守る。この傾向は実にずれているし、嘆かわしい。

たしかに、たまにやたらえらそうな態度のデカい先生もいるけど。

医師の世界は学歴バリバリの権威主義社会なので、一定数そういう勘違いしている人が出てくるのも事実。そういう社会の仕組みだから仕方がない。

学歴社会で受験戦争を勝ち抜いた。その成功経験だけがプライドを支えていると、自分を肯定するために学歴や社会的地位で価値を測る人間になってしまう。この社会も、学校という奴隷養成施設で良い子ちゃんでいることを肯定している。お勉強ができて余計な反抗をしない模範的な歯車でいれば大人に褒めてもらえる。

周りの大人の言うことを聞いていれば、偽りの自己肯定感を得られる。

学歴カーストに隷属して褒められることを精神的拠り所にしていると、人間的に成熟することができないまま年を重ね、自信のない傲慢不遜な人間に仕上がる。

そんな残念なタイプの医師にひどいことを言われたりゴミ扱いされたりした経験から、医師への歪んだ敵意が生まれたのかもしれない。虐げられてきた過去は、同情に価すると思う。

でも、そのバイアスで十把一からげに医師全部を色眼鏡で見るのは、どうかと思う。

他人のせいにして、自分が向き合うべき課題とそれに対してできることから逃げているだけ。

特定の医師の価値観が歪んでいるとしたら、それはその人たちの問題である。私たちにはどうしようもない。

売らなきゃいけない、というのはこちらのエゴ。そのエゴが通らないからと、己のチンケなプライドや自尊心を守るために、医師を不当に見下して、MRとしての使命を軽く見た。

その結果が、この惨状だ。

 

最後に

私は、MRは必要な存在だと思う。

ちゃんと副作用情報を収集して集積し、市場を挟まず適切な使い方について科学的な情報を提供するだけで、充分に存在価値がある。

患者さんの状況は千差万別だ。一つ一つの症例に寄り添ってベストな提案ができる薬剤の専門家は、AIやコールセンターだけではできない。

現在同社のコールセンターの質は残念ながら低く、オペレーターは空気が読めない。自分ならもう問い合わせしないだろうな、という応対で医療関係者をイライラさせるので、あとで謝罪に行かなくてはならないほどだ。仕事を増やすの、本当にやめてほしい。

そういう意味でも、独特の感覚と商習慣をもつ医療機関との橋渡しは、経験豊富なMRでなくては、現状務まらないと思う。外注したり、マニュアル人間に任せられるほどこのサービス業は簡単ではない。

でも、製薬会社が今のままなら、MRは要らなくなるし、製薬会社そのものも衰退する未来しかない。

エビデンス主義や西洋医学の論理が絶対ではないことは、最近の感染症にまつわるあれやこれやで詳らかになってきた。わかるひとはわかっている。

エゴから生まれた化合物なんて飲まないし打たないよ、そんなもの。製薬会社がそんな体たらくであり続ける限り、いずれ製薬会社とかかわりを持つことそのものが経営的なリスクになる。医師を信頼できないとして、患者さんのほうが離れていくだろうから。

もう遅いかもしれないけど。

【AC】他人といるだけで疲れてしまう原因とは?

私は他人と一緒にいるだけ、しゃべるだけで、ヘトヘトに疲れる。

そんな人はいないだろうか?

なぜ私は人としゃべるだけで疲れるのか

それは、勝手に自分で自分を傷つけるからだ。

言葉や行動の裏を読もうとする自分の思考に殺されるので、ヘトヘトになる。

たとえば、職場で私が主幹になって進めているプロジェクトに関する作業を、私には連絡がなく進めている同僚がいたとする。

その場合、私の頭のなかには以下のような言葉が浮かんでくる。

上司「あいつは使えないから、他の奴に依頼しよ」

同僚「このくらい気づいておまえがやれよな、余計な仕事増やしやがってよ」

これらは実際に言われているわけではない。

私が勝手に「彼らはそう思っているのではないか」と想像しているだけ。

しかし私の頭はまことしやかに彼らが私を侮辱しているように認識する。

 

それはなぜだろうか。

私が「恐れ」を抱いているからである。

 

いじめられた痛み。嗤われた痛み。受け容れられなかった痛み。

私の心は「もうこれ以上同じ痛みを感じたくない」と痛みを恐れて絶叫する。

パニックを起こして防衛本能から、体験しうる痛みをリスクとしてすぐ想起する。

「傷つくくらいなら自分で自分をあらかじめ刺しておけ」と言わんばかりに、言われるシチュエーションを疑似体験する。いわば、勝手にまだ刺されてもいないのに自傷する。

 

もっと深いところでは、悪く思われるのではないか、嫌われるのではないか、ということを恐れている。

親の顔色を窺って、友達の反応を窺って、びくびくしながら過ごした幼少期。

「暗黙の了解」や「言いたいこと」を「言わなくても察する」。

これがADHD・ASD併存の私はとても苦手だった。

人間はそんなに勇敢ではないので、言葉にできない主張を態度や表情に滲ませる。

そうやって滲ませた主張を全く受け取ってもらえないと、今度は怒りを滲ませる。

そしてそれも汲んでもらえないとなると、怒り出す。

その一連の流れを汲み取れない私は、何度も周囲の人間が「なぜか突然怒り出す」という体験をしてきた。

それは恐ろしかった。

地雷が埋まっている一見問題なさそうな道をずっと進んでいるような感覚だった。

だから、一挙手一投足を観察してあれやこれやと「気分を損ねていないか」検索する癖がついている。

そして、滲ませた何かを拾えなかった結果怒り出した過去の人たちの亡霊が、私の脳内で「気分を損ねたパターンの発言」としてインストールされた。

生き抜くためのご機嫌取りの呪いにかかっている。

だから、他人といるだけで徐々に擦り減り、しんどくなる。

 

他人の本音はわからない

「本人に素直に聞けばいいじゃない」

たしかにそうだ、と聞いてみると、

「そんなつもりはないよ、ハハハ」と返されたとしよう。

それが嘘か本当か。

それは本人にしかわからない。

つまり、どう答えられたとしても他人である私に真実は分からない。

つまり、コントロールすることもできないし、確認することもできない領域、アンタッチャブルだ。

ならば、相手の心理と言動というのは、実は結局「自分がどう受け取るか」によって決定される。

私は今までインストールされた呪いによって「悪意」という本音が隠されている前提で受け取っている。

ならば「善意」が本音だという前提で受け取るように書き換えればいい。

真実はどうだかわからないが、私の現実は私が決められる、ということだ。

 

 

「他人の本音は善意だ」と捉える生存戦略

「深く考えない」という技術は、私にとってとても重要で、発達の特性上最も難しい。

しかし、幸せに人生を送るうえでとても重要な感性として「鈍感さ」があるように思う。

 

ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』をご存じだろうか。

主人公のチャーリイ・ゴードン。

知的障害を抱えており6歳児程度の知能しかない彼は、パン屋で地道に働きながら、障害者向け学習クラスに通っている優しい32歳だが、障害にコンプレックスを抱えていた。

ある時、学習クラスの担任アリスは、大学のつてでニーマー教授、ストラウス博士を彼に紹介する。2人は知能発達に関する研究者で、チャーリイを最新の脳手術の臨床試験にリクルートしようと考える。

脳手術の動物実験によって賢くなったハツカネズミ「アルジャーノン」に感動した彼は、脳手術を承諾。実験によって彼はみるみる頭が良くなり、後天的天才になる。

「もっと賢くなれば」、そのコンプレックスを解決できると思っていた彼は、まさに望んでいた現実を手に入れるのだが、それはいいことばかりではなかった、というお話。

 

チャーリイが、今まで優しいと思っていた周囲の人の笑顔は、知能が低い自分をバカにして嘲笑する笑顔だった、と気づくというエピソードはまさに象徴的。

深く考えず、純粋に他人のことを「いいひとたち」だと信じていたころのほうが、彼の世界は優しさにあふれた幸せな世界だった。

結局本作では「偽り」だったわけだが、現実では先に述べたように「本当のところは知り様がない」。

ブラックボックスの中身を「良いもの」か「悪いもの」か決めるとしたら、チャーリイのエピソードから考えると、「良いもの」と決めてしまったほうが、世界は愛すべきものになる。

 

自分をありのまま肯定すれば世界は裏返る

信仰といってもいいだろう。

相対している他人の性質は善か悪か。そのどちらを信じるか。

善だと信じる人と悪と信じる人の違いは、自分を肯定しているかどうかだ。

前提に自己肯定感があると、そんな「私」を他人が悪く思う可能性をまずはあまり考えない。

そして、自分で自分を肯定しているので、他人に肯定される必要がない。だから、もし悪意があったと分かっても「あなたの問題」「あなたはそうなんだね、私は私を好きだけど」と「例外」として自己評価から切り離すことができる。

前提に自己否定があると、自分を他人が悪く思うのは当然だと受け容れてしまう。

歪んだ自己評価を補強する「客観的事実」として受け取るので、傷つく。他人を、自分のなかの自分をさらに下げてくる外敵として認識する。その結果、恐れるし敵意を持つし恨みも抱く。

実は他人が嫌いなのではなく、自分が嫌いなのだ。

受け容れてくれない他人ではなく、自分を受け容れられない自分の問題。

 

私は空気が読めない。

他人の心情を想像するのが苦手だ。チャーリイが知的障害を抱えているのと同じに。

そんな自分を、欠点も含めて受け容れる。

誰しも、何かが欠けている。一人では生きていけない。だから社会がある。

「もっと空気を読めれば」

「もっと賢ければ」

それは自己否定だ。欠けているから自分なのに、それを必死に埋めようとして、結果的に世界を敵に回すのだ。本当はもっと世界に繋がりたくて、さびしいから、やっていたのに。

つまり、アプローチが根本的に間違っているということだ。

まずは、自分の至らないところ、良いところ、それをあるがままに、それで充分100点満点だと思おう。

私が私のままで愛すべき存在であるように、これを読んでくれている皆さんも、そのままで愛すべき価値がある存在だ。

それを実感として与えてくれる「母親」が、たまたま不在だっただけ。

よく、そんな大きな喪失を抱えて、ここまで生きてきた。

それだけで、その人生が、あなたを肯定している。

苦しくて寂しいけれど、できるだけそれを何とかしたいと思って、一生懸命生きてきた。

あなたがあなたとして生きてきた証が、あなたを愛すべき存在であると実証している。

 

自分で自分をいじめるのは、もうやめよう。

チャーリイが、アルジャーノンに花束を贈ったように、自分自身に花束を。